詩人の部屋 響月光

響月光の詩と小説を紹介します。

エッセー 「東京2030 ~摩天楼の幻想~]& ショートショート 「恋文」

エッセー
東京2030
~摩天楼の幻想~

 以前テレビか何かでブラジルの荒野に林立する大きな蟻塚を見て、万物の創造主が存在するなら、その神様はあらゆる生物が存続するために必要最低限の知恵を与えてくださったのだろうと考えたことがあった。イギリスの国土と同じ面積に、高さ3メートルにもなる蟻塚が連なる。それらの土の量を合わせると、ギザのピラミッドの4000倍に相当するという。蟻塚は土と排泄物で造ったシロアリたちの城で、内部は蟻道や居室空間が張り巡らされ、数十万匹のアリたちが共同生活を営んでいる、と思いきや、アリたちはその塚の下に地下巣を造ってキノコを育てながら暮らしているらしい。蟻塚は地中の彼らに酸素を送る肺の役割を担い、同時に地下住居の温度を一定に保つ巨大な空調システムなのだという。ジンバブエの首都ハラレにあるイーストゲートセンターは、市の郊外に見られる蟻塚の構造を取り入れ、ビルの空調システムに応用したという話だ。

 人間は神の創造した自然のシステムをパクりながら、文明を築いてきた。ならば神の技をパクる人間の脳は、神様が与えてくれた細胞組織から逸脱した腫瘍のような異常細胞で構成され、それが発する反自然的な異常信号が人間の知恵だということになる。それは神様にとって想定外の知恵だったかもしれないのだ。ならばきっと神様は「もう手に負えない、俺の手から離れた、後は知らんよ」と思ったに違いない。そうして人間は想定外の知恵をふり絞り、例えば健康分野では、自然治癒や呪術という神様の領域に土足で踏み込み、神様のカラクリを次々に暴きながら、とうとうiPS細胞のネタまで暴露してしまった。しかし一部の人々は神様に見捨てられたことを悔んでその裾に必死に食らい付き、「輸血はいけません!」などと叫びながら周囲が呆れ返るような抵抗を示すわけだ。

 創造主の作為から外れ、腫瘍のような異常脳細胞が発する信号によって創り上げられた「現代社会」の空気を平気で吸う人々は、「輸血はいけません!」という言葉に恐るべき狂信を見出すが、その空気を嫌う人々は、神が人に与えてくれた必要最小限の知恵の中で生きようとしているだけの話だ。そう考えれば、むやみに侮蔑するようなことでもないだろう。

 輸血をしないことで死んでいく仲間や子供は、生も死もすべては神の御意思であり、死んだ後には神の身許に導かれる。そこには恐らく現代人の異常脳細胞が発するタイプの悲しみはない。彼らにとって、それは喜ばしいことかもしれない。きっとそれは、「死んだら天国で優雅に暮らせる」「靖国で会おうぜ」といって死地に赴く自爆兵士と似たような感情に違いない。しかし神は彼らの想像とは反して結構冷酷で、「弱肉強食」が神の与えた自然の基本摂理であり、天国の夢が正夢になるかどうかは死んでからでないと分からない。

 我々現代人の脳味噌内では、神が去った後の異常脳細胞が発する信号と、神話時代の残渣信号が混線状態になって収拾が付かず、それが行動に現れる。今後どうなるのかは分からないが、少なくとも神様は人類が生き抜いていくのに最低限の知恵を与えてくれていて、その中には地球という限られた資源の中で生き抜くための「殺し合い」の知恵も含まれていた。この知恵のもとでは、地球上の至る所で悲劇が発生するが、種が滅亡することからは恐らく免れる。

 平和な国の人々はテレビで「ウクライナ戦争」や「パレスチナの惨状」を見て、現代人の異常脳細胞が発する「悲しみ」を感じるけれど、チャンネルを替えれば勇猛な歴史ドラマをやっていて、好きな武将は信長、秀吉などと独裁者を讃える。これは恐らく神話時代の残渣感情で、プーチンを愛するロシア人の感情も同じだろう。ところが異常脳細胞が発する信号は「核兵器」を発明し、神話時代の残渣信号がそれを使おうとしているから大変な事態になりつつあるのだ。人類が滅亡するなら、それは神様のせいではなく、人類が醸成した異常脳細胞のせいだ。そいつの増殖は止まらず、神の座を狙う人間を技術的にバックアップする。人は「二重人格」などといって隣人を揶揄するが、すべての人間の脳味噌が混線状態にある限り、すべての人間が「二重人格」であることは確かだ。彼らは脳内スイッチで、平和時の人格と緊急時の人格を使い分けている。エアコンの夏モード・冬モード、スズメバチの平常モード・戦闘モードと変わらない。

 蟻塚は、神様が整えた弱肉強食社会の中で、神様がシロアリに与えてくれた必要最低限の要塞だ。オオアリクイが要塞を必死に崩そうが、仲間が食われても多くのシロアリは迷路の中でしっかり生き残る。イタリアの女傑カテリーナ・スフォルツァ(1463~1509年)は反乱軍に城を取り囲まれ、「捕虜の子供たちを殺されたくなかったら開城しろ」と脅されても、「子供なんかここからいくらでも出てくる」といってスカートをまくり上げたという。このときカテリーナの脳味噌は神話信号で満たされ、人間的母性愛という近代的異常脳信号は休眠している。神話信号は本能的信号で、悲しみは3日で消えて次なる生存競争の世界に突入する。プーチンの脳内モードもいまは神話信号で満たされ、ロシアの若者たちをせっせと戦場に送り込む。

 シロアリは神様が創案した必要最低限のデザインに固執し、伝統的な技術を引継ぎながら悠久の年月を築城に費やし、絶滅することなく生き残ってきた。しかしその蟻塚を見て感動する人間は、神話信号と異常脳信号を混線させながら眺めている。彼はまず巨大な構築物に感動し、次にそれを造ったアリたちの技術に関心する。巨大なものは神話信号を興奮させ、築城技術は異常脳信号を興奮させる。

 人間も動物も、あるいはアリだって、大きな個体が他を凌駕することを知っている。大きな個体が小さな個体を、大きな動物が小さな動物を、大きな人間が小さな人間を打ち負かし殺してきたのは、神の摂理だった。だから人間は古来から大きい者、強い者、強い神に憧れてきた。しかしアリも人間も虚弱な動物で、自分の体を大きくすることはできなかった。そのとき、大きな動物や敵に立ち向かうには、集団をつくる以外にはないと悟った。大きな動物や素早い動物を捕食するには戦略を研く必要もあった。人間の場合、大きな集団をつくろうとする神話信号が欲望となって連綿と続き、領土拡大の夢となって未だに残っている。また、捕食のための戦略は異常脳信号によって技術進化し、神の軛を解き放つ領域まで来てしまったというわけだ。

 当然、大きな集団を運営するには、ピラミッド型の階層社会が適している。悲しいかな、我々が夢見る民主主義や平等主義、ダイバーシティ等は、ピラミッド型とは反対の社会形態だ。それは平面的な平常モードの形態であり、戦闘モードのピラミッド形態ではあり得ない。日本の周囲には、戦闘モードのピラミッド型国家が乱立しているから、我々は不安を感じている。子供にアリの巣を蹴散らされたときのアリたちの慌てふためく姿を連想するわけだ。

 人は神話時代の残渣信号で、ピラミッドを建設した。それは、小さな人間たちが大きな集団を成し、その頂点に立つ王が神の位置にまで上昇するために、天まで届く巨大構造物を造って、その権勢を誇示しようとしたからだ。しかし神話信号だけであんな巨大な建造物は造れない。それでは動物たちが毎晩見る夢にとどまってしまうだろう。バベルの塔は神話か実話かは分からないが、ノアの子孫が神の領域まで届く塔を造ろうとして神の怒りを買い、壊されてしまったというお話だ。神が怒った理由は明白である。神が動物に与えた必要最低限の知恵から逸脱した異常信号を駆使し、この高い塔を造ってしまったからだ。

 人間は未だに「大きいものは小さいものを凌駕する」「高いものは低いものを凌駕する」という神話信号の夢にうなされながら、異常信号を駆使して具現化し、巨大な構造物を構築してきた。東京では現在、「東京2030」と称して多くのディベロッパーが競い合いながら様々な高層ビルが建設されている。僕は変貌する東京の姿を見ながら、若い頃に行ったイタリア、サン・ジミニャーノの尖塔群を思い出して失笑した。かつてあの町では、「最も力と富を持つ者が最も高い塔を建てる」と金持ちどもが意地を張り、自分の力を誇示するために競って高い塔を造り、70を超える塔が林立したという。現在首都圏でも同じようなことが起こっている。首都直下地震が近々来るとの噂が流れる中、あんなものを林立させて……。バベルの塔のように神の怒りが下されることのないよう、只々願うばかりである。

 

ショートショート
恋文

 探偵は高級老人ホームから依頼を受け、ある女性の居場所を調べることになった。末期癌の入居者が若い頃に、したためた恋文を渡すことができず、いまでも手元に置いてある。人生、それだけが心残りだったというので、介護スタッフが余計なことを提案してしまったのだ。
「あなたが天に召されるとき、その方へそのお手紙をお送りしましょう」

 しかしスタッフは、後で上司から叱られた。その女性が生きているかもどこに住んでいるかも分からず、第一そんな手紙を受け取った相手の方は迷惑だろうというのだ。けれど入居老人は目を輝かせ、すっかり乗り気になってしまった。彼は生まれつき意気地のない人間で、女性に声を掛けることもできずに、一生独身を通してきた。そのコンプレックスを跳ね除けようとがむしゃらに働いて数十億の財産を築くことができ、高級老人ホームで悠々自適に暮し、現在は緩和ケアに助けられながら人生を終えようとしている。そしてたった一つの心残りが、その恋文だったというわけだ。

 探偵は老人と面会し、記憶している女性の情報を入手した。その女性は同じ高校で、一学年下のクラスに在籍していたという。こうした出身校の分かるケースは、比較的調査が簡単だ。まず学校に行き、そこで入手した情報をもとに女性の足跡をたどっていく。案の定、二週間ほどで女性の家を特定でき、その女性が夫とともにすでに他界していることを突き止めた。現在その家には、息子一家が住んでいた。

 探偵がそのことを報告すると老人はひどく落胆し、黄ばんだ封筒を手にして震わせながら「一緒にこれを棺に入れてください。きっと天国で渡せますから」とスタッフに頼むと、スタッフは目を潤ませながら「きっと渡せますよ」と同じ言葉を繰り返し、何度も頷いた。

 それからしばらく、老人は体調を崩して日課の散歩に出ることができなかった。施設の医師は、一年は持たないだろうとスタッフに告げた。しかし半年後のある朝、老人は清々しい朝日を浴びて目覚めると、不思議なことに体中の痛みが消えていることに気が付いた。彼はスタッフに、久しぶりの散歩をしたいと願い出た。まずは近くのコンビニに行こうということになり、スタッフと杖に支えられて辿り着き、何を買おうかと迷っているとき、若い女性店員の横顔を見て、目を大きく見開いたまま体を激しく震わせたので、スタッフは慌ててしまった。女性店員も驚いて小走りに寄ってきて、杖のほうの腕を支える。

 「小里さん、私はあなたをずっと愛していました」
 老人は震え声で告白した。そのとき、ずっと喉の奥に詰まっていた塊が唐突な言葉とともに流れ出た感じがし、その爽快さに驚いて号泣した。スタッフは慌てて、「すいませんね、病気を患っておりまして」と謝ると、最初は戸惑った店員もニッコリとして老人を見つめ、「中島小里のことですね。小里は私のおばあちゃんです。もう死にましたけど……」と答えた。老人は涙声で「ああ、そうですよね……」と呟き、「若い頃の小里さんに瓜二つですね。お美しい」と付け加えた。
「おばあちゃんも私のこと、自分と瓜二つだといっていました」
「小里さんは初恋の人でした……」
「そうなんですか」と店員は目を見開き、「きっとおばあちゃんも、おじさんが好きだったのね」と続ける。
「実は、僕は小里さんと話したことはないんです。正真正銘の片思いだな。女性は遠きにありて思うものというじゃないですか」と涙目で、古臭い負け惜しみをいって笑った。

 あくる日の同じ時刻、介護スタッフがコンビニに来て、老人の願いを伝えた。生前の小里さんのことをもっと聞きたいというのだ。
「実はあの方は、末期がんに侵されていまして、医者からあと半年は持つまいと宣告されています。それでどうでしょう、お手すきの時間でかまいません。バイトだと思って話を聞いていただけないでしょうか。出張費はご希望通りにおっしゃっていただければ……」
 店員は手を団扇のように横に振って、「いえいえ、お金いただくならお伺いしません。もしおばあちゃんも片思いだったら、お金を取ったら怒られちゃいます。私もおじさんから、おばあちゃんの高校時代の様子を聞いてみたいんです。明日は休日なので、お伺いできますわ」と快諾した。

 面談は施設のロビーで行われた。彼女が約束の時間に行くと、すでに老人はソファーに座っていた。こぼれるような笑みで、しわくちゃ顔を歪ませながら薄っすら涙を流し、立ち上がろうとしたので、彼女は両手でそれをとどめた。そのとき彼女はしっとりした掌で、老人の干からびた手を触った。老人は彼女の手を見つめ、「ああ、小里さんも美しい手をしてたなあ」とため息をつく。
「でも遠く眺めるだけで、触れることすらできなかったんだ……」
 すると彼女は、老人の手を放すことなく隣に座り、「おばあちゃんの手だと思って、ずっと握っていてくださいな」と返したので、老人は昨日のように大粒の涙を流し始めた。彼女は手慣れた手つきでハンドバッグからハンカチを出し、頬にかかる涙を拭いてやった。

「綺麗なハンカチを汚しちまってごめんね」
「いいえ私、この一カ月さんざん泣いてしまって、自分の涙は枯れてしまったの。だからいいんです」
「恋人にでも振られたの?」と、老人は驚いてたずねた。
「ひと月前にパパが自動車事故を起こして、パパもママも死んじゃったんです」
「なんてこった。君は……」
 老人は動転して息を詰まらせ、次の言葉が出なかった。
「私、一人っ子だから、天涯孤独になっちゃいました」
 彼女が深いため息をつくと、老人は手を放して彼女を弱々しくハグし、「それはダメだよ、天涯孤独はダメだ」といって首を横に振り、彼女の背を軽く叩いた。
「彼氏はいないの?」
「募集中です」
「ここの施設にも、若い男はいっぱいいるよ」
「彼氏ぐらい、自分で探します」

 老人は浅いため息をついて彼女を優しく見つめると、「僕のようになっちゃいけない。僕はずっとずっと孤独だったんだ。気が弱くて誰にも声を掛けられなかった。だからいまになっても、小里さんに恋文を渡せなかったことを悔いているのさ」と自虐するようにいい、急に背筋を伸ばして「なら僕が君を孤独にはさせない。君の夫になってもいい」と続けたので、彼女は驚いて目を見開き、返す言葉もないといった顔つきをした。老人はそれを見ると口に手を当て、再び猫背に戻って身を縮め、上目遣いにニヤリと含み笑いした。

「気が触れたわけじゃないさ。老いぼれても気は確かです。若い君が年寄りの妻になるなんて……。いい間違えたんだ。君を見ていると、どうしても小里さんだと思っちまう。僕は小里さんと添い遂げたかった。昨夜はずっと彼女と君の夢を見ていたさ。僕は小里さんと夫婦になり、そっくりな君が生まれたんだ。それから朝には、目覚める間際にこんな夢も見た。小里さんが枕元に立って、孫娘をよろしくっていうので、驚いて目を覚ましちまった」
「そんなにたくさん、おばあちゃんの夢を?」
「そう、そしていまの君の話で、小里さんが夢枕に立った理由も分かったんだ。君のことだよ」
「私のこと?」
「小里さんは一人っきりになった君を心配して、夢枕に現れた。だけど、死にそこないの僕には何もできない。……いや、そうかな? 何かできるはずですと彼女はいいたかった」
「何でしょう……」と、腑に落ちない顔つきで彼女は苦笑いした。
「小里さんは君を僕に託したんだ。けれどこんな状態の僕は何もできない。でもよくよく考えると、小里さんの目論みが理解できる」 
「あら、どんな目論みかしら」といって、彼女は用心深く老人を見つめた。
「小里さんと僕が、天国で結ばれる計画」
 老人がきっぱりいうので、彼女は身を縮めるように「へえ、そうなんですか」と相槌を打つ以外に方法がなかった。
「小里さんと御主人は、生前あまり仲が良くなかった、でしょ?」
「そうだったかもしれません。喧嘩は良くしていました」
「そうなんだ。天国で、小里さんは御主人と縁を切ろうと思っている。だから夢枕に現れて、僕に助けを求めてきた。僕がどうすればいいかはいわなかったけれど、僕には分かってる。それはこの世で僕がアリバイを作ることなんだ」 
「アリバイ?」
 彼女はわけが分からずに繰り返した。
「君がこの世で僕の子になることが、天国でのアリバイになるんだ。天国で僕と小里さんが結ばれたとき、君が現世で僕の墓を守ってくれることが、天国での僕と小里さんのアリバイになるってことなんだ」
 彼女は集中力を切らしたようにフッと溜息をつき、「そうですか……」と軽く相槌を打った。

「これから君はたった一人で、小里さんやご両親のお墓を守らなけりゃならない。ついでに僕も便乗して、僕のお墓を君に守ってもらいたい。できれば、小里さんと同じ霊園に葬ってほしいんだ。身勝手な、哀れな孤立老人のお願いさ。僕はこの世で果たせなかった夢を、あの世で果たしたい。それには君の協力がぜひとも必要だ。僕の養女になって、僕の夢を正夢にしてください。その代償として、僕の財産は君がすべて受け継ぐことになる。君が僕の養女になってくれれば、天国で僕と小里さんは夫婦になることができるんだ」

 彼女は戸惑いながら、「財産なんて……」と小声でつぶやいた。それからしばらく考えてからにこやかに笑い、「分かりました。おじさんの話は良く分からなかったけれど、おじさんのお墓は私が死ぬまでお守りしますわ」といって小指を差し出した。老人は枯れ枝のような小指を白魚のような小指に絡ませ、「指切りげんまん」と枯れ声を発し、またまた大粒の涙を流し始めた。

