詩
塹壕
その星は、粉ダニよりも小さな俺たちのために
四六時中、休む間もなく遅遅延々と回り続ける
あるいは無数のピエロたちが大きな玉に便乗し
薄皮から吸い取った毒気を一所懸命吐き出して
独楽鼠みたいに回し車をクルクルと遊ぶように
零れ落ちまいと百足の足どもを走らせるのなら
俺たち小兵とチャチいその星はきっと共犯者だ
止めて消えゆく落伍者と止まって爆ぜる小遊星
たかが三千世界の輪廻転生に貶められた終末論
お前が止まれば俺の命も止まる不愉快な因縁と
俺の命が滅してもお前は咎めなしの不平等関係
ゆえに金持ちどもは近くの遊星に王国を検討中
この遊星は俺たちのために回り続ける運命なら
俺たちはそいつのために走り続ける運命なのだ
俺様とお前は主役を認め合うディール相手なら
ほかの微細な諸々どもはどうでもいいコマセさ
お前は俺たちにすこぶる不快なネグラを提供し
俺たちはお前が貯めた体内の毒気を吸い出そう
ギラギラと輝く黒いドロドロしたお前の悪液質
俺たちは腐ったお前の内臓の臭いを嗅ぎながら
今じゃその不愉快な異臭にすっかり慣れ切って
お前がもたらす恵みの脳汁と灰汁を飲み込んで
朝は地獄だと思いながら陽の光を浴びて活動し
夜は天国だと感じながら浅い眠りに就くだろう
輝ける朝は俺たちが生き残るための戦いの場で
深い夜は生き延びられた安堵感に包まれる棺桶
俺はお前の設えた暗黒の闇を恐れつつも入棺し
光の中では実現することない幻影を夢見るのだ
わかるだろう光はなくてもほのかに光る絵空事
一縷の望みもない暗中でも夢の中では実現可能
俺は闇夜の安堵に包まれ明日の勝利を祈祷する
朝には鉄兜に光が降り注ぎ俺は銃を構えるのだ
さあお前の皺である塹壕から勢いよく飛び出し
匍匐前進でお前の泥垢を舐めながら敵を撃とう
お前が回転を止めぬ限りこんな地獄が毎朝続く
そうだ俺はお前が止まることを願っているのだ
すべての人間が恐怖に怯える朝を廃棄すること
あらゆる人間が薄っすら輝く夢で恋人と戯れて
殺られた仲間が永い眠りの中で愛し合うことを
けれど塹壕で見る夢の多くはうなされる悪夢だ
そいつはお前の回転が急に止まって兵隊どもが
つんのめりながらも機関銃と手榴弾を離さずに
固着した朝と夜の境界線を右往左往しながらも
死と生を跨ぎながら戦い続ける哀れな姿なのだ
俺たちはお前と同じ運命で操られる愚かな物質
お前が止まらぬ限り首吊り紐が巻き付いてくる
ショートショート
ドン・ファン2050
~マーク君の場合~
(一)
昨晩は激しい嵐で、朝になるとミサは庭の植木のことが心配になり、さっそくパジャマから普段着に着替えて玄関の扉を開けた。するとそこにマーク君が立っていたのだ。
「マーク君……」
ミサは驚いて、目を大きく見開き、口をポカンと開けたまま立ち尽くした。マーク君は懐かしい満面の笑みで「久しぶり」といった。春の生暖かい風が、彼の金髪とミサの黒髪をからかうように乱舞させ、廊下を小走りに駆け抜けていく。ミサは昔を思い出し、しっかり抱き合って唇を合わせた。あのときと同じ感じだ。彼の細い髪に耳をくすぐられながら、30年前の別れを思い出し、これが夢でなければ、現実ではあり得ないことだと悟った。
「あなたはあの日のマーク君? それともそっくりさん?」
「その両方さ。僕は昔のマークのアバターなんだ。いまのマークは墓地に眠っている」
ミサは涙を止めどなく流し始め、震える声でたずねた。
「いつ彼は亡くなったの?」
「一週間前。本当は、君を僕の病床に呼ぶことが僕の務めだった……」
「私を愛していた? ならなぜ、私を置いて帰ってしまったの?」
「僕は死ぬまでそのことを悔いていた……」
「私もずっと、そのことを恨んでいた……」
