詩人の部屋 響月光

響月光の詩と小説を紹介します。

エッセー「 君はAIを夫とするか?]& 詩

エッセー
君はAIを夫とするか?
~憑依(ひょうい)の未来メカニズム~

 僕は現在病気療養中で、それほど永くは生きられないだろうと考えている。それでも、悲壮感はまったくといっていいほど頭に浮かんでこない。僕が生まれた時代には、「人生50年」と言われていた。いまの僕は、それより20年以上も長生きしていることになる。あの時代の大人から見れば、長老の部類だ。十分生きたと思っている。

 しかし、入院中に同じ不治的な病で苦しむ多くの人を見てきた。その苦しみは大きく二つに分けられた。一つは死期が間近に迫っていて、四六時中激痛に悩まされ、モルヒネを欠かせない人々。これらの人々を見ていると、憐れみを抱くと同時に、僕もいずれはそんな状態になるのだろうと想像し、暗澹たる気持ちになる。それでも、僕が子供の頃に比べれば緩和ケアも大分進歩している。小学生の頃、肺がんで入院している伯父を見舞いに行ったことがあったが、伯父は呼吸が苦しくて座位呼吸をしていた。僕が具合はどうかと聞いても呼吸に忙しくて、答えることは出来なかった。いまにも死にそうな状態なのに変な質問をしたものだが、何かを語り掛けるとしても、そんな質問しか出来なかっただろう。伯父のドロンとした腐った魚のような目を、いまだに記憶している。その病院は有名ながん専門病院だったのに医者も匙を投げ、緩和目的での酸素吸入すら施さない恐ろしい時代だった……。 

 もう一つは、不治の病に罹った若い人たちで、新しい特効薬が発見されなければ若くして人生を終えなければならないという苦しみを抱えていた。こうした人たちに対しては、どんな慰めの言葉も効かないだろう。いかさま宗教家がやって来て天井を指差し、「天国がありますよ」と宣うのを信じるしかない。彼はそこで神の恩寵を感じる。しかし天国というのは、死に行く本人に対しては一時で、後は残された家族に対してあるものなのだ。本人は死への恐怖に苛まれながら、天国があるじゃないかと慰めつつ生と死の臨界点を迎える。そのとき彼は人生を終えて、全てを失う。いまの科学セオリーで言えば、魂も肉体も神も天国という妄想も、全てが灰燼と化す。つまり彼の精神は死を境に消滅するわけだ。そして彼の人生が残した残渣は、彼の家族の心の中に記憶として残り続ける。そのとき家族は想念の中で、彼の住家を天国という架空の場所に移し替える。

 そう考えると、宗教家という連中は、プーチンの核脅しと同じ論理を展開していることになる。南無阿弥陀仏と唱えればお前は救われるよ。だが信心しなければ救われることはない。これは地球上の恐ろしい二項対立の掟で、降伏しなければ全滅だよ、餌を獲得しなければ死ぬよ、仕事をしなければ餌にあり付けないよ、と同じ論理だ。しかし目前の死は独裁者のように、選択の余地なく強引に彼を引き込もうとしている。「治す手段が無ければ死ぬよ」。だから彼は、死の後ろにあるかも知れない天国という非論理的な妄想に想いを馳せる。死という運命の力の前では、祈る以外に方法がなくなるのだ。彼は現実を直視することを避け、妄想の世界に逃避する。もっとも、天国があるかないかは不可知なので、それは仮説のカテゴリーに入れていいだろう。

 もし死に行く彼が無神論者で、仮説として死後の世界なんかないと一笑に付せば、彼は天国という希望を失うことになる。彼は現実主義者で、論理的に証明されないものは信じない。彼は生死の臨界点を越えた後に、一切が無となることを信じていて、恐れを抱くことはないだろう。そこには天国もなければ地獄もなく、無念の心すらないのだから……。ならば、死への助走期間において、恐れる理由もなくなり、過去を振り返って良き思い出の中で楽しむだろう。仮に悪い思い出が蘇ったとしても、もうすぐ全てが無に帰すのだから、そんな思い出に悩まされることもなくなると安堵する。しかし天国を信じる者も、信じない者も、安らかに死を迎えることを前提として、自ら生への執着を断ち切らなければならないことは同じだ。そのとき彼らは、人生の中に蠢く多くの人や物と自分が繋がっていたことを意識する。妻や恋人との繋がり、子供や家族との繋がり、仕事や趣味、友人、仲間、ペット、愛車、趣味、自然等々……、そしてそれらは「愛」という糸で繋がっていて、その糸が太ければ太いほど、幸せを感じていたことを悟るだろう。

 そしてこの糸はまるで歯のように、年齢を重ねていくうちにポロポロ切れていく。両親とは死別し、子供は巣離れし、ペットは死に、仕事も辞め、友人たちも鬼籍入りする。孤独死とは、そうした糸の無くなってしまった人々の死を表現した言葉で、語感として憐れみを誘うが、本人から見ればそうでもないかも知れない。なぜなら、まったく糸がないわけではない。孤独を楽しんでいたかも知れないし、趣味を楽しんでいたかも知れないし、食うことに執着していたかも知れない。人は与えられた環境の中で何とか生きていける。孤独死の人も僕のような高齢者も、生に対してさほどの執着はなくても、何かしらへの執着は残っているに違いない。

 可哀想なのは、若い人は生への執着心が旺盛だということだろう。生と死はコインの裏表で、生きている人は常に死神を背負って動いている。突然車に撥ねられた瞬間に主客はチェンジし、死神がその人を背負うことになる。不治の病で死期を間近に控えた病人には、死神が背中から降りて慎ましく若い彼女の横に寄り添う。それが彼女の視界に入ったとき、嫌いな男が横に密着するように彼女は鳥肌を立てて、恐怖の中で押し退けようとする。しかしそいつは頑強な男で、びくとも動かない。彼女は自分の運命として受け入れなければならないのだ。小一時間前にテレビニュースで、熊が急に現れてピクニックテーブルに乗って全員のランチを平らげ、満腹になって山に戻って行く情景が映し出されていた。横の椅子に座った連中は自分も食われないように微動だにせず、大人しく災禍の通り過ぎるのを待っていた。この熊は死神で、巨大な草刈り鎌の代わりに鋭利な牙と爪を持っていたわけだが、死神とは目的が違っていたし、悲劇を楽しむ趣味も持ち合わせていなかった。死神はメフィストフェレスと同じ類のサディストだ。だから歌劇『椿姫』のように、死の間際に愛する人と再会させ、「不思議だわ……」と彼女に生きるエネルギーと希望を与えた直ぐ後に「やっぱやめた」と取り上げて死に陥れ、人の世の儚さを楽しむわけだ。

 死に至る病は色々あろうが、その終着としての「死」は、事故や殺人も含めてあらゆる災禍の終着点であることには変わらないし、同時に人生の終着点でもあるわけだ。だから秦の始皇帝に限らず、人類は古代から不死の薬を求めてきた。そしていまも医学界で研究が進められている。しかし僕はこの頃、死神が人類の作り話であるのと同じに、「死」もいずれファルス(笑劇)になるだろうと思うようになってきた。話は瞬時に飛んじまうが、例えばいま、米国防省がUFO(UAP)の調査組織を立ち上げたが、本当に宇宙人が地球にやって来ているとすれば、彼らはワームホールのような瞬間移動のできる時空の穴を利用して来たのか、恐ろしく長寿であるかのどちらかに違いない。

 仮に彼らが長寿であったならば、彼らは自然から与えられた生身の体ではないだろう。彼らは我々と違って、何世紀も前にシンギュラリティを迎えた人々なのだ。シンギュラリティには二つの特異点がある。一つはAIが人類の知能を超える転換点(技術的特異点)。もう一つは、AIの権利が人権と等しくなる特異点だ(権利的特異点)。このとき初めてAIと人間の差別的感情は解消し、人類はAIを仲間として受け入れることが出来るようになる。そしてこの権利的特異点以降、人類は死から解放されて永遠の命を獲得することになり、宇宙人の仲間入りを果たす。人間とAIは平等になるのだから、当然結婚することも可能になる。子供を持つこともできる。すでに赤ん坊は人工子宮で育てられ、人類の子宮的アイデンティティは喪失している、LGBTQ++AIの時代到来だ。

 シンギュラリティの最大のメリットは、人間の寿命を失くし、永遠の命を与えることが出来るということなのだ。死に行く彼は、死を迎える一週間前に、脳を含めたあらゆる神経組織をAIに複製させ、性格や感性、性的嗜好を含め、生まれてから死ぬまでの全ての脳内情報を移転させる。そしてそれを若いときの自分にそっくりなアンドロイドに埋め込めば、もう一人の自分が出来上がる。きっと再生した彼は、ベッドに横たわる自分の亡骸を、まるで脱皮した蛇皮のように無感動に見下ろし、清掃ロボットが焼却施設に運んでいくのを見送るだろう。整形手術で美人に変身するのとほとんど同じ気分だ。そして愛する妻や子供、孫たちも、若返った彼に多少は違和感を感じつつ、再生誕生パーティを盛大に開いて祝福してくれるだろう。ひょっとしたら妻だって、どこも悪くないのに早々にロボットに転身し、若い亭主に合わせるかも知れない。「アア、僕も早くロボット君になりた~い!」(この「ジョーク」を死ぬまでお道化ていたマキューシオ氏、及び餌を貰えると思って餓死するまで踊り続けた戦時中の上野動物園の象さんたちに捧げます)。

 

 

 


古里

無数のブヨたちが
見渡す限りの湿地から
命をあざ笑う埃のように舞い上がり
乾いた春風の大きな渦に乗じて
身の程知らずの高さまで達したとき
清らかな天空はにわかに掻き曇り
まるで日蝕を恐れる原始人のように
俺は恐れ慄いたのだ

死んだ水草たちが
無念の心を絞り出し
腐臭に満ちた体液を蜿蜒と広げ
泥沼の底のどこからか
ひっそり湧き出す清水を捕らまえて
からかいながら汚していく様は
縁側で殺した鼠を弄ぶ猫のように
残酷な心で満たされていた

崖の穴奥で巣立ちを控えたカワセミたちが
三日後には誰もいなくなってしまい
巣立ちをしたに違いないと喜んだ途端
崖下に散る美しい翼たちを見て
俺は泣き叫びながらがむしゃらに駆け上がり
丘の上から沼たちを見下ろしたのだ
そして平然と佇む鏡のような水面を見たとき
俺はお前の冷酷な本性を理解した

