詩人の部屋 響月光

響月光の詩と小説を紹介します。

エッセー 「群盗の生態学 (習近平の思惑)」& 詩

エッセー
群盗の生態学
習近平の思惑)

 子供の頃、狼に育てられた野生児アマラとカマラの話が教科書にも載っていて、興味をそそられたことがある。最近では野生動物に育てられた子供の話は作り話だろうと言われているが、18世紀のフランスで発見されたアヴェロンの野生児はたった一人で森に生きていたらしく、けっこう本物臭い。けれど、いつ頃森に迷い込んだのかも分からなかったし、教えてもまったく喋れなかったので、その経緯も藪の中だ。幼少期に言葉を学べなかったため言語獲得の臨界期を過ぎてしまったか、知的障害があったかも知れないという。

 育児放棄で長い年月牢獄のような小部屋に閉じ込められていた子供も、しばしば見つかっているが、やはり言葉を獲得するのは難しく、ちゃんとした大人には育たなかったらしい。ちゃんとした大人がどんな大人なのかは僕自身にも分からないが、生まれた社会に順応して、他の大人たちとうまくやりながら生活していける大人という意味なのだろう。それならちゃんとしてない大人というのは、その社会の教育が失敗して、生来の性格を矯正できず、その社会に順応できない大人ということになる。まずは彼の周りに社会があり、それに適合するかしないかの問題で、社会あっての個人ということになる。そしてその社会は、いろんな義務を個人に押し付けてくる。

 アヴェロンの野生児が一人で森を彷徨っていたのなら、森の動物たちと何らかの交流があったかも知れないし、交流があれば森は彼にとってはある種の社会だった。発見されるまでは、彼は森社会に順応して生きていた。しかし発見者は彼を人間と確認し、人間社会という別の社会に連れ戻した、あるいは隔離したわけだ。アマラとカマラの話だって、それが真実だとすれば、彼女らも狼社会に順応して生きていたが、発見者によって無理やり人間社会に隔離されたわけだ。発見者は子供を助けたと思ったが、本人たちは捕獲されたと思ったに違いない。野山を駆け回る社会から、動物園のような社会に移されたのだから……。人間が人間社会に生きるのは当たり前の話だが、当人たちは狼社会に生きるのが当然と思っていただろう。社会というものを人間固有のものと考えるのは、大間違いということになる。

 アヴェロンの野生児は孤独な単独行動だったが、アマラとカマラは狼一家という群の中で暮らしていた。群を社会(共同体)と言い換えられるなら、家族は社会の最小単位ということになる。家族の構成メンバーはお互いに助け合って、メンバー全員が生き残るための努力をしなければならない。生き残るためには、二、三の家族どうしが合体して大きな群になり、効率よく子供を増やし、効率よく獲物を獲る必要も出てくる。その状況によっては、群はどんどん大きくなる場合もあるし、再び分裂して元に戻ることもあるだろう。時には分裂後に喧嘩を始めたりもするわけだ。これは狼や人間などの動物に限らず、バクテリアや植物も含めた地球上のあらゆる生物に当てはまる現象だ。

 あえて地球を丸い玉に譬えれば、地球生態系という薄皮には、人間の群としてのロシアやアメリカなどの大きな国家から数百人の集落、企業体、動物の群、植物の群生、ナノレベルの菌叢まで、人類を含めた多種多様な種の社会が蠢いていることになる。当然のこと、それらの社会は独自の個性や性格を持っている。人類が蟠る国家という群叢一つを取っても、中国のような社会も、ロシアのような社会も、アフガニスタンのような社会も、アメリカのような社会もある。そしてその中の構成員全員が、自分自身がより良く生きていくために活動し、子供や仲間を増やし、その地盤としての我が社会の発展に貢献している。これは、群を構成する個々人のより良く生きたいと思う心がエゴとなり、我が社会の発展を願う心が集合して国家のエゴになっていることを意味している。地球生態系が問題なのは、地球の表面積が小さく、群のエゴが絶えずぶつかり合って争い、負けた相手を糧として取り入れる「弱肉強食」や「共食い」のシステムが出来上っていることだろう。それが、狭小環境の均衡を保つ無情なシステムということになり、敗者には「従属」とか「滅亡」、勝者には「覇権」とか「支配」という言葉が当てはまることになる。御託をいくら並べようが、とどのつまりは「エゴ」なのだ。

 そう考えると、カルトの問題もウクライナ戦争も、一見別物に見えても、同じまな板に乗せることが可能になってくる。教祖がありがたい教えを説こうと、プーチンが正当性を主張しようと、基本は地球生態系の法則に則った覇権行動を実践していることになる。人類は地球史上最強の知恵を駆使して、動物界の王者として地球生態系の頂点に君臨し、自分たちのいいように他の動物たちの命を差配するまでに進化した。しかし、他の生命体を全て支配するには至らずに、コロナ禍で多くの仲間を失い、現在その敵であるウイルスをも支配しようと戦い続けている最中だ。動物界の王様である人間と、微生物界の王様であるコロナウイルスが覇権争いしているのが現状で、仮にコロナが勝利すれば、人類は滅亡の危機に瀕するというわけだ。それは人々が森林を伐採して、多くの動植物が滅亡の危機に瀕している状態と変わらなく、単に主客が逆転しているだけの話に過ぎない。当然だが、世界に点在する飢餓状態の人々も、負け組の集団として同じまな板に乗っていることになる。資本主義の世界では地球は大きなまな板で、彼らの生きる糧は遠くの誰かが食っているに違いないからだ。遠くの誰かのエゴにより、その遠くの誰かが食えずに死んでいくということだ。

 地球上のあらゆる生命体が、地球生態系の法則に則って活動しているのなら、動物の行動を支配する脳味噌も、その法則に則って思考し命令を下すということになる。極端に進化した人間の脳も、この法則から逃れることはできない。だから人間も、最初に自分の満足を考え、次に所属する群の満足を考え、その後に他集団の満足を考えるように脳機能もシステム化されている。いきなり他人や他集団の満足を考えてしまった場合は、「自己犠牲」という詩的で情緒的な妄想に侵されたことになり、結局これは地球生態系からの逸脱行為で、自らの死を招くことにもなりかねない。社会を救うための過剰奉仕も、人の目から見れば愚かな「自己犠牲」に見えるわけだ。世界だろうが地域社会だろうが、「共助」というのは自分の持ち物全てを差し出すことではない。

 現在の地球を支配しているのは人間とするなら、この支配者たちが地球資源の搾取を続けていて、その結果として地球生態系を壊し続けている。また、人間は未だに原始時代の群を単位として活動し、他の群を異種として見る傾向にあることも事実だ。だからロシア人はウクライナ人を同族と言いながら、本音の部分で異種と見なしているわけだ。差別には分かりやすいカテゴライズが必要で、その目印となるのが肌色や形体、それが同じなら言語や宗教なのだろう。言葉を喋れない野生児が人間として認められないのも、ロシア語を話さないウクライナ人が無差別に殺されるのも、言葉を基準に人が人を異種と見なしているからだ。プーチンによると、そもそも軍事介入の理由は、ロシア語を話すロシア系ウクライナ人を救うことにあったのだから……。またロシア国内で少数民族の徴兵が圧倒的に多く、当然戦死者が多いのも、数で勝るロシア民族が同じ国民である少数民族を異種と見なしている証拠になっている。

 つまり地球生態系のセオリー通り、大きな群が小さな群を飲み込んでいる状態がいまのロシアで、トカゲのように尻尾の部分から外様の兵隊を消耗させていくわけだ。外様がこれに反抗しても、明治維新のようになるためには、外様どうしの結託が必要になってくるだろう。当然ウクライナは、ロシアに飲み込まれれば外様となり、他の少数民族と同じ憂き目に遭うことを承知していて、多大な被害を被っても抵抗を止めない。

 これ以上ウクライナ人の犠牲者を出すのは忍びないから、早々に和平して占領された土地は諦めるべきだ、という意見があるが、それはその土地の住人がロシアの奴隷になることを意味している。仮に彼らが逃げても、自分の土地を捨てることになるわけだ。群というのは一つの細胞で、たとえ部分的な欠損が生じても「障害」として一生残り続ける。しかも、全体の構成員一人一人の心の障害として残り続けるのだ。それが地球生態系のメカニズムなら、部外者の軽率な意見ということになるだろう(他意が無い場合)。例えばスコットランドバスク地方の人々は、幾世紀にわたってアイデンティティの欠損部を埋める努力を強いられている。韓国は日本から独立したが、日本人に対する意識は未だに歪んでいる。それを日本人が理解できないとしたら、ウクライナの頑強かつ悲壮な抵抗も理解できないに違いない。

 総じて地球の資源は乏しく、その分散も均一でないため、生息する場所によって貧富の差が生じ、「弱肉強食」ムーブメントのエネルギー源となっている。いつの時代になっても貧富の差が解消されることはなく、それが地球生態系の頂点たる人間叢の根っこに活断層として隠れている。世界中で、いまに至るまでこの断層エネルギーを解消する手段は見つかっていない。特にロシアは軍事大国だが経済小国で、全土にわたって貧困という不満エネルギーが溜まっている。この手のエネルギーはどこに向かって飛んでくるかは分からない。プーチンは恐らく、それらが政権に向かないように、点在する不満エネルギーのベクトルをウクライナに集中させたに違いない。そしてそれは短期間で成し遂げて国民の称賛を受けるはずだったが、予想外の展開になってしまった。それまでこの戦争に賛成していた多くの国民も、動員令が出されると一転してプーチンに不満を持つようになってきた。所詮エゴを熱源とする群社会は、そんなものだと思うべきだろう。

 宗教も群となれば同じことだ。カルト宗教の場合は、カリスマ的な国家元首の代わりにカリスマ的な教祖(開祖)がいる。皇帝も大統領も首相も自国の栄華を目指すが、教祖は教団の栄華を目指す。国も教団も群であるからには拡大遺伝子を内在し、それは最終的に地球の支配を意味している。植民地の反乱が無かったら、いまでもイギリスは大英帝国だったろう。現在の民主主義陣営も権威主義陣営も、群であるからには地球の支配を目指している。

 クルクル替わる民主国家の首相とは違い、教祖は現人神だから細胞核のようなもので、それが居なくなれば分解し、生態としての機能は壊滅するか卑小化する。だから教祖が死んだ場合は、縁者などから新たな教祖が選ばれて霊媒となり、死んだ教祖との交信を始める。そして時間の経過とともに、天上の教祖を代弁する教祖として、盤石の地位を築いていく。

 どんな小さな宗教集団でも、教祖(リーダー)という核はある。そしてその宗教の性格は、教祖の性格を反映する。教祖の信仰のベクトルが信者個人個人の心の内に向かっていれば、その集団が肥大化するスピードは遅くなる。教祖のベクトルが地球生態系のセオリーに準じて外に向かえば、その集団は拡大する方向に進行することになる。もちろん、教祖の周りには指導部という取り巻き連中がいて、教祖は彼らの意見を聞きながら、教団の方針を最終決定する。内に向かうか外に向かうかは、その宗教はもちろん、教祖と取り巻き連中の性質にかかっている。当然のことだが、急進的に外に向かえば世間との軋轢が生じ、「ならず者国家」のレッテルを貼られたロシアと同じに、「カルト」というレッテルを貼られることになる。

 そう考えると、カルト宗教という群のメカニズムが、戦前のファシズム国家であった「日本社会」という群のメカニズムと同じであることに気付くだろう。異なるのは信者数だけで、結局一億総懺悔をする羽目になったわけだ。代々京都に蟄居させられてきた天皇が、明治維新で新政府の神輿に乗せられて東京に居を移し、現人神の地位にまで昇りつめた。それからの日本は「富国強兵」を旗印に、太平洋戦争まで突き進んでいく。天皇宣命が取り巻き連中の意向を反映したものであれ、国民はそれを天の言葉と受け取り、喜び勇んで出兵し、「天皇陛下万歳!」と叫んで死んでいった。戦争反対を唱えるキリスト教徒などはカルトと見なされ、弾圧された。領土拡大を目指す侵略国家の社会では、平和主義団体はカルトとなり、平和主義国家の社会では、極左・極右団体はカルトになる。その時代その時代の社会の色で、内在する小さな群は翻弄される。そしてそれを決めるのは社会の趨勢や時の権力者で、彼らの考えが時の常識となる。いまの日本人は背後の悪霊に恐怖を感じ、後ろを振り返ろうとしない。

 領土拡大が世の常識だった第二次世界大戦前は、いまのロシアがやっている行為は常識の範囲内にあった。それが非常識に感じる戦後の感性は、二つの世界大戦を経験して戦争の悲劇、植民地の悲劇を人々が共有し、平和主義体制という世界的なレジームチェンジが起こったことを示している。しかし忘れていけないのは、地球生態系における群の基本行動は「拡大」であることで、「平和主義」はイデアの範疇なのだ。イデアなら、人々は努力して築かなければならない。それが非常に難しいのは、現実に在する集団エゴがパワーで勝ることだし、異なる思想との軋轢が生じることだ。

 カルト宗教が夢見る「地上天国」もイデアで、きっと最終型は平和な世界に違いない。しかし現実的には、その工程で周囲との軋轢を生み、成し遂げたとしても、人間という種々雑多な感性の群を一つの主義の下で支配することになる。巷ではこれを「洗脳」ないし「マインドコントロール」と呼ぶ。支配するのは神の権力かも知れないが、その御意思を伝える教祖は神ではない。神は地球外の何者かで、教祖は地球生態系の中にいる群の権力者だ。豪奢な館に住み、豪奢なトイレで用を足し、意志半ばに豪奢なベッドで死んでいく。しかし目標に向かって励むほどに周囲と戦い続けなければならず、挙句は「カルト」のレッテルを貼られてしまう。過剰献金も「効率的な利他主義」から逸脱し、教祖の「効率的な利己主義」に貢献する。地上天国という恒久平和を実現するために、彼らはますます意固地になっていく。そのとき、ようやく人類は悪魔から解放されるという夢を見ながら……。