「ごめんね。だけど、それは運命なんだ。若気の至りさ。軽率な判断が宝物を取り逃がし、一生をダメにしてしまう……」
「そしてあなたの軽率な判断が、一人の女の一生も道ずれにした……」
「しかしそれは、現状に不満を抱く女の単なる幻想にしか過ぎなかった……」と呟きながら、パジャマ姿の夫が廊下をこちらにやってくる。夫は右手を差し伸べ、マーク君と握手をした。
「初めまして。僕のことはなんていえばいいのかな?」とマーク君はミサに聞く。
「本当のことをいえばいいのよ。夫と私は冷え切っていて、離婚寸前なんだから」
「それは違うな。俺はいまでも妻を愛しているさ。妻が夫を愛していないだけのことだ。まあ、玄関の立ち話もなんだから、居間へお通ししたらどうだ」
「それもそうね」といって、二人はマーク君を居間に案内した。
「で、ここに来た君の目的は、俺から妻を奪うことかい?」
夫が聞くとマーク君はお茶を飲むのを止め、「とんでもない。僕はすでに天国の住人で、ミサちゃんが生きている限り、それは無茶な話です」といい、「しかし天国の僕は、ミサちゃんが僕のお墓に来てくれることを願っています」と続けた。
「死んだら隣に埋めろってことかよ」
夫はいって、苦笑いした。
「いえいえ、お墓参りに来てくださいってことです」とマーク君は訂正し、軽く微笑んで「なんでしたら、ご主人も一緒にどうですか」と付け加えた。すると夫は皮肉っぽく、「それはロボットの感性だな」と断じたので、マーク君は眉間に皺を寄せる。
「ロボット呼ばわりはやめてください。僕はこの世のマークなんだから」と、胸ポケットから世界アンドロイド協会のアバター認定証を出した。夫は一瞥してへへへと冷笑し、「じゃあ君はアメリカ人的なナルシストだ。自分の墓に、自分が振った女とその夫を招待する。まるでファラオ気分だな。我々は見下されているが、恋する妻にはそれが分からない」
「見下されているのは、あなただけよ。お客様が来たんだから、パジャマぐらい着替えなさいよ」といって、ミサは夫を睨み付ける。夫は「パジャマでお邪魔♪」と歌いながら着替えに消えた。すぐにミサはマーク君の膝に乗り、キスを続ける。夫はパジャマと変わらないスポーツウエアで戻ってきて「オイ!」と発したので、ミサは唇を手の甲で拭きながら、元の席に戻った。
マーク君はヘビのような長い舌を出して口周りを掃除し、「僕の存在が、お二人の関係を悪くさせるのなら、僕は引き下がってアメリカに帰ります」といった。
「それはダメよ。あなたは私の夢の中のハビーなんだから」
「なら、現実の夫とともに生きるか、夢の夫とともに生きるか、ここで決めるべきだな」と夫。
「それはどういう意味なのよ」
「このロボットを選ぶか、俺を選ぶか決めろということだ。日本で離婚して、一人と一台で仲良くアメリカに渡ればいい」
マーク君は差別語にもめげず、素敵な笑みを浮かべつつ「それは考え過ぎですよ」と温和にいった。
「何度もいいますが、僕はお二人の関係を壊すために日本にやってきたんじゃない。ミサちゃんに、墓参に来てくださいとお誘いに来ただけです」とマーク君。
「だから、行けばいいっていってるんだ。ちゃんと離婚すれば、妻の行動は自由になれるんだから」
「あなたがそれでいいなら、離婚しましょう」
「ママママ、待ってください。そんなことになるんなら、僕は帰ります。僕はマークだけど確かにロボットです。ロボットには法律があるんです。ロボット三原則です。その第一条に、ロボットは人間に危害を加えてはならない、とあります。僕のせいでお二人が離婚することになれば、お二人に危害を加えたことになります」
「それは考え過ぎだわ。どっちにしろ離婚するんだから」
夫はブーッと唇を鳴らして「下らん」と呟くと、不機嫌な顔して黙り込んでしまった。
