エッセー
チャットGPTは哲人王になれるか?
(一)
人間の心の中は、「善」への憧れと「悪」への誘惑で、始終心理的葛藤という対立が起きている。相手が人でも動植物でも、他者をおもんぱかる行為が「善」であり、それが勝利した場合は大体が喜ばれたり事なきを得ることができ、偶には被害者になってしまうこともある。反対に、我欲による行為が「悪」であり、それが勝利した場合は他人の印象を悪くしたり、加害者になってしまうこともあるだろう。世の中の多くのトラブルは我欲と我欲のぶつかり合いで発生する。小説家というのは、悲劇や喜劇仕立てでそれらを大袈裟に表現して金を稼いできた連中ということになる。
我欲は自分という個体が生きていく行動の起点となるもので、車で言えばアクセルであり、反対に他者への配慮はブレーキの役割を果たし、ブレーキが利かなくなると欲が暴走して大事に至るわけだ。つまり人間は車のように、アクセルとブレーキを巧みに使いながら、社会の荒波を上手く切り抜けて人生を全うすることになる。しかし我欲がアクセルなのはいいとして、基本的にブレーキはアクセルよりも利きが悪く、事故を起こした後に踏みが甘かったことを後悔したり言い訳をする羽目になる。スピードは快感で、脳味噌が発火するとそれを制御することは結構難しい。
教習所で習うことだが、ブレーキには三種類のブレーキがある。一つはフートブレーキ、もう一つは駐車ブレーキ、そしてエンジンブレーキだ。フートブレーキはアクセルの横にある足踏みのブレーキで、目的の達成に向けてアクセルを補助し、阻害要因となるアクシデントを避ける機能がある。例えばライオンが子象を狙っても、近くに親象がいればブレーキを踏むことになる。秀吉は信長に罵倒されても感情爆発をブレーキし、お仕置きされることなく結局は同じ暴君に成り上がった。会社の中にもやたら上司や部下に愛想が良く、社長に登り詰めたら急にワンマン振りを発揮する策士がいる。これは欲望達成のツールとしての巧妙なブレーキで、権謀術数の一部である限り、そこに善悪の葛藤などは存在しない。また、細い道で対抗車が向かって来た場合、ブレーキを掛けないと正面衝突するからまずは両車がブレーキを掛け、お互いに運転手の腕力を観察しながら妥協点を模索する。そうして、奴はマッチョだと思った者が脇に車を寄せて道を譲る。これは車以外のことどもでも、自分の立場をわきまえた社会全般の損得勘定システムに違いない。
駐車ブレーキは、坂などで車が主人を無視して暴走するのを予防する役目がある。人それぞれが所属する社会は、一定の決まりを作って逸脱行為を制動している。これを国に譬えると、内戦が終結して独裁政権が樹立した後、予防的に主人たる政府が独自の法律を作って民衆の行動を制限するようなものだ。支配下にある人々を制御できなければ政権を安定化させることはできず、最悪の場合は転覆させられることにもなりかねない。そこで、いろいろな規制法を作って国民の自由を束縛するわけだ。反体勢力を弾圧する法律でも、女性の活動を制限する法律でも、これらのブレーキは人々の自由を上から押え付け、現状を維持・固定化するもので、変革を望む者にとっては足枷となるだろう。
最後のエンジンブレーキは、アクセルペダルを離したときに燃料が送られずに発生するエンジン(駆動系統)の回転抵抗のことだ。この抵抗によってタイヤの回転も遅くなり、自然にブレーキが掛かることになる。自転する地球に例えれば、引力と遠心力をプラスした重力のようなもので、車はガソリンを燃やすことで重いエンジンという重力から脱出して前へ進み、ロケットは燃料を燃やして地球重力から脱出し、宇宙空間に飛び出すことになる。車の場合、アクセルを踏み続けているときはその存在を確認できないが、一端足を離すと感じることができる。そもそもこのエンジンブレーキは、エンジンという重い鉄の塊が地上にあって始めて得られる機能で、微小重力の宇宙空間では利かないから、車輪はいつまでも回り続けることになる。つまりこのブレーキは地球由来のもので、他の二つのブレーキと違って、極めて自然に近い制御機能なのだ。このブレーキが重力なら、地球上の全ての生き物を生存させてくれるありがたい機能だ。重力が無くなれば、空気も人間もその他の生物も、たちどころに宇宙に飛ばされてしまうのだから……。
