エッセー
人は人に生まれるのではない⁉
昨日テレビを点けたら、何かのドラマで三人の登場人物が大声で罵り合っていた。気分を悪くして直ぐにチャンネルを替えたら今度は漫才をやっていて、つまらないギャグに客が大笑いしている。僕はドラマもお笑いも嫌いだが、どこの局でも視聴率が取れるらしく、番組票を見ればそれらと歌謡番組が氾濫している。音楽の三要素じゃないけれど、どうやらドラマと歌謡とお笑いはテレビの三要素らしい。
長い間、人々があの怒号飛び交うドラマを見て楽しむ心理を理解できなかったが、この頃少しは分かる気になってきた。人々がお茶の間で、畳や椅子に座ってこれらに興じるのは、テレビが心のマッサージ機であるからに違いない。みんな疲れた心を揉みほぐしている。身体をほぐすのは振動刺激だが、心をほぐすのは目と耳による感覚的刺激だ。激しい運動や窮屈な姿勢を取っていると、身体のいろんな所が凝る。同じように仕事や人間関係で心が重圧を受けると、その重みでどんどん沈んでいくから、何らかの刺激を受けないと解放されない。それは、ギリシア悲劇を観劇する古代の人々と同じ心境だろう。
アリストテレスはこれを観劇によるカタルシス(浄化)効果と言ったが、心の中に蟠る不安などを壮絶な悲劇という外部刺激で粉砕する作用で、毒を持って毒を制すといった感じだ。小さな不安を大きな悲劇のオブラートで包み込み、ツルリと体外へデトックスする。脳内の悪い蟠りは内なる浄化作用で無理なら、外から毒物を注ぎ込まないと追い出せない。ドラマは、尿路結石を破壊する超音波の役割を果たしているわけだ。あるいは罵り合いという毒で心拍数を高め、溜まったゴミを血流に乗せて追い出す役割を果たしてくれる。
肩が凝っても最初は弱いバイブレーションで治るが、だんだん効かなくなってきて、弱から強へと移行していくのが普通だろう。それは心も同じことだ。テレビの黎明期にはドラマも大人しいものだったが、徐々に視聴者の感覚が鈍ってきて、最近では激しい罵り合い殴り合いが増え、おしとやかな奥様方も、涼しい顔で興じている。まるでコロッセオに詰めかけた貴婦人方のような有様だ。アクション映画を観ても分かるように、スリリングなシーンがこれでもか、これでもかとやってくる。お笑いだって、昔は大人しい喋くりで客を笑わせていたが、最近ではダジャレを連発したり、怒鳴り合ったり、殴る蹴るのアクションを加えたりして笑いを取ろうとする。音楽だってパンクロックのようにますます激しく、踊りを交えた刺激的なものになってきている。もっともその兆候は、遠くハイドンの交響曲『驚愕』や、ベートーヴェンのピアノソナタ『激情的に(アパッショナート)』から始まったものかも知れない。
これら全てが、神経という人間の感覚器官の特性によるものに違いない。あらゆる生物は新しい外部刺激に適合するため、感受性を鈍化させる機能を持っている。それは「慣れ」という言葉で表せる。身体のどこかに持病の疼痛があると、カロナールのような鎮痛薬を服用するが、身体もそれに慣れてしまうと段々効かなくなってくる。仕方なしにもっと強いロキソニンなどの薬に変えるが、胃を荒らすといった副作用も強くなる。それでも効かなくなると、医療用麻薬を使い始めるというわけだ。これは鎮痛薬に限らずあらゆる治療薬に言えることで、神経細胞に限らないことだ。全ての薬は、身体が慣れてしまうと効かなくなる。
当然のこと脳味噌のような中枢も、末梢神経と同じ特性を持っている。日本はマリファナを解禁していないが、次のステージにグレードアップする可能性が高いからだ。マリファナを吸い続けていると徐々にその快感が弱まり、覚醒剤やコカイン、阿片などの強毒物に手を出す方向に進んでいく。一部の国では、マリファナが蔓延して防ぎようがなくなり、やむを得ず比較的安全だからと解禁して、自ら外堀(第一防衛線)を埋めてしまう。しかしそれは危険な政策だ。徳川に妥協して大阪城の外堀を埋めた豊臣は、結局滅亡した。あるいはフィンランドがソ連軍の侵攻に対して、自国の領土を割譲して和平条約を結んだようなものだ。後継ロシアは味をしめて、いまウクライナで土地を広げようとしている。