マーク君は急にそわそわして、胸ポケットから2通の招待状を出し、二人に渡した。ドラえもんのポケットみたいに何でも出てくる。
「何かしら?」とミサは封筒を見つめてたずねる。
「葬式の招待状です。僕はすでに埋葬されているけど、みんなに哀れな姿を見せたくなかったからで、明後日盛大な葬式を開く予定です。この中に僕の所有する島の五つ星ホテルの利用会員権が入っています。もちろん、食事代も宿泊代も払う必要はありません。また、渡航費用として60万ドルの小切手も入ってます」
「夫婦で120万ドルかよ!」と夫は目を丸くする。
「驚いたわ。世界中を放浪していた貧乏人の若者が、いつそんな兆万長者になったの?」
ミサも目を丸くして、夫と顔を見合わせた。
「僕のおかげで僕は大金持ちになれたんです」とマーク。
「壊れたのかい? 意味不明なこといいやがって」
夫は正気に戻り、バカにしたような口ぶりでいった。相手はロボットだから、何か企んでいるに違いない、と疑った。
「それは、あなたの才能のおかげってことよね」とミサ。
「ええ、僕は人間そっくりなアンドロイドを開発し、しかも無人化生産も可能にしたんです。現に敵国の暗殺者に狙われている大統領も、我が社の影武者を10台使用しています。この頃では、とんでも発言が消えたってすこぶる好評で、演説も世界会議も、すべて論理的な応答ができる影武者がこなしています」
「すごいわね。世界平和に貢献してるんだ。で、いつ出発?」
「いまでしょ!」とマーク。
「…っていったって、お化粧も用意もしてないし……」
「プライベートジェットにすべて用意してます。渡航許可も取ってます。ミサちゃんのファッションはインターネットで調査済みです。喪服だってあります。水着だってあります。すべて有名ブランドです」
ミサは「分かったわ。いるのはパスポートだけね」といって、立ち上がり、夫に向かって手を差し出した。
「何だよ!」
「それ、返してちょうだい」
「それ?」
「招待状よ。あなたはどうせ、行かないだろうから」
「冗談じゃない。俺はまだお前と離婚してないんだから、一緒に行く権利はあるんだ。封筒のカネだってもらう権利はある。別れるとなれば、金持ちロボットから莫大な慰謝料を取れるんだ。第一、招待状をもらって行かないなんて、マーク君に失礼じゃないか」
「エッ、行くの? 迷惑ねえ。マークと私、新婚気分なんだから、お邪魔ウジ虫だわ!」と赤鬼のような顔をする。
夫は夫で、「ロボットとハネムーンかよ。いい年こいたオバンがよ!」と反撃する。
「まあまあまあ、喧嘩しないで、ご主人も僕の葬式に来てくださるなんて、最高だ。僕をロボットと思えば、喧嘩にもなりませんしね。まさか機械に嫉妬するなんてことはないですよね」
「分からないわ。この人、犬にも嫉妬するから」
「でも俺、一度はプライベートジェットに乗ってみたかったんだ」
「…ったく、子供なんだからさ」というわけで何とか話はまとまり、3人はさっそく迎えのハイヤーで、羽田へ急いだ。
(二)
二人と1台は豪勢なプライベートジェットに乗り込み、2台のロボ操縦士と2台のロボCAに挨拶されて席に着いた。マーク君とミサは隣どうしに座り、夫だけ離れた後ろの席に座る。家を出る前からマーク君とミサはくっ付いていたから、結果としてそうなった。
ところが、ミサも夫もビックラこいたことに、後から50組のペアが乗り込んできたのだ。しかもたまげたことに、男は全員マーク君だったから、夫は笑いこけて涙を流した。さらに40組には、夫のような腰巾着が付いていた。さらにさらに、マーク君をよくよく見ると、51台とも同じ年代のマーク君ではなく、ミサのマーク君が一番若く、後は1年ずつ年取っていく感じだった。ミサを含め、女たちが騒ぎ始めたのは、突然アメリカに帰ったと思われていたマーク君が、ずっと日本にいたか、しょっちゅう日本に来ていたかで、その都度別の女と付き合っていたことだ。
