詩人の部屋 響月光

響月光の詩と小説を紹介します。

小説「恐るべき詐欺師たち」五 & エッセー

エッセー

入管法改正案について

 

 今年二月に入管法改正案(出入国管理及び難民認定法の改正案)が閣議決定され、国会に提出された。これに対し、国連人権理事会が「移民の人権保護に関し国際的な人権基準を満たさないように見える」との書簡を公開した。改正案には国内の人権擁護団体からも多くの非難が浴びせられている。

 

 結局のところ、政府の方針が「できるかぎり入れない」というものだから、例えばハンストによる餓死や病死など長期拘留の弊害を、刑事罰を使って早急に送還することで解決する、などといった小手先の改正になってしまう。特に難民などは自国に帰れば殺される可能性もあるから、この一つを取っても改悪だとする声が多く上がっている。

 

 しかし大きく見ると、政府に責任があるというよりは、国民に責任があると考えたほうが良さそうだ。日本人は閉鎖的な島国の中の閉鎖的な単一民族で、歴史的にも政権に都合の良い閉鎖的な村社会を連綿と維持してきた。鎖国は、そうした閉鎖的国家の為せるグッド・チョイスだった。

 

 日本人集団の、最小単位である村は、同一の感性を持った人々の塊で、掟で結ばれている。その社会は、掟を取り仕切る長(おさ)をトップに村民、その下のえた・非人と、ヒエラルキーの確立した閉鎖的集合体だ。掟破りは村八分という形で追い出されるし、よそ者は閉鎖集団を脅かす不安定要因にしか過ぎないのだ。長は、異端児や不審者、よそ者、外国人を逐一お代官様に報告する義務があり、そうすることで閉鎖的な地域や閉鎖的な国の安全が保てると信じてきたし、現在でもそうした体制の残渣は自治会や町内会などの形で残っている。

 

 個を尊重し、自己主張も強いヨーロッパ的な感性の人が仲間内で煙たがられるのも、集団を尊ぶ村社会の残渣と言える。議論を戦わせる弁証法的解決よりも、上位の者に上目を使ってすり合わせるのが、村の秩序を保つ手法だったからだ。先生と名の付く連中にペコペコ頭を下げる連中も、その残渣というわけだ。

 

 日本人がよく言う和の精神も、飛鳥時代の十七条憲法では「議論を良くしなさい」的な意味も含まれていたが、後に入ってきた儒教の影響もあってか、目上の人の言うことを良く聞く方向に傾いてしまった。

 

 もっとも、十七条憲法の「みんな仲良く争うな」という教えは、仲間内では一致団結して、異端の者は排斥しろという意味にも聞こえる。そうでなければ国づくりなどできないだろう。聖徳太子が実在の人物かは知らないが、彼の政権が競争者を蹴落としてきた集団を基盤としていることは確かなのだから。現在のナアナア社会も、ルーツを辿れば案外そんな古代からの精神にあるのだろう。同業、金持、その他多くの村社会的集団の中で、利潤を回し合っているのだ。官僚と業者の癒着だって、業者間の談合だって、裏の部分で「和を以って貴しとなす」的村社会を作っているわけだ。

 

 日本人はきわめて保守的な民族で、保守政党が強いのも、その村社会的感性に寄るところが多い。保守的な人間は、多少状況が悪くなっても変革は望まず、昔からの継続を望みたがるものだ。「保守的」という言葉は、「排他的」という言葉と兄弟でもある。いままでの社会形態を崩したくないから、できるだけ移民は受け入れたくない。できれば単一民族的状態をずっと続けていきたい。

 

