詩人の部屋 響月光

響月光の詩と小説を紹介します。

エッセー 「群盗の生態学 (習近平の思惑)」& 詩

エッセー
群盗の生態学
習近平の思惑)

 子供の頃、狼に育てられた野生児アマラとカマラの話が教科書にも載っていて、興味をそそられたことがある。最近では野生動物に育てられた子供の話は作り話だろうと言われているが、18世紀のフランスで発見されたアヴェロンの野生児はたった一人で森に生きていたらしく、けっこう本物臭い。けれど、いつ頃森に迷い込んだのかも分からなかったし、教えてもまったく喋れなかったので、その経緯も藪の中だ。幼少期に言葉を学べなかったため言語獲得の臨界期を過ぎてしまったか、知的障害があったかも知れないという。

 育児放棄で長い年月牢獄のような小部屋に閉じ込められていた子供も、しばしば見つかっているが、やはり言葉を獲得するのは難しく、ちゃんとした大人には育たなかったらしい。ちゃんとした大人がどんな大人なのかは僕自身にも分からないが、生まれた社会に順応して、他の大人たちとうまくやりながら生活していける大人という意味なのだろう。それならちゃんとしてない大人というのは、その社会の教育が失敗して、生来の性格を矯正できず、その社会に順応できない大人ということになる。まずは彼の周りに社会があり、それに適合するかしないかの問題で、社会あっての個人ということになる。そしてその社会は、いろんな義務を個人に押し付けてくる。

 アヴェロンの野生児が一人で森を彷徨っていたのなら、森の動物たちと何らかの交流があったかも知れないし、交流があれば森は彼にとってはある種の社会だった。発見されるまでは、彼は森社会に順応して生きていた。しかし発見者は彼を人間と確認し、人間社会という別の社会に連れ戻した、あるいは隔離したわけだ。アマラとカマラの話だって、それが真実だとすれば、彼女らも狼社会に順応して生きていたが、発見者によって無理やり人間社会に隔離されたわけだ。発見者は子供を助けたと思ったが、本人たちは捕獲されたと思ったに違いない。野山を駆け回る社会から、動物園のような社会に移されたのだから……。人間が人間社会に生きるのは当たり前の話だが、当人たちは狼社会に生きるのが当然と思っていただろう。社会というものを人間固有のものと考えるのは、大間違いということになる。

 アヴェロンの野生児は孤独な単独行動だったが、アマラとカマラは狼一家という群の中で暮らしていた。群を社会(共同体)と言い換えられるなら、家族は社会の最小単位ということになる。家族の構成メンバーはお互いに助け合って、メンバー全員が生き残るための努力をしなければならない。生き残るためには、二、三の家族どうしが合体して大きな群になり、効率よく子供を増やし、効率よく獲物を獲る必要も出てくる。その状況によっては、群はどんどん大きくなる場合もあるし、再び分裂して元に戻ることもあるだろう。時には分裂後に喧嘩を始めたりもするわけだ。これは狼や人間などの動物に限らず、バクテリアや植物も含めた地球上のあらゆる生物に当てはまる現象だ。

 あえて地球を丸い玉に譬えれば、地球生態系という薄皮には、人間の群としてのロシアやアメリカなどの大きな国家から数百人の集落、企業体、動物の群、植物の群生、ナノレベルの菌叢まで、人類を含めた多種多様な種の社会が蠢いていることになる。当然のこと、それらの社会は独自の個性や性格を持っている。人類が蟠る国家という群叢一つを取っても、中国のような社会も、ロシアのような社会も、アフガニスタンのような社会も、アメリカのような社会もある。そしてその中の構成員全員が、自分自身がより良く生きていくために活動し、子供や仲間を増やし、その地盤としての我が社会の発展に貢献している。これは、群を構成する個々人のより良く生きたいと思う心がエゴとなり、我が社会の発展を願う心が集合して国家のエゴになっていることを意味している。地球生態系が問題なのは、地球の表面積が小さく、群のエゴが絶えずぶつかり合って争い、負けた相手を糧として取り入れる「弱肉強食」や「共食い」のシステムが出来上っていることだろう。それが、狭小環境の均衡を保つ無情なシステムということになり、敗者には「従属」とか「滅亡」、勝者には「覇権」とか「支配」という言葉が当てはまることになる。御託をいくら並べようが、とどのつまりは「エゴ」なのだ。