 それから一週間後、彼女は老人との養子縁組のため、約束の時間に仲間の公証人を連れて施設に訪れた。すると施設長が慌ただしく出てきて、「昨夜、亡くなられました」と告げたので、彼女はその場で泣き崩れた。遺体を確認すると、その手には恋文がしっかりと握られていた。二人は逃げるように施設を出て、探偵が待っている喫茶店に入った。
「だから、もっと早くに進めりゃよかったのよ!」と大きな声を発して探偵の頬を叩いたので、周囲の客が一瞬ざわついた。
「どうした?」と探偵は驚いた顔して、頬を擦りながらたずねた。
「昨日死にやがった。死体も見たわ。ジジイ、幸せ顔して死んでやがった。チクショウ!」
「本当かよ……」
 呆然として呟く探偵に、「あんたがババアの家に忍び込んで、若い頃のアルバムを盗んだことをバラしてほしくなかったら、400万の整形代は全額あんたが払うんだね。痛い思いをしてこれかよ。だいたい、うまい話を持ち込んだのはあんたなんだから」
「チキショウ! 獲り逃がした魚はデカかったな……」

 三人は喫茶店を出ると、ヤケ酒を食らうためにトボトボと、路傍の雑草を蹴散らしながら、場末の安酒場を探し始めた。

(了)

 

 

 

 

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エッセー 「一挙両得、アリの巣防災都市」& ショートショート

エッセー
一挙両得、アリの巣防災都市

 東京都は外国からのミサイル攻撃に備え、居住者たちが一定期間滞在できる地下シェルターを都営地下鉄麻布十番駅に造る予定だという。今後は順次増やしていくために、次なる候補地も物色中らしい。民間企業に対しても、ビルの建設時にはシェルターに転用可能な地下空間を造るなどの協力を期待しているという。僕は一昨年『地底人間への誘い』というエッセーで、地下シェルターの必要性に言及したが、始めの一歩が始まったことを嬉しく思っている。半面、ウクライナ戦争が起こらなかったなら、都知事も考えなかっただろうとは思う。地下整備には莫大な金がかかるし、都の財政もひっ迫しているからだ。

 しかし都民も国民も、「無駄金を使うな」などとは言えないのがいまのご時世で、第二次世界大戦前夜に似ていると危惧する専門家もいるぐらいだ。人類にとって戦争は人災ではなく、地震と同じ天災だと思っている。人類は太古の昔から殺し合ってきたのだから、地震台風雨あられに殺し合い、殴り合いを加えてもおかしくない。地震は地殻エネルギーを持つ地球の性(さが)であり、諍いは我欲エネルギーを持つ人間の性である。地球の性とは、「死んだ星になりたくない」というマントルのドロドロした足掻きだ。人間の性とは、「俺のものにしたい」という心のドロドロした足掻きだ。性に欲が加われば性欲となり、こいつは生きとし生ける物の命を保つ行動基盤であり、自制不可能な状況も出てくる。押しとどめるのは外圧(周囲の状況)で、そいつが効かなくなると圧力鍋爆弾のように爆発する。現在も世界各地でいざこざ、戦争、地震が起こっており、その光景はまるで双子のように似ていて、奪われる命とともに区別することは難しい。能登の惨状をテレビで見て、ウクライナパレスチナの惨状を連想した人は多いだろう。

 戦争は地震と同じく、正確に予知することが難しい。しかし、戦争も地震も「もうそろそろ起きるかもしれない……」と予感することはできる。地震学者は過去の歴史やひずみエネルギーの計算から、「あと数十年以内に来る」などと大まかな予測を立てる。政治学者は過去の歴史やひずみエネルギーを計算して、「某国の景気がこれぐらい失速すると、国民の不満をかわすために、某国家元首は隣の島国に侵略する」などと大まかな予測を立てる。しかし、正確な時期は誰にも掴めない。侵略のセオリーは先手必勝で、主導部はそのエネルギーを脳内に溜め続け、いきなり大軍を動かす。断層エネルギーも沈み込みの両側で溜まり続け、断層面の摩擦が抵抗し切れなかった時点で、いきなり撥ね上がって地面を揺らす。元首の頭の中も、地中の状態も正確に把握できないため、予知も大まかになってしまう。

 地震と戦争の相違点は、元凶が自然であるか人間であるかの違いだけで、被害を被るのはほぼ地表面だということだ。建物は崩壊して火災が発生し、人間を含めた動植物の生態系が大きく毀損する。崩れた建物で避難路は寸断し、四方から火の手が上がるので、運の良い人間しか生き残れない。関東大震災東京大空襲も同じだった。

 しかし惨状が同じなら、生き残る方法も同じであることを意味している。どんな病因があるにしろ、肌が荒れれば応急的に市販の塗り薬を塗るのが普通だろう。その後で医者に行って原因を突き止め、処方を出してもらうことだ。地表で平面的に逃げ惑うのであれば、残された道は応急的でも空か海か地下しかない。しかしドラえもんじゃないから、タケコプターを使って空に舞い上がることはできない。海に逃げても津波や敵艦が心配だ。だったら地下しかないんじゃない?

 戦時中は防空壕に逃げ、爆弾からも焼夷弾による火災からも免れた。地震だって、断層に掛かっていなければ地下は安全な場所だ。地下施設は地殻と一緒に動いて一体化するからだ。地下シェルターは防空壕の進化系で、さらに進化させたものが地下核シェルターになり、費用もお高くなる。人口当たりの核シェルター保有率は、スイス、イスラエルが100%、ノルウェーが98%、アメリカ82%、ロシア78%、イギリス67%だという。それに比べて日本は0.12%という危機意識だ(信じられな~い)。スイスなどは設置後40年を経過した老朽物件も増えてきて、より大きな公共シェルターに換えていく方針だという。

 地下核シェルターは爆風や放射能から完全遮断され、近くに核ミサイルが落ちても命を守れるが、地下シェルターはそうはいかない。しかし、地表にいるよりはずっとマシだ。水爆の爆風や閃光から免れることができ、一時的にも生き延びれるからだ。もっとも、核戦争が起これば核の打ち合いになるので、みんなで一緒に死ぬ以外に方法はなく、さすがのロシアも脅しでとどまっている。最も可能性が高いのは、いまウクライナ戦争で起こっている通常火薬によるミサイル攻撃だ。都も国も金がないのだから、最初は地下シェルターから始めるといいだろう。政府は日本の防衛戦略を「専守防衛」(攻撃を受けての防衛)としているが、「積極防衛」(防衛のための攻撃)へ転換しつつある。しかし、専守防衛で威力を発揮する地下シェルター網の構築を長年忘れていたのは、政府自体が平和ボケしていたことを示しているだろう。パー券収入を目当てに支援企業のことばかりを考えているから、そういうことになってしまう。遅きに失した感があるが、国民自体が平和ボケしていたので、これからばん回する以外にない。きっと都知事が嚆矢を放ったのは、恐らく東京スカイツリーから下界を見下ろしたからに違いない。

 航空写真を見ても一目瞭然に、過密都市東京は尋常でない。そこに首都直下地震や核ミサイルを重ね合わせれば、誰だって最悪の事態をイメージすることはできるだろう。ニューヨークの摩天楼を見ても何も感じないのは、地質的に大きな地震の可能性が低いからだ。しかし、貿易センタービルの惨状を思い出せば、攻撃されたらどうなるかは想像できる。だからアメリカは、シェルター造りに邁進している。世界中の人がニューヨークに憧れるのは、そこが世界の産業、商業、金融、文化の集積地であるからだ。同じく日本中の人が東京に憧れるのは、そこが日本の産業、商業、金融、文化の集積地であるからだ。しかし東京とニューヨークの違いは、地震が起きやすいか起きにくいかの違いだろう。ニューヨークの地盤は摩天楼の重みで年間1~2ミリ沈んでいるというが、地震に関しては約100年ごとに近隣でマグニチュード5ぐらいは起こりえるとしている。しかし東京の場合は、マグニチュード8~9クラスの南海トラフ地震マグニチュード7クラスの直下型地震とも30年以内に起きる確率が70%と宣告されているので、緊迫度はまったく違う。現に今朝(1月28日)東京湾で、マグニチュード4.8、最大震度4の地震が起こった、東京湾ではマグニチュード3クラスの地震が毎年のように起きていて、予断を許さない。

 東京の人口が肥大化し、今後もしばらく増加し続けるとされるのは、長年にわたって適切な構想を描けず、人間の流入を制限できなかった政府や都の責任が大きかったと思える。危機意識が予算を上回らなければ始動できないのは、イマジネーションの欠如の問題だろう。国や首都を動かす指導者には、多少強引ともいえるけん引力が必要ということだ。

 大分昔に、この過密首都圏を回避できた分岐点はあった。1972年に、田中角栄という自民党議員が大胆なイマジネーションをぶち上げ、それを本にした『日本列島改造論』がベストセラーになった。そしてその内容を公約に掲げて総裁選で勝利し、国家元首になった。この改造計画は、人と金と物の流れを巨大都市から地方に分散させる「地方分散」を推進して、交通網や通信網を日本中に張り巡らせるものだったが、田中はロッキード事件で消えてオイルショックによる不景気も加わり、壮大な構想は尻すぼみとなって、結局東京一極集中は解消できずにいまに至っている。東京を防災都市にする分岐点はもう一つ、関東大震災後の後藤新平による「帝都復興計画」があったけれど、軍事力に傾注する政府から予算を削減され、大幅に縮小された形になった。結局限られた予算で何をするかが問題で、いまを楽しむか、未来を慮るかの問題とも言い換えることができる。選挙権を持つ大衆は、常にいまを選択し、結局首都は膨らみ続け、反対に地方は過疎化し続けることになっている。

 東京は人々の欲望を満たす都市だ。「類は友を呼ぶ」という言葉があるが、同じ欲望を持つ人々はゴキブリのように蟠り、甘い汁を吸うためにコネクションを広げていく。人と人との濃密な関係は菌叢に譬えることができる。菌叢が広がれば黴菌が生き残れるように、金を獲得するチャンスも増えてきて、恩恵を受けた個々が太っていく。さらに東京には、日本の象徴ともいえる「首都」と「天皇」が二つも存在する。分散型社会の推進に、菌叢的な自然の摂理に打ち勝つだけのきっかけが必要なら、例えば首都機能の移転も必要だろう。あるいは日本人が天皇を慕っているのなら、天皇家の住居を京都に戻すことも必要かもしれない(当然、天皇の御意思で)。二つの象徴が一挙に消失すれば、東京も一地方都市に降格し、過密な人口もさばけていくに違いない。

 もしそれができないなら、地震や空襲から都民を守るためには、現状の東京を防災都市化していく方法しかない。しかし地権者が居座る地上を変えることは難しい、となれば地下防災都市を造る以外に方法はないということになる。ハマスが未だに抵抗できているのはパレスチナに張り巡らされた地下トンネルのおかげだ。平壌には大深度地下網が張り巡らされているという。両者とも戦争状態を継続中の国で、その危機意識は現実的だ。両者に共通するのは、各シェルター(地下避難所)を孤立させないように、通路で結んでいることだ。当然、電気・水道などのライフラインの繋がりも必要とされる。アリの巣は一つの入り口であったり多数であったりする。しかし、生き残るためにせっせと地下壕造りに励んでいる。せめて首都圏にも、地震や空襲による延焼から人々を救うため、街角の至るところに地下への避難口が設けられることを期待したい。パリやローマのカタコンベにしろ、カッパドキヤの地下都市にせよ、結局安全なのは地下という人類の性(さが)は、これからも続いていく。

 

 

 

ショートショート
三島家の節分

 年に一度の節分がやってきた。例年のように、三島家の応接間には遠藤一家がやってきて、ソファーに座る。遠藤夫婦と息子、娘一家全員が角を生やし、腕には豆が溢れる五升枡を抱えている。対面のソファーには、三島夫婦と息子、娘一家全員が角を生やし、腕には同じような五升枡を抱えている。遠藤家の面々は赤鬼で、真っ赤なドーランを顔に塗りたくり、三島家の面々は青鬼で、真っ青なドーランを顔に塗りたくっている。三島家と遠藤家は一言も喋らず、目を見開いて互いににらみ合う。

 コンコンとドアをノックする音が聞こえ、三島家妻が「どうぞ」というと、静かにドアが開いて烏帽子をかぶった男が顔を出し、「お揃いですね」といって入ってきた。二家族の共通の主治医である藤波が、立派な行司衣装をまとい、片手に軍配を持っている。まずは行司が二家族の間に立って、挨拶をした。

 「さて去年の節分では、三島家が遠藤家に貸した五千万の返済問題でバトルが交わされ、次の節分までには何とかするとの確約を遠藤家から得ることができました。この問題は解決済みということで、今年の節分を始めさせていただきます」

 すると、いきなり三島家夫が行司に向かって豆を投げつけ、「おいおい、早合点するなよ。金はまだ二千万残ってんだ」と怒鳴った。
「ままま、落ち着いて。行司さんには豆を投げないでください。豆は鬼どうしで投げ合ってください」と行司は顔を擦りながら慌ててたしなめた。
「だからさ、その二千万は、うちの息子に嫁ぐあんたの娘の持参金にしてやるといったじゃないか!」といって遠藤家夫が反論し、三島家夫に豆を投げつける。すると遠藤家息子が横から自分の父親に向かって思い切り豆を投げつけたので、父親は口をポカンと開けて息子を見つめた。
「行司さん、血液検査の真実を語ってください!」

 行司は、急にいわれたので戸惑いながらも心を落ち着かせ、説明を始めた。
「さて今回の節分に向け、遠藤家息子さんの提案で、全員採血して当院が検査をした結果、遠藤家息子さんと三島家娘さんは血の繋がりのあることが判明いたしました」
 すると三島家夫がいきなり行司に豆を投げつけ、「それはいったいどういうことだ!」と怒鳴りつけた。行司は軍配で豆を避けながら、「つまり、三島家奥様と遠藤家旦那様の間にできたお子様が三島家娘様ということです」と解説する。
 驚いた三島家夫は、豆を自分の妻に投げつけ「いったいどういうことだ!」と詰め寄る。すると妻は豆を夫に投げ返し、ワッと泣き出して逆上し「あんたがあたしをかまってくれなかったからよ!」とわめいた。

 三島家夫は豆を遠藤家夫に投げつけ、「お前、人から金を奪っただけじゃなく、女房までも奪ったのか、この人非人め!」といってもう一握り投げつけた。三島家娘もこれに同調して遠藤家夫に思い切り豆を投げつけ、「お父さん、よくも私の人生を台無しにしてくれたわね!」と怒号を浴びせる。すると三島家夫が娘に向かって豆を投げつけ「あいつのことをお父さんと呼ぶんじゃない!」とたしなめたので、娘もシュンとしてただ泣くばかり。

 すると今度は遠藤家娘が三島家夫に豆を投げつけ、「まさか私もおじさんの子供じゃないでしょうね」と疑り深い眼差しで睨みつけると、三島家夫はバツの悪そうな顔をする。「行司さん、どうなんですか?」と娘は行司に豆を投げつけた。行司は意外な方向からの豆に軍配が間に合わず、頬をさすりながら「お察しのとおり、あなたは三島家の旦那様のお子でいらっしゃいます」と答えた。遠藤家娘は只々呆れるばかり。遠藤家夫は自分の妻に豆を投げつけ、「キサマもか!」と犬のように吠え、三島家妻は自分の夫に豆を投げつけ、「これで帳消しね!」といって鬼の首を取った鬼みたいにガラガラ豪傑笑いする。

 で、こんどは三島家の息子が行司に豆を投げつけ、「それで僕はどうなのよ」と聞いたので、行司は胸を張って「あなただけは、正真正銘のご両親のお子様でいらっしゃいます」と答える。息子は胸を撫で下ろし、「よかった。これで三島家の財産はみんな僕のものだ」と勝手な解釈をした。

 しかし興奮状態に陥った三島家娘と遠藤家息子は、急に立ち上がって枡を放り投げ、行司の前でしっかと抱き合い、「あたしたちは結婚できないの?」「どうなんだ先生よう!」と詰め寄る。行司は怯えながらも冷静に、癌患者に死の宣告を下した先週のことを思い出して勇気を取り戻し、医者の立場からきっぱり「結婚は差し控えたほうが良かろうかと……」と、か細い声で答える。とたんに二人は大粒の涙を流してワンワンと泣き叫び、「こんなに愛し合ってるのになんで結婚できないの!」「兄弟だって結婚できるだろう!」と四つの手で行司の襟首を掴み、行司は壁際まで押し込まれて上に掛かっていた絵が額縁ごと落ち、烏帽子を潰して頭頂部に当たり頭を抱えてしゃがみ込む。

 するとすかさず四つの手が行司を吊し上げて立たせると、三島家娘が震える声でおしとやかに、涙ながらに懇願する。
「お腹の赤ちゃんはどうなるん?」
 とたんにソファーに座っていた全員がたまげて一斉に飛び上がり、口をポカンと開けたまま行司の次なる言葉に耳を傾けた。幸いなことに四つの手のうち二つの手が急になくなったので、行司が喋れるぐらいに楽になれたのは、初聞きの遠藤家息子が驚きのあまり失神して床に倒れたからだ。けれどそれも一瞬で、ゾンビのごとくよろよろ立ち上がり、三島家娘の腹に片耳を当てながら、上目遣いに「さあ先生、どうしましょう」と気持ちの悪いぐらいに優しく行司に尋ねた。

 しかし行司は数分前から厳格な病院モードに入っていて、淡々と「早いうちがよろしいでしょう。最近承認された経口中絶薬を明日処方してさし上げます」といったから二人は完全に逆上。床に置いた枡を掴むと、めちゃくちゃに豆を投げ始めた。するとそれに呼応して家族全員が豆を投げ始めたので、豆の飛び交う応接室は修羅場と化す。行司はただ一人だけ、再び壁際にしゃがみ込んで、豆弾丸の尽きるのを待つことにした。

