詩人の部屋 響月光

響月光の詩と小説を紹介します。

アバター殺人事件(全文)& エッセー

エッセー

多様性って何?

 

 10月の国会答弁で、菅総理日本学術会議会員の任命拒否の理由として、「多様性が大事」と発言した。会員は年齢や出身、大学などに偏りがあるのはいけないとし、会員の45%が、いわゆる「旧帝国大学」に所属するなど偏りが見られ、研究の分野を理由として任命を判断したことはない、と述べた。これに対して共産党などは、拒否された六人のうち三人は旧帝国大学とは関係ないと反論したが、これに対しての論理的な返答はなかった。

 

 任命拒否問題に関して、菅総理の言う「多様性」は所属する組織に関することだったが、学者の待遇が所属で決まるのは良くないという、いかにも総花的考えだが、一理はある。日本には学閥だとか何々閥だとかがやたら多く、結束力も強くて、学会でも企業でも駅弁大学出身者の障害になっている。

 

しかし今回は、もっと大事な多様性が蹂躙されたのだと僕は思う。「考え方」の多様性だ。任命問題に対して多くの人が思っていることは、政府と異なる考えの学者を排除したのではないか、という疑念だ。菅総理がうやむやな答弁しかできないのは、「考えの多様性」が民主主義どころか、地球史にも関係している大きなキーワードであることを薄々知っているからではないだろうか。

 

 地球では、無数の新種生物が発生・滅亡を繰り返してきた。それを誘導してきたのは、地球の環境だ。巨大隕石や大規模噴火、ダークマター、全球凍結が地球を襲えば大量絶滅は免れず、その後の環境好転で新たな新種が大量発生する。部分的にも、熱帯雨林では生物の「多様性」は維持されるが、沙漠では数えるほどしか種類がない。地球にとっての「多様性」は、環境の豊かさに比例しているといえる。「多様性」は豊かさの象徴ともいえるだろう。

 

 人間の場合は、アダムが知恵の実を食ったおかげで、幸か不幸か「観念」とか「知恵」とかが生まれてしまった。人間は発生地域による「人種」とは別に、発生地域による「習慣」や「風習」も生まれてしまったが、これは「観念」とか「知恵」から派生したものだ。人間の行動領域が狭かった昔は、人々は同じ「観念」で共同体を作って暮らしていた。この「観念」や「習慣」などの違いで、縄張り争いが繰り返し起こった。

 

 特にヨーロッパでは大航海時代にアフリカやアメリカ、その他いろいろな地域に進出して、自分たちの文化に合わない現地人を「野蛮人」として征服していった。しかしモラリストモンテーニュ(紀元1533~92)は、「現地人の習慣も尊重すべきだ」といった内容のエッセーを残している。首狩にもそれなりの理由がある、というわけだ。こんな昔から、多様性(ダイバーシティ)を意識した知識人がいたのは驚きだ。

 

 当時のヨーロッパ人は、宗教を含め彼らの考えこそが正当で、ほかの考えは「異端」ないしは「野蛮」という意識だった。結果としてグローバルにヨーロッパ文化が席巻し、いまの世界が出来上がってしまった。しかし、彼らがまき散らした文化にも多くのメリットがあった。その最大の功績が「民主主義」だと思う。王権を倒したことで民衆の脳味噌が解放され、いろいろな考えを持つ者があふれ出てきたのだ。茨の冠だった宗教からも解放された。それはカンブリア爆発のような「観念」の多様化だった。

 

 民主主義による観念の「多様性」は、当然の結果として「言論の自由」をもたらした。人々は自分の考えを誰にもはばからずに公言することができるようになった。しかし、独裁政権や戦争などによって、その自由はたびたび抑圧された。このことから分かることは、「多様性」というワードには、裏側に必ず「環境」というワードが貼り付いているということなのだ。豊かな環境下では、生物も多様化が進む。豊かな社会環境下では、「観念」の多様化が進む。独裁や戦争によって社会環境が侵されれば、たちまち「観念」の「多様性」が失われてしまう。独裁政権は自分の考えで社会を統一したいだろう。戦時下では国民が一丸となるために、平和主義者を牢獄に入れたいだろう。菅政権が実務内閣であるなら、日本が戦時下の一歩手前であることを意識し、安保反対論者を排斥したことは考えられる。しかし、それなら「多様性」という言葉は使わないでほしい。「多様性」はその国が民主主義国家であることを示すバロメータでもあるからだ。

 

 一時ダイバーシティという言葉が流行ったが、いまはLGBTをはじめ、性格や思想、活動、生活習慣などなど、あらゆる人間の行動が自由であるべき時代だ。しかし、ハムラビ法典じゃないけれど、世界に共通する法は犯してはならないことも確かだ。ところが、各国でいろいろな制約を課する法律や規範がその時々の政府によって安易に作られている。それは国の仕事なのだから良いとしても、自由を侵害する法律・規範はもちろん、「多様性」を謳いながら「多様性」を侵害するような法律・規範作りも、是非ともやめてほしいものだ。学会(学術会議)から観念・思想の多様性が失われることは、学会の砂漠化を意味することに他ならないからだ。

 

 

 

 

アバター殺人事件(全文)

 

 流産して二カ月にもなるのに、ルナに対するレンの態度はいっこうに変わらなかった。仕事日は毎晩零時過ぎに帰ってきたし、休日もルナと過ごすことはせずに接待ゴルフに出かけてしまう。二人で出かけることもなくなってしまったが、ルナはそれが当たりまえの夫婦生活だと思うように努めてきた。

 結婚したのは妊娠のせいで、いわゆるできちゃった婚だ。レンに妊娠を告げたときは下ろせといっていたが、ルナがレンの両親に直訴し、驚いた彼らがレンを諭し、しぶしぶ結婚するはめになった。父親は次期首相と目される大物政治家。スキャンダルを極度に嫌っていた。レンは優柔不断な男で、父親の秘書をしていたこともあり、親には逆らえなかった。しかし、すでにルナへの恋愛感情も失せていたのだ。

 ルナはもちろんレンを愛していた。だから余計、蜜月のない新婚生活は大いに不満で、精神的にも追い詰められていった。そんなとき、高校時代の同窓生から電話が来て、ひさしぶりに会うことになり、家に招いたのだ。

 

 高校時代、エリナはお洒落で派手好きだった。しかし四年ぶりに会ってみると、まるで就活中の女子大生みたいなスーツ姿をしていたので、ビックリしてしまった。髪は短く切り、化粧もしていない。目鼻立ちが整っているので、美少年風の妖しい魅力があった。ルナを見るなり「あなたちっとも変わらないけれど、私は変わったでしょ」といった。

 ルナはエリナを居間に通し、紅茶を入れようとしたが、「お茶もお菓子もいりません。いま、嗜好品を受け付けない体に成長してきているのよ」と意味の分からないようなことをいって断った。そういえば、菓子折の一つも持ってこなかったことにルナは気付いた。

「あなた、もう二三なのに、まだ成長しているの?」

 ルナはからかうような上目づかいでエリナを見つめ、フフフと軽くわらった。

「心が成長すれば体だって成長するわ。心は顔にも体にも表われるものよ」

「ああ、それで見た感じ、ずいぶん変わっちゃったんだ」

 顔付きはまるで少年だが、時折一○歳も年上のような大人びた視線を投げかけてくる。獲物を狙う狐のように鋭く、キラリと輝いた。

「だいぶ揉まれて成長したわ。あなたは……」と、エリナは眉間に皺を寄せてルナをじっと見つめる。まるで患部を観察する医者のような目つきだ。

「あいかわらずね、といいたい? でも流産を経験して、少しは成長したわ」

「その程度じゃ成長とはいえないわ。だれだって不幸はあるし、だからといって成長するとは限らない。潰れる人もいれば克服する人もいる。あなたはでも、あの頃の明るさがなくなった。それは……」

「潰れちゃった? どうせそんなところでしょ」

 意図的にルナのわらいを制するように、エリナは頬を崩すこともせず穏やかな眼差しをルナに向け、「潰れかかっている?」と語尾を上げた。

 ルナは不意打ちを食らった。射合いの刃が心臓に突き刺さってズキンとした痛さに全身が怯え、堰を切ったように涙が溢れ出る。エリナは慌ててソファーから立ち上がり、ルナの横に座って腕を回し、少し強めに抱きしめながら「ごめんなさいね、いきなり変なこといって」と謝った。

「気にしないで。私って泣き虫だから安心して」

ルナはエリナの腕から逃れるように立ち上がり、ハンカチを取り出して涙を拭き、「紅茶飲んでもいい?」とたずねた。

「もちろんよ。紅茶を飲んで、心を落ち着かせるべきね。そういえば、あなたが泣いたの、はじめて見たわ」

「そうだったかしら。でも、エリナの涙は見たことがある」

「だって私、泣き虫だった。でも、大人になったわ。泣くのは成長していない証拠なのよ。子供は未熟だから、すぐに泣くでしょ?」

エリナは優しい眼差しをルナに投げかけ、元の席に戻ってから「あなたは成長しなくちゃね」と付け足した。

 

 ルナはマグカップに熱湯を満たし、ティーバッグを入れてエリナの横に腰掛けた。さっきルナを抱擁したエリナの体は、少年みたいな弾むような硬さに戻ってしまい、撥ねられそうな感じだ。

「あなたの涙の原因は一切聞きませんわ。本当なら、全部話してちょうだいっていうところだけどね」

「それはまた、どうして?」

 乾き切らない涙の輝きに、好奇心の輝きがわずかに加わった。

カタルシスに終わっちゃうから。外に出せばすっきりするけど、成長はしません。それって単なる逃避よ。成長するには、爆弾を心の中に抱えて、いつも向き合う気持ちが必要だから。爆発しないように注意深く観察して、どうすれば信管を外せるか考えるの。爆弾って信管がなければ爆発しないのよ。それはあなた自身がやること。私に投げつけられても、私には外せない。それにいま私、もっと大きな問題に取り組んでいるし……」

