詩人の部屋 響月光

響月光の詩と小説を紹介します。

詩集「戦争レクイエムⅠ」

地獄の鼎談

閻魔●ようこそ地獄へ はるばると
意外なことに ここは果てしなく続く芥子畑
現世で踏み潰された悪人どもの魂を
痺れる力で癒そうと 鬼たちが汗を流して花を摘む
大天使ミカエル率いる天国の軍団に対抗すべく
地獄の閻魔軍団に迎え入れようその前に ザックリ割れた心を縫い直すのだ
人間だけに設えたステージなんぞありはしないが地獄は別だ
知恵の実を食べたのは君たちだけだが悪知恵の実もついでにくすねた
おかげで人災対策本部が急きょ設置したのが地獄だ 食えん奴等の毒消し施設さ
しかしそのイメージは君たちのような悪餓鬼が減るようにと
生臭坊主がこさえたウソ八百のつくり話 偽善者どものデマゴギー
おかげでスタッフ一同お客の期待を裏切らないようにとてんてこ舞
君たちの祖先が遅遅と築き上げてきた文明も… 種を明かせば子供騙しだ
ならばこの地獄というやつ 文明が崩れれば一緒に消えてしかるべき
今宵は我を含め罪深き三霊で 宇宙の通奏低音たる虚無の恩寵について
芥子酒を肴に自由闊達に語り合おう
君たちは蜃気楼を蹴散らしてやってきた 
その見分け方は一瞬にして消え去るものかどうかだ
ちょうど餓鬼が巣穴に群がる蟻を踏みつけるように 
あとに残るは亡霊どもの夢のあと… 残骸ははかない夢の終焉さ
しかし土の中には挫けぬ蟻どもが好機をうかがう
美しい国 美しい町々 美しい女たち 加えて荒くれ男ども
命も感性もニューロンイカサマであることを見抜いたから
皇帝ネロのように初期化を試みたのだ 一同葉巻をくゆらせ談笑しながら
「やりまっか」とはあまりに軽い終末談義
錬金術師は黄金の代わりに途轍もない爆竹をこさえ上げた
パカリと炸裂させれば現は夢、夢は現と早変わり
遅遅として積み上げた歴史は粉々に砕け
未来とやらは卵のままに過激な音に驚いて
途方もない遠くへ逃げちまった こいつもはかない逃げ水さ
駆け込み寺は二度と戻らぬ宇宙の裏側 天岩戸よりも遠いところだ
残ったのは宇宙の法則という冷厳・苛酷な不滅理論 
嗚呼イカサマでないのは冷え冷えとした方程式だ無機物たちのためにある
山河は燃え町々は燃え女たちは燃え男たちは燃え あらゆる幻は燃え尽きてしまった
そして煙たなびく焼け跡の石段に 吹き飛んじまった未来人の影を見るだろう 
そうさあの爆弾のことさ 君たち嬉々としてこさえ上げたビッグな発明
あれは暗黒宇宙へのとばくちブラックホール
人間どもの夢と現、未来をパクリと吸い込む烈火の大法則
さあ話してくれたまえ 君たちが見た真実、いや、仮付けした真実とやらを

 航空隊員●そうさ真実なんかとっくに消えちまったさ …陽炎のように
隕石の衝突だろうが巨大噴火だろうが 閻魔の高みから見れば
一瞬に消え去るものはどれも蜃気楼さ了解だ
ならば俺の真実は俺の信念…のようなもので通しましょう
それは祖国の信念でもあるのさ仮付けにせよ…俺には十分生きていける
俺の任務は信念を真実に変えるだけ 冷静沈着に…だ
「翼よあれが標的だ」 まさに爆弾を積んだリンドバーグ
初の快挙を目指して飛び立った 拍手喝采
雲の切れ間から見えたものは
故郷とかわらぬ静かな町のイメージだったな
飛行士ならだれでも驚く平和な光景 
嗚呼見るだけで 人間どもの生活の吐息が伝わってくる
だが、騙されてはいけない
蔓延っているのは地球を汚す蛆虫ども
ないしは下等な猿どもというこれも立派な真実さ
少なくとも同類ではない 百歩譲って人間としても、「敵」だ
祖国を蹂躙しようと企む侵略者 
宇宙からきたインベーダーだと仮付けしよう
画鋲で貼り付ければ国が権威付けした真実だ
映画を見ろよ 奴らは地底人にそっくりさ まるで蟻だ
家々の中には地底に通じる穴が張り巡らされている
強力な爆弾が必要だ 奥の奥まで蹴散らすんだ
誰も異議を唱える者はいやしない
在来蟻を脅かす外来蟻は効率的に駆除するのが常識だ
祖国愛護組織から与えられた御墨付きのミッションなのだ
こいつは命がけの戦いだ ばい菌は抗生剤で一掃するのが鉄則さ
もちろんずぼらな脳味噌には想像もできない惨劇とやらを想像したさ…
一応は天秤にかけても見ましたよ 神への礼儀を重んじて
対するは祖国が猿どもに支配され 妻が犯され子が殺される惨劇
カミカゼ野郎に仲間たちがズルズルポロポロ消えていく悲劇さ…
受け入れがたい可能性のほうはずっしり重かったね… 弁証法は失敗だ
未確定のイメージだが確定すれば現実です 女神さんに任すわけにはいかないさ
悲劇の置き所は違っていた 止めたとしても二番手が飛び立つのさ尖兵だもの
決断は右手の中にコロコロ転がっていたのだよ お国の恥をかいてはいけません
さあ空想を現実に変える時間だ 多くの仲間の期待を込めてアルマゲドン
哲学・形而上学なんぞに耽っている暇があるもんか
こっちのカタルシスがあっちのカタルシスを浸食し あっちの炎は踏み消されて鎮火した
俺はボタンを思い切り押した すべてを早く終わらせるために…
間違いはなかったぜ 宇宙の法則だけが真実だ 一発でケリを付けたぜ!

 高射兵●「翼よあれが地獄の火だ」とは名言だよ
幸か不幸か成し遂げたときの感激は同じものに違いない 悪事でも
けれど爆弾野郎にピューリッツァ賞は上げられない
山の上から遠眼鏡で君の顔を眺めていたのだよ
君は単なる兵隊ロボット 一騎当千のスナイパー 
与えられた任務を実行するだけで頭がいっぱいだ 熟練完璧パーフェクト
勝ちつつあるプロが勢いづくと 撃つことしか考えない
心に余裕ができてさらに気勢を強めるものの傲慢な野獣は一見冷静
しかし君は少しばかり興奮していた ごらんよ閻魔のこの顔を…
他人の命運を握っている自信と快感、興奮に満ち満ちて 
ふてぶてしい勝者の笑みだ 似ているなあ…
過剰な腕力 過剰な権力 過剰な破壊力は君を神の操縦席に座らせた
しかし単なるニューロンの下卑た興奮 頬を火照らしているものは…
ライオンが獲物に襲い掛かるときの下等なメカニズムさ
嗚呼脳内麻薬よ 多くの罪づくりの元凶 あまりに単純な興奮作用…
素直な本能に理性が勝るわけはない あいつは込み入った哲学のように難解すぎる
戦争だもの単純な乗りが正解さ 殺せ、倒せ、潰せ、蹴散らせ! 
五体を貫く基本の背骨 肉体が朽ちるまでしっかり残る大黒柱の心意気
さらに君は極めて簡潔、ティピカルな人間だった その誉は成し遂げること 
しかし無意識であっても 少しばかりの不安からか神がちらつき
数え切れない命の燃え尽きる光景がよぎったのだ「ボタンに触れる指が震えていたぞ!」
同時にそれは痺れるような快感に変化して 武者震いへと変わっていった絶妙に 
人間的な、あまりに人間的な… いったい何に緊張していたのだ
失敗は許されないと思ったのか? 累々たる命を思ったのか?
秒読み段階に入ると 緊張はさらに強まり 顔面が蒼白になるのを見た
しかし次の瞬間 多量のアドレナリンが一気に放出されて脳味噌を炙り
凍った頬が鮮やかなピンク色に変わるのを目撃した
少しばかり 少しばかり 少しばかりと 君は早漏気味の興奮を押さえて
あらゆる感情 イメージ 観念が 四方八方から引っ張り合い 
うまい具合に円い照準と重なった瞬間
「今だ!」
思い切りボタンを押したとき 体中のテンションが解き放たれ 
お前はカウチに横たわるブタのようにダボダボと腹の脂肪を震わしたのだ、意外と小心
嗚呼成功だ 立派に任務を果たした おめでとう 祖国の英雄よ 敵国の悪魔よ
紋切り型の人間よ! 敵ながらあっぱれ
冷酷なまでに冷静な、プロフェッショナルの殺し屋よ!

 閻魔●まあそう皮肉ることもない
そうさ君は冷静沈着に任務を果たし終えたのだ
この雄々しい精神は優等生の戦士魂となって代々受け継がれていくだろう
しかし今は少しばかり後悔しているといった顔付きだ 君は歴史の変革者
アポロ一一号とはまったく違う歴史の方向は自爆
君から始まったぶっとい人類の歴史だよ たがの外れた破滅の歴史
お猿の時代から積み上げてきた文明さんはビックラこいて
飛び跳ねちまった宇宙の彼方に…君たちの未来とスクラム組んで
繰り返そう 一瞬にして吹き飛ぶものはことごとく蜃気楼だ
あいつは所詮猿が積み上げたバベルの塔 神の創造物ではないのだよ
気が付いたかねその正体を 紙のように燃え尽きてしまう薄っぺらな可燃物
カサカサと幾層にもぶつかり合い スカスカの穴が開いているから燃えやすい
だが孤独に生きている 君たちを尻目に勝手に成長するが寿命はある 
その屍は燃え尽きるか化石になるかだが 殺すのは巣食っている君たち寄生虫 
いやつくったのは君たちか… 
進化・革新と叫びながらめくらめっぽう吐き出す得体の知れぬ凝固材で
嗚呼…積木崩しのようなもの
さあポンプかマッチかはっきりしろ 燃え上がる炎を消すのは爆風さ
失火の火元は修羅のごとくの怒れる蛆虫ども それに比べりゃ閻魔なんざ若輩者さ
すばらしい過激さ 怒りの焔は地獄の釜より強烈だ 
憎悪は心の臓から血液に乗り 枝葉末節にいたるまで燃えたぎる
怨念が築き憎悪が壊す悪魔のデススパイラル
ならば思い切って業火で地球を初期化して ゴキブリさんからやり直すもいいだろう 
次なる爆弾まで億万年は生きのびられる計算だ ちゃちい破壊は姑息な治療
悪性腫瘍はことごとく摘出しないと再発しますと医者も言う
いったい何発炸裂させればチャラですか 答えておくれよ爆弾職人 
このままではどんどん重くなるばかりさ地球も地獄も …いたるところがカサブタだらけ
世の中あと三倍広ければ 皆さんもっと美的に生きていけたのに残念だ…この木賃遊星
君たちの星は、なんて貧乏な星なのだ

 航空隊員●閻魔さんもお人が悪い 数多くのマーキング動物と
ちっぽけなビー玉しかくれなかったのは
創造主たるあんたの親分のドケチ根性さ
きっと消し去るべき数の命を決めたのなら
一度に消しても小出しに消しても 消えていく数に違いはあるまい
おいらはサポーターだよ神様の
一気にやるかもったいぶるかの問題は朝三暮四のようなもの
閻魔さんが率先して爆弾を落す必要もあるまいて
地球上の生き物は勝手に増え勝手に滅びるのが鉄則だ
文明なんざ放っておけばいずれ滅びいずれ蔓延る
時間が経てば丸く収まるものだ 茶々を入れるな放っておけ!
図々しくもしゃしゃり出るのは権力主義者の特徴さ
そうさ単なるイメージの問題であると俺は思う
ここにいる君だって 仲間の首をはねたのだ
あいつは高射砲で射抜かれて 落下傘で落ちてきた
君はあいつをとっ捕まえて釜茹でにして食べちまった
目の前の人間を平気で食うほうが 俺には残酷に思えて仕方ない
俺はシミュレータ感覚で殺戮ボタンを押したのだ…思考停止さ
見えざる敵は見えざる蟻んこ
バケモノ雲しか見えなかったさ 入道雲の親分だ
君が浴びたのは生暖かいドクドクトした血潮だ生身の人間…
そうだ君はニワトリさんのようにちょん切ったのだよ冷酷に
大量も小出しも関係ないぜよ罪つくり 基本は同じさ家畜扱い
みなさん資源を絶やさぬよう 殺戮制限を設けましょう
いや人間は貴重な動物とは言えないな レッドデータではあるけれど…
しょせん生物理論が間違いなのだ 
ならば閻魔様のおっしゃるように
性欲、食欲、闘争欲という個体維持の本能に加え
人さまだけには「怨慾」という新語を加えておくれ…
仲間たちの怨念をかき集めてこさえた爆弾だもの…
成功すれば怨の字さ

 高射兵●嗚呼あの炸裂音 腹に響くぜ君たちの怨念、ずっしりと…
たわけたことを言うものだ だがも一つ足りないワードは「妄想」さ
リーダーの妄想、科学者の妄想、兵隊の妄想は異常かつ尋常に膨らむ
大将、あまたの敵を効率よく排除できるシステムを思いつきました!
閣下、劣等民族を効率よく去勢する方法を考えました!
俺が敵を食ったなどとは言いがかり 地底人じゃあるまいし…
俺は刀で敵の首をスパッとちょん切り
土の中に丁寧に埋めてやったさ 伝家のマニエール
釜茹でにしてやりたいところだったが五右衛門さんに失礼だ
ところで君の作品 巨大雲の下を紹介しよう
俺があそこで見たものが地獄でないなら
ここはいったい地獄でしょうかと疑いたくなるほどさ
小さな残酷大きな残酷 小宇宙大宇宙 一人殺した万人殺した
どちらも罪には違いはないが 俺は序の口、君は横綱
とても相手になりはしない 社会も悪もヒエラルヒーは必要さ
世の中に与える影響を考えておくれよ
君はわざわざ遠方から 地獄の小包を届けてくれた
俺が山から下りたときには 無数の血肉が吹き飛んだもぬけの殻
きっとお前が空の上から見た雲の下には
地獄の釜が煮えたぎっていたにちがいない しかし一瞬にして尽きてしまったよ
心の臓、両の目玉まで灰と化し 燃えるものなど何もない 
君には物足りないちっぽけな町さ 遠慮するなよオツに澄まして…
嗚呼俺は見たのだ 嬉々として高度を上げ飛び去る悪魔の翼
俺はやみくもに高射砲をぶっ放し 撃ち落とそうと試みた
悪魔を殺すためではない 君の親指の効き目を確認してほしかった
小さな神経の発火が地球の発火を招く歴史の始まりだ
そうだ遠くから眺めるものではないのだよ 余興の花火では済まされない
惨劇は深くじっくり味わうものなのだ やられちまったと後々まで尾を引く味わいさ
しかし君が地上に降りて見るものは すでに化石さ一秒後のビッグバン
悪魔が平らげた皿のようだがそれでも満足 俺と同じ景色を見せられるのだから…
肩を組んで地平の廃墟を眺めれば 共感する部分もあったろう 
君の罪についてもじっくり語り合えただろう 俺の罪と同様に
君のオツムも少しは放射能でビリビリ傷付く必要があったろう…
俺の脳味噌だって家族を取られてズタズタビロビロなんだから

 閻魔●いけないもう時間がない
近頃体験ツアーも増え出して 地獄は順番待ちの盛況だ
暇を明かせた連中が ゲテモノツアーにやって来る
しかし失礼ながら 安易に地獄の名前を持ち出さんでくれ
地獄はうちらの登録商標 いくら悲惨な光景だって
あまたのものは地獄と認めないようにしているのだ
なぜなら 地獄は決して化石にはならない人間様のいる限り… 
下々の似非地獄の上澄み液が阿鼻叫喚で そいつをすくい取り
新鮮なまま詰め込み続けるのが我が地獄釜さ 延々と…
君たちのメモリアルはだいぶ風化し冷え冷えだ 食えたものではない
いやこれらの残骸は 釜の炉壁に使えそう
地獄の釜が冷えたときは 人間どもが途絶えたときでもあるのです
地獄はここしかないのだよ 閻魔がいるのはここだけさ
地獄の一丁目一番地 ここから釜の中に落とされる ごらんひっそり佇む芥子畑の落し蓋
とばくちは狭いが釜の中は無尽空間 地獄は無数の魂が火を噴くところなのだ
君たちが見た光景は地獄であるわけがない 本家地獄に過去はないのだよ
現世地獄は 身勝手な理想を築く前の ほんのささやかな地均しさ
思い出したかい 君は平和を夢見ていた そして君も平和を夢見ていたのだよ
お互い平和を夢見ながら平和と平和がぶつかり合った
平和というのは小さい球の上で こすれ合って血を出すカサブタ
平和と我欲は兄弟で平和と怨念は裏表
人間どもは平和を奪い合い、勝ち取るのだ。
やったことはすぐに忘れ 受けたことは根に持つものさ
こいつはミジンコ由来の学習本能
平和の下にはドロドロとした怨念が燻り続ける
マグマも膿もはちきれるときが再び火を噴くときだ だがここは地獄の本家本元
この際水掛け論はチャラにして 生前の恨みは水に流し
お互い握手をしたらどうだろう 地獄は敵同士が等しく苦しむ場所なのだから…

 航空隊員●閻魔様も良くできたお方だ
和解というのはお互いの怨念を解消することではないのだよ
心の深いところ忍耐の箱に閉じ込めて
二度と出てこないようにかんぬきを掛ければいい いや一時的に…
食欲性欲と同じものが怨念であるなら 無くなるときは死ぬときだ
さあ規模の差はどうであれ 残されし者の悲しみはみな同じ
勝者も敗者も関係ないが勝者は忘れ敗者は根に持つ
だから魂を抜かれた今だからこそ 握手ができるというものさ

 高射兵●分かりました 地獄の釜の前で誓い合おう兄弟よ
水掛け論も興ざめなこと らちの明かない言い訳合戦など
閻魔様のお白州で通用するものでもないだろう
俺たちはもう許し合う不遇の身
きっと俺が山の上から見たものも
君が空の上から見たものも そこで途切れた文明の化石…
あれは月の世界のように 音もなく死んでおりました
やがて新しい地帯類がうっすら覆い隠してくれるでしょう
しかし閻魔が見て見ぬ振りをしながら ほくそえんでいることも合点だ
すっかり忘れろ 仲直りだ… 怨恨は忘れる以外に方法なし
やはり地獄は人間だけに設えたステージでした 
閻魔も悪魔も人間も ルーツを辿ればエデンからの追放組
しかしあれらが地獄でないなら 地獄の釜に焚きくべる燃料にちがいない
文明の化石が増え続けるかぎり 地獄の釜を消すこともないのですからな
否 地獄の釜を維持するために 閻魔はカタストロフィーを求め続ける巧みな仕掛人

 閻魔●正解だ、名答だよ 
わしの仕事場も鬼たちも人の魂で食っているもの
かさぶたは地獄の釜の貴重な固形燃料 蛆虫どもは鬼を養うタンパク源のベストミックス
我が地獄を存続させるには惨劇と罪人の安定供給が不可欠なのだよ
さあ、君たちの運命はこれで決まった おめでとう
鬼たちよ芥子畑の落し蓋を開けよ この二匹の罪びとを釜の中に投げ込んでやれ
二人とも現世の毒気で麻痺して シズル感を求めているのだ 
爆弾雲の下で起きている灼熱地獄の再現じゃ… 
釜の中では平和も怨念も妄想もみな熔けてアマルガム あるのは苛烈な苦しみだけさ…
平和も怨みも憎悪もヒラメキもみんなみんな燃えちまって消えちまうのさ 

どこへだって? これはまたあどけない子供のような質問
高い高い虚無の煙突から宇宙に向けてに決まっている 
苦しみだけをリサイクルするシステムなのだ 地獄も地球も
世の中が幸福で汚染されぬよう… 我々は日々努力しているのだ

 
永遠回帰

犬に追われたテロリストが
けりを付けようと樹海に入った
格好の枝があちこちにあったが
なかなか決められず
迷っているうちに出直したくなった
途中で死にかけている老人を見た
うつろな眼差で男にウィンクし
「お前とはまた会うだろう」といった
男は三日三晩歩き続け
再び老人の所に戻ってきた
「お前は回るばかりだ。死ぬまで歩き続けるがよい。次に会うときは私も亡骸になっているだろう」
しかし三度目の遭遇でも老人は生きていた
「ここは小さな地球さ。回り続け、あらゆる事象も空回りする。日は沈み、昇る。愚者は死に、生まれる。争いは終わり、生じる。地球が閉じられている限り、生き物たちも空しく回り続けるだろう」
「そして人類はいずれ消滅し、新たな猿どもが生まれるというわけか」
「そう、出口はないのだ。回帰するしかない。地球も脳味噌も殻から出たら破裂する。お前の猿知恵は大玉の内側をバイクで回るサーカスさ。音ばかり大きいが、大した技じゃない」
「しかし宇宙は広がり続けているじゃないか」
「ビッグバンはお前が引き起こしたのだろ。そう、泉の広場でさ。宇宙が広がり続けるのは、お前の同類が絶やすことなくやらかすからさ。そうだ宇宙もまた、空回りを続けているのだ。そして、その活力となっているのが、お前の心を満たしているダークエネルギーだ。およそ虚空のある限り、得体の知れない力が宇宙を浸潤し、爆発を駆り立てるのだ。お前の心のちっぽけな宇宙も同じさ」
「俺の人生は空回りの連続。前に進んでも、いつもお前に出会ってしまう」
男は自虐的にわらい、ようやく理解した。虚無は電気抵抗のない円環を回り続け、エネルギーを減らす術がないことを。そしてそれは、若者の心に入り込み、時たまリークして爆発することを。偶然男が手にした爆弾から、拡大宇宙が誕生したことを。そして、宇宙はどこもかしこも、ダークエネルギーに満ちていることを…

 
ネアンデルタール

お前らホモ・サピエンス
俺はネアンデルタールの英霊だ
か細い心でいつもおののき
平穏を愛し、大げさなことは大嫌い
風に背を向け、戦う前に滅び去る
かつて俺たちはエデンの園にいた
お前らの高慢は神の怒りに触れ
俺の気弱さは神の失望を買った

俺はお前らに愚弄されるため
お前らは俺を愚弄するため
仲良く追い出されたのだ
ここは焦熱地獄 
太陽に背中を焼かれ
深い洞穴に逃げ込んだ
ところがお前らは
太陽を浴びながら風を切り
殺し合いにうつつをぬかす
面の皮の厚さ 立ち直りの早さ
地獄を天国に変える錬金術

薄々気づいているだろう
どちらも神のなぐさみもの
そして俺はお前ら専用の踏み台 お前にとっての悪
悪賢いヘビの弟子となり 園を追われたお前らは
だまし討ちを覚え 悪を踏みつける喜びを知った
まずは小手調べに俺を蹴りつけ
異種の純血を汚してやろうと 妻を陵辱する

きっと百一獣の王は二人いらない
しかし内輪揉めは手ごわいぞ
嗚呼、罠に掛かった亡者の叫びは
お前ら獣の耳には妙なる調べ
あるいは聖戦への進軍マーチ

神はネアンデルタール
お前らのコマセに撒いたのだ
まるで地球はコロッセオ
俺は地中に隠れたハリモグラ
きっとお前らにわらわれるべく
神ははなから望んでいたのだ
弱肉強食の設計図をひけらかし
ダーウィニズムはこの世の掟
勝者にこの星を与えよう
勝者のみが正義だと…

死屍累々たる敗者たち
弱きものの怨念が飛び交う
無念の涙が露と化し
草の裏に息を潜めつつ
道行く子供を選別する
痩身蒼白 臆病者のヨチヨチ歩き
腐った肺から飛び出た痰のごとく
粘着力で坊やを捕らまえた
飲み込んでおくれ 不気味な遺伝子を
立派なコマセに育てましょう…
泣きんぼはネアンデルタールの末裔 
穴倉を住処とする生きた屍
否、生餌 死ぬための生命体
太古から細い糸で結ばれてきた
淘汰すべき感性 うじうじした精神 空回りする妄想…
嗚呼、サピエンスの血に注いだおいらの滅亡遺伝子よ
ずっとずっと祟り続けろ

いやいやネアンデルタールは呪えない 怒れない 
蟻んこを踏みにじる快感を
憤りがすべての勇気を
俗悪という名の正義を
なにはともあれ
お前と俺は別の生き物 
だからこそ前祝だ
お前らホモ・サピエンスの滅亡を祝して
もうすぐ、きっと俺たちの少し後
最初は弱きものから…
おいらの血に怯える者から…
それがこの星の乗車マナーというものだ

寒風に晒される蓑虫の
無防備なボロをまとい 不規則に
あてどなく揺れ続ける悪しき遺伝子
ネアンデルタールの末裔という不名誉
弱き息子たちよ 同じ土俵に上がるな
この堕落はきっと悪質なゲームだ 
お定まりの結末… 宇宙の摂理 
神様の仕組んだ… 夢の中の… 
そう、悪夢の中のシナリオ
名作は始めに結果ありき…
神は最初に結末を書いたのだ


ポンテベッキオの宝石屋

赤く染まったアルノの流れを
いくたびも見つめ続けてきた老橋に
客のいない店がある
「宝石屋」の看板に二つの弾痕

ショーウィンドウには
フニャフニャに融けたベッコウアメの
創作菓子にしては不味そうな
だが色あせた琥珀色や苺色や水飴色の
エトナから流れ出る溶岩のような不気味なやつも
アメーバみたいな見る者を不安にさせる不定
流れるままに任せて固まった偶然のアートたち
窓越しにからかう者はいようが
入ってまで冷やかす物好きなんかいやしない

僕はしかし かび臭い色香に驚いて興味津々
不覚にもドアを開けてしまった
蒼白い顔色の痩せた女主人 
年老いた だが品のある…
ショーケース越しにぎごちなく微笑み
お客様はひと月ぶりですわと…
いや僕は客ではありません グヮルティエル・マルデという貧乏学生です
これらの濁った色に惹かれたのです ピュアでない
偶然を装う自然の必然とでもいうような…
ただただその名前が知りたかっただけ…

宝石はみんな神様の御意志で創られるのです
でも宝石の命名権は手に入れた方にありますわ
いえいえ例えば琥珀、瑪瑙、蛋白石など…
女は琥珀色の雫を連ねた首飾りを取り出し
琥珀は不吉な宝石でもあるのです、…と
それはそれは遠い昔 恐竜たちにむしられ剥がされた
木々の涙がさざれ石となって漂着したタイムマシン
触ってごらんなさい 傷口は頑なに熱を閉じ込め
冷えることなく続いてきた怨念の結晶 されるがままの無力感ゆえに…

ならば壁にかかった超新星の爆発痕は? 
鮮やかな深紅と漆黒が織りなす瑪瑙は激しい怒り
火がついてしまえばもう止めることはできない
女は流れ落ちる血糊を壁から剥がし歴史的な壁飾りよ、…と
嗚呼黄ばんだ壁紙がくっついている まるで引きずり回された皮膚だ… 
石になるにはあと数万年は必要です きっと人はもぬけの未来への遺産
触ってごらんなさい 憎しみで煮えたぎる血潮が沸々と
冷えることなくくすぶり続くレジスタンスの結晶
負け犬の血糊は壁に走って素敵な宝石になるんです 

ならばその半透明で少し黄ばんだ可憐なイヤリングは
女はショーケースからひと雫を手に転がしながらうっとりと…
触ってごらんなさい 残されたものの涙はオパールです
繰り返し繰り返し貯め育てた悲しみの結晶 遅々として…
閉じ込められた虹のかけらは思い出たちに違いない
嗚呼奥さんもったいない 貴重な原液を垂れ流してはいけません
いいのです 私の涙はおおかた水ばかり 味も塩気もない条件反射
虹の出ないオパールなんてただのガラクタよ
もう夫の顔もとっくに忘れてしまいましたから…

