エッセー
初詣を考える
~我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか~
毎年初詣に行っている。満杯の駐車場を考えて徒歩にすれば、家から近くでも疲れるものだ。ふだんは閑散としている境内には、鳥居を越えて長蛇の列が出来ている。賽銭箱の前に到達するまでに小一時間はかかった。罰当たり者で、作法は知らないから前の2組の真似をして、賽銭箱に小銭を入れてから鈴を鳴らし、2回お辞儀をして手を合わせ、手を開いて2回打ってから祈り、深いお辞儀をした。前の人が間違えたら、その前の人の責任かも知れないけれど、僕も間違えたことになる。それを全員が真似ればきっと主流となって、いずれ正統な作法となる。神様は苦笑いするだろう。
スマホで調べると参拝の作法が色々書かれているし、中には手を打ってはいけないとするものもあって、識者の意見も違うようだ。作法は色々あるらしく、まずは鳥居を潜らずに、姑息に横の抜け道から境内に侵入したのもまずかった。結局鳥居を潜って外へ出て、列の後尾に並んでからまた鳥居を潜って進入し、そのとき鳥居にお辞儀をしなければならなかったけれど、誰もやっていないので僕もしなかった。きっと五つぐらいは無作法を仕出かしただろう。
作法は神道と仏教では異なるし、仏教では宗派ごとに違ってくる。神社仏閣だけでなく、伝統的なお習い事にも作法は付き物で、同じ茶道でも家元が違えば作法も違うことになる。「道」の字が付けば、それぞれに作法や仕来りが違って、それが差別化や権威付けにもなっているわけだ。とちった場合に勉強不足と嗤うのは宗派や流派にしがみ付く周囲の人間で、仏陀や千利休が怒っているかは想像の世界でしかない。ひょっとしたら「勝手に作法を創りやがって!」と分派・家元を叱るかもしれない。
果たして無作法な人間に御利益があるかどうかは、神様の御意思次第だろうが、神様が失敬な奴だと判断すれば御利益はないし、ひょっとしたら天罰を食らうかもしれない。いやいや、大事なのはきっと心だ。論理的に考えると、僕の予想では大多数の参拝者に御利益はないだろう。作法を完璧にこなした参拝者だって分からない。神道でも仏教でも、日本人のほとんどが、それほどの信仰心を持っているとは思えないし、ふだんこの神社は閑散としていて、僕も含めて多くの人が正月以外は参拝に来ないと思えるからだ。普通に考えれば、お百度参りをするぐらいの根性がなければ信仰心があるとは言えないし、賽銭を弾んでも、寺社側がお金の額は関係ないと言っているのだから、それで願いが叶うはずもないだろう。塀の石柱に高額寄進者の名前が彫られていたって、維持管理者が喜んで彫っただけの話で、崇高な神様が一緒に喜んだらとんだ神様になってしまう。不信心者は自分の胸に手を当てて、深く考えてみればいい。咄嗟のときの神頼みと、どこが違うのか……。
初詣は、明治中期に社寺と鉄道会社がキャンペーンとして始めたものが、広く習慣化したのだという。ならば、〇〇の神様というキャッチフレーズも故事来歴はあるにせよ、意外と社寺の思惑だったりして……。例えば〇〇明神は商売の神様だというが、それは商人たちの願いと維持管理者の思惑が一致しただけの話で、神様がそう思っているかは、神様と神主の意思疎通がない限りは分からないだろうし、神様がみんなの前に現れてそう主張しない限りは証明されない。反対に「俺は恋愛の神様で、商売の神様じゃないよ」と神様が主張したって、拝む人々の思い込みでそうなったのなら、神様には弁論の機会も与えられないわけだ。神様はため息を吐いて、「まあ、立派な社を造ってくれたのだから良しとするか……」と妥協し、意にそぐわない宣伝文句でも渋々我慢して、一件落着ということになっただろう。しかし内科医が嫌々ながら外科手術をするようなもので、効力のほどは眉唾物だ。
そうして商売人たる維持管理者の専門化工作が功を奏すれば、商売人が仰山お参りし始めて、たまたまその時期がバブル景気なら、儲かったのは神様のおかげだと思い込んで評価もうなぎ登りとなり、全国的に知れ渡る。商売人が神にすがってまでも商売繁盛を願うのは当たり前のことで、一度お参りしてその年は願いが叶った場合、次の年もお参りしないとまずいことになるかもしれないと思うのも当たり前で、結局習慣となる。仮にその年が不況で会社が傾いても、倒産の恐怖が脳裏にチラついて、藁をもすがる思いで次の年も初詣して願を懸けることになる。それでなんとか倒産を免れた場合は、その次の初詣にも参拝するが、倒産しちまえばもう行くことはないだろう。金運の神様も貧乏神になり下がったわけで、二度と参拝しないか、別の神様を捜すに違いない。