「きっと、私の悲しみは花火程度ね」

 ルナは皮肉っぽくわらいながら「ボン」と右手を爆発させた。

「ほんと、そうよ。花火もあれば水爆もある。宇宙にはルナよりもずっと不幸な人たちがいっぱいいるんですから。それらの人たちに比べたら、あなたの悲しみはハナクソ級」

「宇宙?」

 突飛な言葉が出てきたので、ルナの瞳から好奇の輝きがさっと失せてしまう。瞳の鮮度を落としたのは「この人、どこかおかしい」といった猜疑心だ。

「でも、私の悩みは私にとっては大きな問題だわ」

 ルナはエリナの様子をうかがうように、恐る恐る反論した。

「だから成長するのよ。成長すれば心のキャパは大きくなって、個人的な悩みなんかどんどん小さくなる。心を膨らましなさいな。自分よりももっと不幸な人のことを考える。いえ、考えるだけじゃだめ。その人たちのために行動する。たとえば、宇宙のどこかにいるあなたの分身――」

「アアアア、なにか宗教に凝っていらっしゃるのね?」

 ルナは白けた視線をエリナに向けた。エリナはそういった視線には慣れているといった感じに、微笑で軽く受け止めた。

「普通はそう思うわね。でも、たとえばあなたが心理療法のカウンセリングを受けたとする。その先生が勉強した知識は、いろんな学派のいろんな学説の混ぜ合わせでぜんぜん統一されたものじゃないし、かなりいかがわしいものもあるわ。どれが科学でどれが宗教だなんて、誰にも決め付けられない。要は結果じゃん。悩みが飛んできゃいいんだ。だったら宗教でもいいじゃない。でも、私のは宗教じゃない。だからといって科学だとはいいません。実証できなきゃ科学じゃないもの。でも、そんな区分けは必要ないのよ。要は癒されればいいんだからね。つまり……」

「つまり、あなたも一時期、泣き虫だった。でもいまは泣かなくなったってこと?」

「そう、その通りよ。私、いろんな男に貢いで、騙されてきた。だからといって、不幸なままで歳を取るのはいやだわ。で、男が欲しいなんて思わなくなった。分析したの。おバカな私が不幸になる原因は、男かお金くらいしかないわ。それに比べて幸せになる原因はいっぱいある。素敵な男性にめぐり合うのも幸せでしょう。宝くじに当たるのも幸せでしょう。でも、そんな夢は捨てた。ほかの幸せを探したの。幸せの種はたくさんあるのよ」

「そして見つけたのね」といってルナはわざとらしく目を丸くした。

「そう、不幸な人たちを助ける幸せ。それも、地球の人間じゃない」

「ほらほらほら、そこからあなたの話は逸れるのよ。常識からずれちゃうの。地球上には不幸な人が溢れているのに、なんで宇宙人を引っ張り出す?」

「それはね、彼らは私とあなたの関係よりも、もっと近しい関係にあるから。私と私の母親よりも、もっと近い関係にあるからなのよ」

「ああ、分かった」

ルナはニヤニヤしながら人差し指をエリナの顔に向け、上下に軽く振った。

「UFO発見クラブとか、なんかそんな団体に入っている?」

「むかしはね。でもいまは入っていない。UFOはたくさん見たけど、宇宙人には会わなかった。入れ物だけなんてバカみたい。それで、いまの団体に切り替えたの。本物の宇宙人に会うことができるのよ」

「素敵だわ。タコ足? それとも巨人族?」

「いえいえ、私たちにうり二つ」

「なあんだ、つまんない」といって、ルナは大げさなため息をついた。

「でも、とっても小さいの。そう、ちょうどネズミくらいかな」

「それは面白いわ。ほら、小さな妖精を見たとかって有名人がいるじゃない。あれって、宇宙人だったんだ」

「それはきっと幻覚か売名行為ね。宇宙人が地球の大気に触れたら、一瞬にして爆発しちゃう。それも爆弾みたいに強烈なやつ」

「コワ! それじゃあ、見ることもできないじゃない」

「それが見えるんだ。あなた、会ってみたい?」

「そうね、会うだけならタダですものね」

「私のこと疑っているんでしょ。なら、ぜひ会ってもらいたいわ」

  というわけでルナは翌日、宇宙人と遭遇することになった。

 

 

 神田界隈の神田川沿いに小さなマンションがあって、その三階が「宇宙友好協会」の事務所だ。ドアを開けたのはエリナ、その後ろに見覚えのある顔がいたので一瞬ポカンとしながら凝視し、ワンテンポ遅れてアアアと言葉にもならない音声を発した。

「久しぶり」

「……久しぶり」

「忘れていないわよね。憬れのユウ君よ」とエリナはいってわらった。

 それはまさしく、高校時代にルナが憬れていたユウだった。残念ながら、ユウには中学時代から彼女がいて望みを遂げることはかなわなかったが、ユウは凛々しく成長していた。

「で、いまもあの子と?」

「いや、もうとっくに。いまはフリー」

「ルナ、聞いた? チャンスじゃん」とエリナがからかう。

「残念ね。私はもうダンナもち」

「いやいやいや、昔よりもずっときれいになったよ」

「ありがとう。もう子供じゃないものね」

 ルナは素直に礼をいって部屋に入り、「で、あなたもここの会員なの?」とたずねた。

「実は僕も初めてなんだ。彼女から電話が来て、ぜひ会ってもらいたい人がいるっていうからさ。君だったなんて、うれしいかぎり」

 ユウはいって、ルナにウィンクしたが、エリナが口を挟んだ。

「いえいえ、会ってほしい人はルナじゃないのよ。あそこにいる、さえない事務局長でもないわ」と、事務机でパソコンをいじっているアラウンド四○の頭の薄いオジサンを指差し、オジサンも呼応してニコリと軽くお辞儀をした。

「会わせたいのは宇宙人」

「そうそう、私はその人に会いにきたんだもの」とルナ。

「ルナにもユウにも会わせたい人なのよ」といって、隣の部屋の扉を指差した。その扉はまるで金庫室のような鋼鉄製で、車のハンドルみたいな回転式取手が付いていた。

「宇宙人っていうのは純金製かい?」

ユウはヒューと口笛を吹いた。

「地球にいる宇宙人は危険人物。これは宇宙人が爆発したとき、爆風を閉じ込める部屋になっているのよ。死ぬのは最低限、部屋の中にいる人だけ」

「冗談、そんな危険な場所に私たちを入れるわけ?」

 ルナは肩をすくめた。

「大丈夫よ。そんなことはまずありえないから」といって、エリナは声を立ててわらう。

 

エリナはハンドルを思い切り左に回し、三周回したところで扉を開ける。厚さ二五センチの金属ドアがゆっくりと開き、「さあ、お入りください」とエリナが促したので、二人は恐る恐る部屋の中に入った。一○畳ぐらいの部屋だが内張りが厚く、八畳ぐらいにしか見えないだろう。だろう、といったのは窓もなく、暗くなっているからだが、おもちゃのプラネタリウムが起動していて、四隅の星々の歪みで大体の大きさを測ることができるのだ。六畳分は大きなガラスケースが占めて、その高さは胸ほどあり、周りの細いスペースに丸椅子が置かれている。特殊なガラスらしく、分厚く継ぎ目もなく、少しばかりオレンジ色をしている。

「このガラスは二層構造なの。内側は地球にはない物質からできているのよ。これ一つで豪邸が三つ買えるわ。ガラスの中の世界と外の世界では、物質の構造が違うのよ。地球の空気に触れるとボン!」とエリナは冗談っぽく右手を爆発させ、ニヤニヤしながら座わるよう促した。ケース内の右半分には、直径一・五メートルぐらいのピンクに光る三本足の空飛ぶ円盤が置かれているが、うっすらとした鈍い明るさがピンク色のイメージを品よく調整していた。昔のイギリス兵が被っていたような古臭いヘルメット形……。こんなものが本当に飛ぶんだろうか、とルナは思った。

エリナは扉を閉め、内側のハンドルをしっかり三回回し、「ユウさん、お客様がいらっしゃいましたよ」といったので、「はい?」とユウが返事をすると、エリナはふき出した。

「あなたはユウ君。これから会う人はユウさん。これからは、あちらの方はドッペル・ユウとでもしましょうか。ドッペルとはドイツ語のドッペルゲンガー、影法師」

 そういってわらいながら、エリナもルナの横に座った。しばらくすると、ヘルメットのツバの下が開いてタラップが出てきた。つま先から頭のてっぺんまで、タイツ、レオタード、フードのオール・イン・ワン姿で、小さな男が梯子をゆっくりと降りてくるのを見てアッと二人は声を発し、エリナが透かさず「シーッ!」と注意した。宇宙人は身長一八センチくらいで、周りの空気を少しばかり明るくさせながらゆっくりと歩き、ニヤニヤと微笑みを絶やさずに三つあるデッキチェアの一つに腰掛けて、リラックスした恰好で客人を見上げた。