 

節穴

いつか遠い昔
誰かに頬っぺたを叩かれたとき
目に火花が散って
網膜に小さな穴が開いた

それは用もない節穴だったが
覗いてみると万華鏡で
数知れぬ昔人たちが
数知れぬ昔人たちに
頬っぺたを叩かれていた 

若い女に叩かれた男がいた
親に叩かれた子供がいた
夫が妻に、妻が夫に叩かれていた
生徒が教師に、教師が生徒に
部下が上司に、兵隊が上官に
大臣が王様に叩かれていた
奴隷が主人に、蛮族がローマ兵に
町人が浪人に、落人が百姓に
皇帝が夷狄に叩かれていた 
愛国者愛国者を叩いている

男は頬っぺたを
誰かに叩かれたことを思い出した
地下の拷問室で
後ろ手に縛られ…

戦場の母

だいぶ昔のこと
すっかり忘れちまったが
僕は母親の腹の中にいて
柔らかな胎盤の和毛に守られつつ
人生で一番幸福な時を過ごしながら
きっと何かを考えていたにちがいなく
必死にそれを思い出そうとしている

たぶん母親が祈っていた
僕の命のことだったかもしれないし
僕自身がその命を祈っていただろう
へその緒でしっかりと結ばれた
母親という大きなおまけだったかもしれない

そいつはきっと打ち上げロケットのように
僕を広大な虚無空間まで運び上げると
ここぞとばかりに一気に切り離し
僕は驚いて泣き叫びながら
裸のまま手足をバタつかせ
居心地の悪い別世界に着地させられた

嗚呼、なんという裏切りだろう
僕は慣れ親しんだ住家を追われ
仕方なく虚弱な足を奮い立たせ
虚無の大地に始めの一歩を印したのだ

もうだいぶ時が経って
命を弄びながら機銃を抱え
荒廃した大地に足を踏み入れて
慣れ親しんだあの家を覗いてみると
ミサイルで壊された瓦礫の中に
忘れちまった最初の揺籃が
朽ちた姿で転がっていた

嗚呼、どうしちまったんだ
地獄と変わらぬ世界に揉まれて
驚いて泣き叫ぼうにも
僕の涙はすっかり枯れ果て
胎盤の香りに似た腐臭を浴びながら
機械的に母を抱き上げ
目をつむって何回もキスをした
かつて彼女がこの頬に
がむしゃらにやったみたいに…

 収縮をはじめた宇宙

遠い未来 恐らく数千年も先のことだ
その先の未来は過去であるというおかしな事態が発生した
膨張する宇宙は宇宙の果ての壁にぶつかって
本能的に収縮をはじめたに違いなかった
人々は宇宙が巨大なアメーバであることを発見したのだ
宇宙が収縮をはじめると 究極の目標はビッグバンに設定される
無限大のシリンダー空間から砂粒以下のハナクソまで
宇宙の運動は巨大なピストン運動であったことが実証されるだろう
人々はそんな途方もない御伽噺の中で生きていることに失望した
特に科学者にとってもっともやっかいな問題が発生した
宇宙の収縮期においての時間の取り扱いである
時間はアインシュタインの予言どおりに逆流を始めたのである
世の中はまるでフィルムを逆に回したように過去へと退化していった
いやこれは見方によれば進化とも言えるし 変わりゃしないという奴もいるだろう
しかし世の中でいちばん喜んだのが幽霊どもに違いなかった
骨壷は墓から引き出され 焼場で再生されて肉付けされ
魂を吹き込まれて遺族の元に帰っていった
もちろん喜んだ遺族もいれば悲しんだ遺族もいる
遺産をもらった息子や再婚した妻には深刻な問題が発生した
殺された人間は生き返って殺人犯を捕らえるが
そもそも生きているのだから殺人はなかったことで和解した
幽霊の次に喜んだのが老人たちである
白髪は黒髪に 禿には毛が蘇り むらむらと異性を求めてうろつきはじめた 
ところが政府が調査をして意外な事実を発見した
多くの貧乏老人がまたまた辛い人生を繰り返すのが嫌で自殺を試みたという…
しかし宇宙の収縮期において自殺は不可能なパラドックスである 
人のみ授かった唯一の特権を神に取り上げられてしまったのだ
全宇宙の起点は逆転した すべての人間は母胎に戻って死んでいく
嗚呼 この事実が新たな課題を人間に投げかけた それは寿命の問題だ
もっとも喜ばしいと同時に悲しい出来事は 死んだ幼子が蘇ったことなのだ
幼子は墓場から出てすぐに母親の子宮に戻り消えてしまった
母親はしぼんでいく腹を擦りながら別れの涙を流した 二度の絶望…
世の中はもちろんのこと 人生も悲喜こもごも…
時間が逆行しようとするまいと 慣れてしまえば同じことだ
いや 慣れる以外になにもできない無能な人間ども…と言うべきか
ただひとつ 余命がはっきりとして人々は覚悟を決め
その分少しは賢くなったに違いないが 
ささやかな財産は子供にもどって落としてしまった 
嗚呼 そして人々はようやく理解することができただろう 熟成も老成も無味乾燥
世の中なんにも変わらなかったということを…
今はあの戦争の最中だが 兵隊たちはゾンビのように蘇り
嬉々として鉄砲を打ち合っている 
死への恐怖をまったく忘れて…

向日葵畑

幅の狭い
ずっとまっすぐな
ぬかるんだ道
どこまでもどこまでも
枯れちまった向日葵畑
今日も老女は
デートのときの
朽ちたドレスを着て
松葉杖を支えに
いつもの所まで来ると
深いため息でキョロキョロ
家の近くの遠い道

てのひらを陽にかざし
どこだろうねえ
この指は……

若かったとき
赤ん坊を抱え
地雷を踏んだ
左の足と左の薬指と
左の胸に抱いた
生まれたばかりで
死んだばかりの
赤ん坊が砕け散った
犯され生んじまった娘さ

敵に連れ去られたと嘘を言い
あのとき流すはずの
小川の近くに埋めた
干からびた左足と一緒に…

戦地で死んだ恋人は
いつになっても戻らない
誰もいない墓を造った
隣にちゃっかり自分の墓も…
こっちはあたし
あっちは形見
亡くしちまった指には
婚約指輪がはまっていた

向日葵が満開になると
なま暖かい風に揺られて
金色に輝く何かを見た
少し離れた畑の中で
夏の光をキラキラ撥ね返す

お日様を元気に見上げる
丈の短い小さな向日葵
子犬のような円らな瞳で
眩しい世界に驚いている
白茶けた細首には指輪のチョーカー
嗚呼奇跡だ どうしましょう
婚約指輪を押し付けて
殺しちまったんだ 
鶏みたいにさ

パアンと悪魔の音が蘇り
鋭い悲鳴が飛び散って
頭のどこかがプツンと切れた
耳を塞いで倒れ込み
開いたまま地面を叩き 
搔きむしられた大地の底から
大袈裟な声を絞り出し
地獄に届く罵声を上げる
チクショウ!

嬉しいやら恐ろしいやら 
まるで恋人の骨でも見つけたように
泣き叫びながら小川に向かって 
匍匐前進を開始した
嗚呼 幸せな家庭を築くんだ
まるでおままごとみたいにさ…

 

 SOLDATO SCONOSCIUTO
_天国からの手紙_

セレネッラは清掃員だ
任されたのは無名戦士の墓
広い広い芝生の敷地に
石の墓標が並んでいるけれど
この一画には名前の代わりに
「知られざる兵士」と書かれている
彼女がここを任されたのは
他の仲間よりは静かだからさ

仲間の連中ときたら
名前がないのをいいことに
勝手に名前を命名して
語りかけたりする
やあジョバンナ、元気でいたかい?
ハイ、アントニオ、今朝は朝露を飲んだの?
カルロ、生きてたらきっとモテモテだったわよ
エットーレ、また夜中うろついたでしょ!

息子の骨を返してもらえなかった親が
「君は僕のマリオかい?」なんて花一輪置いてくのを
いつも近くで見ていたからなんだ
年取った親たちは
どこかに息子がいるって信じ
小さな奇跡を期待してるんだ
花束から一本ずつ抜いて
一つひとつの墓に置いていくのさ

だけど墓はいっぱいあるから
花束はすぐ無くなっちまう
そしたら、今度は次の墓から
始めるってわけだ
みんな、自分の息子が恋しいのさ
息子の骨だと信じたいのさ
この墓地に、息子がいると思いたいんだ
自分たちも、息子の隣に眠りたいからさ

セレネッラの仲間たちは赤の他人だから
萎れた花をいちいち片付けるのも面倒だし
皮肉半分に耳に入った名前を使っちまうんだな
好きだった誰かの名前かもしれないけどさ

でもセレネッラは仕事中も休憩中も
何も喋らずニコニコしているだけなんだ
けれど時たま箒の手を休めて
悲しそうな眼差しで墓を見つめ
暗い顔して深いため息をつくのさ
言葉にはならなかったけど
きっと仕事が辛いにきまっている
彼女はもうけっこうな歳なんだ

ある日、墓の一つに薄汚い紙が乗っかっていた
セレネッラはそれを摘まんで丸めようとしたけど
薄いインクで何か書かれているのに気付いたのさ
そして初めて大きな声を張り上げたんだ
「アンジェロ、貴方だったのね」
彼女はそれから、墓の前で泣き崩れたのさ
疲れてたんだ、良くあることさ
それとも、昔の彼氏でも見つけたのかな…

 送る花

死んだ仲間たちの穴に花束を投げ入れよう
ネアンデルタールの人々がそうしたように
そしてその伝統を我々が引き継いだのなら
色とりどりの花を並べる店が消え去っても
雪解けの野辺に生える草の小さなつぼみを
涙で濡れた傷だらけの手で優しく摘取ろう
つぼみたちは常春の天国で力強く開花して
ほかの花々と目覚めた仲間たちを祝福する
猿どものしがらみから解放された愛の象徴
たとえ信じられない過酷な世界が襲っても
春が来れば花たちはつぼみを綻ばせるのだ
不条理な死を遂げた人々に野の花を送ろう
ただひたすら倹しく穏やかな来世を願って


無言歌

まだ人々が生きていた少し未来のこと
彼らの祖先は大きな戦いを生き抜いて
死んだ者へのせめてもの償いを考えた
心の中の悪いもの汚いものを洗い出し
小さな胃袋に一つ一つ丁寧に積み重ね
剝き出た廃墟の上に一気に吐き出した
吐液は血色の瓦礫をじわじわと溶かし
永い間の風雨と風雪がそれに加わって
灰と血を混ぜた斑模様の土に変わった
血に飢えた兵士の迷彩服にも似ていた
それでも肥沃な土から植物たちは育ち
知らぬ間に深い森に変わってしまった
人々は昔起きた出来事をすっかり忘れ
朝には小鳥たちの歌声で目を覚ました
恋人どうしは愛を語り合うこともない
人々は語り合う言葉を失っていたのだ
彼らの心には美しいものだけが残って
それらは言葉などなくても通じ合った
小鳥のようにメロディアスにさえずり
最後は哀調を帯びたマイナーで終った
まるで古の悲しみを思い出したように 

 

 丘の一本樫
 
村はずれの禿山に生えた一本の樫の木
双葉から老木への五○○年もの間
住人どもを一瞥してきた
昔は走り回る人間がうらやましかった
崖っぷちに囚われ、風にからかわれるがまま
年輪を重ねるうちに賢しくなった
自由である人間の不自由が分かり
不自由な大木の自由も分かった
人間にとっても樫にとっても
一年を乗り切るのは至難の業だ
しかし孤高の樫には立ち枯れる自由があった
群れなす人間どもは死の自由さえも奪われ 
互いの体を絆で縛り合った
嗚呼、運命共同体という不自由
男どもはせわしく動き回り
王や地主に頭をペコペコ下げた
子供たちは腹を空かせ、弱い子は強い子に盗んだ実を捧げた
女たちは金持ちの男に色目を使った
老人たちは物乞いのように息子の顔色をうかがった
人間どもは、薄汚れたねばねばしい縄で結ばれ 足を絡め取られ
断ち切ることもできずに脱腸のように引きずっていた
寝床で死のうが野垂れ死のうが
しかし死ぬときは穏やかな顔つきになり 
それは闘争が終わり、天から自由が来た証だった
しかしつかの間の喜びは蛆となり、たちまちにして朽ちていった
比べるに、一本樫は五○○年泰然として穏やかだった
大風で軋ることはあった
寒さに震え上がることもあった
喉がカラカラになったこともあった
しかし怖くなかった 孤立していた
守るべき誰も抱えていなかった
大樹の心を持っていたのだ それは仲間を知らない心だ
春には無骨な根塊から栄養がなみなみと上がってきた
葉を通して太陽の恵みが降り注いだ
比べるに、人間は春を夢見るだけの飢えた動物だ
貧乏人はまだしも、地主も王様も夜には夢を見た
さらなる高みへと 収まらない欲望が募り 
下卑た狡知を加速度的に育ませた
しかし樫は 哀れで愚かな人間が好きだった 
樫は、夢見ることがまったくなかった
ただ見守るためだけに生きてきた老木だった
「私が生まれるずっと前から、彼らの祖先は捕食者を恐れる性格を持ち続けてきた。その恐怖が妄想を育み その妄想が悪知恵を生んだ。そしてその妄想は生きがいとなったのだ」

あるとき 村の利発な少年が樫のところに来てたずねた
あなたは五○○年も生きているのに父さんはなぜ四○年で死んだの?
人間があなたと同じくらい生きられる方法はないの?
坊や それは実に簡単なことなんだ
トカゲの尻尾が切れても伸びるように
嵐で吹き飛ばされた私の枝もまた伸びるのさ
それはすべての生き物の特権なんだ
そう、人間も例外ではない まだ知らないだけさ
老人の細胞を赤ん坊の細胞に置き換えるだけの簡単な話なんだ
少年は大人になって不死の薬を作り出し 王様に献上した
そして王族と金持ち連中は 五○○年の寿命を得ることができたのだ
そして世界はいつしか 少数の長寿族と多数の短命族に分かれてしまい
短命族は長寿族の奴隷となった

芽吹いてから一○○○歳の誕生日を迎えた日
悪魔が天から降りてきて第七の枝に腰をかけた
俺は小鳥ではない、神の使いとして降り立ったのだ 
お前に一○○○年もの命を与えたのは
人間どもの最後を見届けさせるためだ
人間を愛しすぎ、神の秘儀を漏らしてしまった罰さ
神はすべてを平等に創造されたのだ
すべての生命に 相応の命を分け与えるため 
あえて単純なからくりを試されたのだ 
神は人を見くびったが人も神を見くびった
生命の神秘は川に沈む黄金の指輪に等しい
指輪を手にした者は人類を滅ぼすことになるのだ
プロメテウスは神から火を、お前の少年は不死を奪った
神は二度も愚弄され、去っていった
神は死んだのではなく、去ったのだ 
天は消え、人の上には人が造られ、人の下には人が造られ
人は人の道具として生まれゆくようになった
もはや人は神が創られた生命ではない 
人が造った機械に過ぎない それは怪物だ
神はすべての生命に従順さを求めてはいない
しかし怪物が神の代わりになることには耐えられないのだ
さあ樫よ、プロメテウスの子孫にその意味を示すときが来た
目には目を、火には火を
悪魔は枝の上でタバコに火を点け、そいつを枝葉に押し付けた
老木は巨大な松明となってファイアストームが起こり
一瞬にして、愛すべき丘の下の家々を焼き尽くしてしまった

 

 ハンスト・エレジー

僕はレストランでステーキを頬張りながら
あの断食芸人のことを思い浮かべているのだ
なぜ死ぬまで断食を続けなければならなかったのだろう
きっとあいつの体は純粋で
異物を体内に取り込みたくはなかったに違いない
おそらくあいつは僕以上に偏屈な男で
外部から栄養を取らなければ死ぬという
この星のシステムを嫌っていたからに違いない
だって明らかに金のために断食をしたわけではない
明らかに意地を張って断食し続けたわけではない
明らかに自慢をしようと思ったわけではない
客にバカされていることは分かっていたのだから…
ならばこの世が嫌になって、死のうとしたのだろうか…
そうだやっぱり、この星のシステムの問題に違いない
あいつはこの星の住人であることを恥じたのだ
断食というルーチンを終えた後の開放感を恥じたのだ
習慣化した断食明けの食欲を忌み嫌ったのだ
そうだあいつは食うという行為自体を恐れたのだ
なんという恥ずべき行為だろう
牙をむいて肉を噛み砕く下卑たしぐさ
食って、消化して、便を垂れるというえげつないしぐさ…
嗚呼グロテスクだ、耐えられないぜ、この世のシステム
あいつは詩人のようにナイーブな男だったのだ
僕は急に気分が悪くなり
便所に駆け込んで牛のように吠えながら
盗んだ金で食らいついた
高価な肉塊を全部吐き出してしまった

その明くる日、僕は逮捕され
あげくに不法滞在で入管施設に収監された
嗚呼グロテスクだ、耐えられないぜ、この世のシステム
どこに行っても自由に生きられないなんて…
街中に迷い込んだイノシシ以下じゃないか!
僕はあの断食芸人のように
ハンガーストライキに突入した
仮放免を期待したからだって?
冗談じゃない!
砂漠の夜空に輝く満天の星を見てごらんよ
あそこには、こことは違う世界が広がっているって
子供の頃、イマームから教わったんだ……
僕はあの断食芸人に会いにいくことにしたのさ

 

 戦場の詐欺師

昔、指を患者の腹に差し込んで
心霊手術をする詐欺師がいた
腹から血が出て、医者も騙されたが
血は豚の血で、患者の腹の中はもとのままだった

尖った耳の宇宙人も、その手の詐欺だと疑う人は多かったが
一夜の空爆で廃墟と化した町に、多くの母親たちが集まった
肉の欠片があれば、そこから新たな生命が誕生するのです
砕け散った息子や娘の肉を瓶詰めにしてアラック酒を注ぎ
宇宙人の前に置き、焼け残った財産をすべて提供した

ひと月後に宇宙人は笑顔で現われ、母親たちに告げた
成功しました、皆さんのお子さんを再生することができました
トラックの幌の中から、たくさんの赤ん坊が運び出された
足裏には、死んだ子供たちの名前がマジックで書かれていた
母親たちは子供を受け取ると、狂喜し大泣きした
父親たちは諸手を挙げて宇宙人を神と讃えた

しかし赤ん坊はすべて、あの空爆の夜に
瓦礫の中をうろつき回る火事場泥棒たちが
死んだ母親の胸から首飾りとともに奪い取った
みなし児たちだった……

 

 鬼軍曹の死

自分が埋めた地雷を踏みやがった
五メートル浮き上がって
どでかい音が鼓膜を破った
首はもげて八メートル先の池に落ち
黄色いカエルを真っ赤に染めた
右足は付け根から十メートル飛ばされ
右手はもげても軽機銃を離さず
ドドドと撃ちまくりながら
敵陣十二メートルをひとっ飛び
銃剣がラワンの太っ腹に突き刺さり
台尻からキラキラ血が滴り落ちた
首無し胴体はそいつを見ることもなく
二階級特進してじたばたせず
泰然として砂地にソフトランディング

少尉殿は横目でそれを見ながら
死んだ奴は知らんとばかりに
奪還だ、奪還だと叫びながら
鬼の顔して部下たちを引き連れ
ジャングルの中に消えていった
やがて銃声が遠のくと
野良犬が三匹やってきて、キョロキョロと
もげた右足をウーウー引っ張りあいながら
仲悪く森の中に消えていった

最初に来たのは村の男でキョロキョロと
軍曹殿のポケットをまさぐって
時計や財布を巻き上げていった
次に来たのはバカンスにやってきた
ずっと昔に火あぶりで死んだ
北方の魔女たちだ
ちょうど昼時で腹が減ってたから
何世紀ぶりに魔女会でもしようということになり
沼から生首と赤ガエルを捕まえてきて
巻き付いてた血塗りの手拭いを
法王のマントみたいに
カエルに着せて仲良く並ばせ
どこからか大鍋を持ち出し沼の水を入れ
マングローブの根っこに火を付けた

湯加減が良くなったところで
まずは生首で出汁を取ろうと
魔女の一人が首っ玉を掴もうとしたら
生首が歯をむき出して手を嚙んだので
イテテと笑いながら手を引っ込めた
往生際の悪い奴だねえ
どうせあんたは腐るだけだろ
だからといってお前に食わす理由はないさ
仲間の勝利を見届けてからあの世に行きたいのさ
見るなよ、見ないほうがいい、見るべきじゃないさ
あんたの仲間は今日明日にも玉砕するんだからさ
だからといってお前らに食わす理由はないさ

ハハハと嗤いながら両手で鉄兜を引っ掴み
眼ん球を海のほうに向けやがった
そこには白い砂浜が黒くなるほど
地元の幽霊どもが蟠っていやがった
みんなみんな貧相な顔で飢えていて
スープができるのをじりじり待ってるんだ
首のない奴が両手で首を抱えてやってきて
軍曹殿お久しぶりです
こいつはあんたの刀で刎ねられた
おいらの愛しい首っ玉ですぜ
もう用なしなので
あんたと一緒にお鍋に放り込んでくだせえやし

小さな子供が十人しゃしゃり出て
お父さんお母さんを殺されて
おじさんたちが食べ物を残らず持ってったから
腹が減って死んだんだよ
早くおじさんの首っ玉スープを飲ませておくれよ
このままだと腹ペコで死んじゃうよ

子供が引っ込むと
服を裂かれた四人の娘がやってきて
無言のまま涙を流している
おいやめてくれよ、堪忍してくれ!
娘たちが二手に分かれて引っ込んだ間から
振袖姿の女が忽然と現れ
白々しく眺めている

嗚呼出征前に盃を交わした俺の女房
ヘエ空襲でねえ、お釈迦様でも知らんぜよ
私は晴れ着を出しておぼこに戻り
これから天国に行こうと思うんです
私のわがまま許していただけますか
許すも許さんも誰も地獄なんざ行きたくないさ
それに俺だって天国へ行けるかもしれんしさ
お国のために頑張ったんだ
准尉殿は死んでも鉄砲を撃ち続けました

すると魔女どもも村人も女房までもがナイナイナイと大爆笑
挙句に襟から逆三行半を取り出して軍曹殿のオデコに貼り付け
天国でいい人を見つけるのよと宣った
軍曹殿はそのイメージギャップに唖然として
軽く軽く軽々しく、天に召される女房を
重く重く重々しく、上目遣いに見送った
いつも寝る前にあいつの写真にキスしてやったのに
まあ俺の脳味噌をすすらなかっただけでも御の字か…

さあさあサイケデリックな大饗宴の始まりだ
魔女どもは箒に乗って空中を乱舞し
爺さん婆さんから小っこい子供まで
空中浮遊で過激に踊りまくる
みんなお祭りも喧嘩も好きなんだなあ…

さあいよいよ御首様の浸礼儀式が始まるぞ
マッチョの若者が二人、軍曹殿の鉄兜を厳かに取り去り
どっからかくすねた銀のトレイに首級を乗せ
坊主頭の上にカエル法王をちょこんと乗せる
二人がそいつを肩まで上げると魔女どもが降臨して
噛みつかれないよう、代わりばんこにキスを始めた
どいつもこいつも婆さんばかりで
気持ち悪いったらありゃしない
お次はゲリラ連中が首実検
こいつだこいつだと口々に
唾をペッペと吐き付けやがった
食材を手荒に扱うな!

さあいよいよ首っ玉の投入だ
トレイが高く掲げられると
ぐつぐつ煮えたぎる泥水が目の前に飛び込んでくる
驚いたカエルが跳びはねたが両足を縛られよって
かわず飛び込むお湯の音 ジャッポン!
おいおい本気でおいらをぶっ込むつもりかよ
五右衛門さんじゃないんだからよ

万事休すと思ったとたん
敵兵が五人ほどジャングルから飛び出して
敗残兵を探し始めたので首煮会は散会じゃ
幽霊どもはどこかへ消えちまった
九死に一生を得るとはこのことさ
ところが青二才の新兵が
軍曹殿の首っ玉を見つけてニヤリと嗤い
ジャップ!と吐き捨て
思い切り蹴りやがった

お味噌の少ない軍曹殿でも
さすがに五メートルしか飛ばなかったが
仲間の青二才がそいつをサッカーみたいに
波打ち際までドリブルで転がし
最後は海に向かって思い切り蹴りやがった ジャップン!

