詩人の部屋 響月光

響月光の詩と小説を紹介します。

エッセー 「女性の地位向上が必要なわけ」& 詩

エッセー

女性の地位向上が必要なわけ

(親類であるボノボを考える)

 

 チンパンジーボノボは、同じ同族別種である我々サピエンスとネアンデルタール人の関係に譬えられることがある。もっともネアンデルタール人は絶滅してしまったので、比較研究を行うにしても骨や化石相手で、類人猿ほどクリアにはならない。最近ハーバード大などで、ネアンデルタール人をクローン技術で復活させようという話があるようだが、生まれてきたネアンデルタール人はサピエンス社会の中で差別は受けないのだろうかと心配になってくる。いずれにしても、まずはマンモスが先でしょということになる。それより、サピエンス人とネアンデルタール人が異種交雑していたという遺伝子研究の話は*、チンパンジーボノボが20万年以上前に同じことをしていたという話とともに興味深い。彼らはいったいどんな状況で愛を営んだのだろう……。*(スバンテ・ペーボ氏ノーベル賞Congratulation!)

 

 人類の祖先がチンパンジーの祖先と分岐したのは600万年前前後とされているが、ボノボはおよそ100万年前に、チンパンジーの一部が大干ばつで干上がったコンゴ川を渡って枝分かれした連中とされている。その後すぐに川は水を満たし、両者とも泳ぐのが苦手なことから、移動した連中と移動しなかった連中は互いに交わることなく、それぞれ独自進化を遂げたというわけだ。しかし遺伝子を調べると、大干ばつがその後もあって、一部で交雑したことも分かっている。どっちにしてもチンパンジーの男性は好戦的で、集団どうしの仲も悪いことから、積極的に行動したのは女性だろう。ボノボチンパンジーも父系社会で、女性は成長すると多くが他の群に移動するそうだから、間違って干上がった川を渡り、ボノボの群に嫁いだのかもしれない。同じようにボノボの女性も間違ってチンパンジーの群に嫁いだのかもしれないが、その場合は苦労したことだろう。そこは力が支配する男性優位社会で、群どうしはもちろん、集団内でも偶には殺し合いが行われ、子供すら殺される世界だ。チンパンジーの女性は男を立て、男に付き従って生活する。まるで戦前の日本社会だ。

 

 チンパンジーは基本、食い物を分け与えることはない。好物の肉などは偶に分配する場合もあるらしいが、力のある男から食うことになる。最初に家長が食べて、その後に妻や子供たちが質の落ちた食事をした戦前の日本社会のようだ。性生活は乱交だが、まずは目上の男が楽しみ、下っ端は隙を狙ってこっそり楽しむ。だから力のない者はいつもオドオドし、力のある者は地位を奪われるものかと空威張りし、互いに戦々恐々と緊張関係が持続する。

 

 一方で、ボノボは男が女を立てる女性優位社会で、男女ともに多少の序列はあっても緩やかだ。集団どうしが遭遇したときも、まずは女性どうしが仲良くなり、友好の印に乱交パーティなども行われる。男たちは基本社交嫌いだが、女性を慮って緊張関係はさほどなく、殺し合いをすることもない。集団内でも乱交だが女性の取り合いはなく、女性優位で大らかに楽しんでいる。食い物だって人に乞われれば誰にでも気軽に分け与え、見返りを求めることもない。しかし肉などの御馳走を手にした場合は、独り占めするケースもあるらしい。もちろん、力ずくでそれを奪う者はいない。彼らは集団外でも集団内でも、なあなあなあと協調しながら生きていく。

 

 ボノボチンパンジーから分かれてコンゴ川で分断されたため、遺伝子的に小型化し、「平和猿」という独自の進化も遂げたわけだけれど、大陸から島に移動した動物が小型化するのと同じように、閉鎖的な生息環境に因るところが大きい。同じ熱帯雨林でも、彼らの生息域は、チンパンジーの生息域よりも果物や木の実が豊富で、大移動する必要もなかった。まるでアダムとイブがいたエデンの園のような場所なわけで、チンパンジーエデンの東に住んでいたため、仲間や集団どうしの確執が連綿と続いてきたわけだ。 

 

 元は一緒だったのに、一方は「喧嘩猿」、一方は「平和猿」になったというこの差は、一つは食糧環境の違いが原因だったかもしれないし、もう一つは「男性優位社会」か「女性優位社会」かによるものだったかもしれない。個人や種の生存を決定する要因をふるいにかければ、「食い物」と「セックス」が残るだろう。この二つに対する欲望に関しては、すべての生き物は満たされなければ剣呑になり、満たされれば静穏になる。ボノボはこの二つの要因がずっと満たされ続けたから、腕力の出る幕が無くなって男は後ろに引っ込み、女が前に出るようになって、それが遺伝子的な変化をももたらした。チンパンジーの場合は、食糧不足の年もあったりして争いが起こり、男の出番が増えて位階秩序もでき、それがセックスにも波及した。

