丘の下に大きなたらいがあった。
恰幅のいい老人が空しい眼差しで
たらいの中を眺めていた
一匹の太ったマグロが
大きな円を描いて泳いでいる
これはかつて私の妻でした
老人はため息を吐きながらつぶやいた
妻はジッとしていられない女でした
動いていないと死んでしまうのです
動けば動くほど
私のお金は減っていくのです
子供の頃からデパートに行くのが好きでした
結婚してからも綺麗なものを買いあさり
帰りはきまって寿司屋でトロを注文です
死んだらマグロになりたいわ
だって、トロが死ぬほど好きなんですもの…
それが妻の口癖でした
あたし、あなたの財産を使い切って死ぬんだから…
これも妻の口癖でした
私の会社は倒産し
ショックでこちらに参りました
妻もあとからマグロ夫人としてやってきた
大好きなトロの簀巻きになって
ずっとずっと泳ぎ続けるのです
私はそれをずっとずっと見続け
元気な妻に、ただただ驚くばかりです
響月 光(きょうげつ こう)
詩人。小熊秀雄の「真実を語るに技術はいらない」、「りっぱとは下手な詩を書くことだ」等の言葉に触発され、詩を書き始める。私的な内容を極力避け、表現や技巧、雰囲気等に囚われない思想のある無骨な詩を追求している。現在、世界平和への願いを込めた詩集『戦争レクイエム』をライフワークとして執筆中。
響月 光のファンタジー小説発売中
「マリリンピッグ」(幻冬舎)
定価(本体一一○○円+税)
電子書籍も発売中
『マリリンピッグ』と武器博覧会
『マリリンピッグ』の中に、武器博覧会の情景が描かれている。太古から現在までの代表的な武器が時系列的に展示されているもので、戦時中ということもあって、特に新兵器の展示ブースには多くの軍関係者やバイヤーが訪れている。これらの武器の性能を誇示するために、主催者側はその武器によって何人殺されたかを数字で明確に表現することを思いついた。
戦争には戦略も大事だが、武器も威力を発揮する。このご時勢、殺された人間が兵隊か民間人かはどうでもよく、人数が多ければそれだけ武器の能力を分かりやすく誇示できると考えたに違いない。医者が手術道具なしに患者を救えないのと同じように、兵隊は武器なしに敵を殺せない。手術道具の性能が良いほど、医者は患者を効率的に救えるし、武器の性能が良いほど、兵隊は敵兵を効率的に殺せる。特に、敵国に勝る兵器を開発した国は、敵国に対して優位な地位に立つことができ、ちょっとした領土を奪うことだって簡単になるのだ。奪われたほうは奪い返したいが、それをやると傷口がもっと広がることは明白で、口先でわめくだけにとどめる。現在でもそんなことがどこかで起きているのだ。
弱小国が核を持ちたがるのも、核大国に対して核の脅威を示すことで、対等に近い立場に立つことができると考えるからだ。したがって大国が核を廃絶しないかぎり、あるいは国内で革命でも起きないかぎり、きっと持ち続けるに違いない。それはいわば単細胞の恐怖のようなものだ。
地球上で最初に生命が誕生したとき、それは丈夫な細胞膜に覆われた単細胞だった。この膜は、外界から自分の身を守る唯一の防護壁だった。それがやがて連繋して多細胞になり、人間へと成長した。人類のマトリューシカを剥いでいくと、民族、国家、利益社会、集団、家族、個人、肝臓、遂には単細胞に行き着くだろう。つまりマトリューシカは防護壁の役割を果たし、最初に作った単細胞の恐怖が進化の途中でもずっと維持されてきたことを示している。リヴァイアサンじゃないけれど、国家は一つの生きた生命体で、常に敵からの攻撃に怯え、強力な核の防護壁を作ろうとするのだ。また、実際に攻撃してくる奴もいるのだから始末に悪い。ことに、「民主主義、民主主義!」とお題目を唱える仲良しクラブから除外されている国のトップは、枕を高くしては眠れない。核武装で外敵を威嚇し、内なる敵は粛清や強制収容所でようやく安心することができるだろう。
そう、この内なる敵は、単細胞が多細胞に進化したときから綿々と続いてきた。仲間の誰かが癌化する恐怖である。細胞レベルの癌細胞はグループまで進化すると、右へ倣えのときに左を向くようになる。するとそいつに同調する奴が一人二人と増えてきて後ろの奴を殴り始め、内部崩壊が始まって遂には革命へと発展する。これは現体制に満足している連中にとっての恐怖だ。国のトップは革命の恐怖に怯え、内なる不満分子をなだめるために、手っ取り早く矛先を外国に向けて圧力外交を始め(民主主義国家の大統領だって選挙のためにやってらっしゃいます)、最悪の場合は侵略戦争に発展する。
武器博覧会では、こうした人類の性のような「恐怖」から解放される新兵器も紹介している。その兵器は四つの拡声器からできていて、心地よい音楽で兵隊を眠らせ、夢を見させるものだ。夢の中に出てくるのは戦争で死んだ恋人や仲間たち。
「いったい彼らはどうして俺から去っていったのだろう……。いったいなんで俺は戦っているのだろう……」
兵隊の心は一つの感情に満たされていく。それは戦争の恐怖から解放される可能性を秘めた唯一の感情である「切なさ」だ。兵隊が恐怖から解放される唯一の方法は、敵を撃ち負かすことだった。しかし倒す瞬間まで恐怖は加速度的に高まり、また新たな敵が現われることによって恐怖も津波のように次々と押し寄せてくる。
ところが「切なさ」という感情の坩堝には、恐怖どころか愛や哲学や人生までもが投げ込まれてかき回され、ドロドロしたヘドロになる。それは人間が分離分析、理解することのできない宇宙的に広がる暗黒物質、いや暗黒物質的恐怖だ。戦場での恐怖によって気の振れた兵士が「武器よさらば!」と叫んで銃を捨て、後ろに走り出すとき、いままでの人生、哲学、キャリア、名誉などすべてを一緒にポイと捨てていく。聖フランチェスコが信仰のために全裸になったような感じだ。兵隊は刑場に向かって走るのではなく、超自然的な力に助けを求めようと走るのだ。彼はようやく理解したのだ。
「人間の行うすべてのことどもは、文明という蜃気楼のような舞台の上での戯事に過ぎない」
戦争も、文明がもたらす戯事だ。金持がどんどん金持になり、貧乏人がどんどん貧乏人になるのも文明がもたらす戯事だ。追い詰められた貧乏人がテロを起こすのもきっと文明がもたらした戯事だろう……。
この拡声器型新兵器を実体験した博覧会の客たちは、「切なさ」で胸を満たされ、一斉に愛の女神マリリンの丘に向かって走り出す。この「切なさ」が、超自然的な力でしか解消できないことを本能的に知っているからだ。超自然的な力が宗教であるとはとんでもない。宗教もまた、文明がもたらす戯事に過ぎないと思う、……なんたって文明にどっぷり浸かった人間たちがやってることですからね。