詩人の部屋 響月光

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エッセー 生き物たちの弁証法Ⅱ & 詩

エッセー
生き物たちの弁証法

~国会論戦の未来像~

 ソクラテスが活躍した頃のアテナイの広場では、ディベート(討論)が盛んに行われていた。いまの学校教育で行われているように、提示された主題について、肯定側と否定側、一つの意見と異なる意見の間で、日の暮れるまで論戦が繰り広げられ、周りを囲む聴衆のそれぞれが、ジャッジとなってどちらに理があるかを評価した。民主主義は古代ギリシアが発祥とされるが、政治に関してもたとえ愚衆政治と言われようが、人々はどちらかの意見をチョイスし、多数決によって政策が決定された。また、どちらかの政策を主張する者を多数決で選び、政治を託した。いまの日本も同じだろう。仮にその決定が市民に悪い結果を招いたとしても、その方法が民主主義の基本であるからには変えるわけにはいかない。つまり民主主義はいまに至るまで、たとえポピュリズムに陥ろうが、国民全員参加の政治形態であり(年齢制限はあるが)、それを持続させる必須アイテムは「多数決」であり、さらに突っ込めばその基本ツールは「弁証法」だということができるだろう。

 「弁証法」はギリシア語では「対話術」で、元はソフィスト(詭弁家)や政治家が戦わせたディベートのツールだった。討論を繰り返しながら相手の矛盾点を浮き上がらせ、相手を追い詰める手法に過ぎなかったわけだ。討論の中で徐々に相手を追い詰めていき、最後に打ち負かすという意味では、将棋の戦法と同じようなテクニックだった。しかし将棋とは違い、単純に勝ち負けが決まるわけではない。討論の中で相手の主張の矛盾を攻撃し、相手がそれに反撃できなかった場合、相手が声を詰まらせても頑なに非を認めなければ平行線をたどり、お終いになってしまう。

 しかしそこに第三者の聴衆がいた場合は、聴衆はそれを認識して勝ち負けの判断を下す。そして仮にこの聴衆の中に頭の良い奴がいれば批評家ぶった寸評を始め、それと違う意見の奴が反論してまた新たなディベートが始まり、ひょっとしたら二人の意見をうまい具合に取り入れた妙案が出てくるかも知れない。つまり互いに異なる二つの意見をぶつけ合う当事者には正否の二択しかないが、それを冷静に判断する第三者から、二つの意見を総合したより良い意見が生まれる可能性はあるわけだ。また、激論を戦わせた当事者も、後になって頭が冷えたときに、相手の意見にも一理はあったなと思えば、また新しい考えも浮かんでくるに違いない。現在の国会論戦は、古代ギリシアの広場でやられていたことを議事堂に場所を替えただけのことだ。

 プラトンは、この弁証法ディベートのツールから、イデアの認識に至るまでの思考ツールとして取り入れ、低次な思考認識段階からより高次な思考認識段階へと高めていった。つまり広場を頭の中に移転させ、観念Aと観念非Aを戦わせ、その過程からより高い認識である観念Bを得ようとした。しかし弟子のアリストテレスは、元々観念(仮象)から出発した言葉の遊びだとして真の認識(本質)には至らないと批判した。しかしヘーゲルは、この弁証法を人間の認識に係わるツールから、全ての事象に係わるツールにまで進展させる。一つの考えを肯定すると、その考えに含まれる矛盾点を指摘する別の考えが現れる。最初の考えを押し通すわけにはいかないから、別の考えを取り入れて総合統一させた新たな考えを創り出さなければならなくなる。その新たな考えがまだ理想的な考えでない場合には、また新たな矛盾点を指摘する考えが出てくる。そこで再び二つの考えを総合統一させながら、これを繰り返して理想の考えに近付いていく。こうして思考も文化も、その他のことどもも、時空軸に沿って螺旋的な軌道で上昇していく、と彼は考えたわけだ。

 そしてマルクスは、ヘーゲルのこの「弁証法」を受け継いで、Aと非Aがすべての自然の中に矛盾として存在し、弁証法的に展開・進展していくという「自然弁証法」に発展させた。つまり自然界では物質はもとより、生物でも(遺伝子レベルにおいて)Aと非Aは常に存在し、弁証法的に総合統一させながら進化していくという主張だ。そしてこのAと非Aは「闘争」によって統一されて、より高い存在のBとなると説いた。この論を当時の社会状況に当てはめると、階級闘争や革命ということになった。そしてこのマルクスの考えを具現化したレーニンロシア革命を成し、進化した社会形態である社会主義体制が樹立された。しかし結果は見ての通り、マルクスの夢見た共産主義社会は実現することなく、ソビエト連邦は74年間で儚くも崩壊した。

 ソ連の崩壊はいろいろ原因を上げることができるだろうが、最大の原因はマルクスアウフヘーベン止揚・総合)を「闘争」によってもたらされるとしたことだ。弁証法というのは、本来Aと非AからBに至る過程を繰り返しながら時空に沿って螺旋状に上昇していく、人類の時空的進化に必要なツールであったはずだ。しかしその過程の中に「闘争」を組み込めば、永遠に血を血で洗う戦いが繰り返されることになる。硬直化した階級社会を崩すためには仕方がなかったとはいえ、革命政府は堅牢な一党独裁政権(スターリン体制)を樹立し、次なる革命を危惧して弁証法という螺旋状のDNAを断ち切った。弁証法の展開には定立(A)と反定立(非A)が必要で、独裁政権はその非Aを徹底的に弾圧したわけだ。つまり、政権を取った政府や独裁者は、その性質上「保守」にならざるを得ない。そのときまず最初に壊さなければならないのは、時空に沿って上昇進化していく弁証法の螺旋階段なのだ。遠く古代ギリシア時代から、弁証法の土台は定立と反定立で、その片方が無ければ弁証法はツールとして成立できないことになる。

