詩人の部屋 響月光

響月光の詩と小説を紹介します。

エッセー「詩的自殺論」& 詩

詩的自殺論
~体外離脱の奨め~  

 宇宙飛行士が引退すると、第二の人生として宗教家を選ぶことがあるという。その代表的な人がジム・アーウィンで、アポロ15号で月面着陸を果たし、その後キリスト教の伝道師になった。16号のチャールズ・デュークも3日間月面で過ごし、後に伝道師になった。同じく月の大地を踏んだ14号のエドガー・ミッチェルも神的なものを感じ、晩年は思想家として余生を送った。日本人として初めて宇宙に行った民間人の秋山豊寛氏は、その後TBSを辞めて田舎暮らしを始めた。会社を辞めた理由の一つは、宇宙時間と地球時間のズレで、人が作った狭隘な時間に追われて生きていくのが嫌になったのだという。

 人はごきぶりホイホイに掛かった身動きの取れない害虫を見て溜飲を下げるが、自分自身は社会が作った時間の細かい網に掛かっていることを忘れている。しかしこの網は時間だけでなく、頭の上には法律や仕事、経済、男女関係、人間関係等々、家庭生活や集団生活に必要な社会の網が幾重にも重なり圧し掛かっている。人生とは、そうした網の下で、網の重みに耐えながら生きていくことだと言えるだろう。そしてその人生を主導しているのが、人それぞれの「魂(心)」だ。多くの宇宙飛行士が宇宙空間で「神」を感じたと言うが、彼らが見たのは神ではなく、自分自身の魂に違いない。彼らは大気圏内の重い網から解放された自分の魂を見ていた。そしてそれは、子供の頃から見ていた夢見る魂だったに違いない、……ということは、少なくとも人間に関する限り、魂は浮遊する性質を持っていると言えるだろう。だから彼らの魂は、地球重力の頸木から解放された初めての喜びに浸り、180度人生観を変えてしまう者も出てくるわけだ。

 多くの動物は本能という網の下で、何の疑念も抱かずに生存競争という網の重圧にも耐え、自然に身を任せて生涯を終える。それは動物の魂が未発達で自由度もなく、浮遊する希求を持たないからだ。しかし大脳を異常発達させた人間は言語能力を獲得して妄想することを始めてしまった。そしてこの妄想は、全宇宙に広がり得る柔軟性を持っていた。また、魂はこの妄想空間の中で蜂のような適応飛行能力を獲得し、自由を求めて自在に浮遊するようになった。しかし妄想には、良き妄想と悪しき妄想がある。だから、一端人が解放を阻害する頭上の網を意識すると、それが耐えられないと感じた者は、良き妄想をたちまち悪しき妄想に転換させてしまう。するとその中で飛び回っていた魂はたちまち呼吸困難をきたし、自らの命を絶ってまで解放を求めるようになるわけだ。恐らく「天国」だとか「再生」だとかの良き?妄想も、これに加担しているはずである。

 自殺には「社会外自殺」と「社会内自殺」という二種類の自殺がある。「社会外自殺」は、社会の部外者的な立ち位置から人生を眺めて起こす虚無的な自殺だ。例えば芥川龍之介の『河童』に登場する腹の中の赤ん坊が、「河童的存在」を批判して誕生を拒否する場面があるが、これが「社会外自殺」と言えるだろう。あるいは、夏目漱石の生徒であった東大生(第一高等学校)藤村操の自殺もこれにあたる。17歳の彼は「万物の真相は不可解」として華厳の滝に身を投じたが、「万物」を「社会」と変えて読めば分かることだ。恐らく彼は子供のころから、親兄弟を含めた周囲の人間との違和感に悩んでいたに違いない。彼の目から見るとそれは「世俗社会」で、その社会に溶け込めないと早飲み込みし、自殺を決行した。彼は生まれながらに体質の異なる宇宙人、あるいは世界と対立する「世界外存在」であったわけだ。彼は絶海の孤島に漂着した船乗りで、同質性を見出せない海鳥たちと暮らし続ける孤独を恐れて自殺した。

