詩人の部屋 響月光

響月光の詩と小説を紹介します。

エッセー 「チャットGPTは芸術家になれるか?」& 詩

エッセー
チャットGPTは芸術家になれるか?

 昔「私小説」の盛んだった時代が日本にあった。作者自身が主人公で、自身の体験や心理をあからさまに書いた小説だ。さすがに自分を書く小説は少なくなったが、架空の人物を主人公に自分自身のことを感情移入させた作品が、いまでも文学賞を取ったりしている。そうした作品は同じ悩みや似た感性を持つ読者の共感を呼び、ベストセラーになることもあるだろう。反対に、特異な感性の自分を感情移入させた作品は共感する読者も少なく、あまり本が売れることはない。

 一方、『ドン・キホーテ』などの物語的な作品は、最初から商業目的に書かれた作品で、波乱万丈なストーリーを考え、登場人物もいろんな個性の持ち主を設定することで風呂敷を広げ、より多くの読者を取り込もうとする。シラーなどのロマン主義文学が最たるもので、いささか鼻につくような意外性を伴う急展開は、いまでも読者を喜ばせるコツとしてしっかり受け継がれており、舞台化や映像化されて莫大な興行収入を稼ぎ、個性的な登場人物のグッズには多くのファンが群がっている。

 しかし、私小説だろうが大衆小説だろうが、人間が書いているのだから、作品の端々に作家の考えや心が滲み出ていることは確かだ。書き手が千差万別で、それぞれの心も千差万別なのだから、どんな小説にも書き手の個性は出てくるに違いない。紙に書かれた文字はあくまでシニフィアン(表象)で、紙背には作家のシニフィエ(心象・意味・考え)が潜んでいるわけだ。しかしその作品を読者が読むとき、彼は自分のシニフィエで作家の書いたシニフィアンを読み解くことになる。ここに書き手と読み手の微妙な「すれ違い」が生じる。読者は自分のシニフィエでしか理解はしないからだ(同じ「海」でも、作家がイメージする海と読者がイメージする海は異なる)。つまり、作家の言いたいことと、読者の受け取ることとの間には、永遠に渡ることのできない溝が存在している。これは、美術や音楽も含めて、あらゆる芸術に存在する溝だろう。だから、同じ作品に関する批評家の解釈も、千差万別ということになる。評論は作品を出汁にした批評家の作品なのだ。

 多くの作家は、自分の作品に自分の心を潜ませても、読む者にそれを強要しようとは思わない。どんな誤解があろうと、ケチを付けられなければ満足だろう。デートする相手の真の心が分からなくても、デートが上手くいけば良しとする恋人たちと同じことだ。彼らは「愛の営み」というシニフィアンを共有することで、互いの異なるシニフィエを満足させたのだから……。「全てはお客様の満足のために……」という使い古されたキャッチコピーがあるが、すでに評価が確定している巨匠やセザンヌのような意固地な芸術家以外は、自分の意図が理解されなくても、読者(鑑賞者)が満足すればある程度満足するに違いない。

 僕が言いたいのは、芸術作品は奥深いものであっても、客(受け手)が読んだり見たり聴いたりするのはその表面で、それを客が自分なりの解釈をして受け入れるものだということなのだ。例えば『古池や蛙飛びこむ水の音』を多くの人が名句だと思っているが、正岡子規を始めとするいろんな文人が、いろんな角度から解釈して「奥深い名句だ」と評するのを鵜呑みにしているだけに過ぎない。しかしそれらの文人だって芭蕉が句を書いたときの心境を知っているわけではなく、俳句の歴史などを鑑みながらいろいろ難しい解釈で「奥深い」と評しているわけで、天上の芭蕉が「単にそのとき思い付いただけだよ」と苦笑いをしているかも知れない。名作の多くは軽い思い付きから派生するもので、過剰に深読みする批評家が価値を付けるなら、その批評を鵜呑みにして名作だと思い込む一般の読者を含め、評価は全て作品を受け入れてくれたお客様側の好みや解釈ということになる。たとえ作者の意図とは異なるものであってもだ。

 いくら素晴らしい意匠を込めた作品でも、受け入れられなければそれはただのガラクタに過ぎない。そしてその意匠は作家のシニフィエであって、客が感じるシニフィエではない。けれど、シニフィアンを通して作家のシニフィエが客に理解されない限りは、その作品が真に理解されたとは言えないだろう。しかし芸術というものがお客様あってのものという一つの商品である限り、作品のシニフィアンを客のシニフィエで理解するという原則は変わらず、そうした多少のズレの上で、客の理解や共感が成り立っているということになる。機微の部分が誤解されても、誤解されにくい骨子の部分で多くの客が共感すれば、ベストセラーにはなるだろう。つまり、作品にとって大事なのは、本を買ったり美術館に行ったりコンサートホールに行ったりするお客様の心で、作家の心ではないということだ。もちろん、発表時点で客の心を捉えられなくても、吉田兼好若冲のように大分経ってから評価を受け、歴史に残ることもある。もちろん研究者や好事家は、検察官のように作家の人生や思想を調べ上げ、作品に込めた作家の意図や執筆時の心境に近付いて、思い込みを出来るだけ避けようとする。