 哲学者のカール・ポパーは、プラトンが理想国家の君主とした「哲人王」をレーニンヒトラーに重ね合わせた。プラトンは知恵で世界を支配しようとした。レーニンマルクス主義で世界を支配しようとした。ヒトラー全体主義で世界を支配しようとした。主義主張が生まれれば、哲人主義でも資本主義でも社会主義でも新興宗教でも、賛同者が群となってアメーバのように吸収され膨れていく。縮小していく群は最後には消えてなくなる。縮小も拡大もしない群は、休戦しているか戸惑っているか、うぬぼれているかだ。きっとロシアもカルトも、縮小は分解・消滅を意味している。同じように、世界中の群がプラットフォーム化した資本主義も、拡大し続ける運命を背負っている。世界の国々が経済成長を遂げようと頑張り、折れ線グラフに一喜一憂し、国どうしがぶつかり合い、軋轢は高まって挙句に戦争となる。これは群盗割拠の世界だ。戦争の悲劇は体験した者にとどまり、世代が変われば忘れ去られる。歴史は繰り返さないと主張しても、歴史的トレンドは繰り返す(韻を踏む)。だから世界大戦の少し後に次の大戦がやってきたし、そして次なる大戦は?、ということになる。

 こうした資本主義中心の世界で、本来の共産主義に舵を切り始めたのが中国だ。習近平は先の第20回党大会で最高指導部を子分で固め、共産党憲法である「党規約」に、習主席の「核心」としての地位を守ることが党員の義務であると明記した。これにより一党独裁から一尊独裁に移行し、習近平は哲人王となって彼の理想に向けて哲人政治を推し進めることが可能になった。その理想というのは、貧富の差を無くす「共同富裕」の理念による「人類運命共同体」を目指した世界征服だ。世界に蔓延る資本主義的弊害としての「貧富の差」を解消することが習近平の夢だとすれば、それはマルクスレーニンが見た夢や、宗教指導者が見た「地上天国」の夢と重ね合わせることができるだろう。マルクスレーニン習近平も「共同富裕」の実現においては、教祖が神の下の平等を説く「地上天国」と同じことになる。地球資源が増大しない限りにおいて、「共同富裕」は富裕階級の犠牲を伴い、カルトの「地上天国」も信者の過剰献金による家族の犠牲を伴う。

 統制を強化して国内革命を進める習近平が、もし世界に習思想を広めようと考えるなら、古代ローマ帝国のように、まずは力と経済力によって国力を世界№1に押し上げ、地球規模で拡大する貧富の差をじっくり観察しながら、虎視眈々とその時を待つ。その時というのは貧富のバイアスが極限に達する世界革命の前夜だろうが、それまでにはあらゆる手を使って世界中から先進技術を吸収し、留学帰国組の頭脳人口を駆使して産業の内製化による経済安全保障を確立しなければならない。国内だけで繁栄できる自立型先進国家だ。そうなればアメリカなど資本主義先進国の制裁を撥ね付け、付き従う発展途上国も増えてくるだろう。寄らば大樹の陰というわけだ。

 革命前夜はマルクスレーニンが夢見た世界中の労働者が貧乏から脱却するための臨界点だが、同時多発的に起こるわけではない。中国の意図的な経済支援などに浸潤されつくした国々から、時間を置いて連鎖反応的に起こっていく現象だ。経済力と軍事力を巧みに使いながら、一つひとつの経済小国に習思想を浸透させていく。一帯一路構想の下、陸や海のシルクロードを伝って多くの発展途上国を取り込みながら、「共同富裕」を旗印に習的社会主義ユーラシア大陸からアフリカを含めたグローバルサウス(発展途上国群)、最終的に欧米を含めたグローバルノウス(先進国群)にまで拡散する。ならばこれは権威主義VS民主主義の戦いではなく、「貧」VS「富」の地球規模の階級闘争ということになる。習近平がどこまで夢見ているのかは知らないが、それはプラトンの国家論に匹敵する高邁な思想だろう。終点が「地上天国」であるからには、達成への道程には多くの犠牲者が生まれることになる。しかし信じる者にとって、それは必要悪だ。帝国主義者プーチンにとって、ウクライナ市民の死が必要悪であるように、共産主義者の習にとってチベットウイグル南モンゴルの弾圧も必要悪だ。

 マルクスはいずれ資本主義が自壊して、必然的に共産主義に移行すると思ったが、習近平は死ぬまでに筋道を付けようと焦っている。そうすれば、きっと後継者たちが資本主義を終らせて、地球上を格差のない地上天国にレジームチェンジしてくれるだろう。芭蕉じゃないけれど、夢は世界を駆け巡るというわけだ。それが彼の誇大妄想ではないとすれば、単に道筋を付けたいだけだろう。しかし大きな夢も小さな夢も、所詮夢には変わりない。

 なぜなら哲人王はイデア(夢)の世界の王様で、地上の王様は結局服を脱がされ、裸の王様になって終るのが地球生態系の習わしだからだ。地球上はモナド単位で蠢く雑多な群々の欲や夢が交錯するカオスで、その中に大きな手を突っ込んでも、四方からピラニアのような歯で噛みつかれるのがせいぜいだ。あらゆる生物は、一度味をしめた環境を手放すことに耐えられない。現に一帯一路構想からバルト三国は離脱し、富の再分配を恐れて中国国内の資産家たちが国外へ拠点を移し始め、株価は下がり、バブル崩壊も近いと囁かれている。将来的にも、女性一人当たりの出生率が1.3人じゃ、老人大国になるのは目に見えている。たとえプーチン後のロシアが社会主義に戻っても、あるいは発展途上国中国共産党傀儡政権が出来ても、オリガルヒや華僑を始めとする金持ちたちは逃げ出し、それらの国々はますます貧困化するだろう。アラブで民主化運動がすぐに崩壊したように、高邁な習近平思想はすぐに崩壊するに違いない。

 けれど資本主義の崩壊も、遠くはないと思えるのだ。世界に蔓延する貧富の差を解消出来なければの話だが、どっちが先かは分からない。いまの世界は、中国だろうがアメリカだろうが、権威主義国だろうが民主主義国だろうが、社会主義国だろうが資本主義国だろうが、「貧」VS「富」が問題であることは共通項になっている。AIが幅を利かせる第四次産業革命が佳境になれば、世界中でさらに多くの失業者が出るだろう。世界に蔓延る型落ちの資本主義を新しいメカニズムに脱皮させなければ、中国もアメリカも日本も欧州も、総崩れになることは目に見えている。持続可能な資本主義を実現するには、共通項である「貧」VS「富」問題をまず解決する必要がある。それには毛沢東習近平の「共同富裕」的コンセプトにも目を向け、ベーシックインカム的な施策を世界規模で行う必要も出てくるだろう。それを成功させるには、中国、ロシアを含めた世界的な共助精神が不可欠で、権威主義国家の場合は指導部、民主主義国家の場合は国民一人一人の理解ということになる。そして当然のこと、人類が喫緊に解決しなければならない問題は、「地球温暖化(環境汚染)」「核兵器」の他に、「貧困」も加えなければならないだろう。

 習近平の「共同富裕」は高邁な思想だが、実際はそれを利用した単なる大中華帝国への憧れかも知れない。それなら、アレキサンダー大王やチンギス・ハーンプーチン皇帝の夢とまったく変わらないことになる。その顛末は、これからの歴史に刻まれることになるだろう。人類史が存続している限りにおいて……。


節穴
(戦争レクイエムより)

いつか遠い昔
誰かに頬っぺたを叩かれたとき
目に火花が散って
網膜に小さな穴が開いた

それは用もない節穴だったが
覗いてみると万華鏡で
数知れぬ昔人たちが
数知れぬ昔人たちに
頬っぺたを叩かれていた 

若い女に叩かれた男がいた
親に叩かれた子供がいた
夫が妻に、妻が夫に叩かれていた
生徒が教師に、教師が生徒に
部下が上司に、兵隊が上官に
大臣が王様に叩かれていた
奴隷が主人に、蛮族がローマ兵に
町人が浪人に、落人が百姓に
皇帝が夷狄に叩かれていた 
愛国者愛国者を叩いている

男は頬っぺたを
誰かに叩かれたことを思い出した
地下の拷問室で
後ろ手に縛られ…

SOLDATO SCONOSCIUTO
_天国からの手紙_
(戦争レクイエムより)

セレネッラは清掃員だ
任されたのは無名戦士の墓
広い広い芝生の敷地に
石の墓標が並んでいるけれど
この一画には名前の代わりに
「知られざる兵士」と書かれている
彼女がここを任されたのは
他の仲間よりは静かだからさ

仲間の連中ときたら
名前がないのをいいことに
勝手に名前を命名して
語りかけたりする
やあジョバンナ、元気でいたかい?
ハイ、アントニオ、今朝は朝露を飲んだの?
カルロ、生きてたらきっとモテモテだったわよ
エットーレ、また夜中うろついたでしょ!

息子の骨を返してもらえなかった親が
「君は僕のマリオかい?」なんて花一輪置いてくのを
いつも近くで見ていたからなんだ
年取った親たちは
どこかに息子がいるって信じ
小さな奇跡を期待してるんだ
花束から一本ずつ抜いて
一つひとつの墓に置いていくのさ

だけど墓はいっぱいあるから
花束はすぐ無くなっちまう
そしたら、今度は次の墓から
始めるってわけだ
みんな、自分の息子が恋しいのさ
息子の骨だと信じたいのさ
この墓地に、息子がいると思いたいんだ
自分たちも、息子の隣に眠りたいからさ

セレネッラの仲間たちは赤の他人だから
萎れた花をいちいち片付けるのも面倒だし
皮肉半分に耳に入った名前を使っちまうんだな
好きだった誰かの名前かもしれないけどさ

でもセレネッラは仕事中も休憩中も
何も喋らずニコニコしているだけなんだ
けれど時たま箒の手を休めて
悲しそうな眼差しで墓を見つめ
暗い顔して深いため息をつくのさ
言葉にはならなかったけど
きっと仕事が辛いにきまっている
彼女はもうけっこうな歳なんだ

ある日、墓の一つに薄汚い紙が乗っかっていた
セレネッラはそれを摘まんで丸めようとしたけど
薄いインクで何か書かれているのに気付いたのさ
そして初めて大きな声を張り上げたんだ
「アンジェロ、貴方だったのね」
彼女はそれから、墓の前で泣き崩れたのさ
疲れてたんだ、良くあることさ
それとも、昔の彼氏でも見つけたのかな…

いままでの作品

https://note.com/poetapoesia/m/mb7b0f43d35b2

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エッセー「 マネとペルソナ」& 詩

エッセー
マネとペルソナ(仮面)

 物心がつく前のことだ。親に抱かれて母屋の玄関に飾ってあった花瓶のそばにいくと、必ず泣いたそうだ。まるでイソップ寓話の『狐と鶴の御馳走』にでも出てくるみたいな首長の陶器で、虫の這ったような草書漢字が書かれた骨董品だった。花が生けられることは一度もなく、目立つ場所に鎮座していて、一人で歩けるようになってからは泣くこともなくなったが、通り抜けるときは決して見ようとはしなかった。それを見ると、花瓶の中から化け物が出てくるような気がしたからだ。幼い僕にとっては恐怖の代物が玄関に飾られており、挿し口の中にはお化けの世界が広がっていると思っていた。

 近所の子供と遊ぶようになったときも、その子の家の客間に、薄気味の悪いお兄さんの絵が掛かっていた。背景のない場所で横笛を吹いているお兄さんは、見たこともない奇妙な帽子と服を身に着け、奇妙な顔つきでこちらを眺めていた。彼と目を合わせたとき、僕を見て薄笑いを浮かべているようにも思えた。僕は幼心に、花瓶といいお兄さんといい、大人は変なものを飾るものだと思った。そしてその奇妙な絵も花瓶とともに子供心に深く入り込んで、いまでも横笛を吹き続けている。まるで壺から鎌首を出そうと笛を吹く蛇使いのように……、

 『笛を吹く少年』が鼓笛隊の少年を描いたマネの作品だと知ったのは、趣味で絵を習い始めた中学生の頃だ。そのとき始めて、あれが「近代美術の父」とも称される有名な画家の絵コピーであることを知った。そして僕はマネに興味を持って、さっそく親にカラー版の画集を買ってもらった。しかし、そのとき夢中になっていたのはモネで、その後ほとんどマネの画集を開くことはなかった。

 マネに興味を持ったのは、大人になって大分経ってのことだ。彼はそれまでの遠近法に囚われた伝統絵画に反発し、浮世絵の技術を取り入れた平面的な作品を発表し、モネを始めとする印象派の先駆的存在になった。しかし印象派の画家と違うところは、光を求めて外で描くようなことはしなかった点と、作品に何かしらの物語性を持たせたということだ。モネのような印象的な風景やルノアールのような装飾的な美しさに物語は感じないが、マネの絵には物語がある。しかしそれは、古典主義が好むギリシア神話のような壮大な物語ではなく、キャンバスという二次元の表面に、ペルソナ(仮面)の内側に澱む心理を物語(メタファー)的に塗り込め、表現したという点だ。つまり、見ることができるのは人物像だが、その心や人生も同時に暗示されている、ということなのだ。

 『笛を吹く少年』は、ベラスケスの影響を受けて描かれたらしいが、モデルはちゃんと居ても、顔だけはマネの息子にしたという話だ。ならばこれは、愛する息子の肖像画でもあるということになり、そこにマネと息子の関係性という物語が生じる。彼はスペイン旅行でベラスケスやゴヤなどの作品に触れて心理描写を学び、それを作品に反映させた。マネは皮肉屋だったというが、マネが塗り込めた物語の多くは、その絵を鑑賞する普通の人々の暗部(内面)だった。例えば、有名な『フォリー・ベルジェールのバー』では、正面のウェイトレスは娼婦で、後ろの鏡に映る老紳士は値段を交渉しているのだという。当時のバーは、置屋としても機能していたようだ。裸の女たちと着衣の男たちを描いた『草上の昼食』はスキャンダルを起こしたが、当時の紳士は娼婦と野原で遊ぶことが流行っていたのだという。また『バルコニー』や『鉄道』は、近代の人間関係の中にある無関心や疎外感を表しているという話だ。

