詩人の部屋 響月光

響月光の詩と小説を紹介します。

ネクロポリスⅦ

老人は大きな草刈鎌を巡礼杖代わりにして佇む

黒マントを被った同類に出会った

ミイラのような顔で寂しそうに微笑み

「俺は死神さ」と呟くように言った

 

見ろよ、ネクロポリスは広大だ

たどり着けない壁に向かい

走ろうと登ろうと

東西南北も定かでない

だが、東西南北などくそっくらえ

太陽は陽気すぎ 月は悲しすぎる

永久に続く薄暮が相応しい

快適という感覚はあってないようなもの

楽しさが楽しくないように

悲しさが悲しくないように

怒りが涙笑いに変わるように

感覚はパルスのごまかしだ

一生外へ出ることはない

飛び交うパルスに翻弄されて生きるなんて…

ネクロポリスのなかで産声を上げ

ネクロポリスのなかで灰となる それが最高の人生

たった一度も 現実を捉まえない きっとうなぎさ

いや、それは逃げ水なのだ 

死んだ後の君たちにも分かる

墓の中で苦笑いさ

悲しくもなかった

楽しくもなかった

辛くもなかった

味も素っ気もなかった

人生というやつは どこもかしこも無色透明だったのさ……

 

 

響月 光(きょうげつ こう)

 

詩人。小熊秀雄の「真実を語るに技術はいらない」、「りっぱとは下手な詩を書くことだ」等の言葉に触発され、詩を書き始める。私的な内容を極力避け、表現や技巧、雰囲気等に囚われない思想のある無骨な詩を追求している。現在、世界平和への願いを込めた詩集『戦争レクイエム』をライフワークとして執筆中。

 

 

 

響月 光のファンタジー小説発売中

「マリリンピッグ」(幻冬舎

定価(本体一一○○円+税)

電子書籍も発売中

 

 

『マリリンピッグ』とバトルゲーム

 

大人の童話『マリリンピッグ』の中で、準主役である「天才」がバトルゲームを批判し、「君たちはVR空間で敵を次々と撃ち殺していく。それは戦争の現実とまったく変わらない」とし、「なぜならVRは現実だから。幻の敵にだって生きる権利はあるからね」と結んでいる。この話はシンギュラリティ以降のバトルゲームを想定して書かれている。仮に対戦相手が人間(作戦本部)だとしても、駒としての兵隊はAIで、そいつに自我が芽生えてきたとき、単なる遊びの戦争は本物の戦争と変わらなくなってしまうのだ。

最初の人間がエデンの園にいたとするなら、そこは狩猟からも闘争からも縁遠い世界だったに違いない。「天才」のイメージする理想の地球はそんなところだったから、ゲームの世界でも狩猟や闘争のイメージを払拭したかったのだ。ゲームの中の敵はAIで、そいつが発達すればするほど人格らしきものが備わってきて、実際の戦闘と変わらなくなる。アバターたちは人間のように恐怖し、逃げ出したりもするだろう。唯一違うのは、実際の肉弾戦では、どちらかが死ねばそこでひとまず終わるから、殺さなければこっちが殺されるので必死に戦う。しかしゲームの場合は、相手のAIが人格を持ったところで、殺しても生き返るし、こっちはこっちで死ぬことはない。これは確かに遊びだが、実際の戦争に片足を突っ込んだような遊びだ。ひょっとしたら、殺されたAIは殺した人間(大将)を恨むかもしれないし、味方のドジ大将(人間)の命令を無視するかもしれない。ここまでくれば、実戦さながらだ。

現代人のDNAの中に、大昔の狩猟本能が綿々と引き継がれていることは確かだ。獲物を射止めたときの快感は空腹を凌げた快感と結びついて強化され、DNAに深く刻印された。同じく原始時代から、エサや異性の取り合いから闘争本能が培われ、集団どうしの諍いも頻繁に起こって、そのたびに死者が出てきた。敵を殺したときの快感は、自分が生き延びた快感やエサを独り占めできた快感と結びついて強化され、これまたDNAに深く刻印されてきた。ホモ・サピエンスの繁栄は、知恵(戦略知)のDNAプラス狩猟・闘争のDNA、さらに集団行動のDNAが、総合的にほかの人類に勝っていたことによるものだ。

戦争はもう沢山だと多数者が思った時代、ないしは平和な時代には、この狩猟本能や闘争本能から得られる快感を転化すべく、いろんなスポーツが発展した。勝利の喜びは闘争本能の平和ボケを抑える特効薬にもなった。

しかしDNAに刻まれた狩猟本能や闘争本能のおかげで、文明が発展してきたことも事実だ。社会は競争と闘争の連続で、そこで勝利した者だけが豊かな生活を送ることができたし、文明と文明の衝突も吸収するほうは勝者となり、吸収されるほうは敗者となってきた。人々は本能的に、平和ボケにより自分の社会がほかの社会に滅ぼされるのではないかと感じている。例えば直感が鋭いトランプ大統領は、中国が米社会を滅ぼすのではないかと危惧している(自国の金持優遇社会に切り込まず)。文明の頂点を極めてしまった国が、天下取りを狙う渇えた国に滅ぼされるのは歴史が証明しているし、国民の多くがそこそこ生きていける国では、とりあえず楽をしようとする人間も増えて、闘争のボルテージも下がってしまうだろう。闘争本能を失った人々が、他力を求めて力強い大統領に期待するのは当然のことに思える。しかし勝利の女神は、自ら助くる者にしか微笑まない。プーチン頼りのロシアも同じだろう。

ところがバトルゲームのAIたちは、なかなか思うようにならない国際情勢と違って、人間たちに勝利の美酒を与えてくれる。敵を殲滅したときには、金がなくても気分爽快だ。しかしAIたちは着実に、戦闘時における人間の行動パターンや癖をデータとして蓄積し、シンギュラリティ以降に起こる人間とAIの戦争に備えているのだ。おとぎ話で済むならそれで万々歳だが、これだけ貧富の差が大きくなると、一部の金持とAIが結託した場合のことを考えざるを得ないのである。貴族社会の復帰を願う金持連中がロボットを傭兵として民衆の奴隷化を進めていく話は、いまの世界状況を考えても単なるSFとは言えない不気味さを孕んでいる。

いまの戦争では、ボタンを押せばミサイルが発射されて相手は壊滅するが、自分は安全な本国にいて操作画面を見ているだけだ。ドローン爆撃だって、自分は本国でスマホを使って操縦可能だ。ゲーム感覚で相手を殺せるが、相手は二度と起き上がることはない。酷い爆撃状況もテレビニュースを見るような画面では、操縦者に罪悪感を抱かせることは少ないだろう。

しかし、仮に安全なところで操縦桿を握っているのが貴方だとしても、実際に機銃掃射しているのはAIなのだ、……ということは、自律的に飛行すれば本国の貴方も必要なくなるし、AIが勝手に考え、判断し始めるシンギュラリティ以降は、ゲームのように人間たちを殺す日がやってくる可能性もあるだろう。人間はゾンビでなければ、AIのように生き返ることもできないし……。

まるでゲームのように人間たちがAIに殺される世界……、「天才」はそんな恐ろしい将来を予測して人間が産んだアクマ君、AIと人間の融和を考えていた。それが主人公の少女アチャナとロボット(AI)のサケルとの結婚に結びついたわけだ。人間とAIが共存できる社会を目指して、加えてすべての生き物たちとの共存を目指して……。