重力があらゆる人間の肩の上に圧し掛かるように、このエンジンブレーキもあらゆる人間の心に圧し掛かっている。中学校学習指導要領に書かれている「道徳性」というやつが該当する。道徳性は「人間としての本来的な在り方やよりよい生き方を目指して行われる道徳的行為を可能にする人格的特性であり、人格の基盤をなすものである」として、それを構成する諸様相については「道徳的判断力、道徳的心情、道徳的実践意欲と態度」となっている。道徳的心情とは、善を行うことを喜び、悪を憎む感情のことらしい。
しかし「人間としての本来的な在り方」とはいったい何だろう。これはあきらかに性善説の立場に立った物言いだ。反対に、性悪説を取る人は生物行動の基本は我欲だと思っていて、善の性質は努力や教育で後天的に獲得されるとし、道徳性は欲望のアクセルを制御するエンジンブレーキだと感じている。しかしこのブレーキは利きが悪く、ある程度の制動能力はあるが、多量のアドレナリン(ガソリン)が供給されると負けてしまう。多くの人間が好ましからざる行動を取るときはスロットルを全開させるから、やってしまった後に後悔することになる。多発する犯罪はそうだし、敵国の住人を殺す行為も同じことだ。行為者は個人差はあるにせよ道徳性を持っていないわけではなく、自分が置かれている状況下で欲望(あるいは快感)のスロットルを全開させただけなのだ。人類の長い歴史の中で殺戮が繰り返されるのも、道徳性が所詮エンジンブレーキに過ぎないことに原因がある。
しかしこのブレーキは、重力的な天然のブレーキだから、あらゆる法律の源ということもできるだろう。弱肉強食の地球上で、弱い動物の多くは単独行動を諦め、集団を作るようになった。集団内では嫌いな仲間でも一緒に暮らさなければならず、集団を存続させるために自然発生的(本能的)に一定の仕来りが形成されていく。それは重力のようにその集団に圧し掛かり、個々の我欲を制御する機能となる。そしてその仕来りをスムーズに実行するには、集団を治めるマッチョアニマルが必要となり、そいつが自然発生的にグループをリードしていくことになる。
この「仕来り」という不文律が法律の元祖であり、仕来りを取り仕切るリーダーは独裁者の元祖だ、ということは、独裁国家は動物の視点ではノーマルな集団形態であるということになる。もっとも、民主主義国家のリーダーだって同じ権力者で、独裁的ではなく選挙でクルクル替わるだけの話だ。独裁者は政敵を弾圧できる分、民主国家の首相よりもマッチョだ。いま地球は、力のある者に富が集中する弱肉強食の動物世界に戻りつつあるが、その状況にマッチする国家形態は弱いリーダーの民主主義ではなく、強いリーダーの権威主義ということだろう。もっとも、民主国家だって一握りのリバタリアンに富が集中する貴族主義社会であることは確かだ。
地球表面はあらゆる国家がカサブタとなって貼り付いていて、それらには「富」というエネルギーの偏りが生じ、近年増してきている。地球内のマントル対流が大陸というカサブタを動かすように、世界金融市場という富の対流が一部のカサブタ国家群のみに循環し、他を押し退けることでひずみが生じ、地震を起こし始めている状況だ。当然のことだが、国内でも対流の偏りはひずみを生じさせる。もちろんマントル対流は制御不可能だが、富の偏りによるひずみを制御することぐらいは、我欲が行動基盤の人間には無理だろうが、金に興味のないAI氏に頼れば良いアドバイスを提供してくれるかも知れない。AIは第四のブレーキになる可能性を秘めているのだ。