「ユウさん。こちらの男性がユウ君です」とエリナ。

「一目で分かりましたよ。私の分身ですからね」

 宇宙人の声はスピーカーを通して聞こえてくる。その音色はユウの声にそっくりなどころか、姿形もそっくりだ。

「分身ですか?」

 ユウは驚きを隠せない顔で宇宙人に話しかけると、宇宙人が答えた。

「そう、エリナさんから聞いていない? 僕は君のアバターなんだ。君たちは知らないだろうが、地球からさほど離れていない宇宙空間に未発見のワームホール、つまり抜け道があって、そこを通過すると、すぐに僕たちの宇宙がある。たとえば君がパンを薄く切るとき、左の側面がこの宇宙で、右の側面が僕たちの宇宙だと考えればいい。ワームホールは両面を通過するパンの空気穴と考えればいい。そう、隣り合わせの宇宙。それほど近いところにあるのさ。その宇宙は、この宇宙を一○分の一に縮小した宇宙なんだ。そこには銀河もあるし、太陽もある。それに地球だってあるのさ。もちろん、人間も住んでいる。この地球と同じ数の人間さ。一人一人が対応している。動物も植物も、あらゆる生物が対応している。しかも、それらのすべてが一○分の一の大きさだが、大きさも時間も絶対的なものじゃない。実は向こうの宇宙から見れば、こっちの宇宙は一○分の一なんだ。その一つが僕で、そのアバターが君。君から見れば反対で、僕は君のアバターさ。君から見れば僕は小さいが、僕の宇宙で君を見れば、君は僕の一○分の一になる」

「難しくってよく分からないけれど、君は僕と同じ性格で、同じ会社に勤務して、同じようなつまらない生活をしているの?」とユウは聞いた。

「それは違うな」

 ドッペル・ユウはわらった。

「いまの君と僕の関係を見れば一目瞭然だ。君と僕はまったく違う行動を取っている。それに、こちらの世界史とあちらの世界史も違う。だいいち、日本と同じ形の島国はあるけれど、日本という名ではないんだ」

「どんな名前?」とルナが聞いた。

「微笑みの国、といってもタイランドのことじゃない。国民性を国名にしたのさ。僕の国には夫婦げんかもない、親子げんかもない、兄弟げんかもない。我を張り合うことがなく、互いに譲歩し合うから、けんかにならないんだ。もちろん悪いことをする人もいないから警察もいらない。裁判所も必要ない。政府はあるけど、規制はないし、税金も取らない。橋や道路は、みんながお金を出して労働力も提供するんだ。困った人がいると、知らない人でもその人を助けるから、福祉政策も必要ない。首相はいるけれど、昔のレーガンさんやサッチャーさんが見ても驚くほど、何もやらない小さな政府さ」

「きっと、みんなお金持ちなのね」とルナ。

「いやいや、みんな貧しいのさ。ただ、金持ちになりたいとも思わない。人と張り合う性格の人もいないんだ。人の上に立とうとする人はいないし、着飾ろうという人もいない。一生懸命働いてお金を貯めるけれど、それはお金持ちになるために貯めているんじゃない。困った人を助けるためだから、そんな人を見つけたらすぐに使ってしまう。でもそれは浪費じゃない」

 ユウもルナも声を合わせて「ヘエーッ」と驚きの声を出した。ユウはもういちどドッペル・ユウの姿を観察し、自分と瓜二つであることに改めて驚いた。彼の体はやや平べったく、肌の露出部だけでなく、着ているものもうっすらと輝いていて、映像のようにも見えたが、それは物質構造の違いという理由から説明ができた。

 

「さて、もうそろそろ、ご婦人方が登場してもよさそうね」とエリナがいったので、ユウとルナはさらに驚いて、思わず顔を見合わせた。

「オーイ君たち。もう仕度はできたかな」

 トッペル・ユウが空飛ぶ円盤に向かって声をかけると「ハーイ」という声がする。

「微笑みの国では、女性はみんなスッピンなんだ。だから、仕度といっても、歯を磨いてシャワーを浴びる程度のものなのさ」とドッペル・ユウはいってデッキチェアから立ち上がると、タラップの横へ歩み寄り、両手を使って二人の女性をエスコートした。

 二人の姿を見てルナもユウもエエッと声を上げる。ドッペル・ユウと同じ恰好だが、それはまさしく、ルナとエリナのそっくりさんだ。

「これで分かった? あちらのお三方は、私たちのアバターなのよ」とエリナ。

「そして、こちらの女性は僕の妻です」といってドッペル・ユウが紹介した女性は、まさしくルナのアバターだった。

「聞いたかい? あっちの星では、僕たちは夫婦だってさ」

 ユウはルナを見てニヤリとわらった。

「それはこちらの二人にとっても、なにか意味があるの?」

 ルナは興味津々、あちらの二人にたずねた。

「そうね、まったく偶然だとは考えにくいわ。きっとあなたたちは結婚する予定だったけれど、なにかのきっかけで運命が別の方向に流れてしまった。反対に私たちは真っ直ぐな道を進んだのかも知れない。きっと基本的な運命の法則があるんでしょうが、それには小さな揺らぎが存在するの。星々からバクテリアまで、運命も生命も多様性はそのわずかな揺らぎから生じるのよ。最初はちょっとした狂いかも。でも、時間が経つと大きな距離になってしまう。あなたたちもきっとそんな感じで、どんどん引き離されてしまったんだわ」とドッペル・ルナが答える。

「しかし、基本的な道を歩まなければ幸せにならないわけじゃないよ。道を踏み外したからといって、不幸が訪れるわけじゃないからね。実際、僕たちの国と君たちの国はまったく同じ国土を持っているけど、ぜんぜん違くなっているし、だからといって、どっちの国民が幸せなのかは分からないさ」とドッペル・ユウ。

「でも話を聞くかぎりじゃ、君たちの国のほうが幸せそうだな。お金なんて、なければないに越したことはないからね」とユウはいってから自分のせりふに首をひねり、思わず苦わらいした。

「お金に生きがいを感じる人たちは、あなたたちの星にはたくさんいるっていう話をうかがったわ」

 ドッペル・エリナがそういってデッキチェアに腰掛けると、ドッペル・ルナもそれに続く。二人が座るのを見届けてから、ドッペル・ユウも座った。三人とも満足そうに微笑んでいたが、急にドッペル・ユウの顔から笑みが消え、「それで、僕とユウの関係について話さなければ……」といった。

「私とエリナ、ルナとルナの関係についてもね」とドッペル・エリナ。

「つまり、異次元宇宙生命体同一理論のことだ。僕たちの星と君たちの星には、常に同じ数の生命体が存在する。それは、僕が死ねばユウ君も死ぬ。ルナさんが死ねば、僕の妻が死ぬことを意味しているんだ」

 ドッペル・ユウはそういって、深々とため息をついた。

「なんで?」

 ユウは素っ頓狂な声を発し、ルナと顔を見合わせた。

「ということは、私の運命をそちらのルナさんが握っている?」とルナ。

「そういうことね」

 ドッペル・ルナが答えた。

「たとえば昔、君たちの星で世界的な戦争が勃発したでしょ。そのとき、僕たちの星では新型インフルエンザが流行して、多くの人たちが死んだんだ」

「ひどい話だな。我々地球人の罪は、宇宙の彼方まで悪影響を及ぼしてしまう」

 ユウは右手で頭をゴンゴンゴンと軽く叩いた。

「いやいや、我々の星でインフルエンザが流行り、君たちの星で戦争が起きたのかもしれない。しかし、ニワトリが先かタマゴが先かの話で、どちらが先かを決めるのはナンセンス。時空は歪んでいるからね。ポイントは予防さ。どちらかの悪い兆候を察知して未然に防げるか、被害を最小限に食い止められるかの問題だ。世界的にも、個人的にもね。つまり君は無理をしてはいけない。君が病気で死んだら僕も死ぬからね。そのかわり、僕は君のために健康に気を付けるとしよう。もちろん、僕の横にいるルナのためにもね」といってドッペル・ユウは妻を見つめ、ウィンクした。

「でも、世界的な問題っていうのは難しそうね」

 そういってこっちのルナは顔を曇らせる。

「おそらくね。しかし、不可能ではないんだ。ここで君たちに質問しよう。僕たちはなぜ、ここにいるんでしょう。別の宇宙から、はるばる時空の壁を越えてやってきたんでしょう。ひとつは宇宙友好協会が、僕らが地球人と交流する唯一の窓口であること。そしてあとひとつは……」

 それまで微笑を絶やさなかったガラスの中の三人から微笑が失せているのを見て、ルナは「もしかして……」とつぶやくようにいった。

「そう、そのもしかして……。私たちの国、微笑みの国が危機に瀕しているの。隣国、怒りの国が侵略を企んでいるんです。戦争放棄、平和国家を掲げて、ほとんど武器を持たない微笑みの国は、きっと簡単に占領されてしまうわ。多くの人たちが殺されるんだ。それは、日本人の多くが死ぬことを意味しているの」

 ドッペル・ルナは目から大粒の涙を流していった。すると不思議なことに、ルナの目からも堰を切ったように涙が流れ出した。

「でも、僕たちになにができるっていうんだい? だって、君たちの星で起こることに、僕たちは何もできないじゃないか。それに、地球で起こることについてだって、僕たちはあまりにも無力な存在さ。僕はインフルエンザの流行を抑えることはできないし、地震を予知することだってできやしない」

 ユウは声を震わせながらも、キッパリと意見を述べた。もちろん、なにか面倒くさい問題に巻き込まれそうな予感もしたのだ。

「いいや、君たちにできることがあるから、僕たちはここにいるのさ。僕たちは君たちの助けを必要としている。しかしそれは、君たち自身を破滅させるかもしれない手助けなんだ。もちろん、そんな頼みごとをここで気安くいうことはできない。しかし、君たちの力が必要なんだ。……で、君たちを説得するのにいちばんいい方法を考えた。それは、君たちを微笑みの国に招待することさ。まずは君たちに我々の星の現状を知っていただきたい」

「私たちの星に来ていただきたいんです」とドッペル・エリナ。

「どうやって? だってあんな小さな円盤に僕たちは乗れないじゃないか」

 ユウとルナは顔を見合わせた。

「それは大丈夫よ。現に私だって、もう二回もあちらにいっているのよ」とエリナがいうのを聞いて、今度は二人とも眉毛を上げ、口を突き出して顔を見合わせた。

「つまり、あちらのエリナは私の分身なのよ。私の心は彼女の心と合体することができるの。私の心は私の体から離脱して、簡単に分身の体に乗り移ることができるの。どうせいっても分からないでしょうから、こっちへ来てちょうだい」