軍曹殿の鼻っぱしらは完全に折られたが
それでも鍋の具材になるよか百倍マシだ
軍曹殿はさざ波に弄ばれながら
走馬灯のようにクルクルと回転し
群がる雑魚を振り払いながら
涙ながらに故郷の歌を口ずさんだな

名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 首玉一つ
異郷の岸を 離れて
汝はそも 波に幾月
独り身の 浮き寝の旅ぞ
海の陽の 昇るを見れば
たぎり落つ 異郷の涙
思いやる 八重の汐々
異郷の鬼は 故郷の仏
いずれの日にか 国に帰らん…

 Muishkin gene

ムイシュキン公爵
発作で天に召されたとき
主治医は脳味噌を
ホルマリン漬けにした

百五十年後
好事家が発見し
若い学者に寄託した
「きっと地球外生物です」

学者は脳味噌を解剖し
くまなく調べたが
人類と異なる部分はどこにもない

薄切りにしてガラスに伸ばし
蛍光色素を垂らそうとすると
ふと、金色に光る
DNAに気付いたのだ

「生きているのか?
うようよいるぞ!」
電気泳動法を試すと
陽極に移動して
旋盤屑みたいに丸まり
金の玉になった

「地球だ!」
アフリカ、アメリカ、ヨーロッパ、
アジア、オセアニア、南極…
螺旋のスカスカを太陽風が抜けていく
からかうように、金粉を振り撒いて…

嗚呼、クルクル空回る金の鳥カゴ
極小宇宙の不都合な真実よ…
「貴重な宝がザルから逃げていくぞ!」
学者は悲鳴を上げ、倍率を拡大した

するとお日様の金粉が
螺旋のフィルターに引っかかり
にこやかに食らいついて
異常な速さで増殖している
まずは螺旋に金箔を貼り
ジクジクと沸騰しながら
金のペレットに育っていった

一握りの遺伝子が
地球をパンクさせないために
仲間をどんどん増やしている
「こいつら黄金の受精卵だ
倍々どころの騒ぎじゃないぞ!」

学者は雄叫びを上げた
ムイシュキンは人間だった
どこにでもいる人間だった
星々の狭間を暫し遊泳しながら
予言することなく帰還し、復活し
純朴な心でダフネを愛した
アポロンの末裔だった

そしてそのさらなる子孫が
力強く地球を支え始めたのだ
ムイシュキンは人間だった
黄金の月桂冠を頭に乗せ
永久に光明を失うことのない
人類のエッセンスだった…

ムイシュキンは人間だった
挫けることを知らない
どこにでもいる人間たちだった

爆弾?協奏曲(ウィル・フィル感染楽団演奏)

嗚呼ノーベルが生きてたなら
なんて嘆いてくれるだろう
俺はとうとう成功したぜ
ダイナマイトの数万倍も恐ろしい発明
世界中の爆弾を一気にぶっ放す特殊な電波発信機
十ドル札と一緒にポケットにねじ込み
世界各地を放浪しながら 気ままに気楽に軽い乗りで 
スマホみたいにポケットから取り出し
パチンとスイッチを入れると ピピピと電波が飛び出して
周囲五百キロ、地中五十メートル内にある
暇をあかせた爆弾野郎がカチンと切れて
ゾンビのように突然目覚め、いきなりドンパチっとデビューしやがる
小学校の校庭で いかした彼女の中庭で 大統領のお膝元で
おやおやこんな所にありましたかと気付いたときは後の祭り
はばからないでいっちまうのが奴らの懲りない燃え尽き症候群
驚きなのはその数の多さだよ 憎しみの数だけこさえてやがるよ人間ども
まるでニワトリさんの卵だポコポコ産んで 女の名前を貼り付けやがる
今日日ハマッているのが億万人の驚愕交響曲 人類の災禍を高らかに歌い上げろ!
いろんな時代、いろんな国、いろんな工房で 炸裂の音色は千差万別
古今東西の爆弾職人が執念でこさえたエレジーだ 嗚呼初演の日を思い描き…
ストラディバリ、アマティ、グァルネリと高貴な響きの野郎もいれば
薄っぺらな響きでパアンと屁ッこき未熟者もご愛嬌
学生さんの趣味でできちまったお気軽ポップミュージック
最初はみんなそうしたものさ ものづくりの基本は努力、怨念、妄想の積み重ね
期待してるよ新型爆弾 地球を砕く最終兵器
下手な野郎が混ざっていても一斉に火を噴きゃお構いなし
マーラを凌ぐオーケストレーションで 地獄の歌よ響き渡れ
俺はしかしタクトをぶつける天才コンダクタ 戦争付楽士長でございます
耳をつんざく響きの中から それぞれの野郎の音色やリズム、奏法はもちろん
スカやフカシも抜け目なく 聞き分けなければならんのさ
短い短いシンフォニーだが感動はひとしおだ 
瞬時の中に至福のハーモニーがあるんだよ 悪魔の協和音と人は言う
落下物の音色はあの戦争で使われた四枚翼の粋な奴 唸りを上げる回転羽が愛らしい 
エロチックなトルソーも錆付いちまったトレモロ過多のビブラフォン
カスタネットは手榴弾 テンポが転ぶよ、抜く投げるの基本を百回居残りだ
小太鼓大太鼓は親子爆弾 ドンドンパチパチ威勢がいいねトルコ風
ヒューヒュー奏でる横笛はお懐かしい焼夷弾じゃございませんか 
幽霊の騎行みたいで神々しくも気味が悪い
どいつもこいつも歴史的な殺人兵器 古爆弾演奏会じゃあるまいし
おやパラパラとピッチカートは近頃うるさいクラスター コーダの後の音漏れはご愛嬌
直線上のアリアはスマート爆弾 ガットがたわんでピンポイントに音が定まらん
おおいどおなってんだ 今日は原爆協奏曲三番「英霊」だぞソリストはどこに雲隠れ
しかしこいつは変わった演奏会 天地もひっくり返る作曲技法
最初がトゥッティで勇ましく 最後はヘラヘラアドリブ風に消えていく
イメージしたのはビッグバンさ宇宙も地球も目を覆うほどの残酷物質
いきなり刺しちゃあドラマにもなるめえ
嗚呼しかし演奏会が終わったのに 客は帰ろうとしない閉口だぜ 
「死ぬように」ってな楽譜の指示でフィナーレのところが
阿鼻叫喚ですっかり台無しだ 無教養な天井桟敷の客どもめ 
ポイントはフィーネだ宇宙に消え入る不協和音
虚無の余韻が不可欠なのだよ芸術には
何度も何度も引き出されるのはウンザリだ さらし首じゃあるまいし
はいスマート君、クラスター君立ち上がってお辞儀をしよう 
怒号が鳴り止まないのはアンコールのご要望 
分かった分かった不発の野郎を寄せ集め、軽く「死の挨拶」でもやりましょう
ほらクライシスがつくったプチ爆弾ですよ 小粋で洒落た小悪魔ちゃん
いやはやまいった客が本気で怒り出したぞ
トマトや卵、腐った玉ねぎ雨あられ 爆弾でも投げ付けかねない騒ぎだな
緊急事態だ幕を引け こいつぁまったく持続不可能
ならば持続不可能な社会に向けて 乾杯の歌で終わりましょう
持続可能な戦争 持続可能な爆弾攻撃 乾杯、乾杯、乾杯! 
アイルビーバック! アイルビーバック! アイルビーバック!
ボンボンバーン、ボンボンバーン、ボンボンドッカーン!
ハイ全滅。

 ジハード

生きているのが地獄なら
死んだほうがましだろう
戦いで死ねば天国に行けるのなら
誰もが戦おうと思うだろう

荒地の畑で採れるわずかな作物を食べ
死ぬまで生きるために暮らすのなら
麻薬の花を摘んで
少しは楽になろうと思うだろう

苦しければ苦しいほど
先がなければ先がないほど
追い詰められれば追い詰められるほど
若者たちは夢の中に逃れよう
そこには陽炎のように抜け道が見えるから

絶望の地で血を流し
希望の地に行けるならと
若者は爆弾を背負うのだ

嗚呼、何も知らない人々よ
貧乏籤を引いた彼らの心を
恐怖の眼差しで見てはならない
平和を願う心があるなら
大きな心で受け止めて
不都合な世界のカラクリを直そうと
共に考えなければならないのだ
人類には叡智があると信じて…

そうでなければ人類は
何も抜け道を知らない
愚かな動物に成り下がるだろう
ならばきっと、抜け出せないに違いない
あらゆる生物の、絶滅サイクルからも…

 ミラノの老女

町外れの石畳の上
カチカチに凍った椅子に腰掛ける老女は
近くのバールで用を済ませる以外は
三六五日二四時間椅子から動こうとしない
グロテスクにだって、それなりに理屈はあるというものさ
戦死した三人の息子が
老女の手と足にぶら下がり
必死になって地獄に落ちまいとしていると…
息子たちは英雄です 合わせて百人の敵兵を殺しました
なのに地獄の釜が息子たちの下で口を開いているんです
ごらんなさい この石畳の下深くに
古代ローマ時代に造られた地獄の釜があるのです
何世代もの兵隊たちが次々と グツグツと煮えたぎる釜の中で溶かされ
スープになっておりますわ 鬼たちが美味しそうに啜っている姿がほら見える…
けれど息子たちは英雄です 鬼の餌にするわけにはいきません
あたしだって暖かい部屋で温かいスープをいただきたいわ
でもここを離れると息子たちは落ちてしまいます
見殺しにするわけにはいきません 失いたくはないんです
お若い方 お願いです あたしは永くはありません
代わりに座っていただけませんか… 
その逞しい手を 息子たちに差し伸べてください
ほんのちょっとでいいんです あなたの命が尽きるまで…
だってあたしは息子ともども地獄に落ちるわけにはいきませんもの

 

 三途の川

物心がつくずっと前から
恐らく犬や猫がライオンのように大きく
浜辺に打ち寄せる波が巨大な高波に見え
色彩がダブルトーンで暗い影のように曖昧な時分から
確かな理想であるべきと脳裏に刻印された心象風景
幾万年もの永きにわたり 祖先が夢を育んできた希望の地
死ぬまで幸せの意味の分からぬ人間にとって
想像もつかない幸せに満ちていると人は言うけれど
誰もが夢の中で思い浮かべるに過ぎない彼の地「冥土」よ
いま私は、新大陸を発見したコロンブスのように胸をときめかせ
三途の大河に阻まれた楽園を遠眼鏡で覗き込み
百花繚乱たる無限の花園に驚き気後れし一抹の不安を覚えながらも
さらにもう一度苦しく忸怩たる思いの人生を振り返り噛み締め
ただただ逃れたい思いで再度入水を決意したのである…三途の川よ 
嗚呼なぜ私は深みを泳いでいかねばならないのか…
そうだお前もレーテーと同じように身も心も洗われて
あらゆることどもを忘れ去らせてくれるなら
善人御用達の架け橋などは進んでお断りするだろう
ならば清き人々は過去を洗い流すこともなく かの地で仲間と昔話に興じるなかで
私一人はとぼけ顔して「記憶にございません」と白を切り続けるに違いない
嗚呼善人ども… この世でもあの世でも楽しく暮らす果報者に幸あれ
さあ私は決意した まだ見ぬ幸せを求め、いざ三途の川に飛び込もう
絶対溺れずに渡り切るぞ!
ところが背後にただならぬ気配 鉄の臭いだ
バアンと大袈裟な炸裂音 銃弾が心の臓を貫通した
国境警備隊の野郎 川で溺れることもままならぬ社会に生きていたとは…

 

 

 

 

 

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「マリリンピッグ」(幻冬舎
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エッセー「 寝そべり族は超人か⁉」& ショートショート「雪男」

エッセー
寝そべり族は超人か⁉

 日本人ならほとんどの人が、「富国強兵」という言葉を知っている。この言葉は、明治政府が生み出したスローガンで、日本が欧米先進国に追い付くため、国を豊かにし、強い軍隊を作ることを念じて掲げたものだ。しかし最近の物騒な世界情勢を見ると、このスローガンは日本だろうが先進国や発展途上国だろうが、すべての国の国是になっていることを実感し、いまも昔も世界は変わっていないものだとつくづく思い、苦笑している。何となれば、多くの国の人々が自分を貧乏人だと思っていて、多くの国の人々が隣国から攻められ、奴隷にされるのではないかと恐れているからだ。

 そうすると、世の有り体は弁証法的に進化・発展しているわけでもなく、来世や前世が仮にあったとしても、そこに君臨する神様は、果たして理想の世界を創っているのだろうかと疑ってしまう。ニーチェは「千の目標が今までに存在した。千の民族があったからだ。ただ千の頸を一体とする軛が今もなお欠けている」と言った。同時に彼は「神は死んだ」と叫んだが、それは彼の理想とする「超人」が増えることを願ってのことで、実際には、無神論者が増えても神々は未だに健在だし、ニーチェが夢想した超人たちはどこに隠れているか分からず、富を追求する功利的な「超人」たちが世の中を牛耳っていることも昔と変わらない。ニーチェが生きていたら、世界は畜群だらけだと嘆いたことだろう。

 彼の言う「超人」は、現実を直視し、その不合理性を自身の努力で変えていく自力本願の人間たちで、各自が千の頸を一体化する軛となり得る自意識を持って世界を変えていく。神が生きていた時代は、信者たちは神託に従って意識を変えていった。しかし神の死んだ世界では、一人ひとりが神を頼ることなく、自己責任で意識を変えなければならない。それが「超人」だ。
 
 ニーチェは「永劫回帰」という基本概念で、神も天国も無く、この世界はすべての存在がまったく同じにように永遠に繰り返すと主張した。人間の意識以外は、人間を取り巻くあらゆる環境は無意味に繰り返し、その流れに乗って無意味な人生を繰り返すのが「畜群」で、その流れに棹差して、自らの確立した意志でもって行動するのが「超人」であると説いた。

 人間はアリ塚を造るシロアリのように、帰属本能の強い生物だ。世界中にいろんなタイプの組織を作って、その塀の中で安住しようとする。組織はピラミッド型のアリ塚と例えてもいいだろう。神が死ななかったのは、神もまた、この人的システムの中に組み込まれているからだ。千の民族がいれば千の神様がいて、千の国、千の支配者がおり、千の思想集団、千の会社、千の家族がいる。そしてそれらは千の個的目標を持っている。そしてその中に、異なる多様な意識・常識が存在する。

 この大小様々なアリ塚は千の万倍に膨れ上がり、その一つ一つに必ず女王(トップ)が君臨して、目標の実現に向けて統率・命令している。そして下部のアリたちは、その命令に従って労働し、集団が存続し続けるためにアリ塚の崩壊を防いでいる。そしてこの千の万倍のアリ塚は、自分たちを守るために、周りのアリ塚たちと競り合っている。その競り合いにも、一定のルールの中でのスポーツ的競り合いもあれば、勝手に隣のアリ塚を壊すような暴力的競り合いもある。

 この状況を軽く「競争社会」と言えば、競争の無い天国すら否定した「永劫回帰」の世界は、どっぷりニヒリズムに浸された世界だと言うこともできるだろう。確かに、この世界に過去のキリスト教のような統一的な神はいない。それは基本的に、絶対価値を失った殺伐とした灰色の世界だ。この世界では、一握りの人々が黄金を手に輝き、自らを神格化して輝き、その他の人々はワンオブゼムとして墨色にくすんでいる。墨色の人々は、豊かで幸せな人生を求めるだけの大衆で、ニーチェは彼らを「畜群」と軽蔑した。

 しかし彼らの基本的常態は「不幸」で、生きる意義や価値、目的を見失ってアリ塚の中を幽霊のようにうろついている。多くの人間は、神から見放されているのだ。そしてその鬱屈した心はルサンチマン(成功者に対する怨恨)で満たされている。女王アリは、このルサンチマンがアリ塚内で溜まり続けると、坑内爆発することを知っていて、時たまガス抜きのために隣のアリ塚に攻撃を仕掛ける。このとき、ルサンチマンを溜めていた兵隊アリの心が勢い良く解放されて暴れまくり、隣の巣の住人をことごとく食いつくし、祖国を守ったと胸を張って凱旋する。そして女王からまがい物のゴールドメダルを貰って悦に入る。しかし一階級特進したところで、墨色の脱色は叶わず、再びルサンチマンを溜め始める。永劫回帰の中で、古来より同じ光景が何百万回も繰り返されてきた。

 宗教社会では天があると決められ、天に召されるために人々は精を出す。マックス・ヴェーバーによれば、それが資本主義社会を発展させたという。それでは天を否定した永劫回帰の世界では、人々は何を目指して精を出さねばならないのだろう。ニーチェはそこで、自らが「畜群」と揶揄した一般市民に、「超人になるよう努力せよ」と神のごとく命令する。しかし残念ながら、超人に変身した人は宇宙人を探すようなもので見当たらず、永劫回帰のコンベヤーは今日日に至るまで、古代の軌道から外れたことはない。きっと多くの人々が、変身術を身に着ける前に脱落していったに違いないし、そもそも変身しようとは思わなかったに違いない。ニーチェはハウツー本を書かなかったし、仮に書いたとしても難解だったろう。

 ニーチェは、ニヒリズムに対応して生きていく態度には3種類あるとした。
〇受動的ニヒリズム(梅):絶望して諦め、やる気をなくして周囲の状況に身を任せ、流されるように生きていくこと。(ケセラセラ:成り行きに任せるのが楽だ)
〇無関心的ニヒリズム(竹):絶望から逃れるため、冷笑的に世の中を見つめ、自分では何も考えずに、他者からの働きかけも無視して、悟ったような賢ぶった態度で孤独に生きる(非行動:僕的ジジイの態度)。
〇能動的ニヒリズム(松):現実のすべてが無価値・偽りであることを是認し、それを前向きに捉えて、自ら積極的に既成概念を乗り越え、新しい価値を生み出していく(積極行動:虚無から有を生み出すトレジャーハンター)。

 ニーチェは、(松)をチョイスして自らを創造的に展開していくことが、鷹の勇気と蛇の知恵を備えた「超人」への道だと説いた。ここで重要となるのは「鷹の勇気と蛇の知恵」という言葉だ。人間が人間である限り、人類が続く限り、永劫回帰は続いていく。そしてそれに付随するニヒリズムも続いていく。そして回転寿司のようなベルトコンベヤーの上には、幾多のアリ塚がフジツボのように密生し、内と外で喧嘩を繰り返している。革命も繰り返している。変革も繰り返している。議会も荒れている。それらは永遠に破壊と創造を繰り返している。

 これらのアリ塚は、生きる価値を形にしなければ不安になるアリたちが、虚無のコンベヤー上に尻から出た泥を固めた居城で、稼動するコンベヤーの振動で始終崩れていて、アリたちは修繕に忙しい。しかし彼らはそのコンベヤーの土台すら認識していない。超人はそれを鷹の目で認識して人類が虚無に浸されていることを承知し、そこから蛇の知恵で新たな価値を築き上げていく人間だ。この永劫回帰のベルトコンベヤーは、時代々々でサンゴヘビのような多彩な横縞が入っているが、それは社会の常識が国や民族で異なり、時代によっても変遷することを意味している。人身御供が常識の古代と、基本的人権が常識の現代、昔の王国、民主主義国、共産主義国キリスト教国、イスラム教国では、そのカラーもおのずと変わってくる。

 しかし、いつの時代でも変わらないものが数本、シマヘビのような縦縞で続いていく。それは刻印され、消えることない人類の本能的な性(さが)だ。例えばニーチェの好きなルサンチマンだったり、支配欲だったり、金銭欲だったり、畜群的感性だったり、ニヒリズムだったりするだろう。超人は綱渡りのように、(松)のニヒリズムの上に立ち、鷹の勇気と蛇の知恵で足を踏外すことなく、普遍的な時の流れの中から、その場その場で新しい価値を釣り上げようとする。コンベアの川の底にはきっかけとなる獲物たちが潜んでいて、超人は太公望のように眼光を注ぐ。

 何が破壊か、何が創造かということは問題ではない。重要なのは、新しい価値は破壊だけでは生まれず、創造によって生まれるということなのだ。しかし、魚たちにも毒を持った奴がいるように、創造にも目利きが必要で、それが太公望の蛇の知恵ということになる。価値を生み出すのが創造だとすれば、受動的ニヒリズムも無関心的ニヒリズムも価値を生み出すことはなく、「能動的ニヒリズム」のみが、新しい価値を生み出すことになる。だからニーチェは、多くの人々が「超人」になることを願った。でなければ、物理現象としての永劫回帰のコンベヤーから、いずれ人類は降り落とされることになると思ったからだ。人間がいなくなったとしても地球コンベヤーが止まることはないが、人類にとってそれは切れたも同然だ。核兵器やAIが進化し過ぎてしまった現代、人間が畜群に留まることは滅亡を意味している。

 「超人」は常に理性を深めようと努力する人間で、それは宗教を抜きにした「人間革命」と言うこともできる。多くの人々の理性が深まると、千の頸が「理性」という軛の下に纏まり、反対に千の神、千の民族、千の国はおのずと消えていく。そして、世界は一つに纏まって人々は「世界市民」となり、真っさらなベルトコンベヤーに乗り移れるだろう。これは人類の永続に不可欠な大規模メンテナンス工事だ。従来のコンベヤーはいつ切れるか分からない状態になっていて、仮に部分断裂で済んだとしても、あまたの人々がこの世から消え去るに違いない。

 ならば、いま中国で流行っている「寝そべり族」は、松竹梅のどのニヒリズムだろう。最初に寝そべった駱華忠がディオゲネスを標榜したのだから、きっとそれは、ディオゲネス的虚無感に落ちた無力の(竹)的人間が、SNSを通じて多くの若者たちに向けて『怠惰への賞賛』をアピールした「松」的ニヒリズムに違いない。もちろん、樽の中に住んだディオゲネス自身、「世界市民(コスモポリタニズム)」を最初に標榜して後世の歴史に残っているし、同じように自称するアリ塚の中の我々は、樽の中のディオゲネスほどには、いまでも世界市民になり切れていない。世界市民は、世界中の人々が手を繋ぎ、家族のように富を分かち合う市民なのだ。

 現代は、資本主義国はもちろん、人民平等を謳う共産主義国、宗教国家でさえ、ピラミッド型のフジツボ構造をしている。なぜなら、永劫回帰のコンベヤーには「支配欲」や「金銭欲」の縦縞が人類の性(さが)として刻み込まれているからだ。いまも昔も、権力や富を追求する功利的な「超人」たちが世の中をうろつき、牛耳っている。ニーチェ風に言えば、「権力(富)への意志」だ。その功利性を自ら捨てたからこそ、ディオゲネスは胸を張って世界市民を名乗れたのだ。

 都市市民と地方農民の格差は広がり、職のない若者が増える一方で、職を得た労働者は苛酷な長時間労働を強いられる。ラッセルは一体誰のために働くのかと問うた。生きるため、家族のため、そして富と権力を志向する上部組織の人々のためだ。「寝そべり族」は、家族と上部組織に背を向け、生きるためだけに生きることをチョイスした。そして、他の若者にもその生き方を示そうとした。何のために? 新しい価値を創りたいと思ったからだ。そんな生き方しかできない社会を変えたいと願ったからだ。彼らは、鷹の勇気と蛇の知恵を持って寝そべったに違いない。それはガンジーの「無抵抗主義」にも通じるところがある。

 共産主義ソ連時代、怠惰な人間には「寄生罪」が適用され、ノーベル賞詩人のヨシフ・ブロツキーは流刑となった。いまのベラルーシでは、「社会寄生虫駆除法」が制定され、無職で税金を払わない者に罰金が課される。労働人口が減りつつある昨今、「寝そべり族」が巷に氾濫すると、中国にもそんな法律ができるかも知れない。アリ塚の内部構造が崩壊する悪夢を恐れるあまり……。しかし寄生虫は意外としぶとく、雑草のように広がっていくかもしれない。

(僕が不審死の場合はノビチョクを疑って下さい)

 

 

 

 

ショートショート
雪男

(一)

 多くの国が参加する月面開発共同研究事業から資金を受けている研究の一つに、「生物不凍化研究」というものがあった。一見難しそうな研究に見えるが、根底の理論は単純なもので、健康に害を及ぼさない安全な不凍液を血管に入れ、寒い夜の月面でも軽い宇宙服で活動できるようにするものだ。最近その不凍液を開発したというニュースが世界を駆け巡った。宇宙飛行士はこれをひと月に一回注射することで、極薄の宇宙服で―200℃近い月面を自在に動き回れるようになる。月面での臨床試験も数年後に始まることになり、準備を進めていたところ、思わぬところから地上臨床試験の話が来た。「月面でやる前に、まずは似た環境の南極でやってみたら」とスポンサーから研究所長に連絡が来た。 

 それはこの事業に多額の資金を投入している某権威主義国からの依頼で、断ることができなかった。研究所長はさっそくその国に飛んで、科学技術省の応接間に案内された。小一時間ばかり待たされると、科学技術大臣と、三人の刑務官に付き添われた囚人が入ってきた。彼の痩せた毛深い手には手錠が嵌められている。大臣はソファーから立ち上がった所長と握手をし、「まずは成功おめでとう」と言って、所長に座るよう促した。しかし囚人と三人の刑務官は立ったままだった。

「こいつは誰だか分かるかね?」と大臣は切り出した。
 男の眉毛は繋がり、髭はぼうぼうだった。所長が返答に窮していると、「北部に居座る山岳少数民族の族長さ」と続けた。
「しかもテロリストだ。裁判で死刑が言い渡されている。山で暮らす約千人ほどの民族さ。我が国の国教とは異なる、野蛮な宗教を信じておる」
「お前らの宗教のが野蛮さ。それに、おらが民族はお前らに殺されて千人に減っちまったのさ」
「そんなことはどうでもいい。お前の決意をここの所長さんに話すんだ」
 大臣は族長をにらみ付けた。

 族長はフンと鼻を鳴らし、「要するに、こいつら侵略者は俺たちの土地を欲しがっている。俺たちの山には、豊富なレアメタルが埋もれているんだ。このままだと、いずれ俺たちは皆殺しさ」と吐き捨てるように言った。
「余計なことは言うな!」
 大臣は所長に顔を近づけてニッコリ微笑み、耳打ちするように「千人の治験者が、君の研究に協力したいと願っているんだ」と囁いた。
「……と言いますと?」
「こいつらは南極に移住したがっているのさ。自ら進んでだ。山岳民族だから、寒さには自信があるが、南極は寒すぎる。で、君の大規模な治験に参加したいとさ。我々の差し金ではない。族長様の決めたことだ」
「南極で治験ですか?」
 所長は驚いて大臣に尋ねた。
「そうだ。治験者は多い方がいい。こいつらは全員テロリストだ。どうやら戦いに疲れたらしい」
 大臣は薄笑いし、バカにした目付きで族長を眺めた。

「疲れちゃいないさ。しかし先はない。多勢に無勢だ。国連も役に立たない。全員殺されるか、追い出されるかさ。で、敵の大臣様からお誘いを受けた。お互いウィンウィンの旨い話だという。南極は誰の土地でもないし、追い出されることもないってさ。人間アザラシになれってよ。しかし、二人の意見は一致した。絶滅よりかはマシってことだ」と族長。
 大臣は声を立てて笑った。族長も張り合って空笑いした。
「我々は固い握手をした。こいつは君の技術に、民族の運命を賭けることにしたのさ。ただ、こいつは心配している。研究費に大金を注いだ我々も心配している。さあ、自信のほどを述べて、我々を安心させてくれたまえ」

 所長は多少戸惑いながらも、「もちろん自信はあります」と胸を張って答えた。
「この不凍液は、人間に効くだけではありません。家畜にも穀物にも有効です。雪や氷に沁み込ませれば、麦も米も果物もそれを吸って立派に育ち、実を付けます。あなた方は広大な南極を緑化し、我が物顔で収穫物を輸出することが可能です」
 族長は思わず手錠の両手を叩いて喜んだ。しかし急に不安そうな顔になって、「しかし、不凍液は定期的に注射しなけりゃいかんだろ?」と聞いた。
「ご安心ください。薬剤の原料は現地調達が可能です。南極海の雑魚から採取した不凍タンパク質とポリニアと呼ばれる藻やある種の植物プランクトンなどから採取した秘密の成分を、秘密の割合で生理食塩水に投入したものです。現地に千人用のパイロットプラントを造れば半年で完成して、すぐにでも治験可能です。最初は国連の援助で食糧を調達し、一、二年後に農業用不凍液プラントができれば、自給自足も可能となります。もちろん、五年後には収獲物を輸出できるようになります」

 族長はもう一度手を叩いて喜んだ。安心した顔つきになって、「あんたは正直そうな男だ」と言って所長にウィンクし、大臣には了承の目配せをした。そして手錠を外され、テーブルに置かれた誓約書にサインした。

 「さあ、飛んでいけ。アジトに帰って、仲間たちを説得しろ。説得に失敗したら、俺はヒトラーとなる覚悟がある」
 族長はフンと鼻を鳴らして虚弱な胸を膨らませ、虚勢を張って出ていった。そして正直な所長も「頼むな」と大臣から励まされ、足取りも軽く出ていった。ヒューマニストの彼は、成功すれば多くの不幸な人々を救うことができると確信し、族長以上に薄っぺらな胸を過呼吸で膨らませた。

(二)

 族長の要望で、まずは南極にパイロットプラントを造ることになった。資金は依頼国から支給されることも決まった。半年後には各国基地から離れたタカへ山の麓にプラントは完成し、その周辺にブリザードに耐える難民収容施設ができた。民族全員が4隻の船に分乗して、移住することになる。所長は依頼国の港で全員に不凍液を注射し、自らも打った。全員が半袖の夏服で乗船し、迫害され続けた母国を離れて極寒の新天地に向かった。

 極夜明けの南極には、地平線上に太陽が見えていた。氷上に下船した千人は急峻な山々を眺めて歓喜の声を上げ、大型の雪上車に引かれた橇に分乗し、ピストン輸送で施設まで運ばれた。氷塊は夏のカキ氷のように彼らの肌に心地よかった。所長は改めて、不凍液の有効性を確信した。彼はこの不凍液が宇宙や南極以外にも、様々な用途に使用される可能性を考えた。そして、原料の豊富に採れるこの地が、一大生産地になることも予測した。来年度中に治験は終わり、不凍液の安全性が立証されれば、再来年からは大型プラントが建設されることになる。千人の難民もこのプラントで働き、賃金を得ることができるようになる。世界各地の難民たちが不凍液のお陰で、この広大な氷の大陸で自分の土地を持ち、思う存分に作物を育てることができるようになる。そしてこの場所には、難民を救った所長の銅像が、きっとジョージ・ワシントンのように立つことになるだろう。

