詩人の部屋 響月光

響月光の詩と小説を紹介します。

小説「恐るべき詐欺師たち」四 & 詩

老木と若者

(失恋色々より)

 

年老いた桜から枝が落ち

下で遊んでいた子供が死んだ

付近の老桜たちにも一斉に赤いテープが巻かれ

仲間ともども伐採されることになった

すでに花は散り終え

赤いガクが血涙のようにポロポロと落ちてくる

何十年も人々を楽しませてくれた桜たちだが

今年が見納めとなってしまう

太った若者は枝を落とした桜に手を当てて

いつものように声を掛けた

残念だね、あんたの失態で仲間たちも切られることになった

すると老木は落ち着き払った声で、若者に答えた

みんな俺に感謝しているのさ

みんなが恐れていたことを俺がやっちまった

しかしこんなことが起きなければ、立ち枯れる以外

誰も往生することはできなかったからな

俺たちはここ十年、切られることを願っていたんだ

枝は傷だらけ、胴体は穴だらけ、足には寄生キノコ

辛かったぜ、特に台風のときは…

瘡蓋みたいな皮から脂汗を出しながら

必死に踏ん張っていたのさ もう限界だ…

切られる以外、救われる方法なんかありゃしないさ

そうさ、仲間たちは苦役から解放され、天国で立派に花を咲かせる

しかし俺一本だけは、地獄の黒い森に投げ込まれ

毎日大風を受けて、黒い血を流し続けることになるのさ

俺は仲間のために、犠牲になってやったんだ

みんな俺に感謝しているのさ

 

あああの森なら知っているよ、と若者は答えた

僕も好きな女にバカにされて、恨み辛みの遺書を残し 

あんたと同じに、あそこに行くことにしたのさ

一足先に行って、あんたの席を取って待っているよ

そう言うと若者は、丈夫そうな枝にロープを掛けて

笑いながら輪っかに太い首を通した

「あばよ、吹けば飛ぶような人生!」

 

バカなことはやめろよ! 命の重さを知らないのか? 

お前は自分を軽く見すぎている!

案の定、たちまち枝が折れて

止めに来た女を道連れにした

 

 

 

想い出

(失恋色々より)

 

昔、心が心の臓にあると考えられていた昔

死の床にある老人が心残りを一つ思い出した

それは若い頃に失くしてしまった一つの恋

長い間、ささいな夢であったと信じていたが

長い間、夢の中に押し込めようとしていた気がし

それなら実際の出来事であったかも知れなかった

それが死に際に思い出されたのは

長い人生で、たった一つの淡い恋だったからだ

 

老人は朦朧とした意識の中で

必死になって心の臓に入り込もうとしたのだ

滞った黒い血の塊が傭兵のように

老人の行く手を塞ごうと待ち構えていた

老人は必死に奴らを押し退け

血みどろになって脈打つ館の中に入り込んだ

 

すると、奥のほうに血の通わない小さな心室があって

そこにあの女性が純白の衣装を身に纏い

蒼白な顔して白い襞の上に腰を下ろし

白々しい眼差しを老人に向けていた

ようこそ、ときめきを失くした思い出の部屋へ……

 

どうしても聴きたいことがあってここに来たのです

遊園地の夜景を一緒に見たのは、僕の夢に過ぎなかったものかと…

いいえ、キラキラ輝くメリーゴーランドに乗りましたわ

では、僕が君に愛を告白したことは事実だったのですね

夢ではありませんわ 私もあなたに恋をしていましたもの…

なのになぜ、君は唐突に僕から離れていったのでしょう

なぜって、それはあなたが知っていることではないのですか?

