詩人の部屋 響月光

響月光の詩と小説を紹介します。

エッセー 「モナ・リザ、永遠の性愛」& 詩

エッセー
モナ・リザ、永遠の性愛
~包み込む愛と溶け合う愛~

 若い頃、一度だけルーブル美術館モナ・リザを観る機会に恵まれた。74年に日本に来たときは、テレビニュースで見学者の長蛇の列を見て、どうせじっくり観ることはできないだろうと最初から諦めてしまった。その数年後に本場ルーブルに行ったときは、人だかりはできていたが慎ましく、近寄ることも禁止されていなかったので、77×53cmという小さな作品でも十分堪能することはできたはずだ。それなのに、そのときの印象をまったく覚えていない。天才ダ・ヴィンチが生涯手元から離さず、死ぬまで加筆していたわけを知るには、恐らく当時の僕は若すぎた。あるいは僕の性格が、感激症でないことも災いしていただろう。しかしいまになって、ダ・ヴィンチさんに大変申し訳なく反省し、謝意を込めてもう一度リザ夫人に面会したいと思うようになってきたが、今度は諸般の事情で渡航費を捻出できなくなってしまった。もっとも、いまは3m以内に近寄れないそうだから、老眼の僕にとっては、行ってもきめ細かな美肌(ひび割れながらも)を味わうことは不可能だ。どうやら、浴室にこの絵を飾っていたフランソワ1世や寝室に飾ったナポレオン、さらには学芸員、警備員以外の方々は、じっくり鑑賞できない運命に陥ってしまったようだ。

 僕が昔フラフラとモナ・リザに逢いに行ったのは、当時発刊したTBSブリタニカ百科事典の記述を読んで感銘を受けたからだ。かつて娼婦の肖像画とも公妃の肖像画ともされていたという女性像が内包する対極性に興味を持った。
「~彼は、絶妙の写実技法を駆使しながら、特定の婦人像をこえた女性そのものの本体に迫ったのである。女性一身のなかにとけている肉体の官能性と魂の品位とをぎりぎりのところで均衡させながら、そのことによってかえって最高に魅力のある女性像の典型を築いたのである。つまり、特定の婦人をモデルにしながら、その個別性やさらに一回的な偶然性を取払って、あらゆる性向を包蔵する女性それ自体を具象化したのである。それは、おそるべき普遍的人格像の誕生であった~」(久保尋二筆)

 「普遍的人格像」とは何だろう。僕はその意味が分からず、下賤な話だが若気の至りで、これはあのマリリン・モンローのように、ルネサンス時代に生きた男たちのセックスシンボルなのではないかと思ってしまったのである。セックスシンボルと言えば聞こえは悪いが、憧れのアイドルということだ。例えば少し前の日本でも、女性の自立が難しかった時代、彼女等の間では「白馬の騎士」という言葉が盛んに交わされていた。恐らく当時はイケメンで逞しく、地位と金がある男が女性にとっての 「普遍的人格(男性)像」だった。一方男性の場合、ドゥルシネア姫はドン・キホーテの「普遍的人格(女性)像」、マリリン・モンローはあの時代のアメリカ人男性の「普遍的女性像」だったかも知れない。しかし、ドゥルシネア姫とマリリン・モンローでは、その魅力はまったく違うものだ。ドゥルシネア姫はドン・キホーテの想像上の姫君で、近寄ることもはばかるイデア界に生きる高貴な女性だ。仮に近所の田舎娘をそう思い込んでも、それは特異な神経の彼が勘違いしただけの話である。一方、マリリン・モンローの場合は、男たちは彼女とベッドを共にしたときの性的快楽を夢想して憧れる。同じ「普遍的女性像」でも、その意味はまったく異なるということだ。

 ダ・ヴィンチフィレンツェで活躍していた時代、そこでは新プラトン主義が隆盛で、彼もメディチ家が主催するプラトン・アカデミーで多くのプラトン主義者と交流した。その一人に美のイデアを愛するプラトニック・ラブ(肉欲を離れた精神的な恋愛)というワードを創案した人文主義者もいた。その典型的な例が、ダンテがベアトリーチェに抱いた愛だろう。また、ゲーテは『若きウェルテルの悩み』で、シャルロッテという人妻を登場させたが、彼女も多分にプラトニック的な女性だ。しかしゲーテは『ファウスト』で、主人公を神的な存在であるトロイのヘレナと結婚させ、子供を産ませている。それが示しているのは、恋愛は所詮支配欲から出るもので、プラトニック・ラブは純粋に精神的な支配を求め、通常の恋愛は精神と肉体両方の支配を求めているということだ。ファウストはヘレナの精神と肉体を両取りしたことになるが、通常の恋愛感情はその混合比も様々なハイブリッド製品だと思えばいいだろう。