 マネの作品はセザンヌゴーギャンピカソに大きな影響を与えたが、その後の造形芸術の流れは、写実的な表現を失うことによって抽象化が進んでより難解になり、仮面の裏側に潜む喜劇的、悲劇的な心理を表出することが難しくなってきた。ピカソの抽象的な『ゲルニカ』と藤田嗣治のリアル過ぎる戦争画を比べても分かるように、抽象化された悲劇性は現実的なものから、よりイメージ的なもの、観念的なものへと昇華され、未だ原始に留まる人間の感性には直截的に響かなくなっている。代わりに、リアルな写真芸術がその役割を果たすことになったわけだが、そう考えるとマネは「近代美術の父」であるとともに「機微な心理表現における最後の写実主義者」ということになるわけだ。手法的には近代だが、コンセプトは常に人間の内面に目を向けていて、その志向性から言えばカラヴァッジョやルーベンス、ベラスケス、ゴヤなどの一連の流れの中の最後の一人だということになるだろう。

 我々は、恋愛にしても友愛にしても、仮面(外的側面)の中に隠された他人の心を相手にして、一生を終えなければならない宿命を背負っている。だから所有欲の強い人間は、相手の心を自分の心の中に取り込まないと安心ができない。しかしそんなことは不可能だから、嫉妬心に苛まれることになる。大恋愛の末に結婚しても、二人の愛は二人の本質どうしの愛ではなく、本質の上に覆われた仮面どうしの愛ということになる。自分は心底相手を愛していると思っていても、表面的にはそれに応えてくれる相手が、過去に振られた男(女)を未だに思い続けているかもしれないし、ひょっとしたら金銭的な目的があるものかもしれないわけだ。あるいは、親友だと思っていた相手が、戦争が始まるとたちまち敵味方になって殺し合うようなことも、連綿と繰り返されるわけだ。マネはそうした内面を背負った人々の仮面を、仮面と意識しながら描き続けてきた画家なのだ。

 ならばマネが描いた人々は、内部にいろいろな詰め物が入った人形のようなものだということになる。内容物は肉欲のような、物欲のような、貧困のような、軽蔑のような、無関心のような、悲喜劇のような、きっとその時代が覆い隠すガラクタが詰まっていたのだろうが、皮膚という薄皮で形を整え、サロンにもなんとか入選し、国の勲章も貰えたわけだ。しかしマネが「近代美術の父」ならば、その後の芸術家はマネに至るまで連綿と続いてきた人間の皮を破って、腹の中に手を突っ込んで内容物を引き出し始めたということになる。その内容物はさらけ出されて解剖台に並べられ、干物となって説明的機能を失い、ピカソキュビズムや後の抽象芸術に繋がっていった。

 『オランピア』の裸の皮膚は娼婦を表現しているが、微かにほほ笑む女の心の中は分からない。彼女はどんな精神で客と接するのだろう。そこにはどんな彼女の歴史が隠されているのだろう。そして客は……。娼婦と客という男女のペルソナ(仮面)が、腕を組んで街を歩く恋人たちと変わらない「愛」という粘着物質で繋がっているのなら、愛という代物は、より良い生き様を求める上で、自分自身が常に努力して高めなければならないものであることも分かってくる。それには愛する相手の欠点を許し、時には相手の過去を忘れることも必要になるだろう。

 スタンダールは『恋愛論』で、恋愛を皮肉交じりに塩の洞窟に放り込まれた枯れ枝に譬えた。枯れ枝は、一日もすれば美しい塩の結晶でたちまち覆われる。その結晶が融けるまでは二人の熱は冷めず、融けたとたんに冷めるというわけだ。ペルソナには塩の結晶が付いてキラキラと輝かせることはできるが、枯れ枝の材質は変わらない。しかしそれはスタンダールの考えで、僕はそれがどんな材質であるかは、人それぞれで異なると思っている。ただの雑木の枯れ枝かもしれないし、棘のあるカラタチの枯れ枝かもしれないし、香木の枯れ枝かもしれない。だから、人々は愛する相手の本質を、視覚だけでなく五感を通してCTスキャンのように感じ取ろうとする。きっと相手の心が香木なら、甘美な香りを発し続け、いつまでも愛し続けることができるに違いないし、その香りは周りの人々すら魅了するようなものかもしれない。

 ならば愛を長続きさせるには、あるいはずっと愛されるためには、自分の努力で自身の雑木を香木に変えるか、枯れ枝を生き生きとした枝に蘇らせるしか方法はないということになる。愛し愛されることは、そしてそれを永続させることは、努力して自分自身の外面を飾り立てることではなく、努力して自分自身の内面を変えることなのだ。そうした努力をしない人々が増えるほどに、スタンダールの恋愛哲学よろしく、愛は人々の表層に留まり続けるに違いない。

 


うざったい詩四つ
地球を見た日

僕は一度だけ 宇宙空間を漂ったことがある
強引な地球の引力から逃げようと思ったけれど
何度も助走に失敗し、ひどく疲れてしまった
大気圏外に出るための過剰なパワーには
勇気と決断が必要だった
しかし発想を変えれば 質量のないものに重力はかからない
まずは漬物石のような脳味噌を潰すことから始めればいい
僕は重苦しい殻から抜け出して 春の陽に照らされながら
湯気と一緒にのたりのたりと宇宙へのぼっていった

嗚呼 愚かしい宇宙飛行士たちに騙された
いのちに満ちた貴重な星だなんて…
地球は蒼かった 蒼ざめていた
強欲な地球がすべてを我がものにと呪縛をかけ
大気という透明糊でへばりつけられた生き物たちの吐血が
深海の赤魚のように地底で輝く 不気味に蒼く…
自由を奪われ 逃れようとぶつかり合い 殴り合い 傷つけ合い
すべて不自由なのに自由があると妄想し 
わがもの顔に歩き回れると虚勢を張って
止まらない靴で踊り続ける断末魔の舞踏
はびこらなければ滅びてしまう全員参加のオセロゲーム
生まれたときからひたすらにがむしゃらに…

小さな星にへばりついているだけなのですが 
非力な君たちの自由を奪うには十分だ
アインシュタインは地球から逃れる術は語らなかった
だが僕は人生で一度だけ逃れたことがあるのだ
ニュートンさんの忠告を無視して
首の骨をへし折ったときのことだ…

地球

皮の割れ目から血膿のように流れ出す溶岩
腐臭漂うジクジク熟れた湿地帯
最後の一滴も蒸発しちまうアポロン地獄
ひと吹きで希望の欠片を蹴散らすブリザード、さて…
貧乏くじを引き当てた猛獣どもが一か八かの大移動
小惑星のあちこちで、陣取り合戦が始まった
嗚呼貧乏星よ、下等生物たちよ
強い腕力とへこたれない足腰
さらには残忍冷酷な覇者の精神に
勝利の女神は微笑みかけるのだ
敗者を決して哀れんではならない
過去の辛酸を恨みの糧と変え
その髑髏杯で美酒に酔うがいい
お前は下等生物だからし
自分のことを考えれば事足りる
疑り深く死ぬまで気配を気にしながら
腫瘍の芽は早いうちにちょん切り
両手でしっかり利得を抱え込めばいい
嗚呼地球よ、下等生物たちよ、簡単なこと
この貧乏星では持てる者は絶対勝者で
持たざる者は絶対敗者なのだから

どくだみ

他人という奴らは
制御の出来ないアメーバのように
俺の周りをのた打ち回りながら
口から消化不良の黒液を吐き出し
進むべき道をぎざぎざに寸断して
俺を崖下に落とし込もうとするのだ
それは敵ではない、味方でもない
それは何かしら不気味な風体の
理解しがたい別の感性の生き物たちだ
あちら側の獣たちよ
お前たちは繁殖力旺盛で
どくだみのように花々を飲み込んでいく

地球社長

私はロボットである
昔は某自動車会社の社長をしていて
この手の危機回避はお手の物だ
抜擢したのは地球再生何とか機構のお偉方
私は高らかに宣言した
地球を再生するには大胆なリストラが必要だ
人間を三十パーセント削減する
大きな宇宙船に乗せて
地球から出て行ってもらう
江戸時代には所払いと言った
バブル崩壊後は首切りと言った
刑罰というよりは一種の罰ゲームだ
人生はモノポリゲームさ
勝ちがあれば負けもある、大富豪もいれば文無しもいる
さあ負け組諸君、次なる人生を夢見て出発だ!
人類の罪悪を背負って出て行くのだ
ババを引いちまったらお仕舞いさ、諦めろ
この世を支配するのは運だけなのだから
何、行き先が分からない? 甘ったれるな!
自分で探せばいい、人に頼るな!
運がよければどこかの星に着陸するだろう
命令するのは私で
実行するのは勝ち組だ
出される側は不平を言うが
追い出す側は黙々と仕事をこなす
みんなみんな、自分が可愛いのさ
人道主義者、夢想家は即負け組入りだ
私はロボットだから超功利主義者だ
そいつは神のように勝ち組から慕われるのだ
さあ勝ち組よ、土足で負け組を蹴落とせ!
ケツにしこたま泥を付けて送り出せ!
地球生命体の法則を負け組に教えてやるんだ
これが宇宙の掟であることを叩き込むのだ
私は負け組に手をかけてはいない
小指で弾いて居場所を無くしてやるのさ、っとどっこい
上意下達は小指ほど力を必要としない
太古からの決まりごとを語れば済む話
そよ風みたいな悪臭とともに、口汚く吹きかけるのだ
机上のほこりを払う常套手段さ、やんわりと効果的に…
地球上のほこりどもよ、君たちは宇宙塵となりたまえ
しかし、断じてしかし
私は人非人ではない、単なる人でなしのロボットだ
会社の社長さんとどこが違うというのかね?
社長さんも会社に従属するロボットなのだから…

 

 

 

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エッセー 「女性の地位向上が必要なわけ」& 詩

エッセー

女性の地位向上が必要なわけ

(親類であるボノボを考える)

 

 チンパンジーボノボは、同じ同族別種である我々サピエンスとネアンデルタール人の関係に譬えられることがある。もっともネアンデルタール人は絶滅してしまったので、比較研究を行うにしても骨や化石相手で、類人猿ほどクリアにはならない。最近ハーバード大などで、ネアンデルタール人をクローン技術で復活させようという話があるようだが、生まれてきたネアンデルタール人はサピエンス社会の中で差別は受けないのだろうかと心配になってくる。いずれにしても、まずはマンモスが先でしょということになる。それより、サピエンス人とネアンデルタール人が異種交雑していたという遺伝子研究の話は*、チンパンジーボノボが20万年以上前に同じことをしていたという話とともに興味深い。彼らはいったいどんな状況で愛を営んだのだろう……。*(スバンテ・ペーボ氏ノーベル賞Congratulation!)

 

 人類の祖先がチンパンジーの祖先と分岐したのは600万年前前後とされているが、ボノボはおよそ100万年前に、チンパンジーの一部が大干ばつで干上がったコンゴ川を渡って枝分かれした連中とされている。その後すぐに川は水を満たし、両者とも泳ぐのが苦手なことから、移動した連中と移動しなかった連中は互いに交わることなく、それぞれ独自進化を遂げたというわけだ。しかし遺伝子を調べると、大干ばつがその後もあって、一部で交雑したことも分かっている。どっちにしてもチンパンジーの男性は好戦的で、集団どうしの仲も悪いことから、積極的に行動したのは女性だろう。ボノボチンパンジーも父系社会で、女性は成長すると多くが他の群に移動するそうだから、間違って干上がった川を渡り、ボノボの群に嫁いだのかもしれない。同じようにボノボの女性も間違ってチンパンジーの群に嫁いだのかもしれないが、その場合は苦労したことだろう。そこは力が支配する男性優位社会で、群どうしはもちろん、集団内でも偶には殺し合いが行われ、子供すら殺される世界だ。チンパンジーの女性は男を立て、男に付き従って生活する。まるで戦前の日本社会だ。

 

 チンパンジーは基本、食い物を分け与えることはない。好物の肉などは偶に分配する場合もあるらしいが、力のある男から食うことになる。最初に家長が食べて、その後に妻や子供たちが質の落ちた食事をした戦前の日本社会のようだ。性生活は乱交だが、まずは目上の男が楽しみ、下っ端は隙を狙ってこっそり楽しむ。だから力のない者はいつもオドオドし、力のある者は地位を奪われるものかと空威張りし、互いに戦々恐々と緊張関係が持続する。

 

 一方で、ボノボは男が女を立てる女性優位社会で、男女ともに多少の序列はあっても緩やかだ。集団どうしが遭遇したときも、まずは女性どうしが仲良くなり、友好の印に乱交パーティなども行われる。男たちは基本社交嫌いだが、女性を慮って緊張関係はさほどなく、殺し合いをすることもない。集団内でも乱交だが女性の取り合いはなく、女性優位で大らかに楽しんでいる。食い物だって人に乞われれば誰にでも気軽に分け与え、見返りを求めることもない。しかし肉などの御馳走を手にした場合は、独り占めするケースもあるらしい。もちろん、力ずくでそれを奪う者はいない。彼らは集団外でも集団内でも、なあなあなあと協調しながら生きていく。

 

 ボノボチンパンジーから分かれてコンゴ川で分断されたため、遺伝子的に小型化し、「平和猿」という独自の進化も遂げたわけだけれど、大陸から島に移動した動物が小型化するのと同じように、閉鎖的な生息環境に因るところが大きい。同じ熱帯雨林でも、彼らの生息域は、チンパンジーの生息域よりも果物や木の実が豊富で、大移動する必要もなかった。まるでアダムとイブがいたエデンの園のような場所なわけで、チンパンジーエデンの東に住んでいたため、仲間や集団どうしの確執が連綿と続いてきたわけだ。 

 

 元は一緒だったのに、一方は「喧嘩猿」、一方は「平和猿」になったというこの差は、一つは食糧環境の違いが原因だったかもしれないし、もう一つは「男性優位社会」か「女性優位社会」かによるものだったかもしれない。個人や種の生存を決定する要因をふるいにかければ、「食い物」と「セックス」が残るだろう。この二つに対する欲望に関しては、すべての生き物は満たされなければ剣呑になり、満たされれば静穏になる。ボノボはこの二つの要因がずっと満たされ続けたから、腕力の出る幕が無くなって男は後ろに引っ込み、女が前に出るようになって、それが遺伝子的な変化をももたらした。チンパンジーの場合は、食糧不足の年もあったりして争いが起こり、男の出番が増えて位階秩序もでき、それがセックスにも波及した。