快感は、一度味をしめるとエスカレートしていく。慣れによる鈍麻が原因だ。拷問だって、「吐かせろ」という上官の命令ならエスカレートしていく。アイヒマン実験とも言われるスタンレー・ミルグラムの疑似電気ショック実験は、有名な話だ。戦争だって、膠着状態が続けばエスカレートさせてらちを明けようと思うのが普通だろう。兵士たちの最大の目的は、勝つことだ。どっちつかずの状態は兵士たちの緊張を長引かせ、鬱や不満をもたらす。不満が鬱積するとデトックス効果、カタルシス効果で一気にスッキリさせようと思うのは本能的欲求だ。「嫌な戦争いつまで続けるの!」となれば、日本に原爆を落として「これで早期離脱を果たせた」と胸を張るのも自然の流れだ。ならば「平和主義」や「平和を願う心」は極めて観念的な概念に押しやられてしまう。「平和」=「観念(思念)」。だから国民総動員の戦時中にそれを唱えれば狂人扱いされ、牢屋に入れられる。誰も負けた平和は望まない。みんな勝利の快感の中で平和を迎えたいわけだ。両方がそう思うから、結局戦争は長引く。
平和主義が主義という観念なら、早期終結行動に組み入れることも簡単だ。観念は原爆投下の言い訳にも利用できるわけだ。プーチンは「ウクライナのナチ化対策」という嘘っぽい理屈で戦争を始めたが、プーチン(侵略)主義が観念なら、屁理屈の論理的整合性なんかどうでも良いことになる。彼の核脅しがブラフであることを願うしかない。実際、共産主義の観念でソ連は出来たし、侵略主義の観念で第二次世界大戦は勃発した。大衆は指導者の観念に共感して実戦するのであって、共産主義だろうが侵略主義だろうが、主義の裏にある指導者の個人的思惑などはどうでも良いことになる。ならば、平和主義だって環境保護運動だって、それが単なる観念として扱われるなら、反戦運動家やグレタ・トゥーンベリ氏のような人が、多くの大衆の熱烈な共感を取り込む以外にはないことになる。水爆も温暖化も現実の事象なのに、明日の観念として扱われているのが現実だ。いま起こっている事象に手一杯なのが社会的現実なら、未来予測は観念の中に押し込まれ、それが100%の確率で招来するとしても後回しにされてしまう。
「天災は忘れた頃にやって来る」という言葉があるが、脳味噌の神経に支配されている思考も同じ状況に陥りがちだ。時が経つと人々はあのときを忘れ、そしてまた惨劇を繰り返す。脳味噌にとって未来は夢の世界で、現実問題に手一杯の人々は、その対策を後回しにしてしまう。先の大震災で原発が爆発して放射能が拡散したが、原発の危険性を身に染みていた政府関係者は、時の経過とともにその危機感を観念の世界に遠ざけて、現実への対応を優先させるようになった。エネルギー問題、経済問題、経済界や電力関係者とのしがらみ、核技術の保持、地方経済問題云々、どんな事情が絡んでいるのかは知らないが、原発は再開されることになり、その安全神話は不死鳥のように復活した。
原発はCO2を出さないというのは、プーチンが言う「ウクライナのナチ化対策」と似たような論理だ。言葉の裏には様々な思惑が隠れている。そしてそれを暴くのは結構難しい。ウクライナをまったく知らなかった日本人は、プーチンの話を嘘っぱちだと笑い飛ばす。しかしロシア人がその言葉を信じているとすれば、我々はその言葉を科学的・心理的に調査分析して、嘘っぱちだと論破しなければならないだろう。しかし、気分的に笑い飛ばす以外に方法はないわけだ。ウクライナ人の何パーセントがナチス的な考えを持っているかなんて、この混乱の中で分かるわけもないし、調査機関の思惑でも違ってくる。我々はロシア人の心も知らないし、ウクライナ人の心も知らない。ただ悲劇的な事実を見て、ロシアの侵略が不条理なことは知っている。それは我々が太平洋戦争前の日本人ではないからだ。単にそれだけのことだ。