 そう考えると、カルトの問題もウクライナ戦争も、一見別物に見えても、同じまな板に乗せることが可能になってくる。教祖がありがたい教えを説こうと、プーチンが正当性を主張しようと、基本は地球生態系の法則に則った覇権行動を実践していることになる。人類は地球史上最強の知恵を駆使して、動物界の王者として地球生態系の頂点に君臨し、自分たちのいいように他の動物たちの命を差配するまでに進化した。しかし、他の生命体を全て支配するには至らずに、コロナ禍で多くの仲間を失い、現在その敵であるウイルスをも支配しようと戦い続けている最中だ。動物界の王様である人間と、微生物界の王様であるコロナウイルスが覇権争いしているのが現状で、仮にコロナが勝利すれば、人類は滅亡の危機に瀕するというわけだ。それは人々が森林を伐採して、多くの動植物が滅亡の危機に瀕している状態と変わらなく、単に主客が逆転しているだけの話に過ぎない。当然だが、世界に点在する飢餓状態の人々も、負け組の集団として同じまな板に乗っていることになる。資本主義の世界では地球は大きなまな板で、彼らの生きる糧は遠くの誰かが食っているに違いないからだ。遠くの誰かのエゴにより、その遠くの誰かが食えずに死んでいくということだ。

 地球上のあらゆる生命体が、地球生態系の法則に則って活動しているのなら、動物の行動を支配する脳味噌も、その法則に則って思考し命令を下すということになる。極端に進化した人間の脳も、この法則から逃れることはできない。だから人間も、最初に自分の満足を考え、次に所属する群の満足を考え、その後に他集団の満足を考えるように脳機能もシステム化されている。いきなり他人や他集団の満足を考えてしまった場合は、「自己犠牲」という詩的で情緒的な妄想に侵されたことになり、結局これは地球生態系からの逸脱行為で、自らの死を招くことにもなりかねない。社会を救うための過剰奉仕も、人の目から見れば愚かな「自己犠牲」に見えるわけだ。世界だろうが地域社会だろうが、「共助」というのは自分の持ち物全てを差し出すことではない。

 現在の地球を支配しているのは人間とするなら、この支配者たちが地球資源の搾取を続けていて、その結果として地球生態系を壊し続けている。また、人間は未だに原始時代の群を単位として活動し、他の群を異種として見る傾向にあることも事実だ。だからロシア人はウクライナ人を同族と言いながら、本音の部分で異種と見なしているわけだ。差別には分かりやすいカテゴライズが必要で、その目印となるのが肌色や形体、それが同じなら言語や宗教なのだろう。言葉を喋れない野生児が人間として認められないのも、ロシア語を話さないウクライナ人が無差別に殺されるのも、言葉を基準に人が人を異種と見なしているからだ。プーチンによると、そもそも軍事介入の理由は、ロシア語を話すロシア系ウクライナ人を救うことにあったのだから……。またロシア国内で少数民族の徴兵が圧倒的に多く、当然戦死者が多いのも、数で勝るロシア民族が同じ国民である少数民族を異種と見なしている証拠になっている。

 つまり地球生態系のセオリー通り、大きな群が小さな群を飲み込んでいる状態がいまのロシアで、トカゲのように尻尾の部分から外様の兵隊を消耗させていくわけだ。外様がこれに反抗しても、明治維新のようになるためには、外様どうしの結託が必要になってくるだろう。当然ウクライナは、ロシアに飲み込まれれば外様となり、他の少数民族と同じ憂き目に遭うことを承知していて、多大な被害を被っても抵抗を止めない。

 これ以上ウクライナ人の犠牲者を出すのは忍びないから、早々に和平して占領された土地は諦めるべきだ、という意見があるが、それはその土地の住人がロシアの奴隷になることを意味している。仮に彼らが逃げても、自分の土地を捨てることになるわけだ。群というのは一つの細胞で、たとえ部分的な欠損が生じても「障害」として一生残り続ける。しかも、全体の構成員一人一人の心の障害として残り続けるのだ。それが地球生態系のメカニズムなら、部外者の軽率な意見ということになるだろう(他意が無い場合)。例えばスコットランドバスク地方の人々は、幾世紀にわたってアイデンティティの欠損部を埋める努力を強いられている。韓国は日本から独立したが、日本人に対する意識は未だに歪んでいる。それを日本人が理解できないとしたら、ウクライナの頑強かつ悲壮な抵抗も理解できないに違いない。