……ということで倒産した者が参拝しなくなっても、儲けた者は今年はもっと儲けようと思うし、首の皮一つで倒産を免れた者は地獄の淵から這い上がれたことに感謝し、今年の回復を願って参拝するから、「みんなで潰れりゃ怖くない」ってな大恐慌でも来ない限り、商売の神様は相も変わらず盛況だ。倒産者はお百度参りでもすればいいが、さほどの信仰心はないから神様も匙を投げ、結局疎遠となる。当然のことだが、倒産者は借金取りが鬼となってつつくから、お百度する余裕もなくなるし、現状が地獄なら毎日が傷だらけで恐怖心すらどこかへ飛んでっちまう。きっと習慣化した初詣を動機付ける半分の理由は、行かなかったことへの恐怖心で、それが現実になれば初詣の意義もなくなるということだろう。
ゴーギャンの絵じゃないけれど、多くの人は「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」 という問いかけに答えられないまま人生を送り、消えていく。つまり、現実という身の回り以外の部分はまったくの闇だ。宝くじを買っても、抽選会が来なければ結果は分からない。100歳まで生きられるかは、100歳にならないと分からない。過去はもちろん、生きている自分の立ち位置も、自分の将来も分からないまま、小舟に乗ってひたすら時に流されていく。ゴーギャンは借金地獄の中で健康を害し、最愛の娘を肺炎で亡くすなど、どん底状態で流れゆく不気味な闇に投げ込まれ、そいつに問いかける作品を描き上げてから自殺を試みた。
描かれた人々は南海の楽園で、難しい問いに答える必要もなく、ひたすらいまを生きている純朴なアダムとイブの末裔たち。時の流れに身を委ね、無垢なままに時の流れに乗って、走馬灯のように現れては消えていく「運命」という神聖なイコンなのだ。奥に描かれた死んだような青い像は「超越者」だが、絵の中で唯一答を知っている者だろうし、一般的には「神」と呼ばれる存在に違いない。この三つの問いかけは、キリスト教の教理問答に因るらしいが、不信心だった彼が考えたものは、「人間の運命」という一つの言葉だろう。人間は自分の運命をまったく知らないから、時には運命に翻弄されていると感じる。だから彼は、どん底という迷路が行き止まりであることを恐怖して、死を抜け道に考えたわけだ。
八方ふさがりになった場合、不信心者は「死」を抜け道と考えるのが定石だ。死後の世界は、「われわれはどこに行くのか」という問いかけの中に含まれる。人間全体を考えれば「人類はどこに行くのか」でも、個人的には「未来の私はどうなるのか」と「死んだ私はどこに行くのか」となり、いまの自分が生地獄にいて、未来への希望も見出せないと感じれば、死後の自分はいまよりはましかも……、と考えるようになる。普通その状態は「絶望」という言葉で表すが、そんな気分のときに人は自殺を試み、ゴーギャンは成し遂げられずに生き返った。
しかし絵の中には、「超越者」という形で神が描かれている。それはどう見てもキリスト像ではないけれど、キリストなら、明快に「どこから来たのか」の問には「神が創造した」と答え、「何者か」には「信仰者」と答え、「どこへ行くのか」には「天国」と答えるだろう。頑ななキリスト教徒が「進化論」を信じないのは、神がダーウィン以上に明快な答を示してくれるからだ。それは科学ではないかも知れないけれど、信徒にとっては納得できる真理で、苛酷な人生を良い方向に導いてくれる。「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」は、哲学には有効かもしれないが、「嘘も方便」と言うように、たとえ嘘でも大いに語って人々の不安を解消するのが宗教なのだ。そのことによって、運命に苛まれる「投げ出された子羊たち」は安堵し、何とか人生を全うできることになる。
だから全ての宗教が、「語り得ぬものの闇」に明答を与え、外部から見れば噴飯ものであっても、救われる一心で信じることになる。「我々はどこから来たのか」は、祖先が犯した原罪やら因縁やらカルマ(業)を背負ってやって来たのだし、現世に蔓延るサタンや鬼、悪霊、妖怪などは「我々は何者か」と迷う不信心者が遭遇する災難で、地獄は不信心者が落ちる「我々はどこへ行くのか」の目的地ということになる。そして嘘には虚飾が伴うように、人々の信仰心を高めるお膳立てとして、宮殿のような施設や王様のような衣装、絢爛豪華な調度品や独自の作法で威厳を醸成する。最初は嘘でも時が経てば真となり、代々の信者が救われたと感じるようになる。彼らは語り得ぬ暗闇の川に投げ出される恐怖から解放され、たとえ献金で極貧に陥っても、信仰という薄皮一枚に幸せを感じ、天国を夢見ながら人生を終えることになるだろう。
宗教団体は、基本的にはお賽銭や寄付・献金、祈祷料などで成り立っているから、四大宗教でも胡散臭い新興宗教でも、異なるのは歴史の長さでメカニズムは同じということになる。伝統宗教と新興宗教の共通点は「教説」が商品であることで、違いはお店だったら老舗組か新規参入組みたいなものだ。老舗は商品に自信があり、組織的に安定しているから潰れることはないだろうが、地の利が悪い弱小支店は年間売上500万以下ということもあるだろう。だからそこに骨を預ける檀家は布施をして寺を助けなければならなくなるし、それでも足りなければ境内を切り売りし、それでも駄目なら閉店・廃寺となる。各地の支店は巨大な蛸の足先ということで、胴体が潰れることはない。