 だからひとたび労働者不足に陥れば、研修生という名目で外国人労働者を期限付きで受け入れ、期限が切れれば追い出して、新しい外国人にすげ替える。このご都合主義に関して、日本人の大半は、外国人が使い捨てられていることに気付いていない。ひょっとしたら日本人は、開発途上国の人々を奴隷扱いしているのではないかと思うほどだが、そこまでは行かなくても、日本人の差別意識は相当に根深いものがあることは確かだ。前述のとおり、村社会のヒエラルキー的感性は、今でも同和問題として残っているし、同じ感情が外国人にも向けられているとしたら、大きな問題と言わざるを得ない。

 

 明治以降の日本人の差別意識には、古来の村社会的感性をベースに、欧化主義時代の欧米コンプレックスと欧米に肩を並べた「皇国日本」という驕り、さらに帝国主義的対外進出を複雑にミックスしたものが、トッピングされている。

 

 ヨーロッパ人(白人)は、コロンブスやマゼランなどの冒険から始まって世界覇権を獲得し、産業革命も起こすなどして、人種的ヒエラルキーの頂点に君臨し、これが世界認証のようなものになってしまった。後れを取ったアジア民族は仕方なしに、自分は白人より下だが、黒人よりは上だというヒエラルキーを勝手にイメージし、さらに日本人は神の国(皇国)日本としてアジア民族の頂点に立つべく出兵して負け、敗戦後は産業資本主義でかつての地位を維持しようとしてきた。

 

 戦時中は植民地の中国人、朝鮮人を差別し、戦後は資本主義の覇権を握ったことで、かつて植民地化していた貧乏な発展途上国の人々をバカにするようになったのが、日本人の心に棲み付いた差別感情だ。白人に対するコンプレックスは強いものがあり、その弱みをバランス良く補うために、貧乏国のアジア人や黒人を見下す。うわべでは「そんなことはない」と思っても、心の片隅に差別感情が根強く息づいている。

 

 日本人一人ひとりの心に巣食う単一民族的、村社会的保守性と、発展途上国への差別意識入管法改正案に色濃く現われている。日本が難民をなかなか受け入れないのも、政府が国民の排他的感情を忖度しているからに他ならない。

 

 もし国民の総意で単一民族的国家を維持したいのなら、全面的に外国人の受け入れを止めればいい。「武士は食わねど高楊枝」という諺がある。仮に人手不足に陥ったとしても、日本が誇る武士道の心意気を持てば、産業の衰退など屁でもないだろう。右手で外国人を使い回しながら、左手で握り潰すよりかは、よほど増しだ。景気が良ければどんどん受け入れ、悪くなるとどんどん追い出すなんてことは、悪徳商人の為せる技だ。

 

 受け入れるなら受け入れるで、政府が彼らを全面的にフォローすべきだし、それが民主国家の品格というものだと考えている。当然のことだが、受け入れを決めたからには、移民に職を奪われても隠れトランプみたいな行動に出るべきではない。別の立場で「武士は食わねど高楊枝」を示すことが、日本がヨーロッパと対等の人権国家である証になるからだ。

 

 いまだに残る日本人の欧米コンプレックスを払拭するためにも、まずは欧米諸国から軽蔑されない「人権への取組」を政府が進めるべきだ。改正案が国連から揶揄されるのなら、それは後退であり、経済的には先進国でも、精神的には後進国と見なされても仕方ない。かつて「エコノミック・アニマル」という言葉を浴びせられた時代があった。再びそんな蔑称を投げ付けられないためにも、改正前・改正後などということではなく、入管法そのものを抜本的に再検討すべき時が来ているのだと思っている。

 

 

 

 

小説「恐るべき詐欺師たち」五

 