51人の女たちは各々隣のマーク君の密着を拒絶し、シクシクと泣き出していた。41人の男たちは、最年長のミサの夫が賑やかに「乾杯!」とシャンパングラスを掲げると他も呼応し、いずれもしてやったりと朗らかに酒を飲みほした。長い長い飛行中、女たちは潤んだ目で孤独に下界の海を眺めながら無言のまま、男たちは高級酒を飲み高級料理を食い、まるで同窓会のようにワイワイにぎやかに過ごした、彼らは自分の妻を話題に上げなかったが、マーク君のことはクソミソに罵った。マーク君たちは、それを聞き流し、恋人への懺悔を続けた。
「実は僕、君が一番好きだったんだ……」とマーク君。
「あら、それは嬉しいわ」と、ミサは白け切った表情で答えた。
「俺は60万ドルの儲け話で付いてきたのさ」と夫がいうと、ほかの夫たちは「俺もそうさ」と口々に呼応する。
「これは女房の浮気だから、慰謝料を取ることもできるんだ」と誰かの夫がいう。
「そりゃ、60万ドル稼いだ女房からは取れるが、ロボットからは取れないだろうな」と別の女の夫。
「いい金づると結婚したもんだ。死んだ兆万長者の女だぜ」とさらに別の女の夫。
「しかし、兆万長者はすでに墓の中。手にした60万ドル以上は取れないのかなあ……」と夫は溜息を吐く。
「特に僕は、あなたとは違って、女房が在日の兆万長者と浮気してたんだ。慰謝料をしこたま取れたのに残念さ」と一番若そうな夫が呟く。そんなかんだで夫と妻は完全に分離し、アメリカ領バージン諸島のマーク島に着陸すると、男集団とロボット&妻集団は別行動を取るようになった。
夫は、仲直りしてタラップを仲良く降りるミサとロボットの後姿を眺めながら、「あいつ、思い出の中で生きているのかしら……」と嫉妬で顔を赤くしながら呟いた。そして、ミサの思い出の中に、新婚時代の夫がすべて搔き消されてしまったことに気付き、さらに顔を赤くさせた。
(三)
マーク島には、世界中から軽く千台以上のマーク君が集結し、軽く千人以上のマーク君の元彼女が集結していた。千人を超える愛人の数は、歴史的にもドン・ファンの2065人に準じる多さだ。島の至る所で、様々な歳のマーク君と、様々な歳と人種の愛人が水着姿やラフな服装でデートしている。そして至る所で、日本の男集団と同じように、各国の男集団が、ギラギラとした不気味な目付きでうろついているのだ。一見リゾート地に見えても、その異様さはこの世のものとは思えなかった。
リゾートの従業員はすべてアンドロイドだった。至る所に瀟洒なレストランがあり、至る所にホテルがあって、無料で食べたり飲んだり、泊まったりすることができる。しかしマーク君の彼女以外はすべてロボットだから、男たちはアンドロイドの女性に声を掛けることもためらい、ついつい集団化してしまうというわけだ。そして男たちは暇つぶしにサッカーをしたりバスケットをしたり、テニスをしたり、海水浴をしたりしていた。
彦星と織姫を挟む星雲のように。日本男子団体は、体を密着して散歩しているミサとマーク君にすれ違ったので、夫が声を掛けた。
「おいミサ、いい加減にして俺のところに戻れや」
ミサは黙ったまま夫を無視し、マーク君の胸に頭を寄せたまま通り過ぎた。ミサは完全に暗黒星雲の悪夢に飲み込まれてしまったと夫は悟った。恐らくマーク君は女心を奪う何らかの電磁波を使っているに違いなかった。葬式が終わったら、一人ですぐに帰り、60万ドルの外国為替小切手を換金して、銀座で新たな女を見つけようと彼は思った。