 総じて地球の資源は乏しく、その分散も均一でないため、生息する場所によって貧富の差が生じ、「弱肉強食」ムーブメントのエネルギー源となっている。いつの時代になっても貧富の差が解消されることはなく、それが地球生態系の頂点たる人間叢の根っこに活断層として隠れている。世界中で、いまに至るまでこの断層エネルギーを解消する手段は見つかっていない。特にロシアは軍事大国だが経済小国で、全土にわたって貧困という不満エネルギーが溜まっている。この手のエネルギーはどこに向かって飛んでくるかは分からない。プーチンは恐らく、それらが政権に向かないように、点在する不満エネルギーのベクトルをウクライナに集中させたに違いない。そしてそれは短期間で成し遂げて国民の称賛を受けるはずだったが、予想外の展開になってしまった。それまでこの戦争に賛成していた多くの国民も、動員令が出されると一転してプーチンに不満を持つようになってきた。所詮エゴを熱源とする群社会は、そんなものだと思うべきだろう。

 宗教も群となれば同じことだ。カルト宗教の場合は、カリスマ的な国家元首の代わりにカリスマ的な教祖(開祖)がいる。皇帝も大統領も首相も自国の栄華を目指すが、教祖は教団の栄華を目指す。国も教団も群であるからには拡大遺伝子を内在し、それは最終的に地球の支配を意味している。植民地の反乱が無かったら、いまでもイギリスは大英帝国だったろう。現在の民主主義陣営も権威主義陣営も、群であるからには地球の支配を目指している。

 クルクル替わる民主国家の首相とは違い、教祖は現人神だから細胞核のようなもので、それが居なくなれば分解し、生態としての機能は壊滅するか卑小化する。だから教祖が死んだ場合は、縁者などから新たな教祖が選ばれて霊媒となり、死んだ教祖との交信を始める。そして時間の経過とともに、天上の教祖を代弁する教祖として、盤石の地位を築いていく。

 どんな小さな宗教集団でも、教祖(リーダー)という核はある。そしてその宗教の性格は、教祖の性格を反映する。教祖の信仰のベクトルが信者個人個人の心の内に向かっていれば、その集団が肥大化するスピードは遅くなる。教祖のベクトルが地球生態系のセオリーに準じて外に向かえば、その集団は拡大する方向に進行することになる。もちろん、教祖の周りには指導部という取り巻き連中がいて、教祖は彼らの意見を聞きながら、教団の方針を最終決定する。内に向かうか外に向かうかは、その宗教はもちろん、教祖と取り巻き連中の性質にかかっている。当然のことだが、急進的に外に向かえば世間との軋轢が生じ、「ならず者国家」のレッテルを貼られたロシアと同じに、「カルト」というレッテルを貼られることになる。

 そう考えると、カルト宗教という群のメカニズムが、戦前のファシズム国家であった「日本社会」という群のメカニズムと同じであることに気付くだろう。異なるのは信者数だけで、結局一億総懺悔をする羽目になったわけだ。代々京都に蟄居させられてきた天皇が、明治維新で新政府の神輿に乗せられて東京に居を移し、現人神の地位にまで昇りつめた。それからの日本は「富国強兵」を旗印に、太平洋戦争まで突き進んでいく。天皇宣命が取り巻き連中の意向を反映したものであれ、国民はそれを天の言葉と受け取り、喜び勇んで出兵し、「天皇陛下万歳!」と叫んで死んでいった。戦争反対を唱えるキリスト教徒などはカルトと見なされ、弾圧された。領土拡大を目指す侵略国家の社会では、平和主義団体はカルトとなり、平和主義国家の社会では、極左・極右団体はカルトになる。その時代その時代の社会の色で、内在する小さな群は翻弄される。そしてそれを決めるのは社会の趨勢や時の権力者で、彼らの考えが時の常識となる。いまの日本人は背後の悪霊に恐怖を感じ、後ろを振り返ろうとしない。

