詩人の部屋 響月光

響月光の詩と小説を紹介します。

エッセー 「人間は感動を操る動物である」 & 詩

エッセー
「人間は感動を操る動物である」

 

 もし僕が大病に罹って医師から余命宣告を受けたとすれば、いままで生きてきた過去を振り返って、感動した出来事を一つひとつ思い出すに違いない。苦い思い出ばかりを振り返れば、来世が期待にそぐわない場合は二度失望することになる。しかし良い思い出なら、来世と現世の比較も容易にできる。来世が現世よりも良かったら嬉しいし、良くなかった場合でも失望は一度だけで済み、良い思い出を来世に持ち込んで慰めることができる。旅行バッグに良い思い出ばかり詰め込んで死を迎えたいものだ。嫌な思い出を脳味噌から追い出して、すっきりした気分で死を迎える。もちろん地獄のことなど考える気はさらさらないし、僕的には来世そのものがなくても構わない。永遠の無が続くのなら、こんな陰気なことを考える無駄も省けるだろう。

 

 そうして僕は死ぬ気になって、来世があるものと一応仮定し、感動したことや印象に残ったことなどを思い出してみる。すると、すべてが「生」に関するものであることに気付くのだ。僕は宇宙飛行士でも冒険家でもないから、月面にもヒマラヤの高峰にも、カラハリ砂漠にも行ったことはない。だから生のない世界に感動したことはない。火星に降り立つ宇宙飛行士はその偉業に感動するだろうが、きっとその感動は長続きせず、次からは火星にいるかもしれない生物を探し始めるに違いない。なぜなら地球人は、それが自分に危害を加えないかぎり、生きとし生けるものに感動し、慈しんできたからだ。

 

 僕が真っ先に思い浮かべた感動は、ギリシアで海に沈む夕陽を眺めたときのことだ。スニオン岬には古代のポセイドン神殿が建っていて、金色の光が朽ちた石柱に降り注いでいた。周囲には多くの男女が肩を寄せ合って海に沈む太陽を見続けている。太陽を神とする宗教は世界各地にあるが、僕はそのときその理由が分かったような気がしたのだ。この太陽が生命の源であり、その光がなければエンタシスの神殿も、愛を語り合う恋人たちも、老人に抱かれた小犬も、周りの草や虫たちも存在しなかった、と……。※1

 

 もちろん「もう一人の主役を忘れちゃいけないぜ」と、金色に輝く海の底でポセイドンが主張するだろう。地球に海がなければ、丘に上がった生物すら干物になってしまうのだから。つまり、この感動的な岬には「生」の頂点を極めた人類と、それが築いた偉大な文明と、それらを育んだ太陽と大洋が勢ぞろいしていたことになる。あの光景は、きっと生命の星である地球のエッセンスが凝縮したものだったに違いない。

 

 次に思い浮かべたのは、スイスのサンモリッツで、尾根に咲く高山植物を見たときに湧き上がった感動だ。しかしそれは「咲き乱れる」とか「百花繚乱」とかいう言葉とは対極にあるような群生だった。一センチにも満たない小さな花たちが、微風の中で微かに揺れながら、汚れのない美しさを慎ましく表現していた。色合いは様々でも、自然でしか表現のできない印象的な特徴で統一され、見る者に感動を与える。それは、浄化された空気を透過した陽の光が小さな花びらをも透過したときに生じる透明感だった。このときの陽光は、スニオン岬に燦々と振り注いだ姿ではなく、汚れのない空気と瞬時に混じり合って同化し、すべての色調を捨てたメディウムを演じていた。天上から降り注ぐピュアな光が、赤や黄や青の小さな花びらに、この世のものとは思えない不思議な清らかさを幻出させている。光を求めて外に出た印象派の画家たちが夢想し、展色剤やニスを駆使しても再現できなかった究極の透明性を、そこに見たような気がした。

 