 いまのロシアも中国も北朝鮮も、その他の権威主義国家も、この状況は変わらない。ならば「弁証法」が思考的にも対話的にも有効なツールとなり得るのは、古代アテナイと同じ民主主義国家だけということになる。しかし、だからと言って安心してはいけないだろう。独裁政権も民主政権も「保守」である限りにおいて、心の中では共通の感性を持っているからだ。両者とも、政権交代に対する恐れは変わらない。一度手にした政権や利権を他党に奪われたくはない。だからそれを守るために必死になるわけだ。

 もちろん、その必死さには違いがあるだろう。独裁政権は恐怖政治を行って勝手に法律を変え、恥も外聞もなく力にものを言わせて政敵を蹴散らす。民主政権は一応民主主義国家だから現行法に従わなければならない。ならば法律の許される限りにおいて、あるいは水面下で色々な工作を行うことになる。例えば、アメリ最高裁の判事は、政府が政権与党に有利な人材を選ぶことができる。それ以外にも、過半数議決などを利用して、支持団体の願いを叶えるような法律を制定したりすることも可能だ。日本でも、議席数で優る自民党は、他党の反対にもかかわらず、どんどん都合の良い法案を通すことが可能になっている。これは独裁政権に近い状況だと言えるだろう。国会がこの有様だと、弁証法に不可欠な二本の基礎柱(A、非A)の片方が最初から無いことになり、健全なディベート大会は実施されなくなる。野党側としても、何を言っても結局法案は通ってしまうのだからやる気を無くし、国会は単なるセレモニーと化してしまう。これではロシアの国会と似たり寄ったりだ。他国の議会を笑う行為は、猿の尻笑いになってしまう。

 我々が認識しなければならないのは、与野党のバランスが悪い状態では、民主主義のツールである弁証法が成立しないということなのだ。弁証法は、民主主義が未来へ登っていくための螺旋階段だ。長期政権はその階段を断ち切り、出来た踊り場に保守の湯船をあつらえ、ぬるま湯に浸かりながらひたすら富士山の絵を眺めて、変遷する世界の景色から目を逸らす。なぜなら、ぬるま湯だと思っていたものが、長年付き合ってきた仲良しクラブ連中が吐き出す液汁で固まったゼラチンで、身動きが取れなくなっているからだ。本来民主政治の議会は、様々な意見が飛び交って中々まとまらず、粘り強い協議や説明によって両者が納得し、妥協を通してよりベターなものを創造する場であるはずで、数にものを言わせて短時間で強引に決議する場では無いはずだ。常に野党の意見が無視されるのであれば、議場は戦いの場ではなく上から目線の選別の場となり、企業や大学の入試会場と同じになってしまう。こうした議場の停滞がこれからも続けば、民主国家の日本でも弁証法は廃棄され、日本は中国やロシアと変わらない一党独裁国家に成長していくに違いない。

 僕が恐れているのは、日本が硬直化した湯船に浸かっている間に、世界情勢が急速に変化していることだ。いまの世の中は地球温暖化のせいで、明日自分の家が燃えたり流されるかも知れない状況になっている。それに連動するように、国家間の対立や民主連合VS権威主義連合の対立なども高まってきている。さらにそれらに連動して、経済的、技術的な覇権争いも活発化している。死に体の議会と鈍牛の政策では、激動する世界に付いて行くことは難しいに違いない。「地球温暖化」一つを取っても、世界の先進国軍は脱炭素に向けて大きく舵を切ろうとしている。日本は渋々と驥尾に付すのではなく、積極的な役割を果たさなければならないだろう。それにはまず保革のバランスを修正して、民主主義の背骨とも言える「弁証法」の螺旋階段を復旧させる必要がある。当然のこと、それを行うのは国民一人ひとりの意志ということになる。ふつう地獄は下にあるもので、登った先にあるのはパラダイスだ。そこが一党独裁の世界ではないことを願いたい。

 

 

 


山火事

たぶん猿だったあの頃から
遠い先祖が足でよちよち歩き始め
鬱陶しい埃だらけの体毛を脱ぎ捨て
細長い木の枝を投げ槍に仕立てて
葉屑にまみれた柔肌を茨で傷つけながら
ヨモギをかみ砕いて傷口にあてがいつつ
鹿たちのうまそうな臭いを嗅ぎ分けて
急斜面のけもの道を急いで駆け下り
茫々とした平地の草むらに分け入って
ヘリオトロープの香りに邪魔され
追うべき方角を見失いつつ
肩を落として晩飯を断念したとき
いつものように太陽に背を向けると
うらぶれた猿たちの黒い影の向こうに
悠久の時を越えて鎮座する山々が
夕日を浴びて裾野を赤く燃やしながら
寡黙な姿で泰然と見下ろしているのだ
猿たちはこうべを垂れ目を潤ませ
明日の鹿追が成すことを願いつつも
山葡萄のたわわな実を思い出して感謝し
忘却の眠りを誘う樹海に戻っていく

無数のか弱い獲物たちを包容し
選ばれし狩人たちを許容する
豊満の幸で満ち溢れた山々よ
きっとそのとき猿たちは初めて
それらが神々であることを知り
木々は母たちであることを知ったのだ
しかしその遠い子孫が目にするのは
神たちが常軌を逸して怒り狂い
魔女狩りのように母たちを追い詰め
次々と火あぶりの刑に処している悪夢だ

神々を怒らせているのは誰だろう
それはきっと
神も母もすっかり忘れてしまった
猿どもの末裔に違いない……

 

 

 

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