詩人の部屋 響月光

響月光の詩と小説を紹介します。

エッセー「 マネとペルソナ」& 詩

エッセー
マネとペルソナ(仮面)

 物心がつく前のことだ。親に抱かれて母屋の玄関に飾ってあった花瓶のそばにいくと、必ず泣いたそうだ。まるでイソップ寓話の『狐と鶴の御馳走』にでも出てくるみたいな首長の陶器で、虫の這ったような草書漢字が書かれた骨董品だった。花が生けられることは一度もなく、目立つ場所に鎮座していて、一人で歩けるようになってからは泣くこともなくなったが、通り抜けるときは決して見ようとはしなかった。それを見ると、花瓶の中から化け物が出てくるような気がしたからだ。幼い僕にとっては恐怖の代物が玄関に飾られており、挿し口の中にはお化けの世界が広がっていると思っていた。

 近所の子供と遊ぶようになったときも、その子の家の客間に、薄気味の悪いお兄さんの絵が掛かっていた。背景のない場所で横笛を吹いているお兄さんは、見たこともない奇妙な帽子と服を身に着け、奇妙な顔つきでこちらを眺めていた。彼と目を合わせたとき、僕を見て薄笑いを浮かべているようにも思えた。僕は幼心に、花瓶といいお兄さんといい、大人は変なものを飾るものだと思った。そしてその奇妙な絵も花瓶とともに子供心に深く入り込んで、いまでも横笛を吹き続けている。まるで壺から鎌首を出そうと笛を吹く蛇使いのように……、

 『笛を吹く少年』が鼓笛隊の少年を描いたマネの作品だと知ったのは、趣味で絵を習い始めた中学生の頃だ。そのとき始めて、あれが「近代美術の父」とも称される有名な画家の絵コピーであることを知った。そして僕はマネに興味を持って、さっそく親にカラー版の画集を買ってもらった。しかし、そのとき夢中になっていたのはモネで、その後ほとんどマネの画集を開くことはなかった。

 マネに興味を持ったのは、大人になって大分経ってのことだ。彼はそれまでの遠近法に囚われた伝統絵画に反発し、浮世絵の技術を取り入れた平面的な作品を発表し、モネを始めとする印象派の先駆的存在になった。しかし印象派の画家と違うところは、光を求めて外で描くようなことはしなかった点と、作品に何かしらの物語性を持たせたということだ。モネのような印象的な風景やルノアールのような装飾的な美しさに物語は感じないが、マネの絵には物語がある。しかしそれは、古典主義が好むギリシア神話のような壮大な物語ではなく、キャンバスという二次元の表面に、ペルソナ(仮面)の内側に澱む心理を物語(メタファー)的に塗り込め、表現したという点だ。つまり、見ることができるのは人物像だが、その心や人生も同時に暗示されている、ということなのだ。

 『笛を吹く少年』は、ベラスケスの影響を受けて描かれたらしいが、モデルはちゃんと居ても、顔だけはマネの息子にしたという話だ。ならばこれは、愛する息子の肖像画でもあるということになり、そこにマネと息子の関係性という物語が生じる。彼はスペイン旅行でベラスケスやゴヤなどの作品に触れて心理描写を学び、それを作品に反映させた。マネは皮肉屋だったというが、マネが塗り込めた物語の多くは、その絵を鑑賞する普通の人々の暗部(内面)だった。例えば、有名な『フォリー・ベルジェールのバー』では、正面のウェイトレスは娼婦で、後ろの鏡に映る老紳士は値段を交渉しているのだという。当時のバーは、置屋としても機能していたようだ。裸の女たちと着衣の男たちを描いた『草上の昼食』はスキャンダルを起こしたが、当時の紳士は娼婦と野原で遊ぶことが流行っていたのだという。また『バルコニー』や『鉄道』は、近代の人間関係の中にある無関心や疎外感を表しているという話だ。

 マネの作品はセザンヌゴーギャンピカソに大きな影響を与えたが、その後の造形芸術の流れは、写実的な表現を失うことによって抽象化が進んでより難解になり、仮面の裏側に潜む喜劇的、悲劇的な心理を表出することが難しくなってきた。ピカソの抽象的な『ゲルニカ』と藤田嗣治のリアル過ぎる戦争画を比べても分かるように、抽象化された悲劇性は現実的なものから、よりイメージ的なもの、観念的なものへと昇華され、未だ原始に留まる人間の感性には直截的に響かなくなっている。代わりに、リアルな写真芸術がその役割を果たすことになったわけだが、そう考えるとマネは「近代美術の父」であるとともに「機微な心理表現における最後の写実主義者」ということになるわけだ。手法的には近代だが、コンセプトは常に人間の内面に目を向けていて、その志向性から言えばカラヴァッジョやルーベンス、ベラスケス、ゴヤなどの一連の流れの中の最後の一人だということになるだろう。