嗚呼、古里
あらゆる獣たちを抱え込み、突き放す自然…
その吐息は拭い去れない血のように
幼くも弱々しい肺臓に忍び込んだのだ
俺はお前に汚された血を回しながら
泥沼の濁り水を全身に送り続け
時たま不整脈を起こしてときめかせる
お前はいまでも俺を支配していて
萎えた身体が朽ちるまで
からかい続けるに違いない
無意味な遊びを繰り返す
あのときの俺を真似て…

 

 

 

響月 光のファンタジー小説発売中
「マリリンピッグ」(幻冬舎
定価(本体一一〇〇円+税)
電子書籍も発売中 

エッセー 生き物たちの弁証法Ⅱ & 詩

エッセー
生き物たちの弁証法

~国会論戦の未来像~

 ソクラテスが活躍した頃のアテナイの広場では、ディベート(討論)が盛んに行われていた。いまの学校教育で行われているように、提示された主題について、肯定側と否定側、一つの意見と異なる意見の間で、日の暮れるまで論戦が繰り広げられ、周りを囲む聴衆のそれぞれが、ジャッジとなってどちらに理があるかを評価した。民主主義は古代ギリシアが発祥とされるが、政治に関してもたとえ愚衆政治と言われようが、人々はどちらかの意見をチョイスし、多数決によって政策が決定された。また、どちらかの政策を主張する者を多数決で選び、政治を託した。いまの日本も同じだろう。仮にその決定が市民に悪い結果を招いたとしても、その方法が民主主義の基本であるからには変えるわけにはいかない。つまり民主主義はいまに至るまで、たとえポピュリズムに陥ろうが、国民全員参加の政治形態であり(年齢制限はあるが)、それを持続させる必須アイテムは「多数決」であり、さらに突っ込めばその基本ツールは「弁証法」だということができるだろう。

 「弁証法」はギリシア語では「対話術」で、元はソフィスト(詭弁家)や政治家が戦わせたディベートのツールだった。討論を繰り返しながら相手の矛盾点を浮き上がらせ、相手を追い詰める手法に過ぎなかったわけだ。討論の中で徐々に相手を追い詰めていき、最後に打ち負かすという意味では、将棋の戦法と同じようなテクニックだった。しかし将棋とは違い、単純に勝ち負けが決まるわけではない。討論の中で相手の主張の矛盾を攻撃し、相手がそれに反撃できなかった場合、相手が声を詰まらせても頑なに非を認めなければ平行線をたどり、お終いになってしまう。

 しかしそこに第三者の聴衆がいた場合は、聴衆はそれを認識して勝ち負けの判断を下す。そして仮にこの聴衆の中に頭の良い奴がいれば批評家ぶった寸評を始め、それと違う意見の奴が反論してまた新たなディベートが始まり、ひょっとしたら二人の意見をうまい具合に取り入れた妙案が出てくるかも知れない。つまり互いに異なる二つの意見をぶつけ合う当事者には正否の二択しかないが、それを冷静に判断する第三者から、二つの意見を総合したより良い意見が生まれる可能性はあるわけだ。また、激論を戦わせた当事者も、後になって頭が冷えたときに、相手の意見にも一理はあったなと思えば、また新しい考えも浮かんでくるに違いない。現在の国会論戦は、古代ギリシアの広場でやられていたことを議事堂に場所を替えただけのことだ。

 プラトンは、この弁証法ディベートのツールから、イデアの認識に至るまでの思考ツールとして取り入れ、低次な思考認識段階からより高次な思考認識段階へと高めていった。つまり広場を頭の中に移転させ、観念Aと観念非Aを戦わせ、その過程からより高い認識である観念Bを得ようとした。しかし弟子のアリストテレスは、元々観念(仮象)から出発した言葉の遊びだとして真の認識(本質)には至らないと批判した。しかしヘーゲルは、この弁証法を人間の認識に係わるツールから、全ての事象に係わるツールにまで進展させる。一つの考えを肯定すると、その考えに含まれる矛盾点を指摘する別の考えが現れる。最初の考えを押し通すわけにはいかないから、別の考えを取り入れて総合統一させた新たな考えを創り出さなければならなくなる。その新たな考えがまだ理想的な考えでない場合には、また新たな矛盾点を指摘する考えが出てくる。そこで再び二つの考えを総合統一させながら、これを繰り返して理想の考えに近付いていく。こうして思考も文化も、その他のことどもも、時空軸に沿って螺旋的な軌道で上昇していく、と彼は考えたわけだ。

 そしてマルクスは、ヘーゲルのこの「弁証法」を受け継いで、Aと非Aがすべての自然の中に矛盾として存在し、弁証法的に展開・進展していくという「自然弁証法」に発展させた。つまり自然界では物質はもとより、生物でも(遺伝子レベルにおいて)Aと非Aは常に存在し、弁証法的に総合統一させながら進化していくという主張だ。そしてこのAと非Aは「闘争」によって統一されて、より高い存在のBとなると説いた。この論を当時の社会状況に当てはめると、階級闘争や革命ということになった。そしてこのマルクスの考えを具現化したレーニンロシア革命を成し、進化した社会形態である社会主義体制が樹立された。しかし結果は見ての通り、マルクスの夢見た共産主義社会は実現することなく、ソビエト連邦は74年間で儚くも崩壊した。

 ソ連の崩壊はいろいろ原因を上げることができるだろうが、最大の原因はマルクスアウフヘーベン止揚・総合)を「闘争」によってもたらされるとしたことだ。弁証法というのは、本来Aと非AからBに至る過程を繰り返しながら時空に沿って螺旋状に上昇していく、人類の時空的進化に必要なツールであったはずだ。しかしその過程の中に「闘争」を組み込めば、永遠に血を血で洗う戦いが繰り返されることになる。硬直化した階級社会を崩すためには仕方がなかったとはいえ、革命政府は堅牢な一党独裁政権(スターリン体制)を樹立し、次なる革命を危惧して弁証法という螺旋状のDNAを断ち切った。弁証法の展開には定立(A)と反定立(非A)が必要で、独裁政権はその非Aを徹底的に弾圧したわけだ。つまり、政権を取った政府や独裁者は、その性質上「保守」にならざるを得ない。そのときまず最初に壊さなければならないのは、時空に沿って上昇進化していく弁証法の螺旋階段なのだ。遠く古代ギリシア時代から、弁証法の土台は定立と反定立で、その片方が無ければ弁証法はツールとして成立できないことになる。

 いまのロシアも中国も北朝鮮も、その他の権威主義国家も、この状況は変わらない。ならば「弁証法」が思考的にも対話的にも有効なツールとなり得るのは、古代アテナイと同じ民主主義国家だけということになる。しかし、だからと言って安心してはいけないだろう。独裁政権も民主政権も「保守」である限りにおいて、心の中では共通の感性を持っているからだ。両者とも、政権交代に対する恐れは変わらない。一度手にした政権や利権を他党に奪われたくはない。だからそれを守るために必死になるわけだ。

 もちろん、その必死さには違いがあるだろう。独裁政権は恐怖政治を行って勝手に法律を変え、恥も外聞もなく力にものを言わせて政敵を蹴散らす。民主政権は一応民主主義国家だから現行法に従わなければならない。ならば法律の許される限りにおいて、あるいは水面下で色々な工作を行うことになる。例えば、アメリ最高裁の判事は、政府が政権与党に有利な人材を選ぶことができる。それ以外にも、過半数議決などを利用して、支持団体の願いを叶えるような法律を制定したりすることも可能だ。日本でも、議席数で優る自民党は、他党の反対にもかかわらず、どんどん都合の良い法案を通すことが可能になっている。これは独裁政権に近い状況だと言えるだろう。国会がこの有様だと、弁証法に不可欠な二本の基礎柱(A、非A)の片方が最初から無いことになり、健全なディベート大会は実施されなくなる。野党側としても、何を言っても結局法案は通ってしまうのだからやる気を無くし、国会は単なるセレモニーと化してしまう。これではロシアの国会と似たり寄ったりだ。他国の議会を笑う行為は、猿の尻笑いになってしまう。

 我々が認識しなければならないのは、与野党のバランスが悪い状態では、民主主義のツールである弁証法が成立しないということなのだ。弁証法は、民主主義が未来へ登っていくための螺旋階段だ。長期政権はその階段を断ち切り、出来た踊り場に保守の湯船をあつらえ、ぬるま湯に浸かりながらひたすら富士山の絵を眺めて、変遷する世界の景色から目を逸らす。なぜなら、ぬるま湯だと思っていたものが、長年付き合ってきた仲良しクラブ連中が吐き出す液汁で固まったゼラチンで、身動きが取れなくなっているからだ。本来民主政治の議会は、様々な意見が飛び交って中々まとまらず、粘り強い協議や説明によって両者が納得し、妥協を通してよりベターなものを創造する場であるはずで、数にものを言わせて短時間で強引に決議する場では無いはずだ。常に野党の意見が無視されるのであれば、議場は戦いの場ではなく上から目線の選別の場となり、企業や大学の入試会場と同じになってしまう。こうした議場の停滞がこれからも続けば、民主国家の日本でも弁証法は廃棄され、日本は中国やロシアと変わらない一党独裁国家に成長していくに違いない。

 僕が恐れているのは、日本が硬直化した湯船に浸かっている間に、世界情勢が急速に変化していることだ。いまの世の中は地球温暖化のせいで、明日自分の家が燃えたり流されるかも知れない状況になっている。それに連動するように、国家間の対立や民主連合VS権威主義連合の対立なども高まってきている。さらにそれらに連動して、経済的、技術的な覇権争いも活発化している。死に体の議会と鈍牛の政策では、激動する世界に付いて行くことは難しいに違いない。「地球温暖化」一つを取っても、世界の先進国軍は脱炭素に向けて大きく舵を切ろうとしている。日本は渋々と驥尾に付すのではなく、積極的な役割を果たさなければならないだろう。それにはまず保革のバランスを修正して、民主主義の背骨とも言える「弁証法」の螺旋階段を復旧させる必要がある。当然のこと、それを行うのは国民一人ひとりの意志ということになる。ふつう地獄は下にあるもので、登った先にあるのはパラダイスだ。そこが一党独裁の世界ではないことを願いたい。

 

 

 


山火事

たぶん猿だったあの頃から
遠い先祖が足でよちよち歩き始め
鬱陶しい埃だらけの体毛を脱ぎ捨て
細長い木の枝を投げ槍に仕立てて
葉屑にまみれた柔肌を茨で傷つけながら
ヨモギをかみ砕いて傷口にあてがいつつ
鹿たちのうまそうな臭いを嗅ぎ分けて
急斜面のけもの道を急いで駆け下り
茫々とした平地の草むらに分け入って
ヘリオトロープの香りに邪魔され
追うべき方角を見失いつつ
肩を落として晩飯を断念したとき
いつものように太陽に背を向けると
うらぶれた猿たちの黒い影の向こうに
悠久の時を越えて鎮座する山々が
夕日を浴びて裾野を赤く燃やしながら
寡黙な姿で泰然と見下ろしているのだ
猿たちはこうべを垂れ目を潤ませ
明日の鹿追が成すことを願いつつも
山葡萄のたわわな実を思い出して感謝し
忘却の眠りを誘う樹海に戻っていく

