詩人の部屋 響月光

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エッセー「 ヒロシマ…創造と破壊のトートロジー」& 詩

エッセー
ヒロシマ…創造と破壊のトートロジー

 この星が誕生して46億年経ったが、それは創造と破壊を繰り返してきた歴史と言えるだろう。けれどこの二つの言葉は、生き物の端くれである人間が気分的に作り出したもので、生命が存在しなかった38億年以前の地球では、何が創造で何が破壊かは無意味な定義付けだったに違いない。その時期には「天変地異」という言葉がふさわしく、そいつはいまに至るまで連綿と続いているが、「創造」や「破壊」は単なる人間のイメージから出た言葉に過ぎないということだ。例えばどこか遠い星が爆発して、天文学者がそれを「破壊」だと思っても、砕けた破片が引力で集まって再び星になるなら、それは「創造」の始めの一歩かも知れない。その星に生物がいて、爆発と同時に絶滅しただろうと想像するから、「破壊」という言葉を当てはめるわけで、地球ではそんな絶滅がたびたび繰り返されて新しい種が誕生し、人が主人と勘違いされるようないまの生態系が築かれたのだ。ならば哺乳類の人間にとって恐竜の絶滅はむしろ喜ばしい出来事で、巨大隕石による素晴らしき「創造」と定義付けても、恐竜マニアから怒られる筋合いはない。

 ブラックホールは、エネルギーを失っていずれ消滅すると言われているが、最近の宇宙論では、宇宙のありとあらゆる物は最終的に消滅すると考えるようになってきた。しかし消滅で終わるわけではなく、僕はまたビッグバンのようなものが起きると思っている。旧約聖書の『創世記』では地球を創ったのは神様とされ、一日目に天と地、暗闇と光、二日目に空、三日目に大地と海と植物、四日目に太陽と月と星、五日目に魚と鳥、六日目には獣と家畜と人を創り、七日目はお休みになった。それで人間も真似て、一週間のうちの日曜は安息日になったわけだ。昔の一日が何時間かは知らないし、科学的にも時間は伸び縮みするらしいから、たった七日でいまの世界が出来たことを否定はしないが、太陽よりも前に植物が生まれるはずもないだろう。これは人間が勝手に作った「天地創造」のお話で、当然「天地破壊」のお話ではないが、神様(自然)が様々な「天変地異」を駆使して、地球生命体の生まれるベースを整えてくれたことは言えている。しかし最終的にはハルマゲドンがやってきて世界が壊滅するのなら、最近出てきた「天地破壊」の宇宙理論と変わらないことになる。

 古代ギリシアでは、天地創造以前の状態をカオス(混沌)と称した。カオスは総体的に無秩序の状態だが、「カオス理論」ではそんな状態でも、方程式に直して理論的に説明できるとしている。つまり「天地創造」前の混沌とした状態も、ハルマゲドン後の混沌とした状態も、再生遺伝子的な方程式が隠れていて、再び秩序のある形に纏まっていく可能性があるということだ。そして生物としての人間も、自分が安定して生きていける世界を「創造」と称して本能的に歓迎し、混沌とした世界は死を予測して忌み嫌う。それは本能的な聴覚イメージとしての「協和音」「不協和音」を考えても分かるだろう。協和音は音の振動比が方程式で解けるような単純な状態で、創造的で秩序立った感覚を人に与える。不協和音はその振動比が複雑かつ割り切れない状態で、破壊的で混沌とした感覚を人に与える。だから協和音を聞くと心安らぎ、不協和音を聞くと不快な気分になるわけだ。

 ハイドンのオラトリオ『天地創造』では、天地が出来る前の状態を「地は混沌であって、闇が深淵の表面にあった」と天使ラファエルが語るところで、混沌とした暗い状態を各楽器が短調の不協和音を使って巧みに表現している。その数分後に「神は言われた、光あれ!」という言葉とともに、長調の協和音が大々的に鳴り響く。そして喜びに満ち溢れた光ある生き物の世界が始まっていく。つまり、割り切れる整然とした世界を人は「創造」と感じ、割り切れない混沌とした世界を人は「破壊」と感じる。協和音で構成されるクラシック音楽の演奏会には人々は高額な入場料を払って足を運ぶが、不協和音を多用する現代音楽の演奏会場は、いつもガラガラ。金を払ってまで、わざわざ不安や不機嫌になることはないからだ。これは美術も同じだろう。軍隊の整然とした規律を好んだヒトラーは、ダダ的な抽象芸術を憎んだ。ピカソは絵画の既成概念を壊そうと努力したが、ぎりぎりの塩梅で荒々しい具象に留まり、破壊的なゲルニカの惨状を名画に仕立て上げた。