 

 よくチンパンジーボノボ)と人間のDNAは約99%一致するという話を聞くが、バナナと人間は60%も一致するらしいから、驚くほどのことでもない。しかし僕は単純にこの数字を捉え、チンパンジーボノボも人間の親戚だと仮定し、話を進めたいのだ。きっとこの残り1%の中に二足歩行が可能な体型の違いや脳味噌の違い、寿命の違いなどの設計図が含まれているだろうが、チンパンジー的な闘争本能やボノボ的な友愛本能が含まれていないことも確かだろう。人間はチンパンジーと同じように喧嘩をし、ボノボと同じように友愛の情を持っていて、その程度もそれほどの差異はないと思えるからだ。けれど人間の場合は、時と場合によってそれらを使い分ける。生息地域は広域に及ぶものだから環境も様々で、苛酷な環境下では個人間、集団間の喧嘩が絶えず、女性も食糧を獲得する腕力のある男を頼りにする。反対に、豊かな環境では友好的な平和が醸成され、女性も男を頼りにすることなく自立していける。

 

 砂漠の民は劣悪な環境の中で、水がないから砂で手を洗い、保湿のため乾燥した肌に肉汁を付けたりもした。ゆとりがあれば4人の妻をめとることができるのも、マホメットの時代はそれだけ生活が厳しかったからで、女性が生活に困らないようイスラムの生活規範であるコーランに反映されただけの話だ。いまにいたるまでその環境が変わらない国もあれば、近年になって石油が吹き出し、大金持ちになった国もある。しかしそうした金満国でも女性蔑視が続いている現実は、マホメットの目にどう映るだろうか。女性の地位向上は西洋の近代思想だと一蹴されれば、そこで思考停止に陥ってしまう。あらゆる宗教の原典は、その時代の状況を反映して書かれたものなので、全てを頑なに守ろうとする原理主義は理解できないところだ。それらが法律として機能するのなら、法律は時代時代の状況によって改めなければならないのだから……。

 

 興味深いのは、旧約聖書にもイブがアダムの肋骨から生まれた(誤訳だったという異論もある)と書かれている点で、乾燥地帯という苛酷な環境下で作られた聖典は、ボノボ的にはなり得なかったのだと思っている。いずれにしても、人類は二足歩行の弊害として脳味噌が巨大化し、ある種の妄想を抱くようになり、「食い物」と「セックス」を満たせば満足するようなつましい営みの枠からはみ出してしまった。このため、連綿と陣取り合戦を繰り返すようになり、その状況は現在のウクライナ戦争にも繋がっているわけだ。人々はそこそこの環境下にも関わらず、妄想(想像)に浸って物足りなさを感じ、飢えを意識し、エデンを夢見、怯え、闘争的になっていく。仲間内ではボノボ的でも、異集団に対してはチンパンジー的な敵対感情をむき出しにする。自分を愛していない異性を愛しているものと思い違うのも、自分の物でもない物を自分の物と思い違うのも、同じ類の妄想には違いない。そうした妄想が、得られないものを自ら創ろうという創造と、得られないものを自ら奪おうという暴力に繋がり、人類は文明を進化させてきたと同時に、破壊を繰り返してきたというわけだ。

 

 ところで、「食い物」と「セックス」という生存の二大要因が、「愛」と「憎しみ」という二大感情に深く結びついているのは確かだ。食い物を分かち合えば愛が育まれ、食い物を奪い合えば憎しみが生まれる。同じくセックスを分かち合えば友愛が育まれ、セックスを奪い合えば憎しみが生まれる。この単純な法則がボノボチンパンジーの差異化に貢献した。動物の感情は表が「愛」で裏が「憎しみ」のコインのようなものだ。この二つの感情で両者の社会は根本的に成り立っているが、チンパンジーは「憎しみ」に軸足を置き、ボノボは「愛」に軸足を置いている。

 

 人間の場合も二つの感情が行動原理となり、「愛」は性愛や家族愛、集団愛や郷土愛、祖国愛や地球愛に広がっていく。一方「憎しみは」夫婦喧嘩や家庭内トラブル、グループ闘争や地域紛争、国家間の戦争に広がっていく。しかしコインの裏側の「憎しみ」は、元々愛から派生したものだ。愛の原初は「自愛」であり、それが阻害されることで「憎しみ」が生じる。自分の「自愛」と人の「自愛」がぶつかり合えば、そこから「憎しみ」の火花が出る仕組みになっている。ならばボノボの協調精神は、どこから生まれたものだろう。