無数のか弱い獲物たちを包容し
選ばれし狩人たちを許容する
豊満の幸で満ち溢れた山々よ
きっとそのとき猿たちは初めて
それらが神々であることを知り
木々は母たちであることを知ったのだ
しかしその遠い子孫が目にするのは
神たちが常軌を逸して怒り狂い
魔女狩りのように母たちを追い詰め
次々と火あぶりの刑に処している悪夢だ

神々を怒らせているのは誰だろう
それはきっと
神も母もすっかり忘れてしまった
猿どもの末裔に違いない……

 

 

 

響月 光のファンタジー小説発売中
「マリリンピッグ」(幻冬舎
定価(本体一一〇〇円+税)
電子書籍も発売中 

エッセー「バカタレの壁」& 詩

バカタレの壁
~「核」という現人神~

 僕は現在病気療養中だが、病気になる少し前に、道に落ちていた明治神宮のお守りを拾って家に持ち帰った。きっとそのとき、そのまま無視して通り過ぎると、何か悪いことが起こるのではないかと思ったに違いないが、いまになって考えると、拾ったから病気になったのかも知れない(不信心で罰が当たり)。しかし実際病気になってみると、しばしばこのお守りに手を合わせている。僕は信心深くはなく、無神論者でもなく、いわゆる不可知論者だ。神様はいるかも知れないし、いないかも知れない。語り得ないことは、沈黙するに越したことはない。きっと多くの日本人もそう思っているに違いない。だから、咄嗟のときの神頼みじゃないけれど、人間窮地に陥れば、中途半端な立ち位置を少しずらして、信心寄りに傾いても不思議ではない。中途半端は「ニュートラル」という言葉に言い換えることができ、それは周りの変化でいかようにも動ける態勢にあるということだ。これは国民全員が「神国日本」と叫んでいた時代を思い返せば明らかだろう。維新を経て全ての日本人がギアチェンジし、現在明治神宮に祀られている神は、京都から東京に居を移して現人神となられた。

 しかしなぜ僕は道端の汚れたお守りを拾ったのだろう。さらになぜ多くの人々は、なんとなく神社に行ってお詣りし、お守りを買うのだろう。恐らくそれは、日本の風土の中に、「お詣り」という古来からの習慣がしみ込んでいて、稲穂がその大地のエキスを吸収して成長するように、我々は子供の頃からその土の上で成長し、その伝統をエキスとして吸い込んできたからだ。そしてそれは汚染物質のように、脳内の無意識の領域に溜まっていて、何らかのきっかけで意識内に入り込み、一見非合理な行動として現れる。つまり「神」は無形の文化なのだ。すると神社もお守りも、その無形物を具象化した有形の文化で、我々日本人はそれらの有形文化を介して、無形文化と繋がっていることになる。いかに神を信じなくても、日本の土壌に生まれ育ったからには、その無形文化のエキスを吸い続けることになり、そいつは時たま無意識の中から飛び出してきて、心に風波を送るのである。「罰が当たるぞお~」。そして自分の身に不幸なことが起こると、天罰じゃないかと思うわけだ。霊能者と称する連中は、その心のかすり傷に取り入って祟り物語を醸成し、高額な治療費を要求する(真偽のほどは分かりません)。

 これは日本人に限らず、世界中の民族にベーシックに付随する現象とも言えるだろう。宗教を持たない民族はほぼいない。観念を獲得した人間は、反射本能で動く動物から離脱し、何かを信じることで行動を取るようになった。そしてその観念は妄想を生み、それは集団的妄想となって民族を形成していく。共産主義政府がいかに宗教を弾圧しようが、その土壌にしみ込んだ数千年にわたる無形文化としての宗教を、根こそぎ絶つことは出来ないはずだ。隠れキリシタンのような積極性は無くても、国民の無意識領域には古来からの宗教的残さが黴のように潜んでいる。だから共産主義のリーダーは宗教を邪魔者として弾圧し、代わりに自分が有形文化財としての現人神になろうとする。何かを信じなければ人は行動しないからだ。信じることは神話を創ることに等しい。一人一人の神話が集団内で纏まれば、それは宗教となり、その宗教の下で人々は行動する。それは神や現人神だけでもない。集団の考えが統一されれば、例えば「原発神話」、「リバタリアニズム(完全自由主義)」などの妄想や思想や主義も、宗教の亜種と言うことができる。ならば共産主義だって宗教亜種だろう。

 沙漠のような厳しい環境下では、人と神は契約で固く結ばれる。我々にとっては不合理な「男女不平等」も、その民族の土壌に根付いた無形文化である宗教の教えなら、その神と契約した支配階級が神との約束だと思う限りは、世界的な非難を受けようが、なかなか解消できないことになる。いろんな土壌に根付く民族運動についても、その民族にとっては合理的でも不利益を被る他民族にとっては不合理なものもあり、俯瞰的には過激なものと映る。ウクライナ侵攻も、「ウクライナは10世紀以来ロシアの土地だった」と考えるロシア人の過激な民族運動と捉えることは可能だ。そう考えれば、台湾を中国の土地だと思う中国人と変わらないことになる。

 人々には古来の土地から吸い上げた養分が血液として流れているから、有事においては過去の歴史の血が騒ぎ、時たま制御が利かなくなる。そうした人々は、「ウクライナ人はロシア人に戻るべきだ」、「台湾人は中国人に戻るべきだ」と思うわけだ。このエキスの濃度を差配するのは「宗教(亜種を含め)」で、キリストの大地では神道より濃く、ユダヤイスラムの大地ではさらに濃いに違いない。侵略国がまずやるのが同化政策なのは、その土地の信仰を含めて、有形無形のあらゆる文化を消滅させなければ、いずれ反乱が起きると思うからだ。かつての日本も、朝鮮や中国などでそれを推進した。

 民族の土壌エキスは、焼き鳥の秘伝ダレのように、古ければ古いほど価値を持つ。時代時代で時の権力者は、秘伝ダレに追い足しし、火にかけて腐らないようにする。なぜならそのタレを、統治の道具に使おうとするからだ。統治の天敵は精神的ダイバーシティだ。国民の感性がバラバラでは御し難い。彼らは国民を焼き鳥ぐらいにしか思っておらず、同じ味にまとめるため、一つのタレの中にどっぷりと漬ける。政権は大なり小なり、似たような同化政策を推し進めていく。

 明治政府は日本の神々をタレにしようと、神の子孫とされる明治天皇を担ぎ上げ、神道国教化を目指して廃仏毀釈を焚きたてた。いまの例で言えば、ウクライナ戦争を起こしたプーチンロシア正教に近付いて、その威信を利用しようとている。宗教というタレのない中国では、習近平自身が現人神(タレ)となるべく、教育改革を推し進めている。いまの日本もその例外ではないだろう。ダイバーシティは日本政府にとっても目の上のたん瘤だ。民主主義国家である限り、政府の暴走を制御することは可能だが、人権については欧米先進国と異なる古臭い法律が残っていることも事実だし、それを変えようとしないことも事実だ。教科書検定の「近現代史歪曲問題」も同じことだろう。

 しかし、なぜ日本の政府がドイツとは異なって、国が犯した侵略戦争の歴史的残虐性をオブラートで包めなければならないのだろう。それは日本政府を含めた右翼たちが、日本国民の感性をスズメバチのように、いずれ戦闘モードにチェンジさせなければならないと考えているからに他ならない。国民総動員令が公布される前に、負の歴史などの障害物をあぶり返すわけにはいかないだろう。知識人の多くも、政府も、次なる戦争を考えざるを得ない時代に入ったと認識している。その最大の原因は地球沸騰化だ。これは次なる東南海地震と同じく、もうほとんど人智では制御できない状態に入りつつある。温暖化で世界中が沙漠化すれば、世界中で食糧の争奪戦が始まり、それが国単位となれば、生き残った国の勝ちということになる。

 戦争が始まれば、日本は防衛戦争だと思うのは大間違いだ。食糧自給率の低い日本は、他の国の食糧を奪うか、餓死するかの選択を迫られる。餓死は嫌だというのが国民の総意ならば、政府は侵略を開始するだろう。それを見こして、いまから防衛費をどんどん増強していくに違いない。それは防衛費ではなく侵略費かも知れない。アメリカ大統領が徳川家康なら、日本首相は本多忠勝で、中国主席は石田三成の役どころだ。日本はアメリカのケツに乗って、甘い汁を吸おうとするだろう。ならばそのとき、日本の御旗として天皇が現人神に復活するかというと、それは違う。その理由として、現代の現人神は無形の神が降臨して有形の神となるものではないからだ。現代人には無神論者や不可知論者が多く、現実主義者も増えていることから、現人神には現実的なパワーが求められる。それはいまのロシアを見れば分かるだろう。

 1970年に公開されたアメリカ映画『続・猿の惑星』では、核戦争で生き残った人類の子孫であるミュータント人が、核ミサイルを神として祭壇に祀り、崇めている情景が映し出される。神は「核」として降臨された。いまのロシアは核脅しを繰り返しているが、自国を戦火から守っているのは、現人神としてのプーチンではなく、核兵器なのだ。反対に、ウクライナは核を放棄したから、神を失ってああした惨状になった。核はいまのところは守護神にとどまり、祭壇に祀られているだけだが、切羽詰まれば破壊神シヴァのごとく鞘を抜く可能性は否定できない。それはロシアに限らない。核を保有する全ての国が、最終的に祖国を守ってくれるのは、現人神たる「核」だと認識している。核を持つ理由はそこにあるのだから……。ならばいずれ日本にも、北朝鮮の真似をする時代が来るかもしれない。

 この切羽詰まった状況は、地球沸騰化によって加速される可能性は否定できないだろう。そのとき、地球規模の核戦争が勃発するかも知れない。そんな状況を想定して、政府内では秘密裏に「核を持つべきか、持たぬべきか」の議論が展開されている可能性はあるだろう。嗚呼、我がノストラダムス神よ、僕はつくづくジジイで良かったなあと思っております。

 

 

 

 