 

 よくチンパンジーボノボ)と人間のDNAは約99%一致するという話を聞くが、バナナと人間は60%も一致するらしいから、驚くほどのことでもない。しかし僕は単純にこの数字を捉え、チンパンジーボノボも人間の親戚だと仮定し、話を進めたいのだ。きっとこの残り1%の中に二足歩行が可能な体型の違いや脳味噌の違い、寿命の違いなどの設計図が含まれているだろうが、チンパンジー的な闘争本能やボノボ的な友愛本能が含まれていないことも確かだろう。人間はチンパンジーと同じように喧嘩をし、ボノボと同じように友愛の情を持っていて、その程度もそれほどの差異はないと思えるからだ。けれど人間の場合は、時と場合によってそれらを使い分ける。生息地域は広域に及ぶものだから環境も様々で、苛酷な環境下では個人間、集団間の喧嘩が絶えず、女性も食糧を獲得する腕力のある男を頼りにする。反対に、豊かな環境では友好的な平和が醸成され、女性も男を頼りにすることなく自立していける。

 

 砂漠の民は劣悪な環境の中で、水がないから砂で手を洗い、保湿のため乾燥した肌に肉汁を付けたりもした。ゆとりがあれば4人の妻をめとることができるのも、マホメットの時代はそれだけ生活が厳しかったからで、女性が生活に困らないようイスラムの生活規範であるコーランに反映されただけの話だ。いまにいたるまでその環境が変わらない国もあれば、近年になって石油が吹き出し、大金持ちになった国もある。しかしそうした金満国でも女性蔑視が続いている現実は、マホメットの目にどう映るだろうか。女性の地位向上は西洋の近代思想だと一蹴されれば、そこで思考停止に陥ってしまう。あらゆる宗教の原典は、その時代の状況を反映して書かれたものなので、全てを頑なに守ろうとする原理主義は理解できないところだ。それらが法律として機能するのなら、法律は時代時代の状況によって改めなければならないのだから……。

 

 興味深いのは、旧約聖書にもイブがアダムの肋骨から生まれた(誤訳だったという異論もある)と書かれている点で、乾燥地帯という苛酷な環境下で作られた聖典は、ボノボ的にはなり得なかったのだと思っている。いずれにしても、人類は二足歩行の弊害として脳味噌が巨大化し、ある種の妄想を抱くようになり、「食い物」と「セックス」を満たせば満足するようなつましい営みの枠からはみ出してしまった。このため、連綿と陣取り合戦を繰り返すようになり、その状況は現在のウクライナ戦争にも繋がっているわけだ。人々はそこそこの環境下にも関わらず、妄想(想像)に浸って物足りなさを感じ、飢えを意識し、エデンを夢見、怯え、闘争的になっていく。仲間内ではボノボ的でも、異集団に対してはチンパンジー的な敵対感情をむき出しにする。自分を愛していない異性を愛しているものと思い違うのも、自分の物でもない物を自分の物と思い違うのも、同じ類の妄想には違いない。そうした妄想が、得られないものを自ら創ろうという創造と、得られないものを自ら奪おうという暴力に繋がり、人類は文明を進化させてきたと同時に、破壊を繰り返してきたというわけだ。

 

 ところで、「食い物」と「セックス」という生存の二大要因が、「愛」と「憎しみ」という二大感情に深く結びついているのは確かだ。食い物を分かち合えば愛が育まれ、食い物を奪い合えば憎しみが生まれる。同じくセックスを分かち合えば友愛が育まれ、セックスを奪い合えば憎しみが生まれる。この単純な法則がボノボチンパンジーの差異化に貢献した。動物の感情は表が「愛」で裏が「憎しみ」のコインのようなものだ。この二つの感情で両者の社会は根本的に成り立っているが、チンパンジーは「憎しみ」に軸足を置き、ボノボは「愛」に軸足を置いている。

 

 人間の場合も二つの感情が行動原理となり、「愛」は性愛や家族愛、集団愛や郷土愛、祖国愛や地球愛に広がっていく。一方「憎しみは」夫婦喧嘩や家庭内トラブル、グループ闘争や地域紛争、国家間の戦争に広がっていく。しかしコインの裏側の「憎しみ」は、元々愛から派生したものだ。愛の原初は「自愛」であり、それが阻害されることで「憎しみ」が生じる。自分の「自愛」と人の「自愛」がぶつかり合えば、そこから「憎しみ」の火花が出る仕組みになっている。ならばボノボの協調精神は、どこから生まれたものだろう。

 

 ボノボは長い間エデンの園に生活していて、「食い物」と「セックス」の分配行動を遺伝子レベルで確立されてしまったに違いない。だから将来的に環境が激変して、食糧が不足するようになっても、昔のチンパンジーには戻れず、分配を止めることなく仲良く滅び去るかもしれない。食や性に関わる執着心は、生存に関わる執着心に比例する。きっと彼らが原初的な本能に立ち帰り、生きなければいけないと自覚したときには、すでに他人から物を奪う体力は残っていないだろう。しかしチンパンジーと人間が同じような状況に陥った場合は、最初から奪い合いが激しくなり、平気で相手を殺すようになって強い者だけが生き残ることになる。(当然のことだが、人間には他人に食い物を与え、自らを滅ぼすような変わり種は存在する。それは自己犠牲という高次の精神があるからで、遺伝的なものではない)

 

 ボノボに関してはポエム的な希望的憶測かもしれないが、僕は女性優位社会で男の闘争意欲が懐柔され、地球という弱肉強食の世界から解脱できた唯一の親戚だと思いたいのだ。それは解脱ではなく、きっと逸脱だろう。弱肉強食が基本セオリーの地球で、そうした遺伝子変化は絶滅を意味するからだ。けれど女性独自の母子愛が、ボノボ的社会の中では大きく花開くのではないかと思えるのだ。自分の腹から子供を出し、乳を与え、自立できるまで守り抜く関係は、男には理解できない深い愛情の絆で結ばれている。母親が子供に注ぐ愛情に比べれば、父親の愛情なんか屁のようなものだろう。この女性独特の愛情が女性優位のボノボ社会の中に浸透しているから、集団どうしが遭遇しても喧嘩にならないのに違いない。

 

 ウクライナ戦争でも、ウクライナもロシアも徴兵される兵隊はほぼ男だ。動物界では多くのオスに闘争の役割が与えられているように、人間のオスには戦士としての役割が与えられている。いまのロシアを見ても分かるように、大統領から大臣、将兵にいたるまで、ほぼ男で占められている。一方で、平和を願う人々の多くが女性で占められている。例えば「母の会」は、兵役中に人権侵害を受けた徴集兵の権利を守ることを目的にした団体で、息子の安否を気遣う多くの母親から問い合わせが殺到している。権威主義国のロシアでも、母の愛を無視することはできないはずだ。それは反戦運動の核となり得る可能性があるからだ。

 

 この母子愛の次に威力を発揮するものは、男と女の愛だろう。古代ギリシアの詩人アリストファネスの作品に、「女の平和」という喜劇がある(紀元前411年上演)。ちょうどペロポネソス戦争で、アテネが破滅の道をたどろうとしているときに書かれた作品だ。夫や息子の長期にわたる出征に耐えかねた敵味方の女性陣が一堂に会し、男たちが戦争を止めるまでセックスを拒否することを決めて実行に移す。いろいろすったもんだはあったが、結局この戦術が功を奏し、背に腹は代えられぬと男たちが戦争を止める粗筋だ。セックスの拒否を通して、「愛」が「憎しみ」に勝利したというわけである。人間には発情期がなく、いつでもセックス可能だが、ボノボには発情期はあっても疑似発情期というものもあり、男を引き寄せ続けてコントロールし、女性優位状態を保ち続けられる。そしてそれが、平和を持続させてくれる。反対にチンパンジーには疑似発情期がないから、発情した女性を巡っての喧嘩が始まる。

 

 そうしたボノボ社会のからくりを知らなかった時代に、本能的にそれを感じ取って始まったのが、1960年代にアメリカで起こったヒッピー運動だろう。ちょうどアメリカはベトナム戦争の最中で、多くの若者がベトナムに送られて戦死していた時期だ。彼らは競争的な社会体制や常識的、宗教的な価値観からの離脱を目指し、平和・平等の原始的共同生活を開始する。彼らは異性を巡るトラブルを回避するために、ボノボ的なフリーセックス状態を基本とし、子供たちも共同で育てることにした。男女の髪形や服装もユニセックスにして、男女平等を謳った。この社会で育まれる「愛」は、個人的ではない集団的な愛で、それは地衣類のように地平線に広がっていく可能性を秘めていた。

 

 1960年代後半にはベトナム戦争と徴兵制に反対し、戦争虐殺反対のスローガンを掲げるなどして抗議デモも行い、反戦運動を展開した。1969年に行われたジョンとヨーコのパフォーマンス『ベッドイン』は、こうしたヒッピーたちの活動に触発されたもので、「戦争は終わる、もしあなたがそれを望めば」というメッセージとともに、男と女の愛が世界平和の礎になる可能性を示唆した。ヒッピーたちの運動は、後の反核運動エコロジー運動にも繋がっていった。

 

 ヒッピーたちは、宗教的既成概念から逸脱した自由恋愛が、人々を社会の根本的な確執や摩擦から解放し、それが世界平和に繋がっていく道だと信じていた。もしシェークスピアボノボだったら、嫉妬で妻を殺した『オセロ』のような芝居は書かなかっただろう。オセロが狂ったのは、妻が自分の持ち物だという所有概念が強過ぎたからだ。それは敵国の金品を略奪し続けてきた将軍には当然のことだったろうし、いまでも自由のない国の常識はそうかもしれない。自由主義における自由の根本には、愛する相手の意思の解放が不可欠ということになるだろう。そのことが分かっている男(女)は、よくこんなことを言う。

「私の妻は大きな私の心の中で泳いでいる。たとえ遠いどこかで居心地の良い岸辺を見つけても、最後には飽きて私の元に戻ってくるのさ」

 

 愛する相手を解放することができれば、所有することどもの全てを解放することは容易になる。もし男女不平等の国が存在すれば、その国の男たちは未だに女たちを所有していることになるわけだ。そうした国は、機会さえあれば、隣国に土足で踏み入れて蹂躙し、併合しようとする国に違いない。だからして女性の地位向上は、世界平和を実現するためにもやり遂げなければならない喫緊の課題だと思っている。

 

 

 

 

 

愛の宅配便

 

小指の先よりちっちゃい花が

ひとり寂しく咲いている

臭く醜い小虫らが

春になったら憧れる

見たこともない透いた海色

しっとり濡れたしとねを

ピンと思い切り開いて

雌しべは首を長くして

朝一番のお客をお待ちする

 

冷たい暗い眠たい土の中で

ちっちゃな殻籠に入れられて

まどろむ薄い光の中に現れた

素敵な姿の青いあいつ

 

膨れた胸をときめかせ

思い切り背伸びで殻を破り

土の上に出たけれど

やって来たのは

全身黒づくめの毛むくじゃら

臭い油でテカテカの

はねが自慢のちっこい奴

 

チャラチャラ羽音を立てながら

きざに口先尖らせて

雌しべの先に突っ込むと

粋な口笛でチューチューと

手作り甘汁をすっかり平らげ

足のこわ毛を逆立てながら

見当違いの花粉を擦り付け

手みやげにお供え物を一掴み

盗人みたいにいそいそと

大げさな音でホバリング

急ぎの者で御免なすって

 

ちょっと私の青むくのしとねに

土足で踏み込んだおじさんはどなた

おいらは愛の宅配便さ

さてこの黄金色した宝物

どちらのお宅に届けましょう

 

小さなお花はニッコリと

私の夢の中のあの人へ

きっと届けてくださいな

青空にそよぐ 

たぶん逢えない

青い瞳の子たちのために…

 

 

 

 

 

星の片割れは

不気味な暗闇に包まれた

此処に生きる獣たちは

闇を嫌う者どもと

それを愛する者どもだ

嫌う奴らは狩人で

逃げおおせた獲物を悔しがり

愛する奴らは獲物たちで

見られる不幸を恐れている

人は奴らの血を受け継ぎ

一寸先の闇を恐怖しても

眩しい陽の光を嫌うのだ

 

焼き付いたフィルムを見るように

すっかり退化した五感が

まっさらな闇色の中で戸惑い

トカゲに帰って徘徊する

けれど瞳をなくした漆黒は

腹の中にいたいにしえの

安堵の寝息を想い出し

あの幸せを蘇らせる

 

きっとだから

死を恐れる奴もいれば

願う奴らもいるのだろう

 

 

 

 

噴火

 

気球が浮かなかった昔の話だ

空を汚す者どもは

大小の鳥たちに限られ

海を汚す者どもは

大小の魚たちに限られた

 

けれど地球は定期的にデトックスを行い

地の底の有害ミネラルを吹き上げて

むくの青色を汚れ色に変えるのだ

分かるだろう

あいつの耐え難い腹痛を

あいつはその醜さを知ったあの日

すこぶる青色のツーピースを

身に纏うことにしたのだ

そしてそれは朝と夕に

輝く黄昏色に染め抜かれた

 

これほど清楚な衣装を纏いながら

臓物を守るために毒を吐き出す

そしてそれが続く間は

電光の稲妻が走り

自虐的な罵声の中で

汚泥の嵐が一張羅をたちまち汚す

 

悠久の昔から

この星は病み続けてきた

まるでそれは

死屍累々とした亡者どもの

琥珀色した涙のようだ…

エッセー 「肥満は進化である!」& 詩

エッセー
「肥満」は進化である!