 結局世の中も地球も人間様の感性とともに回っていて、「天変地異」が人間様を無視した急激に起こる自然変化の総称だとすれば、それによって人間様に恩恵をもたらせば「創造」となり、被害をもたらせば「破壊」となる。他者を含めた生物の活動が人間様に恩恵をもたらせば「創造」となり、被害をもたらせば「破壊」となる。だから人間は、「創造」という言葉にプラス(正)のイメージを持ち、「破壊」という言葉にマイナス(負)のイメージを持って、芸術を始めとするあらゆる活動を行い、それを評価している。自然由来の地球温暖化で人類は活発に活動し始め、人類は創造的進化を遂げ、さらに産業革命以降は加速して、近年にいたるまで人間様は鼻高々となり、僕が子供のころは、むしろ氷河期の到来による寒冷化を恐れていた。しかし人間様の創造的進化の結果として、人工的な温暖化が加速し、巨大台風など本来自然由来の「天変地異」が人由来の「破壊」となって災いをもたらし、人々は常夏の温暖化に負のイメージを持つようになったわけだ。けれど宇宙的視点で物申せば、人間様も自然の一部だから人由来という言葉はあたらず、「天変地異」は自然現象のままであり続けて良い。温暖化で人類が絶滅すれば、熱いの大好き生物が天下を取るだけの話だろう。

 しかし我々は、かつて恐竜が支配していた地球を、いまは人間が支配していることを知っているし、恐竜と人間の違いも知っている。その違いは、恐竜は明日のことを考える知恵を持たず、人間は明日のことを考える知恵を持っていることだ。だから、明日のことを予測してその原因も特定し、これ以上の温暖化を防ごうとあたふたしているわけで、恐竜よりはまだマシということ。いやいや、果たしてそうだろうか。現在のことしか考えない恐竜より、明日のことを考えて生きている人間のほうがマシか? 果たして人間はどこまで先のことを考えて生きているものか……。賢人ニーチェは「未来(神)に救いを求めるより、現在の一瞬を充実させて生きよ」と宣った。それは恐竜のようにいまを楽しく生きろということだ。無信心の僕としては、温暖化対策に失敗した社会の未来を予測して言っている。「いったい人間は、どのぐらい先を想像して生きているのだろうか」。一部のカルトは自分の天国行きを想像して生き、多くの人々は老後のことを想像して生き、各国政府の要人は次の選挙の企業票や地元票を想像して生きているのが現状なら、これらは恐竜における鼻先の獲物と似たり寄ったりのスパンじゃないだろうか。

 「創造と破壊」以外の言葉に、「創造的破壊」や「スクラップアンドビルド」という類語がある。この二つの言葉は短・中期的な産業用語で、猿知恵から発達した「創造のための破壊」という人間の知恵だろう。あるいは、骨を土に隠す犬の本能から発達してきたものかも知れない。犬は明日の空腹を本能的に予想して、骨をストックする。しかしそれは自分のための物で、飢えて死にそうな仲間のための物ではない。人は世界人類のより良い近未来(明日)を築くため、既存の物を破壊する。破壊すべき物は、老朽化した施設だったり、既存の習慣だったり、既存の体制だったりと様々だが、その「より良い近未来」は往々にして、限られた人々の思い描く近未来であることが多い。例えば、いま問題となっている神宮の森も、より良い神宮外苑を思い描く人々と、現状の森に満足している人々や「より良さ」を思い描けない人々との対立の構図になっている。マイカードの紐付け問題だって、効率的な未来を夢見る人々と、そんなものは面倒と思う人々、ミスによる不正使用を恐れる人々、監視社会を恐れる人々との対立問題だ。つまり「創造」も「破壊」も、結局は宇宙法則とは異なる単なる人間のイメージに過ぎないということなのだ。 

 宇宙的な視点で言わせてもらえば、これらは先ほど星の爆発で述べたように、創造の前に破壊があり、破壊の前に創造がある、創造が無ければ破壊もなく、破壊が無ければ創造もなく、ならば創造と破壊は同義語だとする宇宙的トートロジーの一片に過ぎないことを表した言葉なのだ。人間は創造を続けることでより良い未来を空想している。しかしそれは、破壊を続けることでより良い未来を空想していることと同じだろう。プーチンは破壊を続けることで、大ロシア帝国の創造という、より良い未来に思いを馳せる。ニーチェは「永遠回帰」の思想で、宇宙は特定の目標に向かって進んでいくものではなく、全体として同一の状態が円環的に繰り返されていることを説いた。仏教の「輪廻転生」でも、世の中は同じ事象が永遠に繰り返されると説いている。これは現在「創造」だと思ったことが、明日には「破壊」になるかも知れないよ、と言っているわけだ。だからニーチェは、明日のことなんか考えずに、現状をより良くするために努力せよと言っている。しかし、現状の周囲には異なる価値観の連中が無数に居て、自分の創造を実現しようと思うと、隣人の創造を破壊することになり、「力への意志」をもってヒトラープーチンのように力ずくで突破しなければならなくなるわけである。

