詩人の部屋 響月光

響月光の詩と小説を紹介します。

小説「恐るべき詐欺師たち」九 & 詩

楽園

 

昔、氷に閉ざされた極北に

所有という概念のない人々がいた

男たちが凍った獲物を凍った広場に積み上げ

女たちが好きなだけ持って帰り

子供たちはナイフで肉片を削りながら腹を満たした

食い物といえば魚や海獣や鳥ぐらいだが、豊富で

生肉はビタミンも多く、病気になることもなかった

時たま遠くから来訪者が訪れると

旅行鞄は勝手に開けられ、くすねられた

お前のものは俺のもので、俺のものはお前のものだ

だから妻も夫も誰のものでもなく

色恋にさほど制約はなかった

 

海に閉ざされた南の島でも

同じように平等な社会があった

海に行けば魚が獲れ

野菜は勝手に育ち

手を伸ばせば果物がもげた

恋愛も自由で

血を分けた兄妹でも

平気で子供をつくった

 

そんな楽園に

貧しい環境で喧嘩を繰り返し

囲い込みの妄想にとり付かれた

野蛮人たちがやってきて

鞭打ちを伴う宗教を振りかざしながら

すべてを破壊して回った

 

楽園や理想郷など、妄想に過ぎないだろうが

かつて、それらしきものがあったことは事実だ…

 

 

 

戦場の詐欺師

(戦争レクイエムより)

 

昔、指を患者の腹に差し込んで

心霊手術をする詐欺師がいた

腹から血が出て、医者も騙されたが

血は豚の血で、患者の腹の中はもとのままだった

 

尖った耳の宇宙人も、その手の詐欺だと疑う人は多かったが

一夜の空爆で廃墟と化した町に、多くの母親たちが集まった

肉の欠片があれば、そこから新たな生命が誕生するのです

砕け散った息子や娘の肉を瓶詰めにしてアラック酒を注ぎ

宇宙人の前に置き、焼け残った財産をすべて提供した

 

ひと月後に宇宙人は笑顔で現われ、母親たちに告げた

成功しました、皆さんのお子さんを再生することができました

トラックの幌の中から、たくさんの赤ん坊が運び出された

足裏には、死んだ子供たちの名前がマジックで書かれていた

母親たちは子供を受け取ると、狂喜し大泣きした

父親たちは諸手を挙げて宇宙人を神と讃えた

 

しかし赤ん坊はすべて、あの空爆の夜に

瓦礫の中をうろつき回る火事場泥棒たちが

死んだ母親の胸から首飾りとともに奪い取った

みなし児たちだった……

 

 

 

 

小説「恐るべき詐欺師たち」九

 

 当日はチャーターしたバスが二台、丸の内、新宿、三鷹に停車して、参加者を次々に乗せていった。そのまま中央高速に乗って甲府を越え長野方面に向かう。太郎とチエは二台目のバスに乗って、参加者にお茶などを配った。最初は六十五歳以上をターゲットとしていたが、人数が集らないのを心配して六十歳まで引き下げたので、高齢者に混ざって少しは若い感じの熟年もちらほら見かける。バスは長野県に入ると高速を降りて、狭い道を名も知れぬ高原に向かって登り始めた。

「これから行きます秘境の温泉は、別名養老の湯とも呼ばれていまして、当研究所が分析した結果、老化を止める成分が含まれていることが分かりました。これは世界的な発見です。その成分を一万倍に濃縮したのが、今回治療試験を行う画期的な若返り薬です」と太郎がアナウンス。

 

 到着したのは山の上の薄汚れた湯治宿。参加者たちは驚きともため息ともつかぬウワーッという声を発したが、チエも思わず声を上げてしまった。汚らしい玄関には三人の従業員と白衣を着た男のスタッフが三人、看護師スタイルの女が五人横一列に整列して出迎える。別のチームからもかき集めたようだ。深々とお辞儀をして、まるで死者を見送るときのような恰好である。百人が入りきらぬほどのロビーなので、スタッフは次々に治験者から採血し個室に案内していく。この汚らしいロビーなら個室も推して知るべしだが、大部屋での雑魚寝がないだけでもマシかもしれなかった。採取した血液はスタッフの一人がアルコールと覚醒剤の耐性を検査することになっていた。

 