 ならばプラトニックな精神的支配とは何だろう。赤ん坊は常に母親を精神的に支配しようと望んでいる。母親の愛を全面的に受けようとするから、双子の場合は競争する。これはプラトニック・ラブでも同じことだ。ウェルテルはシャルロッテの肉体ではなく、精神(心)を欲したが、望みを叶えられずに自殺した。彼は、彼女が子供たちにお菓子を配る姿を見て、その子供の一人になりたいと望んだ。その姿に、マリア様的な慈愛を感じたのだ。しかし子供みたいな我儘さでさらにその上を望んだとき、アルベルトという彼女の夫が双子の兄のように立ちはだかった。プラトニック・ラブは異常な恋愛感情だと言う人もいるが、僕はその源は母性愛を赤ん坊の側から見た愛、つまり母と子の間に芽生える愛だと思っている。その対象となる異性は男でも女でも、母的なものだし神的なものでもあるに違いない。神が信者のもとに降り立つということは、彼が神の子として神様の慈愛に包まれると同時に、彼が子として神様を手中に収めることを意味しているのだ。地球生命体の活動の基本が欲望である限り、たとえ相手が神様でも、すべての愛は欲望のアレゴリーと言えるだろう。

 ダ・ヴィンチは私生児として生まれ、幼い頃に母親と生き別れしている。彼は母親の愛を独占できる貴重な時期を逸してしまった。しかし彼は、左利きという右脳メリットを生かして、数多くのマリア像を手中に収めた。キリスト教徒にとって、マリア様は永遠の母性だ。彼は幼少時に獲得できなかった母親の愛を、たぐい稀なイメージングで、イデアの世界から引きずり下ろし、マリア像に投射させた。だから彼のマリア像は、空想の世界からしか得られない清らかな処女性で満たされている。

 それではモナ・リザはどうだろう。彼女はマリア様とは似て非なる下界の女性だ。しかし、ダ・ヴィンチはかつて生き別れした母親を慕っていた以上に、この作品に執着している。モデルはフィレンツェの裕福な商人の妻(リザ夫人)とされているが、諸説あって定かではない。普通、その商人から依頼されたのなら、代金と引き換えに手渡すはずだが、相当愛着があったらしく、死ぬまで手元に置き、彼の獲得した技法をフルに使いながら加筆していた。つまり、モナ・リザは未完の作品なのだ、ということは、彼のライフワークだったと言ってもいいだろう。

 この作品はモデルを始め、様々な謎を秘めていると言われるが、その筆頭は、なんといってもあの謎の微笑みだ。鑑賞者は、微かに笑うマスケラ(ペルソナ)の奥にある彼女の心が掴めずに戸惑っている。微笑むからには、何か理由があるだろうとその理由を推測し、それが憶測だけに留まるから謎となる。それは単なる愛想笑いかも知れないし、純粋な喜びの笑いかも知れないし、軽蔑笑いかも知れないし、慈愛の笑いかも知れないし、画家に要求された作り笑いかも知れないし、画家との秘密を匂わせた笑いかも知れないわけだ。なにしろモデルが誰だかも明らかではないのだから、その笑いに秘められた歴史的事実など解明されるはずもないだろう。ならば鑑賞者は、それを単なる微笑みとして軽く流すか、各自勝手な物語を想像して鑑賞のよすがとする以外にないだろう。それで僕は勝手に思い込み、数あるモデル候補の中から、ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの妻イザベッラ・ダラゴーナがモデルだったと決め付けよう。

 この女性は夫の死後、ダ・ヴィンチと密通していたと噂される女性だ。そして同性愛を噂されるダ・ヴィンチは、そのとき始めて女性を知ったとも噂されている。平民のダ・ヴィンチが、王様の寡婦と関係を持つこと自体、リスキーな恋愛だったに違いない。全てが憶測なら、これから書く文章も僕の想像ということになる。赤ん坊にとって母から受ける母性愛は、その後の生涯に記憶として残る愛情の形だ。それは世の中のことを何も知らない赤ん坊が始めて受ける全面的な愛情として、脳裏に刷り込まれるものだ。ダ・ヴィンチは早くからその愛情と離別したため、生涯それをイデアの世界に刷り込むことになった。そしてイデアの世界の母性は、他の者の母性よりも高貴な輝きを放つことになる。