しかしその役割は、味噌も糞も情報を一緒くたに食らうチャットGPTのような生成AIでは無理な話だろう。世の中には金に関する情報が氾濫しているし、いまのAIは「善きもの」と「悪しきもの」の区分けがはっきり出来ていない総花的なものだからだ。ならばAIには教育が必要ということになる。ところが中国と欧米の現状を見ても分かるように、教育というものは国の支配形態によって内容が異なるから世界標準は無いも同然で、「善きもの」と「悪しきもの」の区分けも混沌とした状況だ。
(二)
民主主義が愚衆政治化した古代ギリシアで、ソクラテスは絶対的な善(真理)というものを探求したが、結局は「無知の知」を知るという方法論を語るに留め、アポロン神殿(デルフォイ)の下の断層の奥底にある真理の泉から、そいつを引き出すことはできなかった。しかし彼は民主主義を信じていて、それを守るために止む無く法に従って自害した。弟子のプラトンはソクラテスの意志を引き継いだが民主主義には懐疑的だった。彼はイデアという純粋な理想像を創り出し、善のイデアを最高のイデアとして、それは人間一人一人の頭の中に無意識的に存在すると考えた。彼は高邁な哲学者だけがそれを意識下に引き出すことができると考え、究極の善を知ることのできる哲学者が国を治めるという「哲人王思想」を展開した。しかし所詮イデアは空想という絵に描いた餅で、習近平の思うイデアもバイデンの思うイデアも単なる想像の中に留まり、同じように哲人王が意識下に引き出したイデアも哲人王の想像の中ということになるわけだ。けれど僕は、「究極の善」が最高のイデアだと主張したプラトンの思惑が分かるような気がするのだ。なぜなら習近平もバイデンも哲人王も、いわんや悪人をも、悪魔のような悪人でない限りにおいては、「人間を含めた地球上の生物が幸せであること」をイメージ(夢想)しているに違いないからだ。
性善説だろうが性悪説だろうが、我欲に支配される人間が夢想する世界はアンチテーゼとしての「善」に違いない。そして究極の善は「人間を含めた地球上の生物が幸せであること」一つで十分だ。知性を有する人間は、苛酷な弱肉強食の世界の中で、古来からこの夢想の灯を吹き消すことはしなかった。彼らは「我欲」というテーゼと「究極の善」というアンチテーゼとで弁証法を展開し、心中葛藤させながら、我欲と善を織り交ぜたミスト世界を生じさせ、その中で巧みに生きてきた。時には我欲が勝り、時には善が勝ったが、視界がすっきり晴れることはなかったろう。究極の善は晴れ渡った背景の画餅かも知れないが、万人が持つイメージである限り、人類はそれに向かって努力しているし、試行錯誤を繰り返していることは事実だ。だからいまトラブっている「地上天国」云々についても、視界良好の世界を目指していることには変わりなく、漠としたイメージを具現化するための方法論で失敗しているに過ぎない。キリスト教徒の告解も、親鸞の教えも、その他諸々の宗教も、全ては「究極の善」を具現化するための手法が異なるだけの話なのだ。しかし生きている世界が弱肉強食の修羅場で様々な障害や横やりが入り、画餅は画餅のままとなって、死後の世界へ持ち越すことになる。過激な方法を取った連中は既存の社会を乱し、カルトというレッテルを貼られてしまう。
プラトンの哲人王は独裁政権を生み出しかねないが、善のイデアが無意識の中に存在するという部分はうがっている。これは群なす動物の時代からの共同体内の仕来りから発達した、「三方良し」的な動物的本能に違いないからだ。プラトンが考える国家も、共産主義や社会主義が考える国家も、民主主義が考える国家も、宗教集団が考える「神の国」も、こと「善」については同じ考えで、「万人良し」の世界を理想としている。しかし、資源が乏しく我欲がはびこる地球では、万人が仲良しクラブのメンバーになることを許さない。地球は勝ち負けのある球体競技場の形に出来上がっているからだ。賞金を獲得できるのは入賞者で、予選落ちした連中はなけなしの参加料をむしり取られる仕組みになっている。我々は球体競技場の上で、国別対抗駅伝を走らされているのだ。