僕が、僕が何を知っているというのです

さあ、私はただ、あなたの悪い噂を聞いて去っていったものですから…

 

嗚呼、そうでしたか……

館はときめきを止め、すべてが彼女の肌と同化してしまい

女性はかつてのように忽然として消えた

老人は大きなため息を吐いたきり

もう二度と息を吸うことはなかった……

 

 

 

 

 

小説「恐るべき詐欺師たち」四

 

 すべての企画が批判されることなく通ったということは、思う存分やってみて結果を出しなさいということだ。資金面では、どうしても足りなくなった場合はシャマンが協力してくれる。人員が不足した場合は、十人の中で横断的に協力し合うことになった。

 

 チエはさっそく行動に出た。犬の散歩に出てきたところを待ち構えて名乗り出るのである。大胆な行為で失敗の確率も高かったが、一回でダメなら何回もしつこく迫れば道は拓けるに違いないと信じることにした。策略をめぐらすのが苦手な性格上、体でぶつかっていく以外に方法を見出せなかった。まるで張り込み刑事のように、一時間前から徳田が出てくるのを待った。

 

 徳田はいつものように柴犬を連れて出てきた。四十分の散歩だから、後を付けていって十分くらいしたら声を掛けようと思った。しかし、老人の散歩はひどくゆっくりで十分間追い越さないであとを付けるのも簡単ではない。間が持たなくなって五分くらいで声をかけてしまった。

 

「あの、徳田寅之助さんでしょうか?」

 徳田は立ち止まってゆっくりと首を横に向け、薄青い膜のかかった瞳をチエに向けた。

「どなたですかな?」

「トシコです。幸田トシコです。お父さんの娘です」と言ったチエの声は、緊張のあまり震えていた。

「僕には娘はいないよ。覚えがないもの……」

「覚えがないはずはありませんわ。幸田美津子の娘です。美津子はお父さんの愛人でした」

「愛人かね……」と言って徳田はニヤリとわらった。「覚えがないなあ、愛人もいろいろいたからね。しかし、みんな解決済みだ」

「そういう話じゃありません。私はお父さんの子供です。子供がお父さんを慕うのは自然の感情です」

「で、僕はどうすればいい。君を子供だと思って可愛がればいいのかね」

「いいえ。お父さんが私をどう思ってもいいんです。私はお父さんに尽くしたいだけですから」

「しかし、娘である証拠はあるのかね?」

「もし必要なら、DNA鑑定を受けてもかまいませんわ。二人の髪の毛を調べればすぐに分かりますから」

 

 徳田はしばらくチエを見詰め、「僕の頭には苔のような毛しかないさ」と言って笑いながら、「まあいい。君がどうしたいのか知らないけれど、さしあたって僕はこうして元気に生きている。八十過ぎの爺さんだが、君の助けを借りなくてもあと五年は大丈夫さ。しかし、家に来たいというのなら来なさいな。息子も女房も死んじまって幽霊屋敷同然だもの。空き部屋はガラガラ転がってる」と続けた。

「ありがとうお父さん。明日から転がり込みます」

 チエはしばらく散歩に付き合ってから徳田と別れ、すぐにアパートに戻って身支度を始めた。こんなにスムーズに事が運ぶとは思わなかった。徳田の足腰は弱まっているが、頭のほうはまだしっかりしているようだった。頭がクリアな状態のときに受け入れられたのだから、チエとしてもやましいことはなかった。一緒に暮らして気に入られれば、頭のクリアなうちに認知まで持っていける。ニセモノであろうと、認知さえさせてしまえばこっちのものだとチエはほくそえんだ。

 

 

 明くる日の十時に、チエは大きな旅行カバンを引きずりながら徳田家の門に立った。大きな門の一部に切られた小さな扉から、先日見かけたお手伝いが出てきてにこやかに「いらっしゃいまし。シノと申します」と言った。扉をくぐると、芝生の広大な敷地が現れ、その中央に角砂糖のような白亜の建物が建っている。窓はまったくなく、近づくにつれて外壁は角砂糖をそのまま拡大したように凸凹していることが分かり、これは巨大な角砂糖のオブジェを家にしたものだと想像できた。ショートケーキハウスならぬシュガーハウスである。おまけに、おそらくは建物を囲んでいるのだろう、黒光りした金属製の巨大蟻が多数角砂糖にたかっていて、中には建物の途中まで這い上がる蟻、屋上から不気味な頭をこちらに向けて眺めているやつまでいるのだ。針葉樹を配した塀に囲まれて見えないものだから、広大な敷地の真ん中にまさかこんな奇妙な建物が建っているとはチエも思わなかった。