ゴキブリ哀歌

あなたは私を忌み嫌って
キャッキャと逃げるけど
あなたが寝静まった後に
私は一介の虫けらとして
時たま深夜の薄暗がりの
窓に差し込む月光を受け
脱衣室の大きな鏡の前で
自慢の触覚を撫でながら
流線形の黒々とした体を
いろんな角度で映し込み
月の光が茶羽に反射する
玉虫の如き多彩な色彩を
憧れつつも見惚れながら
ああ負けてはいないなと
ナルシスみたいに微笑み
やっと自信を取り戻して
明日になれば再び白々と
舞台の袖の暗闇から出て
クライマーの如き白壁に
アイゼンの爪を引っ掻け
ちょこちょこケツを振り
あなたに認められようと
いろんな芸で注目を集め
あの微笑みを望みました
しかし美しい笑顔は消え
鬼のような形相になって
恐ろしいスプレーを放ち
天国に召されたわけです
私はあなたに捨てられた
ただあなたの香りを愛し
家族の一員として招かれ
この幸せ溢れる家に暮し
薄明りのベッドの傍らで
清かな寝息を触覚に受け
儚い生命を終えたかった

あなたを慕っていたのに
本当に、心の底から……

 

 

 

 

 

響月 光のファンタジー小説発売中
「マリリンピッグ」(幻冬舎
定価(本体一一〇〇円+税)
電子書籍も発売中 

エッセー 「炎のアウラ、ゴッホ」& 詩

エッセー
炎のアウラゴッホ

 人はなぜ展覧会に行くのか。哲学者のワルターベンヤミンは有名な『複製技術の時代における芸術作品』で、コピーでない本物を観たときの状態を「アウラ(オーラ・霊気・風)」という言葉で表し、「時間と空間が独自にもつれ合って一つになったもので、どんなに近くにあってもはるかな一回限りの現象である」と言っている。例えば避暑地で夏の午後にくつろぎながら、木陰で遠くの山々を目で追いながら、木々や山やそよ風のアウラを呼吸すること(意訳)、などとも付け足しているが、要するに写真などの標本的な複製をいくら見ても、作品やら自然やらがその場で流動的に発散しているアウラを味わうことは出来ないよ、ということらしい。

 しかし僕にとっては、美術館に行ってもそのアウラを感じ取ることは至難の業だ。いつも観に行って、「ああこんなもんだ…」と思って帰ってくる。あの人混みの中で、そんなものを感じるわけがない。しかし避暑地では心身共にリラックス出来て、ある種の感動は覚える。それは、そのアウラが全て身体に良い要素を含んでおり、僕の全ての細胞が、生命を育んできた良好な歴史、さらにはそれが生命の母体であることを記憶していて、なによりもいまここに、その母体の中に居るのだという本能的喜びから生じる感動だ。

 ベンヤミンは同じ論文の中で、自分が描いた絵の中に入り込む中国の画家の話をしている。思うに芸術作品のアウラ、例えば絵画の場合は、その多くはキャンバスの裏に隠れていて、素人見物人の我々が絵の表面から受け取ることのできるものは、キャンバスというフィルターを通して発散する微々たる香りのみであるに違いない。ならば、そのアウラを思い切り吸い込んでいる連中は、作品そのものを描いている画家か、その画家に心を奪われてしまった研究者や信奉者ぐらいなものになってしまう。当然のこと、全てのアウラを浴びているのは画家本人だ。要するに、展覧会に行く前に、その作家のことどもを徹底的に知らなければ、作品に対する本当の感動は得られないということなのだ。芸術作品におけるアウラとは、その作家が背後に背負っている生涯(歴史)と溶け合うことと言い換えることもできるだろう(当然環境や社会的背景も含まれる)。

 黒澤明監督のオムニバス映画『夢』の中に、『鴉(カラス)』という小題の夢物語がある。彼はゴッホアウラをこよなく愛した人だった。寺尾聰氏演じる青年画家(私)が、ゴッホの展覧会に行って『アルルの跳ね橋』という作品を観るうちに、その絵の中に引き込まれてしまい、麦畑で晩年の名作『カラスのいる麦畑』を夢中になって制作しているゴッホに出会うといった粗筋だ。この映画の想定は、「私」が彼のオリジナルの作品を観たときに始まる。「私」はゴッホの作品の虜になってしまい、キャンバスの裏側に潜むアウラを求めて絵の中に入ってしまった。映画の中に「私」が求めていたアウラの核心の台詞が現れている。「私」がゴッホの顔に巻いた包帯に気付いて尋ねると、ゴッホは「耳がうまく描けないので切り落とした」と答える。この狂気とも思える言葉こそ、ゴッホの全ての作品の背景にある特徴的なアウラなのだ。そしてその狂気は、芝居の複製芸術(ベンヤミンにおいて)とも言える映画の巨匠、黒澤監督に通じるところがあるだろう。

 黒澤監督は、シェイクスピアの『マクベス』を時代劇化した『蜘蛛巣城』の製作で、ラストシーンの撮影時に大学の弓道部員を雇い、当たらないように主役の三船敏郎に向かって何本も矢を射させた話は有名だ。それによって三船の恐怖の表情は監督が求めているものとなったが、三船はノイローゼに罹って監督の家の周りを何回も車で回り、「俺を殺す気か!」と怒鳴ったという。これは製作の裏話だが、それは作品の裏側に霊気(アウラ)として残っているに違いない。ゴッホも黒澤監督も、作品のイデアを狂気のように追い続けた人間だ。ニーチェは「一切の書かれたもののうち、私はただ血をもって書かれたもののみを愛する。血をもって書け。そうすれば、あなたは血が精神であることを経験するだろう」とツァラトゥストラに語らせているが、これは文章家に対してだけでなく、全ての芸術家、さらには全ての人々に対する厳しいアドバイスとも言える。血が精神なら、「血を持っていまを激しく生きなければならない」ということだろう。しかし彼はゴッホと同じ狂気の中で血の気(精神)を失い、死んでいった。『鴉』の導入で「私」が絵の中に入り、跳ね橋の下で洗濯する女たちにゴッホの居場所を尋ねると、「用心おし、精神病院から出てきたばかりだからね」と返して女たちはゲラゲラ笑う。血を持って生きる精神は、しばしば安穏とした社会との軋轢を生む。彼の死因は自殺だが、村の不良少年によって殺されたという説もあるぐらいだ。同じように頑固な芸術の求道者であったセザンヌも、村人たちからバカにされていた。

 こうしてみると、ゴッホの絵が世界中で人気を博している理由も分かってくる。多くの素人が彼の作品の詳細を知らないくせに、絵画の裏に潜む「激しくも悲しい生涯」というアウラだけは知っていて、絵の前に立ったときに、キャンバスの裏からそいつを引き出すことが出来るからだ。不勉強の僕がいくら展覧会に行っても、さして感銘を受けない理由もそこにある。その画家にはグッと来る人生が無かったからか、僕が知らないからだ。つまり、作品は作者のアウラと結び付いて初めて、作品の価値が出てくるわけなのだ。だから、千住博氏をはじめ多くの画家が、「創作芸術家は死んでからが勝負だ」と言う意味も理解できる。生前有名になってどんどん絵が売れても、死後は人気が落ちて売れなくなる画家もいれば、ゴッホのように生前一枚も売れなくても、死後は高額な値段が付くような画家もいる。しかしそれは、考古学的な難しさを伴っていることも事実だろう。発掘者が熱狂し、インフルエンサーとならなければならないからだ。

 また、このアウラを生きているうちに発散させようとすれば、何かしらのパフォーマンスが必要になってくる。ゴッホセザンヌも技巧的に上手い画家ではないから、写実主義が隆盛の時代には画家になることは出来なかっただろう。彼らは印象派革命後の比較的良い時代に生まれたが、それでも中々認められなかった。さらに現代は小便器すら芸術とされる時代で美に対する価値基準などは崩壊し、バンクシーのようにほとんどパフォーマンスが芸術として認められる時代になってきている。つまり元々作品の背後に隠れていたアウラを、作者自身が積極的にアピールする時代になってきたわけだ。これは音楽にせよ文学にせよ、似たり寄ったりの現象に違いない。もとから作品もアウラも込み込みで一つの作品と捉えると、裏に隠れようが表に出ようが客と融合させれば、さして変わりはないだろうということになる。

 音楽といえば、再現芸術にもアウラは存在するのかといえば、しっかり存在すると言えるだろう。例えばソ連時代に活躍した名ピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテルは血をもって弾いたピアニストの一人で、奇人としても知られていた(1915~97年)。ある演奏会の前日、練習中に演奏予定曲のワンフレーズが上手く弾けなくて徹夜の練習になったが、結局満足しなくて本番ではその曲を弾かなかったという完璧主義者だ。彼の父親もピアニストで、41年にスパイの嫌疑で処刑されている。彼自身は同性愛者で、当時は法的に危険な立場だったため偽装結婚までしたという話だ。こうした暗い背景がアウラとなって彼に纏わり付き、演奏会にも表れていた。彼はしばしばキャンセルするので有名だった。例えば、舞台に出てピアノの前でお辞儀をすると、直ぐに袖に引っ込み、主催者に文句を言った。最前列に座る老女が目障りで演奏出来ないから、どかしてくれと言う。仕方なしに主催者が老女に掛け合ったが、プライドを害された彼女も絶対に動かず、結局演奏会は中止になったという。客に対して無礼な話だが、「血をもって演奏するんだから妥協したくはない」となれば、一理はあるわけだ。演奏には極度の集中が必要で、何かの理由で気が散れば、気の抜けた演奏になってしまう。

 日本に来たときも、ファンだった僕は演奏会に数回行ったが、舞台上でお辞儀をするものの、仏頂面でニコリともしない。大阪に移動するとき新幹線を使ったが、テレビが乗り込んで「新幹線はどうですか?」と尋ねると、いつもの仏頂面で「どうってことはない」と答えていた。そして演奏といえば、ニコリともしない表情や、愛用していた日本製ピアノの派手ではない音色と相まって、客の感性に媚びないロシア的な骨太の演奏は、彼の悲しい過去を漂わせたアウラを思う存分聴衆に叩き付けてくれていた。演奏会場では、演奏者と客が一つとなって醸成するアウラの中に、双方とも包まれることが理想的な状態なのだろう。

 さて、ここまで書いてきて、いきなり僕の話になってしまうが、仕事を辞めて残った少しばかりの金で細々と暮らしながら、ニーチェの「血をもって書け!」という叱咤激励を受けて血を出そうとしても、コレステロールが溜まってドロドロで、ペン先まで届かない状況だ。耄碌(もうろく)って嫌ですねえ~。(これはあくまで個人的な自虐であり、高齢者全般に対するヘイトスピーチではございません)

 

 

 

 


八月の光

病む者にとって
八月の光ほど
美しいものはない

まるで大きな爆弾が
破裂したように
アポロン
ギラギラした眼差しの
放たれた弓が
体内の腐ったしこりを
焼け切って焦がされ
灰たちは
熱々の血潮に乗って
赤暗色の血汗となり
大地の彼方へ滴り落ちる