 キリスト教ではマリア信仰というものがあるが、マリアはキリストの母として、誰もが脳裏に刷り込まれている母性愛の象徴的存在として分かりやすく、同時に親しみやすいため、圧倒的な人気を誇っている。そして何よりも、キリストの母として、ステージの最上段に位置する高貴なお方だ。聖母マリアはマドンナという愛称でも呼ばれるが、それは「我が貴婦人」という意味を持っている。さらにミラノのドゥオーモ(大聖堂)はマリア様に献納され、一番高い尖塔の先には小さな金色のマリア像が置かれ、市民にマドネッタ(マリアちゃん)と呼ばれ親しまれている。これらが意味するのは、聖母マリアは畏れ多い存在ではなく、信者とプラトニックな愛情関係で結ばれているということだ。ダ・ヴィンチはそんな高貴で親密なマリア様を難なく作出することに成功したのは、イデアの世界で醸成してきた母性愛をそのままキャンバス(木製パネル)に降ろすことができたからだ。

 しかしモナ・リザは天上の女性ではない。一般的に言われているのは、商人の妻という街の女だ。あの謎の微笑みが原因で、一時期娼婦の像と思われていたのは、たぶん商人の妻を描いたという先入観があったからだろう。しかし僕の想像するようにミラノ公の妻なら、イザベッラは天上から降りてきた女になる。それは同時に、血肉を所持したマドンナということになるだろう。プラトニックなイデアの世界では、憧れる女性は高貴な品格を湛えていなければならない。巷の多くの恋愛でも、その導入は大なり小なり同じような場所にあると言っていいだろう。そして肉体関係を結んだ後、イデアの相手は降臨し、性愛の混じった新たな愛の世界に入っていく。そして間々恋人たちはその新たな愛の領域になかなか入れずに、失望し別れてしまう。巷の愛では、その新たな愛を継続させる大きな要素は相性ということになるだろう。

 ダ・ヴィンチがイザベッラに出会ったとき、彼女は高貴な天上の人だった。それは恐らく、マリア様やドゥルシネア姫と同じようにイデアの世界に住む住人だったに違いない。そして、何らかのきっかけを介して肉体関係が結ばれたとき、イザベッラは天上から降臨してダ・ヴィンチと合体し、童貞だったダ・ヴィンチは母性愛とは異なる別の愛の形態を味わって感動した。ダ・ヴィンチは初めて女を愛することの意味を知ったわけだ。愛には浸潤作用がある。しかし母性愛と性愛ではその形態は異なるだろう。母の愛が子を包み込む愛であるのに対し、性愛は肉体どうしが接合して互いの心が滲出し、溶け合う愛なのだ。イザベッラがどんな心境でダ・ヴィンチと関係を持ったのかは分からないが、彼は深く感動し、その感動を作品に残そうと思ったはずだ。諸般の事情により、二人の関係が長続きすることはありえず、蝉のようにひと夏の思い出となったに違いないが、彼は『モナ・リザ』という小さなイザベッラの肖像画に、生涯でただ一度の性的感動を籠めたのである。ならばあの謎の微笑みは、二人だけの秘密の微笑みでもあるし、ダ・ヴィンチに対するイザベッラの個人的な愛の表現でもあるし、男と女の間に生じる普遍的な性愛の微笑みでもあるし、何よりもダ・ヴィンチ自身の感動の微笑みでもあるわけだ。そしてそれは、彼の肉体がその思い出とともに消失しない限りは、新たな発想を生み出すものに違いなく、彼の死とともに未完の作品となった。ダ・ヴィンチはそうした繊細な心の襞を絵画に込めることのできる芸術の黄金時代に生きた、稀有の天才画家であったわけだ。



ここしかないもの

あの老人が今日も店にやって来て
小一時間ばかしウロウロしていた
店員は一時間経ったことを確かめ
いつものように丁重に話しかける
失礼ですがなにかをお探しですか
老人はいつものように戸惑いつつ
買うものを忘れましたと返答する
店員はにこやかな笑みを浮かべて
いつものように同じ台詞を返した
きっと必要がないからお忘れです
老人はいつものように渋い顔して
ここにしかないものだと主張する
店員は微笑んできっぱり否定した
ここの商品はどこにでもあります
ここしかないものなどありません
そして必要なものなどありません
すべて不必要なものを置いてます
お客様は社会に騙されております
必要なものなど社会にありません
きっと私どもに騙されております
子供の頃から騙されてきたのです
世の中必要なものなどありません
すべてがいらないものだらけです
お客様のここにしかないものとは
大事にされていたご自身の心です
宇宙広しといえど唯一の品物です
それさえあればなにもいりません
またのお越しをお願いいたします
老人はようやく納得した顔になり
二度ほど頷きながら帰っていった
子供みたいに目に涙を浮かべて…

 

 

 

 

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