 これに対して、世の中で圧倒的に数が多いのが「社会内自殺」である。この自殺者は、動物が弱肉強食の自然の網の下で必死に生きながら生涯を終えるのと同じに、その魂は社会という網の下に常時置かれ、社会に投げ出されながらも必死に生きて自然の死を迎えるべき人たちだった。しかしある時、その重みに耐えられなくなり、魂が解放されることを願って自殺するのだ。「社会外自殺」は自らが社会を見捨てた自殺であるのに対して、「社会内自殺」は社会に潰された自殺と言うこともできるだろう。しかし彼らの悲しむべき点は、トラップに捕らわれたゴキブリも、網に掛かった魚も、死ぬことを拒否して必死に抵抗し、命尽きるのに対し、彼らは自ら進んで命を落とし、魂を解放させようとすることだ。その違いは、虫や魚は本来の生存環境に戻りたいと願い、必死に足掻くのに対し、人間の彼らには生存環境そのものが耐えがたいものであり、雁字搦めの網になっていることだ。つまり、安らかに生きていく居場所を失くし、八方塞がりとなって死以外に魂の解放を見出せず、自殺という抜け道に走ってしまうのである。しかしこれは明らかに「妄想力」の欠如で、魂が妄想とともに重い網の目を透過できる「体外離脱」の特性を持つことに気が付かなかっただけの話だろう。

 「社会外自殺」と「社会内自殺」に共通するのは「絶望」だが、その絶望には大きな違いがある。前者が人生生きるに足らんと、生きること自体に絶望するのに対し、社会内でしか生きられないと信じる後者は、未来の人生に希望を持ち、懸命に生きたいと願いながらも、苛酷な状況から抜け出す術を見出せずに、結局最後は路地に追い詰められ、万事休すの状態で死んでいく。ならば、その苦しみも異なるだろう。前者は最初から社会を拒否しているが、後者は社会の中で生きたいと願い、そこから落ちこぼれることを恐れるあまりに目の前の重圧に耐えられず、心を折ってしまう。そこで明らかになるのが、両者の「視点」の距離的な違いだ。だからその「視点」の位置の違いに着目すれば、「社会外自殺」と「社会内自殺」それぞれに対処する方法も見出せるはずなのだ。

 最初に宇宙空間の話をした。地球を周回する宇宙ステーションは、地球の重力と遠心力の程良い釣り合いの中で、月みたいに地球を周回している。もちろん重力が優れば地球に落下し、遠心力が優れば地球から離れてしまう。宇宙ステーションの飛行士たちは、この絶妙なバランスの中で生活し、巧みに位置調整をしながら下界に展開する微細な人間の営みを想像し俯瞰しているわけだ。しかし「社会外自殺」の魂は、宇宙ステーションよりも離れた空間にまで妄想を拡大させ、その魂は筋斗雲に乗って仏の手元まで行ってしまった。これは体外離脱する魂の勇み足による飛び過ぎた自爆だ。

 この状態は、希望する仕事に就けなかった社員に譬えると分かりやすい。社会を会社に置き換えれば、彼は会社とそりが合わず、転職したいと思ってもなかなか出来ない。会社は一握りの優秀な社員とその他の意欲のない社員で構成されるとの話があるが、彼もまた惰性で働くような無能社員に違いない。しかし、そこで彼が会社を辞めれば、社会生活を辞める「社会外自殺」と同じことになる。彼が辞めない理由は、給料がなければ生きて行けないからだ。彼は生きていくために、渋々仕事を続ける。しかし彼が絶望していないとすれば、薄給でもプライベートをエンジョイできているからだ。つまらない仕事でも、プライベートを充実させれば何とか続けられる。苛酷な状況でも、プライベートが楽しければ続けられる。つまり、彼の魂は二重人格者のように二つの人生を持ち、仕事からプライベート、プライベートから仕事へ常に浮遊往来していることになる。そしてその魂の視点は、片足を仕事に、片足を私生活に置いた位置にあるだろう。それは同時に、宇宙ステーションが地球と付かず離れずの位置で、下界を見下ろしている状態でもあるわけだ。そしてこの宇宙ステーションの位置は「地球(社会)内存在」のギリギリの場でもある。

 ならば会社を社会に置き戻せば、藤村操の自殺は若気の至りだったと言えるだろう。世の中には会社に馴染めない人間も、社会に馴染めない人間も五万といる。操は若すぎて、良き妄想を膨らませる時間が少なかった。妄想を膨らませればその中で魂は強く育ち、仮に肉体が世俗社会に縛られていても、推進力を得て自由に飛び回ることが出来たはずだ。しかし社会への絶望を通して、知らぬ間に悪しき妄想を膨らませるようになり、彼の魂は離岸流に乗って宇宙の遠くまで流されてしまい、戻れる術も分からずに事切れた。魂の体外離脱には良い塩梅で留まる操縦技術があり、それなりの習熟期間は必要だろう。それが宇宙ステーションの位置でもあり、軌道維持技術の妙でもある。