 チエはその夜に、五階にあてがわれた部屋からシャマンに携帯電話を使って状況を説明した。四人も競争相手がいることを伝え、一人ずつ追い出していく計画を話した。

「いずれにしても先手必勝ですわ。あなた一人が認知を受けなければいけません。いかに多くの収益を獲得できるかが、あなたに課せられた課題ですから。手段は問いません。あなたの決意は、殺人をも辞さないということでしたからね」とシャマンはチエを鼓舞した。まずは計画だ。チエは机に向かって苦手な策略を考えはじめた。ノートに鉛筆を走らせる。邪魔者を追い出すための手段はなにか。「殺人」。そんな大それたことは最後の最後に取っておこう。ならば「恐怖」。これなら怖れをなして出ていくかも知れない。しかし徳田の目の黒いうちは、集団リンチはできそうもない。必要なのは目に見えない恐怖、殺されるかも知れないという恐怖だ。そうした恐怖を抱かせるには、小さな嫌がらせを積み重ねることだ。まずはターゲットを一人決める。トシコAに決まっている。チエは三人の女と密約を交わした。それぞれの仲間に個別に計画を打ち明けよう。仲間はチエと二人でトシコに嫌がらせをしていると考えるが、実際には全員がトシコに嫌がらせをすることになる。それを知っているのはチエだけだ。トシコが去ったら、次のターゲットをチエが決め、同じことを繰り返す。

 

 

 さっそくチエは、夜中に四階のハツエの部屋を訪れた。徳田はチエと同じ五階に寝室があったが、ほかの女は四階に二人、三階と二階に一人ずつ寝泊りしている。社員研修も兼ねて建てた家なので、各階には風呂もトイレも完備し、一人で三部屋くらい使っても、まだまだ空き部屋がたくさんある。エレベータを使わなければ、夜中に移動しても見つかることはまずないだろう。チエはハツエに計画を打ち明けた。

 

「トシコAは完全なニセモノです。それで、あいつはどうしてもこの家から追い出さなければなりません」

「どっちがニセモノかは知らないけれど、一人でも減れば助かるわ。で、どうすれば追い出せるかよね」

「だから二人で協力して、周りにバレないように嫌がらせをするの。例えば、食事にカミソリの刃を入れたり、飲み物に下剤を入れたり、庭を歩いていたら上から物が落ちてきたり、考えられることはすべてやって、殺されるんじゃないかと思わせればきっと出ていくわ。トシコが出ていったら次のターゲットをまた決める。最終的に遺産相続人は私たち二人に落ち着けばベスト。大事なことは誰がやったかバレないことね。バレたら追い出される。もし見つかったら、お互いのことはバラさないという約束」

「分かったわ。お互い慎重にやるってことね」

 

 

 次の日の夜中にはカリナと同じ話をして了解を得て、その次の夜中にはユカリと同じ話をした。これで四人がトシコを攻撃する態勢を整えたわけだが、実際はチエ以外の三人が行動するのだ。黒幕のチエはあえて危険を冒すことはしないで傍観するだけでいい。ほかの三人がいろいろ悪さをしていれば、各自自分がやっていない悪ふざけはチエの仕掛けたものだと思うから、チエはなにもしなくてもバレないというわけだ。チエが現行犯で捕まる心配もないし、捕まった片割れがチエとの共犯を自白しても、しらばくれればいいだけの話である。相棒が手詰まりになったら、チエがアイデアを出してもいい。行き詰まったらシャマンにお伺いを立てれば考えてくれるだろう。実行犯との連絡はなるべくケイタイのメールを使うことにして、疑われないようにしようと思った。

 

 

 ところが話はそんなに単純なものではなかったようだ。チエは新入りの洗礼みたいなものを受けたのである。飲み物に下剤を入れられたようで、ひどい下痢になった。トシコがやったと考えたかったが、実際誰がやったかは分からなかった。シノに薬を買ってきてと頼むと、「みなさん下痢はしょっちゅうですからお薬は買いだめしてありますわ」と言って薬を持ってきた。三人個別にメールをすると「犯人はトシコAだわ」との返信。しかし、日常的に嫌がらせが横行しているのならトシコでない可能性も十分に考えられ、三人を信用するのもほどほどにしようと思った。

 