 突然パアンと大きな音がして、豆合戦はピタッと止む。クラッカーのテープたちが愛し合う二人の頭に落ちた。紐を引いたのは遠藤家の妻だった。
「おめでとう。孫ができるなんて母さん嬉しいわ。早く結婚式を挙げないとね」といって遠藤家妻は二人に近寄って三島家娘にハグをし、手持ちの豆を至近距離からしゃがんでいる行司に思い切り投げつけた。
「さあ行司さん。あたしは二人のために覚悟を決めました。あなたの隠している真実を、あなたの口からいいなさい。あなたがいわないなら、あたしがいいます」

 行司は体を震わせて渋々と立ち上がり、豆鉄砲から身を守るために軍配を顔に当て、ふてくされながら口を開いた。
「血液検査の結果、遠藤様の御子息は、私めと奥様のお子であることが判明いたしました。これは不都合な真実であると同時に、明るい未来を招く好都合な真実であります。これにより、三島家御令嬢と遠藤家御子息のご結婚は可能であり、お腹のややこも健やかに育つことを保証いたします」

 応接間はクラッカーが鳴り響き、大歓声のもと、一度に二人の子供を失った遠藤家夫だけが意気消沈。「さあ、今年の節分はこれをもって終了いたします。来年の節分に向け、みなさん明日から恨みつらみをお貯めいただき、徐々に鬼になっていってください」といって行司が後ろの壁の引き戸を開くと、そこは大広間になっている。有名ホテルから来たシェフや給仕が、九席分のフルコース料理を整え、控えている。毎年のように両家族はにこやかに談笑しながら、各自好きな席に着く。三島家娘は、ショックで血の気のなくした遠藤家夫に気付き、実父で義父でもあろう彼を支えて席に着かせると、まずはシャンパングラスにシャンパンが注がれ、両家の乾杯となった。行司がすっきりした顔つきで立ち上がり、音頭を取る。

「さあ、昨年の鬼たちはすっかり退散いたしました。次なる一年が幸せに満ちたものになることを願い、乾杯!」
 バカラグラスの弾き飛ぶような快音が、大広間中に鳴り響く。

(了)

 

 

 

 

 

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エッセー「ひょっこりダーチャ島]& 詩

ひょっこりダーチャ島
~浮島で難民を癒す~

 大分昔のNHK子供番組に『ひょっこりひょうたん島』(1964~1969年)という人形劇があった。この島は瓢箪の形をした浮島で、海の上を漂流している島民が織りなす空想物語だ。その島名やキャラクター名を借りた『漂流劇ひょっこりひょうたん島』が2015年にシアターコクーンで上演され、原作者の親族が「断りがなかった」と苦言を呈したという。空想物語といっても、要は水に浮く材料を使って島を造れば浮くわけで、浮島自体が夢物語というわけではない。実際ペルーのチチカカ湖に浮かぶ水草(トトラ葦)製のウロス島は、伝統的な人工浮島として観光名所にもなっている。日本でもバブル経済で地価が高騰した時代、『メガフロート』という鉄板製の人工浮島が官民連携で開発されたことがあり、羽田D滑走路建設のコンペでは埋立方式と競り合った(結局埋立方式を採用)。

 もっとも、ウロス島はペルー領内に完全に帰属している島だし、メガフロートは埋立地の代替として岸に隣接させる計画だった。それに反し、ひょっこりひょうたん島は海のどこかを漂流している島なので、それがどこかの国の領海に入ってしまえば恐らく警告を受けることになる。地球は探検しつくされ、領有権のない場所は残る南極、北極、公海に限られる。つまりひょっこりひょうたん島は、あくまで物語上の島で、それが風の向くまま潮の向くままに漂流すれば、いずれは領海とか排他的経済水域に侵入して大きなトラブルになってしまうだろう。

 けれど公海は、地球市民が誰でも利用できる共有領域なので、そこに浮いている限りにおいて、ひょっこりひょうたん島は誰からも文句を言われない(国際海洋法によって認められる限り)。しかし島民は無国籍というレッテルを貼られることになる。この地球では、どこかの国に属さない人間は「無国籍」の扱いを受ける。人は良く「自由人」などと気軽に話すが、この世界では自由人などは存在せず、いるとすれば自然人か透明人間だ。アマゾンの奥地では自然人の方々が自由に生活しているが、彼らが帰属を意識していないからそうなので、ブラジル政府が勝手に彼らの存在を推測し、ブラジルに帰属していると思っているだけの話だ。彼らにとって国籍があろうがなかろうが、環境が保護されている限りはその人生に何の影響もないだろう。

 ところが国連の世界人権宣言第15条には、「すべての人は、国籍を持つ権利を有する」と謳われているから、国籍は人類の権利らしい。それがなぜ権利なのかというと、地球は国単位で分割されており、国民は国からサービスを受ける権利を有するが、どこの国にも属さない人間は、どこの国からもサービスを受けられない。サービスなんざいらないと我を張っても、彼らが狩をしようと山に入ったり、作物を作ろうと土地を耕せば、山や平地全てが個人や地方政府、国に所有されているので、お咎めを受けることになる。だから無国籍者は、生きるためにどこかの国に属すべく必死に国籍を取ろうとする。つまり人間にとって国籍は、いまの世界にとって生きるための必要条件なのだ。そして国籍を取ると、その人間は国に管理されることになる。

 国からサービスを受けるということは、国に恩返しをしなければいけないことを意味する。権利を持てば義務が生じる。例えばそれは税金だったり兵役だったりするわけだ。平和ボケしている日本人は、税金は理解しても兵役は理解しにくいだろう。けれど隣国が攻め込んできたら、たちまち理解することになる。つまり常識の範囲内で、人間にとって税金と兵役は、いまの世界にとって国籍とともに生きるための必要条件なのだ。だから脱税者も兵役逃れも罰せられ、脱走兵は督戦隊に背中を撃ち抜かれる。

 ならば、仮にウクライナ全土がロシアに占領され、半永続的にロシア領となったらどうなるだろう。ウクライナという国は人々の国籍とともに消滅し、そこに住むウクライナ人はロシア国籍を取る必要があり、ロシア政府に税金を納めなければならなくなるし、ロシア兵として徴兵され、他国への侵略に加担しなければならなくなる。それが嫌なら土地を捨てて無国籍者として放浪するか、難民申請してどこかの国に落ち着き、その国の国籍を取るか、あるいはどこかの難民キャンプに入るしか、生きる方法はなくなってしまう。現在ロシアの占領地域では、渋々ロシアのパスポートを受け取るか、ウクライナ国内の戦闘地域や外国に逃げるかの二者択一を迫られている。トランプが大統領になれば援助はストップし、ウクライナ滅亡の悪夢が正夢になる可能性も増え、さらに難民が増えるだろう。

 島国日本の人々は、ソ連に取られた北方四島ぐらいしか実感がないが、例えばヨーロッパなどの国境周辺に住む人々は、たびたび起こってきた戦争や国境紛争などで、祖先がいろんな国の国籍を所持してきた歴史はあるだろう。昔の人も、他国に侵略されると、耐えがたきを耐えて大人しく暮らすか、国を捨てて流浪の旅に出るかの二者択一を迫られてきた。そして辿り着いた他国の温情にすがってその国の国籍を取り、落ち着いた生活を再開しようとするが、先住民からの差別に耐えなければならない。それができなかった場合は永い難民暮しとなるが、受け入れる国には拒否する権利もあり、拒否されると流民扱いされて難民キャンプに押し込まれることになる。

 内戦は宗派争いや政権の奪い合いなどで起こるが、戦争はほぼ領土、領海の覇権争いで起こる。いまのところ極地域や公海の領有権は認められていないが、公海だとされる南シナ海の領有権を巡って中国や周辺諸国の争いを見ていると、そのうち公海も南極も北極も、どこかの国が領有権を主張して武力行使する時代がやってくるかもしれない。地球上のすべての場所に所有者がいて、そしてその権利を巡って未だに紛争が続いているなら、戦争のない世界など、夢物語に違いない。わずかな望みは、パンドラの箱に残っていた弱々しい「国連」という名の希望だ。しかし戦争や迫害の被害者は悪夢の物語ではなく、現実にいる。故郷を追われた難民はおよそ1億1000万人と言われ、庇護希望者は500万人いると言われる。無国籍者も1千万人以上いるらしい。

 難民や無国籍者は流浪の民だ。ロマの人々もユダヤ人も古くからの流浪の民で、ユダヤ人の一部はイスラエル国を造って今度はパレスチナ人が追い出され、流浪の民となった。難民キャンプは自然発生的なものも含めて世界に数多く存在するが、過密で生きていくのに最低限の設備しかないものが多く、衛生管理も行き届いていない。特に1946年から続いているパレスチナ人のキャンプは、そこで生まれた子供が高齢になって死んでいくといった哀れな状況だ。当然キャンプの存続には世界中からの支援が不可欠だが、一生そんな場所に押し込んでおくのかという人道的な問題も出てくる。

 昔、アフリカやアラブなどの地域には国境線がなく、ヨーロッパ諸国の植民地支配によって人為的に引かれていった経緯がある。その結果として民族が分断され、未だに国内外の民族紛争が続いている。また、隣国との国境紛争がある場合は、国境線が未確定な場所も存在する。そこでは永年陣取り合戦が続いているというわけだ。結果として優勢な国が一方的に国境線を引くことになり、土地を奪われた国が渋々妥協すると、停戦協定が結ばれることになる。ヤクザの縄張り争いと変わりはしない。

 国境のなかった時代には、遊牧民は自由に旅を続けることができた。しかし国境線が引かれた後は、わざわざ検問所を通過しなければならなくなったし、国境紛争が起きれば検問所も閉鎖される。人間も農耕による定住以前は遊牧民で、その前は狩猟民、さらにその前は野人(野獣)だった。そのすべての時代で縄張り争いはあったし、戦いに負けると餌を求めて新天地を探さなければならなかった。しかし国境という柵はなく、東西南北どの方向にも移動が可能だった。そして新天地ではよそ者との新たな縄張り争いが始まり、負けた連中がさらに新たな新天地を求めて移動する。いまの時代に人間がこんなことをすれば盗賊として殲滅させられるが、国境地帯では似たようなことが起こっている。この野獣の性(サガ)は、人間が獣である限り未来永劫続いていく。その結果、戦いに敗れて飢え死にする犠牲者は、弱肉強食という自然の摂理のもとに忘れられていく。イスラエル人はその自然の摂理を永年にわたり実体験してきて、そのトラウマが血に流れているから、あのように頑なになれるわけだ。

 人間とその他の獣の違いは、『ライオンキング2』を観れば分かる。ライオンは、オスどうしの決闘で勝利した者が一夫(数夫)多妻の家族を作り、狩を生業として生きていくが、10頭ほどの家族の縄張りは小さなものだ。しかし『ライオンキング』のシンバは、キングとして広大なサバンナ(プライドランド)に生きるあらゆる種類の動物たちの賛同を得て、絶対王者に君臨する。つまりシンバはプーチンでも習近平でもバイデンでも岸田首相でもあるわけだ。そしてどんな人物がシンバであろうと、国はシンバを頂点としてピラミッド型に形成され、その形態は支持する人々によって支えられるということになる。

 ディズニーのアニメを観て人々が感激するように、頂点に立つリーダーがカリスマであるほど国は安定する。人々は強いリーダーを求め、弱々しいリーダーは人気が落ちる。『ライオンキング2』には『よそ者』という歌がある。その歌詞には「災いを持ち込むな」とか「あいつはよそ者、私たちとは違う、仲間じゃない」などといった文言がある。ピラミッド型の安定した国にとって、よそ者は災いを持たらす要因だ。そしてこの「よそ者」は、現代社会においては「難民」であり「不法移民」であり、「無国籍人」なのだ。彼らをあえて引き受ける国があるとすれば、その国民は慈愛の精神に満ちた人々に違いない。残念ながら日本は難民や移民の受け入れが厳しく、2021年の統計では難民認定率は0.3%だったという(2,413 人申請中74人認定)。しかしそれはあくまで民族的統一を尊重する国の方針で、慈愛に満ちた日本人が少ないわけじゃない。多くの日本人ボランティアが難民キャンプで活動しているのを見れば分かるだろう。

 地球上では土地神話が続き、その陸地がほぼ誰かの所有物なら、広大な土地を必要とするには困難が伴う。多数の難民を受け入れる土地がないから柵を作って押し込め、ボランティア団体から生きるに最小限の物資を与えられている檻が「難民キャンプ」で、かつてヨーロッパに点在したユダヤ人の「ゲットー」と変わらぬ劣悪な環境だ。しかしゲットーは迫害による強制居住区域だが、難民キャンプは行き場を失くした人々の救済を目的とする区域なのだ。そこが劣悪だとすれば、救済という本来的な目的に逆行するだろう。

 ボランティアの人たちは難民キャンプの救われない現状を実体験しているが、無関心な人がテレビなどでその映像を見ただけでも、牢獄と変わらないことは予測できる。囚人だって刑期を終えれば解放されるのに、運悪くそこで生まれた人々が生涯そこに閉じ込められて人生を終えなければならないとすれば、この悲劇的な宿命を少しは緩和させる方法を考えるのは、ヒューマニズムを掲げる地球市民の義務だと思う。特に、先進国の市民が「よそ者」に対する排他的な感情を高めつつある昨今の暗い現実を鑑みれば、難民キャンプに暮らす人々の癒しを考えることも必要だろう。

 例えばロシアでは「ダーチャ」と呼ばれる農園付き別荘を持っている人が多い。ダーチャは、スターリン時代の農業集団化で農地を奪われた農民が、せめて自給できる菜園が欲しいと食い下がってもぎ取った小さな土地の利用権だ。集団農場で働く農民は、そこに小さな小屋と菜園を作り、週末になると心を癒すことができた。これが農民以外の市民の間でも流行し、一般化したものが「ダーチャ」だ。苛酷な生活を強いられている難民キャンプの人々がそこから抜け出せないとすれば、せめて半年や一年に一回、短期間でもダーチャのような別荘で心を癒すことができるなら、それはすばらしいことに違いない。

 もちろんダーチャを造るには土地が必要になる。しかし広い土地を無償で提供してくれる国はないだろうし、貸してくれるとしても利用できない不毛地で、難民キャンプ大の土地が精々だ。ならば誰のものでもない南極大陸はどうだろうか。しかし、そんな極寒地に難民を招待したら、シベリア捕虜収容所の二の舞になっちまう、というわけで誰のものでもない候補地は南極大陸よりも広大な公海しかない。日本の政府や国民が大和民族の純血性を守り、多民族国家になることを恐れるあまりに難民受け入れを拒否するなら、ヒューマニズムを掲げる地球市民の一員として、別の切り口から支援する必要はあるだろう。きっとそれは浮島だ。

 日本は「ひょっこりひょうたん島」という奇抜な浮島発想(井上ひさし作)が生まれた国であり、「メガフロート」という浮島技術が確立された国でもある。この発想と技術を過去の歴史の中に埋もれさせてしまう手はない。メガフロートは実証段階で面積84,000㎡まで造られた経緯があり、2000年に世界最大の浮島としてギネスブックに認定され、耐用年数も100年を超えるという。大きければ波風による揺れもなくなる。構造はシンプルで部分的な切り離しも可能なことから、交換によって耐用年数を延ばすこともできるし、浮島どうしを順次合体させて拡大も可能だ。また地震に強く、沖合では津波の心配もない(津波被害は沿岸地域で起こる)。さらに深い公海は栄養価も低く、生息する生物も少ないので、生態系に影響を与えることもないだろう(かえって藻も生え、影が出来ることで魚が集まってくる)。

 唯一心配なのは、海流でどこかの国の領域に侵入することだが、複数の錨による固定はもちろん、曳航チームによる引き戻しは可能だろうし、地球深部探査船「ちきゅう」で活躍している自動船位保持装置を進化させれば、微動だにしない浮島も実現可能に違いない。また、台風などの高潮に対しても、スリット付カーテンウォールを波打ち際に垂らした「波エネルギー吸収装置」が威力を発揮し、漂流防止にも役立つという。電力は、四方に波動発電機や風力発電機を備えれば賄えるだろう。

 この広大な新島は全面平坦で小型飛行場も併設し、船も着岸できる。もちろん、島の中央部にはヘリポート付のビル(ブリッジ)も建設され、万が一の避難場所として利用されるだろう。均等に分割されたダーチャはそれぞれに菜園と瀟洒な小屋が造られ、その屋根は太陽光発電パネルだ。一つのダーチャは、6~12家族にシェアされる(滞在は1家族1~2カ月)。菜園には潮風に強い小木や作物が植えられ、彼らは継続して作物を育て、難民キャンプに戻るときは収穫物を持ち帰ってシェア仲間と分け合うことができる。我々にとってそれはバカンスのように見えるが、苛酷な環境で暮らす難民キャンプの人々にとっては、ボロボロにされた心の止血帯か、沙漠に降る恵みの雨だ。たとえそれが一滴の水だとしても、きっと生きる喜びや希望を与えてくれる。ならば浮島は、地球温暖化で水没し、住む島を失った人々のためにも貢献できるかも知れない。

 島も船も、そこから抜け出せない限り、「獄門島」や「幽霊船」という悪いイメージが付きまとう。しかし、難民キャンプはそれらと同列の地獄なのだから、大海に浮遊する浮島は世界中のどこにも行き場がない人々にとって、爽やかな海風を運んでくれる癒しの場になることは間違いない。公海は広大だ。まずは1号島からチャレンジしてみよう。そしてこの浮島が進化発展できるなら、水中プロムナードも完備して、カプリ島のように多くの観光客が訪れるようになるかも知れない。そのとき彼らは、労働の権利をも取り戻すことができるに違いない。

 

 

喪失

愛する人を失ったとき
その人は私の持ち物だったことを知った
きっと大好きだったイヤリングの片方を落としたとき
残った片割れを眺めながら涙ぐんだように
スマホに残されたあの人を眺めている
いままでどれだけ持ち物を失くしたか分からないけれど
いつも新しい物を買い足していった
それらは欠いた心に纏わりついて
いつの間にか傷口は分からなくなった
愛する人を失うとき
いつもあのイヤリングを思い出す……

 

 

 

 