 

「けったいな建物でしょう。これでもカーネ・ボッタークリとかいう外国の建築家に大金払ってデザインしてもらったそうですよ。だんな様は昔、製菓会社の社長さんをしていらっしゃって、お菓子は砂糖がなければできないとかなんとか、砂糖に感謝を込めてこんな家にしたって話です。外側はぜんぜん窓がないの。家の中には真ん中にちゃんと吹き抜けの中庭があって、それに面して部屋の窓はちゃんとありますわ。それに屋上にも庭があるし、天窓だってたくさんあるし、お日様の光りを取り入れるファイバースコープみたいなのもあるから、部屋が暗いことはないわね」とシノは説明しながら建物に向かってどんどん進んでいった。門と玄関を結ぶ白い歩道もまるで砂糖のようで、最後は壁にぶつかって扉がない。スタッコだと思った白壁はセラミックで、砂糖らしい透明感を演出している。シノはとうとう壁の前に来ると、そこにたかっていた体長五十センチほどの小蟻の頭をグイッと押した。すると砂糖が割れて中に開き、広い玄関ホールが現われると同時に、思わずチエは「アッ!」と叫んでしまったのだ。大きなガラス越しに中庭が見え、そこに四人の女がたむろしていたからだ。

 

「あの方たちは?」とチエは不安いっぱいの目付きでシノにたずねた。

「だんな様のお子様たちですわ。ウソかホントか私には分かりませんけど、だんな様がそうおっしゃっています。みなさん、あなたのこと首を長くしてお持ちです」と言って中庭へ通じるガラスの扉を開いた。

 そのとき、女たちの一人と目が合って、チエは固まってしまった。頭の血が滝のように下に落ちた。正真正銘のトシコがそこにいる。トシコのほうもチエだと認め、目を丸くして驚いている。トシコは扉のところに駆け寄ってきて、なめ回すようにチエを見ながら、怒りと軽蔑の混ざった眼差しをチエに投げかけた。

 

「チエあなた、なんでこんなところに来たのよ!」

「ハア? 私トシコと言いますが……」と、とっさにチエは白々しいウソを言ってトシコに対抗した。

「まあ、図々しい女だわ。あんた、私の親友でしょ。なんで私の振りをするのよ」

「振りなんてしていませんわ。あなたと会うのは初めてだし、私の名前はトシコです」

 すると突然トシコがチエに飛びかかってむなぐらをグイグイ押し始めた。

「帰ってよ! あんたの来る場所じゃないでしょ。帰んなさいよ!」

 シノはもみ合う二人を呆然と見ていたが、ほかの女たちはまったく動こうともせずにニヤニヤと傍観している。

「二人ともやめなさい」と弱々しい老人の声が聞こえると、とっさにトシコは弾かれた独楽のようにチエから離れた。

「この女は私の名前をかたる詐欺師です」とトシコは徳田に訴えた。

「あんたの名は?」と徳田はチエにたずねる。

「幸田トシコです」

「それで、君の名は?」と同じ質問をトシコにも聞いた。

「お父さん幸田トシコですよ。本当の娘ですよ」と言いながらトシコは涙目で徳田に訴える。

 

「まあ、世の中には同姓同名は五万といるだろう。記憶にはないが、どうやら同じ苗字の女と付き合って二人とも子供ができちまったらしい。しかも、母親がその子供に偶然同じ名前を付けちまったんだな」