 僕はそのとき、この世にないものを見たときの泣きたくなるような愛おしさを感じたのだ。長子を得た父親が妻の横にスヤスヤと眠る赤ん坊を見て、そんな感動に陥るかもしれない。あるいは史上最強のストーカーであるキングコングが、手中の金髪美人を眺めて臭い息を吹きかけ、そよぐ髪の毛に感じるものかもしれない(蛇足)。僕はそのとき以来、花屋の色とりどりの切花にも、園芸植物にも、バラ園にも、ダリア園にも、ほとんど興味を示さなくなった。ただ散歩しながら、時たま道端の雑草が咲かせる小さな花たちを眺めているが、いかんせん透明感がない。残念なことに、陽光が汚れた空気と瞬時に同化して、濁った光を花びらに投げ付けているのだ。それでも、きっと天上の世界には、あのとき見た花園があるに違いないと思っている。天に昇れたらの話だが……。

 

 さあ、僕はこの二つの思い出をリュックサックに入れて、いさぎよくあの世に旅立とう。こうしてみると、僕が感動したのは人間ではなく、自然の景色やら文化遺産やら昔の美術・音楽だったりするが、そもそも感動したというのも大袈裟ではないかという結論に至り、感動遍歴は「スニオン岬」と「サンモリッツ」に止めおくのが無難ということになった。「人生が変わった」などとやたら感動する人の爪の垢でも煎じたい気分だ。

 

 人はいずれは死ぬ。ならば、感動した思い出を大切にして、色あせることのないようにちゃんと保存しておくべきだろう。いざあの世に出発するときに、ガサゴソ探し回ることのないように、少なくとも二、三の思い出を雛人形のように丁寧に保管し、時たま陰干ししてカビの生えないようにしておくべきだ。

 

 ところが、ただ生きていることにしか感動の材料になりえない人たちがいることも、もう一つの事実だ。生まれたときから寝たきりの人もいれば、生まれたときから戦乱が続いている地域の人もいる。あるいは人生のある時期から、そのような状況に陥った人もいるだろう。彼らの心の周囲には、およそ感動になり得ない「不自由」や「死」や「破壊」が散乱している。それでも昔元気だった人や破壊されていない街で生活したことのある人なら、生き生きとした時代の思い出をリュックサックに仕込んで旅立つこともできる。

 

 ならば生まれたときから体の不自由な人や、生まれたときから戦争している地域の人はどうなのだろう。恐らく彼らは、僕たちが気付かないような些細なことに感動しているに違いない。例えば病床の窓から見える花の蕾や、瓦礫を突き抜けて伸びる実生の幼木などに……。「人間は象徴を操る動物だ」と言った哲学者がいたが、僕は「人間は感動を操る動物だ」と言いたいのだ。あるいは「感動で生きている動物」と言ったほうが良いかもしれない。昔『未知との遭遇』という映画があったが、宇宙人と出会うこともビッグな感動だろうが、一輪の花や蕾に出会うことだって大きな感動になり得るだろう。

 

 昨日まで生きていた人間が今日死ぬことに感動は伴わないが、昨日まで死んでいた人間が今日生き返ることには感動が伴う。キリスト教ではそこから新たな物語が始まっていく。爆弾で多くの人が死ぬことに感動は伴わないが、戦乱の地に平和が訪れれば感動を伴う。人々は過去を忘れようと努力し、胸を膨らませて新たな物語を創り出していくだろう。

 

 感動はあらゆることどもの「生」によって引き起こされる爆発的な心の動きだ。だから、古代から人々は不毛の地を耕してきたし、沙漠のオアシスに文明を築いてきた。難病の子供たちに快復の感動を与えようと、医師や看護師たちは必死に努力するし、難民の子供たちに生きる感動を与えようと、多くのボランティア団体が戦地に赴き活動している。この冷厳でメタリックな宇宙の中で、あらゆる「生」を生み出し続ける地球が「感動」をも生み出し続ける唯一の星であることは言うまでもない。

 

 ただ残念なことに、自分の「生」に執着するあまり、自分勝手な「感動」に満足しようとする連中がいることも事実だろう。彼らは恐らく、欲望の中に感動の材料があると思い込んでいるか、周りに点在するささやかな材料を感動や幸福に昇華することのできない人々に違いない。他国に侵入して、そこに暮らす人々の「生」を奪い、自分の「生」を豊かにしようとしても、そこから真の「感動」は生まれない。なぜなら壊す側にも壊される側にも、破壊された土地の瓦礫は心の傷として、末永く残り続けるからだ。誰一人として、死や破壊を伴う所に感動する者はいないはずだ。※2

 