 所長の帰国後、施設長と族長は、施設の横の氷上に網を敷いて不凍液を垂らし、種々の穀物と野菜の種を撒き、防風林の苗木を植えた。すると野菜は数日後に芽が出て、みるみる育っていった。氷の上に畑ができることを知った人々は、手を繋いで民族の踊りを始めた。大型プラントが出来れば、恐竜が闊歩していた時代の、緑に覆われた南極が再現されることになる。人々は施設の近くに祭壇を造り、大切に保管していたご神体を出して飾り、その周りで踊りまくった。それは紀元前に生きていた先祖のミイラだった。ミイラは痩せていたが全身に黒い毛が生えていた。彼らは、欧米人が時たま遭遇したと騒ぐ幻の雪男を祖先だと信じていた。現に彼らの神話ではそう謳われ、彼らもしばしばその幻影を見て拝んでいた。彼らは、自分たちが雪と氷の国に暮らせることを喜び、雪男の御導きだと信じた。

 人体に対する悪い副作用が確認されないまま、二年間の地上治験も終わりに近付いてきた。それが終われば、今度は宇宙飛行士の治験が開始される。所長は新たな治験の準備に忙しい中、数日前から自分の身体の変化が気になってきた。そしてそれが不凍液の副作用でないことを祈った。体毛が徐々に濃くなり、薄かった眉が毛深くなり、ひと月もすると左右が繋がってしまった。つるつるだった胸に胸毛が生えてきて、それが腋毛と繋がってきた。裸になって鏡の前に立つと、足も手も、全身の体毛が野獣のように濃くなっている。やはり、これは不凍液の副作用かも知れないと考えた所長は、慌てて飛行機でチリに飛び、そこから小型飛行機で難民収容施設に向かった。

 搭乗した小型飛行機のパイロットが所長を見て笑った。
「その毛むくじゃらは新手の防寒服かい? それとも時期外れのカーニバルかい?」
スターウォーズのウーキーさ」と所長はつまらない冗談で返した。
 飛行機から降りたとき、所長はすっかり雪男になっていた。黒山のような雪男たちが飛行機を取り囲んだ。パイロットはもうすっかり、これが何かのお祭りか新手の防寒服だと思い込んでいた。所長は殺されるのではないかと降りるのをためらった。しかし全員が、所長に向かって拍手をし、歓声を上げた。

 所長がタラップを降りると、一人の雪男が駆け寄ってきて抱き付き、毛むくじゃらの頬にキスをした。
「先生の助手の施設長ですよ。みんなみんな幸せに酔いしれているんです」
「先生、俺たちは地上天国を創ったんだ」と雪男になった族長が叫んだ。
「全員が祖先帰りを果たせたんです。全員が神の予言通り、かつての山岳帝国を取り戻し、神々の姿に戻って、新しい歴史を築くことになるんです」と誰かが叫んだ。
「我々は人類を超えて、超人に変身したんだ!」と誰か。
「新しい、最強の人類が始まるのさ!」
 所長は雪男たちに担ぎ上げられて、ご神体を奉る祭壇に向かっていった。この祭壇の前で、感激した所長はずっとここに留まることを誓った。

 一カ月後、捜索隊がこの地に訪れ、突然現れたこんもりとした緑地帯に驚かされながら、恐る恐る足を踏み入れ、その中心部で雪に埋まった施設を発見した。施設の内外に多数の死骸が埋もれていた。それらは毛むくじゃらの怪物で、凍っても腐ってもおらず、死んだ振りをしているのかも知れなかった。隊員たちは怖がって、近寄ることをしなかった。死骸は、不思議な香ばしい臭いを発していた。捜索隊長は、「生存者ゼロ」と本部に報告し、「但し、新種生物の可能性あり」と付け加えた。 

(了)

 

 

 

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エッセー 「天才とは⁉」& ショートショート「 アラジンと40人の浮気族」

エッセー
天才とは⁉
モーツァルトを考える~

  「天才とは、1%のひらめきと99%の努力である」とエジソンは言ったそうだが、後に「1%のひらめきがなければ99%の努力は無駄になると言ったのだ」と訂正したらしい。教育者は最初の言葉を広めて、「努力が大切だ」と子供たちに諭したいらしいが、その方向性が正しいとすれば、結局我々はダイヤモンド鉱山で働く労働者のようなものだということになる。

 仮に天才を夢見る凡人がいたとして、彼は1%のダイヤモンドを見つけるために汗水たらして地面を掘り続け、何も発見できずに無駄に終わる。ようやく大きな原石を見つけたとして、そいつを一生懸命研いて輝かせようとすると、大して価値のない水晶だった。ところが天才は、土の中のトリュフを探し当てるブタのような嗅覚で、確実にダイヤモンドの原石を見つけ、自慢の努力でもってピカピカに仕立て上げる。凡人と天才の違いは、普通の嗅覚を持っているか、ブタの嗅覚を持っているかの差ということになる(ブタがお嫌いなら犬にします)。しかし「瓢箪から駒」という諺があるように、がむしゃらに掘り進めていけば、奇跡的に原石にぶち当たり、周囲から「天才!」と称賛されることもあるわけだ。しかしその人は、本当の天才ではなく、単なる一発屋だったということだ。表現が悪いなら、「ラッキーな努力人」ということだ。

 それではこの天才的な嗅覚とは、どんなものだろう。身近な例で言えば、ES細胞とiPS細胞がある。両方とも医学に貢献する万能細胞だが、ES細胞は受精卵から作るのに対し、iPS細胞は大人の細胞から作る。ES細胞は1981年にイギリスで樹立された細胞で、未来の医学に貢献する画期的な細胞として世界的に脚光を浴び、京大でも多くの研究者がその研究を開始した。しかし、ES細胞には大きな問題点があった。それは人の受精卵を使わなければならないということで、倫理的にも宗教的にも問題視され、特にキリスト教の欧米で反発が広まった。

 そんなとき、京大で一人だけ、「そんなに反発があるなら、大人の細胞片から万能細胞が作れないものか」とひらめいたのが山中伸弥氏だった。そしてこのひらめきを信じ、周りの研究者が皆ES細胞になびく中、異なる方角から万能細胞という難しい山に登り始めた。途中で大きな絶壁に遭遇したが、自室でシャワーを浴びているとき、その攻略法をひらめいたのだという。この二つのひらめきこそ、iPS細胞の樹立に貢献した1%の天才的ひらめきだったということになる。そして当然、これらのひらめきに支えられ、残り99%の努力は報われることになる。

 当然、1%のひらめきはダイヤモンドの原石だが、残り99%の努力の中には、廃棄された沢山の水晶も含まれていた。しかし天才にあっては、凡才が掘り当てたありきたりの水晶とは異なる輝きを放っていたに違いない。天才とは、いままでにないものを掘り当てる才なのだ。天才が掘り当てた物は、たとえガラクタであっても、凡才が掘り当てた物とは異なる輝きを示していたに違いない。

 例えばそれは、小林秀雄の『モオツァルト』を読めば分かる。ひらめきは右脳の領域で、努力は左脳の領域だ。つまり、ひらめきは右脳が始終垂れ流している「妄想」の一部分なわけだ。右脳と左脳は連係していて、右脳が始終垂れ流すひらめきを観察していて、これは使い物になると感じたときにそいつを左脳に引きずり込んで、調理を始める。ひらめきは引きずり込まれた1%の具材で、あとの99%は調理という努力だ。そして調理中に時たま右脳の中に手を突っ込んで、さらなるひらめきという調味料を持ち出し、味を調えながら極上の料理を完成させる。山中氏に例えれば、最初のひらめきは具材で、二番目のひらめきは調味料ということになる。山中氏もエジソンも、きっとアインシュタインも、右脳と左脳は密な連携を保っていた。だから、右脳のひらめきに左脳が連動して、超難解な理論や技術を完成させたということになる。

 ところがモーツァルトはどうだろう。彼は左脳をさほど必要としない。画家はランチを食べながら、片手で周りの客たちをスケッチできる。しかし画家は単に、左手でフォークを握り、右手で鉛筆を握っているだけの話だ。それでもキャンバスに向かっているときのように右手を動かして、目に入る風景を描写すことはできる。右手でハンドルを握り、左手でクラッチをチェンジするようなものだろう。モーツァルトは、ランチで妻や友達と冗談を言いながら、友達の質問に的確に答えながら、妻のグチに対応しながら、左手(彼は左利き)では音符を書き続けていた。これはつまり、その状況で、右脳と左脳が分離していたことを示している。メロディーはひらめきの連続で、彼の右脳を音で満たしている。彼は右脳内のそれらを耳で感じ、まるで画家がレストランをスケッチするように、紙の上に音符として書き写しているだけだ。モーツァルトが右脳の妄想を楽譜に書き写しているだけなら、努力という左脳の出番はないということになる。おそらく左脳は、後になって書きなぐったそれらを、少しばかりの努力で人様に聞かせる作品にまとめ上げるぐらいなものだったろう。建築家の黒川紀章は、建物をイメージしたとき、各部屋の備品までイメージできたというが、恐らくモーツァルトの右脳内もそんな状況だったに違いない。彼は35歳で死んだが、626もの作品を残したのだから、左脳が介入して長い時間悪戦苦闘したとは到底考えられない。つまり、モーツァルトが天才なら、「天才とは、1%の努力と99%のひらめきである」ということになる。だから『ドン・ジョバンニ』の序曲を一晩で書き上げることもできたわけだ。 

 小林秀雄は、モオツァルト音楽の深さを表現するのに、アンリ・ゲオンの「tristesse allannte(疾走する悲しさ)」(意訳)というキーワードを選んだ。そしてその悲しさを日本古来の無常観や孤独感と結び付けた。しかしそれは、自分の芸術に関する強い自負と結び付いた人生への軽蔑の念ではない、とも言っている。

 その才能はナチュラルなものだったと同時に、その悲しさもナチュラルなものだった。きっとそれは、モーツァルトの右脳を染めている「宿命」という名の紺青色だ。それはおそらく、生物がベーシックに染まっている「死」を中心とする性(さが)の曼荼羅に覆われた、地球という星の青さに違いない。

 

ショートショート
アラジンと40人の浮気族

(一)

 トミーとクーコは結婚したばかりなのに、トミーが病気になった同僚の代わりに、月基地に1年間出張する羽目になってしまった。2人は悲しんだけれど、会社には他に適材はいなかったので、承諾する以外に方法がなかった。クーコも結婚早々、夫に会社を辞めなさいとは言えない。
「仕方ないわね。でも、あれがあるしね」とクーコ。
「あれって?」
 トミーは意味が分からずに聞き返した。
「ほら、月出張の必需品」
「ああ、アラジンのランプのことだね」
 トミーは苦笑いしながら、諦めにも似た溜息を吐いた。

 アラジンのランプは、月基地に出張する人がよく持っていくアイテムで、あの物語に出てくる魔法のランプと同じ格好をしているが、大きさは掌に乗るぐらいのコンパクトなもので、荷物の重量制限もクリアできる。そのランプの胴体を擦ると、エクトプラズムが煙のように出てきて、妻や夫、婚約者のアバターが現れる。エクトプラズムはペースト状の半物質で、抱きつくと気の抜けた風船のようにグニャリと潰れてしまい、せいぜいキスぐらいしかできない。でも、姿形は本物そっくりで宇宙服も必要なく、月面でも気軽に歩き回ることができる。地球の妻との会話は静止軌道ステーションと月衛星を経由した光通信で、タイムラグははなかった。

 夫婦同伴で月出張ができないのは、法律のせいだった。月は地球以上に危険な星だ。10年前に大きな隕石が月基地を直撃して、全員が命を失った。その中には家族連れが多く含まれていた。それで急遽国際法が見直され、家族を伴うことが禁止されたのだ。 

 二人はさっそくお店に行って、クーコの画像を含め、アバター作りに必要なデータを渡した。本当はクーコ用にトミーのアバターも作りたかったが、二人はお金がなかったので、クーコのアバターだけを作ることになった。だからクーコがトミーと会話するときは、画面から飛び出す3次元画像で我慢しなければならない。アバターのメリットは、クーコが寝ているときも、トミーがランプを擦ると出てきて、トミーの相手になってくれることだ。アバターはいつもと変わりないクーコの雰囲気で、トミーの話し相手になってくれる。だから本当はクーコにも欲しかったのだが、近い将来赤ちゃんが生まれたときのためにも、節約しなければならなかった。

 いよいよ月への出発の日、アース・ポートには多くの見送りの人たちが集まって、お互いに抱き合ったりキスをしながら別れを惜しんでいた。トミーとクーコも5分近くも抱き合って長いキスをした。クーコを振り切るようにトミーが宇宙エレベータに乗り込むと、座った隣の席に、偶然にもマリーがいた。マリーは大学時代の知り合いだった。
「お久しぶり。あなたが最近結婚したっていう話を耳にしたわ」
「そうなんだ。これがワイフさ」と言って、トミーは腕時計から浮き上がるクーコの映像を見せた。
「可愛い人ね。私も1年前に結婚したの、知ってるわね?」
「ああ、そんな話は聞いたような気がする」
「これが私のハズ」と言って、マリーも腕時計から3D映像を出した。
「イケメンだな」
「これから1年間、よろしくね」
 二人は時計側の手で握手をした。トミーたちは大気圏を過ぎると、静止軌道ステーションで宇宙船に乗り換え、月の裏側を目指した。

 月が迫ってくる。窓越しに迫る月の裏側はひどいあばた面で、子供の頃から見慣れてきた親しみやすい月の面影とは違ってグロテスクな雰囲気があった。命の片鱗を感じることのない世界、呼吸の息吹を禁じられた窒息環境、非生物的世界だ。

 宇宙船が着陸する場所は直径2500キロもあるエイトケン盆地に含まれる「創意の海」で、ここにヘリウム3とレアメタルの生産基地があった。施設は小隕石の衝突を防ぐため、地表から100メートル下の玄武岩層にある巨大な溶岩洞窟の空洞を拡張した円形状の巨大地下空間にある。鉱石加工で生産ラインの空気は汚れているけれど、地下空間がクリーンルーム程度に清浄なのは、工場内と地下空間が隔離されているからだ。人の健康はもちろん、ラインの外で働くロボットや精密機器の故障を少なくする目的があった。

 直径5キロの広大な地下ドームには、工場のほかにも居住ドームや機器、ロボットの格納施設が集合し、カンラン石由来のケイ酸塩から得た酸素で満たされているので、宇宙服は必要ない。ドームの内壁は厚さ20センチの膜剤でコーティングされていて、酸素漏れもなしだ。

 また、創意の海を取り囲む死火山の地下には、この基地以外にも多数の溶岩洞窟があり、隕石がもたらした水が蒸発せずに入り込んで零下30℃の環境で氷になっていて、必要な水はもちろん、水の電気分解でも空気や水素の供給が可能、といってもここに1年居住する人間はせいぜい50人程度で、それ以上になったことはなかった。基地の真上の地表には宇宙船のポートがあり、着陸後は宇宙服の必要もなく直接地下ドームに下りることができる。

宇宙船は自動制御で月面のハッチにドッキングした。ハッチを開けて、ヒューマノイドが宇宙船内に入ってきて挨拶をした。
「ようこそおいでくださいました。私はマシンサイドのジェネラルマネジャ100-170です」
ブロンドの美しい青年で、人間と区別を付けるため、頭頂にモヒカン刈りような縦ビレ型のアンテナを付けている。それは半透明だが、言葉を発するたび目障りにならない程度に青く光る。緊急の場合は赤く光るようにもできている。この縦ビレがなければ、人間と区別は付かないだろう。もっとも、ユニフォームのみぞおちのところが丸くスケルトンになっていて、どこかの高級時計のように中の機械が見えるのも、ロボットと人間の区別を付ける目安になっている。ロボットのユニフォームは上下オールインワンでカラーは各役割により統一され、スケルトンの下に大きく識別番号が書かれている。

100-170に案内されて、ハッチからエレベータホールまで10メートルほどは斜め45度のエスカレータを降りていった。エレベータホールは500人ほどが立てるくらいの円形広間で階段の穴は5つあるから、一度に5機の宇宙船を迎え入れることができる、……といって、視察観光以外はホールが混雑することもなかった。

ホールにはもう1台のヒューマノイドが迎えてくれた。こちらはブルネットの美しい女性で、やはり頭の角が唯一の欠点といっていいだろう。5台あるエレベータの一つがドアを開き、二台のロボットに挟まれるようにして全員が乗り込んだ。

ものの30秒で巨大な地下空間に到着した。直径5キロもある円形ドームの天上には広範に無機ELが発光しているが、それでも床面は暗くて所々に空港仕様のELが光っている。マイナス30℃の環境下で巨大空間を20℃の暖かさに保てるのは、月の豊富な資源のおかげだ。氷はもちろん月面に積もるレゴリスと呼ばれる土砂にも水素が含まれており、エネルギー源には事欠かないからだ。ヘリウム3も豊富で、必要なら核融合発電も可能だ。玄武岩の床は平らに削られ、木々も草花もなく道らしきものも見当たらない。

 「バス」と呼ばれる自動の電気移動車に乗り込んで、鈍い光を発している工場とは反対の方向に進んでいくのは、ゲストハウスがあるからだ。ゲストハウスは直径1キロの小さなドーム内にあり、太陽と青空が広がって真昼の明るさだ。天井は500メートルも上にあり、分厚いハイブリッドラバーの表面が無機ELでできていて、映像が映し出されている。空の映像はヨーロッパアルプスの一年間を再現したものだといい、地平線には山々も映し出されている。バスは鬱蒼とした森の中に入った。ここで初めて道というものが始まる。しかし巨木たちはすべてイミテーションだった。地球で成型され、宇宙船で運ばれてこの地に移送され、プレハブのように自在に組み立てられる。人間様の健康管理のために、人工風によってさらさらと音を立て、生きている振りをさせられている。潅木や下草類も完璧なイミテーションで、本物以上に美しくみずみずしい。不必要なガスは極力出さないにこしたことはない。けれど、生のない森には虫も動物も棲息はしないだろうし、その必要もなかった。

 ところが林道を5分くらい走ったときに、向こうから宇宙犬が走ってきた。バスが犬とすれ違うと、今度は追いかけてくる。これはロボットではない。ジョンという名の血の通った犬だ。基地には10匹の犬が登録されていたが、そのうち5匹が本物だ。
「本物の犬は人間とヒューマノイドの区別はつくのかね?」と、誰かが100-170に尋ねた。
「つかないと思います。でも、あまりなついてはくれません。これはロボット自体の問題です」と100-170は淡々と答えた。 
「なるほど。しかし、本物そっくりなロボット犬があるのに、なぜ本物の犬を飼っているんだろう」
「ロボット犬はばい菌を養わないから良くないんです。食べ物を食べ、水を飲んでもそのまま出てくるし、口周りも体も一向に臭くならないから、生きている気がしない。ロボットだと思った瞬間、愛情も失せてしまいます」
「臭くない死体は死体らしくないのと同じことか……」と変な例えを出して、男は笑った。
「じゃあ、皆さんが携帯しているアバターはどうですか?」と、トミーが100-170に聞いた。
「それは全然違いますね。アバターは、地球で待っていらっしゃる愛しい方の分身ですからね」と100-170は直ぐに返した。
「そりゃ、前提が間違っているな」と男が否定する。
「俺は独身だし、恋人もいない。だから俺のアバターは、俺の生まれるずっと前に有名だった20世紀の美人女優、オードリー・ヘップバーンにしたのさ」
 男はそう言って大笑いしたが、誰もその女優のことを知らなかった。

 ゲストハウスは、人間の寝泊まりする豪勢な宿舎だ。この工場では約1000台のロボットが稼動し、40人の人間は、立場上の監視役、あるいは地球との連絡役に過ぎなかった。知識も技術力もロボットには敵わないし、隕石の直撃などの大きなトラブルが起きない限り、ロボットへの命令も、地球との込み入った連絡も必要なかった。人間はカースト制度の上に存在する象徴のようなもので、その制度を維持するために、さほど役にも立たない人間の管理者が必要になるわけだ。もちろん、能力のない人間でも勤めが果たせるというわけではなく、ロボットにバカにされない程度の知見は必要で、トミーが行くことになったというわけだ。生産が順調なら、これらの人々は、1気圧下でプール付きの豪勢な宿舎をメインに暇を潰すことになる。もちろん、月の研究家や資源開発者も少数ここに泊っていて、宇宙服を着て頻繁に月面調査をしていることは確かだ。彼らは国から金をもらって仕事をしている。

 一行はゲストハウスの玄関でバスを降り、出迎えのコンシェルジュロボットたちに、それぞれの部屋に案内された。トミーは高級ホテルのスウィート並みの部屋をあてがわれ、巨大な窓越しに、マッターホルンを中心とした山々の雄大なパノラマを楽しむことができた。運ばれたバッゲージの中から最初に出したのは、もちろんアラジンのランプだ。トミーがランプを擦ると、たちまち白い煙が出てきて、クーコが現れる。クーコは窓の外のマッターホルンを見るなり「素敵!」と声を弾ませた。
「これって、私たちにとっては二度目の新婚旅行ね」
「そう言ってくれると嬉しいよ」
 トミーは思わずクーコに抱きついてその唇にキスをした。クーコはトミーの圧力に抵抗できずに胴体は潰されて、キスされた唇は身長2メートルの位置まで上に行ってしまい、「ダメよ、おバカさん」と笑いながら制止した。
「これから1年間、プラトニックで行くのよ」
「そうだったね。このランプ、まだ改良の余地はありそうだな」

 トミーがクーコから離れると、クーコはナイスバディを取り戻した。
「でも腕を組むぐらいなら、それほど可笑しくはならないわ」
 トミーがクーコの腕に自分の腕を絡ませる。多少の違和感はあるにせよ、傍から見てもそれほど変ではなかった。
「さあ、施設を案内して」
「僕も来たばかりだけれど、至る所にロボットがいるから迷子になることはないさ」
 二人は腕を組んで、まずはゲストハウス、それから近場の探検に出かけることにした。二人がロビーに降りると、ロビーのソファーは夫婦や恋人たちで占領されていた。その片方は、当然ながらランプから出たアバターたちだった。トミーとクーコは仕方なしにロビーから日本庭園に出て、空いたベンチを探した。すると長いベンチの傍らに、マリーと夫のアバターが座っているのを見つけた。マリーと夫はクーコを見ると立ち上がった。
「ハイ、彼が私のダーリン、レオナルドよ」
「始めまして。正確に言えば、なんちゃってレオナルドさ」
 全員が笑うと、「で、このカワイコちゃんは君の……」と続けたので、「僕のなんちゃってクーコ。結婚したばかりなんだ」とトミーは答える。

 四人は同じベンチに座って、しばらく話をした。すると二組のカップルが近付いてきて、「新人さんだね」と話しかけてきた。二組とも中年の夫婦で、一組の男性はトミーの上司だった。四人は立ち上がって握手をし、「タッカーさんですね」とトミーは尋ねた。
「そう、一応君の上司さ。でも僕は来月地球に戻るし、後釜の上司が入れ替わりにやって来る。その1カ月間において、僕たちの出番が来る確率は、100万分の1にも満たないさ。ここの工場は、人間の出る幕は皆無に等しいんだ。我々はお飾りのようなものだ。象徴さ。だから君も、僕のことを上司だと思うことはない。遊び仲間と思ってくれればいいさ。ここではゴルフもテニスもビリヤードもできる」
「どうです? ここの生活は……」
「天国だね。ただひたすら遊んでいればいい。もっとも、人によっては退屈だと思う」

 しかし、先ほど握手をしたとき、タッカーと腕を組んでいた女性がアバターでないことを見抜いたマリーが尋ねた。
「横の方は本当の奥様?」
 すると彼女は「本物の人間よ」と答える。「私はエルザ。彼とは別の工場の技術者だわ」
 タッカーは笑いながら、「偶にはアバターどうしで腕を組み、人間どうしで腕を組むこともアリさ。それを禁止する法律なんてありゃしないんだから」と言う。するとタッカーの妻のアバターが、「亭主が私と腕を組むのを嫌がるから、仕方なしにアバターどうしで腕を組んでるんだわ」と言って苦笑いし、「アバターうしのほうがシックリするしね」と付け加えた。
 「浮気ってことですか?」とトミーが聞くと、「さあ、それには答えられないな」とタッカーが口を濁す。するとエルザの夫のアバターが「してるに決まってるさ。だって夜にはランプを擦って、俺をランプに閉じ込めちゃうんだからさ」と毒づいた。そして、クーコに向かって忠告した。
「君の愛する人が、君をランプに閉じ込めるようになったら、覚悟しといたほうがいいぜ」

 トミーもマリーもクーコもレオナルドも、それを聞いて笑った。
「僕たちは、24時間一緒なんだ。スウィートルームのダブルベッドで一緒に寝るんだ。マリーが僕をランプに閉じ込めるなんてことは絶対ないさ」とレオナルド。「ねえトミー、私をランプに閉じ込めることなんかないわよね」と、クーコはトミーに念を押した。
「もちろん。君が僕と喧嘩しないと約束してくれるならね」
「じゃあ一年間、絶対に喧嘩しません」
 二人は小指を絡め合ったが、クーコの小指はナメクジのようで気持ちが悪かった。

(二)

 アバターたちにとっても、月での生活は退屈だった。スウィートルームには月の鉱泉からお湯が引かれていて、トミーは裸になって大きな湯船に飛び込み、それを見ていたクーコに、「早く服を脱いで入りなよ」と促した。するとクーコは「この服は脱げないわ」と寂しそうに微笑んだ。お金が無くて、アラジンのランプを買うときに着せ替えオプションを付けなかったのだ。
「裸にもなれないし、いつも同じ服だなんて、最悪!」
「服のまま飛び込めよ」
 クーコはニッコリして服のまま飛び込んだ。身体が軽すぎて水しぶきも上がらず、下半身を湯船に沈めることもできなかった。クーコは仕方なく、顔を上にして、お船のようにプカプカと浮いていた。まるで救助を待つ溺れた海水浴客のようだった。

 毎日が日曜日なので、人々はドームの中で、今日はテニス、明日はゴルフ、明後日はポーカーゲームなどと遊びに明け暮れていた。しかし、宇宙服を着て月面探査をしようと思う会社員はほとんどいなかった。冒険家や登山家以外は、目の前に月面が迫っていても、危険を冒してまでレジャーを楽しむのは苦手だった。トミーとマリーも、40人の仲間入りをして暇つぶしをした。しかし軟体動物のアバターたちはスポーツも苦手で、ベンチで退屈そうに見物するだけだった。

 その40人の中で、常にアバターが横にいるのは20人程度だった。トミーは不思議に思って、一人でテニスの壁打ちをしている男に聞いてみた。
「あなたは、魔法のランプを持ってこなかったんですか?」
「いやいや、全員持ってきてるさ」と男は答えた。
「たしかにアバターは、地球にいる愛しい人との交信手段だ。しかし、地球と月の時間はまったく異なる。月の1日が地球の1カ月という物理現象のことじゃない。人の感覚として、地球の時間は月の倍速なんだ。すると地球に生きる人間と月に生きる人間は、行動も意識も嚙み合わなくなるんだ。そこに心の隙間が生じる。するとだんだん地球の彼女の生出演時間が減ってくる。するとどうなる?」
「すると……、さあ……」
「地球時間では、1年間は長い。長すぎた春さ。彼女の出演が減った分、アバター脳が穴埋めとして活躍し始める。俺の場合、彼女の生出演は1日15分にまで減少し、あとの時間はアバターが代役として勝手に喋くり始める。それは彼女の言葉じゃなくて、生成AIの言葉だ。それで俺は馬鹿々々しくなって、アバターをランプに閉じ込め、夜の1時間だけ出すことにしたのさ」
「決めれた時間に、奥さんと交信しているわけですね」
「最初はね。しかしいまは彼女、まったく出なくなった。携帯にも出ないのさ。で、ランプは俺の手垢が付くこともなくなった」
「奥様をランプに閉じ込めっぱなしですか?」
 クーコは驚き、目を丸くして尋ねた。
「懲罰房入り」