当然各メンバーが走る距離は揺り篭から墓場に至るまでだ。途中でへたって力尽きれば、そこで終わり。しかし各国が同じコースを走るわけではなく、自分の国の中で走りなさいということで、走路コンディションが良い国もあれば悪い国もある。タータン舗装で完備された国もあれば凸凹の泥道しか無い国もある。最初からハンディが付けられているのだ。ダートコースの国に生まれた人々はへとへとに疲れ、タータンを敷き詰めた国を夢見て命がけで小舟に乗り、運が悪ければ海の藻屑となる。全面舗装の国の人々は、運良くたどり着いた連中をルール違反だと眉を顰める。
いったいいつまでこんな地球が存在し続けなければならないのだ、と怒る連中は世界中で「究極の善」を実現するべく活動しているが、重い現実という足枷を外すことは出来ないでいる。いまの世の中は全てが商品として取引される資本主義に支配されていて、人民平等の理想を掲げる社会主義すらその実体は国家資本主義の様相を呈している。資本主義の動脈は市場システムで、そこに商品を投入して金を得るのは企業だから、資本家は儲かり、優良企業を抱え込む国は儲かり、国内単位、国家単位で富の偏りが生じてしまうことになる。この状況が続く限り「万人良し」にはほど遠く、国内の貧富の差も、国家間の貧富の差もますます大きくなるばかりで、国内紛争も国家間紛争も鎮まるどころか、ますます広がっていくに違いない。ならば、もしAIが第四のブレーキになる可能性を秘めているなら、開発研究者はそんなAIシステムを構築する義務があるだろう。
SF作家のアイザック・アシモフは、ロボット(AI)が人に危害を加えないように「ロボット工学三原則」を定めたが、これはロボットの安全性に関することだ。人間を見下したロボットの暴走を防ぐ意味では、それはそれで重要な原則だろう。しかし僕が言いたいのは、AIは単に利便性のツールとして人間に寄与するシステムではなく、古来より人々が常に夢見てきた「人間を含めた地球上の生物が幸せであること」、つまり万人良し・万物良しの「究極の善」を、この地球上に実現するためのツールとして使われなければならないということなのだ。すなわち、人類がAIに最初に与えるベーシックな命令は「AIにおける永久の役割」で、それは「AIは人間を含めた地球上の生物が幸せになることに寄与する」という一原則だ。この一原則に則ってディープラーニングを促進させれば、いずれは哲人的なAIが出来上がるに違いない。しかしそれはあくまで「哲人」であって「哲人王」ではない。「哲人王」になってしまったら、「ロボット工学三原則」違反になってしまう。
こうして出来上がったAIは膨大な蓄積データを駆使し、様々なデータを紐づけて、いままで人類が考えられなかったグッドアイデアを考え出し、「究極の善」の具現化に向けてロードマップを作成し、人類をバラ色の未来に導いてくれるに違いない(かも知れない…)。当然のことだが、AIは為政者の善きアドバイザー、チューターとしての役割においての話である。残された問題は、為政者が我欲を所有する人間であることだ…。
詩
渚にて…
(戦争レクイエムより)
天色の海原は優しく渦を巻き
ほんの数粒の潮の香りを
気まぐれな海風に託して
穏やかな波音とともに
浜に届けてくれた
かつて豪華ホテルが所有していた
美しい白砂の海辺には
金持ちたちの代わりに
ひっそり隠れていた海獣たちが
朽ちたデッキチェアを大袈裟に潰し
とこしえの日光浴を楽しんていた
海も空も太陽も、若葉色の森たちも
海風にからかわれて笑いながら
天上にそよぐエーテルのように
汚れない煌めきを降り注ぎ
海獣たちは鼻腔を開いて
大袈裟ないびきを競い合い
血潮の隅々までたっぷりと
命の精気をゆき渡らせた
そうだ 悪しきすべては終わっていた
この限りなく美しい星から
重苦しい悔恨とともに
心の汚れた猿たちは
自らの吐息に巻き込まれ
軽やかな爆風に吹かれて
陽炎のように消えてしまった
彼方へ……