 

 ボノボは長い間エデンの園に生活していて、「食い物」と「セックス」の分配行動を遺伝子レベルで確立されてしまったに違いない。だから将来的に環境が激変して、食糧が不足するようになっても、昔のチンパンジーには戻れず、分配を止めることなく仲良く滅び去るかもしれない。食や性に関わる執着心は、生存に関わる執着心に比例する。きっと彼らが原初的な本能に立ち帰り、生きなければいけないと自覚したときには、すでに他人から物を奪う体力は残っていないだろう。しかしチンパンジーと人間が同じような状況に陥った場合は、最初から奪い合いが激しくなり、平気で相手を殺すようになって強い者だけが生き残ることになる。(当然のことだが、人間には他人に食い物を与え、自らを滅ぼすような変わり種は存在する。それは自己犠牲という高次の精神があるからで、遺伝的なものではない)

 

 ボノボに関してはポエム的な希望的憶測かもしれないが、僕は女性優位社会で男の闘争意欲が懐柔され、地球という弱肉強食の世界から解脱できた唯一の親戚だと思いたいのだ。それは解脱ではなく、きっと逸脱だろう。弱肉強食が基本セオリーの地球で、そうした遺伝子変化は絶滅を意味するからだ。けれど女性独自の母子愛が、ボノボ的社会の中では大きく花開くのではないかと思えるのだ。自分の腹から子供を出し、乳を与え、自立できるまで守り抜く関係は、男には理解できない深い愛情の絆で結ばれている。母親が子供に注ぐ愛情に比べれば、父親の愛情なんか屁のようなものだろう。この女性独特の愛情が女性優位のボノボ社会の中に浸透しているから、集団どうしが遭遇しても喧嘩にならないのに違いない。

 

 ウクライナ戦争でも、ウクライナもロシアも徴兵される兵隊はほぼ男だ。動物界では多くのオスに闘争の役割が与えられているように、人間のオスには戦士としての役割が与えられている。いまのロシアを見ても分かるように、大統領から大臣、将兵にいたるまで、ほぼ男で占められている。一方で、平和を願う人々の多くが女性で占められている。例えば「母の会」は、兵役中に人権侵害を受けた徴集兵の権利を守ることを目的にした団体で、息子の安否を気遣う多くの母親から問い合わせが殺到している。権威主義国のロシアでも、母の愛を無視することはできないはずだ。それは反戦運動の核となり得る可能性があるからだ。

 

 この母子愛の次に威力を発揮するものは、男と女の愛だろう。古代ギリシアの詩人アリストファネスの作品に、「女の平和」という喜劇がある(紀元前411年上演)。ちょうどペロポネソス戦争で、アテネが破滅の道をたどろうとしているときに書かれた作品だ。夫や息子の長期にわたる出征に耐えかねた敵味方の女性陣が一堂に会し、男たちが戦争を止めるまでセックスを拒否することを決めて実行に移す。いろいろすったもんだはあったが、結局この戦術が功を奏し、背に腹は代えられぬと男たちが戦争を止める粗筋だ。セックスの拒否を通して、「愛」が「憎しみ」に勝利したというわけである。人間には発情期がなく、いつでもセックス可能だが、ボノボには発情期はあっても疑似発情期というものもあり、男を引き寄せ続けてコントロールし、女性優位状態を保ち続けられる。そしてそれが、平和を持続させてくれる。反対にチンパンジーには疑似発情期がないから、発情した女性を巡っての喧嘩が始まる。

 

 そうしたボノボ社会のからくりを知らなかった時代に、本能的にそれを感じ取って始まったのが、1960年代にアメリカで起こったヒッピー運動だろう。ちょうどアメリカはベトナム戦争の最中で、多くの若者がベトナムに送られて戦死していた時期だ。彼らは競争的な社会体制や常識的、宗教的な価値観からの離脱を目指し、平和・平等の原始的共同生活を開始する。彼らは異性を巡るトラブルを回避するために、ボノボ的なフリーセックス状態を基本とし、子供たちも共同で育てることにした。男女の髪形や服装もユニセックスにして、男女平等を謳った。この社会で育まれる「愛」は、個人的ではない集団的な愛で、それは地衣類のように地平線に広がっていく可能性を秘めていた。

 

 1960年代後半にはベトナム戦争と徴兵制に反対し、戦争虐殺反対のスローガンを掲げるなどして抗議デモも行い、反戦運動を展開した。1969年に行われたジョンとヨーコのパフォーマンス『ベッドイン』は、こうしたヒッピーたちの活動に触発されたもので、「戦争は終わる、もしあなたがそれを望めば」というメッセージとともに、男と女の愛が世界平和の礎になる可能性を示唆した。ヒッピーたちの運動は、後の反核運動エコロジー運動にも繋がっていった。