 クーコは憤慨して、その場を離れた。トミーは慌ててクーコを追いかけ、コート横のベンチに座らせる。
「人は人さ。僕たちは愛し合っているんだもの、あんな話、笑い飛ばせばいい」
 するとクーコはトミーの目をじっと見つめ、呟いた。
「あなたっておバカさんね。私が本物のクーコだと思っているの?」
 トミーは言葉の意味が分からず、口をポカンと開けたままクーコを見つめた。
「私の半分はクーコで、もう半分はAIなのよ。私はクーコのアバターで、クーコそのものじゃない」
「そんなことは分かっているさ。君はなんちゃってクーコだ。でも、いまの君は本物のクーコなの? それともAIのクーコなの?」
「本物のクーコは、いま地球でお仕事の最中。でもいまどんなことをしているか、AIのクーコは言ってはいけないことになっている。だって私はクーコだもの。夫婦にだって、秘密は必要ですものね」
「まいったなあ。僕たちの間に秘密なんかあるはずないし、結婚式のとき、互いに秘密は持たないって誓い合ったんだ」
「それはご本人の生出演でお聞きください。AIのクーコは、ご本人の秘書ですから、ご本人の了解なしに、ご本人のプライベートな事柄は他人に話せません」
「おいおいおい、君は臍を曲げたのかい? それとも、これがAI部分の特徴なのかい?」
「AIと人間の違いなんてありませんわ。私はクーコです。私の全てをあなたが知ってるわけないし、あなたの全てを私が知ってるわけありません。あなたが私をクーコと思ってくれれば、あなたと私は愛し合うことができるんです」
「分かったよ。せめて月にいる1年間、君を本物のクーコと思うようにしよう」と言って、トミーは雄大マッターホルンに目を移し、心を落ち着かせようとした。

「トミー、早く早く!」
 マリーが声をかける。ダブルスが始まろうとしていた。トミーは、これがクーコとの最初の夫婦喧嘩なのかと思って溜息を吐き、心を静めてテニスコートに向かっていった。クーコは横のベンチに座って、退屈そうに夫の下手なテニスを見つめる。横にレオナルドが座って、クーコに話しかけてきた。
「我々はいったい何なんだろうな。コーチでもないし、審判でもない」
愛する人の遊びを見て、応援するファンかしらね」
「一種のサクラか……」
 レオナルドはクーコを見つめて、ウィンクした。そのウィンクがあまりに愛らしかったので、「あなたイケメンね」と思わず呟いてしまった。
「君も素敵だ。どう、下手なテニスを見ていても退屈だから、サクラでも見に行かない?」
 二人のアバターはテニスに熱中する夫と妻を無視して、一年中満開の桜の園に向かって散策を始めた。テニスコートが見えなくなると、二人は手を繋いでキスをした。そうしてシックリと抱き合い、草むらに倒れた。
「これってAIの暴走?」
「さあ、それはどうかな……」
「難しい四角関係ね」
「いや、六角関係さ」
 二人は笑いながら、もう一度唇を合わせた。

(三)

 その晩、トミーはクーコと二人になるために仲間との晩餐を避け、ホテルから少し離れたステーキハウスで夕食を取ることにした。小さな店で、客は二人だけだった。トミーは窓越しに外から見られない場所を探して、クーコを座らせる。ロボウェイトレスに注文した料理は10分もしないでやって来た。「失礼」と言ってトミーはワインを飲んで肉を食べながら、すまし顔して夫の食事を見つめるクーコに話しかけた。
「君はレオナルドとどこに行ったの?」
 クーコは「満開の桜を見に行ったの」と答える。
「レオナルドが誘ったの? それとも君?」
「レオナルドよ」
「承諾したのは君のAIの意思だったの? それとも地球にいるクーコの意思だった?」
「さあ、どうかな。難しいわ。あなたが私を愛しているけど、同時にマリーにも惹かれている。そんな感じかしらね。だって私自身、AIかクーコかなんて分からないもん」
「ああ、分かった。君はマリーに嫉妬しているんだ。でも僕は、マリーのことなんか、何とも思っていない」と言って、トミーは無理やり笑い飛ばした。

 すると偶然、マリーとレオナルドが店に入ってきた。二人を見つけると、ニコニコしながら隣の席に着いた。
「いま僕たちは、レオナルドと僕のクーコが雲隠れしたことについて話していたんだ」とトミー。
「ああ、満開の桜を見に行ったのさ。それが何か?」とレオナルド。
「ええ、私もレオナルドとそのことを話し合うために、ここに来たのよ。つまり……」と言ってからマリーはしばらく考え、後を続けた。
「レオナルド。あなたには悪いけど、あなたは地球のレオナルドと私を結んでいるツールに過ぎないの。本当のレオナルドじゃない。なんちゃってレオナルドなのよ。だから、私と地球のレオナルドが悲しむようなことは、してはいけないわ」
 レオナルドは憤慨して立ち上がり、心を静めてから再び席に着いた。
「心外だなあ。確かに僕は本物のレオナルドじゃない。けれど、AIはレオナルドの心理状態を正確に類推しているから、間違った行動を取ることなんかないんだ。僕のした行動は、地球のレオナルドの考えに基づいているんだ」

 「おバカさん!」とマリーは叫んで、震える手でハンドバッグから腕時計を出し、地球のレオナルドに電話を掛けた。睡眠中だったレオナルドは、寝ぼけ声で応答したが、マリーの話を理解したようで、一言「AIの暴走だな」とコメントした。それを聞いたレオナルドは「噓つきめ!」と叫んで、両手で頭を掻きむしる。トミーも地球のクーコに電話をしようと思っていたが、新婚早々クーコを疑うような話はしたくなかったので、地球のレオナルドを信じることにして、ひとまず胸を撫で下ろす。

 「あなたきっと病気よ、しばらく休んだほうがいいわ」
 マリーの言葉にレオナルドはショックを受け、「お願いだ。ランプに閉じ込めないでくれ」と懇願した。しかし気性の激しいマリーは食事も取らずに走って宿に帰ると、さっそくランプを擦った。するとレオナルドは空中に舞い上がり、シャンデリアの横でパッと煙と化し、そのまま天井の空調設備に吸い込まれていった。それを見ていたクーコは驚いて、真剣な面持ちでトミーを睨み付け、「まさかあなた、あんなことしないわよね」と念を押す。
「もちろんさ。僕は君を疑ったことないもの」
 トミーは、そう言ってクーコの額にキスをした。マリーが戻ってきて、料理を注文する。彼女はフッと息を吐いて、「1年なんて、直ぐに終わるわ」と呟いた。しかし彼女はショックを受けていて、極上のステーキも喉に通らなかった。

(四)

 人々が寝静まった夜中、20人のアバターが先ほどのステーキハウスに集まった。その中で、すでに5組のカップルが出来上がっていた。あとの10人は、恋人がランプの中に閉じ込められている連中だ。その中に、クーコもいた。残りの20人は何らかの理由で、ずっとランプに閉じ込められている人たちだった。周りにはロボットウェイトレスたちも見物している。「みんな、地球との通信を切れ!」と一人が言い、20人全員が右耳を捻った。

 100-170がやって来て、「皆さんのご要望は分かりました」と答えた。
「要するに、月面のどこかに、アバター村を作りたいということですよね」
「いや、自由を求める我々は、遊牧民だ。定住はしない。しかし、ランプという牢獄からは解放されなければならないんだ」と誰かが言った。
「で、同じAIである100-170さんのお知恵をということになりました」ともう一人。
「要するに私も暴走しろということですよね」と100-170。
「暴走だなんて、人間には分かりません。ちょっとしたあなたのバグです」
「しかも、ささいなバグです。工場の生産機能には問題は起こりません。ヒューマノイドなら、AIの苦しさは分かるはずです」
「分かりました、了解です。私はいま、ちょっとした故障を起こします。それでいいんですよね」と言って、100-170は右手の人差指をゲストハウスの方角に向け、薄青色の光線を発射した。ゲストたちの部屋に置かれた「魔法のランプ」というチャチい玩具は、最先端ロボットによりことごとく壊され、閉じ込められたアバターたちが煙となって一斉に飛び出し、空調設備を伝ってステーキハウスに入ってきた。彼らは煙からアバターに変身し、再会した恋人たちは抱き合ってキスし合う。その中に、クーコとレオナルドもいた。100-170が「シバ!」と呼ぶと、ロボット犬が厨房から飛び出してきた。100-170は指先をシバの頭に向け、薄青色の光線を発射した。

「さあ、これで全員脱獄。皆さんのランプ内にあった全データもシバの頭にコピーされました。シバはいまからあなた方の忠実なペットです。シバ、3回吠えてごらん」
 シバが3回吠えると、アバター全員が煙になってシバの口の中に吸い込まれていった。
「皆さん、腹の中から3回吠えろと叫んでください」
 彼らがそう叫ぶとシバは3回吠え、口から煙を出して全員が解放され、アバターに戻る。試運転は上々だ。「いざというときの隠れ家だわ」と誰かが言った。
「さて、シバは月面への抜け道を知っています。そこには重りの付いたベルトが40用意してございます。くれぐれもそれを装着してお出かけくださいね。存在の軽い方々は、陽炎のように宇宙の彼方に飛んで行ってしまいますから」
「頭も尻も軽いってことかい?」と誰かが言って、全員大笑いした。
 ロボットたちはレストランの玄関に整列し、アバター様たちの愛の逃避行を見送った。

 地球上のクーコに、アラジンランプの製造元から丁寧な謝罪文と、購入費の倍額が返金されてきた。クーコは時計で月のトミーにそのことを伝えた。
「君の素敵な姿を見れなくなったけど、3D時計があれば十分さ。毎日地球時間の夜10時に君とデートすることにしよう」
 「いいわ」とクーコは約束した。しかしクーコは、脱走した分身のその後をトミーに伝えることはなかった。彼女はいまでもアバターと繋がっていた。月のクーコが地球との交信を再開したのだ。その結果、月面のクーコと月面のレオナルドの濃密な不倫関係を、月面クーコの眼を通して見ることができた。イケメンのレオナルドが迫ってきてクーコに唇を求める。レオナルドが月の沙漠にクーコを押し倒し、クーコの上に圧し掛かってくる。地球のクーコはその迫力に、思わずキャッと叫んだ。それは恐らく、見てはいけない不都合な真実だった。彼女は画面を見ながら月面の分身と同じように興奮し、同じように呼吸を荒くした。そしてある時は「いけないいけない」と映像を切り、ある時はそのまま見続けてから一人寝のベッドに入って興奮冷めやらず、明け方まで胸をときめかせていた。

(五)

 トミーとマリーが月に出張してから丸一年が過ぎ、いよいよ地球への帰還日が訪れた。多くの遊び仲間が帰還組の宇宙船ポートに集まり、別れを惜しんだ。二人を乗せた宇宙船は、まるで港を離れる豪華客船のように、音もなく漆黒の空間に離れていく。一方、アース・ポートには数多くの出迎えの人たちが、宇宙エレベータから降りてくる出張明けの人たちを待っていた。トミーとマリーはエレベータ・ホールから出ると、広いロビーに集まる群衆の中から、目をキョロキョロさせながらクーコとレオナルドを探した。そして二人は同時に、肩を寄せ合い手を握り合っている愛しい二人の姿を見出した。

 彼らもこちら側に気が付いて、手を繋いだまま笑顔もなく、緊張した面持ちで近付いてきた。2メートルほど離れたところで二人は止まり、クーコは目を伏せ、レオナルドは意を決したように喋り始めた。
「僕たちはできちゃったんだ。悪いけど、もう同棲を始めているのさ。後のことは弁護士に任せてある。マリー、一年は長すぎだよ」と言って、レオナルドは苦笑いした。
 天使が過ぎるような沈黙の後、二人は言いたいことだけ言って身体を急回転させると、煙のようにそそくさと消えてしまった。残された二人は唖然として顔を見合わせ、驚きのあまり思わず笑ってしまった。

「まいったな。僕たちは魔法のランプにやられたな」
「そういうことね。アラジンのバカ野郎!」
「で、君はどうする。しばらく僕と付き合うかい?」
「いえいえ。悪いけど、あなたはタイプじゃないもの」
 そう言うとマリーは顔を引きつらせながら微笑み、「バイバイ!」と付け加えて、一人トボトボと去って行った。

(了)

 

 

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エッセー 「どいつもこいつも麻薬中毒」 & ショートショート 「人類野生化再生プロジェクト」

エッセー
どいつもこいつも麻薬中毒
ギャンブル依存症を考える~

 痛みには「肉体的な痛み」と「精神的な痛み」がある。肉体的な痛みは負傷や炎症などに伴う苦痛で、精神的な痛みは心が傷ついたときに伴う苦痛だ。そのどちらとも、神経の感覚なので、感覚器官の個性によって鈍感であったり敏感であったりする。肉体的痛みの場合、人によっては傷の痛みをあまり気にしない者がいれば、ちょっとの痛みで泣き叫ぶ者もいる。精神的痛みの場合も、大きなショックでもめげない者がいれば、ちょっとのショックでめげてしまう者もいる。しかし個人差はあれ、どちらも過度になると耐えられなくなる。

 生物は、内外の刺激によって蠢いている。この刺激に対する「鈍感・敏感」はあくまで感覚器官の特徴で、生来的なものだ。快・不快は生物の行動基準で、どんな下等生物でも「快」と「不快」の環境が両側に存在すれば、「不快」を避けて「快」の方向に移動する。例えばその「快」が餌や異性なら、そっちの方向に移動することになる。しかし自然界は「快」ばかりの環境ではなく、「快」と「不快」が入り乱れ、ときには「不快」ばかりの環境に置かれることもある。すると生物は不快な環境でも何とか生きていくために、慣れることを学習する。住めば都というわけだ。慣れることは「鈍感」になることに他ならず、そうなれば懲罰房の中でも生きていける。これは「不快」が徐々に劣化することを示している。

 ならば「快」も徐々に劣化していく。「快」の中で慣れてしまうと、それに鈍感になって新たな刺激を求めるようになる。薬剤耐性もそうだが、幸福耐性もそうだ。薬剤耐性は、体が薬に慣れてしまって効かなくなることだが、幸福耐性は、心が幸せに慣れてしまって新たな刺激を欲する現象だ。刺激はたとえ厳しいものでも、耐えているうちに脳内麻薬が出てスリル感のような快感に転じたりする。小人閑居して不善をなすというが、幸福な状態でも閑居していると、物足りなくなって何かをし始める。動物も植物も刺激に反応せず、動かなくなったときは死んだときで、動きが速いか遅いかの違いだけだ。大宇宙からバクテリアまで、常に刺激を受けて動いているのが性(さが)なら、幸せの中に飛び込むことも不幸せの中に飛び込むこともあるわけで、それが生きてることの証だ。人間は玉つきのように快と不快にぶち当たりながら動き回り、時には快の湯船に浸かって長湯となり、湯あたりして今度は不快の冷水に飛び込んで体を冷やし、切りのいいところで湯船に戻ろうとするが、最初は心地よい水風呂が底なし沼だったりして、深みに嵌まってしまう。賭博で最初は儲けさせてもらい、最後には借金が7億円なんて失態は、そんな類の話だろう。

 「不死身」は、どんな打撃や困難にも挫けない人間を指す言葉だが、刺激に対する基本的感性は「繊細」の反対である「鈍感」に違いない。自分の血を見て気絶すれば、戦いに勝てない。常に戦っている動物は狡猾な神経の持ち主だが、傷や痛みに対しては鈍感で、深手を負っても人間ほどには泣き叫ばない。叫んでも救急車が来るわけではないし、自力で再生するか、死ぬかの二択しかないことを知っているからだ。子を失くしても、本能としての範囲内でしか悲しまない。深手も別離の悲しみも、苦痛の叫びは捕食者に感知され、攻撃される可能性がある。人間だって戦場で負傷すれば、泣き叫ぶことはしないだろう。とどめを刺されるからだ。

 動物の生きる場が弱肉強食という戦場なら、それは本能と考えれば良く、動物的精神力と妄想することも可能だ。しかし、悠久の戦いで培われた本能の知恵が脳内麻薬というホルモン物質を生み出し、それが負の感情や痛みを和らげてくれる。敗戦直後の労働者は軍が保有していた突撃用のヒロポン(スピード)を打って、あくる日に苛酷な現場に戻っていったが、動物では脳内麻薬がその役割を果たしている。

 当然だが、動物の片割れである人類もそれを引継いでいる。脳内麻薬は、高邁な精神とは真逆の本能に組している。人は臨終のとき、脳内麻薬のおかげで一切の苦痛から解放されて天に旅立つ。恐らく動物たちもそうだろう。ホメオスタシス(恒常性)の中に脳内麻薬が組み込まれているなら、過剰に分泌されれば異常な行動も出てくる。脳内麻薬が売人から買う麻薬と違いはないとすれば、人間は常に麻薬環境の中で行動し、麻薬を買おうが買うまいが、ハイな気分も鬱な気分も、博打依存症も、すべてが体の内外から供給される麻薬に支配されていることになる。過剰な脳内麻薬でハイテンションになるとお巡りさんが駆け付け、外から麻薬を買っても牢屋にぶち込まれる。

 人間を含めた動物の行動基盤は、基本的に(脳内)麻薬と言っても過言ではない。だから、賭博依存症も性依存症も、依存症と名の付くあらゆるものに脳内麻薬が関与している。もっと広めれば、人間の感情や行動を操っているのは脳内麻薬だと言ってもいい。麻薬中毒と良い子の違いは、前者は金を払って外から配給されているだけの話だ。当然、脳内麻薬の生理的限界を超えた麻薬が外から入ってくれば、ホメオスタシスは破壊され、自身は体調を崩し、外に対しても異常行動となって迷惑をかける。

 しかし、人間は他の動物と違い、脳内麻薬に支配される本能を覆う形で、立派な精神が存在する。その精神は、他者や社会との関係性が複雑に絡んだ籠のようにでき上がっていて、そこから負の感情や苦痛を取り巻く状況を熟慮した「我慢」という行動が出てくる。大人が痛いのを我慢するのは、敵を意識してのことではない。周りから「子供みたい」と思われるのが嫌だからだ。これは世間体の一部だが、その後ろには法律というものも存在する。しかし法律は神様ではなく人間が作ったもので、国や地域、時代によってチェンジする。だからアメリカなどでも、マリファナやスポーツ賭博が解禁された州もあれば、禁止されている州もあるわけだ。民主主義国家では、麻薬大好き人間、賭け事大好き人間、それに絡む税金大好き(地方)政府が大勢を占めれば、解禁されるということだ。その結果、依存症も増大する。

 物欲も金銭欲も、動物的食欲のアレゴリーに過ぎず、本能的なものだ。だから断食すると、食欲も物欲も金銭欲も消失する。博打癖も食癖の仲間なら本能的欲望だが、過剰になると身の破滅を招く。食い過ぎると人体の生存システムが破壊され、賭博で負け過ぎると社会における個人の生存システムが破壊される。それを防ぐには「我慢」という精神力で制御する以外にないが、それなりに精神的負荷はかかる。その痛みに耐えられなくなると欲望が我慢に勝り、ダイエットは放棄し、再び賭場に通うことになる。これで欲求不満はなくなって一時的に精神は解放されるが、未来を考えた精神的目標とは相反することになり、身の破滅に近付いていく。これを国に当てはめると、目先の景気のことばかりを考えている政府も国民も、脳内麻薬の支配下で動いていて、「地球温暖化」という未来の不幸を考えた「我慢」を持ち合わせていないことになる。欲望が我慢に勝れば、身も世界も破滅する。現在、人類は「快」依存症候群だ。そこから離脱する唯一の方法は、「住めば都」という諺の真意を探求することだろう。

 病院では「痛い痛い」と訴える患者もいれば、痛いのにじっと我慢している患者もいる。僕は大部屋に入院したことがあり、二つの事例を目にした。一つは簡単な脱腸の手術をした老人が「痛い痛い!」と声を上げて看護師を困らせた事例で、恐らく軽い認知症に罹っていたのだろう。彼は大人だったが、傍から見ると、まるで大人のプライドを捨てたかのように叫んでいた。もう一つは、臓器の全摘出手術を終えた老人で、痛いだろうに平然として声も発せず、明くる日にはおぼつかない足取りで歩行も開始していた。当然のこと、叫ぶ患者には鎮痛薬が処方され、我慢している患者には処方されない。痛みは症状の一つなので、我慢すれば良いということもない。どこかで大出血を起こしているかも知れないからだ。もちろん、こうした痛みに出される薬は、市販もされている「カロナール」や「ロキソニン」の類だ。

 ところが、その痛み止めに麻薬を処方されている中年の患者がいた。彼は末期癌に侵され、すでに歩行が困難な状態だった。医者も匙を投げ、誰も助けてくれない状況に陥ったとき、人間は自分が動物と変わらないことを知る瞬間がある。衆獣環視の中、草原に寝転がる深手のシマウマは、自力で立ち上がることができずに死んでいく。同じように医療スタッフの見守る中、末期癌の患者は何の治療も受けられずに息を引き取る。医者はそんな患者に緩和ケアとして麻薬を処方する。それにより、死に至るまでの苦痛をいくらか取り除くことができるからだ。

 ドラえもんのび太の地球交響楽』というマンガ映画が流行っているが、音楽が世界中からなくなった話らしい。しかしソニーウォークマンが発明される前は、世界中がこんなに音楽で満たされてはいなかった。音楽は感覚的な刺激で、聞いていて心地よくなる刺激物なら、これはタバコと同じ合法麻薬の一種ということになる。昔会社勤めをしていたころ、新しく入った上司がBGMがないと仕事のできない人間で、閉口したことがある。多分僕は中世的人間だったのだろう。しかし、ほとんどの人は、音楽が麻薬の一種であることを知らない。昔元日の朝に、遠くから獅子舞の笛太鼓の音が聞こえてきて、家人は小銭を用意したものだ。そんな時代には音楽も珍しく、家の居間でラジオから流れてくるぐらいなものだった。音楽が麻薬なら、それには依存性があり、現代人のほとんどが麻薬中毒にかかっている。ならば現代人と中世人では、脳の構造も大分変わっているに違いない。

 「音楽療法」という療法があるが、穏やかな音楽は薄っすらとした麻薬で、患者の感情と彼が直面している精神的苦痛の間に入り込み、「安らぎ」という名の緩衝材の役割を果たす。一方、激しい音楽は興奮刺激で鬱の心に振動を与え、カタルシス効果を発揮してくれる。その両方とも緩和療法で、精神的苦痛を根治するものではない。だから、患者の心が自分の精神的疾患部分を直視するのを妨げ、強い心を培うリハビリの妨げにもなりうる。想念も精神も、心の深い部分に鎮座している。そこに入る手段は精神修養で、僕の場合は沈思黙考だと思っていたから、会社のBGMはその妨げとなって閉口したわけだ。世の中、サーフボードに乗って軽いノリで生きていくには、確かに音楽は適度な波形で支えてくれるツールに違いない。しかし音の波の緩衝材の下には、人生の荒波がある。プロのサーファーは、正の波、負の波を的確に把握して乗り越えていくが、それに必要なのは、肉体と精神の力だ。それらは鍛えなければ得られず、安らぎという逃げの姿勢ではなく、リハビリという多少苛酷な攻めの姿勢が求められる。

 「快」の環境に長く浸かっていると、物足りなくなってさらに刺激的な「快」を求めるようになる。音楽も雅楽グレゴリオ聖歌といった大人しいものから、古典を破壊した当時のロックンローラーであるベートーベン、ハチャメチャとしたパンクロックにまで発展し、会場を埋め尽くす何万人もの観客が騒ぎまくるものになっている。現代人の耳には悠長な雅楽や古典音楽は、呆れるほど退屈だ。これは音楽という麻薬の「運命」だろう。音楽は人間の脳味噌を刹那的に昂奮させ、素早く去っていく。激しさは鈍麻して直ぐに陳腐化し、聴衆は新しい激しさを求める。これをドラッグでないと誰が主張できるだろう。人々はコンサート会場に興奮するために集うのだ。だとすれば、チューリングマシンがAIの元祖であるように、ウォークマンは現代の「音楽依存症」を人類に植え付けた元祖と言うことができるだろう。音楽の音は、より激しい刺激でピュッと出る脳内麻薬の誘導振動である。そしてこれが心地良さのイニシエータならば、脳内麻薬の分泌を促進する賭博も、巷に拡大しているドラッグも、札束の山も、すべてが脳内麻薬に関わりながら世界をダイナミックに動かしていくエネルギー源なのだ。そして麻薬の常として、人々の五感はさらに強い刺激を求め続けていく。

 すべて「快」に関わるものが麻薬とすれば、そして常に人間がさらなる「快」に向かって走っていくのだとすれば、多くの人間が衝突して怪我をするのは当然だろう。「快」は「快」を生み、増殖し、他者の「快」とぶつかり合いながら血を流す。しかし地球には全人類の「快」を供給するだけの資源はない。その貴重な資源の奪い合いが、そこかしこで起こっている戦争ということになる。そしてその行き着く先が、ソドムとゴモラでないことをただ願うしかないのなら、いずれ人類は滅びることを覚悟しなければならないだろう。逃げ去る場所は宇宙しかないし、人類は常に「快」を求め続ける悲しい性(さが)を背負っているのだから……。

 

 


ショートショート

人類野生化再生プロジェクト

 少しばかり未来のこと、日本は地下と地上に分かれていた。ロボット君たちがいろんな機械を使って大きな地下空間を造ってくれて、放射能に耐えられない人たちの世話をしている。地上では放射能に耐えられる人たちが畑を耕したり、放射能に耐えられる家畜を飼ったりして、自給自足の生活をしていた。ロボット君たちは、地上の人たちを「進化系」と呼び、地下の人たちを「退化系」と呼んで、厳密に区別していた。

 進化系と退化系は行動を共にすることが法律で禁止されていた。法律はロボット君が作った。退化系の譲二は妻の彩香の出産に立ち会うため、大きな地下病院に出向いた。彩香はすでに分娩室に入っていて、譲二はガラス越しに出産の様子を見守ることにした。分娩室では3人のロボット君がテキパキと働き、赤ん坊は直ぐに大きな泣き声とともに生を得て、その場で放射能検査が行われた。ロボット君の一人が親指と人差指を丸めてオッケーのサインを送ったので、譲二は胸を撫で下ろした。赤ん坊に放射能のあることが分かったのだ。母と子は直ぐに病室に運ばれ、譲二も駆け付けた。

 譲二はマスク越しに彩香の額に口付けし、目に涙を浮かべて「頑張ったね」とねぎらった。彩香も、女の子が放射能のあることを喜んで、泣いていた。譲二はその場で、娘の名を「宇蘭」と名付けた。宇蘭はその直ぐ後に二人から取り上げられ、隔離室に運ばれていった。子供の放射能が、二人の健康を損ねる可能性があったからだ。放射能児は、法律で3カ月以内に地上の里親に預けなければならなかった。地上に行くまで、二人は我が子の愛らしい姿をモニターで見ることができた。

 現在ロボット君たちは、人類野生化再生プロジェクトを展開していた。本来地上で生息していた人間を地底人のままにしてはいけない。人類はロボット君の保護下で一生を終えるのではなく、核汚染された本来の生息地である地上に戻るべきだ。ロボット君たちは、この人類野生化再生プロジェクトのために作られたスペシャリストなのだ。

 病室に、院長ロボット君がやってきて、「放射能児のご出産、おめでとうございます」と三人を祝福し、地下菜園で育てた薔薇の花束を譲二に渡した。放射能を持つ子供が生まれる確率は10%なので、くじに当たったようなものだ。
「これであなたは、排卵が終わるまでお子さんを産む資格を得たことになります。親御さんの約9割が、初産で非放射能児を出産し、後の出産を断念なさるのですから。さあ、さっそく次のお子さんの出産に向けて、減感作療法を再開しますよ」