 六十歳くらいの夫婦と女が採血の直前に「帰る」と言い出した。太郎は「契約書にサインされたのですから」と必死に説得するが、それでも帰ると言い張る。「しかし山の上は陸の孤島のようなもので、タクシーを呼んでも一万円はかかりますよ」とおどしても、三人で帰るから一台呼んでくれればいいというので、仕方なしにタクシーを一台呼んだ。三十分後にタクシーがやってくると、一人が新たに加わり、合計二百四十万の損失。太郎は連鎖反応を心配したが、腹を減らした連中は夕食を期待しているものか、それともタクシー代が払えないものか、ドミノ倒しは最初で止まった。

 

 しかし、大部屋に並ばれた仕出し弁当を見て、再び大きなため息が上がる。宿屋の料理を期待したのにコンビニ弁当と大差のない料理を前にして、とうとう騒ぎ出した。

「おいおい、俺たち二万円も前払いしてこんな扱いを受けるとは思ってもみなかったぜ。コンビニ弁当なんか出しやがってさ。しかも禁酒ときてやがる。二万円返してけれ」と一人の高齢者が叫ぶと、「そうだそうだ!」と全員が拍手喝采

「分かりました分かりました。全額お返しいたしましょう。明日からはお酒も付けます。そのかわりお約束ください。脱落はナシです。治験を受けてください。それが嫌なら、お返しできません」と太郎が言うと、ひとまずは騒ぎも治まった。

 治験者たちが夕食を食べているうちに、スタッフが集って相談した。

「だからもっといい宿屋にしようと言ったんですよ。料理だってもう少しマシなのにすればよかった」と、恒夫が太郎を批判した。

「まあ一回目はこんなもんさ。今回は実地訓練のつもりだったんだ。いろんな改善点を出し切って、次回からはパーフェクトにもっていこう。さあ、夕食後はいよいよ治験だ。みんな、手はず通りにきっちりとやってくれ」と言っても要するに騙すだけの話だから、いかにも治験をしているような振りをするだけでよかった。

 

 男性も女性もそれぞれ三グループに分けられて、一時間の入浴後にドブ臭い緑色の液体を飲まされた。浴場は粗末だがお湯は源泉かけ流しで湯量も多く、これだけがせめてもの救いである。最終グループが風呂から出ると、夜の十時を過ぎてしまい、就寝の時間になってしまったので、看護師たちが部屋を回りながら血圧を測って血液を採るのにおおわらわになった。そこで次の日からは入浴後に血圧も血液もどんどん前倒しに進めることにした。各人条件がバラバラになってもおかまいなし。要は、最終日にあらかじめ作っておいた若返りグラフを見せるためのフェイントに過ぎないのだ。

 

 明くる日の朝食はバイキング方式、といってもご飯と食パンが置いてあるだけで、味噌汁、納豆、海苔、お新香、牛乳、マーガリン、ジャムといったものしかなく、おかずらしきものはまったくない。参加者はブウブウ文句を言いながらも、二万円を返してもらうために我慢をしているらしく、スタッフに食ってかかる者は一人もいない。そのあと再び三グループに分かれて入浴し、鼻を摘みながらドロドロの液体を胃袋に流し込む。この主成分が神田川から採取した藻だと言ったらドッタマゲルだろう。自由時間は旅館の周りを散歩としゃれ込んでも、スギやヒノキの森ばかりで展望台もありゃしない。浴衣と下駄で歩きまわっても、枯れても血の通った人間だと蚊やブヨが認識し、寄ってきて刺すものだから手足を掻き掻き慌てて部屋に戻るという、まさに泣きっ面にブヨ。もちろん昼食だって夕食以下の粗末な弁当で、その後はお定まりの入浴、薬と続くうちに、どうやら全員が「これは遊びじゃなく、治療なんだ」と意識転換が進んでいった。

 

 太郎が狙っていたのは治験者たちのこの心境変化。花見遊山だと思えば文句も出るが、治療だと割り切ればある程度の苦痛も我慢ができるというわけだ。こうした心境に治験者たちを追い込んでおいて、最終的にはご褒美として好結果を発表すれば、いままでの不満も消え去って大きな満足感を抱くようになる。そこがセールスの好機で、加えて麻薬と酒でさらに気を大きくさせようという作戦である。

 

 ところで、毎晩夕食にはカップ酒を提供するようにしたので、食費の予算がオーバーした。そこでいよいよ運命の四日目になって、太郎は朝食後に再度スタッフを招集し、今日の昼食を抜いて帳尻を合わせることを提案。