 領土拡大が世の常識だった第二次世界大戦前は、いまのロシアがやっている行為は常識の範囲内にあった。それが非常識に感じる戦後の感性は、二つの世界大戦を経験して戦争の悲劇、植民地の悲劇を人々が共有し、平和主義体制という世界的なレジームチェンジが起こったことを示している。しかし忘れていけないのは、地球生態系における群の基本行動は「拡大」であることで、「平和主義」はイデアの範疇なのだ。イデアなら、人々は努力して築かなければならない。それが非常に難しいのは、現実に在する集団エゴがパワーで勝ることだし、異なる思想との軋轢が生じることだ。

 カルト宗教が夢見る「地上天国」もイデアで、きっと最終型は平和な世界に違いない。しかし現実的には、その工程で周囲との軋轢を生み、成し遂げたとしても、人間という種々雑多な感性の群を一つの主義の下で支配することになる。巷ではこれを「洗脳」ないし「マインドコントロール」と呼ぶ。支配するのは神の権力かも知れないが、その御意思を伝える教祖は神ではない。神は地球外の何者かで、教祖は地球生態系の中にいる群の権力者だ。豪奢な館に住み、豪奢なトイレで用を足し、意志半ばに豪奢なベッドで死んでいく。しかし目標に向かって励むほどに周囲と戦い続けなければならず、挙句は「カルト」のレッテルを貼られてしまう。過剰献金も「効率的な利他主義」から逸脱し、教祖の「効率的な利己主義」に貢献する。地上天国という恒久平和を実現するために、彼らはますます意固地になっていく。そのとき、ようやく人類は悪魔から解放されるという夢を見ながら……。

 哲学者のカール・ポパーは、プラトンが理想国家の君主とした「哲人王」をレーニンヒトラーに重ね合わせた。プラトンは知恵で世界を支配しようとした。レーニンマルクス主義で世界を支配しようとした。ヒトラー全体主義で世界を支配しようとした。主義主張が生まれれば、哲人主義でも資本主義でも社会主義でも新興宗教でも、賛同者が群となってアメーバのように吸収され膨れていく。縮小していく群は最後には消えてなくなる。縮小も拡大もしない群は、休戦しているか戸惑っているか、うぬぼれているかだ。きっとロシアもカルトも、縮小は分解・消滅を意味している。同じように、世界中の群がプラットフォーム化した資本主義も、拡大し続ける運命を背負っている。世界の国々が経済成長を遂げようと頑張り、折れ線グラフに一喜一憂し、国どうしがぶつかり合い、軋轢は高まって挙句に戦争となる。これは群盗割拠の世界だ。戦争の悲劇は体験した者にとどまり、世代が変われば忘れ去られる。歴史は繰り返さないと主張しても、歴史的トレンドは繰り返す(韻を踏む)。だから世界大戦の少し後に次の大戦がやってきたし、そして次なる大戦は?、ということになる。

 こうした資本主義中心の世界で、本来の共産主義に舵を切り始めたのが中国だ。習近平は先の第20回党大会で最高指導部を子分で固め、共産党憲法である「党規約」に、習主席の「核心」としての地位を守ることが党員の義務であると明記した。これにより一党独裁から一尊独裁に移行し、習近平は哲人王となって彼の理想に向けて哲人政治を推し進めることが可能になった。その理想というのは、貧富の差を無くす「共同富裕」の理念による「人類運命共同体」を目指した世界征服だ。世界に蔓延る資本主義的弊害としての「貧富の差」を解消することが習近平の夢だとすれば、それはマルクスレーニンが見た夢や、宗教指導者が見た「地上天国」の夢と重ね合わせることができるだろう。マルクスレーニン習近平も「共同富裕」の実現においては、教祖が神の下の平等を説く「地上天国」と同じことになる。地球資源が増大しない限りにおいて、「共同富裕」は富裕階級の犠牲を伴い、カルトの「地上天国」も信者の過剰献金による家族の犠牲を伴う。