(適応進化の非学問的考察)

 巨大隕石が落ちて恐竜とともに絶滅した海洋生物に、アンモナイトがいる。時代によって形は異なるものの、幾何学的に美しい螺旋構造(対数螺旋)がダ・ヴィンチやガウディなどの芸術にも影響を与えた。しかし一部は螺旋から逸脱したグロテスクな形に進化し、絶滅する後期白亜紀には北太平洋地域で繁栄する。専門家に言わせると、それは末期的な退化ではなく、泳ぎ回る生活を止めて海底生活を選んだ連中が、餌を獲る口を常時上に向けるために取った適応進化だという。適応進化は、生き物の特質が周囲の環境に対応して変化していく現象だ。それぞれが体のバランスを最優先に、いろんな方向に殻を成長させたから螺旋が崩れて不統一になったが、絶滅しなければ徐々に再統一化していき、結果として海底属の標準スタイルができ上がっただろう。きっと美しさは断念してイソギンチャクみたいな姿になり、足をゴカイのように揺らせて小さな魚たちをおびき寄せたに違いない。

 適応進化なら、アンモナイトに限らず世の動物すべてに当てはまる。しかし我々が美しいと思う動物は、魚にしろ獣にしろ、どれもスピード感に満ちている。二足歩行の人間は太古から獲物を獲り逃がしてきたから、逃げ足の速い連中に憧れを抱いただろう。だから海底のカレイやヒラメは、美味いとは思っても美しいとは思わず、水の抵抗を抑えた流線形の回遊魚を美的と思う。魚も鳥も、海や空を自由に舞う連中は美しい。獣の場合も、空気抵抗を抑えたチータやガゼルは、無駄な脂肪や筋肉がなくて美しい。彼らが太れば、たちまちスピードが落ちて死んでしまう。反対にライオンは、獲物を押さえつける必要があるから力士タイプの躯体になり、その分鈍足で餌の獲得率は低くなった。彼らは逞しくても、美しいとは言えないだろう。

 人間は樹上から地上に降り、新しい環境に適応すべく進化してきた。北方で進化してきた連中はそれなりに脂肪を蓄える必要があったから、南方で進化してきた連中よりも鈍足だったに違いない。しかし毛皮を纏うだけの知恵があり、アザラシみたいな体型になる必要もなく、適度の鈍足に留まった。いずれにせよ、チータは体の小ささをカバーするため、ライオンは鈍足をカバーするため、人間はその両方をカバーするため、集団で狩りをしてきたというわけだが、人間だけが槍などの飛び道具を使用できた。

 これは、人間の脳みそが二足歩行のバランス的な助けを借りて肥大化し、四つ足歩行の法則からズレた適応進化を始めたことを意味する。それは結果的に文明を創り、中でも最大のエポックは農耕の開始だったに違いない。彼らは自らの文明で環境を変え、その中で脳も体も進化するようになった。自分が創った環境に適応しながら、自らの形態を変えてきたということだ。その代表的なものに「肥満」がある。農耕によって狩りを放棄した一群は、野山を走り回る必要もなくなり、主食である穀物澱粉の取り過ぎで余分な脂肪を蓄えるようになった。そしてそれは遺伝的な体質にもなった。

 「肥満」という言葉は農耕民族から発せられたものだろうが、これは退化ではなく適応進化の一つなのだ。例えば「鎌状赤血球」は貧血を起こす病気だが、マラリアに感染しにくいことから、かつて流行した地域ではそんな血を持つ人々が一部存在する。これも適応進化だ。肥満の場合、耕作で食糧が豊富になり人口も増えたけれど、最大の脅威は不作で、時たま飢饉が起きて餓死者を出した。しかし脂肪を蓄えた連中は筋肉だけの連中よりも生き残る確率は高かったに違いない。だからそれは体質として代々受け継がれ、水を飲んでも、空気を吸っても太る一族が出現することになる、……ということは「肥満」は農耕社会においては退化現象ではなく、適応進化ということになる。それは来るべき飢饉に備えた体内貯蔵システムなのだ。人間は自らが創造した環境に適応して進化していく。ならば、その環境に適応できずに滅亡すれば、きっとそれは自業自得だ。

 昔、アフリカのどこかで飢饉が起こったとき、ニュースでカソリック系救済団体の司祭と子供たちの集合写真を見たことがある。司祭は超太っていて、子供たちは超ガリガリに痩せていた。僕はその強烈な対比に唖然としたが、飢餓地域における「肥満」は明らかに生き残るための進化形を暗示していた。飽食の国からやってきた司祭と、極貧国の子供たち……。そしてその国の政治家や金持ちたちも痩せてはいなかった。確かに、食糧が豊富な土地では肥満は万病の元で、進化とは言えないだろう。しかし食糧が乏しい土地では、栄養摂取率の高い人間は適応進化型と言える。あるいは一部の金持ちは、自分たちが創り上げた社会環境の中にどっぷり浸かって肥満を維持することができるのだから、それも適応進化と言えるだろう。

 そのように考えれば、ジャガイモ太りの北の人々は、来るべき燃料不足の冬に備えた適応進化と言えるかもしれない。彼らは、飢餓にも寒さにも抵抗力を発揮するに違いない。しかし、話は肥満に留まらない。「農耕」とくれば、次は「産業革命」だ。これ以降、人類は多種多様な機械を生み出し、その機械が生み出した社会環境に自分を合わせる形で適応進化を続けてきたのだから……。つまり天変地異で機械システム(現代システム)が崩壊すれば、多くの人々が祖先帰りできず、本来の抵抗力を発揮できずに死んでいくことになるだろう。

 人間は「適応進化」で脳みそを著しく進化させてきた。ならば、スマホ漬けの子供たちの大脳皮質が薄くなる「スマホ脳」現象はどうだろうか。これを退化と思う人もいるだろうが、僕はきっとこれもIT環境やAI環境の発展に伴った適応進化であって、単純に脳の退化とは断言できないと思っている。元来人間の脳みそは、鈍足かつ虚弱な生き物である自分たちが、厳しい狩猟環境を克服するために適応進化させてきたものだ。そのルーツが獲物の獲得である以上、戦いの遺伝子や異なる群れどうしの敵対遺伝子は連綿と引継がれていき、たとえ農耕社会から派生した穏やかな遺伝子が混じり合ったとしても、基本的な柱が変わることはない。だから、多くの若者たちが熱中・興奮するゲームは、未だにバトル、バトル、バトルの連続だ。

 人間は、これからますますAI環境の中で進化するのだから、昔は自分でやっていた仕事をAIにアウトソーシングして、空いた時間を漫画でも見て楽しく過ごせば良い。周りの環境が人間にとって楽になればなるほど、考えることも苦悩することも少なくなり、それで大脳皮質が薄くなっても、それは外部環境に乗じた人間の「適応進化」で片付けられる。これからAI技術がますます進化して、いずれはシンギュラリティを迎えても、すべての仕事をAI任せにすれば済むわけで、全人類がローマ貴族のように楽しく暮らせばいい。

 仮にAIに支配されていると思っても、適応進化した人間の脳味噌がAIから支配権を取り戻すことはまず不可能で、ならばAIを信じて、その御意思に従い、その慈悲にすがる以外にないだろう。大国が小国を侵略・支配して、大国の王様や貴族が大きな宮殿を造るよりか、AIに支配されるほうがよっぽどマシに思える。少なくともAIは、占領下の人民を搾取して、宮殿や宴会場やハーレムを造ることはないだろう。彼らにはそんな薄っぺらな欲望はありえないと信じよう。それは、薄っぺらな大脳皮質の発火現象に過ぎないのだから……。日本の歴史を振り返れば明らかなように、平安貴族が武士の支配下に置かれても、天皇は象徴として生き残ってきた。きっとAIの支配下でも人間は象徴として生き残り、蹴鞠やゴルフ三昧で楽しく過ごすに違いない。

 もちろん、周囲の環境に対応することが「適応進化」なのだから、対応する必要のない機能はどんどん退化していく。セグウェイのような乗り物が常識になれば、足腰の筋肉は必要がなくなり、退化する。しかし、便利な乗り物を環境の変化ととらえれば、足腰の衰えも「適応進化」の範疇に入れて無視すればいい。健康志向ブームが続く昨今はそんな考えに否定的な人も多いだろうから、ランニングでもして頑なに抵抗すればいい。子供たちの大脳皮質が薄くなろうが、足腰の筋肉が衰えようが、そんなものはAIやセグウェイで十分カバーできるだろう。人間がおバカになっても、闘争本能や戦争本能は連綿と続いているのだから、視点を変えれば昔から大して進化していないとも言える。ひょっとしたら、全然進化していないかもしれない。ならば中途半端な大脳皮質など、悩みの元になるだけだ。

 それよりも、いま考えなければならないことは、恐竜もアンモナイトも隕石の襲来で絶滅した事実なのだ。絶滅前のアンモナイトは、仲間や捕食者との戦いに負けた一部が、海底に生きる場を見出して美形を捨て、グロテスクに進化した。農耕民族は餌の乏しい狩猟に疲れ、澱粉で胃袋を満たす道を選び肥満化した。現代の若者はスマホに熱中して、余分な大脳皮質を軽量化させ、その後の文化を直情型に変えていく。これらの適応進化は外部から地球にやって来た劇的な環境の変化でたやすく消滅するが、いま問題化しているのはそんなことではない。人間が自ら創造してきた環境に、人間自身が適応できなくなってきていることなのだ。

 人間はその誕生以来、自らが地球の環境を変えながらそれに適応進化し、繁栄の歴史を築き上げてきた。しかし、そのどん詰まりに、「温暖化」という自業自得の壁が立ちふさがっている。当然、適応進化でこれを乗り越えることは不可能だろう。人間は利便性を追求するあまり、あまりにも地球環境を変え過ぎてしまったため、後戻りもできずに立往生している状態だ。この状況から脱する方法は二つしかない。薄っぺらな大脳皮質を駆使し、さらなる産業革命で環境を転換するか、あるいは、肉を切らせて骨を断つ気概で退化を開始し、多くの利便性を放棄してがむしゃらに歴史を後退させるか……。

 しかし、きっともう一つの方法が残されている。2045年のシンギュラリティまで何とか我慢すれば、あとはAIの「おまかせ定食」に期待できるかもしれない。AIに支配されても恐れることはない。すでに我々人類はその支配下にあることを知らないだけなのだから……。ならば、すべての責任をAIに押し付ければいい。たとえ残酷な未来が待ち構えていようが、人類がトリアージされようが悲しむことはない。現に我々は毎日のように、残忍な兵隊とAI殺戮隊によるバトル映像を見ながら、ウンザリしているではないか……。人間のいままでやらかしてきたことと、これからAIがやらかすことに大きな差があるわけではない。我々の残忍性は破壊による快楽を伴うが、AIの残忍性は淡々粛々と実行されるだけの違いだろうから……。

 けれど問題は、2045年まで人類は持ちこたえることができるかだ。そこで僕は提言したい。いまから医者のアドバイスを無視して、太る穀物をどんどん食べて肥満遺伝子を醸成し、一族を肥満体質に仕立て上げましょう。これから「温暖化」が加速すれば、地球上で飢餓が蔓延ることは明々白々だ。備えあれば憂いなし。水を飲んでも太る体質さえ創り上げれば、AI救援隊が来るまで、なんとか持ちこたえることができるでしょう。きっと……(希望的観測ですが)。

 



妄想

妄想はやせ細った終末の防寒服さ
塩の洞窟に投げ込まれた枯れ枝
リアス式の心の襞に、嘘っぱちの水晶がへばり付き
それなりに凍てつく風をかわしてくれる
こいつ、死に損ないの老いぼれ
いつからそんなチープな結晶を纏ったのさ
キ奴に守られていると思っちゃいけない
抱え込んで必死に孵そうとしているのか?
老眼鏡で、じっくり透かして見てみろよ
蟻んこの涙や化石になった玉虫の夢色
ムダだね 朽ちたわが子を背負い続けるお猿さん
もうとっくにガラクタ、生き返りはしない
いつの時代のおまま事でしたか…

風車に突進するなんて危ないよ
笑い者もいいところだ
狭い歩幅でゆっくり百八十度回転し
ひとまず夢のまたその先に背を向けて
たまには歩いてきた道を振り返ろうぜ
見渡す限りにおいては
きっとどこまでもどこまでも茨の道
嗚呼道が見えないなら、それがきっと思い出さ
お前の過去は妄想からも消えちまった
何の足跡もありゃしない、だからといって
きっと未来だって見ちゃいけない代物さ
使い慣れした夢の糞袋が山積みだ
夢を糞みたいに出し続けた糞ったれ野郎!