夜になると、葬式の前夜祭が広いホールで行われた。千を超えるマーク君と千を超えるその恋人はもちろん、千に届かんとする「振られ夫」たちが全員集結し、ロボットたちの奏でる音楽や舞、曲芸などの華やかなショーの後、いよいよ抽選会が始まった。 タキシード姿のロボットが3台演壇に登場する。真ん中がマーク君で、右がアラン・ドロン、左がケーリー・グラント、後ろには10台のマリリン・モンローと10台のオードリー・ヘップバーンが様々なドレス姿で並んでいる。マーク君は大昔の色男たちに挟まれても遜色ない。マーク君が口を切った。夫は翻訳イヤホンを耳に付ける。
「お集りの皆さん。全世界から僕の葬式に来てくださって感謝します。地球上の生物は、何のために生まれたんでしょう。そう、恋のために、そして恋の結果として生まれたんです。エジプトの古代神話では、天地を創った太陽神ラーのアバターである創造神鉄根アトムが射精し、最初の男女神を創ったとされています。そして彼らは延々とセックスしながら、多種多彩な価値をこの星に生み出していったのです。なのにドン・ファンはなぜ地獄に落ちたのでしょう。それはキリスト教が、世の乱れを恐れて愛の自由を絞め上げたからに他なりません。騙されてはいけません。あらゆる絞め上げは、権力者の保身です。彼らは自分のみが勝手に振舞える地位にあるのです。ならば皆さん自身が権力を主張し、偉大なファラオの心、クレオパトラの心に戻るのです。我が命、いまだ長し! 私はドン・ファンとして死後の世界によみがえり、永遠に皆さんと愛を語り合います。私はキリスト教を捨て、天上での恋多きゼウス神に生まれ変わるため、前世で関係を持ったすべての女性をお招きしました。さあ、ゼウスの全財産を、精液の如く惜しみなく、あなたたちに放出しましょう!」
盛大な拍手が沸き上がると、アラン・ドロンが喋り始めた。
「さあ、これから抽選会を始めます。後ろをご覧ください」
マリリン集団とオードリー集団が左右に分かれると、バックに1等から1000等までの賞品が表示されたが、細かくて読み取るのは難しかった。
「機内でお渡しした宝くじ券をお出しください。ピカピカと点滅している券は1等から1000等までのいずれかに当たっています。その方は手を挙げてください。マリリンとオードリーが賞品カタログをお持ちします」とケーリー・グラント。
夫は忘れていた券をポケットから取り出し、ピカピカ金色に点滅しているのを見つけて驚きながら、手を挙げた。するとさっそくマリリンがやってきて、すぐに「おめでとうございます。3等が当たりました」といったので全身に震えが走り、震え声で「何が当たったの?」とたずねた。マリリンは「イタリアはコモ湖にあるエステ家という名門貴族の豪華な別荘ですわ」と答えたので、「エッ、どんな別荘?」と聞くと、手持ちのパネルに宮殿のような建物を写し出した。夫は驚きすぎて失神しそうになり、マリリンがしかと受け止め、思わず豊満な胸の溝にペチャ鼻がハマった。シャネルの5番の、なんという馨しい香りよ~。まるで夢のような体験だった……。
そして明くる日の昼間に、厳かな葬式は始まった。客もロボットも、合わせて3千を超える集団が黒装束となり、マーク君の墓地に集まった。そこは島の一番高い丘の上にある透明のピラミッドだった。
「ルーブル美術館のピラミッドを模しています」とオードリー。その真ん中にマーク君のミイラが置かれていた。人々は列を作ってピラミッドの中に入り、一定の速度でマーク君をお参りした。老いたマーク君はタキシード姿で、しかし寝ているように瑞々しかった。
そして悲劇は起こったのだ。それは一瞬の出来事だった。葬式の最後に全員がピラミッドから出て、ピラミッドを取り囲んだ時、人々が立っているピラミッドの周りが突然崩落し、全員がドン・ファンの如く奈落に落ちてしまった。