 統制を強化して国内革命を進める習近平が、もし世界に習思想を広めようと考えるなら、古代ローマ帝国のように、まずは力と経済力によって国力を世界№1に押し上げ、地球規模で拡大する貧富の差をじっくり観察しながら、虎視眈々とその時を待つ。その時というのは貧富のバイアスが極限に達する世界革命の前夜だろうが、それまでにはあらゆる手を使って世界中から先進技術を吸収し、留学帰国組の頭脳人口を駆使して産業の内製化による経済安全保障を確立しなければならない。国内だけで繁栄できる自立型先進国家だ。そうなればアメリカなど資本主義先進国の制裁を撥ね付け、付き従う発展途上国も増えてくるだろう。寄らば大樹の陰というわけだ。

 革命前夜はマルクスレーニンが夢見た世界中の労働者が貧乏から脱却するための臨界点だが、同時多発的に起こるわけではない。中国の意図的な経済支援などに浸潤されつくした国々から、時間を置いて連鎖反応的に起こっていく現象だ。経済力と軍事力を巧みに使いながら、一つひとつの経済小国に習思想を浸透させていく。一帯一路構想の下、陸や海のシルクロードを伝って多くの発展途上国を取り込みながら、「共同富裕」を旗印に習的社会主義ユーラシア大陸からアフリカを含めたグローバルサウス(発展途上国群)、最終的に欧米を含めたグローバルノウス(先進国群)にまで拡散する。ならばこれは権威主義VS民主主義の戦いではなく、「貧」VS「富」の地球規模の階級闘争ということになる。習近平がどこまで夢見ているのかは知らないが、それはプラトンの国家論に匹敵する高邁な思想だろう。終点が「地上天国」であるからには、達成への道程には多くの犠牲者が生まれることになる。しかし信じる者にとって、それは必要悪だ。帝国主義者プーチンにとって、ウクライナ市民の死が必要悪であるように、共産主義者の習にとってチベットウイグル南モンゴルの弾圧も必要悪だ。

 マルクスはいずれ資本主義が自壊して、必然的に共産主義に移行すると思ったが、習近平は死ぬまでに筋道を付けようと焦っている。そうすれば、きっと後継者たちが資本主義を終らせて、地球上を格差のない地上天国にレジームチェンジしてくれるだろう。芭蕉じゃないけれど、夢は世界を駆け巡るというわけだ。それが彼の誇大妄想ではないとすれば、単に道筋を付けたいだけだろう。しかし大きな夢も小さな夢も、所詮夢には変わりない。

 なぜなら哲人王はイデア(夢)の世界の王様で、地上の王様は結局服を脱がされ、裸の王様になって終るのが地球生態系の習わしだからだ。地球上はモナド単位で蠢く雑多な群々の欲や夢が交錯するカオスで、その中に大きな手を突っ込んでも、四方からピラニアのような歯で噛みつかれるのがせいぜいだ。あらゆる生物は、一度味をしめた環境を手放すことに耐えられない。現に一帯一路構想からバルト三国は離脱し、富の再分配を恐れて中国国内の資産家たちが国外へ拠点を移し始め、株価は下がり、バブル崩壊も近いと囁かれている。将来的にも、女性一人当たりの出生率が1.3人じゃ、老人大国になるのは目に見えている。たとえプーチン後のロシアが社会主義に戻っても、あるいは発展途上国中国共産党傀儡政権が出来ても、オリガルヒや華僑を始めとする金持ちたちは逃げ出し、それらの国々はますます貧困化するだろう。アラブで民主化運動がすぐに崩壊したように、高邁な習近平思想はすぐに崩壊するに違いない。

 けれど資本主義の崩壊も、遠くはないと思えるのだ。世界に蔓延する貧富の差を解消出来なければの話だが、どっちが先かは分からない。いまの世界は、中国だろうがアメリカだろうが、権威主義国だろうが民主主義国だろうが、社会主義国だろうが資本主義国だろうが、「貧」VS「富」が問題であることは共通項になっている。AIが幅を利かせる第四次産業革命が佳境になれば、世界中でさらに多くの失業者が出るだろう。世界に蔓延る型落ちの資本主義を新しいメカニズムに脱皮させなければ、中国もアメリカも日本も欧州も、総崩れになることは目に見えている。持続可能な資本主義を実現するには、共通項である「貧」VS「富」問題をまず解決する必要がある。それには毛沢東習近平の「共同富裕」的コンセプトにも目を向け、ベーシックインカム的な施策を世界規模で行う必要も出てくるだろう。それを成功させるには、中国、ロシアを含めた世界的な共助精神が不可欠で、権威主義国家の場合は指導部、民主主義国家の場合は国民一人一人の理解ということになる。そして当然のこと、人類が喫緊に解決しなければならない問題は、「地球温暖化(環境汚染)」「核兵器」の他に、「貧困」も加えなければならないだろう。