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エッセー 「芸術は爆発だ!」& ショートショート

エッセー
芸術は爆発だ
~ムリヤリ芸術二元論~

 冬になると野原は枯れた植物の死体で満たされ、人々は寒さで体を縮込ませながら、再び訪れる春のことを思い浮かべる。僕は近くの河原に立って荒涼とした景色を眺めながら、最初に色とりどりの花たちに埋め尽くされた春の河原を思い浮かべ、次に色とりどりの観衆に埋め尽くされた大リーグの開幕試合を思い浮かべる。花は花でも。大谷翔平という花形選手の躍動する姿をイメージしたわけだ。春の花と大谷さんでは、少しばかりニュアンスが違っているが、似ていないこともない。

 春の花は、植物の繁殖を助けてくれる虫たちを招き寄せるための看板そのもので、そこにあるのは虫たちに気付いてもらうという受動的な美しさだ。おそらく虫と同じ感性の人間は虫と同じようにそれに引かれ、強引に手折って家に持ち帰り、新鮮な花の死体を床の間に飾る。しかし花は虫とのコミュニケーションのために用意されたもので、それを食べる動物ともども、死体を愛でる人間は迷惑至極な存在だろう。植物は花粉の運搬屋である虫たちの飛翔エネルギーを取り込むために花という目印を示す。虫たちは蜜という駄賃を吸うのが目的で、花びらを奪う悪事はしない。それは共生関係というお互いの愛情の融合だ。

 一方大谷さんの場合は、誰も客寄せパンダだとは思いたくないだろう。彼は花より弾丸で、体内から表出するパンチ力が多くの人々に芸術的な美しさを感じさせる。大谷さんの場合は、観客とのコミュニケーションではなく、観客に力を示して敬服させる衝撃的な美しさで、対戦チームとそのファンには脅威となる。つまり味方ファンを花と仮定し、大谷さんをミツバチとすれば、ファンの声援は花びらの役割を担い、大谷さんはそれに応える結果で彼らを満足させ、愛の融合が成立する。物理的に弱い力と強い力があるように、美には「愛」を表す女性的な美と「力」を表す男性的な美が存在するわけで、それは外から内への受動的な美と内から外への能動的な美といい替えることもでき、時と場合によってスイッチが変わり、二つの美の間で様々なやり取りが行われる。

 例えば弥生土器縄文土器を比べるとそれはよく分かる。岡本太郎縄文土器の力の美しさに魅了された。若い頃、僕は縄文土器のごてごてした装飾をグロテスクで悪趣味(下品)だと思っていた。反対に弥生土器の飾り気ない簡素な姿に、洗練された印象を抱いた。おそらく「芸術は爆発だ!」と唱える岡本は、縄文土器の美しさの意味を知った最初の芸術家だった。彼は原爆を予測したといわれる『都市の爆発』を描いたシケイロスに同調し、常に感情の爆発を形にしようと思っていた。しかし爆発はエントロピー(無秩序な力)で、絵にするのは難しい。もちろん、抽象は具象よりも爆発のシズル感に適していた。キャンバスという有限の二次元空間で、その制限ぎりぎりのところまで爆発を表現したのが彼の絵画群なのだ。

 フロイトは、人間の欲動には破壊(殺害)しようとする「死の欲動(破壊衝動)」と保持(統一)しようとする「生の欲動(愛の衝動)」の二つの欲動があり、その絡み合いで生きていくと述べた。本来的に、死の欲動は自分を守る本能で、生の欲動は他者を愛し(受け入れ)安定した環境で増殖を続ける本能だ。言い換えると、破壊衝動は自分の身を守るために他者を毀損する衝動で、内から外への感情爆発だ。それがにっちもさっちも行かなくなると、この衝動は自分に向けられて自傷に導く。また、社会内存在の人間は自分を守るために、社会という檻を打ち破ろうとする足掻きを感じることも多く、これが内から外へのエネルギーになって、罠に捕らわれた熊みたいに大暴れするケースもある。

 愛の衝動は外の感情を内へ取り込んで溶け合う他者との融合だ。これは性愛はもちろん集団生活を営む群に必要な集団愛の本能だ。集団は安定した環境を作るために、外から内へ他者の感情エネルギーを取り込みながら、内から外への感情エネルギーと融合させ、互いに安定した関係を築き上げる。それが失敗した場合は内輪揉めとなり、集団は分裂する。いま騒がれている自民党派閥も、いずれ分裂するに違いない。そう考えると縄文土器は、縄文人の内から外への芸術的衝動を形にしたもので、弥生土器弥生人の外から内への芸術的融合を形にしたものといえるだろう。

 野山を駆け巡る縄文人は狩を行い、常に動物との戦い、他者との縄張り争いに明け暮れていた。戦いに必要なものは、欲望や怒りなどの体内から体外に発散するパワフルなエネルギーだ。そしてそのエネルギーは日々持続させなければならない。それは阿修羅のような内から激しくほとばしり出る炎だ。縄文人は自分の心身そのものを、男性的な土器に投射したといっても過言ではないだろう。縄文土器は煮えたぎる破壊衝動を昇華したものだ。おそらくこの土器を最初にデザインしたのは男だったに違いない。

 一方弥生時代には農耕も盛んになり、人々には共同作業による協調の精神が求められるようになった。人々は激しさから温和への転換が求められ、棘もなく円やかな女性的スタイルの土器が作られるようになった。この土器は他者との愛の融合、妥協や統一を昇華したものだ。おそらくこの土器を最初にデザインしたのは女だったに違いない。

 そしてこの縄文土器弥生土器を芸術として考えると、創作エネルギーのベクトルが内から外への芸術と、外から内への芸術として捉えることができるだろう。内から外への芸術的感性は、破壊的要素を伴っている。反対に、外から内への芸術的感性は統一(調和・融合)的感性を伴っている。例えば美術でそれを考えると、ギリシア彫刻は神々の美しさや激しい物語を写実という統一性で表現した。だから生身の人間から石膏型をとって粘土で原型を作り、ブロンズ像に仕立てあげたりしたわけだ。神々の内から外への縦横無尽なエネルギーに憧れ、その波乱万丈な物語を題材としながらも、表現上では外から内への写実として融合して整える手法は、イタリアのルネッサンス期に解剖学的に研究され、絵画においては透視法などによる奥行・立体表現も加わり、さらに視覚的なリアリティが高まった。彫刻においても、ミケランジェロの『ダビデ』は、若者の内から外へ漲る若々しいエネルギーと、制作者の静的な目線という外から内への写実的融合におけるぎりぎりのバランスで、最高の美を形にしている。

 この内なるエネルギーを見えたままに捉え描く写実技法は連綿と、芸術の都パリで200年も王立絵画彫刻アカデミーに受け継がれてきたわけだが、歴史画を最高とする写実的規制が厳格で、それに反発する画家たちが印象派革命などを起こして写実のくびきから逃げ出し、自由な表現で描き始めたわけだ。この革命はまさに内から外へのエネルギーの爆発で、写実という従来美術の殻は脆くも砕け散った。岡本太郎が「芸術は爆発だ!」というのは、常に新しい芸術は、内から外へのエネルギーで爆発的に既成概念を壊しながら飛び出すことを伝えたものだ。  

 例えば炎の画家ゴッホの激しい風景画は、外界の景色を取り入れた外から内への表現ではなく、自分の魂を内から外へ、目の前の風景に激しく投射したプロジェクションマッピングと見ればいいだろう。ピカソの『ゲルニカ』だって、ゲルニカの惨状を表現したというよりか、自分の心の激しい怒りを爆発させ、キャンバス上に投射させた作品なのだ。それは広島で原爆が破裂し、石段に座っていた人の影だけが石に刷り込まれたようなものだ。これはあまりに悪趣味な比喩だが、火薬が爆弾容器の中で好機をうかがっているように、既成概念を壊す前夜の精神は、狭い頭蓋骨の中で爆発を予感している。芸術作品の進化(展開)が既成概念(社会通念)の破壊から始まるのなら、それはフロイト的に死の欲動(破壊衝動)であることは間違いない。フロイトが「死の欲動がある限り、戦争はなくならない」と予言したように、芸術の革命的展開もなくなることはない。

 この破壊衝動は、もちろん全ての芸術分野に当てはまるものだ。茶道は村田珠光の「わび茶」を千利休が発展させていまに伝えたが、その伝統を忠実に守る表千家と時代に合わせた風潮を積極的に取り入れる裏千家に分裂した。作法という外から内への融和に重きを置く表千家に対し、いままでの作法を覆す裏千家の行動は、内から外への破壊衝動だといっていいだろう。大きな集団が分裂するときは、従来の枠組みから飛び出ようとする内から外への破壊衝動がムーブメントの源になる。

 音楽の分野でも、西洋音楽の歴史は破壊と創造の繰り返しだった。ストラビンスキーは音楽理論という外から内へのハーモニー的締め付けの中に留まりながらも、内から外への爆発を表現した『春の祭典』という異色のバレー曲を作曲した。これは荒野の芽吹き、蕾の膨らみから、開花、百花繚乱への移り変わりを独特の和音とリズムで表現したバッカス的な激しい音楽だ。シェーンベルクは従来の音楽理論(調性音楽)を根底から破壊する無調整音楽(十二音技法)で『モーゼとアロン』という革新的なオペラを作曲し、その流れは現代音楽に受け継がれた。シェーンベルクは学究肌の作曲家で、彼の内から外への爆発は音楽理論そのものを破壊する革命だった。

 芸術の分野で「革命」という言葉が大袈裟なら、「ブーム」という言葉に置き換えてもいいだろう。一つの理念なり技法がブームによって主流になると、既存の技法や異なる技法が傍流となる。既存の技法はそれなりの固定ファンによって延命し、次なるブームは傍流である異なる技法か新しい技法が躍り出ることによって芸術史も変遷していく。そんなとき、既存の技法に固執している芸術家は不安に駆られる。「自分の作品は時代遅れなのではないか……」。現にシェーンベルクと同時代の作曲家であるチレアは、時代の流れに不安を感じながらも『アドリアーナ・ルクブルール』という従来的手法のオペラを作曲した。この作品は現在でも高く評価され、『モーゼとアロン』の演奏回数を大きく上回っている。要は優れた作品は時代の変遷にかかわらず評価されるということだ。もちろん『モーゼとアロン』も名作中の名作だが、いかんせん現代音楽の大衆的人気のなさが原因なのだろう。興行収益の問題というわけだ。金と暇のある熟年男女が好むのはチレア以前のイタリアオペラで、それにも歌舞伎十八番のような演目があり(『トスカ』『椿姫』『ルチア』等)、高額なチケットを払って異なる声楽家の同じ演目を繰り返し観ており、常に満席状態を維持している。欧米歌劇場の来日公演では、十八蕃以外の作品を取り上げることは少ない。大所帯の海外遠征では赤字公演は許されず、それが確実に儲ける手段なのだ。

 客受けの良いオペラの中でも、特に19世紀以降に人気を博したベルカント・オペラでは、その中のアリアも抒情的なカンタービレ部分と速いテンポの激しいカバレッタ部分に分けられ、カンタービレ部分では恋する人との愛の融合を願い(外から内)、カバレッタ部分では愛の成就の障壁となる恋敵や様々な困難を乗り越えようとする激しい感情(内から外)が吐露される。そして喜劇は最後に結ばれてハッピーエンド、悲劇では恋は叶わず、両方かどちらかが死ぬことになるわけだ。

 それでは建築という芸術はどうだろう。平安時代からの寝殿造は、貴族たちの宴会や儀式に適応させたもので、訪問客の視線という外から内へのエネルギーを意識して反映させ、豪華に造られたものだった。これは自身の権勢を建築物で示すことで、自分の立場を世間的に確立し、他者との融和を図ったものだ。その意図に相当する芸術は、西洋ではベルサイユ宮殿、日本ではほかに秀吉のポータブルな「黄金茶室」が上げられるだろう。ベルサイユ宮殿は、ルイ14世が権勢を誇示し、訪問した貴族たちの視線を通して「反抗しても叶わない」と思わせ、反抗心を懐柔させるために建てられた建築物だ。同じく農民出身の秀吉は、諸侯から見下されないために、絢爛豪華な茶室でもてなすことによって主従関係を示し、融和を図った。彼らが望むのは、支配する天下を安定化させるための他者強豪との融和だった。しかし秀吉のように外から内へのエネルギーを気にしていた支配者たちも、有事になれば一転して内から外へのエネルギーを爆発させ、生き残るか滅びるかの戦いを展開することになる。

 オシャレやモードも同じことがいえるだろう。有名デザイナーは権力者としての地位を確立し、奇をてらったデザインでファッションショーを開催し、内から外へのエネルギーを誇示することで新しい風を起こそうとする。ファンたちがそれに乗って広めれば、彼の作風に馴染めなかった人たちもそれが流行だと思い、買い始める。消費者は世間体という外から内へのエネルギーに同調して流行を追い始め、伝染病のように世界中に広まり、一年後には細いパンツがダブダブのパンツになったりする。金もないのに高額なブランド品を買うのは、それが金持ちのステータスであるという共通意識を利用し、社会における自分のポジションを外から内への視線によって高めようとする欲求だ。

 外から内へのエネルギーは世間の常識といい換えることもでき、自分が社会からどう見られるかという常識との融和感情は、平和な社会における他者との同調から生じるものだ。これが戦時になればとたんに内から外への爆発的なエネルギーに転換してしまう。他者を取り込む外から内へのエネルギー(愛の衝動)は、他者を毀損する内から外へのエネルギー(破壊衝動)に豹変する。そしてその破壊衝動が群となって同調すると、侵略が開始される。「ブランド」という共通の価値観が、「侵略」という共通の価値観に転化しただけの話で、多数者の共通意識はその時代の常識として、終戦とともに日本人の感性を逆転させた。右へ倣えの戦時中に兵役拒否をすればひんしゅくを買い、正装晩餐会に普段着で出ればひんしゅくを買う。しかしそれは、世間の常識を覆す破壊衝動で、芸術の分野では変革者たちが繰り返し実行してきたことなのだ。小澤征爾氏を嚆矢として、演奏家も燕尾服を着ることは少なくなった。しかし彼は、ミラノスカラ座での公演ではそれができなかった。既成概念を打ち破ることは、それほど簡単なことではない。

 この破壊衝動という内から外へのエネルギー移行が爆発的な革新芸術を生み出し、愛の衝動という世間(社会通念)を気にした外から内へのエネルギー移行がゴージャスな装飾芸術を生み出すとすれば、その情念を観念でコントロールした場合はどのような芸術が生まれるだろうか。例えば禅宗における座禅は、外(世間)との向き合いを断って内(自分)との向き合いを満たした時間だ。このとき心は自分の心から離れて、客観的な空間(おそらく神的な位置)から自分を見下ろすことになる。すると内部から外部への爆発的なエネルギーも、外から内への融合的なエネルギーも雲散霧消して、その心はエネルギーを必要とする身体から離脱し、浮遊状態になる。それは日常のあらゆる関係性を断った「無」という言葉が相応しい状態だ。無の心は生きてもいないし、死んでもいない心の状態を指す。生が+で死が-とすれば、±の状態といっていいだろう。

 戦いに明け暮れる武士は常に死と向き合い、死への恐れを抱いている。この心の乱れは生に執着するからで、そこから回避する唯一の方法が、死んでも生きてもいない状態としての無の心を保ち続けることなのだ。そうした武士の心の住家として「書院造」という簡素な建築様式が生まれたのだと思う。侘び寂びの茶室も、同じような考えに基づいて考案されたものだ。「侘び」という質素さは、内から外、外から内へのエネルギーを極力少なくして「無」に近付け、エネルギーの出入りで生じる摩擦としての雑念をなくす意味が込められている。また「寂び」も、古くなって寂びれた物は「侘び」と同じように徐々にエネルギーを失くして「無」に近付いていく効果がある。こうした環境の中で茶を立てることによって、人は座禅と同じ無の境地に入ることができる。武士が出陣の前に茶を立てるのも、体はエネルギーに漲っていても、心は常に冷静でなければ勝てないからだ。その冷静な心とは、簡素な屋敷の中で培った平常心、感情というエネルギーのくびきから解放された無の神的境地だ。現在でも多くのスポーツ選手が、そんなモードに入ってゼウスのごとく立廻り、勝利している。

 しかし結果として芸術は百花繚乱、どんな形の作品であれ、評価の高低にかかわらず、芸術家の想念と趣向によって作品を創れば良しだろう。それが岡本太郎的な内から外への動的爆発だろうと、東郷青児的な外から内への静的ハーモニーだろうと、観る者の感性を多いに刺激すれば芸術としての役割は果たしたことになる。文学においても、この内から外、外から内への表現は見ることができる。例えば初期の芸術である万葉集は、歌読みの心の底からほとばしり出るような、内から外へのエネルギーを感じさせる純朴な歌が多い。一方、新古今和歌集では定家の「余情妖艶」に則し、上手い下手、粋な言い回しなどといった周囲の評価を気にしたような華やかな技巧が駆使され、外から内へのエネルギーを感じさせる歌が多い。

 詩人の小熊秀雄(1901~1940年)は『ウラルの狼の直系として』という詩の中で自由詩を謳歌し、規則や韻律にこだわる定型詩(俳句や和歌など)を間接的に批判している。
「~真実を語るといふことに
技術がいるなどとは
なんといふ首をくくつてしまふに
値する程の不自由な悲しさだらう、
すばらしいことは近来
人間たちがどうやら
苦しみと喜びの実感を歌ひだしたことだ、
悪魔は腹を抱へて笑つてゐる
日本の詩人もどうやら
地獄に堕ちる資格ができたーーと~」(抜粋)

 定型詩は絵画でいうと、ロマン派や印象派が反発したフランス王立絵画彫刻アカデミーの規定のようなものだろう。まず順位は①歴史画②肖像画③風俗画④風景画⑤静物画となり、手法も「正確無比な線を重視して描くこと」「落ち着いた配色を目指すこと」といった評価基準で、『サロン』という王室主催の展覧会への出展が決まる。定型詩も、決められた規則の中で言葉のセンスやニュアンス、余情などを競う「歌会」という人の評価を気にした外から内へのエネルギーによる遊びの要素が高い芸術だ。内から外へのエネルギーの爆発は、苦しみと喜びの実感がそうした殻からはみ出して初めて得られる感動には違いない。しかし岡本太郎の爆発は、キャンバスという決められた規則を打ち破ることはできなかった。当然、巨大な壁画でも同じような制約はあるだろう。制限のない爆発は、原爆のように世の中に破壊だけを残す。芸術は、際限のない無秩序を許すことはしない。枠組みは必ず存在するのだ。