 朝食も昼食も抜かして部屋で大人しくしていると、薬が効いてきて腹の痛みはなくなり、とたんに胃袋がグーと鳴いて空腹感を覚えた。ちょうどいいデトックスになったとチエは前向きに考えて、これからはすべてに細心の注意を払おうと心に決めた。隙を見せたらなにかをやられる可能性があるし、隙を見たらなにかをやる必要があるかも知れないと思い、自分も実行犯になろうと決心すると、なにかわくわくするような気分になってわらいがこみ上げてきた。自分がやられたということは、仕返しをする大義名分もできたわけだ。

 

 

 チエは空腹に耐え切れなくなり、三時過ぎに一階の食堂に下りた。四十畳以上もある細長い部屋で、テーブルや椅子が隅に積み上げられている。昔は社員研修のときの食堂として使われていたので厨房もやたらと広く、そこでシノがケーキをつくっていた。「なにか食べるものありませんか」とたずねると、「昼食の残りがありますわ」と言って、カレーライスを出してくれた。たちまち砒素カレー事件を連想し、しばらく手を付けずにジロジロとカレーを見つめ、クンクン臭いを嗅いでいると、「お気に召しません?」とシノがたずねる。

「いいえ、美味しそう」と言ってチエは思い切って食べ始めた。シノがケーキを冷蔵庫に入れて厨房から出て行き、広い食堂はチエ一人になった。背後に人の気配を感じて振り返ると徳田が立っている。

「あらお父様」と、チエは驚いた表情をした。

「どうしたのかね、朝飯も昼飯も抜かして」

「お腹の調子が悪かったんです。でも、もう治りましたわ。治ったらとたんにお腹が空いちゃって……」

 徳田はテーブルの向かい側に座って「私にかまわないで食べなさい」と言った。

 

「昔はこの食堂も新入社員でいっぱいになったことがあるんだ。入りきらないで時間をずらしたこともある。料理人も四人くらいあそこで働いていたんだ」

「賑やかでしたのね」

 チエはスプーンを止めて徳田を見つめ、微笑んだ。

「そうさ。家族的な会社だったんだ。みんな、研修を楽しみにしていた。私は社員を家族だと思って育てたんだ。しかし、今になってみれば、年賀状ひとつよこしゃしない。確かに私は経営戦略に疎い人間だった。会社を乗っ取られるとは思いもしなかったさ。しかし、いろんなお菓子を発明して世界中の子供たちに喜ばれることをした」

「じゃあ、世界の子供たちはお父様のお菓子を食べて大きくなったのね」

「そうだよ。みんな私の子供のようなものさ」

「でも、私はお父様の血の繋がった本当の子供ですわ」

「そうだ、君は私の本当の子供だ。ほかの四人も本当の子供たちさ。だからみんな私に協力すると誓ってくれたんだ」

「ええ、私もお父様の言いつけには従いますわ」

「ありがとう。それじゃあみんなと協力してくれるんだね」

「はい、でもなにをするんですか?」とチエは不安になってたずねた。

「誰も君に話さなかったのかい? 財団をつくるんだよ。世界の恵まれない子供たちに奨学金を送るんだ。その子たちは、お金がなくてお菓子も食べられなかったような子供たちだ」

 

 チエはあ然とし、口を閉じるのも忘れて徳田を見つめていたが、漠然とはしていたがなにか光明のようなものが向こうからやってきたような気もしたのだ。「それはすばらしいことですわ」と喉を擦るようなカサカサとした声を発し、無理やり頬を痙攣させてわらった。

「ありがとう。君は心から喜んでくれたね。ほかの子も承諾はしてくれたけど、君のような笑顔はなかったな」

「お父様の築き上げた財産ですもの、お父様の使いたいように使えばいいんですわ。それに、世界中の子供たちを喜ばせるのはお菓子とお金かしら」

「そうだよ、お金がなければお菓子も買えないし、勉強もできないんだ。お菓子すら食べられない社会はたくさんあるんだよ。私はトルストイのように、全財産を貧しい人たちのために使いたいんだ。しかし、私は彼よりも幸せ者だ。トルストイは家族の中で娘一人しか味方にできなかったが、私は娘たち五人がみんな賛同してくれた」