 ユネスコ世界遺産は、登録された文化財や景観、自然など、人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」を持つ不動産で、自然遺産と文化遺産がある。自然遺産には地球の歴史が深く関わり、文化遺産には人類の歴史が深く関わっている。人は自然遺産の前で、過去の地球が創造した風景を見て、地球の壮大な営みに感動する。同じく文化遺産を前にして、過去の人類の創造力、知恵、パワーに驚嘆・感激する。ところが文化遺産には「創造」と「破壊」が混在していて、「負の世界遺産」と称されているものも少なからず登録されている。人々はその前に立って、「人間はなんて愚かなことをするんだ」と嘆き、頭の中は不協和音で満たされ、悲しみや不安・憤りで涙を流すことになる。ピラミッドはエジプトの人々の輝かしい「創造」の歴史遺産だろうが、アウシュビッツユダヤの人々の痛ましい「破壊」の歴史遺産だ。しかし宇宙的な観点から言えば、「創造」と「破壊」は表裏一体、……ということは、それはあくまで人のイメージで、これからも環境が変われば「創造」が「破壊」になり、「破壊」が「創造」になり得ることを表している。

 広島には、二つの世界文化遺産がある。厳島神社と負の世界遺産である原爆ドームだ。厳島神社は稀有の美しさを誇り、原爆ドームは稀有の悲しさを示している。もしこの二つの遺産の歴史を知らず、浅い感覚で捉えるとすれば、厳島神社は「創造」のシンボルであり、原爆ドームは「破壊」のシンボルである。しかしその由来を知れば、この二つは宇宙的トートロジーであることが分かってくるはずだ。「創造」と「破壊」は同義語で、美しいものは醜く、醜いものは美しい。創造の前には破壊があり、破壊の後には創造があり、そしてそれは円環する。厳島神社を創造した平清盛は保元・平治の乱で多くの敵を殺し、既存の社会を破壊して新たな政権を築いた。そしてその権勢の証として、世にも美しい神殿を創造し、神に献上した。米国人は苛酷な戦争を早期終結させ、平和な社会を創造するために最新兵器で彼の地を一切灰燼と為した。それはその時点で、米国人にとっては筋の通った理屈だったかも知れない。いまのウクライナ戦争でも、プーチンの理屈は多くの自国民に支持されている。「創造」と「破壊」はその場その場のムードや状況に依存するのだ。

 およそ900件ある文化遺産のうち、権力や戦いと無縁の物件は少ないだろう。本来、文化の主役は庶民であるはずなのに、非力な人々の生きた証など、書に認められることも少なく、雲散霧消してしまうのが常だ。せいぜい負の遺産の犠牲者として、名を連ねるぐらいだろう。反対に、時代を制した権力者たちの欲望が、文化遺産に名を連ねる。いま仮にウクライナに水爆が落とされれば、我々人類は、哀歌を流し続ける宇宙の無限円盤に、再び足を取られることになる。そしてそれを行った権力者の名前は、負の世界遺産として明記されるに違いない。

 来週、久しぶりに広島を訪れるつもりだ。人類に残された道は、一人ひとりがイメージ(感性)を磨く以外にない、と思うから……。

 

 

 


向日葵畑
(戦争レクイエムより)

幅の狭い
ずっとまっすぐな
ぬかるんだ道
どこまでもどこまでも
枯れちまった向日葵畑
今日も老女は
デートのときの
朽ちたドレスを着て
松葉杖を支えに
いつもの所まで来ると
深いため息でキョロキョロ
家の近くの遠い道

てのひらを陽にかざし
どこだろうねえ
この指は……

若かったとき
赤ん坊を抱え
地雷を踏んだ
左の足と左の薬指と
左の胸に抱いた
生まれたばかりで
死んだばかりの
赤ん坊が砕け散った
犯され生んじまった娘さ

敵に連れ去られたと嘘を言い
あのとき流すはずの
小川の近くに埋めた
干からびた左足と一緒に…

戦地で死んだ恋人は
いつになっても戻らない
誰もいない墓を造った
隣にちゃっかり自分の墓も…
こっちはあたし
あっちは形見
亡くしちまった指には
婚約指輪がはまっていた

向日葵が満開になると
なま暖かい風に揺られて
金色に輝く何かを見た
少し離れた畑の中で
夏の光をキラキラ撥ね返す

お日様を元気に見上げる
丈の短い小さな向日葵
子犬のような円らな瞳で
眩しい世界に驚いている
白茶けた細首には指輪のチョーカー
嗚呼奇跡だ どうしましょう
婚約指輪を押し付けて
殺しちまったんだ 
鶏みたいにさ

パアンと悪魔の音が蘇り
鋭い悲鳴が飛び散って
頭のどこかがプツンと切れた
耳を塞いで倒れ込み
開いたまま地面を叩き 
搔きむしられた大地の底から
大袈裟な声を絞り出し
地獄に届く罵声を上げる
チクショウ!

嬉しいやら恐ろしいやら 
まるで恋人の骨でも見つけたように
泣き叫びながら小川に向かって 
匍匐前進を開始した
嗚呼 幸せな家庭を築くんだ
まるでおままごとみたいにさ…