 

 ヒッピーたちは、宗教的既成概念から逸脱した自由恋愛が、人々を社会の根本的な確執や摩擦から解放し、それが世界平和に繋がっていく道だと信じていた。もしシェークスピアボノボだったら、嫉妬で妻を殺した『オセロ』のような芝居は書かなかっただろう。オセロが狂ったのは、妻が自分の持ち物だという所有概念が強過ぎたからだ。それは敵国の金品を略奪し続けてきた将軍には当然のことだったろうし、いまでも自由のない国の常識はそうかもしれない。自由主義における自由の根本には、愛する相手の意思の解放が不可欠ということになるだろう。そのことが分かっている男(女)は、よくこんなことを言う。

「私の妻は大きな私の心の中で泳いでいる。たとえ遠いどこかで居心地の良い岸辺を見つけても、最後には飽きて私の元に戻ってくるのさ」

 

 愛する相手を解放することができれば、所有することどもの全てを解放することは容易になる。もし男女不平等の国が存在すれば、その国の男たちは未だに女たちを所有していることになるわけだ。そうした国は、機会さえあれば、隣国に土足で踏み入れて蹂躙し、併合しようとする国に違いない。だからして女性の地位向上は、世界平和を実現するためにもやり遂げなければならない喫緊の課題だと思っている。

 

 

 

 

 

愛の宅配便

 

小指の先よりちっちゃい花が

ひとり寂しく咲いている

臭く醜い小虫らが

春になったら憧れる

見たこともない透いた海色

しっとり濡れたしとねを

ピンと思い切り開いて

雌しべは首を長くして

朝一番のお客をお待ちする

 

冷たい暗い眠たい土の中で

ちっちゃな殻籠に入れられて

まどろむ薄い光の中に現れた

素敵な姿の青いあいつ

 

膨れた胸をときめかせ

思い切り背伸びで殻を破り

土の上に出たけれど

やって来たのは

全身黒づくめの毛むくじゃら

臭い油でテカテカの

はねが自慢のちっこい奴

 

チャラチャラ羽音を立てながら

きざに口先尖らせて

雌しべの先に突っ込むと

粋な口笛でチューチューと

手作り甘汁をすっかり平らげ

足のこわ毛を逆立てながら

見当違いの花粉を擦り付け

手みやげにお供え物を一掴み

盗人みたいにいそいそと

大げさな音でホバリング

急ぎの者で御免なすって

 

ちょっと私の青むくのしとねに

土足で踏み込んだおじさんはどなた

おいらは愛の宅配便さ

さてこの黄金色した宝物

どちらのお宅に届けましょう

 

小さなお花はニッコリと

私の夢の中のあの人へ

きっと届けてくださいな

青空にそよぐ 

たぶん逢えない

青い瞳の子たちのために…

 

 

 

 

 

星の片割れは

不気味な暗闇に包まれた

此処に生きる獣たちは

闇を嫌う者どもと

それを愛する者どもだ

嫌う奴らは狩人で

逃げおおせた獲物を悔しがり

愛する奴らは獲物たちで

見られる不幸を恐れている

人は奴らの血を受け継ぎ

一寸先の闇を恐怖しても

眩しい陽の光を嫌うのだ

 

焼き付いたフィルムを見るように

すっかり退化した五感が

まっさらな闇色の中で戸惑い

トカゲに帰って徘徊する

けれど瞳をなくした漆黒は

腹の中にいたいにしえの

安堵の寝息を想い出し

あの幸せを蘇らせる

 

きっとだから

死を恐れる奴もいれば

願う奴らもいるのだろう

 

 

 

 

噴火

 

気球が浮かなかった昔の話だ

空を汚す者どもは

大小の鳥たちに限られ

海を汚す者どもは

大小の魚たちに限られた

 

けれど地球は定期的にデトックスを行い

地の底の有害ミネラルを吹き上げて

むくの青色を汚れ色に変えるのだ

分かるだろう

あいつの耐え難い腹痛を

あいつはその醜さを知ったあの日

すこぶる青色のツーピースを

身に纏うことにしたのだ

そしてそれは朝と夕に

輝く黄昏色に染め抜かれた

 

これほど清楚な衣装を纏いながら

臓物を守るために毒を吐き出す

そしてそれが続く間は

電光の稲妻が走り

自虐的な罵声の中で

汚泥の嵐が一張羅をたちまち汚す

 

悠久の昔から

この星は病み続けてきた

まるでそれは

死屍累々とした亡者どもの

琥珀色した涙のようだ…