病んだ脳味噌に溜まる
腐臭を放つあれらの芥も
メスのような閃光で
一瞬にして蒸発し
霞となって
青空の彼方に飛んでいく

そして私は霊気を取り戻し
再生できると希望を抱き
すっかり萎えてしまった足を一歩だけ
恐る恐る進めてみるのだ
嗚呼、我が麗しき八月の光
見つめることなく瞼を閉じ
再び祈れることを感謝しつつ
萎えた肺胞で
その熱い情を受け取りながら…

 

 

 

 

 

響月 光のファンタジー小説発売中
「マリリンピッグ」(幻冬舎
定価(本体一一〇〇円+税)
電子書籍も発売中 

エッセー  「人は人に生まれるのではない⁉」& 詩

エッセー 
人は人に生まれるのではない⁉

 昨日テレビを点けたら、何かのドラマで三人の登場人物が大声で罵り合っていた。気分を悪くして直ぐにチャンネルを替えたら今度は漫才をやっていて、つまらないギャグに客が大笑いしている。僕はドラマもお笑いも嫌いだが、どこの局でも視聴率が取れるらしく、番組票を見ればそれらと歌謡番組が氾濫している。音楽の三要素じゃないけれど、どうやらドラマと歌謡とお笑いはテレビの三要素らしい。

 長い間、人々があの怒号飛び交うドラマを見て楽しむ心理を理解できなかったが、この頃少しは分かる気になってきた。人々がお茶の間で、畳や椅子に座ってこれらに興じるのは、テレビが心のマッサージ機であるからに違いない。みんな疲れた心を揉みほぐしている。身体をほぐすのは振動刺激だが、心をほぐすのは目と耳による感覚的刺激だ。激しい運動や窮屈な姿勢を取っていると、身体のいろんな所が凝る。同じように仕事や人間関係で心が重圧を受けると、その重みでどんどん沈んでいくから、何らかの刺激を受けないと解放されない。それは、ギリシア悲劇を観劇する古代の人々と同じ心境だろう。

 アリストテレスはこれを観劇によるカタルシス(浄化)効果と言ったが、心の中に蟠る不安などを壮絶な悲劇という外部刺激で粉砕する作用で、毒を持って毒を制すといった感じだ。小さな不安を大きな悲劇のオブラートで包み込み、ツルリと体外へデトックスする。脳内の悪い蟠りは内なる浄化作用で無理なら、外から毒物を注ぎ込まないと追い出せない。ドラマは、尿路結石を破壊する超音波の役割を果たしているわけだ。あるいは罵り合いという毒で心拍数を高め、溜まったゴミを血流に乗せて追い出す役割を果たしてくれる。

 肩が凝っても最初は弱いバイブレーションで治るが、だんだん効かなくなってきて、弱から強へと移行していくのが普通だろう。それは心も同じことだ。テレビの黎明期にはドラマも大人しいものだったが、徐々に視聴者の感覚が鈍ってきて、最近では激しい罵り合い殴り合いが増え、おしとやかな奥様方も、涼しい顔で興じている。まるでコロッセオに詰めかけた貴婦人方のような有様だ。アクション映画を観ても分かるように、スリリングなシーンがこれでもか、これでもかとやってくる。お笑いだって、昔は大人しい喋くりで客を笑わせていたが、最近ではダジャレを連発したり、怒鳴り合ったり、殴る蹴るのアクションを加えたりして笑いを取ろうとする。音楽だってパンクロックのようにますます激しく、踊りを交えた刺激的なものになってきている。もっともその兆候は、遠くハイドン交響曲『驚愕』や、ベートーヴェンピアノソナタ『激情的に(アパッショナート)』から始まったものかも知れない。

 これら全てが、神経という人間の感覚器官の特性によるものに違いない。あらゆる生物は新しい外部刺激に適合するため、感受性を鈍化させる機能を持っている。それは「慣れ」という言葉で表せる。身体のどこかに持病の疼痛があると、カロナールのような鎮痛薬を服用するが、身体もそれに慣れてしまうと段々効かなくなってくる。仕方なしにもっと強いロキソニンなどの薬に変えるが、胃を荒らすといった副作用も強くなる。それでも効かなくなると、医療用麻薬を使い始めるというわけだ。これは鎮痛薬に限らずあらゆる治療薬に言えることで、神経細胞に限らないことだ。全ての薬は、身体が慣れてしまうと効かなくなる。

 当然のこと脳味噌のような中枢も、末梢神経と同じ特性を持っている。日本はマリファナを解禁していないが、次のステージにグレードアップする可能性が高いからだ。マリファナを吸い続けていると徐々にその快感が弱まり、覚醒剤やコカイン、阿片などの強毒物に手を出す方向に進んでいく。一部の国では、マリファナが蔓延して防ぎようがなくなり、やむを得ず比較的安全だからと解禁して、自ら外堀(第一防衛線)を埋めてしまう。しかしそれは危険な政策だ。徳川に妥協して大阪城の外堀を埋めた豊臣は、結局滅亡した。あるいはフィンランドソ連軍の侵攻に対して、自国の領土を割譲して和平条約を結んだようなものだ。後継ロシアは味をしめて、いまウクライナで土地を広げようとしている。

 快感は、一度味をしめるとエスカレートしていく。慣れによる鈍麻が原因だ。拷問だって、「吐かせろ」という上官の命令ならエスカレートしていく。アイヒマン実験とも言われるスタンレー・ミルグラムの疑似電気ショック実験は、有名な話だ。戦争だって、膠着状態が続けばエスカレートさせてらちを明けようと思うのが普通だろう。兵士たちの最大の目的は、勝つことだ。どっちつかずの状態は兵士たちの緊張を長引かせ、鬱や不満をもたらす。不満が鬱積するとデトックス効果、カタルシス効果で一気にスッキリさせようと思うのは本能的欲求だ。「嫌な戦争いつまで続けるの!」となれば、日本に原爆を落として「これで早期離脱を果たせた」と胸を張るのも自然の流れだ。ならば「平和主義」や「平和を願う心」は極めて観念的な概念に押しやられてしまう。「平和」=「観念(思念)」。だから国民総動員の戦時中にそれを唱えれば狂人扱いされ、牢屋に入れられる。誰も負けた平和は望まない。みんな勝利の快感の中で平和を迎えたいわけだ。両方がそう思うから、結局戦争は長引く。

 平和主義が主義という観念なら、早期終結行動に組み入れることも簡単だ。観念は原爆投下の言い訳にも利用できるわけだ。プーチンは「ウクライナのナチ化対策」という嘘っぽい理屈で戦争を始めたが、プーチン(侵略)主義が観念なら、屁理屈の論理的整合性なんかどうでも良いことになる。彼の核脅しがブラフであることを願うしかない。実際、共産主義の観念でソ連は出来たし、侵略主義の観念で第二次世界大戦は勃発した。大衆は指導者の観念に共感して実戦するのであって、共産主義だろうが侵略主義だろうが、主義の裏にある指導者の個人的思惑などはどうでも良いことになる。ならば、平和主義だって環境保護運動だって、それが単なる観念として扱われるなら、反戦運動家やグレタ・トゥーンベリ氏のような人が、多くの大衆の熱烈な共感を取り込む以外にはないことになる。水爆も温暖化も現実の事象なのに、明日の観念として扱われているのが現実だ。いま起こっている事象に手一杯なのが社会的現実なら、未来予測は観念の中に押し込まれ、それが100%の確率で招来するとしても後回しにされてしまう。

 「天災は忘れた頃にやって来る」という言葉があるが、脳味噌の神経に支配されている思考も同じ状況に陥りがちだ。時が経つと人々はあのときを忘れ、そしてまた惨劇を繰り返す。脳味噌にとって未来は夢の世界で、現実問題に手一杯の人々は、その対策を後回しにしてしまう。先の大震災で原発が爆発して放射能が拡散したが、原発の危険性を身に染みていた政府関係者は、時の経過とともにその危機感を観念の世界に遠ざけて、現実への対応を優先させるようになった。エネルギー問題、経済問題、経済界や電力関係者とのしがらみ、核技術の保持、地方経済問題云々、どんな事情が絡んでいるのかは知らないが、原発は再開されることになり、その安全神話は不死鳥のように復活した。

 原発はCO2を出さないというのは、プーチンが言う「ウクライナのナチ化対策」と似たような論理だ。言葉の裏には様々な思惑が隠れている。そしてそれを暴くのは結構難しい。ウクライナをまったく知らなかった日本人は、プーチンの話を嘘っぱちだと笑い飛ばす。しかしロシア人がその言葉を信じているとすれば、我々はその言葉を科学的・心理的に調査分析して、嘘っぱちだと論破しなければならないだろう。しかし、気分的に笑い飛ばす以外に方法はないわけだ。ウクライナ人の何パーセントがナチス的な考えを持っているかなんて、この混乱の中で分かるわけもないし、調査機関の思惑でも違ってくる。我々はロシア人の心も知らないし、ウクライナ人の心も知らない。ただ悲劇的な事実を見て、ロシアの侵略が不条理なことは知っている。それは我々が太平洋戦争前の日本人ではないからだ。単にそれだけのことだ。

 原発は確かにCO2を出さないが、国民が危惧している問題の肝は、原発地球温暖化対策に寄与するということではなく、エネルギー問題を解決するということでもなく、再びあの惨劇を繰り返さないかということなのだ。それは「再びあの戦争を繰り返さない」といういまの国民感情と同じものだ。つまり次なる大地震が来るか来ないかの問題ではなく、原発が内包する危険可能性の問題なのだ。津波対策が万全だから、もう大丈夫と言っても、どこかの国が上からミサイルを落とせば一発でお終いだ。しかも非友好国が日本を取り囲んでいるのが現状だ。ならば、それらの国に対抗して防衛費を嵩上げしようとする政府は、なぜ原発の危険可能性を突き詰めないままに、そしてその結果としての安全性を証明しないまま、見切り発車のように原発再稼動を宣言したのだろう。我々は不思議の国のアリスなのだろうか……。

 不思議の国のアリスといえば、我々はロシア国民のプーチン支持率の高さに驚くが、それはロシアという不思議な風土で育った経験がないからだ。言い換えれば、かつて太平洋戦争当時の日本の不思議な風土を知らないか、平和な環境に慣れて、すっかり忘れてしまっただけ、……つまり日本人はあの時代の感性を捨て去り、ロシア人はいまだに引きずっているだけの話だ。「平和ボケ」という言葉を「平和慣れ」という言葉に変えれば、誰でも納得するだろう。戦後の平和を満喫して平和慣れした人間は、戦争慣れした人間が平気で虐殺を行うことに驚愕するが、その前に理解するべきは、人間の全てが平和主義者ではないということだ。加えて平和主義も戦争主義も、欲や憎しみで気楽にチェンジすることが出来るということだ。虐殺は単なる鬱憤晴らしだ。それ以外の何の理由もない。ロシア兵の心にはその鬱憤が蟠っていて、残虐行為とともに体外にデトックス(浄化)したということになる。