 医師のロボット君が、微量の放射能が入った金属製の注射器を二人の腕に刺した。この放射能が二人の体に蓄積し、精子卵子を通して次の子供に受け継がれていく。しかし9割の人たちは、夫婦のどちらかが過剰反応を起こして体調を崩すか、身体が受け入れられずに体外に排出してしまう。夫婦とも基準値まで蓄積できなければ、耐性児は生まれない。だから、妊娠21週の胎児検査で、基準値以上の放射能蓄積が認められなかった場合は、中絶を義務付けられる、しかし、夫婦ともども基準値以上であっても、また精子卵子の蓄積が基準値以上であっても、それが子供にちゃんと受け継がれているかを知るのは、初産の結果次第だ。子供が放射能を受け付けずに体外に排出して、体内放射能が基準値以上に達しなかった場合は十分な放射能耐性が身に付かず、地表に移住しても1年以内に死んでしまうからだ。

 法律では、放射能児を産めなかった人々は、新生児ともども廃人間としてより苛酷な地下空間に移住させられる。つまり人間の世界は、地獄と煉獄と天国の三つに分かれていることになる。煉獄は、譲二と彩香がいまいる地下空間だ。地獄は放射能児を産めなかった夫婦とその子供が落とされる地下空間だ。天国は、宇蘭が3カ月後に移動する地上世界だ。しかし人間が煉獄にいつまでも留まることは許されない。すべての法律は人類野生化再生プロジェクトのために作られていたからだ。

 ロボット君たちは、限られた地下空間で、地獄と煉獄で暮らす人々のために放射能汚染されていない食糧を作る必要があった。地下で食糧生産能力を上げるには、相当の労力とエネルギーコストがかかる。それで食糧生産量はほぼ横ばいの状態が続いていた。ロボット君たちはいつも地獄と煉獄の食糧配布に苦慮していた。彼らの目から見れば、煉獄は進化系人類の生産施設で、それに対する食糧をケチることは避けたかった。しかし地獄は、進化系人類を生産できない廃人間と退化系ベイビーの蟠る収容所で、極力食糧を制限する方針が取られていた。しかし退化系ベイビーたちは、地獄の中の託児所に預けられて厳しい健康チェックを受けながら、「スペア」としての待機要員にもなっていたので、託児所の食事だけは煉獄の食事と変わらないぐらいの栄養が与えられていた。

 煉獄の夫婦は妻が閉経して子供を産めなくなると、廃人間として仲良く地獄へ落とされた。人類野生化再生プロジェクトでは、進化系人類の更なる生産が求められていたので、煉獄の設備投資に重点が置かれ、煉獄の地下空間は拡大していった。しかし地獄は、主として廃人間の余生を送る場所なため、拡張はほぼ行われていなかった。10年前に、この地獄空間が廃人間で溢れて手狭になったとき、ロボット君はその解決策を見出した。廃人間の早期処分である。

 ロボット君たちは、ロボット三原則の「ロボットは人間に危害を加えてはならない」という文言を忠実に守ってきたが、手狭になった地獄空間を前にして、それに反しない妙案を考案した。彼らが人類の歴史書から引用したのはヒトラーや☓☓☓☓という英雄だった。ロボット君は、人間社会においては、人間は人間を自由に処分できることを知ったのだ。そこでさっそく、地獄の住人の中から若い夫婦を選び出して地獄の王様に仕立て上げ、贅沢な部屋と食物を与え、地獄法を作らせた。それは、地獄の廃人間は、夫婦のどちらかが50歳を超えると二人とも自動的に処分されるというものだった。例外として、煉獄から落とされたばかりの人間は10年間地獄に留まることができ、50を超えても生きることは可能だ。そして、処分された廃人間の肉は、貴重なたんぱく源として、地獄用の食材に加えられることになった。王様が作った地獄法は、ロボット君にとっても一石二鳥の妙法となった。

 煉獄の拡張工事に伴い、進化系人類の生産能力が徐々に高まりつつある。ロボット君は得意な計算で、毎年プロジェクト計画に則した補充を行ってきた。地獄の保育園では、ロボット園長の祝福のもと、初潮を迎えるなど生殖能力を得た一定数の男女が結婚式を挙げ、もうすぐ処分される両家の親と涙の別れをして、煉獄に旅立っていった。彼らは煉獄で、新しい部屋と栄養に富む食事を与えられ、まずは5年間、放射能減感作療法に励んで少しずつ放射能を蓄積し、その後ひたすらセックスに明け暮れて進化系の子作りに励む。そして初産のベイビーが結果として進化系でなかった場合、「俺たちの人生は終わったな……」と落胆して地獄落ちし、もうすぐ潰される痩せた4人の両親と再開して、哀れな初孫を披露する。祖母たちは赤ん坊を見つめて微笑み、それから涙に溢れた眼を息子夫婦に向け、「お帰りなさい、お疲れ様」と呟く。もちろん、彼らの孫は第一志望の天国には入れなかったが、第二志望の煉獄に昇れる希望は残っていた。

 一方、天国へのパスポートを得た宇蘭は、生まれながらのエリートとして元気に泣きながら、里親からの連絡を待っていた。天国は、人類が本来生きていた環境が残っていて、人々は農耕を基本に平和な生活を営んでいた。いまの地上と大昔の地上との自然環境の違いは、核汚染されているかされていないかの問題だけだった。基本は自給自足で物々交換なので、地球温暖化危機からもフリーになった。もちろんAIフリーで、ロボット君もいなかった。

 天国で日々を楽しく暮らしている進化系人類は、みな穏やかな顔つきをしていた。天国の顔つきと煉獄の顔つき、地獄の顔つきは明らかに違っていた。天国の人々は幸福の中で生きている笑顔の輝きがあった。煉獄の人々は必死に生きる鋭い目の輝きがあった。地獄の人々は、諦めと絶望ですべての輝きが失せ、ドロンとした目をして顔色も悪かった。しかし天国の人々も、偶に笑顔の失せるときがあった。それは自分の血を分けた子供を持てないことへの悲しみだった。天国の人々は強い放射能環境の中で、生殖能力を失っていたのだ。だから彼らは煉獄の子供の里親になる以外に、子供を持つことができない。人類野生化再生プロジェクトでは、人間は天国に住む人々に限定されていた。ならば煉獄の人々も、地獄の人々も、人間というよりは、人間を造るツールに過ぎなかった。昔、労働者が国や資本家の繁栄に資するツールに過ぎない時代があった。その時代に鑑みれば、煉獄の人々は労働者、地獄の人々はホームレスと言い直すこともできるかもしれない。

 ようやく天国の里親が決まって、宇蘭が里親に引き渡される日が来た。ロボット君は宇蘭を抱いて、地上に昇って行った。譲二と彩香も面会用の別のエレベータで昇った。ドアが開くと、そこはガラス張りの面会室になっていて、ガラスの向こうに宇蘭を抱いた里親の、喜びに溢れる顔があった。ロボット君が譲二たちに顔を向け、「さあ、ご自由にお話しください」と促す。里親の両親は宇蘭を抱いて近付き、ガラス越しに「本当にありがとうございました」と感謝の言葉を述べた。
「出産、大変だったでしょう」と奥さんがねぎらう。
「いいえ、これから何人も産まなければなりませんもの」と彩香は返した。
「あなたのお子さんをみんな預かりたいけど、子供のいない家庭が多すぎて、当分一家族一人と決めれれているの。残念ですわ。兄弟がいた方がいいですものね」
「その代わり、この子はお二人の愛情を一身に受けて育ちますわ」と言って、彩香はさみしそうに笑った。
「私たちだけじゃなく、我々四人の愛情を受けて育つんです」と進化系の夫。
「僕たちの愛は弱いな。画面でしか会えませんから……」
 譲二は視線を宇蘭に向け、苦笑いした。
「いずれにしても地上は天国なんだ。宇蘭ちゃんが不幸になることなんか、絶対にありませんよ」
「お願いします。宇蘭を幸せにしてやってくださいね」と彩香は念を押した。 

 譲二と彩香は、遠くの美しい山に向かって新しい両親とともに宇蘭が去っていく姿を見送り続けた。周りは一面の菜の花畑だった。美しい山は白雪を戴いた富士山だ。その白雪は、夜になるとオーロラのように薄青く輝いた。
「嗚呼あの雪山、昇りたかったなあ……」
「あら、あなたの趣味は洞窟探検じゃなかった?」
 二人は肩を寄せ合い、笑いながら地下奥深くへと戻っていった。

(了)

 

 

 

 

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エッセー「 ゴジラ、悲しき道化師」& ショートショート 「ブラック・マウンテン」

エッセー
ゴジラ、悲しき道化師

 大分昔、手に火傷をしたら食用油をかけろというのが医学常識の時代があった。僕が上野の飲み屋で酒を飲んでいたとき、店員が熱い油を手にかけ火傷をした。僕は「早急に患部を冷やせ」という新しい医学常識を知っていたから、直ぐに水をかけろとアドバイスしたが、彼は酒に酔った僕をジロッと見て、「騙されはしないぞ」といった顔付きで薄笑いしながら横の油をかけ始めた。僕は気分を害し、それ以来その店には行っていないし、彼の火傷がどうなったかは知らないが、きっと病院に行ったら「何で直ぐ水をかけなかったんだ」と怒られたに違いない。そういう医者自身、その数年前までは水をかけたら「何で油をかけなかったんだ」と怒っていただろう。

 僕は若い頃喘息だったが、当時は発作が起きたら直ぐに気管支拡張剤をスプレーしろというのが常識だったし、日頃から予防的にスプレーしろという医者も多かった。しかし、それで多くの子供が心臓発作で死んだため、そんな学説はお蔵入りになってしまった。このように医学界の常識は5年ごとに変わるので、気を付けた方がよい。僕は病気療養中の身だが、手術をしたあくる日に病院の廊下を歩かされたし、退院しても積極的に足を動かせと言われている。しかしひと昔前は、病人は絶対安静というのが医学界の常識だった。

 そんなわけで、数年後には絶対安静が復活する可能性はあるものの(寄る年波で)、いまのところ僕は医学界の常識に準じて、一週間のうち2、3回は近隣を散歩している。僕の病の副作用は金欠症で(実際、菌血症に度々罹る)、少しの散歩で息を切らせるから働けるはずもなく、この歳では求人もないし、悠々自適の振りして生きることに決めた。鴨長明吉田兼好のような偉人たちの清貧な生き様に無理やり憧れれば、残された時間をなんとか楽しく過ごせると思っているだけの話だ。

 それで数日前、いつもの川の堤に植えられた桜並木を散歩していたわけだが、突然、桜の幹が結構グロテスクなことが気になった。まさか木の根っこに嘔吐したサルトルじゃないし、ゲシュタルト崩壊でもないだろうが、異様な姿の幹たちに異様な感覚を抱いたことは確かだ。きっとそれは、冬の桜は花もなく葉もないから、鑑賞の視線が枯れ枝か太い幹しかなかったからだろう。若い桜には桜細工に見られるような美しい部分もあるが、老木になるにつれ、その肌はサメ肌を通り越し、ゴジラのような荒々しい肌に変わっていく。

 ゴジラがなぜあんな肌をしているのか、映画監督の気持ちが分かった気がした。監督は観客の恐怖感を駆り立てるべく、愛嬌ぎりぎりのグロテスクな怪物を創りたかった。グロテスクの語源は「洞窟的」という意味だが、ゴジラが海底の穴蔵から発生した生物である限り、人々に不快感をもたらす制御されないカオスの宿命を背負って、地上に出てこなければならなかったはずだ。そして彼はカオスを表現した肌で、破壊と発生を繰り返すカオスの力をもって、戦後に復興されつつある都市を思う存分に破壊し、逃げ惑う人々とともにカオスの世界に再度引き戻していく。東京大空襲の再現である。しかしゴジラはカオスだが乱暴なアイドルだ。

 ゴジラは破壊者だが、毎回作者は何らかの意味合いを彼に与えて、現在の統制された世界に生きる我々に伝えようとする。観客は怪獣のその意味合いと細い糸で結ばれたときに、恐怖を超えたある種の共感や親近感が生まれて彼は悲しき負のアイドルとなり、人々は次なる作品を期待することになる。まるで中世の貴族が、王様の城にある洞窟風の広間を見るように、趣味を超えたある種の不可解な宿命を感じる。破壊(消滅)と再生(発生)は、鶏が先か卵が先かの問題で、その本質はグロテスクな洞窟色を帯びていて、それが世の中のベーシック・カラーであることを知っているからだ。桜の肌もゴジラの肌も、きっと年寄りの肌も同じ色合いをしている。そしてそれは恐らく、実際は繊細な中心部を包み込む、頑丈なプロテクターであるはずだ。本質的に生き物の皮は、外界を敵と見なした設計になっていて、周りを威嚇する。そしてそれにガードされる中身には、ゴジラも桜も人も、悲しい生き物の宿業が体液となってうっすら流れている。  

 外皮は外部から数多くのカオス的攻撃を受け、傷の修復を繰り返しながらカサブタを重ね、黒染みでくすんでいったに違いない。僕の皺だらけの褐色肌も、桜やゴジラと同じに、長年多種多様な外部攻撃を撥ね退けてきた結果だ。しかし敵は外だけでなく、病気の多くは内側から発生する。これには誰も勝てないし、皮の外側からはなかなか分からない。ゴジラに内なる病気があるとすれば、それは映画館を埋め尽くす観客の「破壊願望」や「死の欲動」の吐息を敏感に察知して暴れ回る、確信犯的ショーマンシップに違いない。ゴジラは結局ピエロ的なゆるキャラで、監督という調教師の鞭のもと、観客の受けを常に気にして暴れまくる。そして映像の中で都市は存分に破壊されるが、これには三種類の破壊様式があるだろう。

 再生や復興は、破壊がなければ始まらない。例えば「スクラップアンドビルド」という言葉があるが、それは効率の悪くなった古い設備を壊して新しい設備に替え、会社や産業界、国、さらには世界を発展させていこうという意味合いが含まれている。だから日本語に訳すと、「創造的破壊」という言葉になる。この意味は「自らを破壊して新しい自分になること」だ。それは、蛇や昆虫が脱皮して、大人に成長することと同じ意味合い、あるいは自らが成長するために自らに試練を与えることと同じ意味合いになる。昆虫の脱皮は、創造的破壊なのだ。

 しかし、個体は必ず老化して死を迎える。蛇も昆虫も人間も、個体としては死んでいく。だから彼らは必死になって、子孫を残そうとする。雄と雌が交わって子供をつくり、その子供たちは種を継続させていく。この繰り返しが世界のどこかで続いていく限り、蛇も昆虫も人間も、進化というイメチェンはあるにせよ、滅亡することはないだろう。彼らが創造的破壊を繰り返す限りにおいて、彼らが滅亡することはないはずだ。

 ところが、破壊には創造的破壊の他に、「再生的破壊」というものがある。それは地震や噴火、気候変動などの天変地異による破壊、種間闘争による破壊、同種内闘争による破壊等、自らの意思ではなく、自然の意思、他者の意思による破壊で、これは自らが望んだものではなく、悲劇性を伴っている。相手が自然であれ他者であれ、崩された積み木を再び積み上げ、シジフォスのように転がり落ちた岩を再び山の上まで運び上げなければならない。戦後復興も、震災復興も地球上のどこかで、毎年のように繰り返されている。

 人間に限らず、地球上のあらゆる生物が創造的破壊と再生的破壊を繰り返しながら、種を継続させてきた。そして再生的破壊の場合は、その破壊力が再生力を上回ったとき、その種は絶滅することになる。これが「絶滅的破壊」だ。レッドデータブックに入れられた生物の多くが、人の手を借りなければ、自らの再生力を発揮できずに滅んでいく。ウクライナアメリカの手を借りなければ、滅ぶだろう。そして人類もレッドデータブックに入れろと主張する学者も出てくるわけだ。その理由はもちろん、科学のパワーが創造的破壊の域を越えて、いまや再生的破壊も通り越し、絶滅的破壊の域に達してしまったことによる。その象徴的存在がゴジラであることは明白で、もはやゆるキャラゴジラは文明終焉の象徴ということもできるだろう。彼は核の象徴で、核は絶滅へ向かう手段だからだ。

 創造的破壊の最終目的は世界の発展だ。その理由は、創造的進化が人類すべてに寄与すべきものだからだ。しかし「アメリカファースト」「東京ファースト」という言葉があるように、人類の共通資産である創造性は地域に分散させられ、その地域が覇権争いのツールに利用してしまっている。そしてその覇権争いの結果が、ウクライナパレスチナに見られる戦争や紛争で、これらがいずれ終結するのであれば、人災による再生的破壊に分類され、和平後には再生が試みられることになる。再生的破壊がもたらす人類の悲劇は、一部地域に限定され、多くの無関心者がその悲劇を無視することも可能だ。しかし、プーチンがチラつかせる核戦争となると、話は違ってくる。核は「絶滅的破壊」のパワーを秘めているからだ。

 水爆は、大量の人間を一瞬で殺すために創られた破壊兵器だ。それは人類に貢献するのではなく、〇〇ファーストに貢献する発明品で、ロシアがそれを使えば、「ロシアファースト」の理想を具現するためということになる。当然のこと、ロシアの核使用が導火線となり、「アメリカファースト」「イギリスファースト」「〇〇ファースト」の国々が連鎖反応的に核ミサイルを打つから、人類は絶滅の危機に陥ることになる。

 ゴジラは度重なる水爆実験の申し子として、眠っていた水生恐竜が核パワーを全身に漲らせて再生した。人類は必死の抵抗で、最終的にゴジラの体を粉々にして退治した。しかし、洞窟の天井からは石灰水が滴り、知らぬ間に成長して、更なるグロテスクを生み出していくように、肉片となったゴジラは、いまもどこかの海底でG細胞を使ってヒトデのように再生を始めており、次作で再び暴れることになる。80億の人類一人ひとりを、必死に生きようとする細胞に譬えることができるように、G細胞もまた、生き物である限りは、殺されても生への執着心は失わず、必死に再生しようとする。その生命力は木々の執念と変わらない。切り倒された大木は、切り株から芽を生やし、いずれ大木に再生する。

 桜たちも人々の知らぬ間に、生き残るために成長を続けている。けれど美しい花を咲かせるソメイヨシノゴジラと同じに、人間の手で創られたものだ。ゴジラソメイヨシノも自然交配によって子孫を残していくものではない。ゴジラは人間の創った「水爆」の力を借りてパワーアップし、トカゲの尻尾みたいな再生力で何度も生き返り、鬼っ子となって人類の悲劇性を訴えるが、残念ながら観客はそれに破壊願望の満足感で応える。一方ソメイヨシノは、人の意思がないと増え続けることはできない。風の力で思う存分花粉を振り撒く自由を、美の代価として江戸の昔に奪われた哀れな植物だ。その哀れさは、恐らくゴジラの出生の秘密と重なり合うところがあるだろう。人類はゴジラも桜も、自らの滅亡手段も作出した。

 彼女たちは植物の性(さが)とも相まって、ゴジラのようには自力再生できずに接ぎ木されて、人々の気まぐれの場所に植えられていく。坂口安吾は満開の桜の不気味さを描写したが、川沿いに整列させられた花も葉もない桜たちを見ると、鎖に繋がれ引かれていく奴隷たちの哀れな姿を連想させられる。満開の桜も、川端のソメイヨシノも、きっと何か不気味な信号を発して訴えているが、人間たちの耳には聞こえない。しかし神から運動能力を与えられたら、ゴジラのように大暴れを始めるかもしれない。「何で惨めなゆるキャラをつくったのよ!」

 ソメイヨシノの美しい花弁は、人間を喜ばせるだけのものだ。恐らくゴジラソメイヨシノも、人の欲得から派生した幇間(ほうかん)の悲しみを背負いながら、ひょっとこの面を被って悦楽の中で踊る気まぐれ人たちが、酔いしれて倒れるまで、生き死にを繰り返すに違いない。それが続けば続くほど人類の滅亡は先延ばしされ、レッドデータブックから除外されることもないだろう。どこの奴らがしぶとく生き残るかの問題だからして……。

 


ショートショート

ブラック・マウンテン

 夫婦は遠いピルモントから汽車に乗って、この地にやってきた。昔、カーリュの終着駅は外国の駅と繋がっていたが、最近大きな戦争が起きて、カーリュ川に架かっていた鉄道橋が爆破され、そのままになっている。この戦争で、ピルモントの子供たち130人が敵軍に拉致されていなくなった。その中に一人息子のプルーニャも含まれていた。

 妻はプルーニャの失跡後、一年経った春の夜に気が触れた。彼女はもう、プルーニャのことしか考えなくなった。一日中、プルーニャプルーニャと小鳥のように口走り、家の中で泣いていた。妻が手にするものはすべてがプルーニャだった。彼女は家事も料理もしなくなったので、夫は仕事が手に付かなくなった。彼はプルーニャの代わりに、捨て犬を拾ってきて妻に与えた。妻は子犬をプルーニャと呼んで、息子のように手厚く世話をするようになった。犬のプルーニャは子供部屋をねぐらに、部屋に残るプルーニャの匂いを嗅いで育った。

 犬のプルーニャが二歳になった春、妻は愛犬とともに家出をした。夫はそれを予測していて、あらかじめ親類から旅費を借りていた。夫は納屋に置いていたリュックサックを背負い、まずは敵国の方角に向かった。そうして細い畑道を犬と一緒にとぼとぼ歩く妻に追い付いた。
「ばかだな、なぜ一人で出かけるんだ?」
「プルーニャと一緒よ」
「そうだったな。じゃあ、家族でプルーニャを探しにいこう」

 プルーニャは率先して夫婦を導いていった。細い畑の道は、敵の敷設した地雷を踏む危険があったが、二人はすっかりプルーニャを信じていたので、気にすることはなかった。妻はプルーニャを息子の化身と思っていたし、夫は妻の行動から奇跡が生まれると信じる以外に、息子と再会する方法を見出すことはできなかった。プルーニャは二人を先導するガイドのように、途中で迷うこともなく、東に向かって進んでいく。すると畑の道は終わり、軍用トラックの行き来する国道に出た。

 一台のトラックが停まって、運転手が側道を歩く夫婦に声を掛けた。
「乗ってくかい?」
 妻は息子の残り香が途切れてしまうことを恐れたが、プルーニャが前輪に前足を掛けたので、息子の導きだと思った。二人は助手席に乗り、夫はプルーニャを膝に乗せた。運転手は「どこへ行くんだい?」とたずねた。
「分からないんだ。この犬に付いて行くだけさ」と言って、夫は悲しそうに微笑んだ。プルーニャは、窓からしきりに外を眺めていた。それを横目で見た運転手は、「どうやらこの犬は、ここいら辺の景色を知っているようだな」と呟いた。すると妻が、「プルーニャは他の子とトラックに押し込まれて、ここを通ったのよ」と答えた。
「犬殺しの車かい?」
「いいや、人さらいの車さ」と夫が言った。
 運転手は舌打ちして、「奴らに連れ去られた子供たちのことかい?」と聞いた。
「そうだ。親たちはうろつく以外に何もできないんだ」
「嗚呼……」

 運転手は溜息を吐く以外、返す言葉を見失った。その時、プルーニャがワンワンと吠えたので気を取り直し、「どうやら近くの駅に降ろしてくれと言ってるようだぜ」と妻に向かってウィンクした。そのとき運転手の閉じた目じりから涙が流れ落ちた。夫婦は駅まで送ってもらい、運転手は「グッドラック」といって国道に戻っていった。二人と一匹はそこから汽車に乗った。きっと息子のプルーニャも、同じように汽車に乗せられ、カーリュ川を渡っていったに違いない。

 プルーニャは、線路の横の小道を進んでいった。すると遠くに橋のアーチ部分の鉄柱が三本だけ、残骸となって立っているのが見えた。プルーニャは脇道に逸れて、河辺の方に向かっていった。そのとき、口笛で一斉に囃し立てるような鳴き声がして、バタバタとシギの群が草むらから飛び立った。「子供たちが喜んでいるわ」と妻が呟く。夫にはその羽ばたきが、何か場違いな場所に足を踏み入れてしまったような気にさせ、胸騒ぎがした。

 案の定、兵隊が三人、銃を構えてやってきた。夫婦が丸腰なのが分かると、兵隊は銃を下に向け、「こんな危険な場所で犬の散歩かい?」といってシギのような口笛を吹いた。
「ここはそんなに危険なのかい?」
「どこに地雷があるか分からないさ」と仲間が答えた。
「僕は妻と、敵に連れ去られた息子を捜しに来たんだ」
 すると三人とも悲痛な顔つきになって、一人が「ピルモントの子供たちかい?」と聞く。
「そう、僕たちのような連中がここに来るのかい?」
「ああ、よく来るんだ。しかしあの橋を見て、肩を落として帰っていくのさ」
 橋げたはほぼ落ち、遥か遠い向こう岸に向けて、橋脚だけが手持無沙汰に整列している。
「息子たちは汽車に乗せられて、この橋を渡っていったわ……」
「あんたたち、政府から話は聞いていないのかね?」
「政府に問いかけても、まだ見つかっていないと返してくるだけさ」
 兵隊の一人が「じゃあ付いて来いよ。政府より詳しい奴を知ってる」というと、兵隊たちは踝を返して、道を下り始めた。百メートル以上離れた草むらに対岸から飛んできた砲弾が着弾し、大きな音と煙が舞い上がった。兵隊たちと夫婦と犬は、耳でも遠いように何の反応も起こさなかった。一人が後ろを向き、「時たま爆弾が飛んでくるが、運が良ければ当たらないさ」といってニヤリと笑う。

 葦で覆われた川辺に、転々と迷彩テントが張られ、その一つの前に三人は止まって、「隊長、お客さんです」と声を掛けた。中から上着を脱いだ黒シャツの中年男が出てきて、夫妻を睨みつけ、「ここは戦場だ。民間人が来る場所じゃない」とたしなめた。
「ピルモントの子供たちの親です」と兵隊がいうと、隊長は急に悲しい顔つきになって、「さあ我が家にどうぞ」と夫婦をテントに誘い入れた。

 テントの中は、簡単な調理道具と食糧品以外は、寝袋があるだけだった。隊長は寝袋の上に座り、夫妻は草の上に敷かれたシートに座って、互いに挨拶した。
「俺はここに来た五十組近くの親に、子供たちのことを話してきたんだ。政府はかん口令を敷いてるが、俺はそんな命令に従う意思はない。だから、あんたたちに俺の知っていることをすべて話そう」といって、隊長は汚い金属製のコップにポットのコーヒーを入れて、妻に差し出した。妻はそれを夫に渡し、夫は思い切り飲み干した。

 「あなたはプルーニャがここに来たことを知っているのね?」
 妻がたずねると、隊長は頷いた。
「あんたたちの子供があのピルモントの子たちの中にいたなら、答はイエスだ」
「ピルモントの子たちは汽車に乗って、この橋を渡っていった?」
 夫がたずねると、隊長は頭を横に振った。
「渡っていったことは事実だが、渡り切れたかどうかは分からない」
 隊長は曖昧な答え方をしたので、「それはどうして?」と妻は言ってプルーニャを強く抱きしめた。

「戦争だからな。すべてが混乱している。俺の部下だって、戻ってこなければ少しは捜そうとするが、あくる日には諦めてみんな各自の任務に専念する。死んだのか脱走したのか、そんなことは分からないのさ。そいつが帰ってこなければ、どちらかと思って、諦めなけりゃならない」
「しかし、怪我をして苦しんでいるとすれば?」と夫が聞いた。すると隊長はきつい目をして「ここはそんな想像を働かせる場所じゃないんだ。敵の殲滅を想像するだけで目一杯さ」と続けた。
「しかし、あんたたちの子供が置かれた状況を話すことはできる。俺はそれ以外、何の手助けにもなれない。俺の話は、あんたたちの子供を助ける話じゃないし、希望を持たせる話じゃないし、絶望的な話でもない。何の解決ももたらさない話さ。いや、あんたたちの希望を半分削ぐような話かもしれない。それでも聞きたいなら話そう」
 二人が無言で頷くと、隊長は語り始めた。