「それはどうかしら。口と心が違う人もいるかも知れませんわ。だって、反対すればこの家から追い出されるかもしれないから、口ではなんとでも言えますわ」

「君はどうなんだね?」と徳田は真剣な眼差しをチエに向けた。

「私、嘘はつけない性格です」

「ならば君は、それを証明する必要があるな」

「どうやって?」

 

 すると徳田はTシャツの胸ポケットから四つ折りになった紙とペン、小さな印肉を出したので、チエは慌ててカレーの皿を横にどけた。

「これにサインをしてくれたまえ」と言って、徳田は紙を広げてテーブルに置いた。「私は徳田寅次郎の相続権を放棄します」と書かれてあり、右側に徳田のサインと実印らしき印が押されている。チエは頭がのぼせたようになって背中がビリビリと震えたが、「慌てなければ必ず道は見出せる」というシャマンの言葉を思い出し、落ち着け落ち着けと心で唱えながらゆっくりと字面を読み返した。

「私のサインの左にサインしてくれたまえ」

 チエは一言も質問しないまま黙ってサインし、拇印を押した。黙ってサインをするようにとの神の意志が聞こえてきたからだ。徳田はよほど感激したのだろうか、涙を流しながらチエの手を取り、「これで君は私のただ一人の子供だ」と囁いた。

「あらお父様。ほかの娘さんもサインしたんでしょ?」

「いいや。考えさせてくれといったきりのままの子もいれば、認知を受けたらサインしますと言う子もいるが、君のようにすぐにサインする子は一人もいなかったよ」

「私はお父様のたった一人の味方ということね。お父様が次におっしゃりたいことは分かりますわ。トルストイの娘のようにお父様を助けて、できるだけ早くに財団を立ち上げること」

「そうだよ。よく言ってくれた。私は余命いくばくもない老人だ。トルストイのような惨めな死に方はしたくない。命あるうちに成し遂げたいのさ。世界中の子供たちから尊敬されて死んでいきたいんだ。名誉を取り戻したいんだよ。社員から受けた汚辱を晴らしたい。私がどれだけ人々を愛しているか、いまからでも遅くはない。二人で証明してやろうよ」

 

「分かりました。私がお父様の手足となって徳田財団をつくることに奔走します。でも、約束してください。ほかの四人には内緒にしていること。ぜったい認知しないこと。だって、彼女たちはお父様の財産を狙っているんですもの。認知なんかしたら、財団の基金を持っていかれてしまいますわ」

「分かった。ほかの子たちにはもう一度この紙にサインをしてくれるように頼んでみよう。それで、断ったらこの家から出ていってもらうことにする」

 

「いやいやサインして、いやいや協力する人たちは足手まといになるだけですわ。私一人で十分です。私は弁護士や会計士にも知り合いがいます。彼女たちは泳がせておけばいいんです。追い出そうとするときっと大事になりますよ。どんなしっぺ返しをされるかも分かりません。彼女たちの知らないうちに財団を立ち上げてしまえば、お父さんのお金も財団のお金になりますから、誰も手を出せなくなるんです。そうなれば、彼女たちも自分たちから去っていくでしょう。お金にたかるダニのような人たちなんですから」とチエが言うと、徳田は「わかった、あとで財産目録を君に見せよう」と言って立ち上がり、そのまま炎天下の中庭に出ていった。お気に入りのパラソルの下で午睡を取るようだ。

 

 徳田はデッキチェアに横になるとすぐに寝込んでしまい、一時間は起きることがない。痩せた老人の青い影がよろよろとしながらデッキチェアに沈んでいくのをチエは見届け、立ち上がった。頭の中はこれからどうするべきかというクエッションマークでいっぱいになり、カオス状態。こんな状態になると、シャマンにおすがりするしかないとすぐに思ってしまうところがチエの弱点だった。