 日本人は一昔前、脳内浄化に成功した経験がある。かつて太平洋戦争という修羅場を体験し、心身の緊張感を極限にまで高めた。そして天皇玉音放送で突然のように敗戦を知ると、破裂した風船玉のように一気にその緊張感が萎んで弛緩状態に陥った。このとき国民全員の心が一度死んだと言ってもいいだろう。みんな口々に、頭の中が空っぽになったと言った。緊張からの急激な弛緩は、PCの初期化と同じ状況をもたらすのだ。昨日までのデータは完全に消滅した。

 例えば犬に獣医が注射をしようとすると緊張してウーウー唸るが、打った後はケロッとして医者に尻尾を振る。犬は脳内で、数秒前の危機迫る状況を完全に消滅させたのだ。鬼畜米英と叫んでいた校長先生が、一転してにこやかに星条旗を振るような行為が至る所で見られ、後に文筆家になった生徒は、その矛盾した光景を呆れ返って記述している。これは犬の脳味噌も校長の脳味噌も、身体の神経と同じように機能しているからで、神経は常に新しい状況(環境)に瞬時に対応し、ベストな反応を選択しなければならないからだ。それが、動物の反射的身体活動で、人間も動物の仲間である限り、本能的に新しい環境に順応しなければ生きていけず、無効化した役立たずの観念は早々に廃棄するべきものとして扱われた。校長は、極めて動物的、人間的に振舞っただけの話だ。戦争を体験した作家たちは、きっとうじうじした性格の持ち主で戦争中の感情を初期化できず、それが高じて作家になっただけの話である。生存本能は、観念に先行する(本能は観念に先立つ)? 敵を憎んでも食い物をくれれば尻尾を振るし、平和を唱えても腹が減れば奪い合いを始めるわけだ。

 しかし人間は他の動物と違う。サルトルは「実存は本質に先立つ」と言い、ボーボワールはそれに呼応して「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と言った。それは人間だけが観念を弄ぶことができ、そうした観念の集合体である既成概念(社会通念)が、人を育てていることを意味している(良くも悪くも)。つまり本能だけで生きている動物と、観念を持つことのできる人間には大きな差がある。「本質」は神が動物全般に与えてくれた本能で、「実存」は神が人間だけに与えてくれた「思考選択能力(観念)」なのだ。そしてその人間的実存が集団に投入されると、社会を誘導する支配者たちの固定観念が主流となる。そうして出来上がる多くの既成概念は、エリートたちが生きるための動物的本能や宗教と結び付き、堅牢な城を築いていく。しかし同時に、その既成概念の下で苦しむ多くの人々も出てくるわけだ。

 新しい観念でそれを切り崩すには、それが机上の空論であっては難しい。切実な状況に追いやられている人々の本能的な叫びが無ければ、既成概念に浸かっている人々の心を変えることは不可能だ。意識改革には、その前提として切実なる状況が存在しなければならない。我々はどのような観念を持つかによって、平和主義者にもなれるし、戦争主義者にもなれる。無条件降伏のような激しい社会変動によって、短時間で観念をチェンジさせることもできるわけだ。現在我々は、「ウクライナ戦争」や「地球温暖化」、「貧困問題」という切実な状況を目にしている。特に「地球温暖化」は、自然という敵が野山に焼夷弾を落とし始め、人類に無条件降伏を迫ってきている。そんなときこそ、かつての校長先生のように、日本人の特性を生かして意識転換するべき好機だと思えるのだ。新しい観念を育む環境は、生まれた地域の風土や教育で違ってくる。戦後の長い平穏な時代を味わってきた日本人は、決して悪い教育を受けてきたわけではない。近現代史問題で政府と日教組の確執はあったが、政府が侵略的・好戦的になったことは一度もない。しかし、こと環境問題に関しては、決して前向きとは言えないのが現状だ。

 「人は人に生まれるのではない。人になるのだ」。人間と猿の違いはパンツを穿いているからではなく、穿こうと思う観念を持つからだ。アダムとイブは知恵の実を食べて直ぐ、葉っぱで局部を隠した。そこから人間は観念を持つことになったわけだ。だとすれば、動物である人間が動物と決別し、人間として育つには、個々の観念が動物的な個的本能(打算)から離れて俯瞰的な眼差しで世界を見つめ、それを集合させて人類の新しい既成概念と成し、一気呵成に現実を動かさなければならないはずだ。自らの観念で災禍を招いたのだから、その観念を一新して火を消さなければならない。まずは「慣れ」という大敵を克服しよう。温暖化による災害も、戦争も、飢餓問題も、あらゆる災禍はまるで一過性のように、感覚的に鈍麻していく。それに対抗するには、良い方向に教育され、関心を絶やさず勉強を怠らず、常に意識をリフレッシュさせながら、文明の礎である観念を、ベストな方向に育てていく以外に方法はないだろう。それら良き観念が集結すれば、大きなうねりとなるに違いない。当然のことだが失敗すれば、神の思惑通り、人間は所詮動物に過ぎなかったことになる。(……しかしタイムリミットは間近に迫っている)

 

 

 


炎の呪い

人はなぜ神聖な場所に炎を燈すのだろう
それは昔、プロメテウスという悪党が
下衆な人間たちを助けるために
天上から盗み出して与えたからだ
人間はそれを盗品だと知っていて
神々の怒りを少しでも鎮めるために
ローン返済の方法を利用して
少しずつ返しているという話だ

しかし悪党から譲られた炎を
下衆どもは盗品と知りながら
それを元手に手広く使うようになり
資産としてどんどん増やし続けた挙句
いまでは水や空気と同じレベルで
生きてはいけない必需品となった

神々は冷厳な眼差しを人間に注ぎ、呟く
嗚呼愚かな下衆どもよ、大いなる誤解だ
炎はお前たちに必要のないものだ
与えてはいけないものだったのだ
お前たちは夜になると洞窟を飛び出し
暗黒の大地を徘徊して腐肉をむさぼるべく
我々が創り出した下衆な生き物に過ぎないのだ

所詮炎は、お前たちの扱える代物ではない
下衆なお前たちにとって、それは単なる火遊びだ
さあ、周りの野山を良く見渡すがよい
お前たちが弄んだ炎が、そこかしこから
お前たちを滅ぼす災禍となって
お前たちに迫る光景を…

 

 

 

響月 光のファンタジー小説発売中
「マリリンピッグ」(幻冬舎
定価(本体一一〇〇円+税)
電子書籍も発売中 

エッセー 「モナ・リザ、永遠の性愛」& 詩

エッセー
モナ・リザ、永遠の性愛
~包み込む愛と溶け合う愛~

 若い頃、一度だけルーブル美術館モナ・リザを観る機会に恵まれた。74年に日本に来たときは、テレビニュースで見学者の長蛇の列を見て、どうせじっくり観ることはできないだろうと最初から諦めてしまった。その数年後に本場ルーブルに行ったときは、人だかりはできていたが慎ましく、近寄ることも禁止されていなかったので、77×53cmという小さな作品でも十分堪能することはできたはずだ。それなのに、そのときの印象をまったく覚えていない。天才ダ・ヴィンチが生涯手元から離さず、死ぬまで加筆していたわけを知るには、恐らく当時の僕は若すぎた。あるいは僕の性格が、感激症でないことも災いしていただろう。しかしいまになって、ダ・ヴィンチさんに大変申し訳なく反省し、謝意を込めてもう一度リザ夫人に面会したいと思うようになってきたが、今度は諸般の事情で渡航費を捻出できなくなってしまった。もっとも、いまは3m以内に近寄れないそうだから、老眼の僕にとっては、行ってもきめ細かな美肌(ひび割れながらも)を味わうことは不可能だ。どうやら、浴室にこの絵を飾っていたフランソワ1世や寝室に飾ったナポレオン、さらには学芸員、警備員以外の方々は、じっくり鑑賞できない運命に陥ってしまったようだ。

 僕が昔フラフラとモナ・リザに逢いに行ったのは、当時発刊したTBSブリタニカ百科事典の記述を読んで感銘を受けたからだ。かつて娼婦の肖像画とも公妃の肖像画ともされていたという女性像が内包する対極性に興味を持った。
「~彼は、絶妙の写実技法を駆使しながら、特定の婦人像をこえた女性そのものの本体に迫ったのである。女性一身のなかにとけている肉体の官能性と魂の品位とをぎりぎりのところで均衡させながら、そのことによってかえって最高に魅力のある女性像の典型を築いたのである。つまり、特定の婦人をモデルにしながら、その個別性やさらに一回的な偶然性を取払って、あらゆる性向を包蔵する女性それ自体を具象化したのである。それは、おそるべき普遍的人格像の誕生であった~」(久保尋二筆)

 「普遍的人格像」とは何だろう。僕はその意味が分からず、下賤な話だが若気の至りで、これはあのマリリン・モンローのように、ルネサンス時代に生きた男たちのセックスシンボルなのではないかと思ってしまったのである。セックスシンボルと言えば聞こえは悪いが、憧れのアイドルということだ。例えば少し前の日本でも、女性の自立が難しかった時代、彼女等の間では「白馬の騎士」という言葉が盛んに交わされていた。恐らく当時はイケメンで逞しく、地位と金がある男が女性にとっての 「普遍的人格(男性)像」だった。一方男性の場合、ドゥルシネア姫はドン・キホーテの「普遍的人格(女性)像」、マリリン・モンローはあの時代のアメリカ人男性の「普遍的女性像」だったかも知れない。しかし、ドゥルシネア姫とマリリン・モンローでは、その魅力はまったく違うものだ。ドゥルシネア姫はドン・キホーテの想像上の姫君で、近寄ることもはばかるイデア界に生きる高貴な女性だ。仮に近所の田舎娘をそう思い込んでも、それは特異な神経の彼が勘違いしただけの話である。一方、マリリン・モンローの場合は、男たちは彼女とベッドを共にしたときの性的快楽を夢想して憧れる。同じ「普遍的女性像」でも、その意味はまったく異なるということだ。