「お父さん、そんな話はぜったいないわよ。この女は元私の親友で、山内チエっていうのが本名なんです。お父さんから財産を掠め取ろうとのこのこやって来たんだわ。あなた、運転できたはずね。免許証見せなさいよ。私と同じ免許証なんか出せるはずないものね」とトシコはチエに迫る。

「私、運転できません」

「なら健康保険証!」

「健康なので、やめましたわ」

「まあどうでしょう、ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う。あんたが詐欺師だとは知らなかった」

 

「まあまあ、いいじゃないか。兄弟姉妹がたくさんできるってことは幸せなことだよ。特に僕は幸せ者だ。息子は二十年前に死に、去年は女房が死んでだいぶ落ち込んだが、子供たちが大勢名乗り出てくれて、この家も賑わいを取り戻した。会社を乗っ取られてから部下たちも来なくなったし、かつてのゴルフ仲間もよぼよぼの爺さんになっちまった。ところがごらんよ。一度に五人も孫のような若い娘たちができちまった。みんな僕の子供だよ。どいつも美人だし、父さんにそっくりだもの。父さんは幸せ者だ」

「だから、ちゃんとDNA検査をしてくださいよ。そうすれば、こいつのニセモノがすぐに分かる」とトシコ。

「いいですよ。受けて立ちます」とチエも食い下がる。

 

「まあまあ、そんな検査なんかクソ食らえさ。僕が娘だと決めれば娘なんだ。それでいいじゃないか。だって僕には五十人くらい子供がいるかも知れないよ。昔の金持ちにはそんなやつらが多かったのさ。しかし、いかんせん記憶がない。十年以上前のことはみんな夢の中さ。君たちはそんな夢から飛び出してきたお姫様たちだ。まだ若けりゃ恋人にしたいくらいだよ。特に君たちは同姓同名の姉妹だろ。この家で波風は立てないでおくれよ。トラブルは堪忍してくれ。社員どもに吊るし上げを食ったのを思い出す。罵声を浴びせられたんだ。部下に罵られたんだ。せめて死ぬときくらい幸せに逝かせておくれ。さあ、仲直りしなさい」と言って徳田は二人の手を取り、強引に握手をさせると「今日は娘が増えたお祝いに、午後は中庭でバーベキューパーティーだ。みんなで手分けして材料を買ってきておくれ」と言って、ズボンのポケットから十万円を出してシノに渡した。

 

 

 シノと犬、トシコを含めて三人一匹が買い出しに外出し、あとの三人で会場をセッティングすることになった。チエはほかの二人の冷たい視線に晒されながら、なにをすればいいのかも分からずに芝の上に突っ立っていた。正方形の中庭は五十坪くらいあって、シュガーハウスはさらにこの庭を取り囲む縦横同寸真四角の建物だから、けっこう大きなビルである。家族的な企業だったようで、社員研修などもこの家で行われていたらしい。内壁を見上げると、各階に白い手すりの通路が巡らされ、それが五段あるので五階建てであることが分かった。手すりの三カ所に巨大蟻がしがみ付いているのを見て、「芸が細かいわね」とチエは思わずつぶやいて微笑み、ここにたむろする女たちは砂糖にたかる蟻のようなものかしらと連想して顔を赤くさせた。

 

「あなた、付いてきて」と三十くらいの女がチエに声をかけた。女は家の中の大きな物置場に連れていって、テーブルを指差す。

「これを中庭に持っていって」

「一人でですか?」

「あれに乗せていけばできるわよ」と車輪つきの台車を指差した。ホームセンターで見かける材木運搬用の細長い台車だ。

「その前にひとこと言っておきたいことがあるわ」と言って、女はチエを睨み付けたので、チエは思わず身構える。

 