 我々は、恋愛にしても友愛にしても、仮面(外的側面)の中に隠された他人の心を相手にして、一生を終えなければならない宿命を背負っている。だから所有欲の強い人間は、相手の心を自分の心の中に取り込まないと安心ができない。しかしそんなことは不可能だから、嫉妬心に苛まれることになる。大恋愛の末に結婚しても、二人の愛は二人の本質どうしの愛ではなく、本質の上に覆われた仮面どうしの愛ということになる。自分は心底相手を愛していると思っていても、表面的にはそれに応えてくれる相手が、過去に振られた男(女)を未だに思い続けているかもしれないし、ひょっとしたら金銭的な目的があるものかもしれないわけだ。あるいは、親友だと思っていた相手が、戦争が始まるとたちまち敵味方になって殺し合うようなことも、連綿と繰り返されるわけだ。マネはそうした内面を背負った人々の仮面を、仮面と意識しながら描き続けてきた画家なのだ。

 ならばマネが描いた人々は、内部にいろいろな詰め物が入った人形のようなものだということになる。内容物は肉欲のような、物欲のような、貧困のような、軽蔑のような、無関心のような、悲喜劇のような、きっとその時代が覆い隠すガラクタが詰まっていたのだろうが、皮膚という薄皮で形を整え、サロンにもなんとか入選し、国の勲章も貰えたわけだ。しかしマネが「近代美術の父」ならば、その後の芸術家はマネに至るまで連綿と続いてきた人間の皮を破って、腹の中に手を突っ込んで内容物を引き出し始めたということになる。その内容物はさらけ出されて解剖台に並べられ、干物となって説明的機能を失い、ピカソキュビズムや後の抽象芸術に繋がっていった。

 『オランピア』の裸の皮膚は娼婦を表現しているが、微かにほほ笑む女の心の中は分からない。彼女はどんな精神で客と接するのだろう。そこにはどんな彼女の歴史が隠されているのだろう。そして客は……。娼婦と客という男女のペルソナ(仮面)が、腕を組んで街を歩く恋人たちと変わらない「愛」という粘着物質で繋がっているのなら、愛という代物は、より良い生き様を求める上で、自分自身が常に努力して高めなければならないものであることも分かってくる。それには愛する相手の欠点を許し、時には相手の過去を忘れることも必要になるだろう。

 スタンダールは『恋愛論』で、恋愛を皮肉交じりに塩の洞窟に放り込まれた枯れ枝に譬えた。枯れ枝は、一日もすれば美しい塩の結晶でたちまち覆われる。その結晶が融けるまでは二人の熱は冷めず、融けたとたんに冷めるというわけだ。ペルソナには塩の結晶が付いてキラキラと輝かせることはできるが、枯れ枝の材質は変わらない。しかしそれはスタンダールの考えで、僕はそれがどんな材質であるかは、人それぞれで異なると思っている。ただの雑木の枯れ枝かもしれないし、棘のあるカラタチの枯れ枝かもしれないし、香木の枯れ枝かもしれない。だから、人々は愛する相手の本質を、視覚だけでなく五感を通してCTスキャンのように感じ取ろうとする。きっと相手の心が香木なら、甘美な香りを発し続け、いつまでも愛し続けることができるに違いないし、その香りは周りの人々すら魅了するようなものかもしれない。

 ならば愛を長続きさせるには、あるいはずっと愛されるためには、自分の努力で自身の雑木を香木に変えるか、枯れ枝を生き生きとした枝に蘇らせるしか方法はないということになる。愛し愛されることは、そしてそれを永続させることは、努力して自分自身の外面を飾り立てることではなく、努力して自分自身の内面を変えることなのだ。そうした努力をしない人々が増えるほどに、スタンダールの恋愛哲学よろしく、愛は人々の表層に留まり続けるに違いない。

 


うざったい詩四つ
地球を見た日

僕は一度だけ 宇宙空間を漂ったことがある
強引な地球の引力から逃げようと思ったけれど
何度も助走に失敗し、ひどく疲れてしまった
大気圏外に出るための過剰なパワーには
勇気と決断が必要だった
しかし発想を変えれば 質量のないものに重力はかからない
まずは漬物石のような脳味噌を潰すことから始めればいい
僕は重苦しい殻から抜け出して 春の陽に照らされながら
湯気と一緒にのたりのたりと宇宙へのぼっていった