 ダ・ヴィンチフィレンツェで活躍していた時代、そこでは新プラトン主義が隆盛で、彼もメディチ家が主催するプラトン・アカデミーで多くのプラトン主義者と交流した。その一人に美のイデアを愛するプラトニック・ラブ(肉欲を離れた精神的な恋愛)というワードを創案した人文主義者もいた。その典型的な例が、ダンテがベアトリーチェに抱いた愛だろう。また、ゲーテは『若きウェルテルの悩み』で、シャルロッテという人妻を登場させたが、彼女も多分にプラトニック的な女性だ。しかしゲーテは『ファウスト』で、主人公を神的な存在であるトロイのヘレナと結婚させ、子供を産ませている。それが示しているのは、恋愛は所詮支配欲から出るもので、プラトニック・ラブは純粋に精神的な支配を求め、通常の恋愛は精神と肉体両方の支配を求めているということだ。ファウストはヘレナの精神と肉体を両取りしたことになるが、通常の恋愛感情はその混合比も様々なハイブリッド製品だと思えばいいだろう。

 ならばプラトニックな精神的支配とは何だろう。赤ん坊は常に母親を精神的に支配しようと望んでいる。母親の愛を全面的に受けようとするから、双子の場合は競争する。これはプラトニック・ラブでも同じことだ。ウェルテルはシャルロッテの肉体ではなく、精神(心)を欲したが、望みを叶えられずに自殺した。彼は、彼女が子供たちにお菓子を配る姿を見て、その子供の一人になりたいと望んだ。その姿に、マリア様的な慈愛を感じたのだ。しかし子供みたいな我儘さでさらにその上を望んだとき、アルベルトという彼女の夫が双子の兄のように立ちはだかった。プラトニック・ラブは異常な恋愛感情だと言う人もいるが、僕はその源は母性愛を赤ん坊の側から見た愛、つまり母と子の間に芽生える愛だと思っている。その対象となる異性は男でも女でも、母的なものだし神的なものでもあるに違いない。神が信者のもとに降り立つということは、彼が神の子として神様の慈愛に包まれると同時に、彼が子として神様を手中に収めることを意味しているのだ。地球生命体の活動の基本が欲望である限り、たとえ相手が神様でも、すべての愛は欲望のアレゴリーと言えるだろう。

 ダ・ヴィンチは私生児として生まれ、幼い頃に母親と生き別れしている。彼は母親の愛を独占できる貴重な時期を逸してしまった。しかし彼は、左利きという右脳メリットを生かして、数多くのマリア像を手中に収めた。キリスト教徒にとって、マリア様は永遠の母性だ。彼は幼少時に獲得できなかった母親の愛を、たぐい稀なイメージングで、イデアの世界から引きずり下ろし、マリア像に投射させた。だから彼のマリア像は、空想の世界からしか得られない清らかな処女性で満たされている。

 それではモナ・リザはどうだろう。彼女はマリア様とは似て非なる下界の女性だ。しかし、ダ・ヴィンチはかつて生き別れした母親を慕っていた以上に、この作品に執着している。モデルはフィレンツェの裕福な商人の妻(リザ夫人)とされているが、諸説あって定かではない。普通、その商人から依頼されたのなら、代金と引き換えに手渡すはずだが、相当愛着があったらしく、死ぬまで手元に置き、彼の獲得した技法をフルに使いながら加筆していた。つまり、モナ・リザは未完の作品なのだ、ということは、彼のライフワークだったと言ってもいいだろう。

 この作品はモデルを始め、様々な謎を秘めていると言われるが、その筆頭は、なんといってもあの謎の微笑みだ。鑑賞者は、微かに笑うマスケラ(ペルソナ)の奥にある彼女の心が掴めずに戸惑っている。微笑むからには、何か理由があるだろうとその理由を推測し、それが憶測だけに留まるから謎となる。それは単なる愛想笑いかも知れないし、純粋な喜びの笑いかも知れないし、軽蔑笑いかも知れないし、慈愛の笑いかも知れないし、画家に要求された作り笑いかも知れないし、画家との秘密を匂わせた笑いかも知れないわけだ。なにしろモデルが誰だかも明らかではないのだから、その笑いに秘められた歴史的事実など解明されるはずもないだろう。ならば鑑賞者は、それを単なる微笑みとして軽く流すか、各自勝手な物語を想像して鑑賞のよすがとする以外にないだろう。それで僕は勝手に思い込み、数あるモデル候補の中から、ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの妻イザベッラ・ダラゴーナがモデルだったと決め付けよう。

 この女性は夫の死後、ダ・ヴィンチと密通していたと噂される女性だ。そして同性愛を噂されるダ・ヴィンチは、そのとき始めて女性を知ったとも噂されている。平民のダ・ヴィンチが、王様の寡婦と関係を持つこと自体、リスキーな恋愛だったに違いない。全てが憶測なら、これから書く文章も僕の想像ということになる。赤ん坊にとって母から受ける母性愛は、その後の生涯に記憶として残る愛情の形だ。それは世の中のことを何も知らない赤ん坊が始めて受ける全面的な愛情として、脳裏に刷り込まれるものだ。ダ・ヴィンチは早くからその愛情と離別したため、生涯それをイデアの世界に刷り込むことになった。そしてイデアの世界の母性は、他の者の母性よりも高貴な輝きを放つことになる。

 キリスト教ではマリア信仰というものがあるが、マリアはキリストの母として、誰もが脳裏に刷り込まれている母性愛の象徴的存在として分かりやすく、同時に親しみやすいため、圧倒的な人気を誇っている。そして何よりも、キリストの母として、ステージの最上段に位置する高貴なお方だ。聖母マリアはマドンナという愛称でも呼ばれるが、それは「我が貴婦人」という意味を持っている。さらにミラノのドゥオーモ(大聖堂)はマリア様に献納され、一番高い尖塔の先には小さな金色のマリア像が置かれ、市民にマドネッタ(マリアちゃん)と呼ばれ親しまれている。これらが意味するのは、聖母マリアは畏れ多い存在ではなく、信者とプラトニックな愛情関係で結ばれているということだ。ダ・ヴィンチはそんな高貴で親密なマリア様を難なく作出することに成功したのは、イデアの世界で醸成してきた母性愛をそのままキャンバス(木製パネル)に降ろすことができたからだ。

 しかしモナ・リザは天上の女性ではない。一般的に言われているのは、商人の妻という街の女だ。あの謎の微笑みが原因で、一時期娼婦の像と思われていたのは、たぶん商人の妻を描いたという先入観があったからだろう。しかし僕の想像するようにミラノ公の妻なら、イザベッラは天上から降りてきた女になる。それは同時に、血肉を所持したマドンナということになるだろう。プラトニックなイデアの世界では、憧れる女性は高貴な品格を湛えていなければならない。巷の多くの恋愛でも、その導入は大なり小なり同じような場所にあると言っていいだろう。そして肉体関係を結んだ後、イデアの相手は降臨し、性愛の混じった新たな愛の世界に入っていく。そして間々恋人たちはその新たな愛の領域になかなか入れずに、失望し別れてしまう。巷の愛では、その新たな愛を継続させる大きな要素は相性ということになるだろう。

 ダ・ヴィンチがイザベッラに出会ったとき、彼女は高貴な天上の人だった。それは恐らく、マリア様やドゥルシネア姫と同じようにイデアの世界に住む住人だったに違いない。そして、何らかのきっかけを介して肉体関係が結ばれたとき、イザベッラは天上から降臨してダ・ヴィンチと合体し、童貞だったダ・ヴィンチは母性愛とは異なる別の愛の形態を味わって感動した。ダ・ヴィンチは初めて女を愛することの意味を知ったわけだ。愛には浸潤作用がある。しかし母性愛と性愛ではその形態は異なるだろう。母の愛が子を包み込む愛であるのに対し、性愛は肉体どうしが接合して互いの心が滲出し、溶け合う愛なのだ。イザベッラがどんな心境でダ・ヴィンチと関係を持ったのかは分からないが、彼は深く感動し、その感動を作品に残そうと思ったはずだ。諸般の事情により、二人の関係が長続きすることはありえず、蝉のようにひと夏の思い出となったに違いないが、彼は『モナ・リザ』という小さなイザベッラの肖像画に、生涯でただ一度の性的感動を籠めたのである。ならばあの謎の微笑みは、二人だけの秘密の微笑みでもあるし、ダ・ヴィンチに対するイザベッラの個人的な愛の表現でもあるし、男と女の間に生じる普遍的な性愛の微笑みでもあるし、何よりもダ・ヴィンチ自身の感動の微笑みでもあるわけだ。そしてそれは、彼の肉体がその思い出とともに消失しない限りは、新たな発想を生み出すものに違いなく、彼の死とともに未完の作品となった。ダ・ヴィンチはそうした繊細な心の襞を絵画に込めることのできる芸術の黄金時代に生きた、稀有の天才画家であったわけだ。



ここしかないもの

あの老人が今日も店にやって来て
小一時間ばかしウロウロしていた
店員は一時間経ったことを確かめ
いつものように丁重に話しかける
失礼ですがなにかをお探しですか
老人はいつものように戸惑いつつ
買うものを忘れましたと返答する
店員はにこやかな笑みを浮かべて
いつものように同じ台詞を返した
きっと必要がないからお忘れです
老人はいつものように渋い顔して
ここにしかないものだと主張する
店員は微笑んできっぱり否定した
ここの商品はどこにでもあります
ここしかないものなどありません
そして必要なものなどありません
すべて不必要なものを置いてます
お客様は社会に騙されております
必要なものなど社会にありません
きっと私どもに騙されております
子供の頃から騙されてきたのです
世の中必要なものなどありません
すべてがいらないものだらけです
お客様のここにしかないものとは
大事にされていたご自身の心です
宇宙広しといえど唯一の品物です
それさえあればなにもいりません
またのお越しをお願いいたします
老人はようやく納得した顔になり
二度ほど頷きながら帰っていった
子供みたいに目に涙を浮かべて…

 

 

 

 

響月 光のファンタジー小説発売中
「マリリンピッグ」(幻冬舎
定価(本体一一〇〇円+税)
電子書籍も発売中 

エッセー「 世界総沸騰時代到来!」& 詩

エッセー
世界総沸騰時代到来!