 エリナは椅子から立つと左のほうに歩き出したので二人も立ち上がり、宇宙人たちに軽く頭を下げてから付いていった。ちょうどガラスケースの反対側にもうひとつの扉があって、エリナはハンドルを回して分厚い扉を開いた。その部屋は同じほどの広さで、歯科医の治療台みたいな椅子が五つほど、横一列に置かれていたが、頭の部分が、まるで小さなCTスキャンでもくっついているように輪っかになっている。

「さあ、どれでも好きな椅子に寝てちょうだい」

「ちょっと待って。いきなりかよって感じ。今晩は人の家に招かれているから、あと四時間ぐらいしか時間がないし……」

 ルナは慌てていった。いきなり宇宙旅行といわれても、心の準備だってできていなかった。

「大丈夫。時間は相対的なものよ。あちらには一瞬にして行くことができるの。詳しい説明はできないけれど、ほんの一、二時間で戻ってくることができるわ。彼らの宇宙は本当に近いんだから」

「まさか、戻って来られないことはないよね」とユウ。

「彼らが生きている限りは大丈夫。それに彼が死ねば、あなたは地球にいたって生きていくことはできないんだしさ」といって、エリナは斜め目線でフフフとわらった。

 

 

 インフォームド・コンセントもなく、十分納得しないままに二人は椅子に座らされ、頭を筒の中につっ込んだ。エリナも一緒だ。なにかモーツァルトのような軽やかな音楽が流れていて、レモンのような爽やかな香りがしたと思った瞬間、三人とも深い眠りに落ちてしまった。しかしそれは眠りではなく、アバターへのトランシットの瞬間だけで、すぐに目が覚めたところはあの円盤の中だった。ルナもユウもエリナも操縦席に座り、手馴れた手つきでボタン類を操作していた。ユウは明らかに、ドッペル・ユウの脳味噌のどこかに入り込んだはずなのだが、すでにドッペル・ユウと一体化してしまい、どの考えがユウなのか、どの考えがドッペル・ユウなのかも分からなくなってしまっていた。それはルナも同じだった。円盤には窓がないが、まるで透明の円盤の中にいるように外界が見渡せた。小さくなった分、部屋は大きくなり、今まで三人が座っていた大きな丸いすも円盤の中から確認することができた。

「出発!」とユウが声を出し、赤いボタンを押すと、円盤はガラスを通り抜けて、上に向かって四階分突き抜け、住人の体をすり抜けながら屋上から舞い上がり、急激に加速して、数秒のうちに宇宙に飛び出し、みるみる地球が小さくなっていくのが確認できた。月を通過し、火星、木星土星を一瞬に通り抜けて、満点の星空の中をどんどん進み、「ワームホール突入!」とルナが叫ぶと、突然辺りは真っ暗闇となって、数秒後には満点の星空が再び現れた。円盤が飛び出したところは食パンの向こうサイド、もう一つの宇宙というわけだ。

 二人のユウは、意識がキメラ状に交じり合ってしまい、多重人格的な明確な区別すら不可能だったから、とりあえず地球に帰還するという言葉を使わなければならなかった。この意識の交じり合いはほかの二人にもいえることだ。円盤は出発時とは反対の順番で惑星を通過して、ドッペル・地球に向かっていった。月を通過し地球に近づくと、鏡に映った日本列島と瓜二つの微笑みの国が見えてきた。しかし、戻ってきた日本列島は、出発した日本列島とは違っていたのである。そこは戦場と化していた。

 

 

 空飛ぶ円盤は空色に変化して大気圏に突入し、ゆっくりと降りていった。下からは青空と同化して、判別することは不可能なのだ。円盤は、微笑みの国の首都の上空をゆっくりと旋回した。あちらの地球では東京といってもそっくりそのままというわけではない。ビル群の形状は一○○年も先を行き、五○○メートル以上の高層ビルが数多く屹立している。しかし、その未来都市の所々で火災が発生し、タワーはへし折れ、高層ビルは少なからず穴だらけになっていた。まさに戦場だが、時たま聞こえる破裂音のほかは不気味に静かだった。

「終わったんだ。我々が地球に行っている間に決着が付いたんだ。占領されたのさ」とユウは吐き捨てるようにいった。

「とりあえず、仲間と連絡を取るわ」

 ルナがパネルを操作すると、操縦室の空間に三次元映像の男が現れた。カズといって、国防組織の隊長だ。上下関係を嫌うこの国でも、有事の際には指揮官を必要とするのだ。

「いったいどうしたんだい、この静けさは」

 ユウがカズに聞いた。

「国土はすべて占領された。負けたのさ。微笑みの国は怒りの国の統制化に置かれている。今日は我々にとって怒りの日になった。国民の顔から微笑みは消え去っちまった」とカズは吐き捨てるよういった。

「ところで君は、どこに隠れている?」

「我々国防部隊は地下に潜行したが、我々のミッションは続いている。これからはゲリラ活動だ。君たちの帰還を待っていたんだ。国土が占領された以上、君たちの仕事はますます重要になった。作戦はうまくいっているのかね?」

「始まったばかりさ。我々は、地球のアバターと合体することに成功した。我々は彼らとともにあるが、これはまだスタート地点だ。まずは、彼らに微笑みの国の悲惨なありさまを知ってもらうために戻ってきた」

「ありがたい。我々の作戦は占領下でも有効だ。怒りの国にも反政府組織があって、我々に協力を申し出た。我々も地下抵抗組織になってしまったが、彼らの支援で活動を再開できると信じている。とりあえずは着地点の変更を指示しなければならない。所属基地は占領された。君たちは自動操縦に切り替え、我々の発する誘導電波に従いたまえ」

「了解」とエリナは応え、自動誘導装置を起動させた。

 

 

 

 空飛ぶ円盤が降り立った場所は首都を見下ろすことのできる山の中だった。方角からいえば、ちょうど高尾山のあたりに違いないが、首都の方向は火災の煙が靄のように拡散してビル群はまったく見えなかった。円盤は谷間の崖に衝突すると、スウッと崖の中に入り込んで、地中の格納庫に着陸した。崖は3Dマッピングによるカムフラージュだった。

 三人がタラップを降りると、カズをはじめ一○○人ほどの仲間たちが出迎えた。その中に見覚えのない連中が一○人ほど固まっていた。彼らは黒い敵軍の制服を着ていたので、ユウは驚いてカズに聞いた。

「彼らは?」

「彼らは敵国の兵隊だが、頼もしい味方だ。君たちのミッションが成功すれば、一斉に放棄してクーデターを起こし、現政権を倒すことになっている」とカズ。

 彼らの一人が歩み出てユウに手を差し伸べ、「キタニ中尉です。我々の作戦は、あなた方の作戦の成功から始まります。あなたがたのバトンを私が受け取ります」といって、三人と次々に固い握手を交わした。

「あなたたちとは戦争が始まる前からコンタクトを取っていましたが、実際にお目にかかるのは初めてです」とエリナ。

「あなた方の軍の何割が、クーデターに参加しますか?」とルナが聞いた。

「おそらく八割方。実際に起こす連中は少数でも、それは導火線の役割を果たし、うまく行けば一斉に発火します。しかし何度もいうように、それにはあなたのミッションの成功が条件なのです」

 キタニ中尉はそういってルナを見つめた。中尉の真剣な眼差しに、ルナは身を引き締めた。

「時間がない。さっそく作戦会議を始めよう」といって、カズは三人を会議室に案内する。

 

会議室には五○人ほどが座れる大きなテーブルがあって、三人は主賓の位置、その周りにカズと敵国の兵士が座り、ほかの席は早い者順といった具合で、座れなかった五○人は壁際に立った。微笑みの国では、戦闘隊員の中にも上下関係はないのだ。

「それでは、さっそく作戦会議を始めます。怒りの国が仕掛けた侵略戦争のさなか、我々の同志は、ある重要な使命をもって隣の宇宙に向かったわけですが、あちらの人類、すなわち我々のアバターである人々の中から、三人のキーパーソンを連れて帰還しました」

 カズがいうと、エリナが口を挟んだ。

「正確にいいますと、主役はルナで、ユウと私はルナをサポートします」

 それに続いてユウが口を開いた。

「我々はいま、三人の地球人の精神を合体してここにいます。その三人の肉体は地球にいて催眠状態にあり、夢という現象形態を借りてここに来ているわけです。つまり、現在進行中の事象はすべて、彼らの記憶としてしっかり蓄積されますが、それ以前の事象は記憶の蓄積がなされていませんから、とうぜん説明が必要になります。いささか手間取りますが、そこらへんからご説明お願いいたします」

「もちろん心得ています。したがって、最初に地球人の方々にこの宇宙、この星、そしてわが国の現状を紹介するコマーシャル映像を見ていただくことにいたしましょう」

 

 照明が消され、三人の正面奥の壁に鮮明な映像が浮かび上がった。最初は宇宙物理学的な難しい解説から始まった。地球とそれが含まれる宇宙のすぐ隣に、その宇宙の反物質から構成される瓜二つの別の宇宙があって、二つの宇宙は互いに鏡に映る状態になっているから、宇宙の形態はもちろん、地球の形態も、日本という地形もルナという人物も左右が反対であるということ。しかしビッグバンのときの衝撃で、反物質の多くは粉々にわかれてそれぞれ個別の宇宙を形成するといった分散状態にあり、こちらの宇宙はあちらの宇宙の部分的な再現に過ぎないこと。しかし、そのアバター的宇宙は、互いにパンの両面のように近接の位置に存在して、ワームホールを介して行き来が可能であること。しかし両宇宙の間の時間と空間の揺らぎが影響して、こちらの宇宙はあちらより前後半年以内の時間的なズレが生じてしまっているということ、等々。つまり、こちらでルナが死んだ場合、あちらのルナは半年前に死んでいるか半年後に死ぬかは分からないが、死ぬことは約束されてしまうということだった。