原発は確かにCO2を出さないが、国民が危惧している問題の肝は、原発が地球温暖化対策に寄与するということではなく、エネルギー問題を解決するということでもなく、再びあの惨劇を繰り返さないかということなのだ。それは「再びあの戦争を繰り返さない」といういまの国民感情と同じものだ。つまり次なる大地震が来るか来ないかの問題ではなく、原発が内包する危険可能性の問題なのだ。津波対策が万全だから、もう大丈夫と言っても、どこかの国が上からミサイルを落とせば一発でお終いだ。しかも非友好国が日本を取り囲んでいるのが現状だ。ならば、それらの国に対抗して防衛費を嵩上げしようとする政府は、なぜ原発の危険可能性を突き詰めないままに、そしてその結果としての安全性を証明しないまま、見切り発車のように原発再稼動を宣言したのだろう。我々は不思議の国のアリスなのだろうか……。
不思議の国のアリスといえば、我々はロシア国民のプーチン支持率の高さに驚くが、それはロシアという不思議な風土で育った経験がないからだ。言い換えれば、かつて太平洋戦争当時の日本の不思議な風土を知らないか、平和な環境に慣れて、すっかり忘れてしまっただけ、……つまり日本人はあの時代の感性を捨て去り、ロシア人はいまだに引きずっているだけの話だ。「平和ボケ」という言葉を「平和慣れ」という言葉に変えれば、誰でも納得するだろう。戦後の平和を満喫して平和慣れした人間は、戦争慣れした人間が平気で虐殺を行うことに驚愕するが、その前に理解するべきは、人間の全てが平和主義者ではないということだ。加えて平和主義も戦争主義も、欲や憎しみで気楽にチェンジすることが出来るということだ。虐殺は単なる鬱憤晴らしだ。それ以外の何の理由もない。ロシア兵の心にはその鬱憤が蟠っていて、残虐行為とともに体外にデトックス(浄化)したということになる。
日本人は一昔前、脳内浄化に成功した経験がある。かつて太平洋戦争という修羅場を体験し、心身の緊張感を極限にまで高めた。そして天皇の玉音放送で突然のように敗戦を知ると、破裂した風船玉のように一気にその緊張感が萎んで弛緩状態に陥った。このとき国民全員の心が一度死んだと言ってもいいだろう。みんな口々に、頭の中が空っぽになったと言った。緊張からの急激な弛緩は、PCの初期化と同じ状況をもたらすのだ。昨日までのデータは完全に消滅した。
例えば犬に獣医が注射をしようとすると緊張してウーウー唸るが、打った後はケロッとして医者に尻尾を振る。犬は脳内で、数秒前の危機迫る状況を完全に消滅させたのだ。鬼畜米英と叫んでいた校長先生が、一転してにこやかに星条旗を振るような行為が至る所で見られ、後に文筆家になった生徒は、その矛盾した光景を呆れ返って記述している。これは犬の脳味噌も校長の脳味噌も、身体の神経と同じように機能しているからで、神経は常に新しい状況(環境)に瞬時に対応し、ベストな反応を選択しなければならないからだ。それが、動物の反射的身体活動で、人間も動物の仲間である限り、本能的に新しい環境に順応しなければ生きていけず、無効化した役立たずの観念は早々に廃棄するべきものとして扱われた。校長は、極めて動物的、人間的に振舞っただけの話だ。戦争を体験した作家たちは、きっとうじうじした性格の持ち主で戦争中の感情を初期化できず、それが高じて作家になっただけの話である。生存本能は、観念に先行する(本能は観念に先立つ)? 敵を憎んでも食い物をくれれば尻尾を振るし、平和を唱えても腹が減れば奪い合いを始めるわけだ。
しかし人間は他の動物と違う。サルトルは「実存は本質に先立つ」と言い、ボーボワールはそれに呼応して「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と言った。それは人間だけが観念を弄ぶことができ、そうした観念の集合体である既成概念(社会通念)が、人を育てていることを意味している(良くも悪くも)。つまり本能だけで生きている動物と、観念を持つことのできる人間には大きな差がある。「本質」は神が動物全般に与えてくれた本能で、「実存」は神が人間だけに与えてくれた「思考選択能力(観念)」なのだ。そしてその人間的実存が集団に投入されると、社会を誘導する支配者たちの固定観念が主流となる。そうして出来上がる多くの既成概念は、エリートたちが生きるための動物的本能や宗教と結び付き、堅牢な城を築いていく。しかし同時に、その既成概念の下で苦しむ多くの人々も出てくるわけだ。