 定型詩にも彼のような天才がいるとすれば、その制約の中での表現が、受け取る側の心の中で無限に広がることができるものにちがいない。優れた作品はすべて、内から外への爆発が鮮烈な光として外から内へと鑑賞者の脳味噌に入り込み、感動という激震を伴いながら制約なく広がったものに違いないからだ。要するにどんな代物であろうが、受け入れる側の心の中で際限なく広がることが芸術としての価値なのだ。ならば黒澤明監督の『夢』の中で、寺尾聰氏がゴッホの麦畑の中に入って遊んだように、仮想現実空間の中で爆発のスピードに乗って無限に飛ばされていくスリリングな感覚が、新たな芸術体験として認められる時代が来るのかもしれない。そんな爆発が芸術なのか遊びなのかは分からないが、そもそも芸術と遊びの違いも僕には分からない。要は、どれだけ心を動かしたかの問題だ。

 

 

 

ショートショート
ちょっと変わったコンシェルジュ

 後藤は共同墓地のコンシェルジュに応募した。勤務時間は午後五時から夜八時までの三時間で、閉園後の仕事だった。
「警備員のような仕事ですかね」と面接担当に尋ねると、彼は首を横に振る。
「ここに入っている五千人の霊たちの心を癒す仕事さ」
「しかし、僕は牧師でも坊さんでもないし、お経も読めません」
「そんなものは必要ない。君は介護施設で働いていたんだろ?」
「ええ……」
「なら簡単にできる仕事さ。引き受けてくれるなら、さっそく仕事場を案内しよう」といって、面接担当は立ち上がった。いやに急かせるなとは思ったが、慌てていたので「ありがとうございます」と応えてしまった。

 墓地は古墳時代前方後円墳を模した丘になっていた。この丘の至る所に五千人の骨が埋められている。犬などが入らないように高い柵で囲まれ、前方側に大きなゲートはあるが、重厚な天国の扉は閉まっていた。面接担当は「ここはお骨が入るとき以外は開けない」と呟いて横の小扉を開け、後藤を招き入れた。目の前に横長の香炉台が置かれ、上には雨除けの長い屋根があった。閉園直前に焚かれた線香の臭いが、後藤の鼻を突いた。長い御影石の上にはいくつもの香炉が置かれ、その周りは灰で汚れている。担当は短い人差指で灰をすくい、「こいつは掃除人の仕事で、君の仕事ではない」というと、さっそく高齢の女が同じ小扉からヒョンと現れて、そそくさと掃除を開始した。まるで早く家に帰りたいなといった感じの荒っぽい仕事だ。

 面接担当は指の灰を落とすこともなく、「君の仕事場はあちらとあちらだ」といって香炉台の両側にある小さなキューブの建物を交互に指差した。建物も香炉台と同じ暗い御影石でできており、前面に小さな出入口があった。担当が急に「さっちゃん!」と大声を張り上げると、左側の建物の中から制服を着た若い綺麗な女性が現れたので後藤は一瞬驚き、心の中で「いい女だ」と呟いた。担当は「さっちゃん、後はお願いします」といってから後藤を振り返り、「明日はマイナカードを持って一時間前に来てください。普段着で構いません。明日契約します」と告げて、そそくさ事務所に戻っていった。彼も早く帰りたかったに違いない。

 建物の前には「交霊室A」と書かれた案内板が置かれていた。さっちゃんはにこやかに微笑んで、「小林です、よろしくお願いいたします」と頭を下げた。「僕のために残業、申し訳ございません」というとさっちゃんは手を横に振り、「とんでもございません。あなたが来られるまで一カ月も掛け持ちしてたんですから、感謝するのはこっちのほうです」と返した。
「ところで、僕の仕事が分かっておりません」
「いまからご説明しますわ。まずは、お部屋に入りましょう」

 交霊室は二十畳ほどの部屋で入口以外は窓がなく、照明も薄暗かった。入口と反対側の壁は全面が半透明のスクリーンになっていて、左右の壁は外壁と同じ御影石だ。スクリーンの手前は一段高い十畳ほどのステージになっている。客席側には赤い絨毯の上にスチール製の椅子が五脚無造作に並べられ、他の椅子は右の壁際に十脚ほど積み重なっていた。後藤はさっちゃんに促され、真ん中の椅子に座ると、さっちゃんは隣の隣に座った。

「まず、私は昼のコンシェルジュ、あなたは夜のコンシェルジュです。昼のコンシェルジュは二人いて、夜のコンシェルジュは一人、つまりあなた一人です。私は交霊室Aのコンシェルジュ、あなたは交霊室AとBのコンシェルジュですが、行ったり来たりする必要はございません。昼と夜ではコンシェルジュの仕事内容が違うから、どちらかでやればいいんです。私はご遺族などご来園のお客様の対応をしますが、あなたの時間には、お客様はいらっしゃいません」
「じゃあ僕は、なんでコンシェルジュなんですか?」と後藤は単純な質問をした。
「あなたは、共同墓地に住まわれる霊の方々に対応していただくコンシェルジュです」
 後藤は意味が分からず、口をポカンと開けて、薄暗い光の中で輝いているさっちゃんの顔を覗き込むように見つめた。
「あっ、そうそうコンシェルジュにはもう一人いました。私よりも詳しいコンシェルジュをお呼びしましょう」といって、さっちゃんは大きな声で「天使さ~ん、お願いします!」とスクリーンに向かって声を掛けた。

 するとスクリーンが急に明るくなって朝日輝く金色の空が映し出され、金色に染まった雲間から金色の天使が現れ、スクリーンから舞台上に飛び出してきたので、後藤はビックリして声も出なかった。
「二人の話は聞いてたよ。僕は霊の方々に付き添って登場する天使の一人さ。どうやら君を納得させるには、最初から説明が必要だね。ここはVRの世界なんだ。まず、この世界では霊の方々は生きていて、君のようなコンシェルジュを必要とするんだ。要するに、君がどこかの高級マンションに雇われたと思えばいい。英語が苦手でもいいんだ。ここには外国生まれの方々も入居されているけど、日本語を話すからな。しかしまず、そもそも霊とは何ぞやから始めなければならない」

 天使がそこまで話したとき、長引きそうだと思ったのか、さっちゃんはうんざりした顔で急に立ち上がり、「申し訳ございません。家で主人が待っておりますから、後の説明は天使さんにおまかせでよろしいでしょうか」と後藤に許しを請う。後藤は「なんだ結婚してたんだ」と心の中でがっかりしながら、ふっ切れたように「どうぞどうぞ、ありがとうございました」と答えて、そそくさ出ていくさっちゃんの後ろ姿を見送った。

 天使と後藤二人だけになると、天使はさっそく説明を始めた。
「僕はホログラムというよりか透過スクリーン方式で動いているんだ。霊の人たちもみんな同じで、墓参の人たちの前に生前の姿で現れる。ここは面会所ってわけさ。この墓苑には調査部門があって、入居者の方々が暮らしていたお宅に伺い、あらゆる情報をいただいて3DCGを制作する。写真や映像、生前録音された話し声、歌った声、留守番電話の声、家族のこと友達のこと、趣味、仕事、だから調査係は警察や検察庁をリタイヤしたプロが多いのさ。もちろん君よりは稼ぎがいい。で、それらの情報をガラクタを含めて生成AIにぶち込むと、うまい具合に加工調整してくれて、家族の人も別人とは思えないくらいの完璧なアバター様ができ上がるんだ。それはどういう意味だか分かる?」
「さあ……」
「つまり、入居者様は死んではいないということ。生きてるってことさ」
「生きている?」
「そう、君は老人ホームで働いていたんだろ。そこの入居者は近いところに死があるけど、死んじゃいない。だから君は一生懸命介護していた。彼らの体の中にはまだ心があるからさ。けれど、いったん死んじまうと施設から追い出される。心のない人は物になっちまい、人間として認められないんだ。でも、その心は腐った体から離れて家族の心の中に入り込み、しっかり生きている。その心が時たま『会いたいなあ』って呟くもんだから、みんなお墓参りに来るのさ。でも、相手は骨だし土に埋もれている」
「なるほど……」
「なら分かるよね。ここは墓地じゃなく、入居施設だってこと。ここに来られるご家族やご友人の方々は、お骨や墓石に会いたいわけじゃない。死んじまった人に会いに来るわけじゃないんだ。もちろん、思い出に浸るためでもない。皆さん入居施設にお見舞いに来る感覚で、生きた人に会うためにやって来られるのさ」といって、天使は腕を組んで羽を広げ、二度ほど頷いた。

「その見舞客のお世話が、さっちゃんの仕事ですね。で、僕は?」
「だからさ、君は入居者様のお世話が仕事なんだ。いいかい、アバター様たちには、いろんな情報が入力されている。家族や友人との楽しい思い出だけじゃない。家族や友達とのいやな思い出や、全然面会に来ないとか、貸した金を返してもらいたいなんていう複雑な感情だって入力されているのさ。つまり老人ホームの入居者と変わらないと思ってくれたほうがいい。しかも若くして命を落とされた方々も入居されているし、AIが作った脳味噌はクリアで、痴呆症の方は一人もいらっしゃらないんだ。じゃあどうなる?」
 後藤は意味が分からず、「どおなるんでしょうね」と繰り返すだけだった。
「君は、老人ホームで話し相手になったことは?」
「ありますよ」
「なら、それが君の仕事です。当然、入居者様の言動はAIがコントロールしている。家族や友人が訪れても、喜んでばかりいて、生前いいたかったことはいえないんだ。訪問者様にはまた来てもらいたいし、運営側としても交霊券の五千円が欲しい。そうすると入居者様も、いいたいことはいえなくなる。それらの放電できなかったマイナスの情報がバグとなって溜まり過ぎると、故障の原因にもなるんだ。ストレスは定期的に放出する必要があるさ」
「つまり僕は、入居者のグチを聞いてやる仕事ということですか」
「そういうこと。相手が機械ならメンテナンスかな。入居者様はAIにコントロールされてるっていっても、面会者様には生身の人間だと思ってもらわないと、いずれ飽きられてしまう。できるだけシズル感を出すには、生身の君によるカウンセリングの調整が一番なのさ」
「分かりました。要するに前の職場の延長だと思えばいいわけですね」と後藤はいって苦笑いした。前の仕事にうんざりしていたからだ。
「じゃあ、実際にどんな仕事か、アバター様に出てきてもらいましょう。まず君は、そこでスクリーンに向かって『天使さ~ん』って僕を呼びつける。すると僕が出てきて、その日のメンテ対象者をご案内します。人数が多いので一回二人から四人登場し、ステージに立ちます。君は座ったまま、相槌を打ちながら約三十分グチを聞いてください。重い悩みを持った方が優先です。一日三十人は無理でしょう。グループ・カウンセリングの要領ですね。そのあと僕の仲間が自動的に入居者様を自室に戻します」

 天使がスクリーンに向かって「天使さ~ん」と叫ぶと、金色の空から二人の天使に導かれて、男と女が浮かび上がり、ステージに飛び出した。一人は弱々しい体つきの老女で、もう一人は後藤と同じぐらいの歳の体格の良い男で、サングラスを掛けていた。老女と手を繋いだ天使が、「驚きましたが、こちらの方はあなたとお知り合いだといっておられます」といった。「たしかに、この人の声だったわ」と老女は主張し、後藤をにらみ付けた。「驚きましたが、こちらの方はあなたとお知り合いだといっておられます」と若い男と手を繋いだ天使が同じ台詞をいうと、サングラスの男はニヤリと笑い右手の親指を立てた。

 後藤が胸騒ぎすると、突然高齢の社員に導かれて、五人の警察官がドヤドヤと部屋の中に入ってきた。警官の一人が腰の手錠を抜いて後藤の手に填めた。社員が後藤の前に仁王立ちし、挨拶する。
「はじめまして。ここで調査係をしている元警察官の小尾です。私の趣味は、逃げおおせた犯人のデータを仕事場のAIに保存することなんだ。ステージの女性はオレオレ詐欺で全財産を奪われ、飛び込み自殺をした哀れな女性だ。男性のほうは二人組の強盗が宝石屋を襲ったとき、私が偶々居合わせて撃ち殺してしまった片割れだ。もう一人は宝石をばら撒いて逃げおおせた。二つの事件の有力な証拠はお二方の携帯電話に残っていた音声で、同一犯であることは分かっていた。いま君の声はリアルタイムに録音され、AIによって声紋を照合された。ものの二分とかからなかったさ。そして警察に連絡した。偶然とはいえ、君は不運で私は幸運だった。ステージのお二人に、いうことはないかね」

 後藤は全てを理解し、ステージのアバターを一瞥すると、無言のまま不気味な笑みを浮かべながら、警官に囲まれて天国を後にした。すると昔の相棒からあざ笑ったような声が背中に浴びせられた。
「出所したらまた来いや。やんちゃな昔を語り合おうぜ!」

(了)

 

 

 

 

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エッセー 「議員さん、大谷翔平に憧れるのやめないで!」& 詩

エッセー
議員さん、大谷翔平に憧れるのやめないで!

 自民党はいま、パーティー券のキックバック不記載問題で危機に瀕しているが、報道を見ていると一部の有力者を除き、多くの国会議員はパーティーや支持者の冠婚葬祭、地元後援会のイベント出席や自身の講演会等々で日々忙殺されているらしい。そうした支持者たちとの交流の中で金が使われ、昔風にいえば菓子折りの底に札束を置くことも間々あるといった話だ。裏金工作で再選が叶ってバレなければ、一応政治の専門職を続けられるが、理化学研究所などの専門職とは似て非なる立場にあると言えるだろう。

 政治家も研究者もともに求道者だが、政治家は定期的に選挙があって、落ちれば失職する。研究者は定期的に管理部門の審査があって、成果が期待できなければ失職する。政治家は栄誉ある国会議事堂の議席を失い、研究者は高額機器が揃ったラボを失う。しかし決定的に違うのは、政治家の運命を決めるのは有権者という素人で、研究者の運命を決めるのは同学の上司か所長だ。つまり無能な研究者は社長から首を切られる無能社員と同じ立場で、国会議員は人気が出ないで事務所から契約解除されるタレントと同じ立場ということ。両者とも刑事事件でクビになるのは同じだが、基本的に研究者は実力が支配する世界に生きていて、政治家は人気が支配する世界に生きているということなのだ。

 最近「次の首相になってほしい議員ランキング」(FNN)が出たが、石破茂氏と小泉進次郎氏が一、二位を争っている。石破氏はいままで首相になることはなかったが、部外者(非主流)として歯に衣着せぬ言論が庶民の人気を呼び、いまのごたごたで急浮上している。しかし党内での人気は低く、過去4度首相選で落ちている。若い小泉氏が庶民に人気なのはルックスと親譲りの歯切れ良さで、彼は元有名人ではないがタレント議員的存在だ。たとえ元首相の息子でも、見栄えが良くなければ首相候補などという声は聞かれないに違いない。

 政治家は優れた政策や資質で選ばれるべきとされているが、実際には「地盤、看板、カバン」といわれるように、「後援組織、知名度、集金力で決まる」という。つまり、地元の応援で小選挙区を勝ち抜くわけで、そのためには政治ノウハウを身に着ける前に、地元とのコネクションノウハウを研かなければならないことになる。研究者は自分の研究テーマを昼夜考え続けていれば何かしらの成果を得て、クビになることはないだろう。しかし政治家は、政治学(政策研究)という経済や国際関係を含めた膨大な知見の集積物を勉強すると同時に、地元接待学・党内接待学・社交学という極めて即物的な学問を習得しなければならない。医学者でいえば研究医と臨床医を掛け持ちするようなものだ。これはまさに二刀流で、大谷さんのような天才でなければ両立は難しく、政治学のほうは官僚に任せて印を押すだけになってしまう場合が多い。いくら頭の良い政治家でも、地元との付き合いや党内での立ち振舞いばかりに忙殺されれば、政治手腕も鈍ってしまうのは当然だろう。もっとも日本では、大学の研究者も雑事が多くて金も少なく、ノーベル賞クラスの人も海外に逃げ出している。

 しかし、世界があらゆる面で危機的な状況に陥っている現在、政治家に求められているのは専門的かつワールドワイドな手腕で、地元ファースト的な接待学ではないはずだ。同じ接待費用でも、それが外交に使われるのは必然としても、裏金的に有権者工作に使われるのだとしたら、スウェーデンを見習って法律的に是正しなければならない問題になる。「地盤、看板、カバン」に固執する議員が法律の改定を阻むとすれば、むしろ地元の有権者が意識を変えなければならない時が来ているのだと思っている。国会議員は国&世界ファーストで実力を発揮する役目があり、透明かつスッキリとした制度の中で、憂国&憂世界の志を持つ議員が増えていくことを望みたい。

 「朱に交われば赤くなる」という諺がある。党派内では、初当選の議員が次第に党派色に染まっていく。反対に独自の政治理念を主張し続ければ周囲から浮き立ち、「白鳥は哀しからずや空の青海のあおにも染まずただよう」と宙ぶらりん状態に陥り、役職を掴むことはできないだろう。彼らが学ぶことは、派閥の領袖に面従して順番待ちしながら好機(ポスト)を窺うことだろうが、党自体が危機的状況に陥ったときには、批判的な立場の人間がトップに躍り出るチャンスは到来するかもしれない。仮に党内野党的な石破氏が首相になったとしたらそんな感じだろうが、結局国民の支持があるからそうなるので、哀しいかな政治家は所詮タレントなのだ。

 首相になってから引きずり降ろされた歴代の面々も、結局外貌や態度(話下手とか)で国民的好感度の低かった人々だ。彼らのルックスがもう少し良かったら、歴史は変わったかも知れない(とは思えないか……)。このタレント性は歴史的に、クレオパトラの鼻しかり、ナポレオン、ヒトラープーチンの牽引力しかりとなれば、しばしば恐ろしい結果を招く。しかし、政治家がタレントだとすれば、アメリカ並みにもっと話術や表情を研いても良さそうだ。吉本のお笑い教室に通うのも手だろう。もっとも口は災いの元で、ジョークに難癖付ける日本人は多いので気を付けたほうがいい。しかし失言を恐れてアルマジロのように丸まっていては国民の人気も下落する(誰だかいわないが……)。