「そんなことしたら大騒ぎになりますよ」と恒夫が反対したが、「ここまで手なずければ大丈夫」と譲らない。頑固でケチな太郎に驚きながら、「自分でちゃんと納得させてくださいよ」と恒夫は両手を挙げて蜘蛛の巣だらけの天井を仰ぎ見た。

「なあチエさん、僕はすでにジジババに嫌われてるから君が説明してくれないか。こういうときは女性のほうが角が立たないし……」と太郎がチエに手を合わせる。

「昼食は出すべきだわ」とチエ。

「ごめん、昨日のうちに宿屋に断っちまった。もう、出せないんだよ」と太郎は手を合わせたままだ。このクソ野郎と思いながらも、しぶしぶとチエは引き受けた。太郎が説明するよりは自分がしたほうがマシには違いないと思えたからだ。

 

 

 四日目ともなると、治験者たちも“もうウンザリ”という顔付きになって風呂にも飽き、世間話のタネも出尽くし、不味い食事だけが残された楽しみという状態で断食を宣告されるのは苛酷に違いない。初日の生気は失われ、外に出れば蚊に刺され、部屋にいれば退屈というわけで、抑留者のような陰鬱な顔して旅館内を徘徊し、昼食の一時間前になると大広間に集り、そこかしこでお茶を飲み飲み歓談しながら弁当が来るのを首を長くして待っている。そこにチエが一人で現われてマイクの前で話し始めた。

 

「みなさん、いよいよ今日が治療試験の最終日です」と言うと、一斉に拍手が起こる。

「みなさま本当にありがとうございました。ただいまみなさまからいただきましたデータを集計しておりますが、驚くべき成果が出ております」と言うと、さらに大きな拍手。

「そこで最終日の夕食は豪華な料理でのお別れ会となり、その場でみなさま一人ひとりの若返り度を発表します」と言うと、歓声が沸き起こった。

「それで、十二時からは最後の治験となりますが、これは空腹によるストレスが、この療法で解消されることを証明する治験となります。すなわち、みなさまに昼食を抜いていただいたあとにお風呂に入っていただき、お薬を飲んでいただき、採血いたします」と言うと、一変して場内はざわつき、「昼食ナシだなんて、そんなこと聞いてないよう」と声が上がる。

「お腹ペコペコよ!」

「空腹でお風呂に入るのは体に悪いんじゃない?」

「ご飯くらい食べさせてよ!」と方々から抗議の声が上がる。

 

「ご安心ください。空腹でお風呂に入っても、出たあとにお薬を飲めば安全ですし、空腹感もなくなります。また、夕食は一時間ほど早くなりますから、ひもじい思いはいたしません。夕食はパーティーですから、美味しい料理もお酒もふんだんにいただけます。少しばかりお腹をすかしていたほうが、きっと得をしますわ」と言ってもざわつきは一向に収まらなかったため、とうとう太郎がスタッフを引き連れて登場し、「さあみなさん、治験最終日は夜の風呂を午後に移動させ、午後は二回入浴していただきます。さっそく、男女一班の方々はお立ちいただき、入浴のご用意をお願いいたします」と言って男女の三分の一を追い立てるように立たせ、よろよろ立ち上がる者をスタッフが介助しながらなんとか反乱軍の分断に成功。この強引な作戦が功を奏し、これ以上騒ぎが大きくなるのは回避することができた。

 

 治験者たちは仕方なしに空腹を我慢して二度も風呂に入り、二度も不味い薬を飲まされ採血された。チエは恒夫とともに大広間での成果発表会の準備を開始。十センチほど高くなった舞台の両袖に、家電や健康器具、夏だというのに暖房器具など、若返り薬とコミで売りつける商品を並べた。営業担当の吉原もタクシーでやってきて、商品の並べ方を指図する。仕出屋のトラックもやってきて、豪勢とは言えないが少しはマシな料理が銘銘膳に並ばれた。大広間の入り口には椅子が置かれ、血液検査で調べたデータを基に、一人ひとりに決められた量の覚醒剤を打つことになっている。また、治験結果を記載した報告書は吉原が今日東京から持ってきたもので、若返りを示す血液データや右肩急上がりの若返りグラフ、三十歳以上も若い肉体年齢などが書かれていて、治験者一人ひとりに手渡されて治験薬の絶大な効果をアピールする。

 

 

 いよいよ成果発表会の開始である。さんざん血を採られている治験者たちは疑うこともなく次々と覚醒剤を打たれ、会場に入っていく。チエは注射を打つために並んでいる人々の姿を見ながら、シャワーだと騙されてガス室に入っていくユダヤ人のような哀れさを感じ、目頭が熱くなった。