 

戦争

動物たちが仲間と固まり、異種を恐れるように
人間たちも仲間と固まり、異種を恐れている
動物たちが内輪でつるみ、異種を排斥するように
人間たちも内輪でつるみ、異種を排斥している
動物たちが集団で自分の餌場を守るように
人間たちも集団で自分の土地を守っている
いま起こっていることは、動物たちの戦争だ

 

核爆弾

潰れちまった家族は夢の一部だったに過ぎない
吹っ飛んじまった戦友は運が悪かったに過ぎない
逝っちまった恋人は単なる感傷の産物だろう
紙が燃えるようにすべてが灰となり
たった一つ残ったのは案山子のようなお前の身と心
引き潮のように呆然と、怒れる復讐を待っている
嗚呼、お前は人よりも前に無垢な動物であることを…
破れた皮膚から中身を引っ張り出すがいい
そいつはボロボロの布切れに過ぎないが
有史以前からの怨念が染み付く長い長いDNAだ
無数のハエたちが吐き出す反吐にまみれた
耐え難い臭いを放つ惨劇の歴史…
そしてそれが地球規模で始まったとき
怒れる人々は雲散霧消し
歴史は繰り返さなくなるだろう

 

 

 

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エッセー「 『ファウスト』とカルト」 & 詩

エッセー
ファウスト』とカルト

 ゲーテの戯曲『ファウスト』の中に、「時よ止まれ、お前は美しい」という有名な台詞がある。ファウスト博士は、色々な学問に精通した博識の学者だが、老齢になっても究明し切れなかった謎が多くあったことなどに失望し、虚脱感に苛まれている。そこにサタンが現われ、若い体を授けてやるから、もういっぺん人生をやり直したらどうかと誘いをかける。彼はその甘言に乗って、サタンと血の契約を交わすが、その内容はもし自分が「時よ止まれ、お前は美しい」と口にしてしまったら、死後の魂はサタンのものになるというもの。若い頃から学究一筋の博士はいままでそんな経験もなく、そんな言葉を自分が発するとは思わなかったから、軽い気持ちで契約してしまったのだ。

 若返ったファウストは禁欲的な学者人生とは正反対の、欲望に身を任せた不道徳きわまりない波乱万丈の人生を歩むことになるが、結局最後に得られたものは失明と後悔の念で、サタンの部下が彼の墓穴を掘る音を、幾百万もの民のために始めた開拓工事の音と勘違いし、万民に尽くせることへの喜びから「時よ止まれ、お前は美しい」と呟いてしまう。サタンは嬉々として彼の魂を地獄に持ち去ろうとするが、天使集団が現われて魂は天上に召される。

 「時よ止まれ、お前は美しい」という言葉を別の言葉に置き替えると、「至福の時よ、永久に」になるだろうか。サタンはファウストの死に際に、「どんな快楽も幸福も彼を満足させない。こうして、彼は変化する姿を求め続ける」と皮肉る。つまり至福の時を線グラフで表すと尖ったピークとなり、普通は直ぐに下がってしまって長続きはしないということだ。

 ファウストは、至福の時を求めて人生をやり直したが、それらは一見至福のようで、すぐに急落し後悔となる苦いものだったから、契約の言葉を発せずに済んできた。しかし本当の至福は第二の人生の死に際に訪れ、しかもそいつは勘違いの極みだった、……ということでゲーテは「至福の時」に否定的だったかというと、そうではないだろう。結果としてファウストは天上に召されたのだから。第二の人生では過ちを多く犯したが、最終的に人に尽くすことが自分の求めていたことだと悟り、民衆の救済を実現させて人生最上の時を迎えたと錯覚し「時よ止まれ、お前は美しい」と呟いた。実行に移しもしないのに、神にはそれが懺悔と回心に映り、それまで犯してきた諸々の悪行をチャラにし、救済したというわけだ。甘い神様だが、これは親鸞の教えにも通ずるゲーテの信念だったに違いない。

 ファウスト博士は第二の人生で、欲望のおもむくままに年若い娘を誑かして子供を産ませたり、淫らな魔女たちの祭典に参加したり、美人人妻のへレナを生き返らせて妻にしたり、領土開拓に伴い住人を殺したりと散々悪行を繰り返すが、それらはすべてサタンの手を借りて自身の欲望を実現させたものだった。しかし、死ぬ間際に至った「人々が幸せに暮らせる国を造る」(地上天国)という願いは、サタンには理解不能な「他愛の精神」を礎にしたものだった。神はファウストがサタンから離脱できたものと理解したわけだ。

 レンブラントに『放蕩息子の帰還』という絵があるが、これは新約聖書のルカの福音書を題材にしている。自らの意思で家を出て放蕩三昧の生活を送り、最後には一文無しになった息子が父を頼って帰宅し、後悔の念を述べようとすると、すでに父親は何事もなかったかのように快く迎え入れたという話だが、これも『ファウスト』の結末と同じくキリスト的な「神の憐れみ深さ」を示しているものだろう。『ファウスト』の結末で主人公を救ったのは神の慈愛だったが、『放蕩息子の帰還』でうらぶれた息子を救ったのは父親の慈愛だった。しかし、ファウストが生活に苦しむ民衆への「慈愛」を示さなかったなら、神はファウストを救わなかっただろう。つまり、ファウストは死に際の錯覚で、放蕩息子は父親の温かい腕に抱かれて「慈愛」を相互共有し、神、あるいは父親と強く結ばれたというわけだ。

 『ファウスト』には三種類の欲望が描かれている。「自愛」と「慈愛(他愛)」と「アイデンティティ」だ。人間の行動を促しているのは「そうしたい」という欲望で、それは自分だけが満足するためのものと、人を満足させて自分も満足するもの、「自分が何か」を知るためのものに分かれている。第二の人生を得て放蕩三昧の生活を送るファウストは、「自愛」を満足させるためにがむしゃらに行動する。その目的は異性への愛だとか、性的快感だとか、富だとか、領地だとか、権力だとかで、これらを得るためには他者との戦いや不埒な行為が必要となり、心身ともに傷つく他者が量産されることになる。戦争などで無法と化すと強姦などの犠牲者が出るのも、強い者の自愛的行為を誰も抑えることができなくなるからで、ファウストはサタンの力を借りてそれを実行したというわけだ。

 社会秩序が維持されている場合、こうした欲望は社会のルールに従って処理されていく。自愛を満足させる欲望の多くは、お金で得ることができるだろう。そしてそのお金は、正当に得るものであれば誰も傷つくことはない。しかし富は富を産むという仕組みが社会システムの中に内蔵されているから、貧富の差の拡大という社会の歪みが生まれることになる。結果として、社会システムの不備から生ずる社会の歪みに、多くの貧民が苦しむことになる。

 こうした完璧でない社会の中で、「自分は何者なのか」とか「自分は何をしなければならないのか」「何のために生きているのか」などと、自己同一性の確立に悩んでいる若者も少なからずいるに違いない。しかし、ファウスト博士自身も、二度の人生を通してアイデンティティの確立に至らなかった人物だろう。『ファウスト』は、老博士の自分探しの旅をテーマにした作品なのだ。彼は最後の最後で「時よ止まれ、お前は美しい」と呟き、アイデンティティの確立に満足しながら天に召されていった、たとえそれが勘違いだったとしても……。このように、人生にとって「アイデンティティ」という言葉は難題だし、難解だ。若者に限らず、多くの人間は一生涯「何のために生きているのか」を心の片隅に置きながら、死んでいくのが普通だ。

 一方サタンは悪徳一筋の堕天使だから、「時よ止まれ、お前は美しい」という台詞を放ったファウストを、ようやく悪の権化になれたと糠喜びし、その魂を地獄へ持ち運ぼうとする。しかしファウストは、万民のための開拓事業を進めることにアイデンティティを見出し、勘違いにしろ「慈愛」の境地に辿り着いて、天国に旅立つことができた。

 多くの若者は、学生時代に自己の存在証明を見出そうと暗中模索している。その中には、「自愛」を満足させるために、まずは金持になろうと努力を始める者もいるだろうし、ボランティアなどで「慈愛」の精神を育もうと努力を始める者もいるだろうし、子供の頃からの夢を叶えようと努力する者もいるだろう。青年期においては「金持」も「人助け」も、「医者」も「弁護士」も「企業家」も、目的がはっきりしている場合はアイデンティティの確立も比較的簡単だ。挫折がない限り、あるいは挫折するまで、その目的に向かって努力すればいい。また、アイデンティティのことなど考えることもなく、軽く生きていける若者も多い。

 しかし、学生や挫折した勤め人の中に、アイデンティティの確立ができずに苦悩し、無気力状態に陥っている人たちも少なからず存在する。彼らが求めているのは、ガッツリした目的だ。医科大学の受験生が持つだろう、「医師」のようなハッキリと分かる目的。しかし、そんな目的は見出せないし、空ろな眼に映る社会はひどく歪んでいる、とすれば、こうした若者たちに忍び寄るのがメフィストフェレスのようなサタンかもしれない。この悪魔たちはメフィストフェレスとは異なり、ファウストが死に際に夢見た「地上天国」というガッツリした計画を担いでやってくるが、それはファウストの錯覚と同じくとりとめもない代物だ。

 世界中に多くの宗教団体があるけれど、その多くは「地上天国」的な目的を掲げている。その構成員が熱心に布教活動を行うのも、自分たちの宗教によって地球を白一色に染め上げる最終目的があるからだ。しかし「地上天国」という目標は、あるかないかも分からない空の上の天国を地上に移設するようなもので、絵に描いた餅のような構想だ。15世紀から始まったヨーロッパの「大航海時代」に便乗して、キリスト教はザビエルのような宣教師を未開地にまで派遣し、地球を白一色に染め上げようとしたが、途中で挫折した。しかし多くの国で国教となり、国単位では「地上天国」を実現したかのように思えたが、多種多様な「自愛」の欲望が「慈愛の」精神を凌駕して不正が蔓延り、とても天国とは言えない代物になった。これはイスラム教国でも同じことだろう。今日日に至って、男たちには天国でも女たちには地獄のような国も多い。

 ホッブスは国家を旧約聖書の「リヴァイアサン」という怪物に喩え、神の次に強い存在だとしたが、キリスト教団体もイスラム教団体も、国家を抜いて「リヴァイアサン」の地位に鎮座した歴史がある。海に住む龍のような怪物で、冷酷無情に敵や獲物を飲み込んでいく。ホッブスの時代には、国家にとって領土拡大は当たり前のことだったから、怪物のように牙を剝いて隣国や弱小国を占領し、そいつを糧にして固太りしていった。しかもその欲望は、現代でも連綿と続いている。

 キリスト教も国家と利害が一致し、タッグを組んで世界中に遠征し固太りする。しかし民主主義が旺盛な時代になると、巨大な宗教も派閥に分裂し、「信教の自由」の下に数多くの新宗教が生まれ、それらの多くが「地上天国」をお題目に活動を開始する。かつての大型怪物は、いまはアメーバのように巷で蠢いている。小さいなりに画餅の額を見上げ、世界中を白くするために地道に従者を取り込んで、少しでも大きくなろうと頑張っている。布教活動は「地上天国」を掲げる宗教団体にとって、アメーバがエサを取り込むことと同じ性と言えるだろう。常時泳いでいないと生きていけないのはマグロだが、この手の宗教団体も、信者を獲得し続けないと生きていけない。アメーバ状態をリヴァイアサン状態に発展させなければ、「地上天国」の夢に近付くことは不可能だからだ。

 しかし、地球を白一色に染める活動は、オセロゲームのようなものだろう。オセロ盤の上で、各宗教は白い石を増やそうとしのぎを削る。けれど白い石の裏側は黒い石で、それは隠された暗闇だ。「地上天国」は白く輝いているが、その裏には黒い部分がある。天上の天国は知らないが、少なくとも下界の天国はマネーが深く関わる世界で、マネーには暗闇が付き物だからだ。地上に天国を創るには、形なりにもリヴァイアサンの威容をアピールする必要がある。そして教祖は紙の王冠を被ろうが、格(ステージ)を誇示するためにバチカンのような立派なシンボルを造ろうと考える。「人間はシンボルを操る動物である」(カッシーラ)のなら、王様にも教祖にも多くの人々を圧倒する威厳が必要で、それを分かりやすく示せるのは巨大建造物というシンボルだ。そしてその元手は信者の献金か、信者の稼ぎということになる。

 こうした宗教で、どれがカルトでどれがカルトでないかを区別するのは難しい。反社会的な宗教集団といっても、カルトの教祖も信徒もサタンであることはまずないだろう。教祖も信徒もそれが正しいと思って活動しているのなら、ファウストのようにサタンに操られているということだ。「サタンに気を付けろ」と説教する教祖がサタンに操られているとは笑止千万だが、教祖が詐欺師でなければ「地上天国」という共同幻想に向かって、教祖も信徒も確信犯的に突き進んでいくことになる。教祖の説教内容も、勧誘時の悩み事相談も、多額の献金悪徳商法も、資金集めとしてルーチン化しているに違いない。「地上天国」という最終目的の実現には金が必要で、法外な献金悪徳商法も容認される。そのことで多くの部外者が被害を被っても、地上天国が創られた暁には、すべて浄罪されることになるのだから、というよりも、それらは大目的達成のための必要悪なのだ。その大目的は「地上天国」の創造で、資金繰りの道筋に散在する犠牲者たちは生贄の羊というわけである。

 ファウストが夢見た「地上天国」は、自身が正当に得た資金で成されるものではなく、サタンの力で得た不正の金を原資にしている。それでも神はファウストの魂を救済した。人の理想が神にとって正しいものである限り、その手段はどうあれ、神は救ってくれるというわけだ、というより人々が常に理想を抱き続けなければ、社会は変わらないとゲーテは考えたのだろう。

 フランス革命によって民主主義が芽生えたように、ロシア革命によって格差是正の精神が培われたように、理想を旗印とした破壊的なレジームチェンジによって既成概念が覆され、新しいものが生まれることも事実だ。国家にも、企業にも、宗教団体にも、目指すべき理想はあるだろう。そしてその理想は、サタンが描く理想であるべくもない。しかし少なくともいまの日本では、外国からの侵略はあっても革命はありえないのだから、法的な検討は政治に任せるとして、宗教団体には「公共の福祉」なり「コモンセンス」なりを意識した良識ある活動を遵守してほしいものだ。それを逸脱した団体がカルトと呼ばれ、非難されるのだから……。

 

 


コンフィーネ(境界線)

線の向こうに異次元の世界がある
線の向こうにお前が生きている
私はお前を理解しようと努力した
微かな摩擦が異物どうしを溶接するように
すり合わせることから未来は始まるはずだ
しかしお前が息づく空気には
私を窒息させる不快な毒が満ちていた
そうだこの境界線は卵のような球面を成し
その中に私は閉じ込められていたのだ
そいつを破ってお前の懐に飛び込んでも
生きられるのはせいぜい半年くらいだ
なんとなれば
お前は繁茂する一族の末裔で
私は締め出された一族の末裔だから
お前たちの吐息が蔓延して大気を成し
青息吐息の私たちを分散させたのだ
私は孤独の中で微笑むばかりのお前を夢見る
異次元を生きるお前を忘れて……

 

真球の星

君の妄想と俺の幻想がぶつかり合う
彼女の勝手と彼の打算が擦れ合う
一人の熱望と一人の渇望が殴り合う
あいつらの虚無と奴らの狂信が取っ組み合う
艶やかな肌がささくれ
美しい街並みが破壊され
大地は穴だらけになり
海は油にまみれ
蒼い星が不都合に回転し始める
落ち着け、静まれ、穏やかになれ
死んだ者のように口を開くな
ひたすら心の中に問いかけろ
いったい俺たちはどこに棲息している?
そこにいる星が死に行くなら
新しい星は心の中にあるはずだ
それは幻でも誰もが願っている
誰にも平等な豊饒の星に違いない
試しに胸にナイフを刺して肋骨をカチ割り
心臓を引き裂きドクドクと血を流し
真珠貝から高価な真珠を取り出すように
育んできた理想の星を取り出してごらん
完璧な真球 逆境がしがみ付くくすみすらない
そして君たちは後悔し、息絶え絶えに呟くだろう
「同じだった、まったく同じだった」と……