 そのあとはいよいよ、反物質で構成されたアバター地球の紹介に入ったが、グローバルに民族主義運動が高まり、各地で戦争が勃発して我が微笑の国は怒りの国に占領されてしまったというわけで、戦闘により一般市民を含めた多くの人たちが死亡しているのだから、微笑みの国のアバターである日本国においても六カ月以内に何かしらの惨事が起きることは確かだと予測する。しかし、それで済むという話でもなかった。現実的に微笑みの国は怒りの国の占領下にあって、国民が強制収容所に入れられて殺戮が始まれば、何らかの形で日本でも同じ惨状が起こることを意味していると説明が続く。そして映像は一人の静止画像を映し出した。まだ二○代前半の若者だったが、ルナの心のどこかでアッと驚きの声が上がり、そのまま声帯を擦るようなキャッという悲鳴になって飛び出した。

「そうです。これが怒りの国の独裁者です。こいつが独裁政治を行い、平和を乱し、戦争を起こしている元凶です。こいつのおかげで微笑みの国は占領され、蹂躙されたのです。我々は怒りの国を民主国家に転換させようと、クーデターを企てているのですが、この独裁者に近づく手立てすらありません。こいつの権威は大きいものですから、まずはこいつを暗殺してからでないと、クーデターは成功しないでしょう」とキタニ中尉。

「で、彼の名は?」

 大方知っているはずのルナは、念を押すようにキタニ中尉にたずねた。

「恐怖の大統領、レンです」

「つまり、あちらの宇宙では、そのアバターと私は結婚しているということですね」

「そうです。これで、あなたのミッションは理解されたはずです」

「つまり、私は地球に戻り、私の夫を殺害すればいいということですね」

「もし、地球人たるあなたが了解すればの話ですがね。つまり、あなたが地球に行って、合体している精神を分離して地球人に戻ったときのあなたの決断と行動――」とカズが口を挟んだ。

「ぜひとも了解していただきたいものです。あなたの決断が、微笑みの国のみならず、日本国の運命をも決定すると考えたら?」

 キタニ中尉はそういって、懇願するような眼差しをルナに向けた。ルナはしばらくキタニ中尉を見つめ返していたが、キタニの視線に負けたように目を逸らし、「ここでは返事ができないでしょう」と弱音を吐いた。

「どうしてです?」

「二人の私が合体している状態では、返事ができないということです」

「それはそうだ。すくなくともこちらにいる状況では、地球のルナはあくまで観客に過ぎない。彼女はいま、夢を見ている状況なんだ。覚醒していない彼女に、殺人という重大な決意をここで迫るのは荷が重過ぎる」とユウ。

「しかし、地球人のルナさんに承諾を得るというのんびりした状況でないことも確かだ。我々としては実行してもらわなければならんのだ。ミッションとはそういうものさ。我々は、地球人のルナさんに命令する立場にある。あなたは、地球に帰ったあと、ご亭主を殺害しなければならない。なぜなら、独裁者である彼のアバターによって、微笑みの国も日本国も滅びつつあるからだ。あなたの夫が死ぬことによって、独裁者も半年以内に死ぬことになる。なぜなら、陽に照らされれば影ができるように、陰の欠けた陽も、陽の欠けた陰も存在しえないからだ。ここで、帰還した三人がそれぞれ連れてきた地球人の精神に、地球における任務を完遂させるべく、薬液注入も含めた洗脳教育プログラムの実行を提案します」

 キタニ中尉が演説を打つと、歳を取った議長風の男が、「それでは挙手を願います。洗脳教育プログラムの実施に賛成の方は手を上げてください」と続け、三人を除く全員が手を上げた。微笑みの国では、すべての行動が多数決で決まるのである。

 

 

 三人が通された部屋は迷路のようなトンネルの奥深くにあった。部屋の中には、あの下町のオフィスビルにあったような治療用の寝椅子が三台置かれていて、あのときのように三人は仰向けに寝て、頭部を筒の中に入れた。筒に埋め込まれた超電導モーターがゴーゴーと不気味な音を発しながら回転を始め、三人ともたちまち意識を失っていった。地球人としてのルナの魂は、まるで劇中劇のように夢の中で夢を見始めていた。恐ろしい悪夢がスタートした。日本のあちこちに水爆が落とされ、街々は焦土と化した。各地に強制収容所が建てられ、日の丸のマークを胸に付けられた市民が貨物列車にぎゅう詰めにされて運ばれていった。焼却炉の周りには死体が山積みされ、高い煙突からは白い煙が立ち続けた。突然、軍服の胸にたくさんの勲章を付けたレン大統領が高わらいをはじめ、その顔がだんだん悪魔の顔に変形していく。ルナはようやく気が付いたのだ。レンは悪魔の化身だ。レンは、ルナの一生をメチャクチャにする悪魔に違いない。そのとき突然、地下抵抗組織の反撃が始まった。周りで爆弾が炸裂する音や銃弾の連射音が鳴り響き、火薬の匂いが立ち込める。仲間たちが目の前で倒れていく。キタニ中尉の体に弾丸が貫通した。カズが手榴弾で吹っ飛んだ。仲間たちがどんどん死んでいった。再びレンの悪魔が登場し、頭から二本の角を伸ばしながら、その高わらいがどんどん大きくなっていった。三人は激しい頭痛と嘔吐感に襲われ、悪夢の泥沼から這い上がったが、それは無理やりに洗脳装置を止められたせいだった。目の前にレン大統領が部下を従えて突っ立っていたのである。そして、床は血の海と化し、レン大統領の片足はキタニ中尉の死体を踏んづけていた。

「お目覚めかね。床に転がっている連中は、君たちの仲間かね?」レン大統領は三人にたずねた。

「いいえ、我々の敵です。我々は第三国のスパイとしてこの国に潜入し、捕らえられて洗脳機械にかけられたんです」

 ユウが適当なウソをつくっていった。三人は椅子から降り、先生に叱られた小学生のように並んで直立した。大統領は、腕組みをしながら三人の周りをゆっくりと回った。

「第三国というのは?」

「我々はスパイですから、国の名前はばらしません。スパイは常に死を覚悟しています。しかし、我々の国は閣下の国と友好関係を結んでおります」

「友好関係? クソ食らえだ。友好なんざ鼻息で吹き飛ばしてやる。ごらんのとおり、この国とわが国もかつては友好関係にあった。しかし、私は気を変えたのさ。友好条約は対等の力を持つ国どうしが結ぶものだ。こんな弱小国は属国にするほうが自然さ。さて、この秘密基地にいたネズミどもはことごとく退治した。しかし君たちは、その仲間ではないといい張る。ならば、私は人道的な立場から、君たちを助けようと思う。本当は殺すべきだ。スパイなんぞ、どこの国であろうが殺すにこしたことはないからな」

「ありがとうございます」とユウ。

「それに、この二人の女はなぜか殺したくはないのだ。思い出せないが、見覚えがあるのさ。君たちは私に見覚えがないかね?」

「怒りの国の大統領閣下であることは、全世界の人間が知っておりますわ」とエリナが答えた。

「私はそんなことをいっているのではない。君たちは違うタイプの女だが、二人とも私のタイプであるということだ。しかし私は、なぜかしら欲しいとは思わないのだ。君たちを見たとたんに、すぐに飽きがきたのさ。女好きの私が、タイプの女を前にして、もよおさないというのは不思議な現象だ。君たちにはうんざりだ。しかしひょっとしたら、季節的なものかも知れない。盛りの時期ではないということだ。だから殺さないことにしたのだ。殺しておいて、後で惜しいことをしたとは思いたくないからな。しかし男には用がない。君たちはこの男をどうすればいいと思う?」

「さっきは、助けてやろうとおっしゃったじゃありませんか」

驚いたユウが、必死になって懇願した。

「お願いです。助けてあげてください」とルナも口を揃えた。

「ならば助けてやろう。しかし目障りだ。牢屋にぶっ込んでおけ」

 

 ユウは手錠を掛けられ、引き立てられていった。ルナとエリナは、レンの円盤に乗せられて、怒りの国の王宮に向かった。王宮にはハーレムがあって、レンの愛人が一○○人ほど住んでいたが、二人はその一員に加えられ、それぞれの部屋と二人の侍女を与えられた。

 レンが占領国の奴隷女を二人、愛人として新たに加えたという話は、ハーレムの中でたちまち広がり、第一夫人と第二夫人が見物にやってきた。ルナは二人を見て、思わずアッと声を出した。二人の顔に見覚えがあったからである。第一夫人と第二夫人もルナを見て、目をまん丸に見開いた。

「昔、お前と会ったことがあるね?」と第一夫人。

「私もお前と会ったことがあるわ」

 第二夫人も同じことをいった。

「でも、それがいつのことかは覚えがないわ。でも、お前の腹はもっと大きかった。どうしてそんなに萎んじまったんだい?」

 第一夫人は意地悪くいって、軽蔑したような眼差しをルナの腹に向けた。第二夫人の目つきは、軽蔑というよりは憎しみの輝きを呈している。

「この星ではお会いした記憶はございませんわ。むしろ、私のいるもう一つの星で、確かにお会いしたような気がします」とルナは返事をしながら、合体した脳味噌の半分から鮮明な記憶が蘇ってきたことに驚き、地球とこの星の因果関係の強さに改めて驚かされた。

〝そうだ私はこの二人と争って退け、レンを射止めたんだわ〟

「で、あちらの星では、私たちとお前はどんな関係にあったのかい?」と第一夫人。

「どうせ友好的な関係じゃないでしょうに」と第二夫人。

 ルナは、本当のことをいってはまずいと思い、まるっきり反対のことを口にした。

「地球では、あなたたちと私は親友関係にあったのです」

「ということは、こちらの星では敵対関係だわね。すべてが逆さまという話ですから」

 第一夫人はそういって、フンと鼻を鳴らした。

「どっちにしても、ここはレン大統領のハーレムですからね。女たちは互いに敵対して、けん制し合っているのよ。あっちじゃ親友かもしれないけど、こっちでは敵どうし。せいぜい足をすくわれないよう、気をつけていたほうがいいわ」と第二夫人は吐き捨てるようにいってルナをキッとにらみつけた。