「あんた、本当の子供かどうかはいいけれど、認知してもらおうと思ったら大変だわよ。あたしたち全員、いまだに認知受けていないんだからね。親父さんは、認知したらみんなこの家から逃げ出すと思っているんだ。みんな若いからさ、男をつくってどこかに行っちまうだろ。死んだときにのこのこ出てきて相続権を主張するのが落ちだ。だから最後の最後まで引き伸ばしたいんだ。でも時間はないのさ。だって親父さん、あれで少しアルツハイマーだからね。認知症がひどくなったら認知どころじゃないもの」

「でも認知をためらっているうちは、しっかりなさってる」

「そこなんだ。そこの見極めが大事さ。ボケは必ず進行する。だから、いいなりになるくらいボケてハンコも押せるのはせいぜい一、二カ月くらいの間だと思う。そこがチャンスなの。あなた、頭が良さそうだから仲間になりましょうよ。あたしたち二人だけ認知を受けるんだ。ほかの連中を差し置いてさ」

「ええ、いいですよ。お名前は?」

 

「ハツエ。娘たちの中では今のところいちばん年上。でも、このままだと娘はまだ増えるような気がするわ。裏切りはナシよ」

 チエはハツエと固く握手をした。先ほどトシコとしたときとは違って、力が入っていた。少なくとも仲間らしき者ができたことは、その仲間が競争相手だとしても心強かったし、裏切られる可能性はあるとしても孤立した状態で共同生活を送るよりはよほどマシだった。しかし、四人の女が住んでいたなんて、事前調査がいかにいい加減なものだったかを物語っていて、チエにはいい教訓になった。楽をしようと思うと、必ずしっぺ返しがあるのだから。

 

 チエのミッションは、徳田の財産を残らず相続しシャマンに捧げることにある。ならば、ハツエと二人で分け合うとしても成功とはいえなかった。徳田の認知を受ければ、自分がすべての財産を相続できるだろうと安易に思ったが、角砂糖にはすでに何匹もの蟻が群がっていた。しかもハツエの言うように、来る者拒まずという徳田の態度を見れば、五人が十人になってもおかしくない状況だ。そうだ、徳田が外出するときは五人のうちの誰かが尾行するべきだと思い、ハツエに提案すると意外な返答が返ってきた。

 

「それは難しいわね。五人一緒に尾行はできないもの。みんな抜け駆けを恐れているから、親父さんと二人だけの状況をつくらせたくない。だから、親父さんが家にいれば、みんな家から出たがらない。自分が家を空けているときに、ほかの連中が結託して悪巧みをするかも知れないもの。あなたじゃないトシコ、トシコAとでも言おうかしら。あいつは外出した振りをして、親父さんの散歩のときに突然現われて認知を迫ったらしいけど、結局説得できずに一緒に戻ってきた。後で、みんなでAを虐めてやったわ。虐めかたはいろいろあるのよ。あなたも、そのうち洗礼を受けるわ」

 

 

 中庭で開かれたバーベキューパーティーは、一応チエの歓迎パーティーだったが、徳田以外は白けているものだからまったく盛り上がらない。シャンパンで乾杯し、各々が散り散りに皿を持って焼き上がった料理を盛り分け、シノは自分が取り分けた皿を徳田の前に置いた。ほかの女たちは椅子に座ったり立ったりしながら黙々と料理を食べ、ビールを飲んだ。

「さあさ、もっと盛り上がったらどうだい。君たちは姉妹なんだから。ギターとか歌を歌える者はいないのかね」

 するとトシコがギターを持ち出してきて歌い出した。ハスキーボイスでなかなか上手く歌うが、どれもブルースっぽい悲しそうなメロディーで場が盛り上がることはなかった。女たちの食欲はいまいちだが、徳田は大きなヒレ肉をぺろりと平らげるほどの食欲だ。アルツハイマーで満腹中枢がイカレテきたというよりは、心身ともにすこぶる健康で、軽度のアルツハイマーというのもハツエの単なる思い違いかも知れないとチエは思った。あるいは記憶力ははっきりとしていて、気まずい昔のことを忘れた振りをしているのかも知れなかった。

 