 思うに、反りの合わない社会と付き合う方法は、付かず離れずの位置取りをして、生きていくことに尽きる。彼が宇宙人なら、下界に潜む同類の宇宙人を見出して、慰め合うこともできたはずだ。プルーストは『スワンの恋』で、街中の無数の男の中からホモセクシュアルの仲間を見出す困難さを描写しているが、それは同性愛が禁止されていた時代の話で、現在では特定の店やSNSなどで、同じ嗜好を持つ人間を探すことは簡単だろう。これは操のような宇宙人でも同じことだ。同じ虚無的感性の同類を見出すだけでも、心は安らぐに違いない。宇宙人は常に他者との異質性を意識して生きるが、語り合える仲間が居れば自殺への希求は制御されるに違いない。その他にも、本を読んだり、小説を書いたり、芸術に没頭したり、思索したり、恋愛したり、経験や知識を積み上げることで世間との違和感を緩和する手立ては色々ある。要するに自分だけの楽しい妄想空間を創り上げ、その中で自分の魂を自在に泳がせること、世俗的に言えば「自分時間」を持つことに尽きるだろう。仮にその場所が「生」と「死」の狭間の細い軌道であってもかまわない。綱渡りのように、熟練すれば足を外すことも無くなるからだ。

 僕は長期入院した経験があるが、入院当初は病院食が薄味で、不味くて食えなかった。しかし一カ月後には何とか食えるようになり、数カ月後に退院したときには家の食事が油っぽすぎて、却って食えなくなってしまっていた。薬の副作用で体調的にも苦しかったが、暫くすると苦痛にも耐えられるようになった。つまり、慣れるまではそれ相応の時間が必要だということなのだ。それを人生に置き換えれば、浮世の汚れにまみれることにも、水清ければ魚は棲まないと悟るにも、それ相応の時間は掛かるということだ。朱に交われば、多少は赤く染まるということだろう。

 「社会外自殺」が自ら社会を疎外する自殺であるのに対し、「社会内自殺」は社会から疎外された自殺だ。「社会外自殺」の魂は天高くに浮遊しているが、「社会内自殺」の魂は、多重網の下で地べたを這い回っている。彼は赤い大地の朱にどっぷり浸かっていて、その朱色が汚れることを極端に恐れ、破産やトラブル、ゴシップや失恋などの黒い汚点が付いたことに失念し、自ら命を落とす。「社会外自殺」の目が宇宙から俯瞰的に社会を眺めるのに対し、「社会内自殺」の目は、地べたからほぼ平面的に社会を眺めている。つまり、彼は三次元の視野を持っていないわけだ。人間は本来動物の一種だから、病気や飢え、天変地異や戦いなど、直接的に身体が侵されなければ死ぬことはない。群から排斥された離れ猿だって、落胆はしているだろうが自殺はしない。それは先に述べたように、人間は良き妄想の中で喜び、悪しき妄想の中で死ぬからだ。彼の視野が二次元の世界なら、実務的に解決できない問題に出くわすと、蓄積する苦痛を脳外に排出するバッファを見出せず、妄想の中にため込むことになる。するとその妄想は悪しき妄想の塊となり、その中に浮遊する魂は締め付けられ、逃げ場がなくなってしまう。結局その逃げ場を「死」に求めることになるのである。

 ならば「社会内自殺」の解決法は、「社会外自殺」と正反対のベクトルにあると言えるだろう。「社会外自殺」が宇宙ステーションの位置まで魂を地球に近付けるのに対し、「社会内自殺」では、宇宙ステーションの位置まで魂を引き上げれば良い。つまり、悪しき妄想に対抗する手立ては、良き妄想を三次元空間に大きく膨らませ、その中に魂を招き入れて、網の外に解放させることだ。それは世俗社会にどっぷり浸かった魂を世俗の網の上に浮遊させる作業でもある。多くの宗教が、その役割を担っていることも確かだ。カルトと揶揄される宗教でも、自殺を免れた信者はいるに違いない。しかし宗教などの他力本願に頼らなくても、自力本願は可能だ。しかし、それには少しばかりのメンタルトレーニングは必要になるだろう。それは、魂が死によって離脱するなら、そいつを生きている時点で離脱させる訓練と言うことができる。