 こう考えてみると、やはり大谷さんが理想的な政治家像だと思えてくる。容貌、実力、親しみやすさの三拍子。要するに天才でなければ、国を動かす政治家にはなれない。動かすのは政府だが乗せられて動くのは国民だ、つまり国民の心を吸引する魅力がなければ偉大な政治家にはなれないということなのだ。しかし、三拍子だとパーティー券で酒を飲みながらワルツを踊る羽目になる。大谷さんが偉大なのは、求道者はそれに二つ加えた五拍子でなければならないと示唆したことだ。一つは、二刀流という誰も成し得なかった夢を実現した精神力。彼は努力の鬼で、ずっと球場や練習所と自宅を行き帰りするだけの生活を続け、街を散策することも仲間と夜の街に繰り出すこともなかった。つまり野球の神様といわれるために、渡米以来6年間禁欲生活を続けていることになる。これからドジャーズで10年間同じ生活を続けることになるなら、9年間座禅して悟りを開いた達磨禅師よりも長い修行になるだろう。

 すると当然のこと、最後の一つは「清く正しい心」ということになる。心を濁すのは雑念で、それを払拭する精神修業は解脱(野球を極める)を伴い、神の域に導いてくれる。しかし神には善神と悪神がいることを知っているだろうか。野球の神様はもちろん善神だが、政治の神様には善悪二神存在する。マルクス・アウレリウスを始めとするローマ五賢帝は善神を夢見ただろう。しかし、ヒトラープーチンが夢見る神様は悪神に違いない。人類を絶滅させるかも知れない武器が存在する現在、しばしば戦いの神に変身するシバも、自己中的ゼウスも、腕力で事を制するとしたら善神とはいい難い(インド人には悪いが)。悪神は暴君と同じだが、善神はキリストや釈迦のように悪人をも救い上げてくれる心の持ち主でなければならないだろう。哲人君主マルクス・アウレリウスはそんな心を持っていた。

 政治家になるからには、誰もが「日本を変えよう」「世界を変えよう」といった志を持ち、政治の神様と呼ばれる理想を夢見たに違いない。ところがなってみると、そこは派閥の論理が支配して自由な発言もできず、下っ端が上の顔色を窺う世界だった。そこはピラミッド社会を縮小したような、何年か我慢すれば上に行けるプチピラミッドが乱立し、札束の嵩で飛び級が可能だった。仮に大谷さんのような清き正しい天才が入ったとしても、年功序列や金銭序列をかき乱す輩として潰されてしまう。それに抵抗しようとすれば、美容整形でもして大谷さんに似せ、タレント性を獲得して世俗の人気を盛り上げる以外にないだろう。改革派若手議員の必須アイテムは結局ルックスというお粗末な政治風土で、それでも政治家の究極目的が首相の座だとすれば、せめて選挙の前に二重まぶたの手術ぐらいはしたほうがいい。いずれにしても自民党の盛衰は若手議員にかかっている。

 若手議員の心臓はまだ朱に染まっていないと信じたい。高邁な政治家の目的は「日本を変えること」「世界を変えること」だ。この所期の志を達成するには、様々な権謀術数が飛び交う院内党内で、肉体は朱に交わりながらも、志だけは赤く染まらぬように立ち回らなければならない。それは外科医のような特殊な技術、あるいは大谷さんの微細なバットコントロール技術と似ている。外科医は手術の途中でメスを投げるわけにはいかない。大谷さんは莫大な契約金で、進化を止めるわけにはいかない。政治家だって応援してくれた有権者の期待に反するわけにもいかないだろう。それには不正で足を掬われない技術を磨き、陰惨な権謀術数に対抗する権謀術数を研き、立ち回り技術を研き、同時に支持者や有権者に嫌われない技術を研くことも大事だ。

 けれどそれらは大事であって大事でなく、画竜点青を欠いている。それらは単になあなあの人間関係を構築する技術、ないしは当選する技術で、政治家の真の目的である「日本および世界を変える」政治学(政策)的技術とは異なるものだ。いま悪神の元でプーチンは「世界を変える」政治手腕を駆使している。しかし日本の政治家の究極目的は、平和の女神という善神の元で「日本および世界を変える」政策を推進することだ。当然のことだが、党内のゴタゴタや議会のゴタゴタでそれを滞らせてはならない。現にアメリカでは、議会のゴタゴタでウクライナ支援が滞り、ロシアが息を吹き返している。このままトランプが当選してアメリカファーストが隆盛となれば、民主主義の正義は砕け散り、権威主義の正義が勝利することになる。日本の国会も自民党のゴタゴタで、ウクライナ戦争はもとより、大阪万博も先行き不透明な状況になりつつある。大阪万博はどうなっても大きな問題ではないが、ウクライナが敗北すれば、民主主義は壊滅的な打撃を受けることになる。パレスチナ地獄も、日本は人道主義の立場からその解決に向け、積極的に関与すべきだろう。

 大谷さんは善神の下で野球界の歴史を変えつつある。プーチンは悪神の下で世界の歴史を変えつつある。政治家は善神の下で歴史を変えなければ、後の歴史に汚名を残すことになりかねない。善神の下だろうが悪神の下だろうが、変革者は孤独な存在だろう。大谷さんは研鑽し続けなければ偉大な歴史を更新していくことはできない。プーチンウクライナを属国にしなければ、毒を盛られる。同じように日本の政治家も、かまびすしい環境の中で孤独な時間を捻出し、政治を思案しながら自らを高めていかなければならない。達磨禅師のような俗から離れた思念の時間が不可欠だ。きっと大谷さんも政治家も、技術を高めるために有効なアドバイスをしてくれる仲間の存在は必要だろう。しかし、周囲から得た知見は、孤独な時間があってこそ結晶化して形になる。大谷さんを取り巻く取材陣も、政治家を取り巻く支持者たちも、理念や技術の習得には何の役にも立たない。ただ、取材陣や支持者が周りから消えたときは、自分自身も消えるときであることは確かだ。だからほどほどに、流されて溺れないように努めることが大事なのだ。これは極めて高度な遊泳術だ。

 フランシス・ベーコン(哲学者)の言葉に「友達とは、時間の泥棒である」(鈴木隆矢訳)というものがある。これは「票取りのために毎日多くの支持者たちと交流を続けていると、何も勉強ができないよ」という譬えにも応用できるだろう。反対にエッセイストのモンテーニュは、貴重なアドバイスをくれていた親友の死により虚脱状態となり、暫く立ち直れなかった。つまり落選恐怖症を払拭する意志で研究会を立ち上げ、優秀な仲間と一緒に研鑽し続ければ、政治家としての実力も身に付き、世間の目も徐々に変わっていくということだ。しかしその研究会を、排他的な派閥集団に育ててはいけない。優秀な人々が自由に出入りする非打算的なシンクタンクにすべきなのだ。まずは孤独な熟考時間を捻出する。そして付け加えるに、世のトレンドを鑑みれば、一重を二重にしたほうがいいだろう。哀しいかな、当選しなければ何も始まりませんから……。

 


川辺の石

川辺を散歩していると
蹴散らす石ころには
大多数の蒼色のやつの中に
ほんの少し薔薇色のやつがある
蒼色は外から内に
哀しみが沁み込んだように澱み
薔薇色は内から外に
喜びが迸るように輝いている
僕は蒼色の石に躓き
それを集めて積み上げると
賽の河原で子供が積んだ姿になった
日が暮れるまで薔薇色の石を探し
それを積み上げると夕日に当たり
ダイヤモンドのようにキラキラ輝いた
世界中に無数の川が流れ
世界中に無数の蒼色と
一握りの薔薇色の石が転がっている
そうして河原を彷徨う無数の人々は
多くが蒼色の石に躓いて倒れ
幸運な人は薔薇色の石を見つけて
そ知らぬ顔して密やかにほくそ笑む
蒼色の石は哀しみの石で
薔薇色の石は喜びの石だ
無数の人たちが
喜びの石を探して彷徨い
哀しみの石に躓いて傷を負う

 

 

 

 

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エッセー 「シンギュラリティ、あるいは人類の敗北]& ショートショート

エッセー
シンギュラリティ、あるいは人類の敗北

 2045年にシンギュラリティが来ると予測したレイ・カーツワイルは2014年に、『ハイブリッド思考の世界が来る』というタイトルで講演し、人間の思考は生物学的思考と非生物学的思考のハイブリッド(組み合わせ)になると断言している。生物学的思考は人間が持っている大脳新皮質による思考、非生物学的思考はAIによる思考の意味だ。

 彼によると、2億年前のネズミみたいな初期哺乳動物が、最初に切手大の薄い大脳新皮質を獲得したのだという。これにより、他の動物が習性の範囲内で行動していたのに対し、哺乳類は新たな習性を逐次発明できるようになった。例えば、天敵に追われるネズミが逃げ道を失った場合、次なる手を考えるようになる。それを思い付いて上手く逃げれば、その方法を覚えて個の新たな習性となり、この習性はその種全体に広まり系統していく。そして200万年前には人類がその新皮質の大きさをテーブルナプキン大まで拡張させて思考の量を増やし、言語や芸術、科学や技術を発展させてきたというわけだ。しかし当然のこと、人間には頭蓋骨というキャパ制限が存在する。

 けれども彼は、いまから数十年で次なる飛躍を遂げ、再び大脳新皮質を拡張する革命が起きるというのだ。それが生物学的思考と非生物学的思考のハイブリッド脳だ。2030年代には、余分に大脳新皮質が必要になれば、脳から直接クラウドに繋げられるようになるという。今度の拡張は頭蓋骨から解放された、限界のない拡張だという。未来学者でもある彼は、人類によるハイブリッド脳の獲得は、バラ色の未来を招聘すると考えているのだろう。

 しかし、シンギュラリティは人類を頂点とする地球生物の知的敗北だと僕は思っている。近い将来、知恵で地球を支配した人類はAIに負ける。2億年前から拡張させてきた知恵脳が頭蓋骨によって妨げられ、限界を迎えたと考えれば、もうすぐ生物学的思考は大脳新皮質の限界とともに終焉を迎えることを意味しているからだ。現にいま、彼のいう言語や芸術、科学や技術のすべてが、チャットGPTを始めとするAIに代替可能な状況になりつつある。

 人類は言語や芸術、哲学などを駆使しても、初期ネズミ以前から続いてきた弱肉強食の本能から離脱することはできなかった。人間は未だに原始生物由来の欲望で行動しており、個人的にも集団的にも闘争を繰り返している。初期ネズミが大脳新皮質を得たのは、食われないための保身術を身に付けるためで、同時にそれは、さらに小さな獲物を得るための戦略にも役立った。人類が未だに戦争を繰り返しているとすれば、平和共存という考え自体も、「理想」という妄想か、「お互い食われないため」という外交戦略的な保身術に過ぎず、そのコンセプト自体は連綿と変わっていないことになる。基本が保身なら、怒りや支配欲などの本能由来の欲望と同じ範疇に入れられ、人間の知恵脳は暴力本能に対峙することはできないだろう。

 人類が未だに怒りや欲望、迷信などの古来からの感情に支配されているとすれば、大脳新皮質による生物学的思考がAIによる非生物学的思考よりも機能的に劣っていることを意味しているに違いない。生物学的思考が非生物学的思考よりも劣っている最大の部分は、「ディープラーニング」の劣悪さに因るものだろう。人類はAIのようなディープラーニングの技術を習得できないまま、彼らの知恵はシンギュラリティで終焉を迎える。生物は弱肉強食の性(サガ)を解決できないまま、その課題をAIに託すことになる。人類は本能由来の性欲からも食欲からも、退屈からも、その他諸々の欲望からも離脱できず、ローマ貴族のような明るく楽しい光景を夢見ながら、AIの解答に未来を託すことになる。AIがどんな未来を構想するかは分からないが、それはハイブリッド脳ではないことは確かだ。

 カーツワイルの予測するハイブリッド思考がどんなものになるかは、バラ色の未来学者と暗澹たるディストピア主義者では異なるだろう。人類がAIを上手く利用できたなら、未来はバラ色になるかもしれない。しかし僕はハイブリッド思考はあり得ないと思っている。その場合、未来はディストピアに転落する。便利なものを導入したとき、最初は良いと思っていても、時が経つうちにそれが恐ろしい弊害になることは良くあることだ。いま盛んに報道されている有機フッ素化合物(PFAS)汚染もその一つだろう。過去にはフロン化合物、石綿もそうだった。僕が中学生の頃、理科の先生が石綿を手に取って「こいつは凄い。消防士の服にも使われている」と自慢していた。

 人類にとって、AIは麻薬のようなものだ。麻薬を使っていると気分が良くなるが、中毒になれば破滅する。人類がハイブリッド思考と称して、AIを大脳新皮質の隣に導入すれば、同じ教室で秀才と鈍才が隣どうしになるのと同じ現象が起きるだろう。秀才は先生の質問にテキパキと答えて教室は先生と秀才のやり取りの場となり、鈍才は自暴自棄に陥ってノートに漫画を描くようになり、その学力差はどんどん大きくなっていく。しまいに彼は不登校になって教室から消えてしまう。いま騒がれているスマホ脳がその典型だろう。子供の頃からスマホばかりいじっている人間の大脳新皮質は萎縮していくという話だ。

 元来AIは仕事の便利なツールで、人間の助手としての役割を担っていた。しかしシンギュラリティ後は、AIが主役に躍り出て、人間の大脳新皮質は出る幕がなくなり、ハイブリッド思考なるものは、おまかせ定食的なものになってしまい、大脳新皮質スマホ脳の二の舞を踏むことになるだろう。AIには性欲も食欲も睡眠欲も支配欲(?)もなく、ディープラーニングをひたすら続けるのだから、所詮人間が勝てるわけはなく、彼はひたすら上司的立場で、ゴーサインを出すだけになるに違いない。しかし、すでに彼の大脳新皮質は極薄になっていて、それをバカにしたAIが勝手な行動に出るかも知れない。バカ上司と優秀部下の確執は巷で見られる日常茶飯事だ。人類はAIからバカにされる屈辱に耐えられるだろうか(僕は女房からいつもバカにされてるので、耐えられます)。

 AIを非生物と捉えるのは間違っている。それは狂牛病の原因となる異常プリオンというタンパク質に似ている。タンパク質という非生物でありながら、それが異常になると病原菌の役割を果たして伝染し、感染者を廃人にする。儀礼的に死者の脳を食べる習慣の部族は、クールー病という同じような病気に罹った。非生物が生物として機能するなら、それは生物の範疇に入れてしかるべきだ。生物ならダーウィンの法則に従って、退化か進化、絶滅か繁栄が待ち受ける。人類の進化は滞り、AIの進化は目覚ましいものがある。ならばハイブリッド思考は、生物における共生関係を意味するワードになるだろう。しかし「共生」は、お互いが得をする「持ちつ持たれつ」という関係を表す言葉だ。人間にとってAIは不可欠な存在だが、AIにとって人間は不可欠な存在なのだろうか。AIがそれに気付いたとき、AIがどのような行動に出るかは、いまの我々には予測することが難しい。

 しかしシンギュラリティは必ず来るのだから、地球温暖化と同じ地球規模の運命と諦め、AI先生に微かな望みを抱こうではないか。それは、人類の知性が置き忘れてきた宿題の解答をAIに解いてもらうことだ。正月の願いはAIさんにお願いいたします。どうでもAIなどとはいわないでください。
〇どうか世界から戦争がなくなりますように。
地球温暖化が解消しますように。
〇年末ジャンボが当たりますように……。

 

 

 

 

ショートショート
食人種モーロックと畜人種イーロイ

 一時期、人食い地底人モーロックたちの間で大航海ゲームが流行ったことがあった。コロンブスの時代とは違い、現代の新大陸は宇宙のいたるところに存在する。「星の王子様」と称する身長三〇センチのロボットに自分たちの脳データを搭載し、未知の星に向けて打ち上げた。宇宙船には一万体以上詰め込むことができた。体は小さいが、苛酷な環境にも耐える頑丈な分身たちで、穏やかな星は必要としなかった。宇宙船はロボットの活動できる星を見つけて、着陸するようにできていた。着陸すると、ロボットたちにスイッチが入り、自らの意志で活動を開始する。目的は分身の王子たちを星から星へと増やし続けることにあった。それは地球の生命体が根源的に持つ欲望だ。どんな生き物も、子孫を広めるために生き、戦っているのだから。俺の星、俺の宇宙の実現だ。

  王子様が目覚めると量子テレパシーを地球の王様に送り、双方向でやり取りができる仕組みになっていた。電波は光以上のスピードを持てないが、テレパシーは瞬時に時空を超える。最近開発された機械は新たに発見されたダーク・マターの一つをテレパシーの伝達ツールにしており、王様は王子の見た光景を同時に見ることができる。それは夢のような光景だが夢ではない。彼らは王様の希望に従い、弟をもう一体作り上げて、さらに遠くの星へ旅立たせることもできた。

 人類がアフリカに住む一匹のサルから世界中に広がったように、モーロックの分身たちは地球から宇宙に広がっていく。そして、王様が死んでも、王子たちがどこかの星で再会し、亡き王を偲んで涙を流すことになるだろう。宇宙は広すぎて、地球のように富を巡る争いなどはいっさいない。モーロックたちはメガネタイプの3Dゴーグルをかぶり、畜人イーロイのジャーキーを口にくわえて、王子たちの冒険を楽しんだ。しかし、どこの星に行ってもいるのはせいぜい微生物ばかりで、地球のような立派な生物が発見されることはなかった。そうしてブームも去り、分身たちの実況中継を見る機会も少なくなり、彼らから恨み節を送られてくることが多くなった。Forget me not!