「そうだヒトラーは窮地に陥ったゲルマン民族を救うためにほかの民族を排斥した。私たちも同じだ。まるでアウシュビッツの看守みたいに、汚らしいものでも見るようにこの人たちを蔑んでいる……」

突然チエの頭を、強い罪悪感が打ちのめした。チエはパニックに陥ったように、この場から駆け出したい衝動に駆られたので、震えながら必死になってシャマンの言葉を復誦した。

 

「しかしすべての人間をつくられた神はすべての民族を愛し、窮地に陥った人類を救うために別の課題を私たちに課したのです。神はおっしゃいました。君たちは動物に過ぎないと。地球という厳しい自然に投げ出された存在であることを自覚しなさい。動物は年老いると自らを滅ぼす。生き長らえることが仲間たちを滅ぼしかねないからだ。本能的に種を保つ能力を持っているのだ。しかし人間は文明を築いて自然の法則を崩し、異常に繁殖しすぎてしまった。人間は唯一、未来を予見する能力を持った動物なのだから、種を保つ行動を取れるはずだ。十年先のことなどはどうでもいい。二○五○年から先の未来を憂いなければいけない。そしてハルマゲドンの到来を少しでも遅らそうと、君たちは立ち上がるのだ。君たちは考えなければいけない、君たちは覚悟しなければいけない、君たちは行動しなければいけない……、嗚呼なぜこんなグロテスクなことをしているんだ!」

 

「あら、この子泣いているよ」と言って、老女が心配そうな顔をしてチエの顔を覗き込む。

「上司に叱られたのかい?」と後ろの老人。

「みなさんがあんまり若返ったので感激しちゃって」とチエが答えると、二人はにこやかにわらった。

 

 

 先ほどまで覚醒剤を打っていたスタッフは白衣を脱ぎ、治験者一人ひとりに個人別の若返りデータを渡した後、それぞれ散らばって酌をはじめた。薬が効いてきたものか、全員の気分が高揚し、幸福そうな顔付きで陽気になり、最初から異常な盛り上がりを見せている。昼食を抜いているのに食欲がわかないらしく、やたらと立ち上がって酌をはじめるので、スタッフは途中で酌を打ち切って脇に退いた。吉原が演壇に上がり、喋りはじめる。

 

「みなさん、ありがとうございました。さっそく、皆さんのお手元にある試験結果をご覧ください。たった数日間の温泉療法で驚くべき効果が上がりました。みなさんの肉体年齢は、平均三十歳近くも若返ったのです。その効果をいま実感されている方は手を挙げていただけますか?」と吉原が言うと、全員が手を挙げ、会場は満場の拍手で包まれた。

「どうです、今でも疲労感、倦怠感を感じる人、手を挙げてください」と言うと、誰も手が上がらず、会場は笑いで包まれる。

「そこのお若いあなた、フルマラソンもできるような顔付きしてますよ」と吉原が八十くらいの女性を指差すと、「じゃあちょっと走ってくるわ」と言っていきなり立ち上がり飛び出していくので、スタッフが慌てて追いかけた。

 

「いやあ、信じられませんね。みなさんスーパー高齢者に大変身ですな。でも、外は暗くなりますからくれぐれも出ないでくださいね。クマさんに食われちゃ元も子もない。それに、これからみなさんにとってきわめて非常に大事なお話をします。みなさんが、こんなに若返られたのはなんのせいでしょうか」

「緑のお薬」と方々から声が上がった。「ご正解」と言って吉原は大きな薬瓶を持ち上げ「単に温泉に入ったって、若返りなんかしやしません。みなさんは緑のお薬がノーベル賞クラスの画期的な発見であることを、身をもって実証されたわけです。しかしまだ治験段階ですので、特許を取って売り出すまでにはあと五年要します。みなさん、五年間待てますか?」

「待てない!」と大きな声が上がる。

 

「しかし、抜け道はございます。緑のお薬はあくまで医薬品として開発しましたが、健康食品の名目で内緒でお分けすることは可能です。これだったら、明後日からでも飲むことができます。ご家庭のお風呂に入って、このお薬を飲めば、若返った体を死ぬまで維持できます。もちろん死ぬときは百五十歳です」

 会場は拍手と笑いの渦で満たされ、踊り出す者まで続出。

「もちろん無理強いはいたしません。私たちはあくまで医薬品としての承認を受けようとしているからです。先行してお試しになりたい方がいましたら、健康食品という名目でお分けします。欲しい人は手を挙げてください」と吉原が言うと、全員が手を挙げる。