※1 太陽が生命の源であるなら、生命の危機を救ってくれるのも太陽に違いない。地球温暖化対策としての太陽光利用は、まだまだ少なすぎるのが現状だ。「オフグリッド」や「プチオフグリッド」など、個々の家庭での太陽光発電を各国政府は積極的に推進する必要があるだろう。

 

※2 集団的感動は集団的熱狂を伴うことも事実で、それを演出して巨額な富を得る人々もいるだろう。大きな競技会は人々に感動をもたらす一方で、興行主を潤わせる。また、不正な手段で英雄になろうとする選手も出てくるだろう。日本人の多くは侵略される人々の心を理解しているが、それは敗戦という苦い経験があるからだ。かつて戦勝国だったロシア人の多くは旧ソ連時代の感性を未だに引きずっている。クリミア進攻後にプーチン大統領の支持率が上がった事実は、それに感動したロシア人が少なからずいたことを意味する。昨日、ロシアはウクライナの別地域に進攻を開始したが、支持率も漸増しているという。かつて大陸に進出したわが国の熱狂ほどではないにしろ、彼らはまんざらでもないと思っているわけで、世界平和の実現がいかに難しいものであるかを考えざるを得ない。悲しいことに……。

 

 


鳥葬

 

男は仲間たちに持論を展開した
生き物の終焉の地は
魂が抜けた場所だ
その場所でほかの生き物たちに
命の糧を贈るのだ
奴らを食らってきた罪滅ぼしさ
死する者のエネルギーは
生ける奴らに乗り移り
命の源はパワーとなって
永遠に引き継がれる

 

なぜ人間だけ灰にされ
狭い壷に詰め込まれて
窮屈な墓穴に落とされるのだ
自然の摂理に反逆する
傲慢な行為さ
死者への思いなど
いずれ忘れ去られるのに・・・

 

嗚呼、魂は天空を求めている
育ててくれた自然に感謝し
不要となる朽ちた肉体は
カラスどもに贈るとしよう
それはこの星本来の生きざま
生きとし生ける者の性

 

さあ俺の魂は
翼を得て天に昇るのだ
罪深き人間どもよ、さらば!
男は力の限り息を吸い込み
希望に胸を膨らませて死んだ

 

仲間は真夜中に死体を担ぎ
発覚を恐れるあまり
山の崖から奈落に落とした
そこは茨の藪でスズメすら来ず
男は念願かなわずに
棘々のハンモックに遊ばれて
美味そうな血燐干になりました

 

 

 

 

対消滅

 

自分を不完全な人間だと思っているなら
どこかでおまえの分身が
自分を不完全な人間だと思っているのだ

 

おまえの心が落ち着かないのは
おまえの心の欠けた半分を
どこかにいるおまえの分身が持っているからだ

 

おまえとおまえの分身が
いつも不幸であり続けるのは
おまえが分身を見分ける力がなく
おまえの分身もおまえを見分けられないからだ

 

おまえと分身は二つに裂かれた心を分け合っているのだ
だからおまえとおまえの分身は心が満たされず
失った心に価値があると思い込み
いつまでも不幸であり続けるのだ

 

おまえもおまえの分身も恥ずかしさのあまり
貧相な肉体から芽生える下卑た心を隠しているのだ
だからおまえは分身と擦れ違っても
相手をあざ嗤うばかりで
おまえの分身であることに気付かないのだ

 

おまえが分身を見つけられなければ
分身もおまえを見つけられず
おまえも分身も不幸であり続けるのだ

 

おまえの分身はたったいま
欠けた心を肉体から解放したのだ
さあおまえも早くその肉体から潔く
不満足な心を解放させるのだ
飛び出した二つの心は割れた皿のように
空中でピタリと結合して真円となり
つかの間の喜びの中で燃え尽きるのだ

 

おまえと分身は粒子と反粒子の関係で
出逢ったときが消滅するときなのだ
しかしそのときにようやく理解するのだ
至福は一瞬にして過ぎ去ることを…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

響月光の小説と戯曲|響月 光(きょうげつ こう) 詩人。小熊秀雄の「真実を語るに技術はいらない」、「りっぱとは下手な詩を書くことだ」等の言葉に触発され、詩を書き始める。私的な内容を極力避け、表現や技巧、雰囲気等に囚われない思想のある無骨な詩を追求している。|note

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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