 習近平の「共同富裕」は高邁な思想だが、実際はそれを利用した単なる大中華帝国への憧れかも知れない。それなら、アレキサンダー大王やチンギス・ハーンプーチン皇帝の夢とまったく変わらないことになる。その顛末は、これからの歴史に刻まれることになるだろう。人類史が存続している限りにおいて……。


節穴
(戦争レクイエムより)

いつか遠い昔
誰かに頬っぺたを叩かれたとき
目に火花が散って
網膜に小さな穴が開いた

それは用もない節穴だったが
覗いてみると万華鏡で
数知れぬ昔人たちが
数知れぬ昔人たちに
頬っぺたを叩かれていた 

若い女に叩かれた男がいた
親に叩かれた子供がいた
夫が妻に、妻が夫に叩かれていた
生徒が教師に、教師が生徒に
部下が上司に、兵隊が上官に
大臣が王様に叩かれていた
奴隷が主人に、蛮族がローマ兵に
町人が浪人に、落人が百姓に
皇帝が夷狄に叩かれていた 
愛国者愛国者を叩いている

男は頬っぺたを
誰かに叩かれたことを思い出した
地下の拷問室で
後ろ手に縛られ…

SOLDATO SCONOSCIUTO
_天国からの手紙_
(戦争レクイエムより)

セレネッラは清掃員だ
任されたのは無名戦士の墓
広い広い芝生の敷地に
石の墓標が並んでいるけれど
この一画には名前の代わりに
「知られざる兵士」と書かれている
彼女がここを任されたのは
他の仲間よりは静かだからさ

仲間の連中ときたら
名前がないのをいいことに
勝手に名前を命名して
語りかけたりする
やあジョバンナ、元気でいたかい?
ハイ、アントニオ、今朝は朝露を飲んだの?
カルロ、生きてたらきっとモテモテだったわよ
エットーレ、また夜中うろついたでしょ!

息子の骨を返してもらえなかった親が
「君は僕のマリオかい?」なんて花一輪置いてくのを
いつも近くで見ていたからなんだ
年取った親たちは
どこかに息子がいるって信じ
小さな奇跡を期待してるんだ
花束から一本ずつ抜いて
一つひとつの墓に置いていくのさ

だけど墓はいっぱいあるから
花束はすぐ無くなっちまう
そしたら、今度は次の墓から
始めるってわけだ
みんな、自分の息子が恋しいのさ
息子の骨だと信じたいのさ
この墓地に、息子がいると思いたいんだ
自分たちも、息子の隣に眠りたいからさ

セレネッラの仲間たちは赤の他人だから
萎れた花をいちいち片付けるのも面倒だし
皮肉半分に耳に入った名前を使っちまうんだな
好きだった誰かの名前かもしれないけどさ

でもセレネッラは仕事中も休憩中も
何も喋らずニコニコしているだけなんだ
けれど時たま箒の手を休めて
悲しそうな眼差しで墓を見つめ
暗い顔して深いため息をつくのさ
言葉にはならなかったけど
きっと仕事が辛いにきまっている
彼女はもうけっこうな歳なんだ

ある日、墓の一つに薄汚い紙が乗っかっていた
セレネッラはそれを摘まんで丸めようとしたけど
薄いインクで何か書かれているのに気付いたのさ
そして初めて大きな声を張り上げたんだ
「アンジェロ、貴方だったのね」
彼女はそれから、墓の前で泣き崩れたのさ
疲れてたんだ、良くあることさ
それとも、昔の彼氏でも見つけたのかな…

いままでの作品

https://note.com/poetapoesia/m/mb7b0f43d35b2

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