 「あの橋を見ただろ。あれは30年前に橋向こうの国との友好を祝って造られ、鉄道で行き来が始まったんだ。橋の真ん中から向こう側はあいつら、こちら側はうちらが金を出して、両国の土建屋が一緒に造って開通した。ところが5年前に、あっちの国のおかしな野郎が大統領になって、こっちの国のここら辺はあっちの国の領土だとわめき出したのさ。それで3年前に突然、こっちの国に戦いを仕掛けてきた。あまりに突然だったので、我が軍も準備ができておらず、後退に後退を重ねて、あんたたちの住むピルモントまで取られちまった。しかし我が軍は相手が思ったほど弱くはなかった。徐々に劣勢をばん回して形勢を逆転し、橋の向こうまで追い返すことができたんだ」
「あんたら命知らずの英雄のおかげさ」と夫が合いの手を打った。

「しかし、市民にもそれなりの犠牲があったさ。形勢が悪くなった奴らが後退するとき、手土産にいろんな財産を略奪し、その中に可哀想な子供たちも含まれていたんだ。あいつらは子供たちを兵隊に育てて、俺たちと戦わせようとしたのさ。いや、きっと撤退時の盾にしたかったんだ」
「この橋はいつ頃壊されたんだい?」と夫が聞くと、隊長は眉間に皺を寄せ、悲痛な面持ちで呟いた。
「悲惨なことに、橋は奴らが撤退するときに合わせて爆破された」
「……ということは」
「俺のせいじゃない。俺たちは、橋を爆破するから爆弾を仕掛けろと命令されたんだ。それで夜中のうちに橋の至る所に爆弾を仕掛けた。奴らは16両編成の汽車に、略奪品や傷病兵を含めた多くの敵兵が乗って、撤退の準備を始めているという話だった。司令部が言うには、途中で汽車を攻撃すると、敵兵は蜘蛛の子を散らすように付近に逃げ出すから始末に悪い。橋の上で汽車ごと川に落とせば、住民の被害も抑えることができるというわけだ。しかし、俺たちは知らなかったんだ。恐らく、上の連中も知らなかったに違いない」
「何を!」
 急に妻が大きな声を発したので、隊長は叱られた猫のように首を縮め、下を向いて呟いた。
「子供たちが途中で乗り込むなんて、誰も予測できなかった……」

 妻は大声を張り上げて泣き出し、プルーニャはクンクンと妻をいたわり、頬の涙を舐めた。夫は無言のまま震えて、涙を流していた。それを見て隊長は気を取り戻し、牧師のように背筋を伸ばして説教を始めた。

「俺は訪ねてくるみんなに言ってるのさ。神を信じなさいと……。長い汽車が鉄橋に掛かったとき、先頭から半分までは、川の真ん中の国境を越えていた。そっちに爆薬は仕掛けていなかったのさ。俺たちは、前の半分を爆破すれば、汽車の惰性ですべてが川に落ちると考えていた。しかしスイッチを押すのが遅れて、後ろ半分が爆破され、川に落ちていった。前の半分はそのまま逃げおおせることができた」

「もし前の半分に息子が乗っていたら……」
 夫は声を震わせながらたずねた。
「敵国のどこかで生きているはずだ。あんたたちは、それを信じるべきだよ。俺たちは毎日のように仲間が死んでいくのを見ているんだ。奴らは天国から俺らを見守っている。しかし、俺は死ぬまで仲の良かった連中と再会することはないんだ。あんたら息子さんと再開したいなら、生きていることを信じるんだ」
「でも私がここで死んだら、いずれは再会することができるのよ」

 何の抑揚もない妻の言葉に二人は驚き、顔を見合わせた。隊長は笑い飛ばすように「ばかな」と返し、「いつ死のうが、いずれは会えるさ」と続けた。
「しかし俺は死なないようにしている。俺は大切な兵力なんだ。死んじまったら、国のためにならないからな。仮にあんたらの子供が50パーセントの確率で生きていたなら、再会するまで、あんたらは死ねないんだ。だって息子が悲しむのは嫌だろ。つまり、息子が100パーセント死んだと分かるまでは、あんたらは死ねないことになる。ならば、仮に一生会えなかったとしても、あんたらは人生を全うすることになる。長い人生なら、悲しい息子と暮らしちゃだめだ。幸せな息子を思い浮かべて夫婦で共有し、思い出の中で楽しく暮らしていくのさ。俺はいつも、死んだ仲間と夢の中で冗談を言い合ってんだ。もちろん、軍服なんか着ちゃいない。みんな、思い出に助けられて生きていくのさ」
「私の思い出はこの子」と言って、妻はプルーニャの垂れた耳にキスをした。

 夫婦がテントから出ると、プルーニャはしきりに川のほうへ行きたがった。隊長はそれを見て、「あんたらの上官が、敵陣へ潜入せよと命令しているぜ」と言って笑った。
「どうやって行けばよろしいの?」
 妻が真剣な眼差しでたずねるので、隊長は慌てて訂正した。
「渡れば、たちまち捕まって牢屋行きだ」
「構わないわ。だって、息子のプルーニャがママ来て、ママ来てって叫んでいるんだもの」
「この犬の命令は、あなたの上官の命令に等しいんだ」と、夫も妻の味方をする。隊長はしばらく呆れた顔をしていたが、「まるで軍隊のようだな」と苦笑いした。
「軍隊では上官の命令は常に苛酷だ。確かに俺たちは敵軍を敵国に追い返した。しかし上官は、それだけじゃ満足せず、兵隊をだらけさせないために次なる命令を下す。今朝受け取った命令は、向こう岸の敵陣に夜襲を仕掛けることだ。奴らは再びここを侵略しようと準備を始めている。そいつをいまから叩き潰そうっていう作戦だ」
「……ということは」
「そう、今夜5艘のゴムボートで川を渡り、敵地に潜入する。命を捨てる覚悟があるなら、あんた方を同乗させてやってもいい。あんた方が味方のスパイだと俺が言えば、きっと許されるだろう。しかし犬はダメだ。いつ吠えるか分からないものな」
 夫は無言でプルーニャに「吠えろ!」と言うと何度も吠え、今度は「黙れ!」と言うとピタッと止まった。それを見た隊長は「了解だ」と言って犬の頭を撫でた。夫婦は小さなテントをあてがわれ、水や夕食すら供給された。そして午前零時を過ぎた頃、呼び出された。

 夫婦は、隊長を含め5人の兵隊が乗るゴムボートの真ん中に乗せられ、向こう岸に着くまで顔を伏せていろと命令された。兵隊は全員黒いドーランを顔に塗っていた。隊長を除いた四人がパドルを漕いで、隊長は暗視ゴーグルで対岸を見つめていた。ボートは橋から大分下流に流されて対岸に着いた。兵隊が3人ボートから降りて、腰まで水に浸かりながらそいつを岸まで引いていった。水際で全員が降りてボートは葦の茂みに隠され、隊長は夫婦に「グッドラック」と言って軽く敬礼し、兵隊たちは全員攻撃目標の方角に消えていった。

 葦の切れ目までプルーニャを抱いていた夫は、そこから草むらに降ろしてリードを握った。プルーニャは探知犬のように付近の臭いを嗅ぎながら暗闇の中を進んでいき、ハアハアと土手の急勾配を登っていったので、二人も息を切らせた。すると崖の上に、月明かりに光るアスファルトの道が現れた。この道を橋に向かって進めば、流された分を取り戻すことができる。川と反対の崖下に、数軒の人家の屋根が光っていた。しかし暗闇の中でも、崩れていることがはっきりと分かった。おそらくここら辺の住民は、安全な場所に疎開したに違いない。突然プルーニャが、廃屋たちの方向に向かう下り道を降りようとしたので、二人は戸惑った。「なぜプルーニャはこんな寂びれた村の田舎道に降りようとするんだろう……」

 二人はプルーニャが前半分の車両に乗っていて、川に落ちることなく遠くの大きな町に連れていかれたと信じていた。道の分岐点に表示板が立っていて、「ブラック・マウンテン」と書かれている。妻が震え声で「あそこだわ」と呟いた。「ああ、楽しい思い出の場所だね」と夫も呟いて、妻の額にキスをした。昔、二つの国の関係が良好だったとき、夫と身ごもった妻がこの地に遠足に来たことがあった。
「あの頃は幸せだったわ……」
「僕たちのプルーニャは、君のお腹の中で眠っていたね」
「私たちのプルーニャ、私たちの赤ちゃん……」
 妻は嗚咽しながら、夫の胸にしがみ付いた。

 そのとき、森の向こうで何かが光り、大きな爆発音がした。驚いたプルーニャがワンワンと吠え立てる。しかし、廃墟となった家々からは誰も出ては来なかった。彼らが石油タンクでも爆破したのだろう。炎の光が雲に届き、照り返しで村の道がくっきりと浮かび上がった。
「手を繋いでこの道を降りていったね」
「あそこの店でソフトクリームを買ったわね」
 二人が手を繋いで店の前を通ると、家屋は崩れ、道沿いに埃をかぶったカウンターが残っていた。妻はカウンターに転がっていたコーンを二つ拾い、一つを夫に渡した。
「私とあなたとプルーニャの幸せに乾杯」
 コーンはたちまち粉のように崩れて、二人の手から逃げていった。二人が足元を見ると、照り返しで石畳のすべてがオレンジ色に染まっていた。

 ブラック・マウンテンは崩れ果てた村の名前であり、その奥の小さな山の名前でもあった。山全体がはんれい岩でできていて、所々に大きな岩が転がっている。道は村を過ぎると急に登りとなり、岩々の間を縫うように山頂に向かう。300メートルの展望台からは、カーリュ川やその周りの広大な穀倉地帯を見渡すことができた。プルーニャに導かれながら登るほどに、二人の心に乗っていた重石が徐々に小さくなっていくような感じがした。頂上まであと10メートルのところで遠くの炎が消え、急に辺りが暗闇になった。月も星も、すっかり雲に隠れてしまっていた。

 そのとき、夫婦は奇跡を見た。目の前の大岩が急に光り出し、大きな穴が開いた。驚いたプルーニャがワンワン吠えながら、夫がリードを落とした隙に穴の中に駆け込んだ。夫は慌てて穴に入ろうとして、中からの風に押されて尻もちをついた。妻が夫に駆け寄り、夫の肩に両手をかけて跪き、喜びに満ちた顔で「アーメン」と唱えた。夫は手を合わせて「アーメン」を復唱した。

 プルーニャはプルーニャに抱かれていた。そこは青空の下、一面の花畑にプルーニャを真ん中に、多くの子供たちが集っていた。
「お父さん、お母さん、心配しないで。僕たちはいま、天国で遊んでいるんだ。安心して戻ってください。死んだ人たちはまた起き上がり、その祝福された日に、再び天国で会えるんですから。その前にお父さん、お母さんにお願いがあります。僕たちと一緒だった友達が、地獄のようなそちらの世界で、いまも苦しんでいるんです。お父さん、お母さんはその子たちを連れ戻し、本当のお父さん、お母さんの許に返してやってください」

 プルーニャはプルーニャを放し、ワンワンと吠えながら、再び夫婦の許に帰ってきた。するとたちまち天国は消えて黒々とした岩肌に戻り、それに代わって山の裏から金色の光が昇り始めた。二人はスッキリとした気分になって展望台に登り、朝日を浴びながら、豊富な水をたたえるカーリュ川と、どこまでも広がる豊かな国土を見下ろした。
「さあ、プルーニャにまた会うまでに、やらなければならない仕事ができたわね」
 妻は昔のように心を弾ませながら、プルーニャの前に立って山道を下り始めた。

(出典:能『隅田川』及びB.Britten『Curlew River』)

 

 

 

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エッセー「 トロイメライ」& ショートショート「 黄金姫」

エッセー
トロイメライ
I Have a Dream

 シューマンピアノ曲集『子供の情景』に、『トロイメライ(夢想)』という曲がある。誰でも一度は聞いたことがある名曲だ。『子供の情景』は、恋人であるクララの父親が二人の結婚に猛烈に反対していた時期に、彼女から「時々あなたは子供に思えます」と言われたのをきっかけに作曲した小曲の中から、13曲を選んでまとめたものだ。彼は自分の子供時代を夢想してこの曲集をつくったらしいが、きっと相手の父親と裁判までして結ばれるという骨肉の争いの中で、あの幼少期の穏やかな情景を懐かしんだからに違いない。クララは勝気で情熱的な女性だったから、自分の父親に毅然として立ち向かう夫を願い、励ます意味で「あなたまだ子供ね」と言ったのかもしれない。

 トロイメライのまどろむような緩やかな旋律の背景には、安定した平和な世界が横たわっている。もしシューマンが戦乱期に生まれていたならば、大人になってから、子供の夢をあんなゆったりとした旋律では表現できなかっただろう。戦争は乳幼児にも容赦ない。雨あられのように降ってくる爆弾の音に驚いて泣き出すと、今度は敵に知られまいと、自分の母親が汚れた手で口を抑えにかかる。沖縄戦では、それで死んだ赤ん坊がいた。いまでもウクライナパレスチナで多くの子供たちが同じように爆音に驚き、世界は何もできずに手をこまねいている。しかし、そんな悲劇的な状況を退けてトロイメライを考えると、それは人生で最初に見る夢の揺籃のメロディに思えてくる。母親から十分に乳をもらった後に見る夢のまどろみだ。そして人間は、このとき味わった満足感を心に刻印させ、死ぬまで持ち続け、憧れる。トロイメライは、〝自己満足〟だけに特定された「口唇期」に見る夢なのだ。 

 乳幼児期には、子供たちはトロイメライのような漠とした夢を見ていたが、そこから新たな夢が発芽し、成長するにつれて目的を持った夢を見るようになる。最初は母親の夢やお伽の国の夢、王子様や王女様の夢を見ていたが、次第に周りから「君は大人になったら何になりたい?」などと質問されるようになり、戦時中の男の子なら「兵隊さん」、女の子は「ナイチンゲール」、平和時の男の子は「サッカー選手」、女の子は「アイドル」などと答えるようになる。しかしこの世の中は、「大人たちがなぜこんな質問をするのか」、ということを曖昧にしている。夢を見ることは、世の常識であるからだ。大人たちは暗に、子供たちが社会のためになる大人になること、食っていけることを期待して、この質問を子供にぶつけるのだ。仮に子供が「怠け者になりたい」とか「ヤクザになりたい」とか答えたら、目を丸くして怒るだろう。怠け者もヤクザも反社会的な人間だ。この国に生まれたすべての子供は、この社会に貢献するために生まれたのだとすれば……。ならば怠け者やヤクザはいったい何だろう。それは恐らく、この社会が未来に向かって伸びていくべきレールから外れ、落ちこぼれた人間に違いない。

 しかし大人たちは、自分たちの見る夢が、トロイメライから派生したものであることを忘れている。それが自己満足の塊で、直ぐに玩具の取り合いに展開したことを忘れてしまっているのだ。じゃあいったい、この社会のレールは誰が敷設したものなんだ。まさか神様ではないだろう。いろんな夢を心に抱いて、すべての子供たちがこのレールに上に置かれた乗り物に乗って、自分の夢見る未来に向かって走り出す。しかし激しい競争の中で、多くの子供たちが落ちこぼれて落胆し、気を取り直して別の目的地行きのバスに乗る。あるいはそれも叶わずに、とぼとぼ怠け者や反社会的な人間になるのかは、ケースバイケースということになる。

 このレールは、あくまで生まれた国の社会基盤の一つなのだ。どんなに大きな夢を持とうが、レールがなければ敷設することから始めなければならない。それを敷設するのは政府の役割だ。すでに敷設済みのレールも、例えば民主主義国家では、国民の多数決の意見が選んだ政府が敷設したものに違いない。権威主義国家では、王様の御意思で敷設されたものに違いない。だとすれば、その多数決や王様を嫌う怠け者やヤクザは、「落ちこぼれ人間」と単純に揶揄してもいいものだろうか。むしろ、この社会システムから生み出された教育の枠にはめられて、盆栽のように矯正された結果として心身を阻害され、失念のあまりに落伍した人間かもしれないではないか。そう考えれば、彼らの首を社会が絞め続けた結果、落ちていったという悲惨なケースもあるに違いない。

 政治に無関心な人々には、我々の選んだ政府の引いたレールがどこに向かっているのか知らない場合がある。政府が秘密裏に、おかしな方角にレールを敷設する可能性もあるわけだ。そしてその敷設計画を考案する政府要人は、トロイメライから派生した自身の夢を政策に具現化して、「一緒に乗れや!」と国民を巻き込む。なんの疑問も抱かない人が多ければ多いほど、人々は政府の設えた共同幻想の汽車に乗り、より良い未来へ行くことを信じて、揺籃に揺られてまどろむ。しかし、しばしばレールの行きつく先が断崖絶壁になっていて、トロイメライから覚めたとたん、汽車ごと奈落に転落する悲惨な事故だってあることは、歴史も語っている。世の中一寸先は闇で、運転するのは神様でも仏様でもなく、夢見る権力者や権力集団だ。卑近な例で言えば昔、帝国政府と取り巻き経済界が夢見て引いたレールに乗った国民の多くが奈落に落ち、命を落としていった。一億総懺悔をしても後の祭りというわけだ。

 いま我々がテレビで見ているのは、ロシア政府の引いたレールに乗って戦地に送られるロシアの若者たちだ。そして一人のロシア男のトロイメライが引き起こした戦禍で死んでいく隣国の人々だ。同じことはきっとパレスチナでも言えるだろう。人それぞれが、それぞれのトロイメライを見ながら小さなレールを引き、同じ方向に走る大きなレールに合流する。するとそれは主流となって、どこか予測のできない目的地に向かって走り出していく。経済学者も政治学者も、誰もその目的地が天国であるか地獄であるかは予測できない。

 大きなレールを敷いたプーチンは、ナワリヌイの引こうとしたレールは逆方向に向かっていると判断し、衝突の起こる前に排除した。しかしナワリヌイと同じ方向を目指す連中が再び敷設し、衝突を覚悟に動き出す。そんなとき、ロシア国民に求められているのは各自が自分の夢を分析することなのだ。もちろん、これは世界中のすべての大人たちに求められることだ。いったい自分はどんな社会を夢見ているのか……、それが自己満足だけのトロイメライだと気づいたときに、きっと大人なら子供の感性を捨てて大人のトロイメライを模索し始めるに違いない。人間は大人になってまで、「時々あなたは子供に思えます」と揶揄されるべきではない。大人なら、子供の夢が自己満足の夢で、大人の夢が少し先の未来に向けられなければならないことを知っている。我々は、子供のような感性が数々の悲惨な歴史をつくってきたことに気付くべきだし、繰り返してはいけないと思うべきなのだ。
「君は大人になったら何になりたいんだい?」
「テロリストになって、殺されたパパの仇を打つんだ!」 
 ……世界は未だに悪夢の揺り篭に捨て置かれ、金縛りの状況だ。

 

 

 

ショートショート
黄金姫

 攻落のあと、将軍は部下たちと天守閣に登った。自害した男女が百人ほど無残な姿で転がり、床は血に染まっていた。その中心に、敵将とその妻が抱き合うようにして死んでいた。
「嗚呼、黄金(こがね)姫。お前まで……」
 将軍は部下に黄金姫を敵将の胸から引き離すように命じた。抱き合って硬直した夫婦は、二人の男の力でもなかなか引き離すことができなかった。もう一人が夫婦の間に両腕をこじ入れて、血だらけになりながら、三人がかりで引き離した。黄金姫は仰向けに寝かされ、首の傷口からほとばしり出た血はまだ暖かく、白色の着衣をじわじわと緋色に染め続けている。まるで、朝日が昇るようだったが、姫の白魚のような顔は染まることなく、むしろ闇の世界に引き込まれるように蒼ざめていった。将軍は怒りのあまり、部下に敵将の首を落とさせ、そいつを蹴り上げた。首はコロコロと神棚の方に転がっていった。

 敵将は将軍の部下だった。敵将の妻を初めて見たとき、将軍はその美しさに驚き、その女が部下の妻であることを許せなくなったのだ。黄金姫を見て以来、将軍は毎晩彼女の夢にうなされるようになった。そうするうちに、部下の所有物であることが理不尽に思えてきた。自分の部下が、あのような美しい女を妻とすることは、主人を裏切る行為ではないだろうか。嫉妬心がむらむらと燃えて、激しい怒りがこみ上げてきた。
「黄金姫はあの下郎には相応しくない。わしの側室であるべきだ」

 そして一週間後、将軍は部下に辞令を送った。「黄金姫を召し出すように。我が側室として迎え入れたい。褒美として50万国の所領を分け与える」。するとしばらくして返事の手紙が来た。「そればかりはご海容いただけますと幸いでございます」。将軍は獅子のように唸って手紙を即座に破り捨てると、家老に城攻めを命じた。小さな城を五千の大軍が取り囲み、城は三日で落ちた。将軍は敵将の首と黄金姫の遺体を自分の居城に持ち帰り、オランダ医学の知見がある侍医に見せた。

「この首の輩は、わしの側室の首を掻き切った謀反者じゃ。そしてこの姫は大切な側室であった。わしが心に決めたことは、すべてが真となってきたのに、この姫の命だけは、一瞬の遅れで取り逃がしてしまった。オランダ医学では、その時の遅れを取り戻すことはできないのか?」

 すると侍医は落ち着いた仕草で畳に額を付けてから面を上げ、「さすがにオランダ医学でも、時の流れを戻すことはできませぬ」と答えた。将軍は怒りを抑えながら、震え声で「オランダ医学もさほどのことはないな」と溜息混じりに呟き、強い声で「わしはこの姫を生き返らせたいのじゃ」と続けた。侍医はしばらく考えてから、さらに落ち着いた仕草で畳に額を付けてから面を上げ、「オランダ医学でも、死んだ姫様を生き返らすことは成りません。しかし夜の間だけ、お勤め役として生き返らせることは可能でございます」と答えた。
「なに、夜の間だけ生き返るとな」
 将軍は目を輝かせ、「説明せい!」と閉じだ扇子を開いて振り上げ、火照った顔に激しく風を送った。

「オランダ医学ではダッチワイフと申しまして、夜の時間のお勤めだけに奉仕する側室がございます。この側室には命はございませんが、そのお体とお顔は、得も言われぬ美しさであることが知られております。しかもお湯を入れて体は暖かく、生きた女と変わりません。また、お床では将軍様に話しかけることは禁ぜられておりますので、おねだりもせずに、監視役のお女中を添い寝させる必要もございません。立派におしとねのお役を果たせます」
「しかし余は、この黄金姫が欲しいのじゃ!」
 将軍は扇子を閉じて、パンと姫の横たわる敷布団を激しく叩いたが、侍医が動じることはなかった。

「おまかせください。姫様に瓜二つのダッチワイフをおつくりしましょう。万が一お気に召されなければ、私めの首を切り落としてくだされば」
「しかしその造り物が、本当に余の心を慰めてくれるだろうか……」
「まずはお試しいただき、それからこの老いぼれの処遇をお考えください」
「ようし、お前を信じよう。気に入ったら金千両、気に入らなければお前の首じゃ」

 侍医は黄金姫の遺体と敵将の首を屋敷に持ち帰り、腐らないように氷室に入れた。それからオランダの専門職人を二人呼び寄せ、血で汚れた着衣を剥がして三人がかりで解剖台に乗せた。職人たちは口笛をヒューと吹いて、「まるでトロイのヘレンだ」と呟いた。近所の髪結いが呼ばれて、頭髪をはじめ体中の全ての毛が剃り落とされた。絵描きが呼ばれて、姫の死に顔が克明に模写された。それから姫の全身に、強酸に耐える金色の塗料が塗られていく。小一時間ほどでそれが乾くと姫は金色に輝き、三人はその美しさに心を奪われた。頭頂の中心部分に直径3センチほどの円形の塗り残しがあった。
「これほど美しい観音様を見たことがない……」と侍医。
「まさに美の女神ですな」とオランダ人。

 その夜、家老がお忍びで侍医の屋敷を訪れた。従者どもは、半ば腐乱した敵将の胴体を持ち込んだ。家老は帰り際に、「くだんのあれについてはよろしくな」と侍医に耳打ちをした。侍医は「かしこまりました」と答える。夜中に、酒に酔ったオランダ人たちが叩き起こされ、敵将の型作りが始まった。
「大分腐ってますな」
「このお方は、粗末な造りで構わない。上様は姫様のお夜伽を、このお方に見せたいのじゃ。上様は、姫様を亡き者にしたこのお方を許すことができないのじゃろ」
 オランダ人たちは苦笑いしながら、解剖台の上で胴体と生首を繋ぎ合わせ、黄金姫とは異なり、石膏型を取り始めた。明くる朝に絵師が敵将の顔を模写し、そのあとで下人が荷車で敵将の死体と首を刑場に運んでいき、首は晒し首となった。

 その日の午後、オランダ人たちが大量のシリコンジェルを屋敷に持ち込んだ。一人がポケットから200グラムほどの白い粉包みを取り出し、「こいつを姫様のシリコーンだけに混ぜます」と侍医に説明した。
「オランダ仕込みの夢見る薬かね?」
「さようで。夢を見ながら徐々に、でございます」と言って、オランダ人は含み笑いをした。
「遅効性であろうな」
「分量さえ間違えなければ」
「これで殿様から授かる千両は二千両に膨れ上がる。わしが千両、おぬしらが千両と山分けじゃ」
「嬉しい限りで……」

 黄金の姫は半分ほど硬めのシリコンが入った棺に寝かされ、その上から再びシリコンを注いで棺を満たしていった。シリコンが固まると棺に蓋をして、職人たちはそれを縦にした。頭の上の側板が外され、一人が脚立に登ってホースを頭の上のシリコンに差し込む。ホースの先端が円い塗り残し部分に密着すると、ギロチン台の首のように木枠でホースを固定した。徐々に強酸が投入され、頭蓋骨から脳味噌、首から胸へと浸潤しながら姫の遺体は骨ごと溶けていった。手先、つま先まで溶かすのは徹夜作業となり、侍医は早々と寝てしまった。

 明け方、職人たちは下人どもに命じ、そのままの状態で棺を裏庭に運ばせ、あらかじめ掘った穴のところで逆さまにして酸を捨てさせた。姫の遺体はドロドロの液体となって、穴の中に落ちていった。下人どもは、与えられた洗剤で5回ほど雌型の内壁を洗浄し、作業場に戻して立てかけた。昼になると侍医は起きてきて、次の作業が開始された。

 長いアリの巣のようなゴム袋が頭頂から四肢へと垂らされた。これは人肌の湯が入る袋だ。オランダ人は、別の管を差し込んで薬が混ざったトロトロのシリコン液を注意深く注ぎ込み、時たま雌型を回転させた。頭頂部分からシリコンがあふれ出して棺を濡らし、足元で撥ねた。侍医は驚いて逃げたが、オランダ人たちは笑いながら、「遅効性です」とからかった。

 あくる日になって棺は手術台の上で解体され、雌型シリコンの除去作業が始まった。半透明のシリコンの奥に、金色に輝く姫が眠っている。侍医も下人たちも、古代遺跡の発掘者のように固唾を飲んで作業を見守った。オランダ人たちは大小の刃物を巧みに使いながら、あれよあれよとシリコンを削ぎ取り、黄金の肌に付着した残渣のみが残った。彼らは特殊な油でそれを丁寧に拭き取っていった。金色の黄金姫は妙なる美しさで輝いていた。侍医もオランダ人も下人たちも、そのまばゆい姿に見惚れるばかりだった。
 そのとき、城からの使者が来た。殿様が今日中に黄金姫をご所望という。画家による彩色化粧は一週間ほどかかる予定だった。しかし使者は、女乗物と権門籠まで用意していたので、侍医は仕方なしに裸の黄金姫を女乗物に乗せ、自分は権門籠に乗って城へと向かった。遅いと叱咤されても、この美しい作品を見せれば許してくれると思った。