 それでは新たな芸術家として名乗りを上げつつある「チャットGPT」などの生成AIはどうだろう。彼らの本質は芸術家ではなく、莫大な文献を暗記する文献学者である。彼らがひたすら集めている文献は、文学だったら文章や言語構造や文字化された知識、絵画だったらキャンバス上のデザインや色彩やその配置、音楽だったら楽理はもちろん音の配列や和音や音色等々、過去や現在のネット上のデータ、芸術家たちが発表した大量の作品、すなわち莫大な数のシニフィアンということになる。そこには、芸術作品の裏にある作家の悪戦苦闘や感動、複雑な想念などのシニフィエは存在しない。

 これらのビッグデータを解析して文脈や意図を把握し、単語(要素)単位で細切れにして、確率性の高い単語どうしの関連性を考えながらジグソーパズルのように組立て、筋の通った作品にまとめていくわけだ。基本的に多数の人間のフィードバックから学習して整合性を磨いていくので、多くの人間の嗜好性も分かるようになり、個別の客の要求に対応しながらも、大衆芸術(文学)を提供することができるようになる。当然このフィードバッグは客のフィードバッグで、古今東西の作者のシニフィエではない。彼らは作家のシニフィアンは盗用するがシニフィエを盗用するわけではない、ということは、「お客様は神様です」というキャッチコピーに則った、客好みの作品を学習し、どんどん発表していくことになる。そこに有名作家の個性的な文章が載っていたとしても、表面的にパクられただけの話だ。生身の芸術家でいうと、変に手練れてしまって、芸のツボや客が感動するツボをしっかり押さえて楽をするということだろう。そうした芸術家は、大衆的感性に媚びた単なる商売人だ。

 しかし当然のことだが、AIの収集データにまだ入らない新しい意匠の作品が、真の芸術と言われるべきものだ。難解な小説『ユリシーズ』を書いたジェイムス・ジョイスも、多視点で絵を描いたセザンヌも、無調音楽を始めたリストやシェーンベルクも、芸術の変革者として歴史に残っている。たとえそうした試みが世に受け入れられなくても、多勢の感性に踏みにじられて埋もれてしまっても、死の谷に落とされただけで本質的な価値は変わらない。ダイヤモンドの採掘者が見つけるか見つけないかの問題に過ぎないわけだ。基本は商品なので、発見され喧伝されれば価値は出るが、されなければ歴史的に無価値ということになるだろう。

 ならば芸術が商品で、多くの客の共感を得て満足させる限りにおいては、AIが客の嗜好を学習して感動のツボを押さえ、提供する作品が客を唸らせるのなら、それは芸術といえるだろう。作家と読者(鑑賞者)のシニフィエの間の溝に甘露なシニフィアンを流し込み、埋めることができるなら、たとえAIがシニフィエ的な心や感情を持っていなくても、読者を満足させるに違いない。所詮芸術は、人間の妄想が生み出した茫漠とした物どもで、そこにしっかりとした規約があるわけではないのだから、客が騙されて感動すれば、それでオッケーというわけである。

 しかし芸術は本当に商品だろうか。そんなことは単なる社会システムの問題に過ぎないと思っている一部の人々は、きっと客の要求で『ユリシーズ』のような小説を気楽に書いてしまうAIの可能性に、恐れを抱いているに違いない。AIは、悪戦苦闘する作者の心という創造性の根源を、まったく分からない連中なのだから。それともAIは、芸術の新たな歴史を創る変革者になるのだろうか……。ならば芸術の本質は、味わう者の「錯覚」ということになる。

 

 


何か良くは分からないこと

何か良くは分からないけれど
僕はいま、長ったらしい海岸を歩きながら
茫洋とした海原を見つめている

何か良くは分からないけれど
無尽蔵の海水の中に
魚たちが長生きをしようと
敵たちからひたすら逃れるために
がむしゃらに泳ぎ回る姿を空想している

何か良くは分からないけれど
砂浜の境目に建つ小さな鶏小屋で
三匹の鶏が少しでも生き延びるために
懸命に卵を産んでいる姿を見たような気がした

何か良くは分からないけれど
鶏小屋のずっと奥の山に住む
腹を空かせた熊の母子が
里に出て悪さをしたと
通りがかりの村人から
聞いたような気がした

何か良くは分からないけれど
ボロボロになった僕の心は
少しばかりすっきりして
都会に帰ったら たぶんきっと
もう一度あすこで働いているような
嫌な予感がした…

 

 

 

 

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