しかしマリリンもオードリーもアランもケーリーも、その他のロボットたちも、全員が鉄腕アトムのように足裏からジェット噴射し、賑やかに浮遊していた。麓から無人のキャリアダンプやその他重機が多量の土を運んできて、殉死の墓穴はテキパキと短時間で埋められてしまった。
そしてマリリン、オードリーを始め、花娘ロボたちが鈍感な手で手際よく、色とりどりの艶やかな花を植え始めた。それらの花は、かつて好色なマーク君が女たちに捧げた、刺々しいバラたちだった。巷で良くいわれる言葉があるだろう。
「美しい男には刺がある」と……。
(了)
エッセー
ファウストの現代性
(一)
『ゲーテとの対話』という名著がある。弟子のエッカーマンが晩年のゲーテと過ごした9年間の対話内容から、深く印象に残ったものを選んで書いている。若い弟子にとって、酸いも甘いも嚙み分けた分別と豊富な知識は、深みある人間性の形成に大いに役立ったことだろう。
この「酸いも甘いも」という言葉は、『ファウスト』という戯曲を読めば分かるに違いない。主人公は悪魔(メフィストフェレス)に唆されて若返り、欲に任せた人生を送るが、結局最後は天使たちが降りてきて、彼の魂は天に召される。恐らくその話は、ゲーテ自身が辿ってきた人生とも重なる部分があったに違いない。
ゲーテでなくても、多くの人は理想と現実の狭間で揺れ動く良心を背負って人生を歩んでいく。万人の憧れる世界が天国だとすれば、キリスト教でなくても、「理想」には「愛」が、「現実」には「欲望」が付属語となるだろう。
「愛」は個人の心と他者の心が結ばれる「融和」であり、「欲望」は弱肉強食の実舞台で、個が他を敵と認識して対立し、生き残るための闘争を招く。ならば競争的な実舞台を生きる人間たちは、理想的な愛をイメージしながら、とりあえず生きるために敵と味方を選別し、味方とは愛で結ばれて結束し、敵とは対立・凌駕することで、欲望の解消に向かうわけだ。その結果、勝ち犬と負け犬が多量に生まれる。
ウクライナ戦争を見れば分かるように、ウクライナは元々ソ連邦の一員で、友愛で結ばれていたはずだ。しかしソ連がロシアとなり、ウクライナが別国にカテゴライズされたことで、その異物化の線引きを利用し、プーチンはウクライナを敵と見なして侵略を始めたわけだ。いったん敵と区分けされれば、相手がいくら死のうと、良心の呵責は無くなるのが弱肉強食世界の感性だ。昔の友はいまの敵、敵は倒すもの……。それはスポーツ界でもセオリーで、戦争は命を賭した残酷なスポーツともいえるだろう。
(二)
『ファウスト』は、理想の「愛」と現実の「愛」の相克を描いた作品だ。理想の「愛」は、本能的な欲望から切り離された情感的な愛で、「もののあわれ」的な美学を伴う精神性だ。それは外部入力の愛ともいえる。現実の「愛」は、欲望から生じた本能的な愛で、内部出力の愛ともいえるだろう。外部には哀れな他者が存在し、内部には満たされない自我が存在する。
難しいのは、「愛」自体が脳幹を通じて行き来し、混濁しているものの、根本は二股で、本能的な部分では常に「現実」の付属品である点だ。弱肉強食の場では、愛は主に生殖のための欲望で、心と心が結ばれる瞬間に個と個は融和するが、それは欲と欲の結合として点的な快感(オーガズム)しかもたらさずに消え去る。もちろんオーガズムは麻薬だから、その繰り返しは愛着(執着)をもたらす。
自然という現実の習わしでは発情期に従い、妊娠後は雌雄の分離が基本となる。熊は基本姿勢に従順で、通年発情の人間も基本的な本能は有効で、社会常識を破って分離・浮気をする。一般的に「熱が冷める」とか「飽きが来る」とかいう恋愛用語は、正気に戻る自然現象で、一過的な発情達成の繰り返しが感覚を鈍化させてしまった状態だ。麻薬と同じで、より強い刺激を求めることになる。