 

 調理場で食器を洗っていると、四人の女がぞろぞろと食堂に入ってきてテーブルに座り、ハツエが手招きをする。「ああ見られたな」と思いながら、チエは皿を洗い終わって布巾で水を拭いてからゆっくりと向かった。

「何にサインしていたの?」とハツエ。

「何って、相続権放棄ですわ。みなさんもなさったんでしょ?」とチエは顔色も変えずに答えた。

「私たちがそんなことするわけないじゃん」

ユカリはバカだなあという顔付きをして、両腕を大袈裟に開いた。

「いったいどうしてそんなことしたの?」とハツエ。

「ニセモノだからよ」とトシコ。

「あなた、お父様にまた私がニセモノだとしつっこく訴えたでしょう」とチエは適当なことをでっち上げてトシコを非難した。

「当たり前でしょ。あんたはニセモノなんだから」とトシコ。どうやら的中したようだ。

 

「私はお父様に、ニセモノじゃありませんとはっきり言いました。するとお父様は、ニセモノか本物かなんてどうでもいいんですって。財産目当てか財産目当てでないかで判断するとおっしゃったわ。そうして紙を出されたからサインしました。私はお父様と一緒に暮らすだけで幸せですもの。お父様がお亡くなりになられたら、この家から出て行きます」

「まあ、よくもそんな白々しいことを!」と言って、トシコは両手でテーブルを叩いたのでほかの三人が制止して、午睡している徳田の様子をうかがった。

「あなた、本当に財産いらないの?」とハツエは疑いの眼差しでチエを見つめる。

「いいえ、財産は欲しいですわ」

「じゃあ、なんでサインしたの」とハツエ。

「あれはきっと踏絵ですわ。だって、本当に父親思いの子だと思えば認知もしてくれるし、あんな紙すぐに破ってくれるでしょう。あなたたちがまだサインしていないなら、お父様の財産はみんな私のもの。財産目当ての子供に誰も財産なんかやりたくないもの」とチエは言って、ニヤリと笑った。

「ああ、知らなんだ……」とハツエ。

「おバカさんだ」とトシコは言ってゲラゲラと笑ったので、ハツエが人差し指を口に当てて徳田の様子をうかがう。

 

「あの念書の意味が分からなかったということは、お父さんも学習したってことね。あなた、あの紙は金庫に入れられて破ることはぜったいないわよ」とユカリ。

「どうしてそんなことが言えるの?」とチエはむきになって聞き返した。

「それは言えないわ。みんな、言っちゃだめよ。でも、これだけは言ってやる。相手はアルツハイマーに罹ったオイボレだってこと。私たちはみんなオイボレが御しやすくなるときを待っているの」とトシコ。

「あなた、言葉を慎みなさい」とハツエがトシコを怒鳴りつける。

「まるでハイエナね。瀕死のエサを遠巻きにして待っている。それでも本当の子供だと言えるの?」とチエもトシコに食ってかかった。

 

「こりゃ驚いた。お前らみんなニセモノだってことは知っているんだ。私一人があの爺さんの本当の子供さ。いざとなれば裁判を起こしてやる。DNA鑑定に持ち込めば、爺さんの財産はみんな私のものだ。私だけが財産を相続する権利があるんだ」と言って、トシコはガラガラと足で椅子を後ろに退けて席を立ち、食堂から出ていった。

「あんた、当てが外れたわね。ここにいる理由もなくなった」とハツエはチエに向かって言った。

「いいえ、ここに居れば食費はタダだもの。お父様が出て行けと言わないかぎり、しっかり居させてもらいますわ」と言ってチエも立ち上がり、自室に戻った。

 

(つづく)

 

 

 

 

 

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