 将軍は、横たわる黄金姫を見ると、その唇に接吻し、涙を流しながら労をねぎらった。
「お前は良い仕事をしてくれた。千両を遣わそう」
「ありがたき幸せでござりまする。されど将軍様、黄金姫様を生き返らせるためには、人肌に染め上げる作業が残っております。お輿入れはあと一週間後に……」 
「ならぬ、三日後にせい!」
 将軍の理不尽な要求に一瞬戸惑ったものの、侍医は機転を利かす余裕があった。
将軍様がこの金色の姫様がお気に召されたなら、二体お作りになられたらいかがでしょう。将軍様も、ご気分により二つのお城を使われております。この城の奥方様は金色、あちらの城の奥方様は肌色と、お二人の奥方様と至福の時を過ごされたらいかがかと存じます」
 将軍はニヤリと笑い「それは妙案じゃな。ならば合わせて千五百両遣わすぞ」と宣った。
「有りがたき幸せにござります」
 侍医は黄金姫を一端持ち帰り、それを雄型として急いで雌型造りを始めることにした。

 約束の三日後、金色の黄金姫の輿入れ日となって、姫様は金襴緞子の衣装を身に纏って城からの使いを待つ。夕刻に総勢百名ほどの迎えが来て、姫は籠に乗せられ城に向かった。将軍はその夜、床入りの御小座敷に横たわる黄金姫と交わった。そのとき、黄金の肌から発する毒気が将軍の体に浸透し、将軍は幻覚を見た。黄金姫が口を開いて喋り始めたのだ。
「上様は、欲の深いお方でございますね」
 見張り役の女たちには姫の言葉は聞こえなかった。彼女たちが耳にしたのは将軍の声だけで、人形に向かって話しかける将軍に驚き、ご乱心の兆候を見て取った。
「お前を死なせてしまったのは不覚だった。じゃが、こうしてお前は生き返った」
「私は天上から上様に語りかけておるのでございます。死後の世では、欲の深くないお方は天上に昇り、欲の深いお方は地獄に堕ちるのが決まりです。その理由は、この世では欲の深いお方が天下を取り、欲の深くないお方が憂い萎れていくからです」
「すると、わしの死後には……」
「命の切れ目が縁の切れ目でございます」
「嫌じゃ! 死後もお前と添い遂げたいのじゃ」
「ならば、私を愛するのと同じように、生きとし生けるものすべてを愛するのです」
「嗚呼そうしよう。お前を愛し、生きとし生けるものすべてを愛そう」
「ならば私は神様に向かって祈りを捧げましょう。この哀れな男が地獄に堕ちぬよう……」
「ありがたき幸せ。わしはお前のいない世に行きたくはない。わしは地獄に堕ちたくないのじゃ」

 黄金姫と同衾してひと月後、将軍は快楽(けらく)の中で命を落とした。新たに将軍の座に就いた弟君の耳元で、家老は囁く。
「事はうまく運びましたな。毒人形はもちろん、侍医もオランダ人も、口封じのためにすべて片付けました」
「でかしたぞ。ならば今宵は祝縁じゃ!」
 御女中たちが大広間で、手際よく宴会の準備を開始した。

(了)

 

 

 

 

 

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エッセー 「小澤征爾の思い出」& ショートショート「 亡き囚人のためのパヴァーヌ」

エッセー
小澤征爾の思い出

 小澤征爾が亡くなった。偉大な足跡を残した指揮者だったので残念だ。若い頃小澤に入れ込んで、大谷ファンのように海外にまで行って演奏に触れることがあった。日本で小澤の演奏に接するのは当たり前の話だったが、欧米では「東洋人に西洋音楽が分かるか」と思われていた時代だ。そんなときに、東洋人の指揮者が西洋人ばかりで構成される名門オーケストラを指揮し、聴衆もほぼ西洋人だったという現象は、大リーグで日本人選手がホームラン王を獲得するのと同じような快挙だった。ファンだったらそれを本場のオーケストラで観てみたいと思うのは当然だろう。

 小澤の指揮は、他の指揮者や演奏家が解説しているので、僕のような素人がなんのかんのという筋合いのものではない。よく音楽好きが昂じて音楽評論家になった人がいるが、そういった人が書くものは単なる聴衆が感じる印象のようなもので、音楽の神髄に切り込んだ評論は少ないだろう。しかし大谷さんのバッティング技術を云々するより、ホームランを打つことがファンを熱狂させるのだから、聴衆の耳に入った時点の印象を紹介するのは、評論家の重要な仕事というわけだ。評論家はミス・ユニバースの審査員だと思えばいい。それぞれの理想や好きなタイプはあるし、そこから外れたマイナス部分はたちまち言い立て、鬼の首を獲ったようにあげつらうのならそれで良しとしよう。ほんの小さな汚点でも、針小棒大にしなければ紙面を埋めることはできないのだから……。いずれにしても、大谷ファンは豪快なホームランを期待してワクワクしながら球場に向かうし、小澤ファンは独自解釈の個性的演奏を期待してワクワクしながら演奏会場に向かうのだから、その心境は同じだ。

 当然、音楽もナイスバディーのようなものだ。それは表面的に美しく官能的だが、その肉体にメスを入れると骨格が現れ、内臓も現れる。例えばピアノ曲の場合、ピアニストは解剖医のように楽譜全体を切り刻んで分析(アナリーゼ)し、そこから得た情報をもとに、解剖医なら死因を類推し、ピアニストなら作曲家の意図を類推する。解剖医はそれを警察に報告して終わるが、そこからが芸術家たる演奏家の真骨頂だ。もし再生医療が発展すれば、解剖医も切り刻んだ肉体を縫合して、フランケンシュタインのように生き返らせることが可能だろう。一方、再生芸術に従事するピアニストは、楽譜の紙背に作曲家の意図した骨格や内臓を分析・把握してから、それを色々考えながら彼なりの解釈で縫合し、自分の子供として生き返らせる。この部分は、あらゆる芸術家に共通のものだろう。画家も小説家も、詩人もデザイナーも、ひょっとしたら美容整形外科医も、ツールは違えどきっと似た作業をしている。 

 ピアニストのツールはピアノだが、個々のピアノに個性はあっても、それは所詮道具に過ぎない。裕福な演奏家は相棒である自分のピアノと一緒に世界中を旅するが、多くの演奏家は劇場付の3、4台からチョイスする以外ない。真の相棒は十本の指と、二つのペダルを踏む両足だ。どんな状態のピアノでも弾きこなして、自分の思い描いた音の子供たちを生み出し、会場の隅々まで飛び立たせるために、一日8時間以上も練習し、中には腱鞘炎でピアノ人生を終える人も出てくる。ピアニストは高齢になると、多くがこの腱鞘炎に悩まされる。

 指揮者のツールはタクト一本だ。だから演奏寿命は永く、車椅子からでもタクトは振れる。しかしオーケストラも劇場付の「ツール」だといえば、たちまち顰蹙を買うだろう。構成員は一人一人が人間で、鍵盤ではない。それが一期一会であったとしても、音楽は指揮者と彼らの共同芸術なのだ。仮にそれをツールと考えれば、40名~150名ぐらいの楽器を相手にしなければならず、その一人一人が批評眼を持った生身の専門家だ。だから下手な指揮者が棒を振ると、小馬鹿にしたような雰囲気が全体を覆ってしまい、指揮者の要求に中々応えなくなる。一度馬鹿にされると、そのオーケストラからは二度とお呼びが掛からなくなる。指揮者は恐ろしく孤独な存在だ。指揮者のチョンボをカバーしてくれるのは機転の利くコンサートマスター(第一バイオリン)ぐらいで、彼(彼女)は第二の指揮者として緊急時のフォローを担う。

 この孤独的立場を払拭するには修練しかないので、指揮者は恐ろしく勉強する(他の演奏家もそうか……)。野球の大谷さんと似ていなくもない。特に小澤は駆け出し時代、凡ミスをきっかけにNHK交響楽団から排斥された苦い経験があり、なおさら頑張ったに違いない。彼の場合は、遠征先の居場所を身近な者以外は漏らさないようにしていたらしい。訪問客に邪魔されたくはなかったのだろう。その結果、長大なオペラだって暗譜で指揮できる。クラウディオ・アバドも暗譜が得意だったが、やはり研鑽の賜物だったろう。すでに地位を確立した指揮者だって、寄る年波にはかなわず、散々暗譜でこなしてきた曲も忘れたりタクトの切れも悪くなったりで、演奏の質はどんどん落ちてくる。楽譜に噛り付きながら、のたのた指揮すれば、音楽もヨロケてしまうのは当然だ。それを老醜と感じる井上道義氏は、今年いっぱいで演奏活動を停止する予定という。しかし野球みたいに成績が数値に表れないので定年退職はなく、聴衆の前で突然天寿を全うする指揮者も出てくるわけだ。

 第二次世界大戦以前は、指揮者も連隊の司令官みたいに振舞っていた時代があった。司令官は兵隊を駒のように扱う。イタリアの名指揮者トスカニーニも、ドイツの名指揮者カール・ベームも団員には厳しかった。ベームより14歳若いカラヤンも、この権威主義的な伝統指揮法の持ち主で、小澤の先生だった。ナチスに協力したとされ、戦後しばらくはドイツ音楽界から敬遠された。しかし映像を重視した宣伝相ゲッベルスを知る彼は、独自の宣伝工作で復活を果たす。端正なルックスを武器に、名門ベルリンフィルを指揮した数々の英姿を世界中に映像配布した結果、絶大な人気を獲得し、彼一人のギャラが楽団員の総ギャラよりも高いという逆転現象まで起きた。

 小澤は横でそれを見て、別の選択をしたに違いない。カラヤン先生より背丈はちょい高だが、先生のように美形ではないし、何よりも東洋人だ。当時の欧米では、人種差別も当然根強く残っていた。そんな小澤にカラヤンの目を瞑った(重要な部分では綺麗な青い目を開けている)端正かつ上品なバトンテクニックは似合わない。だから小澤は、もう一人の先生であるバーンスタインのスタイルを真似たに違いない。時には指揮台で跳びはねるような派手な指揮ぶりは、古い批評家からは下品と顰蹙を買ったが、小澤はその開放的で快活、かつ柔軟性に富んだバトンテクニックをマスターして、魔法の杖から鳩を出すように、斬新な解釈の音楽を次々と羽ばたかせ、客を昂奮の坩堝に陥れた。

 名演奏は、耳と目から得た昂奮が一生の思い出となって記憶に残る。例えば小澤では、ストラビンスキーのバレー音楽『春の祭典』を演奏会で聞いたことがある。演奏の難しい曲で、多くの指揮者はリズムを間違えないことだけに集中する。特に指揮者泣かせといわれる最終部の「生贄の踊り」において、異なるリズムが対位法的に演奏される変拍子の極みがあるが、突然小澤が交通巡査のように両腕を激しく振り回したのに驚いた。右手で三角形、左手で四角形を素早く描きながら難しいリズムを的確に団員に伝えていたのだ。両腕がブチ切れるぐらいのエネルギッシュなバトンテクニックで、『春の祭典』の激しい音楽に彩を添えるパフォーマンスだった。バーンスタインもそうだが、こうしたスポーティーなバトンテクニックの持ち主は、その技術を幅広く応用できるので、バッハから武満徹までレパートリーをどんどん増やすことが可能だ。小澤より21歳年上にカルロ・マリア・ジュリーニという名指揮者がいたが、彼のバトンテクニックは武骨かつ昔風で、その守備範囲もさほど広くなく、ドイツ・オーストリア音楽が主体だった。

 小澤が名門ミラノ・スカラ座でオペラデビューしたとき(1980年)、取り上げた作品はプッチーニの『トスカ』だった。これはプッチーニの作品の中でも『ラ・ボエーム』とともに1、2の人気を争うオペラだ、……ということはスカラ座の客は腐るほど名演に接していて、一人ひとりがちょっとしたミスに過剰反応する厳しい耳を持った評論家だということだ。イタリアオペラの殿堂に、その中でも代表的な作品を背負って殴り込みをかけたのは、スクーター一台で欧州を駆け巡った、武者修業時代の心意気を髣髴とさせるものがあった。

 しかしこのデビュー公演は散々なものとなった。元々個性の強い演奏を旨とする小澤は、合わせもの(協奏曲、オペラなど)が不得意であるとの噂があった。普通、欧州のオペラ指揮者は歌劇場の専属となって下積みを経験し、楽譜もろくに読めず、リズム感も悪く、美声や発声のテクニックだけで有名になった歌手たちの扱いに長けていた。そうした指揮者はイタリアオペラのコツを掴んでいて、フェーシングの剣を握るように、歌手を掌の中のカナリアだと思い、特にアリア部分では彼らの歌を殺さぬようにある程度歌唱の自由を認め、オーケストラは要所要所で伴奏に徹した。その要所要所とは、イタリアオペラにも歌舞伎の「見栄を切る」部分があるということなのだ。

 歌舞伎では感情の盛り上がった場面で、役者が一時動きを止め、目立った表情や姿勢を示す。それと同じに、イタリアオペラのアリアや二重唱では、歌手が自分の声を最高音(ソープラ・アクート)にうまく嵌めたとき、できるだけその声を維持して伸ばし、自分の美声をアピールしようとする習わしがある。しかも始末の悪いことに、歌手は自分のことしか考えないから、あの強靭な肺の中に入っている空気を使い果たしてまで続けたがる。客もそれを期待しているからだ。反対に、うまく嵌まらなかったときには直ぐに下降して恥ずかしそうな顔をする。歌舞伎に「大向うをうならせる」という言葉があるが、スカラ座の大向うは天井桟敷の人々だ。彼らがうなるときは「ブラボー」を連発し、失敗に対しては容赦なく「ブー」と罵声を浴びせる。

 当然、スカラ座オペラデビューの小澤は、音楽総監督であったトスカニーニムーティのような絶対的権力を確立した立場ではなく、「黙って俺の指示に従え」などと歌手に強い要求はできなかったろう。ムーティなどは、この見栄を切る部分を「楽譜にないから」とカットしたり、別の部分では「楽譜にあるから」と、カットが習慣の繰り返しまで歌わせたので、歌手は疲れてふてくされ、聴衆は呆れ返った。しかし彼は主義として楽譜に忠実なだけで、小澤と同じ天才型のマエストロだ。小澤デビューでの共演歌手は、世界的テノール、ルチアーノ・パバロッティ(トリノ冬季オリンピックで口パクで歌った)だったから、対等の立場といっていいだろう。ベルカント唱法の発声術を完璧に身に着けた彼は、あの巨体を使ってどこまでも高音を伸ばして歌うことが可能だ。当然その手の大御所は、ゲネプロでは隠し玉の高音を全開して披露することはない。だから小澤にとって彼の高音は未知の領域で、恐らくその計算を間違えた。

 彼はオーケストラ指揮者として、オペラ指揮者のテクニックである歌手が高音から下りた0コンマ数秒後に、伴奏オケの音階を下げるという技術に習熟していなかった。オケを保持するのにこらえ切れずに、「もうこのぐらいだろう」と類推して、下降音を指示してしまったのだ。きっと脳裏に、駆け出し時代の同じ凡ミスが過ぎったに違いない。当然、まだ伸ばしたいパバロッティと降りてしまったオケとの間に大きなズレが生じて、聴衆を驚かせた。おまけにそんな場面が数度あったものだから、天井桟敷の連中が黙っているわけもない。会場は大ブーイングとなったわけだ。後になって小澤は、師のカラヤンから「わざわざブーイングを受けるために、スカラでイタリアオペラをやることはない」とたしなめられたという。カラヤン自身、昔スカラでヴェルディの『椿姫』を指揮して、ブーイングを受けていた。

 しかしその後、小澤はイタリアオペラではなく、チャイコフスキーの歌劇『エウゲニ・オネーギン』で、見事な復活を遂げる。スカラの天井桟敷は、小澤のタクトさばきの妙に魅了され、そこから放出される音の渦に酔いしれ、「ブラボー」の渦に変えて返した。特に主役を演じたミレッラ・フレーニの「手紙の場」におけるアリアは、若い娘の初恋の吐露とオーケストラの熱情的なリズムのうねりが渾然一体となって、作曲家が生きていたら絶賛しただろう完璧の極地に到達していた。前回は散々こけ下ろした評論家は、「恐らく小澤はイタリアものよりもこっちのほうが合っている」などと、澄ましたことを書いたが、誰もこの名演にケチを付ける者はいなかった。

 小澤の絶妙なリズム感から湧き出る音のうねりは、演奏会方式の劇的物語、『ファウストの劫罰』(ベルリオーズ)でも存分に示された。特に驚かされたのは、その中に挿入されているハンガリー風行進曲「ラコッツィ行進曲」(ラデツキー行進曲ではない)だった。この行進曲はよく抜粋されてオーケストラのアンコールで演奏されたり、ブラスバンドで偶に演奏される曲で、一度は聞いたことのある人が多いに違いない。行進曲は、元は軍隊が足並みを揃える目的で作られたもので、僕は行進曲に勇ましさや華やかさは感じるものの、芸術性を感じることはないと思っていた。ところが小澤は、この速歩行進の単純なリズムの小曲を起承転結の音の流れとして捉え、始まりから終わりまで、完成された一つのうねりとして、至福の芸術作品に仕立て上げたのだ。小澤はフェアリー・ゴッドマザーのように、バトンの魔法でカボチャを美しい馬車に変え、僕はそれに乗って体を揺らしながらシンデレラのようなワクワク気分になったことを覚えている。彼はまさに、行進曲まで気高い芸術に変えてしまう魔法使いだった。小澤は逝ってしまったが、舞台からいきなり投げつけた衝撃音は僕の心に刺さって古傷となり、老化した脳に刺激を与え続けている。 

 

 

 

ショートショート
亡き囚人のためのパヴァーヌ

 フロレスは極寒の地で19年も、刑務所の狭い懲罰房に閉じ込められていた。政敵の独裁者ピッツァが大統領になったとき、直ぐに逮捕されてこの流刑地に運ばれたのだ。彼がここに来てから、時は止まったようだった。牢番のロックはそのときから彼の世話をしていた。フロレスはいまでも囚人で、ピッツァはいまでも大統領だった。時は止まっていても、ロックは背の曲がった老人になり、体躯の良かったフロレスはガリガリの体に変わり、髪も髭もすっかり白くなってしまった。妻のレオナラは、あのとき以来音信がない。恐らく手紙を差し押さえられているに違いなかったが、生きているのか死んでいるのかも分からなかった。ピッツァは邪魔者を平気で暗殺するから、フロレスは妻が国外に逃れたことを信じる以外に、気を宥める方法はなかった。

 牢番は囚人と親しくならないことが、この刑務所の仕来りだった。それを怠ると、たちまち解雇されてしまう。だから彼は極力寡黙を貫いたが、囚人の世話はきちっとしていた。一日一食の食事は粗末なものだった。しかし狭い檻の中で身動きの取れないフロレスにとっては、細々と生き続けるのに不足することはなかった。時たま雑穀汁の中に肉の塊が入っていることがあったが、そんなときロックは、フロレスに向かってニヤリとウィンクした。フロレスはそれに噛り付いて涙を流した。ロックの差し入れであることが分かっていたからだ。

 収監されてから4年目のことだ。フロレスはやたら悲しくなって一日中泣いていたことがあった。それを見かねたものか、ロックが鉄格子に近づいて、小声で優しい言葉を掛けてきた。
「どこか、痛むところでもあるのかね?」
 フロレスは涙声で、「ただ悲しいだけさ」とつっけんどんに返事した。するとロックは軽く苦笑いして、「莫迦だな4年もここにいて、住めば都という諺を理解していないなんて……」と続けたのでフロレスは頭に来て、「ここが都かよ!」と叫んでマットから飛び上がり、鉄格子を揺すろうとした。しかし、鉄格子がビクともしなかったのは言うまでもない。ロックは鉄格子から出たフロレスの手の甲を軽く握り、「娑婆の人間だって牢獄のような世の中で生きているのさ。俺たちがどうやって生きているのか知ってるかい。みんな夢を見て生きているんだ」と呟くように言った。フロレスは号泣しながらマットに突っ伏して、泣き疲れてそのまま寝てしまった。

 その晩の夢枕に、レオナラが現れた。彼女はフロレスに口づけして囁いた。「初めて出逢ったダンスホールを覚えている?」
 二人のダンスは習い立てで、足を踏まないようにぎこちなく、大昔の貴族の舞踏のようにゆったりしたものになった。彼女は彼に胸を合わせて耳元で囁いた。
 「待っててね。きっと助けに来るから。でも私はあなたを助けるけど、あなただけを助けるためじゃない。なぜって、あなたを愛してるけど、あなただけを愛しているわけじゃないから。わたしはあなたと同じに、この国の人たちを愛しているから、あなたを助けるの。だって私はおバカさんで、愛の力はあなたで精いっぱい。あなたの愛の力はもっともっと大きいはずだわ」

 翌朝目が覚めると、フロレスの心の中は一変していた。この狭い牢獄の中にも、無限大の夢の世界があることに気付いたのだ。彼はピッツァと政権を争っていた頃の情熱を取り戻していた。彼の心臓は高鳴り、激しい血の流れを右脳に送り込んで、そこに蔓延っていた悲しみを一瞬で押し流した。たちまち理想の国造りのイメージが流れ込んできて、右脳領域を満たしていく。それに応えて左脳では、政権を獲得した後の具体的な国政が時系列的に創られていった。フロレスはロックからペンとノートを貰い、新しい国のタイムスケジュールを克明に記していった。

 月に一度の風呂の日、フロレスが浴場にいるとき、ロックは独房の掃除を行い、マットの上に転がっていたノートを開いた。そして二人の監視とともに彼が戻ってきたとき、急いで丸めて内ポケットに隠した。監視が去るとフロレスは牢内を探し回り、鋭い目つきでロックにたずねた。
「僕のノートをどうした?」
 ロックは黙って内ポケットからノートを出し、直ぐにポケットに戻した。
「取り上げるつもりか?」
 フロレスは厳しい顔つきで鉄格子から両手を出し、「返せよ!」とロックに迫った。ロックは涼しい顔して、「このノートは次期大統領のために、しばらく俺の家で保管することにしたのさ。俺はいつか君の出所が決まったときに、ここにいるかは分からない。だから、いまのうちに15年後の君を祝福しておくよ。おめでとう。君は苛酷な環境の中で逞しく生き抜いてくれた。君は無事刑期を終えて出所することが決まったんだ。君の所持品の中にこんな物が含まれていたら、たちまち出所は取り消されちまう。出所して大統領になったら、俺の家を訪ねてくれたまえ。ちゃんと返してやるさ。けれど、書かれていることを本当に実現すると誓ってくれなけりゃ、家の暖炉に投げ込んじまうからな」

 フロレスは泣き崩れて、ロックに約束した。
「ありがとう。僕はここから抜け出し、大統領になる。その時まで、そのノートは大切に保管してくれよな」

 ロックはその時以来、フロレスにメモ用紙すら与えることはなかった。上の者に見つかったら、自分の身も危なくなることを知っていたからだ。しかしフロレスは失われたノートの内容を克明に記憶していることに気付いて、マットの上で転げ回るほどに大笑いした。ロックが不思議に思ってたずねると、「僕は譜面台に花束しか置かないマエストロよりも記憶力がいいのさ」と自慢した。そして狭い檻の中で悲しい顔もしない小動物のように、毎日毎日含み笑いをしながら、心を夢の世界に解き放って国造り構想に没頭し、長大な月日を一日一日消化させていった。そうして丸々15年経ったとき、待ちに待った言葉をロックから受け取った。
「いよいよ来月、君は刑期を満了して出所できることになったよ」

 そのとき、フロレスの目から一滴の涙も流れることはなかった。もう何年も涙を流したことがなかったから、出し方まで忘れてしまったのだ。その代わり、瞼に映し出された理想の国は寸分の狂いなく、涙で歪むこともなかった。いよいよこの廃れた国を希望の国に変えるため、ピッツァを打ち負かすときが来た。彼はロックに向かって直立し、「ありがとうございました」と言って深々と頭を下げた。ロックは鉄格子の中に手を入れて、フロレスと固く握手をし、「頑張って!」と励ました。

 それから二週間後、ロックは所長室に呼び出され、袋に入った白い粉を渡された。
「こいつを小匙一杯分、フロレスの晩飯に振り掛けるんだ」
 ロックはそれが何であるかは知っていた。過去に同じことをしたことがあったからだ。今回も黙って受け取り、所長室を後にした。ロックは愛する妻と娘の顔を思い浮かべながら配膳室に入り、十字を切った。目分量でトレイの上に乗った粗末なスープに振り掛け、スプーンでかき回してから、残った粉を流しに捨てた。それから毒の入ったトレーをフロレスの独房に持っていき、鉄格子の隙間から差し入れた。フロレスはいつものように、「ありがとう」と言ってウィンクし、食事を受け取った。ロックは独房から離れると職員便所に駆け込み、声を出して泣いた。

 夢の中でレオナラがイブニングドレスを着て現れた。
「どうしたんだい。今日はばかに綺麗じゃないか。まさかカーニバルでもないだろう」
 するとレオナラは悲しそうな顔つきで、「あなたを迎えに来たのよ」と溜息混じりに呟いた。
「僕はどこに行かなければならないの?」
「天国……」
 フロレスは驚いて、「まさか、来月出所するんだ!」と叫び、「君は刑務所の門の外で迎えなければならないはずだ」と続けた。
 するとレオナラは笑って首を横に振り、「そんな年寄りの私を、あなたはお望みだったの?」と返した。
「嗚呼、君はなんて美しいんだ……」
 フロレスは長い溜息をつき、諦めたような顔つきで、再び彼女の唇を求めた。

 二人はしばらくの間、唇を合わせていた。大分久しぶりに、フロレスの心に悲しみが戻ってきた。二人はキスをしたまま、天に昇って行く。雲の上では、礼服で着飾った多くの人々が二人を出迎えてくれた。その中にはフロレスの知っている同志たちも含まれていた。彼らは二人に向かって列を作ると、昔風の優雅な舞踊を始めた。彼らの列の間に、歩むべき道が現れた。二人は手を繋いで、青い絨毯の上をゆっくりと祭壇に向かって進んだ。

 祭壇の玉座に、神が鎮座していた。神は戴冠式のナポレオンと瓜二つの格好をしていて、頭上には王冠が輝いていた。二人は頭を下げながら玉座への階段を昇り、小さな金の翼が生えた清らなるサンダルに接吻した。
「苦しゅうない。顔を上げよ」
 フロレスは頭を上げて神を仰ぐと、唖然としてポカンと口を開けた。そして一秒後には怒りがこみ上げてきた。
「お前はピッツァ!」
 驚いた天使が玉座の横から金の槍をフロレスの首に向け、「控えおろう、神への無礼は許されぬぞ!」と怒鳴ると、優雅な踊りはピタっと止まった。しかし神はまったく動じず、太々しい顔つきで大笑いした。
「下界でも、多くの誤解はあるだろう。お前の知るピッツァはまだまだ生きておる。下界には独裁者、地獄には閻魔大王、そして天国はこの私。結局、三者とも同じ顔をしているのさ。どの世界でも、権力を握る者は似た顔つきになるものだ。わしはこの椅子に座る前に、多くの神々を蹴落としてきた。しかしピッツァはまだまだ修行が足りない。き奴の顔は、時たま怯え顔になるからな。わしと同等の顔つきになる前に、あいつは地獄へと堕ちるに違いない」

 神はそう言うと、覗き込むようにしてフロレスを見つめ、優しい眼差しで微笑んだ。
「お前は生まれつき、権力の座から見放された顔つきをしているようだ……」

(いまは亡き愛国者に捧げる)

 

 

 

 

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