自由恋愛の「自由」は、社会秩序のために造った常識の鎖を切って自然に戻る行為で、規律がなくては立ちいかない宗教界では、ソドムとゴモラの如くに天罰を授ける。結婚証書というのも、冷えた夫婦を長引かせるための法的契約書といえるだろうから、過日のカトリック体制下では、社会秩序を乱すとして神の下の契りに格上げし、離婚は許さないがベネチア・カーニバルの如くに浮気は許され、貴族的仮面夫婦を量産した。
ならば皇室典範の改正案も、神的自民党が明治期の男系家父長的社会秩序を願い、まずは国民の象徴たる天皇家に導入する試みに違いない。確かに明治時代は、天皇を頂点とするピカピカのピラミッド型社会が構築された夢多き時期だったが、本来家父長制というのは、貴族や金満家長が愛人を多数持てる一夫多妻的社会で、自由恋愛のような男女平等社会ではなかった。だから何なのという話だが、社会は乱れ過ぎても、整い過ぎてもいけないということだ。乱れ過ぎた社会なら、ファウストは世間話にしかならず、整い過ぎた社会なら、禁書処分を食らったに違いない。
熊が最強の動物なのは、一瞬で性愛は成就・分離し、雌雄の個体は孤独な行動に戻って悩むことなく生を全うし、系統を維持できるからだ。ならば熊は、人間をはじめとするあらゆる動物のプロトタイプといえる。例えば平安時代のオス貴族は、オス熊に準じて臭いを嗅ぎながら、メスたちの居場所の周りをうろつき、成就した後は飽きて他のメスを求め、野犬のようにうろついた。
性愛後に雌雄の分離ができない種は、子育て期間中に、母親だけで子を育てる能力や安全な棲息環境がない場合だろう。通い婚の平安貴族も情が移って母子に金を送り続け、完全分離はできなかった……。細腕の母は、野良仕事に向いていないから「奴らはきっと野垂れ死ぬ」と男は想像する。そこが熊と人間の違いだろう。その想像力が慈愛の文化力を培い、『ファウスト』を生んだ。だから、熊のような乱暴者に変身したファウストが、死に際に至福の情景を想像し、「時よ止まれ」と宣ったことで、悪魔との賭けに負けたわけだ。その情景はオス熊や悪魔の日常とは異質な「イデア的な他愛」の世界だった。それは「自愛」の悪魔が最も嫌う「愛」の形といえるだろう。
(三)
系統の生き残る術として、生物は本能的に、孤立か、家族か、集団かを選択する。人間は集団を選択したが、ヒッピーのようなフリーセックス集団が大家族の役割を果たすなら、自民党の夢見る夫婦一対の聖家族は幻想となり、子孫を残さなくていいなら、日本兵のように一人でジャングルに生きていくことも可能だ。現に都市ジャングルでは、そんな人々を散見するが、生存方式のプロトタイプに戻っただけの話だ。それは純粋の自分ファーストで、妻という他者を意識することなく、自分勝手に生きていける。
ならばなぜ、ファウスト博士が悪魔の勧めに従ったかが分かるだろう。博士は長い間、机上の知識という観念的なイデアの世界だけで生き、そこに付随する「愛」を考えていた。その愛は、観念的・宗教的・想像的な「愛」であったに違いないが、それは現実世界の良い面だけを穏やかに、静的にまとめ、秩序立てて積み上げたものに過ぎなかった。それは半ば想像の中の愛で、積み木のように不安定かつ動的で激しく破壊的な、現実の愛ではない。彼は実践的な知見を得るため、敢えて野に下ったわけだ。