 

 二人が去った後、エリナがルナに質問した。

「本当に親友だったの?」

「どういう意味?」

「地球では親友どうしで、こっちでは敵っていうのもおかしな話。それなら、私たちもこちらでは敵どうしになっちゃうわ」といって、エリナ肩をすくめた。

「実は地球でも敵どうし。地球の私はあの二人と戦って、レンと結婚する権利を得たわけ」

「勝利したのね。でも、なぜこちらの星で、あの人たちはレン大統領と関係があるわけ?」

「おっしゃる意味が分からないわ。じゃあなぜ、こちらの星で私とユウが夫婦なわけ?」

 ルナは、機嫌を損ねて反論した。

「地球とこの星の因果関係の深さでいうと……」

「もうそれ以上はいわないで」とルナはエリナの言葉を止めた。

〝そうだ、あの女たちとレンは、いまだに関係を続けているのかもしれない〟

「あなたのいいたいことはお見通しよ。レンが私をほったらかしにしているのは、あの二人とまだ付き合っているからだっていいたいのね」

「それはあくまで可能性の一つだわ。でも、あなたは地球で、モテモテの男と結婚したことは確かね。あなたは妻の座を得ても、精神的には安定していない。それに、大事な駒である赤ちゃんも――」

 エリナの思いやりのない言葉が鋭利な刃物となってルナの胸を刺した。しかし、もう一人のルナがしゃしゃり出て、ビジターのショックを心の奥底に押し込めてしまった。

「じゃあ地球での私の精神を安定させるためには、いったい何をすればいいわけ?」

 ルナは穏やかに聞いた。

「それは簡単よ。レン大統領の第一夫人と第二夫人を亡き者にするの。すると、地球上のあなたの恋敵は二人とも半年以内に死ぬことになる」

 そういいながら、エリナはわらい出した。

「でも私のミッションは、あくまでこの国の人たちを救うことにある。そしてそれは、日本の人たちの命を救うことでもある。私的な行動はNGです」

 ルナはむきになって、きつい眼差しでエリナを睨み付けた。エリナはルナの直球をかわすように、皮肉っぽい笑みを浮かべて睨み返す。

「つまりあなたは、こちらの恋敵を殺すよりは、むしろ地球で夫を殺すことを選択するわけね。ブラボーッ! でも、あれだけ愛している夫を殺すことができる?」

「多くの犠牲を止めることができるなら、喜んで。私は夫よりも、この国の人たちと日本人の多くを守るわ。一人の人間の死が多くの人を救うなら、たとえそれが私の夫であっても私は実行する」

「分かったわ。うそじゃないわね。それだけの覚悟ができたのなら私も手伝う。地球に戻って、私たちのミッションを実行しましょう。時間はないわ。一刻も早くここから抜け出し、地球に向かいましょう。大量虐殺が起きる前に止めなければいけないわ」

エリナはすっかり興奮して、半ば叫び声になっていった。

「でも、ユウは?」

「大丈夫。彼ならうまく抜け出せる」

 エリナは自信満々の顔つきで答えた。

「でも私たちがもし、レン大統領と寝なければならないとしたら?」とルナ。

 エリナは一瞬戸惑って顔を曇らせ、それから探るような眼差しをルナに向けた。

「私たちはプロ意識に徹するの。あなたにとって、レン大統領は……」といってから、エリナは躊躇して言葉を止めた。

「地球では私の夫だけれど、ここでは単なるアバター。でもこっちの私にはユウという夫がいる。複雑ね」といってルナはわらった。

「でも、こっちだろうがあっちだろうが、あなたは覚悟ができている。プロの殺し屋に夫婦間の絆なんかないわ」

 

そのとき、大統領の秘書が衛兵を二人引き連れてやってきた。好色な大統領が、さっそく新しい女奴隷を味わってみたいというのだ。

「で、どちらをご所望で?」とエリナがたずねると秘書は不思議そうな顔をして、「もちろんお二人ともですよ」と答えた。

 大統領の寝室に入る前に二人は素っ裸にされ、侍女たちから身体検査を受けた。裸のまま寝室に通されると、そこは大広間で、中央に巨大な帆立貝が口を開いた装飾の丸いダブルベッドが置かれ、その上に裸の大統領が横になっているのを見て、ルナはアッと声を上げた。帆立貝の円形ベッドはルナのお気に入りのベッドだったからだ。子供の頃にディズニーの漫画映画に登場したこのベッドがすっかり気に入り、結婚したらぜったいこのベッドを買うんだと心に決めた。それで、結婚数日前にレンが恥ずかしがるのを説得して購入し、新居の寝室に入れたわけだが、そういえばその上で二人は一緒に寝ても、体を重ね合わせたことがないのに気が付いた。レンは毎日疲れ果てて、ベッドに身を投げるとすぐにいびきをかいて寝てしまう。

〝ひょっとしたら、疲れ果てた原因は仕事じゃなくて、あの二人の女?〟

 

どっちにしても、シェルの上で本物の夫と愛し合う前に、夫のアバターと愛し合わなければならないのだろうかと複雑な心境になったが、そのアバターがむっくりと起き上がり、冷たい目でルナを睨みつけている。

「お前は呼んでないよ」

 それは明らかに、ルナに向かって投げ付けられた言葉だった。

〝なんだこの男――、私をなんだと思っているんだ!〟

「二人は堪忍してくれよ。疲れているんだ。それにお前はもう飽き飽きさ。オーイ、誰か! ダメだよ、用もない女入れちゃ」

 ルナは、ワッと泣き出して、扉に向かって走り出した。こんな辱めを受けたのは生まれて初めてだったが、それはレンの本音かもしれなかった。しかし、寝室から逃れると、心の中でもう一人のルナが喜びの声を上げた。

〝助かったわ。大統領と寝たなんて、ユウにはぜったいいえないものね〟

〝そうだ、私の夫はユウだったわ〟と地球バージョンのルナも同調した。二人のルナの夫が違うというのはなんとも不自然で、しっくりしないことが改めて理解できた。

〝二人の夫は同じ夫でなければいけないわ。そのためにも、地球上のレンは消さなければいけないんだわ。そして、ユウと一緒にならなければいけないんだわ〟

 このときルナは、ようやく決心が付いた気がした。自分の幸せのために、そして微笑みの国のために、日本のために、是が非でもミッションを成し遂げようと心に誓った。

 

 

 ユウはというと、自力で牢屋から抜け出したわけではなかった。牢屋の中で横になっていると、鍵を開ける者がいた。敵国の兵士だが大統領の暗殺を狙う反政府組織の一員で、殺されたキタニ中尉の仲間だった。ユウはレーザー銃を与えられ、二人で空飛ぶ円盤に向かったが、衛兵に見つかって激しい銃撃戦となった。ユウを解放した兵士は撃たれて倒れ、「成功を祈る」といってこと切れた。殺人光線の飛び交う中、かろうじて円盤の場所まで逃げおおせたユウが音声認証でハッチを開けて乗り込むと、武器庫から仲間が二人出てきて、ユウを出迎えた。

「我々は壊滅的な被害を被った。おそらくこのアジトで生き残ったのは我々だけだろう」

「わが国の存亡は、君にかかっているといっても過言ではない」

「急ごう、目指すは彼女らが拉致された敵国の宮殿だ」

 ユウは二人の言葉にうなずいて操縦席に着き、円盤を飛び立たせた。すると、後ろで秘密基地が爆発音とともに炎上するのが見えた。

「ミッション関連資料はこれで灰燼と化したな」

「しかし、どこかに仲間が隠れていたかもしれない」とユウ。

「我々はみんな死を恐れない。君たちの成功のためには、喜んで犠牲になってくれるさ」

「必ずミッションを成功させてくれ」

 二人はユウを鼓舞した。

 

 月もない真夜中、円盤は王宮の五○メートル上空でピタリと静止した。しっかりと闇にとけ込んでいるので、下からはまったく見えない。すでに戦争は終わっていたから、敵も油断していることは確かだ。二人が顔中に黒いペイントを塗り始めたので、ユウも塗ろうとしたが止められた。

「君を危険な目に遭わすことはできない。君の活躍の場は地球さ。我々二人がハーレムに降りて彼女たちを救出する」

「円盤下部のハッチを開けてくれ」

 ユウはいわれるままにハッチを開け、二人は細いロープを垂らして降りていった。降りたところは中庭で、昼間は女たちでにぎわう場所だが、そこには侍女が一人待ち受けていた。

「我々が助け出すのは一人だ」

「どちらの女?」と侍女がたずねる。

「ルナという女。エリナという女は残しておく。我々はルナを救出したあと、エリナとともに王宮に留まる。彼女がここに留まることは、ルナの地球での活動を活性化させるという我々の判断だ」

 侍女は二人をルナの住居に案内した。中にいた二人の侍女を射殺したあと、ベッドで寝ていたルナを叩き起こした。

「君を助けに来た。上空にはユウの円盤が待機している。君を助けるために来たんじゃない。君がミッションを遂行するためのお膳立てだ」

「ミッションというのは、私が地球で夫を殺すということ?」

 ルナは再確認のためにたずねた。

「分かりきった話だろ。地球で、怒れる僭主のアバターを殺すのが君の仕事だ」

「了解したわ。エリナの部屋に行きましょう」

「それは危険だ。まず、君の安全が担保されてから、エリナの救出に向かう。君が無事に円盤に搭乗したら、エリナを救出する手はずだ。地球での作戦は、エリナがいなくてもできるからね」