 

「ありがとうございます。みなさん食事の後にご契約、明後日までに入金いただければ、一週間以内にはお家に届きます。料金は振り込み前払いでお願いいたします。ただし条件として、治験薬ですので口外は厳禁です。また、ほかにもいろいろな健康グッズをご用意しておりますので、ご購入ください。個別にご説明するはずでしたが、みなさんあまりにも宴会を楽しまれているものですから無粋なことはいたしません。ご質問には個別に対応しますのでよろしくお願いいたします」と言うなり、気の早い老人が「申し込み用紙はどこだ?」と食事もそっちのけで申し込みの机にやって来たので、我も我もと列ができ始めた。

 

 しかし、宴会場では吉原以外のスタッフがおらず、仕方なしに吉原が対応せざるを得なくなった。というのも、マラソン老女を追いかけたスタッフが捕まえそこない、手分けして探すハメになったからだ。日没にはまだ一時間ほどあったが、森の中はすでに暗くなっていた。付近には崖などの危険な場所もあるし、麻薬を打っているだけに警察沙汰になったらアウトである。ところが見つからないままにとうとう日が沈み、スタッフだけでは収拾が付かなくなったが、もちろん警察を呼ぶことはできない。太郎は行方不明の女性が一人で参加していることを知ると、スタッフを集めて全員が気がつかない振りをしようということになった。宿屋の従業員も気付いていないから、一人いなくなっても最初から一人少なかったことにすればいいじゃないか。誰かがたずねても先に帰りましたと言えばいい。崖に落ちて死んだって発見されるまでには数日かかるだろうし、運が良ければ発見されないことだってありうる。それに発見されるまでにはみんなからお金も振り込まれているだろう、ということでスタッフ全員が会場に戻って机を広げ、とにかく契約をさせてしまえばこっちのものだと「売り切れないうちに早く早く」と煽った。

 

 

 ところが、さらに困難な事態が勃発した。二人ほど契約の列に加わらず、大の字に寝たままで起き上がらないどころか、高熱を発し、体が小刻みに震えている。スタッフが医者の振りをして聴診器を当て、「大したことはない。夏風邪だ。部屋に運んで寝かしましょう」と言って、男たちが手分けして二人を担ぎ上げ、部屋に運んだ。看護師たちが付き添って「これは救急車を呼んだほうが良さそうだわ」と言っても、太郎は首を縦に振らない。

 

「それより、君たち注射の分量を間違えたのと違うか?」

「言いがかりね。最初から経口投与にしとけばこんなことにはならなかったわ」と看護師の一人が反論する。

「仕方ないさ、静脈注射のほうが効き目がいいからな」

「あなた今日、緑のお薬にも覚醒剤を入れてたわよね」とスタッフの一人が太郎に確認した。

「ああ、効き目を確実にするためにな」と太郎。

「信じられない。〇・五グラム以上になると若者だって死んだりするのに。薬の知識がある薬剤師がさ」と看護師は呆れ顔になった。

「うるさい! 治験に危険は付きものじゃないか。いずれにしても様子を見よう。病院に連れてったらバレちまう」と手をこまねいているうちに二人とも死んでしまった。さすがに太郎も顔を青くして「今夜中に撤退だ。チエちゃんケイタイでタクシー三台呼んでくれ。四人ずつ分乗して駅に行き、東京に帰るんだ」と指示。

「健康グッズは?」。

「じゃあ君、家電の番をして警察にしょっ引かれたまえ」と太郎は声を荒らげた。

 

「一回目は失敗だ。二回目以降もナシだ。明日になれば俺たちはおたずね者だ。とにかく捕まらないことだ。それから覚醒剤は回収しろ。荷物はそのまま、面が割れるようなものは残すな。ニセ薬は放置しろ。覚せい剤入りは使い切った。宿屋にバレないようにしろ」ということで、スタッフ全員が宴会場に戻ると年寄りどうしがレスリングしたりボクシングしたり抱き合ったり罵りあったりと、大混乱に陥っている。チエは申し込み受付けをしている吉原に「急きょ撤退」と耳打ちし、スタッフ全員タクシーが来るまで養老の乱を見物していたが、タクシーが来ると「それではシルバー格闘技大会をお楽しみください」と締めてから分乗してずらかった。

 

(つづく)

 

 

 

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