新しい観念でそれを切り崩すには、それが机上の空論であっては難しい。切実な状況に追いやられている人々の本能的な叫びが無ければ、既成概念に浸かっている人々の心を変えることは不可能だ。意識改革には、その前提として切実なる状況が存在しなければならない。我々はどのような観念を持つかによって、平和主義者にもなれるし、戦争主義者にもなれる。無条件降伏のような激しい社会変動によって、短時間で観念をチェンジさせることもできるわけだ。現在我々は、「ウクライナ戦争」や「地球温暖化」、「貧困問題」という切実な状況を目にしている。特に「地球温暖化」は、自然という敵が野山に焼夷弾を落とし始め、人類に無条件降伏を迫ってきている。そんなときこそ、かつての校長先生のように、日本人の特性を生かして意識転換するべき好機だと思えるのだ。新しい観念を育む環境は、生まれた地域の風土や教育で違ってくる。戦後の長い平穏な時代を味わってきた日本人は、決して悪い教育を受けてきたわけではない。近現代史問題で政府と日教組の確執はあったが、政府が侵略的・好戦的になったことは一度もない。しかし、こと環境問題に関しては、決して前向きとは言えないのが現状だ。
「人は人に生まれるのではない。人になるのだ」。人間と猿の違いはパンツを穿いているからではなく、穿こうと思う観念を持つからだ。アダムとイブは知恵の実を食べて直ぐ、葉っぱで局部を隠した。そこから人間は観念を持つことになったわけだ。だとすれば、動物である人間が動物と決別し、人間として育つには、個々の観念が動物的な個的本能(打算)から離れて俯瞰的な眼差しで世界を見つめ、それを集合させて人類の新しい既成概念と成し、一気呵成に現実を動かさなければならないはずだ。自らの観念で災禍を招いたのだから、その観念を一新して火を消さなければならない。まずは「慣れ」という大敵を克服しよう。温暖化による災害も、戦争も、飢餓問題も、あらゆる災禍はまるで一過性のように、感覚的に鈍麻していく。それに対抗するには、良い方向に教育され、関心を絶やさず勉強を怠らず、常に意識をリフレッシュさせながら、文明の礎である観念を、ベストな方向に育てていく以外に方法はないだろう。それら良き観念が集結すれば、大きなうねりとなるに違いない。当然のことだが失敗すれば、神の思惑通り、人間は所詮動物に過ぎなかったことになる。(……しかしタイムリミットは間近に迫っている)
詩
炎の呪い
人はなぜ神聖な場所に炎を燈すのだろう
それは昔、プロメテウスという悪党が
下衆な人間たちを助けるために
天上から盗み出して与えたからだ
人間はそれを盗品だと知っていて
神々の怒りを少しでも鎮めるために
ローン返済の方法を利用して
少しずつ返しているという話だ
しかし悪党から譲られた炎を
下衆どもは盗品と知りながら
それを元手に手広く使うようになり
資産としてどんどん増やし続けた挙句
いまでは水や空気と同じレベルで
生きてはいけない必需品となった
神々は冷厳な眼差しを人間に注ぎ、呟く
嗚呼愚かな下衆どもよ、大いなる誤解だ
炎はお前たちに必要のないものだ
与えてはいけないものだったのだ
お前たちは夜になると洞窟を飛び出し
暗黒の大地を徘徊して腐肉をむさぼるべく
我々が創り出した下衆な生き物に過ぎないのだ
所詮炎は、お前たちの扱える代物ではない
下衆なお前たちにとって、それは単なる火遊びだ
さあ、周りの野山を良く見渡すがよい
お前たちが弄んだ炎が、そこかしこから
お前たちを滅ぼす災禍となって
お前たちに迫る光景を…