 

 

 

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エッセー 「地底人間への誘い」& 詩

エッセー

地底人間への誘い

 

 人間だろうが恐竜だろうが、魚やカエルや昆虫だろうが、命がもらえるのは母親の体内で、そこでしばらく育ってから危険な体外に放り出される。つまり幼い生き物にとって一番安全な場所は、母親の腹の中ということになる。そこは四方を壁に囲まれて自由はないけれど、母親が必死に守ってくれるし、死ぬときは母親ともどもというわけで、悔いがない。

 ところがいったん外に出ると、卵だろうが胎児だろうが、親たちの防備体制に隙ができてたちまち外敵に狙われることとなり、五匹いても生き残るのは二、三匹ぐらいになってしまう。人間のいわゆる「胎内回帰願望」っていうのは、安全・安心な母親の胎内へ戻りたいという潜在的な欲望だが、腹の中で過ごした安らかな環境を無意識的に覚えているのだとも言われている。きっとそこには、恐竜時代の哺乳類の記憶も織り込まれているに違いない。人類の先祖はあの時代、捕食者である恐竜を恐れ、穴蔵生活を強いられていたのだから……。

 ひと昔前(1980年代)、バブル景気の中で日本の地価は高騰し、政府と産業界は突飛なアイデアを思い付いた。土地が無いなら海に浮島を造り、地下に街を造ればいいじゃないか。当時、人々の大部分が日本経済の発展を過信し、地価は天井知らずに上がり続けると思っていたから、建造費を注ぎ込んでもペイできると考えた。そして産官の共同研究がスタート。人工島は「メガフロート」という鋼鉄製の巨大浮島で、造船会社などが参画。地下の町は「大深度地下ジオフロント」というネーミングで建設会社などが参画。「ジオフロント」関連では、2001年には40メートル以深の地下を対象にした「大深度法」なる法律も施行された。

 メガフロートは、2000年はじめに羽田空港の拡張工事に採用されかかったが、結局コンペで埋立工法が勝って陽の目を見ることもなく、さらに東日本大震災後は固定杭に係留する方法で巨大津波に耐えられるかと論議され、尻すぼみになってしまった。大型タンカーよりも数倍大きい巨大構造物が、津波と一緒に港町を襲う光景を想像するだけでも恐怖だろう。もっとも東日本大震災当時は、静岡市にあった小さなものが福島第一原発に曳航され、一時的に空洞部分に低濃度汚染水を貯めたりと、意外な用途で活躍した(その後埋め立て処分)。

 一方「大深度地下」の場合は、建設会社が主体となって、山腹内にドーム状の巨大空間を造るなどの実証実検が行われ、各社ともいろんなアイデアを出し、地下40階、人口25万人の地下都市や、山手線をすべて地下に移設するという構想もあったりした。そうした構想はバブル崩壊とともに崩れ去ったが、そのとき研究された技術はいまの駅地下や地下河川など、いろんな地下構造物に生かされている。「大深度法」では、地下40メートル以深(例外あり)の地下は、お上の認可があれば地表住民の許可なく公共の用に利用できる。

 当時の工学常識では、深い所の空間は地上に影響を与えないとされていたけれど、2020年に東京外かく環状道路の工事現場(地下47m)の上の道路が陥没した。また、リニア新幹線南アルプストンネル工事で、静岡県では上を流れる大井川の水が一部他県に流れちまうので、お茶の栽培に支障をきたすと反対運動も起きている。想定外のことが出始めているのだから法律の見直しは必要だろうが、法律自体が廃止されることはなく、また、そうなってほしくはない。その理由は、シンガポールみたいに町が狭いから地下に広げようってことでもないし、ネグラ族が地下生活に憧れる話でもない。僕は別の意味で、人類は地下を目指すべきターニングポイントに来ていると思っているのだ。哺乳動物の一員である人間は、怖がると穴蔵に閉じこもる性質があり、近未来はいまよりも物騒な世の中になるに違いないからだ。それはきっと日本人の多くが少しばかりは思い始めていることだろう。

 最近トルコのマルディンにあるミドヤト地区で、7万人が生活できる世界最大級の古代地下都市が発見された。その数年前にはカッパドキアでも似たような地下都市が発見されている。これらは、ローマ時代に迫害されたキリスト教徒やペルシア軍などの侵攻から身を守る人々の避難所だったらしい。迫害を受ければ、地下に潜行する以外に命の保障はなくなる。特に森の少ない乾燥地帯はそうだ。多くの避難民が秘密の洞穴に逃げ込み、その数が増えれば増えるほど、洞穴も掘り続けなければならなかった。つまり世の中が物騒になると、人間は地下都市を造る以外に方法はなくなるわけだ。

 ロシアに占領されたマリウポリもセヴェロドネツクも、工場の地下に迷路のようなシェルターがあったおかげで、避難した人々は生き残ることができた。敵に捕まろうが、殺されるよりかはマシだ。穴蔵から手を挙げて出てきて、彼らは捕虜となった。戦争は飢餓と同じくサバイバルゲームで、生き残ったものの勝ちだ。たとえ心身に傷を受けても、未来には希望がある。

 ロシアが暴挙に出たことで、核戦争の危険度は急上昇した。ロシアは核兵器を使うかもと脅しをかけているし、プーチンなら本当に使うかもしれないと誰もが思い始めている。プーチンじゃなくたって、核保有国の権力者が突然精神に異常をきたし、核ボタンを押したらどうなるか……。そんなとき、ふと日本を振り返ると、地下シェルターはほとんど無いんじゃない!? これは、日本人も日本政府も平和ボケを続けてきたってことだろう。だって、世界中に兵核器がゴロゴロしていて、核の脅しで平和が成り立っているのに、核シェルターが無い国なんて考えられないからだ。核はケンカと同じで、先手必勝の武器だ。昔ブルガリアの占い師ババ・ヴァンガが、ロシアは核戦争で勝利し、世界の覇者となると占ったそうだが、それもありうる。真珠湾攻撃よろしく、民主主義陣営の国々に一斉に核ミサイルを飛ばして後から宣戦布告しても、それを聞いたときには民主主義陣営はすでに消えているはずだ。戦争に仁義などあるはずもない。

 子供のころ、黒澤明の『生きものの記録』(1955年)という米ソ冷戦時代の映画を観て、アホらしいと笑ったことを覚えている。35歳の三船敏郎演じる原爆恐怖症の老人は、全財産を投げ打ってブラジルに移民しようとし、家族と揉めた末に精神病院に入れられてしまう話だが、いま見返してみれば、ラストで老人が病院の窓から太陽を見て、「地球が燃えとる」と叫ぶ姿のほうが正常に思えてくる。テレビ画面で、「わが家が燃えとる!」とウクライナの老人は叫んでいた。ロシアの侵攻が人間として異常なら、老人の叫びは正常だ。ロシアの侵攻が人間として正常なら、老人の叫びはますます正常だ。人間の感性が帝国主義時代に戻ろうが、被害者の感情は太古から変わらないからだ。

 異常なのは三船の大げさな演技を観て、それを精神疾患と捉えた観客すべてだろう。黒澤監督にとって、老人の叫びは正常なのだから……、でなければストーリー自体がナンセンスになっちまう。老人が正常なら、核シェルターに無関心な日本人はみな、正常ではないということになる。正常な決断は、ブラジルに逃げるか、穴蔵に逃げるかの二者択一だ。

 ロシア国民の何パーセントがプーチンの戦争を異常と考え、何パーセントが正常と考えるかは知らないが、ウクライナ国民の叫びは100パーセント正常だ。ウクライナは現実燃えていて、多くの市民が死んでいるのだから……。きっと茶の間でウラーと手を叩くロシア人も、舌打ちして首を横に振るロシア人も、同じように異常だろう。自分が選挙で選んだ人間の暴挙を傍観しているのだから……。ならば僕を含め、世界中の人々も異常かもしれない。世界が終わりの始まりになるかも、と危惧しながら傍観しているんだから……。

 核が使われれば、ウクライナが滅びるか世界大戦の口火が切られるか、どちらかだ。誰もプーチンの暴走を止められないのなら、せめて防御手段を考える必要がある。そういった状況で、日本に核シェルターがほとんど無いのはいかがなものかというわけだ。しかし僕は、どんどん核シェルターを造れと言っているんじゃない。いま僕は、正常と異常のボーダーライン上で提案している。いっそのこと、日本人は地底人間(地底人)になりましょうと言っているのだ。ジオフロント構想で培った技術を駆使して、地底に安全・安心な大規模シェルター・タウンを造る。そして、人々の活動拠点を地下にして、ふだんはそこで暮らし、仕事をし、地上にはバカンス用のセカンドハウスを造ってたまに首を出し、日光を浴びろ。つまり、恐竜時代の哺乳類に戻りましょう、古代ローマ時代のキリスト教徒になりましょうと言っているんだ。

 だって核ミサイル以外にも、地球表面は大型台風や地震津波、竜巻、熱波、山火事、氷河崩壊など、恐ろしい災害が目白押しだ。これらの多くは地球温暖化が原因。すでに森林火災は世界中で制御不可能な状態になってきている。これから温暖化が進み、災害の規模もますます大きくなってくるだろう。このまま気温が上がり続け、南極の氷が全部融けた場合、海面が50m上昇すると言われている。東京首都圏はもちろん海の下だ。温暖化対策が失敗し、地上には住めない時代がやってくるなら、そのとき慌てても遅いに決まっている。ロシアの暴挙により対策が阻害され、またまた石炭を使い始めれば、温暖化はますます加速するだろう。温暖化はロシア軍、ローマ軍よりも怖いのだ。そこで、地下だ。

 海も大気もいろんな化学物質で汚染されているし、いまや地表に住むことも海岸や海上に住むことも、海底に住むことだって危険な状況になってきている。すると、残されたのは宇宙と地底しかないじゃん。みんな宇宙に憧れを抱くけれど、宇宙ほど住みにくい場所はない。それは火星だって同じだ。たとえ空気や水を作れても、微小重力下では骨粗しょう症になっちまうし、子孫は蛸足人間になっちまう。直径100mくらいの円筒を回して重力を作り出してたって、そんな狭い空間内に一生住み続けるのは嫌だ。ナイスバディを維持したいなら「地底人間」がいい。宇宙には夢があるけれど、克服すべき問題は地下の百倍以上あるだろう。各国が宇宙開発に凌ぎを削っているのも、軍事技術と結び付けているからに決まっている。

 ならば、まずは地下に都市を造りましょう。地上と変わらない、快適な地下都市を造るんだ。日本列島の地下である限り、領土問題だって起きないんだから(北海道はロシアの領土だと主張するロシア人もいるが……)。地下は地震や台風に弱いと思われがちだが、活断層さえなければ地上よりも安全だと言われているし、頑丈な山の中腹に地下都市を造れば、鉄砲水は下に流れてくれる。それに温暖化が加速すれば日照りで水不足となり、穀物は育たないだろう。しかもそれは、世界中で起こることなのだ。その点、野菜工場の技術を発展させて地下に広大な農場を造れば、天候に左右されることもない。

 要は、先入観の問題だ。アングラだとか地下潜行だとか、人間は恐竜に怯えていた時代からの暗いイメージを未だに捨て切れていない。穴蔵は狭いと思っている。地下生活に夢はないと思っている。しかしそれは、掘削技術、VR技術の未成熟だった昔の感覚だ。現在では、巨大な地下空間を造ることが可能だし、四方を石壁で囲まれていても、人間の錯覚を利用して広大なパノラマを現出させることが可能だ。それにいまの人間たちは、視覚も、嗅覚も、味覚も、聴覚も、触覚も、すべての感覚がバーチャルな世界に追いやられつつあるんだから、同じことじゃん。

 世界中で核戦争が起きた場合、各地の原発が攻撃を受けた場合、空気も水も汚染されて、人間は長期間地下生活を強いられることになる。そんな状況になることを想定すれば、日本列島の各地に大規模な地下都市を造り、長期間そこに住めるほどの快適な居住環境を創造していかなければならないのだ。そのとき、すべての日本人が二つの家を持つことになる。

 これは都市に住むロシア人が郊外に別荘(ダーチャ)を持つのに似ている。いまモスクワの人は食糧不足に備えて、ダーチャの庭で野菜作りに励んでいる。しかしそれは、ロシア国内は平和で、まだ食い物があるってことだ。残留日本兵横井庄一さんは昔「食糧不足になったらお巡りさんを先頭にやってきますよ」と言ったが、農園の野菜なんぞすぐに強奪されちまう。山梨では盗人が横行し、ウクライナではロシア兵が強奪している。日本人もダーチャを持つべきだが、安全な地下での自給自足だ。地下農園入口に鍵を掛けておけば、盗人の入る隙はないし、外国から敵が攻めてきても、当分はしのげるはずだ。

 もちろん共同体単位で、大きな地下農園を造ってもいいだろう。マリウポリの地下避難者が生き残れたのも、シェルターに水や食糧を備蓄していたからだ。そして、地下農園で作業するとなれば、当然、地上の家には偶にしか行けない、ということは地上の家のほうがダーチャという逆転現象になる。ラッキーなことに、ローマ時代のキリスト教徒とは違って、現代では地下生活のストレスを解消させるだけの技術が溢れている。エネルギーは将来有望視されている地熱発電がある。どこでも地球の中心に向かって掘り進めば、地熱は高くなるに決まっている。しかし深堀の技術がないから、火山地帯や温泉の近くなどに限られ、いまは世界全体でも0.5%という割合に甘んじている。

 MIT(マサチューセッツ工科大学)からスピンアウトしたℚuaiseというベンチャー企業は、電磁放射線ビームを使って「大深度地熱井」を掘削し、地上のどこからでも無尽蔵の地熱エネルギーを得られる技術を研究している。2026年までに、岩石温度が500℃に達する深さ(地下20キロ)まで掘り、パイロットプラントでの発電を開始する予定という。もちろん地上の太陽光発電所から電気を地下に引き入れることも可能だが、爆撃・台風には弱い。地熱発電で電気さえ得られれば、いろんなことが地下で行える。地下空間の気温を一定に保てるし、地上の汚染された空気をフィルター技術を駆使して地下に入れることもできるし、地下水を分解して酸素や水素を得ることもできる。