 国連のグテーレス事務総長は先日、「地球温暖化の時代は終わり、地球沸騰の時代が来た」と指摘し、各国政府に対して、言い訳はやめて具体的な行動を取るよう求めた。また、デンマークの物理気候学者、ピーター・ディトレフセン教授らは、大西洋の海水が表層で北上し、深層で南下する南北循環(AMOC)が早ければ2025年にも停止する恐れがあると英国の科学誌ネイチャーに発表した。この循環は地球の気候を安定化させる大きな役割を担っていて、停止すると北半球の気温が最悪15℃も上がってしまう可能性があるという。いま日本の各地でほぼ40℃の熱波が襲っていて、熱中症で倒れる人が増えているが、55℃となれば米国のデスバレー並みの気温が数年後に日本でも当たり前になるということだ。日本は湿度も高いから、デスバレー以上の灼熱地獄となるに違いない。僕のようななんちゃって詩人が「花よ、蝶よ…」なんて言ってる時代は、もう終わりました。

 そんな状況にならないためには、直ちに100%再生可能エネルギーに転換し、CO2(温室効果ガス)の排出量をゼロにせよと言明できるが、夢のまた夢の話だ。化石賞を獲得した日本を始めとする世界中の国々が、連綿として気候危機への対応よりも経済危機への対応を優先させている。未だに石炭混焼なんて言ってるのだから、なんという想像力の欠如だろう。昔、バブル崩壊後の企業変革が叫ばれていた時代、「ゆでガエルの法則」というものが社長訓示などで盛んに話されたことがある。危機が迫っていてもその変化が緩やかなために気付かず、気付いたときには手遅れになっているという例え話だ。カエルを熱いお湯に入れると驚いて飛び出すが、水の中に入れて少しずつ温度を上げていくと、その温度変化に気付かず、結局茹で上がってしまうという。経営者はこの眉唾ものの法則を取り上げ、現状に甘んじていればいずれ会社は潰れるから、常に危機意識を持って変革にはげめと諭すわけだ。

 国連事務総長の指摘が正しいとすれば、地球はすでに沸騰を始めていて、その上に暮らす我々はカエルのように気付かずに、茹で上がる状態に入りつつあることになる。事務総長もきっと同じ法則を感じながら「行動せよ!」と叫んでいるわけだが、産業の振興で地球温暖化が起こっているのだから、経営者とは目指す目標は正反対ということになる。そして両者の目的の齟齬が、地球に悲劇をもたらす最大の原因であることを、我々カエルたちは悟らなければならないだろう。資本主義社会は経済を第一に考えて突っ走り、事務総長らの環境憂慮派は環境保護を第一に考え、資本主義の暴走を停止せよと叫んでいる。これは左足でアクセルを踏み続けながら右足でブレーキを踏んでいる状態で、カーレースで見られるリスキーな光景だ。重大アクシデントを回避するには、アクセルを弱めブレーキを強めて減速する以外に手はない。なぜなら、再生可能エネルギーへの転換が思うように進んでいないからだ。少なくとも100%転換できるまでは、徐行運転をしなければならない。徐行運転とは、経済成長を止める覚悟の身を切る戦略のことだ。

 昨年事務総長は、GDP国内総生産)を経済指標に使うのはもうやめようと訴えた。森を破壊するとGDPは上がると彼は主張する。しかしGDPは国の経済活動状況のあくまで指標で、そんな指標を取りやめたところで暴走する資本主義が止まるわけではない。経済を優先する各国首脳への注意喚起の意味合いを込めて彼は言ったのだ。しかし各国首脳は、国内経済を第一に考えなければ次の選挙で落選する。国民は常に自分の金銭的豊かさを求めているからだ。そしてその豊かさは常に経済の上昇を前提としていて、それが下降すると、働き手は「零落」という言葉で家族から揶揄されることになる。資本主義社会では、人々は経済の低迷を真っ先に恐れ、環境保護は二の次になる。そして政府は国民の意向を反映した政治を行うことになる。その意味では、GDPを指標から外すことは、経済的指標を国民の目から逸らすことで、政府の環境保護政策をやり易くする効果はあるに違いない。なぜなら地球沸騰時代では、資本主義経済に急ブレーキを掛けなければ、地球温暖化を食い止めることは不可能だからだ。つまり事務総長は、地球温暖化の防止を第一の目的に据え、経済の発展を二の次にしなければならないと、暗に主張しているのだ。

 資本主義は産業革命以降に成立し、自由競争で企業が利益を追求すれば、社会全体の利益も増えていくという理論に基づいている。そしてそれは、地球に生物が誕生して以来の生き物の生き様でもあったわけだ。資本主義社会が悲劇的なのは、その本質が自由競争の原理に支配されていることだろう。つまり自然界では、生き物が繁殖して餌場を独占すれば、排斥された他の生き物は絶滅する。資本主義世界では、ある企業が利益を独占すれば、同業他社は倒産する。だから産業革命以降、企業は生物間闘争のように、他社との闘争にしのぎを削るようになった。昔のドイツの徒弟制のように、若者は地方を渡り歩きながら、いろんな親方の技術を盗んで立派なマイスター(親方)に成長するといった悠長な時代ではなくなった。現在の各親方は負けることに戦々恐々としながら、自社技術を抱え込んで盗まれないように弟子に目を光らせ、ノルマを設定して発破を掛ける。親方の最終目的は競合他社を蹴散らし、市場を独占し、利潤の増大を最大限に高め、社員全員とその家族を金持ちにさせることだ。

 この国内的修羅場をそのまま拡大したのが、世界市場における国家間の競争というわけだ。だから国々は、市場独占率を少しでも高めようと、資源開発や研究開発に邁進し、中には不正な手段で技術情報を盗んだり、他国の領土を奪ったりする国も出てくるわけだ。当然のこと、世界中が資本主義経済で回っているのだから、いくら環境保護団体が叫んでも、急に化石燃料の供給が止まるわけではないし、CO2を排出する既存の産業施設がスクラップになるわけでもない。暴走した原発を止めるのが難しいように、拡大暴走し続けてきた資本主義のメカニズムを急に変えろと言っても無理な話だったに違いない。しかしニューヨークや渋谷に設置された「Climate Clock」でも、温暖化が後戻りできないデッドラインまであと6年を切った。これはピーター・ディトレフセン教授の説とも符合する。我々はあと数年の内に、沸騰地獄の中で生きることを覚悟しなければならないわけだ。

 このような状況を客観的に眺めても、人類は岐路に立たされているのではなく、万事休すの路地に追い込まれていると考えるべきだろう。あれかこれかの選択肢はもう無い。しかし、窮鼠はチーズの夢を見るのではなく、猫を咬むものだ。温暖化のような現実的に迫る危機に対しては、獏としたイメージの世界は通用しない。かつてマルクスが叫んだように、哲学的なイメージの世界に留まり、行動しないことは死を意味するに等しいからだ。我々は、ウクライナの人々がロシア軍に対して必死に戦っている姿を見ている。「目覚めよ!」と僕が叫べば、宗教の勧誘かと思われるかも知れないが、地球市民全員が目覚めて、ウクライナ市民のように必死の覚悟を持たなければ、資本主義内存在である夢見る要人たちは動き出すこともないだろう。いまから政府主導の資本主義経済を急速に転換することはできない。ならば地球市民が一丸となって、そのシステムにブレーキを掛け、地球環境にもたらす悪質な部分を除去すべきなのだ。それは抗がん剤治療ではなく、一か八かの革命的大手術だ。

 例えば各国が宇宙開発にしのぎを削っているが、軍事技術に転用できるからそうしているからで、宇宙の真理を追求する研究者は、何の打算もなく国際的に協力し合って仲良く研究を進めている。それは資本主義経済に寄与することのない、真理の究明というアルキメデスガリレオの時代から連綿と続く探求心により横に繋がっているからで、その一人がノーベル賞を受賞すれば喜び、さほどの嫉妬心を持つこともないだろう。なぜなら、資本主義の第一義が経済の追求であるのとは違い、彼らの第一義は真理の追求で、経済でも名誉の追求でもないからだ。確としたエビデンスでその現象が真理だと分かれば、誰もそれに反論することはなくなる。真理は純粋で穢れなく、打算的な思考を一切寄せ付けない。だから名誉目的で実験結果を捏造すれば、いずれはバレて名誉は剥奪される。ピーター・ディトレフセン教授を始め多くの専門家が、多数のエビデンスで「地球沸騰化」の真理を提示しているのに、各国の首脳や経済界はいまだ目先の利益や経済成長に固執している。沸騰化現象を食い止めるには、環境対策が主で、経済は従であるべきなのに……。

 いまの資本主義経済下でも、金銭的な打算を考えない国際的な結び付きはある。それは反戦活動でも環境保護活動でも同じことだろう。金銭的な打算で繋がった運動では、金が動力源の資本主義に立ち向かうことは出来ない。なぜなら戦争も環境破壊も、その原因は金銭であり、同じ穴の狢だと見透かされてしまうからだ。活動家は揚げ足を取られないように注意しなければならない。環境保護運動は「人類や生態系の滅亡」という危機意識を動力源として、資本主義に立ち向かわなければならない。そしてその危機は、我々茹でガエルの目前に様々なエビデンスとして現れている。

 仮に、世界中が環境対策こそ主で、経済は従であると考えるようになれば、大胆な思考転換の下で、世界中にレジーム・チェンジが起こるに違いない。地球温暖化という巨大な敵に向かって、世界中が一丸となって対峙しなければならないのだから、愚かしい戦争や下等競争をやっている場合でもない。日本でも、少子化対策が失敗したとマスコミなどは騒いでいるが、それは世間的常識に浸かっている彼らの思考転換が行われていないからで、「国は成長し続ける義務がある」という資本主義の妄想に囚われているだけの話だ。少子化大いに結構、そいつは低成長・無成長を成し遂げるには不可欠な要因だ。この大胆な思考転換の下では、かつて戦時下でマスコミが掲げた「欲しがりません勝つまでは」という標語が蘇るだろう。地球温暖化との戦いに勝利するには、地球市民全員が禁欲主義者にならなければならないからだ。そしてジジイの僕は気楽な心持で、偉大なるクラーク博士のように腕を水平に上げて遥か彼方から加速度的に接近する恐ろしき真理を指し、若者たちにこう語り掛けよう。
「少年よ、大志を抱くな!」

(p.s. 情熱は温暖化を加速するので、皆さん冷静になってご自分の余命についてマジに考えましょう。情熱は、環境保護活動のみに使って下さい。生き残るためには我慢が必要です。戦時下の市民のように……)

 

 

 


だるま夕日

(戦争レクイエムより)

太陽が溶鉱炉のように溶け出し
ドロドロの吐液を海に垂らした
水平線に大きな爆弾が落ちたように
遠い向こうの大陸が燃えている
太陽はなんと傲慢な星だろう
あいつはなんて悲しい奴だろう
神の戯れを理解することもなく
託された容赦ない破滅の法則を
光と闇の狭間に向けて
置き土産に投げ落とす
この星に海が生まれたときから
からかう素振りで続けゆく
嗚呼いい加減にやめてくれ
ここらに生きる卑しい猿たちが
すっかりそのカラクリを盗み取り
戯れ始めてしまったのだから
楽しそうに、嬉々として……

 

 

 

 

響月 光のファンタジー小説発売中
「マリリンピッグ」(幻冬舎
定価(本体一一〇〇円+税)
電子書籍も発売中