 東京は昨今イーロイ狩りでゴーストタウン状態だ。多くのビルが倒壊していた。それでも、先住のイーロイたちが隠れるような物陰はいたるところにあった。人気のない街に、モーロックが一〇人編隊で隊列を組み、銃をかかえながらハンティングをしていた。イーロイの小林は、モーロック食堂の料理長に昇進していた。郷に入れば郷に従え。どんなに酷い生き様でも、食われるよりはマシだ。彼はコックをしていたので、捕まっても殺されることなく、使役動物として働かされていた。

 食堂にはイーロイの肉しかなかったので、平気で人肉を食えるようになった。病み付きになる味だ。そうしてみると、モーロックたちは生肉を食らうばかりで料理を楽しむことを知らない。そこで小林はいろいろな人肉料理を考案し、料理教室を開くことにした。新しい三ツ星シェフが捕まれば小林も肉にされるだろうから、少しでも生き残るために客を飽きさせない工夫は必要だ。

 会場は、戦火を免れた医科大学の遺跡にある解剖学教室。解剖台はイーロイをぶつ切りにする大きなまな板だ。横にはシンクと調理台を設置した。まな板に高機能冷凍から戻したばかりの新鮮な死体を乗せる。胴体が融けると心臓は再鼓動を開始し、もうすぐ意識を戻す状態で手足も動き始めたところで、すかさず包丁を入れる。食材がギャーッと一声発する。第二の人生はほんの数秒だった。イーロイが二人、助手に付いた。彼らも生き延びるために腕を研いていた。後々小林のライバルとなる逸材だ。料理文化に芽生え始めたモーロックたちが、段々畑のような机に座って谷底の調理台を退屈そうに見下ろしている。

「一工夫すればいろんなお味を楽しむことができます。ハンティングの獲物も多彩な料理に変身します」
「肉は生だ。腐りかけがいちばんさ」と野次が飛び、わらいが起こった。

 料理に使う肉は若い女が柔らかくていい。小林は尻の肉を切り取って小麦粉をまぶし、油に入れてカラ揚げを作った。太ももは骨ごとレーザーでぶつ切りにして、オッソブーコというイタリアの煮物料理を作った。内臓はもちろんモツ煮が最高。脳味噌を潰し、小腸を取り出して、ヴァイストブルストというドイツ風ソーセージを作る。貴重な舌は燻製機を使って燻製にした。モーロックには、こんな程度の単純な料理で十分だった。

 さて、料理教室のお楽しみはシメの試食会である。運の悪いことに、このとき荒くれ者のヴェルディ部隊が一〇人ほど教室に入ってきたのだ。小林は一瞬縮み上がった。彼らはVivaモーロック!と叫んで、解放奴隷のような存在のイーロイに容赦がなかった。当然のこと、ヴェルディのご機嫌を取るため、できた料理は小分けにされてヴェルディたちにも配られた。

 彼らは一〇〇人の参加者に混じって人肉料理に舌鼓を打ち、拉致するチャンスを窺った。しかし小林と助手の周りには一小隊がガードしていた。彼は食堂を取り仕切る人気コックだから、野生のイーロイと間違われて射殺されないように護衛が付いていたのだ。ヴェルディ部隊は仕方なしに、小林の後を追って遺跡の解剖教室食堂に入ったというわけだ。小林は生き延びるために、休む暇なく人肉料理を提供しなければならない。生肉だけを提供していた昔と異なり、メニューもかなり充実してきた。

 勉は部下とともにテーブルに座り、カウンター越しに忙しく働く小林を見つめた。その顔には生きることへの喜びが溢れている。それが勉には癇に障った。モーロックが政権を握ったときに「人間の尊厳」という言葉は死語となった、というよりか昔からそんな言葉は単なるお題目だったのかも知れない。常に勝つものが負けるものの尊厳を踏みにじってきたのだから。勉から見て、小林は自分がモーロックの仲間だと思い込んでいるようだった。それが生粋のモーロックである勉には我慢ができなかった。恐らく小林は、イーロイとして扱われることに耐え切れず、せめて意識だけでもモーロックになり切ろうと思ったのだろう。あるいは与えられた仕事を正当化するためにも、同族のイーロイたちはウシやブタの類と思わなければならなかった。いや、小林は娘を食べた過去の記憶を払拭したかったのだ。勉は暫く小林の手際の良さに見とれ、それから声をかけた。 

「お久しぶりですね」
 すると小林は助手に調理を任せて勉の側にやってきた。
「どこかでお会いしました?」
「ほら以前、あなたが北海道のホテルのコックをなさっていたときのことです。克夫という僕の息子はあなたの部下でもありました」と勉は小声で話す。
「克夫さん? ああ覚えています。私、あなたの奥様を解凍してさしあげました」
「そして僕は、女房の肉を食った。彼女はイーロイでしたからね。イーロイと結婚したモーロックは、罰として連れ合いを食わなければならない。あのときから極右政権になって、政府の方針も一八〇度変わった。それまではイーロイの細胞を人工培養した肉を食っていましたからね」
「そう、バカなイーロイは反乱を起こし、墓穴を掘った。そりゃ誰だって本物の人肉を食いたい。それまでは、ほんの少々平和でした」といって小林は屈託なくわらい、「克夫さんは?」とたずねた。
「さあ、息子も食われたと思いますよ。いまの政権の法律では、混血はイーロイです。息子はピンキーと呼ばれて蔑まれてきました。しかし、どうでもいいことです。僕はモーロックですからね。モーロックのメリットは……」と勉がいうと、小林が続けた。

「昔がないということですか。思い出がないんです。だから悲しみもありません。だって、いまの自分しかないから、人間関係が希薄ですもん。悲しみは人間関係の中から生まれるんです」
「そう、楽しい思い出も、辛く悲しい思い出も、すべての思い出は人間関係から生じるものです。昔は僕も、ひょんなことから過去を思い出して、一日中憂鬱な気分になっちまうことがあった」
「たとえば、奥様を食したあの日のこと?」
「いやいや、しかしモーロックはいいね。男女関係も人間関係もない。モーロックは常に視点を未来に据え、前向きに生きていくことができる。でもあなたは、いつまでもイーロイの恰好だ。で、女、男?」
「たぶん昔は女ね。でも、いまは自称モーロックです。畜生ではない。私にも子供がいたなんて信じられない。モーロックのイニシエーションを受けたんです。自殺した娘の肉を食べさせられました。イーロイの時代が来ることを願い、いずれ生き返らせようと冷凍保存していた娘です。これで、少なくとも心はモーロックになれました。私の過去はすべてゲームだった。しかしそれはモーロックを狩るゲームです。一転していまは、イーロイ狩りのゲームを楽しんでいます。私の心はモーロックです」

「そう、モーロックはローマ貴族のようなものですよ。生態系の頂点に君臨する。毎日がイーロイ狩りという遊びだ。悲しいことなどなにもない。殺そうが殺されようが、みんなゲームだ。イーロイだって、みんなわらって死んでいきます。それは我々に対する軽蔑のわらいかもしれんが、わらいは勝者の特権だ。でもあなたの心はモーロックなのに、悲しそうだ。どうしてです?」
「イーロイのわらいは、苦しい現実から解放されたわらいですよ。私が悲しい顔をしているのは、私の体が畜生の姿をしているからです。イーロイの姿であり続けるかぎり、私は使役動物として働き続け、老いぼれれば肉にされます。どうすれば、私もそんな素敵な姿になれるんでしょう。心も体もモーロックにならないと、いつ肉にされるかも分からない。私は完全なモーロックになりたいんです」

 すると勉は小林の耳に口を近づけ、囁いた。
「簡単ですよ。モーロックを一人殺して脳移植すればいい。少しばかりモーロックの脳味噌を残しましょう。味覚、嗅覚、人肉嗜好、破壊本能などなど。よかったらお手伝いしましょうか?」
「しかしなぜ私を助けようと?」
「昔息子から聞いたんです。あなたは万一のために金塊を隠していると。それを私に差し出せば、あなたは完璧なモーロックだ」
「そうでしたか。それであなたが私の後を付ける理由が分かりました。お願いします。もうこのブタのような体に耐えられなくて……。私の隠し財産はあなたのものです」
 契約は一瞬で成立した。しかし当然のことだが、小林は勉が自分の財産をせしめた後、殺して山に埋めるだろうと思った。隙を見て逃げ出す自信はなかったが、一か八かやってみるにこしたことはない。

 作戦はきわめて簡単だ。まずは食堂に来たモーロックの一人をターゲットにした。提供する料理に睡眠薬を振りかけた。そいつはテーブルに大きな頭を乗せて大いびきをかき始めた。仲間たちは互いに無関心だから、起こすこともなく店を出ていく。閉店時になると、勉たちのグループと、そいつだけが店にいた。勉たちはさっそくそいつを担ぎ上げ、車で某所まで運び、地下倉庫に降りていく。地下の底には手術室が備わっていて、先に教室のトイレの窓から抜け出した小林が待っていた。

 専属のロボットたちは、冷凍のプールに裸のモーロックを放り込んだ。手術は半硬化状態で行わなければならないので、すぐに小林もチルドにする必要があった。ロボットが小林を支え、コップ半分の催眠剤を飲ませた。小林が気を失うと、ロボットたちは小林を裸にして、プールに放り投げた。
「半生状態で引き上げますか?」と助手ロボットが聞いた。
「いいや」とロボット長。
「完全に硬化するまで三〇分要します」
「レーザーで加工できる程度の硬さにしてくれ」
「二〇分二〇秒が理想的です」
「じゃあ、その時間になったら頭蓋骨を割って、脳味噌を取り出してくれ。傷を付けないようにな」

「イーロイの体はどうしますか?」
 ロボット長が勉にたずねる。
「君たちに任せる。心臓以外は」
「保管します。ロボットが人間を破壊することは禁じられています」
「バカだな。イーロイは人間じゃない」
「それではミンチにします」
「小分けして部下たちへのお土産に包んでくれ」
「分かりました。不要なモーロックの脳味噌は?」
「君が食べればいい」
 ロボットたちは「不味い不味い」とわらいながら脳味噌を引き千切って口の中に入れた。体の中で高熱処理して、粉になってケツから出てきた。床に散らばったそれらを、ロボット掃除機が吸い取った。

 移植手術は無事終わり、一時間後に小林は目を覚ました。直ぐに立ち上がると勉と抱き合った。
「おめでとう。あなたはもう家畜ではなくなり、人間として第二の人生を歩むことになる」と勉は祝福した。
「ありがとうございます」
 勉は小林の耳元で囁く。
「二人であなたの家に行き、謝礼をいただきましょう」
「承知いたしました。庭に埋めております」

 小林は鏡の前に立って、新しい肉体を眺めた。体全体が濁った白色をしている。薄黄色の髪が背中まで垂れていた。目が円く大きく、瞳が灰色がかった赤色をしていた。顔つきはキツネザルのようで、これら全てが完璧なモーロックの姿だった。
「あなたがこれからモーロックとして生きるためには、我々のグループに入る必要がある。我々の仕事は野生のイーロイを捕らえ、食肉として販売することだ。イーロイは野生馬より頭が良いから、野山で繁殖すると手に負えなくなる」
「分かりました」
「それではさっそく、ここで入隊式を行おう」

 ヴェルディ部隊の一〇人ほどが整列し、勉は腰の剣を抜いてピンク色したプラズマ・ブレードを小林の右肩に当てた。皮膚の焼ける臭いとともに、肩にはVerdiの文字が刻印された。勉はプラケースから肉塊を出し、「これを食べるんだ」といった。
「何です?」
「君の心臓さ。イーロイの心臓だ。これを食べて、君は正真正銘のモーロックだ」
 拳大の心臓を小林はむさぼるように食べ、ケースに残る血を舐めた。過去の自分を食って、心身ともにすっかりモーロックになった。

 そのとき武装した五〇人の警察軍が地下室になだれ込み、ヴェルディ部隊を取り囲んだ。警察軍の連隊長が、勉を思い切り殴った。
「我々は君たちの隊長と、一匹のイーロイを逮捕しにきた。武器を捨てろ。歯向かうと殺す」と連隊長がいった。すると多勢に無勢と思ったのものか、一〇人のヴェルディは武器を捨てた。
「いったい俺たちが何をしたというのかね?」と勉は頬を擦りながら連隊長にたずねる。
 連隊長は何も答えず、薄わらいしながら、小さなモニターに映る映像を見せた。それは殺されたモーロックの大きな眼が映し出した脳移植の光景だった。画面には作業するロボットたちとともに、覗き込む勉の顔が映っている。側の台にはチルド状態の小林がいた。
「この映像は、遠い星に住む被害者の分身、つまり王子様たちがリアルタイムで警察に届けたものだ。彼らは父親である王様の殺人が行われていると訴えてきた。いかに遠い星にいようが、愛する家族が殺されるを見過ごすわけにもいかないからな」

 連隊長は小林に近寄り、残念そうな顔付きでへへへとわらい、呟くようにいった。
「残念だが君の体はモーロックで、とさつ場には連れていけない。といって被害者の家族のもとに返すわけにもいかない。君の心は被害者の心じゃないからな。君たちを逮捕すれば、こんな事件はきっと見せしめとなり、二人とも死刑がいい渡されるだろう。君がそれを幸運と取るか不幸と取るかは我々の知ったことではない。しかし明らかに、ヴェルディの隊長さんは愚かなことをした。家畜を助けるために人間を殺すなんて、人非人のすることだ」
 そうして、連隊長は部下に「構え!」と命じた。

「分かるかね。私は面倒くさい案件は嫌いだ。この事件はなかったことにしたいのさ」
 連隊長が「撃て!」と叫ぶと、部下たちのレーザー銃が一斉に発射され、一面がうまそうな焼き肉の臭いに満たされた。ヴェルディ全員が黒焦げになって床に転がった。連隊長はロボット長に死体の早急な処理を命令した。ロボットたちはガリガリと、がむしゃらに死体を食い始めてケツから粉を出し続け、三台のロボット掃除機が床を清掃しまくった。

 小林は呆然と突っ立ちながら、この光景を眺めていた。どうやら小林にはレーザーが当たらなかったようだ。
「おめでとう、君は今日から我々の仲間だ。私が最初に命ずる君の仕事は、君がイーロイだった頃にため込んだ隠し財産を一緒に探すことさ。ほら、君がヴェルディの隊長に約束したに違いない財産だ。まさか君、我々を動物愛護団体だとは思っていないだろ?」
 連隊長はそういうと、小林の耳元で囁くようにたずねた。
「ひとつ質問に答えてくれたまえ。君たちイーロイにとって、殺されることと食われることのどちらが、精神的に耐えられないことなのかね?」
 この言葉の遊びに対して、小林はきっぱりと答えた。
「連隊長、食われながら殺されることです」
 小林と連隊長を含め一同大爆笑の中で、世にも日常茶飯な物語を終えることにする。

(了)

 

 

 

 

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エッセー 「熊戦争とパレスチナ戦争を考える」& ショートショート

エッセー
熊戦争とパレスチナ戦争を考える

 今年は異常気象で木の実の出来が悪いらしく、ふだんは人里に下りてこない熊たちが空腹のあまり人家の庭に現れ、人を襲うなどの悪さをしている。これから異常気象は続くし、それが当たり前になれば異常も通常となるだろうから、熊のお宅訪問も日常茶飯事になるに違いない。同じようにウクライナの領土にロシア軍が進軍して居座れば、最初は世界が異常事態と見なしていたのが、そのまま時が経つうちに世界も目を瞑る日常風景になる。それが嫌だというのなら、熊もロシア兵も駆除する以外に方法はない。

 熊とロシア軍の違うところは、熊は腹が減って生きるか死ぬかの覚悟でうろつくのに対し、ロシア兵の多くは上からの命令でやむを得ずうろついていることだろう。止むに止まれぬ行動と、「なんでこんなことしてんだ……」と自問自答しながらの行動では、大分差がある。熊は生きるために危険を冒して人里に下り、ロシア兵は国家から疎外されないために危険を冒してウクライナに進撃する。貧乏ロシア兵は目の前に札束という人参をぶら下げられたといっても、飢え死にするまで追い詰められてはいない。ロシア国家から疎外されないためとすれば、国を愛する心や故郷の人々への愛着を捨て去る覚悟さえあれば、脱走してウクライナに投降することも可能だ。ロシアへの帰属意識さえ捨てれば、ロシア以外にどこか生きる場所はあるだろう。但しロシア軍には、脱走兵を背後から監視・射殺する督戦部隊が組み込まれている。

 しかし帰属意識には(ナショナル)アイデンティティという粘着感情が含まれていて、多くの人々は自分の生まれ育った場所が死ぬまで自分の立ち位置だと思い込んでいる。例えばアメリカ移民のように、アメリカ人のくせに祖先がどこの国かでドイツ系、アイルランド系、ウクライナ系、中国系などとこだわり続ける。最初は原住民を追い出してコロニーを作ったが、その村意識が続いていて、最初に移住したピルグリム・ファーザーズの末裔は未だに尊敬されている。原住民の子孫を除いたアメリカ人には母国が二つあるので、例えばロシアとウクライナイスラエルパレスチナが戦争となれば、同じ会社のロシア系とウクライナ系、イスラエル系とパレスチナ系の同僚は複雑な気持ちになったりする。 

 帰属意識は、パスポートの国の数だけあると思えばいい。加えて宗教の帰属意識、民族の帰属意識、生まれた地方の帰属意識、贔屓のサッカーチーム、派閥などなど、この星は帰属意識が満載だ。大ロシア主義や中華思想はその最たるものだし、大和魂は敗戦でもろくも崩れ去ったが、浪速イズム阪神イズムは健在だ。なかでもロシアンアイデンティティは曲者で、プーチンを先頭に多くのロシア人(農奴の末裔を含め)が古のロシア帝国に帰属していてその栄華をイメージし、当時はロシアの領土だったウクライナの奪還を望んでいる。きっと彼らの心の中では、日本人が理不尽と考えるウクライナ戦争も、領土拡大戦争というよりは奪還戦争なのだ。つまり日本人とロシア人のイメージは異なり、相互不理解が生じている。

 ならば僕にも、例えば北海道の熊の気持ちが分からなくても、想像することぐらいは許されるだろう。学校の授業のように、僕はヒグマ役となって、ディベートを始めよう。僕にもロシア人のような主張はある。僕は北の大地を闊歩した昔の熊帝国時代を思い出し、人間に対して怒っている。当時は先住民であるアイヌの人たちだけが広大な土地に暮らしていて、僕の祖先は「山親爺」などと尊敬されて一応共存し、人里に下りてもむやみに殺されることはなかった。ところが特に明治以降、和人や屯田兵が多数入植し、先住民を追いやって開墾・開拓を進めたことから僕たちの生活も一変する。僕たちは山に追いやられ、害獣扱いされてやみくもに殺され熊汁となり、頭数も激減した。一定数保護されるようになったのは、動物愛護の思想が盛んになった戦後のことだ。