 野菜工場はもちろん、米や小麦も作れるだろう。家畜を飼うこともできるし、人工肉の生産もできる。地下に生け簀を置いて、いろんな魚を養殖することも可能だ。毒のないフグも食えるし、汚染されていない魚も食える。最近、「ほぼウナギ」や「ほぼカニ」などが流行っているが、養殖じゃ作れない魚も、代用品で満足できるようになってきた。食料品はほぼ地下で生産することができるだろう。当然のことだが、各地下都市を結ぶ地下高速鉄道で、各地の生産物を融通することが可能だ。

 何度も言うが、ロシアの暴挙によって世界中でエネルギー問題が起こり、高まりかけてきた温暖化防止への取り組みが頓挫・後退する危機に陥っている。戦争と温暖化で、地表は生き地獄になりつつある。人類の避難所は海底だろうか、月だろうか、火星だろうか。莫迦な! 身近な「大深度地下空間」に決まっている。人間が生き残る最後の手段は、アリさんになることなのだ。アリさんのように分散して、コミュニティ自給自足型の大深度地下都市を創ることなのだ。そして良い子のコミュニティは地下交通網で連携し合い、融通し合い、助け合うことだ。これで人類の未来は地底人間に決まった。そこは母親の胎内と同じ安らぎの揺り篭に決まっている。

 たとえそれが、人間が人間を憎み恐れる連綿たる歴史の、悲しい結末に過ぎないとしても……。

 

 


ゴッホの片耳

絵描きは心を病んでいた
ペインティングナイフで
暗い色を激しく塗り重ね
ナイフでガリガリ掻くと
ゴッホの左耳を連想して
恐怖に駆られ、一目散に
燦々と輝く太陽を求めて
南岸の海辺に辿り着いた

砂浜を見下ろす丘の上に
イーゼルを立て筆を置き
ブルーコンポーゼを捻り
パーマネントホワイトと
ランプブラックを搾って
気紛れに赤と黄緑を少々
パレットに並べて見詰め
奴らが蛆の様に動き出し
パレットの端々まで溢れ
汚れのない単純な色彩を
アアアと叫んで掌を広げ
気恥ずかしさで捏ねくり
無残な濁色を創り上げた

嗚呼汚れた俺の心底色よ
汚れなき画布の眩しさを
手垢で汚し尽くす絶望感
凡てはもう描かれている
凡ては模倣の繰り返しだ
凡ての道は行き止まりだ
残るは暗い夜道しかない
金になる客らが最も嫌う
サザエの尻から出てくる
臭く苦く食べて後悔する
不協和音が連綿と流れる
とっても暗い絵でござる
タイトルは臓物のため息
グロテスクで反吐が出る

嗚呼、売れ過ぎた海景色
嗚呼、眩しすぎる陽光よ
嗚呼、眩しすぎる白波よ
嗚呼、眩しすぎる白浜よ
嗚呼、眩しすぎる日傘列

お前等は俺達画師の前で
何世紀も媚を売りながら
その裸体をくねり続けた
嗚呼恐ろしく陳腐な奴等
太古から続くマンネリ美
そしてその筆頭がお前だ
下品な額に抱かれたがる
楚々と佇むキャンバスよ
恥ずかしいほどの純な奴
いつもながら陵辱しても
汚されながら必死に耐え
すべてが終わったときに
俺に訴えるのだ「下手糞」
俺は興奮冷めやらぬ心を
三日後に漸く落ち着かせ
お前の変わり果てた姿を
冷徹に黙視し愕然と呟く
ブルータス、お前もか…

キャンバスを放り投げて
重い絵の具箱を肩に掛け
画家は浜辺に別れを告げ
身を投ずる断崖を探した
途中小さな洞窟を見付け
中に入って驚き感激する
三百六十度濁色の世界だ
ビジュアル版、不協和音
天然とダダイズムの融合
そうだ洞窟画家になろう
世の洞穴を濁色で満たす
濁色の上に汚色を上塗る
恥の上塗りよオサラバだ
原始人の心を取り戻そう
全ての絵の具を捻り出し
両手で捏ねくり捏ねくり
糞そのものの色を作出し
凸凹した岩に塗り重ねる
全ての世界が糞色で濁る
全てのアートも糞まみれ
全てのアートに不幸あれ
おいら糞尿アーティスト
糞を上塗る糞飯芸術家だ

画家は牢屋に入れられて
罵詈雑言を浴びせながら
罵詈雑言を浴びせられた
君、国立公園の洞窟だぞ
なんてことをしてくれた
落書きだって金になるさ
二百年後には価値が出て
村の発展に寄与しますぜ
ははバンクシー気取りか
なにをほざいていやがる
能無しの三文画家野郎が

絵描きは精神鑑定を経て
精神病院で暮らし始めた
ゴッホの耳を夢見ながら

 

 

 

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エッセー「 アガスティアの葉」 & 詩

エッセー
アガスティアの葉

 古代南インドの仙人(リシ)は、すべての人間の過去、現在、未来を知っていて、これを記したヤシの葉「アガスティアの葉」が各地に残っている。一時日本でもブームになり、多くの観光客が現地のト占所に訪れて占ってもらった。「当たった」と喜ぶ人もいたし、「インチキだ」とがっかりした人もいたらしい。

 アガスティアの葉の真偽は分からないが、これが本当だとすれば、人間の運命はあらかじめ決まっているということになる。ならばこれは、ライプニッツが主張した「予定調和説」のエビデンスかもしれない。「予定調和説」では、すべての人間は自分自身にのみ影響し、独立しているという。神様がそれぞれの人間を造るとき、その精神は決して他の精神と相互作用しないようにした。神様は一人ひとりの人間を計算しつくして造ったのだから、彼らは単体(モナド)として行動し、最も調和のとれた世界を創ることが可能なのだ。つまり人間は神の見えざる手の中で転がされながら、神の見えざる意思で蠢いていることになる。誰かが誰かに影響されても、単なる見かけにすぎない。人間どうしが影響し合うことはなく、環境と人間が影響し合わないのなら、アガスティアの葉(宗教は異なっていても)は人間一人ひとりの設計図であり、指示書であり、プログラムであり、人間は単にあらかじめ引かれた軌道の上を走り、死を迎えることになる。神の意思は、人間風情が勝手に変更することはできないというわけだ。

 ライプニッツキリスト教徒だから、「神の創った宇宙は完璧で不可侵」の教え通り、予定調和説を宇宙にまで広げた。神は宇宙創造のプロジェクトリーダーで、きっと宇宙の隅々にまで神の遺伝子(設計図・DNA)がばら撒かれたに違いない。だから、予定調和で満たされた宇宙は神の設計通りに順調に運転され、永久にクシャることはない。当然だが、宇宙の端くれである地球もいたるところにその遺伝子が散りばめられている。我々は地球を生命体だとは思っていないが、神から見れば人間も生物も岩石も地球も、みんな同じ遺伝子を持ったお仲間(被造物)だ。生物だろうが無生物だろうが、神にとってはどうでも良いこと。生命体も所詮は物理法則に支配されていると量子力学シュレーディンガー先生も言っている。その物理法則では、星々は互いに影響し合うように見えても、それは人間の視点で神の視点ではない。神の思惑通りにそれぞれが動いているというだけの話だ。

 ならば生も死も、繁栄も滅亡もどうでも良いことになる。そんなのは、単なる人間の感傷だ。被造物らは互いに相互作用をしないで、影響し合うことなく神の意思に従って勝手に蠢いていれば良い。予定調和で蠢いていれば、全体的に平穏で結果オーライとなり、それでいいじゃないかというわけだ。

 だから地球に起こるすべての現象も、予定調和の中で起きていることになる。地面が揺れれば、それは地震の遺伝子だ。火山が爆発すれば、それは火山の遺伝子だ。それらは定期的にガス抜きを繰り返して、予定調和に貢献している。地球が閉鎖空間で、異常に繁殖した生物が腹を空かして絶滅するのも、生き残りの弱肉強食が繰り返すのも、地球生態系の遺伝子だ。きっと人間が地球生態系の頂点だと勘違いするのは、傲慢な人間遺伝子のせいだろう。神の視点からは、数で圧倒的に勝る微生物が主役に決まっているけれど、支配しているのは創造主たる神だけで、被造物間に主役・脇役の関係などあるはずもない。

 この論理で行くと、誰かが誰かを殺したって偶然性も相関関係もなく、殺す人間の遺伝子がそうプログラムされていて、殺される人間の遺伝子がそうプロラムされているから、予定調和の範囲内で殺人事件は起こったのだ。殺人は殺人者のせいではなく、あらかじめそいつに組み込まれている遺伝子が原因だ。この法則は生きとし生ける物すべてに当てはまるから、生命が誕生して以来の壮絶な殺し合いは、地球という閉鎖空間が平穏に持続するための予定調和の設計図に従っているだけということになる。もちろん人間も、神が与えた人間遺伝子により忠実に活動しているわけだから、発生以来連綿と殺し合いを繰り返しているのである。そして殺された連中は、あらかじめ貧乏くじを与えられた哀れな落伍者であることを知らず、たまに占い師に「あんたもうすぐ死ぬよ」と指摘されたりする。

 ひょっとしたら、占い師の親分であるノストラダムスの大予言は、神の遺伝子を解読したものかもしれない。アガスティアの葉が人間一人ひとりの設計図だとすれば、ノストラダムスの大予言はヒト属および地球の設計図だ。ならば2069年に巨大隕石が地球に落下すると騒ぎ立てる一部メディアの言が正しいことになり、神様は地球生態系の定期的リセット(オーバーホール)をその年に行う予定だということになる。しかし、そうは問屋が許さない。我々には人類の英知を結集した偉大な発明品である「核兵器」と「ミサイル」があるではないか。これらの発明品は元々、神のご意思によって、人間どうしの殺し合いを効率的に行うために遺伝子に組み込まれたものだったが、人類はようやく反抗期にまで成長しており、「神は死んだ」と叫びながら、生みの親たる神の思惑通りにはなるまいと、いろんな抵抗を試みている最中だ。生みの親、育ての親のありがたみも忘れて徹底的に反抗するのが反抗期だから、ここはひとつ、がむしゃらに反抗してみようじゃないか。

 しかし相手は宇宙の支配者だ。人間風情が勝てる相手ではない。当然のことだが、人間が神と戦って勝利し、宇宙の支配権を奪おうという話でもない。我々が戦うべき相手は、神が仕向けた鉄砲玉(巨大隕石)一つなのである。ラッキーなことに、我々には神のご意思のもとで造られた人間遺伝子があり、互いに集団で固まって攻撃し合い、滅びる特性を持っている。こいつらは常に和合分散を繰り返しており、相手が強いと仲が悪くても一時的に和合し、団結して強い相手に立ち向かう傾向がある。ということは、地球生物を滅亡させる巨大隕石という敵に対して人類は和合し、一丸となって戦うことができるということだ。

 このとき使用兵器のベクトルは、強い相手に向かって一本化される。核兵器だって、いつでも飛び出る状態にはなっていても、相手が決まらなければ方角はバラバラだ。しかし相手が巨大隕石と決まれば、そいつらのベクトルは隕石の方向に一本化されるだろう。ただ一つの心配事は、来るべき2069年の前に人類が人間遺伝子に翻弄されて自爆行為を起こしてしまうことなのだ。ハルマゲドンの前に人類が仲間割れを起こし、核を使っちまえばアウトだ。そこで僕は提案する。来る2069年の大隕石襲来に備え、世界中の核兵器を南極の分厚い氷の下にストックし、これ以上の製造はストップしよう。これは核廃絶ではない。核を2069年に向けて備蓄するということだ。そして世界中の科学者は、ストックされた核を使って巨大隕石の破壊方法を考えよう。いままで各国とも核開発、ミサイル開発にしのぎを削ってきたのだから、そんな技術開発は簡単だろう。

 さあ、地球市民の皆さんの前に、巨大隕石という難敵が現れたのである。良い子の皆さんは仲良くして、この敵に立ち向かいましょう。僕は、このプロジェクトの成否に関わらず、少なくとも2069年まで地球上で核戦争は起きないことを保証します。皆さん、人類を滅亡させないために、みんなで一致団結しようじゃありませんか。

(なお、このエッセーは「アガスティアの葉」および「ノストラダムスの大予言」が真実であるという仮説を基にしたものですので、元ネタがイカサマであった場合は、このエッセーもイカサマとなります。ザンネーン!)

 

 


熟年離婚

君はいつも分からない音楽を聴いているね
あなたはいつもおかしな音楽を聴いている
君の部屋には趣味の悪い絵が飾ってあるね
あなたの部屋にあるのは意味不明なアート
君はなぜ、いつも海に行きたがっているの
あなたはなぜ、高い山に登ろうとするのよ
君の服装は少しばかり派手過ぎやしないか
あなたの服は地味でいつも似たり寄ったり
君はなんでつまらない雑誌を買ってくるの
あなたはなんで訳の分からない本を読むの
君はいろんなニセモノを買って身に付ける
あなたはエンゲージリングも填めないわね
下を見ろよ、若い夫婦が腕組んで歩いてる
仲が良くて羨ましいこと、嫉妬するくらい
僕たちにもきっとあんな時代があったんだ
あら全然記憶にありません、あしからず…
別れる前に、少しばかり歩いてみないかね
いいわよ、あの人たちのように腕を組んで

 

 

積み木

またひとつ 悲しみを乗せてみよう
ゆっくりと 落ち着いて
あせらずに 静かに なかばあきらめて
バランスを考えて 崩れないように
感情を押し殺して 冷静に 沈着に
ほら まるで奇跡のように またひとつ
上手に乗せたら あとはただ はしゃがず
息をひそめて 次のかけらを待とう
またすぐに来るだろう
崩れたらゲームは負けだ
だからひたすら静かに こころを落ち着かせ
噛み潰すことなく
無心になって……

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