嗚呼 愚かしい宇宙飛行士たちに騙された
いのちに満ちた貴重な星だなんて…
地球は蒼かった 蒼ざめていた
強欲な地球がすべてを我がものにと呪縛をかけ
大気という透明糊でへばりつけられた生き物たちの吐血が
深海の赤魚のように地底で輝く 不気味に蒼く…
自由を奪われ 逃れようとぶつかり合い 殴り合い 傷つけ合い
すべて不自由なのに自由があると妄想し 
わがもの顔に歩き回れると虚勢を張って
止まらない靴で踊り続ける断末魔の舞踏
はびこらなければ滅びてしまう全員参加のオセロゲーム
生まれたときからひたすらにがむしゃらに…

小さな星にへばりついているだけなのですが 
非力な君たちの自由を奪うには十分だ
アインシュタインは地球から逃れる術は語らなかった
だが僕は人生で一度だけ逃れたことがあるのだ
ニュートンさんの忠告を無視して
首の骨をへし折ったときのことだ…

地球

皮の割れ目から血膿のように流れ出す溶岩
腐臭漂うジクジク熟れた湿地帯
最後の一滴も蒸発しちまうアポロン地獄
ひと吹きで希望の欠片を蹴散らすブリザード、さて…
貧乏くじを引き当てた猛獣どもが一か八かの大移動
小惑星のあちこちで、陣取り合戦が始まった
嗚呼貧乏星よ、下等生物たちよ
強い腕力とへこたれない足腰
さらには残忍冷酷な覇者の精神に
勝利の女神は微笑みかけるのだ
敗者を決して哀れんではならない
過去の辛酸を恨みの糧と変え
その髑髏杯で美酒に酔うがいい
お前は下等生物だからし
自分のことを考えれば事足りる
疑り深く死ぬまで気配を気にしながら
腫瘍の芽は早いうちにちょん切り
両手でしっかり利得を抱え込めばいい
嗚呼地球よ、下等生物たちよ、簡単なこと
この貧乏星では持てる者は絶対勝者で
持たざる者は絶対敗者なのだから

どくだみ

他人という奴らは
制御の出来ないアメーバのように
俺の周りをのた打ち回りながら
口から消化不良の黒液を吐き出し
進むべき道をぎざぎざに寸断して
俺を崖下に落とし込もうとするのだ
それは敵ではない、味方でもない
それは何かしら不気味な風体の
理解しがたい別の感性の生き物たちだ
あちら側の獣たちよ
お前たちは繁殖力旺盛で
どくだみのように花々を飲み込んでいく

地球社長

私はロボットである
昔は某自動車会社の社長をしていて
この手の危機回避はお手の物だ
抜擢したのは地球再生何とか機構のお偉方
私は高らかに宣言した
地球を再生するには大胆なリストラが必要だ
人間を三十パーセント削減する
大きな宇宙船に乗せて
地球から出て行ってもらう
江戸時代には所払いと言った
バブル崩壊後は首切りと言った
刑罰というよりは一種の罰ゲームだ
人生はモノポリゲームさ
勝ちがあれば負けもある、大富豪もいれば文無しもいる
さあ負け組諸君、次なる人生を夢見て出発だ!
人類の罪悪を背負って出て行くのだ
ババを引いちまったらお仕舞いさ、諦めろ
この世を支配するのは運だけなのだから
何、行き先が分からない? 甘ったれるな!
自分で探せばいい、人に頼るな!
運がよければどこかの星に着陸するだろう
命令するのは私で
実行するのは勝ち組だ
出される側は不平を言うが
追い出す側は黙々と仕事をこなす
みんなみんな、自分が可愛いのさ
人道主義者、夢想家は即負け組入りだ
私はロボットだから超功利主義者だ
そいつは神のように勝ち組から慕われるのだ
さあ勝ち組よ、土足で負け組を蹴落とせ!
ケツにしこたま泥を付けて送り出せ!
地球生命体の法則を負け組に教えてやるんだ
これが宇宙の掟であることを叩き込むのだ
私は負け組に手をかけてはいない
小指で弾いて居場所を無くしてやるのさ、っとどっこい
上意下達は小指ほど力を必要としない
太古からの決まりごとを語れば済む話
そよ風みたいな悪臭とともに、口汚く吹きかけるのだ
机上のほこりを払う常套手段さ、やんわりと効果的に…
地球上のほこりどもよ、君たちは宇宙塵となりたまえ
しかし、断じてしかし
私は人非人ではない、単なる人でなしのロボットだ
会社の社長さんとどこが違うというのかね?
社長さんも会社に従属するロボットなのだから…

 

 

 

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