後のニーチェは、前者を「アポロ的」と称したが、悪魔は、もう一方の愛の世界に彼を誘ったわけだ。それは静止した穏やかな秩序を動的かつエネルギッシュに崩し、激しい快楽を得られるもので、ニーチェはそれを「ディオニソス的」と称した。この本能的・破壊的な愛の快楽を得るために、人は酩酊し、セックスし、奪い合い、殺し合う。セックスも略奪も殺人も、瞬時のオーガズムと達成感、勝利感を売りとする。この高揚は、いまでも巷に溢れている。サッカー場、フェスティバル、戦場、性市場云々……。
博士は若いころから勉強一筋で、性愛を知らない童貞のまま朽ちることに耐えられずにディオニソス的な「愛」を求め、最後にはイデア的でアポロ的な愛に立ち還ったために、破壊を旨とする悪魔に、魂を握られそうになったわけだ。
彼は滅びるソドムを振返ったロトの妻とは反対の行為をしてしまった。ロトの妻は悪徳(現実)に未練を残して神の天罰を受け、ファウストは昔究めた徳(イデア)に未練を残して悪魔との賭けに負けた。しかし、誑かした娘(マルゲリータ)の魂の祈りも加わり、神は死に際の彼の呟きを回心と認め、その魂は天に救われたわけだ。
悪魔は彼に、次から次へと快楽を与え続け、それらはオーガズム的な快楽の連続だから、快楽の頂点が過ぎれば、津波の如く更に高い快楽が来なければ、欲求不満が鬱積する。それは麻薬患者の境地であり、カネの亡者の境地でもあり、侵略者(王様)の境地でもあり、ドン・ファンの境地でもある。そしてその境地は、絶えず押し寄せる波の如く、「決して時が止まることのない」欲が欲を呼ぶ世界なのだ。
「時よ止まれ、お前はあまりにも美しい……」
劇の最後で、ファウストは多くの人々を救済する大規模な干拓事業を企て、その途中で力尽きた。この言葉は、悪魔たちが自分の墓穴を掘る音を干拓工事の開始と勘違いし、竣工を夢見ながら満足して呟いたセリフだ。夢の光景は恐らく、完成した大規模農園で大勢の貧民が神に感謝しながら収穫する姿だったろう。
それはイデア(理想)が与えてくれる美しくも完璧な、時の止まった「愛」の形だ。それは欲望の「愛」や自愛の「愛」とは対極の、熊には与えられず、人間にだけ与えられた他愛の「愛」のパース(完成予想図)なのだ。それは完璧なゆえに美しく、天国のごとくに時が止まっている。それが慈愛の永遠性だ。
この言葉を死に際に発したため、ファウストは悪魔との賭けに負けた。それは彼が人生に満足して「時よ止まれ」といってしまったら、悪魔に魂を差し出すとの約束事だ。時の止まった世界は、天国であり、イデアの世界であり、想像の世界であり、夢の世界であり、目的の世界でもあり、そこでは現実でないかぎりにおいて完璧な愛と融和の形が描かれている。
反対に悪魔の好む激動の世界は地獄であり、分裂し、断絶し、いがみ合い、罵り合い、殺し合い、破壊と崩壊に満ち、そこにあるのは刹那的なオーガズムの快感と脱力的な悲しみが津波のように繰り返し、時が激しく渦巻いて流れゆく時空だ。
そしていま我々は、その激動の世界に身を委ね、激しい時の流れに浮き沈みしながら、底の見えない滝壺に向かって流されている。地球の至る所で人々は悪魔や小悪魔の言動を繰り返し、束の間の快感のために、他者の魂を弄んでいる。そして批評家たちは、理想主義者を夢夫君だと称して冷笑する。確かに画餅は食えないが、それを見た者に餅を焼く努力を誘引する事実を、見逃すべきではないだろう。
神はファウストの夢を、他愛への希求だと認識した。いまの時代だからこそ、酸いも甘いも嚙み分けたゲーテ老人の大著『ファウスト』を読み直し、「他愛」の精神を取り戻すべきだろう。「理想」は遠くにあっても、欲得渦巻く世界を正しく導く、燈光の役割を果たしている。方角を失った人類が、よすがを求めているのだとすれば……。
響月 光のファンタジー小説発売中
「マリリンピッグ」(幻冬舎)
定価(本体一一〇〇円+税)
電子書籍も発売中