 例えば、野球選手は成績を上げようと日々努力をしている。打撃では、足を上げないノーステップ打法や投手側の足を大きく上げる打法、踵だけを上げる圧縮ステップ打法などがあって、不調になると色々試す選手もいる。大谷選手も最近、片足を上げるステップから圧縮ステップに変え、ホームランを量産している。当然だが、それぞれにメリット、デメリットがある。両足を上げない打法は回転のパワーは少ないが、目線のブレが無くてミートが良くなる。片足を上げる打法は回転パワーが出るけれど、目線のブレは増す。圧縮ステップ打法はその中庸を取った打法だ。大谷選手は体格の良い選手だから、中庸の打法でも、ミートとパワーの一挙両得を果たせたわけだ。

 「社会内自殺」をする人間は、両足を地べたにべったり付いて、社会に固着した目線で生きている。これはノーステップ打法だが、大きなデメリットはデッドボールへの対処が少し遅れることだ。球を避けるには打席から片足を外す必要があるが、上げた所から始めるステップ打法のほうが、より早く体を捻って身をかわすことができる。柔道などでも技を掛ける足をブラブラさせて、電撃アタックを行っている。つまり両足立ちの「社会内自殺」では自分の周りが崩れ始めると、周りとともに崩れてしまうのだ。突然自分の立っている地面が陥没すれば、奈落に落ちてしまうのは当たり前の話だ。しかし、少しでも片足が浮いていれば、ブレた目線で近くの固い地盤を見つけ、浮いた片足を使って着地できるだろう。その浮いた片足は、社会という地面から浮遊している魂と言うことができる。

 まずは雛鳥のように、地べたにへばり付いている自分の姿を客観的に見つめ、それが人間の本来的な姿ではないことに気付くべきだ。動物は妄想を抱かないから自殺をしない。人間は悪しき妄想を抱くから自殺する。心が病んでいる状態は、悪しき妄想の中に魂が浮遊している状態だ。しかし、良き妄想を抱く場合には、どんな苛酷な状況でも自殺はしない。つまり、良き妄想を育て、悪しき妄想を育てないことに尽きる。雛鳥は、空を自由に飛ぶ親鳥の姿を見て羽を羽ばたかせる。ならば自殺願望者は、良き妄想の中で魂が自由に飛んでいる姿を見出すことから始めなければならない。そして悪しき妄想に比して良き妄想のスペースが狭小であると悟れば、その袋の中に良き妄想をたくさん詰め込んで、多重網の外側まで膨らませ、魂を網から逃がしてやることだ。たとえ良き妄想の膨らみが宇宙ステーションまで届かなかったとしても、網から逃れたことだけで自殺を思い留めることは可能だろう。良き妄想と悪しき妄想は、常に対立している。良き妄想が膨らめば悪しき妄想は萎む。反対に悪しき妄想が膨らめば、良き妄想は萎む。そして魂は常に大きな妄想をチョイスする。

 良き妄想を膨らませる材料は、いままで生きてきた人生の中で沢山転がっているに違いない。過去の楽しかった思い出も、好きな漫画も、アイドルへの憧れも、過去に思い描いた将来の夢も、愛読書も、感銘を受けたことどもも、挫折の原因となるもの以外の材料をすべて妄想の中に詰め込んでいけば、さほど時間は掛からずに社会の網を突き抜けることはできるだろう。そしてその時始めて、網の上から狭小な社会を見下ろすことが可能になる。まるで展望台から下界を眺めるように、小さな人間たちが狭い地べたの上で、いざこざを繰り返している様が見えてくる。そしてかつて自分もその中で苦しみ、自殺まで考えていたことを思い出し、失笑するに違いない。そのとき彼は、あのときの視点よりも高い位置から、世界を見ていることに気付くはずだ。

 

 

 


言葉

僕はいつからか寡黙になった
何も主張するものはなくなったから…
お世辞を言う必要がなくなったから…
話し相手をくすぐるものではなくなったから…
愛を語るものでもなくなったから…
艶やかで心地よい響きも伴わなくなったから…
乾いた声帯から絞り出るしわがれ声は
聞く者に寒々とした枯野を連想させるから…
周囲に腐臭を撒き散らかすようになったから…
人に語りかける道具だったのはきっと昔で
自分を納得させるだけの道具になったから…
言葉は意思疎通の手段ではなく
思い出の合いの手になったから…
牢獄の監視のように
日頃の失態を叱責し
ジャン・バルジャンのように
昔の出来事を後悔し
まるで検事総長のように
世の不条理を責め立てるようになったから…
言葉はもう現実から離れて
木霊のように空しく返ってくるだけになったから…
……古いレコードみたいな雑音をともなって

 

 

 

 

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