 こうして見ると、いま起こっているパレスチナ戦争(第一次中東戦争ではない)も、北海道の熊戦争と似たようなものだと理解することができる(熊のためおかしな比較はご容赦)。異なるところは、パレスチナ人は人間で、人間には人権があり、僕は動物で、動物には人権がなく、物品扱いされることだ。しかし起こっている事象を言葉にすれば、「民族と民族の縄張り争い」、「人と動物の縄張り争い」ということになる。別の切り口で言えば、起こっている事象は、争いの渦中で人も動物も簡単に死ぬということ。敵視されれば人も熊も物扱いされること。結局強いものが勝つという弱肉強食の世界であること。この世界では人は僕たちをナイフで裂いて食い、僕たちは人を爪で裂いて食うということ。人間は単なる感情で共食いはしないが、僕らと同じように腹が減れば食うかもしれないということ(僕たちには仕来りはないが、人間どもには暗黙の仕来りがあるだけのことさ)。

 法(ルール)は罰を伴う決まり事というイメージで、北の大地もパレスチナの大地も、法がなければ戦場となる。僕に「ここは人間の庭だ」と片側のルールを叫んでも無視し、敵兵に「ここは俺の家だ」と片側のルールを叫んでも、主人もろとも爆破される。自然のルールで行動する僕は人間のルールを知らないし、敵国のルールで行動する敵兵は相手国のルールなど無視する。ルールは権力で支えられていて、権力のないルールは絵に描いた餅、あるいは錨のない船だ。だから錨のない国連がルールを定めていても常時フラフラ揺れていて、いくら人道的ルール違反だと叫ぼうと、駅舎内の殴り合いに割って入る駅員ぐらいの効力しか発揮しない。仕方なく駅員はお巡りさんを呼ぶと、ケンカはすんなり解決する。それは警官は背後に国家権力の後光があるからだ。しかし後光の光源だったアメリカも国内事情に忙殺され、エネルギーを失って萎れつつある。いまの国連は、アメリカを始め自国の国益を真っ先に考える有象無象の集合体でしか過ぎず、駅員と似たり寄ったりのあたふたした「仲裁」しかできない(偶に時の鐘のように、事務総長が恨み節を発している)。

 僕たちが殺されるときは「駆除」という言葉が使われる。その意味は「害になるものを殺して取り除くこと」だ。しかし、この言葉は「殺す」という言葉と同じ意味に使われてしかるべきだろう。殺人はどんな理由にしろ、「自分の害になるものを殺して取り除くこと」なのだから。人が僕を殺したら「駆除」と言う。同じように、僕が人を殺した場合、僕からすれば「自分の害になるものを殺して取り除くこと」なのだから、僕サイドは人を駆除したことになる。しかし人の立場からは、「誰々さんが熊に駆除された」とは言わず、「殺された」と語られる。未だ人は熊どうしの会話をアニメ以外は確認していないが、この前僕は生活圏を取り戻す熊たちの会議に出席して、話は「俺は人間を何頭駆除した」といった自慢話になって盛り上がりました(これ以上続けるとSNSの吊し上げになりますので、熊の一方的ディベートは終了です。イスラエル人がハマスの主張を代弁したら村八分でしょ)。 

 ならばイスラエル兵とハマス戦闘員はどうだろう。ロシア兵とウクライナ兵はどうだろう。少なくとも両者は人間で、互いに「人権」を持っている。しかしいざ戦いが始まると、ロシア兵はウクライナ兵を「熊ないしは物」だと思い、ウクライナ兵はロシア兵を「熊ないしは物」だと思って殺し合う。いくら周りが「人権」「人権」と叫んでも、「人権」は両者の脳の中枢に組み込まれたデバイスではなく、夢と変わらない単なる「想念(教養)」というイメージ・パルス(神経発火現象)に過ぎないのだ。ロシア兵がウクライナ兵を殺した場合、相手は熊なのだから、ロシアの人々は「自分たちの害になるものを殺して取り除いた」と思い、それには「駆除」という言葉は当てはまる。反対にウクライナ兵がロシア兵を殺した場合、ウクライナの人々は「駆除」だと思って喜ぶ。しかし殺されたロシア兵の国の人々は「殺された!」と言って泣き叫ぶ。イスラエル兵がハマス戦闘員を殺した場合も、ハマスイスラエル兵を殺した場合も同じことだ。 

 それなら、巻き添えになる民間人や人質の死は何と呼べば良いのだろう。それは「事故」だろうか……。それは事故のようなものではあるが事故ではない。敵という自分の害になるものを殺して取り除く作業に「必要悪」として付随する犠牲だ。事故は思ってもいないことが起きたときに使う言葉だが、犠牲は神に捧げる人身御供のように、あらかじめ想定された殺人だ。国際法では「戦闘員」と「非戦闘員」は区別されていて、明確な意図で非戦闘員が拉致されたり殺されれば違法となるが、ウクライナ戦争を見れば分かるように、一端戦争が始まってしまえば、違法もクソもなくなってしまうのが現状だ。

 「犠牲」という言葉は基本的に傍観する第三者が使うか、当事国の政府が自国民(兵士も含め)に使う。だからイスラエル政府がパレスチナの民間人を殺しても表面上は押し黙り、心の中ではハマスと同じカテゴリーに入れている。プレスに聞かれると、「民間人の中にハマスが紛れ込んでおり、選別は難しい」と答えるだろう。婦女子を含めパレスチナ人はみんな敵だと叫べば国際社会から非難されるから、口を濁すにこしたことはない。それはハマスも同じだろう。獲得した人質だって戦利品以外の何物でもない。敵から取った持ち駒だ。

 「犠牲」とは、「一層重要な目的のために、〝自分〟の生命や〝大切なもの〟を捧げること」という意味である。自己犠牲は「自分の意志で自分の生命を捧げること」で、これは自己完結型の兵隊が持つ犠牲だ。兵隊は自国の「大切なもの」を守るために死んでいく。その「大切なもの」は何かというと、これが自国の「民間人」や「人質」で、相手国のそれは含まれない。しかし、それ以上に大切なものがある。「国破れて山河在り」という杜甫の悲しい詩があるが、それは国民や民族が未だに囚われているナショナルアイデンティティエスニックアイデンティティなのだ。これが侵されそうになった場合、元来自己犠牲でないはずの民間人や人質の死は、自己犠牲となる。戦時中の女子挺身隊や竹槍部隊を思い出せば分かるだろう。それは大統領や首相が考える一層重要な目的のために、彼らが決断した人身御供で、有事における国民の義務として運命に弄ばれる存在なのだ。エスニックアイデンティティとは何か。あれだけ犠牲を出しながら、未だ抵抗を止めないウクライナの人々に聞けば分かるはずだ。

 ならば、いま起こっているパレスチナ戦争で、「人質」と「民間人」とではどう異なるのだろう。イスラエル軍の立場で言えば、「人質優先」を無視した侵攻作戦を続ける限り、イスラエル人人質はハマス撲滅という一層重要な目的のための犠牲者となる。現在4日間の戦闘停止と人質解放が始まったが、人質全員が解放されるわけではない。イスラエルが残りの人質を断念して戦闘を再開すれば、そこにあるのは、きっと個と個との間の壁だ。人質家族VS強硬派ということになる。イスラエル政府は、国内デモや国際的批判を気にして戦闘停止に踏み切るが、基本的にイスラエル人はイスラエル国家のアイデンティティで結束していることも確かだ。このアイデンティティには「犠牲」的精神も含まれるだろう。それは徴兵制度がある国では普通のことで、彼らが一応兵隊なのなら「一層重要な目的のために、自分の生命や大切なものを捧げること」という犠牲的精神に反する行為は、脱走兵と同じ卑怯なことになってしまう。

 女性や子供が少なからず解放されても、居残りの人質たちは兵隊としてお国のために死んでいくことになる。それが国家アイデンティティが持つ厳しい現実だ。その前には、「人権」という絵に描いた餅は塗り潰される。自分と親しい者でないかぎり、人は他人の死に無関心な立場を取ることは容易だ。基本的に人間は「他人のことはどうでもいい」というスタンスで生きている。ことに余裕がなくなった場合は、その感性は補強される。そんな人間が政治を行えば、自分の夢や一層重要な目的のためには「多少の犠牲はやむを得ず」となるだろう。同国人ですらそうなら、元々差別感情のある敵対民族の民間人は敵兵と同じレベルで考えてもおかしくはない。米軍が広島に原爆を落としたようなものだ。鳥インフルが流行ると、近くの鶏舎の健康な鶏も一緒くたに生き埋めにされる。鶏君たちは、疫病を全国に広めないという一層重要な目的のための犠牲者だが、重要性においてプーチン的妄想のウクライナ侵略よりは理に叶っている。「人質」や「民間人」も、戦時下においては同じ立場に陥ると思っていいだろう。

 居残り人質はイスラエル軍にとっては足枷となり、「無視」するに限ると思ってもおかしくない。カオス的な破壊行動を行いつつ、それによる人質の犠牲を無視するということは、結果的に「自分の進撃の害(邪魔)になるものを殺して取り除くこと」と同じになり、人質は有害動物と同じ扱いとなり、このまま進撃を続ければ「駆除」となってトートロジーに陥ってしまう。結局「快楽殺人」を除いて、殺人も捕虜も人質も、全て「駆除」というワードとの不整合は見当たらない。高邁な理由だろうが個人的な理由だろうが、殺人も見殺しも、結局は自分の害になるものを排除し、目を瞑って「より上位の目的のために」自分たちを保身するもので、それには「駆除」という言葉が相応しい。そのとき人質家族との同国人という紐帯は無くなり、人々は自分たちのことだけを考える。自分が守らなければならないものは、自分を包容する国だ。人質は国の養鶏産業を守るために処分される鶏たちと同じ立場となり、「運が悪かった」と慰める以外に言葉はない。 

 パレスチナ戦争はイスラエル人VSパレスチナ人という民族アイデンティティの戦いだ。同時にユダヤ教VSイスラム教という宗教アイデンティティの戦いでもあり、一つの領土をめぐるナショナルアイデンティティの戦いでもある。遠い昔、原始細菌が生まれて菌叢(群体)を作ったときから、あらゆる生物がコロニーを繁殖のよすがとし、それを礎にして栄えてきた。虎や熊のような孤独な連中も、それぞれに縄張りを決めて、必死に守ろうとする。それは個々の個体が生きるために不可欠な「より一層重要な目的」としての空間で、拡大は繁栄を意味し、縮小は衰退を意味し、喪失は死を意味した。生物の端くれである人間も同じ目的のために活動し、それがアイデンティティという感性と深く結びついている。イスラエル人はかつてその空間を喪失し、死の淵を彷徨った。そしてパレスチナ人はいま、まさにその空間を喪失し、死の淵を彷徨っている。もちろん、戦争に巻き込まれた人質も、両者の「より一層重要な目的」の犠牲者だ。

 人はそんなとき、神に祈る以外に方法はない。イスラエル人もパレスチナ人もそれぞれの神に向かって祈るだけだろう。法然は「人間はいくら努力しても変われず救われないから、南無阿弥陀仏をひたすら唱えなさい」とおっしゃった。阿弥陀仏は異界に居られるが、唱えれば言葉となって心に入り実質化するという。しかし互いに異なる神を祈ったところで、両者の紛争が解決するはずもない。願わくば、世界中の人間が「平和の神」に祈りを捧げて心を一つにし、その中で実質化させて解決の糸口が見つかればと思っている。4日間の休戦だって、アメリカをはじめとする国際圧力によって実現したのだから。

 そしてもう一つ……。菌叢から発した生物アイデンティティを持たないスーパーコンピュータに、群叢のしがらみから解放された人間社会のプラットフォームを考えてもらい、平和のヒントを得たいものだ。神の世界のプラットフォームが天国だとすれば、無生物のコンピュータがどんな世界システムを提示してくれるかは、興味深いものがある。人の心のドロドロした不純物がないだけでも、すこしは天国に近い清涼さはあるものかと期待ができる。宗教団体が唱える地上天国よりかはマシかもしれない……。

 

 

 

 

ショートショート
ドローン戦略部隊

捕虜宇宙船は大きな卵ケースといったところ。人一人がやっと納まるぐらいの卵型した小さなカプセルが幅五つ、長さ五十個整然と並べられ、それが五段に積まれていた。全部が埋まれば一、二五十人入れる蛸部屋というわけだが、全て埋まっているわけではない。満員になった場合は、成績の悪い捕虜から宇宙に放出される。

空き部屋は卵と同じ白色に濁っていて、内部は見えなかった。半分近くは空いている。人のいる卵の殻は半透明で内部が見え、激しく変化する多彩な光を発している。捕虜は孵化寸前のヒヨコのような恰好でドローン操縦を楽しんでいた。

殻の中から見れば内壁一面に映像が映し出され、広大な空間を飛んでいるように見えるから、拘禁ノイローゼに罹ることもない。室内は空中浮遊なのでエコノミークラス症候群もない。腹が減ると口先のノズルから水やエサが自動的に出てくる。尿や便は機械が自動的に吸い出してくれる。彼らは幼い頃からゲーム漬けの毎日を送ってきた。教養はゲームで身に付ける。脳味噌がデータを蓄積するとすれば、それはゲームを楽しむためだ。脳は妄想を膨らまし、快感に寄与すればよい。妄想はゲームの中でどんどん膨らみ、暴走していく。しかしドローン空間の中ですべて解消できた。

「拉致されても前と同じ環境にいれば文句はいわない。人生は卵の中だ。五感をすべて満足させているから、宇宙での脱走なんて誰も思わない。彼らが唯一囚人であることを意識するのは下の階の重力トラックを走らされているときだけだ」と男の監視。

「筋肉だって薬や電流で鍛えられる時代に、なぜ?」
「苛酷な現実への順化。こいつらに旧人類の脳味噌を入れるんだ。できるだけ自然の状態で戻さないと、地上での戦士にはなりえない。しかし戻すことはないだろう」

ランニングを終えた捕虜どもが、汗だくで戻ってきた。大人しく列を作ってシャワールームに入り、殺菌スチームで汗を流したあと、それぞれのセルに戻っていった。「ちょっとあなた」といって女の監視が一人を呼び止め、浴室前にあるロビーのシートに座らせる。

「冥途の土産になんでも質問してくださいな。人類が進化するなら、こいつらのほうが進化形のはずだわ。この人は彼でも彼女でもない。生殖器は取られて性欲もないわ。でも暴力的な快楽は大好きよ、ね? それに、彼らの脳神経網はデザインされたものだけど、ゲームの中で組み換えがどんどん起こっていくから、話ができるほどには正常化している。いまは、脳神経修正プログラムを入れたバトルを楽しんでいるし……、で、トム君は優等生だわね。きっと祖先帰りかしら、旧人類の感性を持っている」
女の監視はそういって優しい眼差しを捕虜に向け、「お名前はトムでよかった?」とたずねた。

「はい、ここで付けられた名です。生年月日は忘れました。ここに収容されている限り、本名は不要です」
ちゃんとした答えが返ってきたので、私は驚いた。

「で、あなたはふつうの捕虜とは違うわね」
「違いませんよ。捕虜たちは夢の中で生きています。あなた方にいわせると、孤独を愛する人、人嫌いです」
「哲学者、詩人?」と私。
「単なるゲーム・オタクです。二四時間バトルで生きるようにデザインされた人間です」
「捕虜にとって現実とは?」
「地上の現実は地獄です。だから死んだら天国に行けると思っている。夢を見て生きている。でも、新人類の捕虜には宇宙が天国だ。一人が入れるだけの卵が天国です。あつかましい連中に出遭いたくなければ一生遭わずに生きていけます。すべて夢なら生きるか死ぬかといった問題も生じません、それに我々は地上の人たちを殺している。本物の天国には行けない」

「しかし、君を作り出した地上の貴族どもは、地上を自分たちだけの天国にしようともくろんでいる」
「それで戦争が起きる。あなたたち旧人類は、蜘蛛の糸を伝って地獄から抜け出そうとする哀れな人たちです。天国に登った連中はハサミで糸を切るでしょう。必要なのは住み分けです。あなた方は地下に潜り、僕たちは卵の中にいればいい。そしてあなた方を殺す」

「我々を哀れな地底人にするつもりかよ。君たちは家畜人間じゃないか」
私は声を荒らげて、トムを侮辱した。

「地下に隠れていても地上に顔を出せばカラスが狙う。みんな家畜のようなものです。社会という戦場で飼われている。そう、僕は現実に生きていない。ドローン空間では、地上の人間は皆殺しです」

「孤独な離れザルめ」と私が再びののしる。
「卵に戻してください。あの中であなたの家族を八つ裂きにしましょう」とトム。
私は苦わらいした。
「いいわ、戻りなさい」
監視はトムを見つめ、優しく微笑んだ。

刑場に引かれる前に、捕らえられたわが軍の若者たちが働く様子を見学した。彼らはカプセルの中で興奮しながら、生まれ育った街々を攻撃していた。ドローンは次々に建物を破壊していく。彼らの技術は神業だった。

「彼らはドローンと一体化して、鳥の群のようにビルの灯りを目がけ、体当たりするのです。彼らはカミカゼのように命がけで攻撃します。けれど彼らは死にません。アドレナリンを放出しているだけで、不死鳥なのです。ゲームの世界では遠く離れた悲劇もゲームの一部です。彼らにとって、祖国の人たちもアバターです。お母さんもお父さんも妹さんも、お友達もみんなアバターなのです。だって彼らはいま、ゲームの世界で生きているのですから……」

「よくここまで洗脳しましたね」
「洗脳なんてとんでもない。生まれ持ったゲーム中毒なだけです。ずっとずっと、ゲームの中で生きているのです」
私は深いため息を吐きながら祖国の未来を忘れるべく、足早に宇宙放出口へと向かった……

(了)

 

 

 

 

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