老舗でもこうなのだから、新規参入組は独自の味付けで頑張らなければ客も増えず、「高額献金」という御作法の悪徳業者も出てくるわけだ。最近、悪徳宗教を規制する法律ができたそうだが、「教説」が人の心を癒す健康商品だと考えれば、お菓子やお酒といった嗜好品やコレクションなどの趣味となんら変わるところはなくなり、難しい法律になるだろう。「内心の自由」が日本国憲法で保障されている限り、買った本人が騙されたと思わないなら、それは精神を害する「毒物及び劇物取締法」の範疇になってしまい、常習者の人権侵害にもなりかねない。周りが騒ぐなら、医師や専門家の高度な判定も必要になってくるが、頼まれた専門家がどの宗教に毒物が混入されているかを私見で判断するなら、それは中国の法輪功弾圧と同じになってしまう。
いずれにしても、「信教の自由」を謳う日本では個別に判断しなければならないが、宗教も商品なら法も商品と考えて「悪法も法なり」と居直り、フランスなどの導入事例を参考にしっかり運用してほしいものだ。どうやらこの法は、新車のように最初にエイヤッと整えて、不備が見つかるたびにコソコソ改良していく以外はないだろう。いずれにしても、「宗教」は依存性の極めて高い商品であり、国は時代時代でそれを利用したり、排除したりしてきた歴史があるということだ。安易な気持ちで運用すると賭博禁止法のように、ご都合主義的なものになってしまう危険もあるだろう。
日本ではあらゆる麻薬が禁止されている。イスラム圏ではあらゆるお酒や賭博が禁止されている。共産主義国ではあらゆる宗教が禁止される。しかし、日本の賭博禁止法では、賭けマージャンは禁止されても、競馬競輪、パチンコ、宝くじは禁止されない。最近では、政府主導でカジノを造ろうという動きもある。要するに国や自治体に金の入る賭博は許され、金の入らない賭博は禁止されるという二枚舌。しかし競馬競輪で自己破産し、一家離散となる事例は枚挙にいとまがない。悪徳宗教と同じことが起きていても、政府は目を瞑っている。悪徳宗教を禁止するなら、少なくともカジノを推進しちゃいけないぜ!
宗教も金銭が絡むかぎりは商品だ。ある者は信心によって心を癒され、ある者はお酒によって心を癒され、ある者はチョコレートによって心を癒され、ある者は賭け事で心を癒され、ある者はポケモンカードで心を癒される。借金してでもフェラーリを買う奴、一本100万円のウィスキーを買う奴はいるだろう。それらは「夢」という人生の動力源たる欲望を解消する手段としての「商品」なのだから。どんなカルト宗教であっても、入信して大枚を払い、周りがなんと言おうが救われたと思う者はいるに違いない。これらすべては、「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」と問うても答えられない、四方を暗闇に囲まれた人間の不安を忘れさせる、依存性の高い「商品」なのだ。人間は、あらゆる「商品」にマインドコントロールされている。困った性だ。動物たちは夢を見ることもなく、毎日同じ餌にありついて満足するのに……。
詩
芸術とは…
赤ん坊はなぜ暗く
狭い子宮に閉じ籠るのだろう
それはきっと
押し出されるための
通過儀礼に違いない
愛する母親の
呪いの叫びとともに
顔が潰れるくらいの圧力で
長い産道に押し出され
もうダメかと思ったときに
大きな手で引っ張られ
光明の中に解放されて雄叫びを上げ
生きて産まれたことを感謝する
しかしいずれはその茫洋たる世界も
狭隘な袋であることを知るだろう
芸術も同じだ
周囲の腹圧に
息絶え絶えになりながらも
長い産道を押し出されながら
光を見出し翼を広げる、…しかし
支える力が無ければ躓いて
袋綴じの谷間に落ちていく…
幻想
お前たちはなぜ
幻想が真に変わると
密かに思うのだろう
美しい薔薇を思い浮かべても
棘のない幻に過ぎないのに
お前たちはなぜ
遠くの幻想を見て
それに向かって
走ろうとするのだろう
幸せな国の幻を見ても
ほんの一握りの幸せだろうに…
お前たちはなぜ
幻想を形にしようと
汗を流すのだろう
それが重みを持つときは
木々や獣たちが
潰されてしまうのに…
お前たちはなぜ
幻想の中で
生きようとするのだろう
それが崩れたときは
お前の願いも消えてしまうのに…
今までの作品
響月 光のファンタジー小説発売中「マリリンピッグ」(幻冬舎)
定価(本体一一〇〇円+税)
電子書籍も発売中
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