 四方を壁に囲まれているのに涼しい風が吹き降ろしてくる。上の階からエアコンの冷気を流しているようだ。しかし真夏の直射日光はジリジリしているから、庭のあちらこちらで濃いグリーンのパラソルが開いている。最初は徳田の周りにわだかまっていた女たちも、徳田が食事に飽きてデッキチェアで昼寝を始めると、庭いっぱいに分散してパラソルの下のデッキチェアに寝転がった。トシコもギターを置いて、テーブルからいちばん遠いパラソルを目指して歩き始めた。シノは、もう誰も食べ物には興味を示さないと見るや、汚れた皿などを片付け始めた。チエが「手伝いましょうか?」とたずねると、「いえいえ、これは私の仕事ですから。それよりも、みなさんにご挨拶にいらしたらどうですか」と言う。それもそうだと、チエは近いところのパラソルに向かった。

「こんにちは。お名前を教えてください」と言って、チエは女の横のディレクターズチェアに腰かけた。

 

「カリナよ。あなたは紛らわしい名前だったわね」とカリナは、ワイングラスを片手にサングラス越しにチエを見つめた。

「トシコBとでも言ってください」

「A、Bのうち、どちらかがニセモノ。あるいは、両方ともニセモノ。この私はどう思う?」

「さあ、でもお父様に少し似ているところがあるわね」

「あなた、ぜんぜん似ていないわ」

「たまたま似なかっただけですわ」

「DNAを調べれば分かるのにね。みんな検査をしてくれと言うけど、内心は怯えている。母親は確かに徳田さんの愛人だった。でも、ほかの男の種かも知れない。みんな自分の母親の性格は良く知っているからね。あなたのお母様だって、あなたが誰の子か分からないかも知れない」

 

「私は徳田さんの子供ですわ。母を信用しています」

「まあいいわ。お父様はみんな自分の子供だと言うんですから。でも、財産を均等に分けるっていうのも悔しいわよね。いくら財産があるのか知らないけどさ。紛れ込んでいるニセモノにも取られちまう」

「トシコAにはやりたくないですわ」

「ならこうしましょうよ。トシコAを蹴落としちゃうの。あたしたち二人が結託して、邪魔な連中を放り出しましょうよ。一人で頑張るより、二人で頑張ったほうが上手くいくわ」

「ええ、いいですわ」

「じゃあ、約束よ。私たちの秘密は誰にも言わないでね。二人の間には隠しごともなしよ」

「了解」

「さあ、もう行って。あまり話しをしていると怪しまれるから」

「怪しまれないように、ほかの方とも挨拶します」

 

 チエはカリナと握手をして離れた。次に挨拶したのはユカリだ。ユカリとも同じように秘密協定を結んだ。チエはトシコを除いて三人の姉妹と密約を結んだことになる。これでトシコと結べば、秘密協定の意味はなくなってしまうような気になった。チエがほかの四人と密約したとする。ほかの四人はそれぞれがほかの四人と密約していたとすれば、全員が全員と密約を交わすことになる。それに意味があるとすれば、身の安全を守る保身術くらいなものだろうかとチエは思った。たぶんこんな状況になると、集団というものは誰かをスケープゴートに仕立て上げようとするに違いない。まずは協力し合って一人を追い出しにかかるだろう。子供同士のイジメと同じような構図かも知れない。それから逃れるためには、誰でもいいから仲間をつくることだ。だから、この密約はそんな不安から生まれたものに違いない。自分が得た情報は密約の相手にバラすはずもないだろう。しかし、全員と仲間になってしまったら、スケープゴートはいなくなってしまう。

 

「そうだ、私にとっていちばん危険な人物はトシコだ」とチエは思った。「まずはトシコを潰さなければいけない。あいつをスケープゴートに仕立て上げればいい。みんなしてトシコをいじめて、ここにいられないようにするんだ」と心に決めた。

 

(つづく)

 

 

 

 

 

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