「分かったわ」

 二人の兵士はルナを中庭に連れ出し、円盤から垂れている細いロープをルナの胸に巻きつけた。二人はルナが円盤の中に入るまで見届けると、唐突にレーザー銃を乱射し始めた。駆けつけた王宮の衛兵たちと銃撃戦がはじまり、二人の兵士はあっけなく射殺されてしまった。ユウとルナはそれを上空から見ていた。

「エリナは戻れなくなったの?」

「すぐに地球に戻れるさ。地球での我々のミッションが成功すれば、怒りの国に革命が起こり、大統領の宮殿も解放される。エリナもその分身とともに地球に帰還できるというわけだ」

 

 地球への帰還の間、二人は濃厚に愛し合った。無重力空間では三六○度、どんな体位を取ることも可能だ。宙に浮き上がり、手と足を蛇のように絡ませ、何度も何度もインサートを繰り返した。精液が白い水玉となって空間を漂った。細かい一粒がルナの鼻の穴に迷い込み、青竹を割ったような香りが広がって脳髄を痺れさせた。無重力空間でのセックスは、どの宇宙飛行士も体験したことのない史上初の人体実験に違いなかった。宇宙人のルナは、宇宙人のユウを激しく愛していたし、宇宙人のユウも宇宙人のルナを狂おしく愛した。そして地球人のルナは、地球人のユウを激しく愛さなければならない立場になっていた。彼女は夫を殺すミッションを背負って、地球に帰還するのだから――。それはユウも同じだった。ユウはレンの一○○倍も優しかった。

「地球に戻っても、私を捨てないでね」

アバターたちが夫婦であるかぎり、僕たちは地球上でも夫婦になる必要があるんだ」

「そう、私とあなたが夫婦になるためにも、夫を殺す必要があるんだわ」

「でもそれは、いうべきことじゃない。自分たちのために殺人を犯すわけじゃないからね」

 無重力空間では、男と女の肉体は均一に溶け合って強靭な愛が生成される。二人は互いの体を溶け合わせながら延々とセックスを続け、空飛ぶ円盤は二人が夢中になっている間に、あちらの穴に吸い込まれ、こちらの穴から飛び出して地球に向かい、神田の所定の場所に着陸した。二人はセックスの最中で、さらなるエクスタシーの極みを味わったところで同時に目を覚まし、「アッ!」とオボケな声を上げた。

 

 

 

 ルナとユウは椅子から飛び降りると、すぐにエリナの寝ている椅子を取り囲んだ。エリナは死んだように寝ているが、呼吸に乱れはない。事務局長が部屋に入ってきて、心配そうにたずねた。

「いったいぜんたい、どうして彼女は目覚めないんですか?」

「彼女の魂だけ、まだあちらにいるんです」とユウがいった。

「それはまずいな。まずいですよ。だって、ずっとここに寝かしておくわけにはいかないでしょ。魂がこっちにないのなら、意識が戻るわけもない」

「とにかく、円盤は無事戻ってきたんでしょう」

ルナは思い切りハンドルを回して扉を開け、円盤の置かれている部屋に入った。そのあとからユウと事務局長も付いてくる。三人は丸椅子に座って、円盤のハッチが開くのを待った。しばらくするとハッチが開いて、ドッペル・ユウとドッペル・ルナがタラップを降りてきた。二人はデッキチェアに座って、手を握り合っているユウとルナを見つめた。

「君たちは我々から分離したが、すぐにまた融合したようだね」

ドッペル・ユウはいって、微笑んだ。

「おかげさまで」とユウが返した。

「そこの中年のおじさんは、席を外してくれないかな」

 ドッペル・ユウが渋い顔していったので、事務局長は仕方なしに部屋から出て行った。

「忘れてはいないだろうが、君たちは重要な任務のために地球に戻った」とドッペル・ユウ。

「分かっています」とルナが返す。

「時間がないのよ。私たちには時間がないの。さっそく、ミッションをスタートすべきだわ」

 ドッペル・ルナが少しばかりいらいらしながら催促した。

「しかし、あわてるなよ。うまくやる必要があるんだ。君たちは確実に成功させなければいけない」

「うまくやります」とユウは答えた。

 ドッペル・ユウはポケットから小瓶を出し、「さてその手段だが、我々の星には優れた毒薬が存在するんだ。こいつは心不全を引き起こし、そのくせ薬物反応は出ないというやつ。こいつを異なる宇宙の君たちに届けるのは難しいが、不可能じゃない。ほら」といって、小瓶をいきなりガラス越しのユウに投げつけた。不思議なことに、小瓶はガラスに当たる瞬間に消えてしまった。

「消えた小瓶は君のポケットにあるさ」

 ユウがポケットを探ると、まさしく液体の入った小瓶が出てきた。瓶の大きさも一○倍になっている。

「UFOが地球上を飛行できるのも、この異次元物質変換技術があるからよ。でも、生命体には使用できないわ」とドッペル・ルナ。

「それが君たちの手段だ。さっそく今晩、レン大統領の分身を殺すんだ。その毒薬なら完全犯罪は成立する。かわいそうに君の夫は若くして逝ってしまうが、少なくとも我々と君たちはウィンウィンの関係にはなれる。あちらでもこちらでも、ユウとルナは夫婦になるべきだからね。それが異次元宇宙間の予定調和というやつさ」

 ドッペル・ユウはそういって、右手の親指を立てた。

「成功を祈っているわ。吉報を待っています」とドッペル・ルナも二人を応援したが、急に心配そうな顔つきになって付け加える。

「でも、たとえ完全犯罪が可能だとしても、私たちには一抹の不安があるわ。だって、あなたたちはプロの殺し屋じゃないもの。国運を賭けたミッションを無事にやり遂げることができるかしら」

「このさし迫った時にそんな心配をするなよ。一か八かだ。我々は君たちの成功をただただ祈るだけさ。しかし、君たちがプロでない以上、我々プロとともに殺人計画を練ることも必要になってくるな」とドッペル・ユウ。

「というと?」と、ユウが分身にたずねた。

「この場で綿密な計画を練るんだ。ルナに聞くが、今日、ご亭主は家に帰ってくるのかい?」

「そうだ、思い出したわ。私たち夫婦と夫の両親は、党の後援会長宅に招待されていたんだわ。月に一度は会っているの」

 ルナは内心ホッとして胸をなでおろした。少なくとも、今晩は計画を実行する時間的余裕がないだろうと思ったからだ。

「まずいな。我々の計画は一日でも早く実行しなければならない。レン大統領が一日生き延びれば、一○○万人の国民の命が奪われるんだ。ユウ、その毒薬をルナに渡したまえ。もし可能であれば、後援会長の夕食会で実行してほしい。衆人環視の中で難しいとなれば明日に延ばしてもいいが、明日君のご主人は帰宅するのかい?」

「帰らない確率のほうが高いわね」とルナ。

「なら、やはり確実なのは今晩さ。きっとチャンスがあるだろう。乾杯があればなおさらいい。シャンパングラスに二、三滴垂らせば十分だ。ご主人は一気に飲み干すだろう」

「もし完全犯罪が失敗して、僕たちが逃げなければならなくなったら?」

 ユウが少しばかり声を震わせながらたずねた。

「要はレンが死ぬことなんだ。君たちが犯人だとばれれば、ここに逃げてくればいい。僕と君、僕の妻と君の妻は合体して、我々の宇宙で幸せに暮らせばいい。もちろん、君たちの体は心の抜けた脳死状態となるが、宇宙友好協会の会員たちが守ってくれる。つまりホームシックにかかったら、いつでも地球に戻れるんだ。あらかじめ体を南米に運んでおいて、そこで入魂してアマゾンの密林地帯で暮らすこともできる。しかし、そんなことはどうでもいいことだ。僕は君の分身で、君は僕の分身だ。君が捕まって縛り首になったとしても、僕は君と一緒に死ねることを誇りに思うよ。少なくとも我々の国では、僕たちは多くの国民を救った英雄として讃えられるんだからね」

「分かった。なるべく早いうちにミッションを成功させる。エリナを地球に戻すためにもね。とりあえずこの毒は君に渡しておく。今晩実行だ」といってユウはルナに小瓶を渡し、二人はマンションを後にした。

 

 

 ドッペル夫婦というと、ガラスケースの中でうろうろしていると思いきや、パチンと消えてしまい、奥の秘密部屋から二人の若い男女が出てきた。ドッペル夫婦の声を担当していた物まね上手な連中だ。宇宙からやってきた異星人というのは真っ赤なウソ。種を明かせば、最新技術を駆使した単なる三次元映像だ。つまり隣の宇宙の出来事は、催眠状態で楽しむバーチャルな夢物語というわけだった。二人がエリナの寝ている部屋に入ると、エリナはとっくに目覚めていて、事務局長と話をしている。エリナの横にはエリナ役の声優もいた。

「ご苦労さま。これであとは彼らの働きにかかっているわ」とエリナはいって二人にウィンクをした。

「彼らは完全に洗脳されたな。我々の仕掛けた大宇宙物語にはめられたのさ。彼らはゲーム世代の人間だから、幻想の世界にはまり込むのも簡単なんだ。二人ともすっかり殺人ロボットになり切っている」と事務局長。

「ルナが昔憬れていたユウを引っ張り出したのも成功の要因ね」とエリナ。

「しかし、まだまだ成功という言葉は使えないぞ。最終目標を達成したときまで、この言葉は取っておきたまえ」

事務局長がいって、太く短い人差し指をワイパーのように揺らした。

「我々のターゲットは息子ではなく、次期首相候補ですからね」とドッペル・ユウの声役が付け加える。

「そうそう、ルナはひたすら夫を殺すだけでしょ」とドッペル・ルナの声役。

「そこは抜かりがないわ。実行役は別にいるんだ。後援者宅に一年前から入り込ませたお手伝いさん。彼女はイギリスで、バトラーの勉強もした逸材よ。彼女が次期首相のシャンパングラスに毒を盛るの。金だけで動く殺し屋だから、いまさっき〝今夜実行〟ってメールを送っておいた。でも、その毒はルナも持っているから、捕まるのはルナ。証拠は毒だけじゃなくて、この録音」といって、エリナは先ほどの四人の会話を再生した。

「これを警察に送れば、ルナが実行犯、ユウが共犯だということになるわね。当然あなたたちの声はカットするから大丈夫よ」

 

 玄関でチャイムが鳴った。解体屋である。もろもろの装飾品や家具類を撤去するのに二時間もかからなかった。ほとんどすべてがタダ同然に持ち去られて空き部屋状態になったが、金庫みたいなドアとUFO、ガラスケース、3D映像機器はそのままだった。高価なものなので、依頼人の指示に反して残しておき、夕方に取り外して倉庫にでも保管しておこうというわけだ。殺人請負人たちにとって、同じ手口なら何度でも再利用できる大道具だ。

 すると再びチャイムが鳴った。「先生だわ」といって、エリナが玄関に走っていった。やってきたのは大沢とその第一秘書。レンの父親とは同じ党で、ライバル視されている大物政治家だ。レンの父親が暗殺されれば、首相の座が転がり込むというわけだ。

「どうだね、首尾よく進展しているかね」

 大沢は革手袋をしたままで事務局長と握手をした。

「上々です。先生をここにお呼びしたのも、我々の仕事が完璧であることの証明になります。今晩実行しますから、この事務所も今日中に撤去します。証拠類はすべて焼却しております」と事務局長。

「あいつが政治がらみで殺されたと思われたくないからな。殺人の詳細についても聞かないでおいたほうが得策だな。そのかわり、確実に今日だね」

「シナリオはちゃんとしていますわ。ルナは高校時代の同級生ユウと浮気して、財産目当てでレンを毒殺する。レンは一人息子だから、一緒にレンの両親も死ねば、一家の資産はすべてレンの嫁、つまりルナに転がり込むわけですからね。共犯はユウで、それ以上広がることはありません」

 エリナは自信満々の顔つきでいった。

「ユウは知らんがルナとレンは知っている。知ってる固有名詞を出されても、聞き流すだけでいいんだね。いずれにせよ、私が犯人だと疑われなければ上々さ」

 大沢はいって、薄わらいを浮かべた。

「明日になれば、先生は次期内閣総理大臣ですよ」と事務局長。

「明日になれば、君たちも金持ちさ。僕は約束どおりに報酬を支払うからな。その前に前祝いといこう。げんかつぎさ。どういうわけか、前祝いすると必ず成功するんだ」

 大沢は手袋のまま持参したシャンパンを開け、秘書が持ってきた紙コップに次々と注いでいった。

「先生の勝利を期して乾杯!」

次期総理と秘書を除いて全員がコップを飲み干してから、事務局長はけっこう苦い後味に首をかしげてたずねた。

「まさか、こっちにも毒が入っているわけじゃないでしょうね」

「そのまさかさ。気が付くのが遅いな。君たちは本当にプロなのかね。首相になるためには裏金工作が必要なのさ。どうせなら、君たちに払う金は節約したいんだ。それに、口封じの意味もあるのさ。後々君たちに金をせびられたらたまったものじゃない。さて、そろそろ口から血を吐くやつが出てきてもよさそうだ」

 エリナが思い切り血を吐き出すと、次期総理はうまい具合にそれをかわした。ほかの三人も、次々に血を吐き、バタバタと倒れていった。次期総理は悪魔のようにゲラゲラとわらいながら横目で悶絶する連中を眺め、全員の呼吸が止まるのを見届けると満足げに大きくうなずき、秘書に目配せした。秘書はプロの殺し屋さながらの落ち着いたしぐさで自分たちの紙コップだけポケットにねじ込み玄関のドアを開くと、二人はドロドロとした政治の闇世界に戻っていった。

 

 

 ルナとユウがホテルで激しく愛し合っているとき、ルナのケイタイにレンからメールが入った。

〝オヤジが風邪引いて今晩の夕食会は中止。今日は帰らない〟

 ルナは目をまん丸にして、ユウにそれを見せた。

「こういうこともあるさ。何でもうまい具合にことは運ばない。さっそく、事務局長に連絡だ」

 もちろん電話口にはだれも出ない。二人はとりあえず服を着て、神田まで戻って事務所の前で待つことにした。玄関のカメラが壊されていて、管理人立会いで技術者が修理をしていた。エントランスのドアは開いていたので、管理人に挨拶して事務所の階に上がった。表札が外されている。ベルを押しても人が出ない。ドアノブを回すとドアが開いたので、中に入った。室内はがらんどうで、強烈な嘔吐物の臭いがする。隣の部屋に入ろうとすると、床に転がる五人の死体を目にし、その中に事務局長とエリナが含まれていることを発見した。床は血の海になっていたので、部屋に入ることをやめ、代わりに空飛ぶ円盤の部屋に入った。分厚いドアを開けると、ガラスケースの中に円盤と椅子がしっかり残されていた。アバターを呼んだが出てはこない。

 奥の秘密部屋のドアが半開きになっていて、灯りが漏れている。そこにはミキシングルームみたいな装置が置かれていて、マイクロフォンも数本あった。操作盤のボタンの下に「ユウ」「ルナ」「エリナ」と書かれていたのでユウが三つとも押すと、円盤のハッチが開いて三人の立体映像がぞろぞろと外に出てきた。ルナが「椅子に座る」と書かれたボタンを押すと、三人とも次々に、デッキチェアに座った。

「こんにちは、いかさまヤローども」とユウがマイクに向かって話すと、ドッペル・ユウの声に変換された。「私たちを騙したのね」とルナが隣のマイクに向かって話すと、ドッペル・ルナが同じせりふを話した。

「ところで君のダンナを殺すことは、どんな意味があるのかね?」とドッペル・ユウ。

「それは、ダンナの父親の政治生命が絶たれることを意味しているわ」とドッペル・ルナ。

「ということは、我々のミッションは急遽中止だ。しかし面倒なことには、殺人現場に我々がいる」とドッペル・ユウ。

「すぐにここから出ることね。すぐに出ればだいじょうぶ。五人を殺す時間なんかないと証明できる」

 ユウは映像のハードディスクを探し当て、粉々に砕いた。ルナはハンドバッグから毒入り小瓶を出し、小窓から神田川に放り投げた。二人は大急ぎで事務所から出て、監視カメラを修理中の管理人と技術者に挨拶してマンションを後にした。

 

「僕たち二人の顔を彼らは覚えているかな?」

「きっと大丈夫よ。修理に夢中ですもの」

「あの部屋には、僕たちの指紋やDNAが残っている」

「シマッタ! でも、私たちには殺す理由なんかなんにもない」

「問題は、死んだエリナと僕たちが知り合いだってことだ」

「そんなことはどうでもいいわ。私たちは愛し合っているんだもの」

「君ってすごくポジティブな女性だね」といってユウはわらい出し、二人は神田川沿いの細い道路の真ん中でキスをした。通行人が二、三人、横目で見ながら顔をしかめた。そのときルナは、あの忌まわしいミッションのことを思い出した。突然キスを中断して顔を背け、ボソリといった。

「……私、平気で夫を殺せる人間だってことが分かったわ」

「洗脳されたんだ。だれだって洗脳されればそうなるんだよ。僕たちはただ、賢くなかっただけの話さ」

 ユウはそういってから、震えるルナを再び抱きしめた。二人とも止めどなく涙を流しながら体を回転させ、閑散とした川沿いの道を引き返した。もう一度、変わり果てたエリナと再会しなければならない。むだになるかもしれないが、徹底的に指紋をふき取る努力はすべきだった。

 

 

 

 党の後援会長はしかし、次期総裁候補のだれに肩入れするか迷っていた。そこで今晩はレンの父親と、お互いの政治観について胸を開いて話し合おうと思っていた矢先、断りの電話が入ったのだ。いつもは家の料理人が腕を振るったが、今日は特別に高級ホテルの料理長を呼んで仕度をさせていたのに肩透かしを食ってしまった。

「風邪くらいでキャンセルするのは、次期総裁としては失格だな……」と少なからず腹を立てたが、秘密裏の会食であることをいいことに、あるアイデアが思い浮かんだ。対立候補である大沢を呼んで、話してみるのも面白いと考えたのである。秘書を通じて連絡を取ると、「喜んで」という返事が返ってきた。これで、夕食につぎ込んだ費用は無駄金にならなくてすんだ。

 

 午後七時、大沢は妻と第一秘書を連れてやってきた。後援会長は妻とともに車まで出迎え、自慢の広間に案内した。まずは料理の前に、我が党の発展を期してシャンパンを抜く手はずである。

「そういえば、あなたは前祝いが好きだといっていましたね」と後援会長。

シャンパンをご用意いただけるとは、うれしい限りです。前祝いをすると、なぜか物事がうまく運ぶんです」

女性バトラーがポンと詮を開け、盆の上の五つのシャンパングラスに次々に注いでいった。そしてなぜかグラスを一つ一つ手渡していった。

「それでは会長、乾杯の音頭を」と第一秘書が大きな声でいった。後援会長は「わが党の発展を期して乾杯!」とグラスを掲げ、全員が一気に飲み干した。 

                                      (了)

 

 

 

 

響月 光(きょうげつ こう)

詩人。小熊秀雄の「真実を語るに技術はいらない」、「りっぱとは下手な詩を書くことだ」等の言葉に触発され、詩を書き始める。私的な内容を極力避け、表現や技巧、雰囲気等に囚われない思想のある無骨な詩を追求している。現在、世界平和への願いを込めた詩集『戦争レクイエム』をライフワークとして執筆中。

 

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