詩人の部屋 響月光

響月光の詩と小説を紹介します。

恐るべきリケジョたち(全文)

 河原では一○人の男がダンボールの中で暮らしている、といっても立地条件の関係上、やむなく狭い場所に集合しちまった。全員アフター六○だがけっこう有能だった連中もいて、仕事がなくてホームレスになったわけじゃない。みんな働くのがいやになったのだ。過去にいろんなトラブルを抱え込み、会社をクビになったり辞めたりした。客や上司、同僚に思う存分痛めつけられて、脱落したというわけ。つまり極度の人間不信に陥り、人間関係がうざくなってこうなったんだから、ここでもお互い挨拶を交わす程度で、会話が弾むことはなかった。人間だもの寂しいのはいやだろうが、仲良くなればそのうち互いのエゴが出始めて、喧嘩がはじまることを知っている。生まれてから死ぬまで、他人は常に腫れ物のような存在だった。孤独を楽しむというほどじゃないが、隣に無関心なのがいちばんラクチンというわけだ。

 一○人が一○人、摂食や排泄以外は一日中寝ていても苦にならない。寝ているのか起きているのか分からない状態で夢を見ていて、退屈しない。過去には楽しく働いた時期もあったし家族団らんもあったりで、そいつは昔の幸せな思い出だが、粉々に割れた断片になっちまって、使いものにならない。時たま一かけらが心の奥底から浮かび上がってはすぐに沈んで消えていく程度。なんの感傷もありゃしない。

 

 みんな一日中横になっていたいのに、腹が減ったり、尿意や便意を催したりで、面倒くさそうにダンボール屋敷から這い出してくる。お互い顔を合わせたくない。周囲で動きがないときを見計らい、キョロキョロ首を回して亀みたいに出てくる。期待に反してばったり出くわすと、簡単な挨拶だけですませ、そそくさと用を足しに離れていく。排便の場合は、近くの公園の公衆便所に出向き、小便はそれより近い河原の叢ですませる。食い物の調達は明け方だが、集団行動を取ることはない。すべてがやっかいな仕事だ。しかしそれ以上に面倒くさいのが、オマワリやボランティアのやつらだ。生きることに執着していないのに、余計なおせっかいを焼きやがる。寝たまま楽しい夢を見ながら往生できるなんて、こんな幸せなことはないのに、横槍を入れてくるのだ。仕事や人間関係がいやでホームレスになったんだよ。人生の価値観が違うんだよ。やつらはねちねちと寄ってきて、競争社会の歯車の中に再度引きずり込もうとしている。もう働くのはウンザリなんだ。いまさら堪忍してくれよ、というわけだ。

 

 

 しかし、どこかの植物学者だという若い女はスタイルのいいとびきりの美人で、一○人が一○人気に入っちまって、一○人が一○人の夢の中にも出てくるようになった。こんなところにモデル級の美人が来ることじたい夢かうつつか幻か分かりゃしないが、そんな区分けなんざ彼らにとってはどうでもいいことだった。しかし少なくとも全員が、食事や排泄のほかにもう一つのプリミティブな欲望があったことを思い出した。彼らの生殖器はすでにミイラ化していたが、キリスト教徒でもなかったので、この先生とセックスしてる夢を見るのは自由だった。

 先生の名はミドリといって、NPOの会員でもボランティアでもない。ある交渉をしに、どぶ臭い河原にやってきたのだ。端の段ボールから一戸一戸、それぞれ一時間くらい時間をかけて納得のいくまで話をし、五日間毎日やってきて一○人全員と契約した。

タコのダンボールには最後にやってきて交渉を始めたが、タコは昨日隣のダンボールでの交渉に聞き耳を立てていたので、ミドリが話を切り出す前に「オッケーだぜ」と快諾してしまった。

「隣のトラさんと話していたのを聞いていらっしゃったんですね」とミドリはいって、愛想よくわらった。

「ああ、人体実験をしたいんだろ?」

「そんな……、新しい人間の創造にご協力いただきたいんです」

「しかし、ホームレスだっていろいろさ。このご時勢、働き口がなくてホームレスになるやつらも多いんだ。そんな連中は娑婆っ気があるから、きっと断るね。ところがここの連中はみんな命なんか惜しくない」

「危険なお仕事ではありませんわ」

「まあいい。ところで、あんたはどうやってここを見つけた?」

「偶然です。正直のところ、みなさんオッケーしてくださるとは思っていませんでした」

「生きる気力がないのさ。惰性で生きてる。かといって自殺は面倒。動くのもかったるい。特にオマンマが悩みの種だ。飢えて死ぬのは苦しい。しかし腹が減りゃエサを探さにゃならん。面倒くさいぜ。エサ場は三○分も歩くのさ。そんだけ苦労したって、収穫ゼロも珍しくない。腐っても人間、腐ったものは食わないぜ。でも、ひもじい思いをするのはうんざり。で、みんなあんたの話に飛びついた。その人体実験とやら――」

「そんな……、実験段階は済んでいるんです。いまは臨床段階です」

「しかし病人じゃないぜ」

「でも、無気力は精神的な病ともいえますわ。病気はどんなものでも、薬で治せる時代です」

「へーえ、怠け者も薬で治るのかい」

「怠け者じゃありませんわ。社会恐怖症、対人恐怖症です。みなさんのお話をうかがって、そう思いました」

「なるほどね、ここのやつらはみんな恐怖症か……。ダンボールの中から出たがらないしさ。みんな外が怖いんだ。ダンボールは母親の子宮ってわけだ。ここに入っていると安心なんだ」

「でも、食べ物を探しに外出しなければいけない?」

「そう、そいつがネックさ。エサ場は繁華街だ。人間がうようよいる場所は嫌いなんだ。恐怖さ。冷たい視線を浴びせやがる。昔、いろんなやつから浴びせられたな。女房や子供からもな」といって、タコは自虐的にわらった。

「でも、食べないわけにはいきませんよね」

「だからさ。だから話に乗ったんだ。あんたの話だと、食わなくてもひもじい思いはしなくて済む。排便、排尿の面倒はほとんどない。俺の悩みを一気に解決するような話じゃないか」

「うそじゃありませんわ。未来の人間は進化しなければいけないんです。で、その歴史的な第一歩がおじ様からはじまるということです」

「大げさだな。それで、いつから?」

「さっそく明日お迎えに上がりますわ。その前に、契約書にサインねがいます」

 契約書は一○ページぐらいあって、なにやらいろんな文言が書かれている。タコは一行も読まずに先生が示した最終ページにサインをし、ガラクタの山から貴重品の入った小箱を探すのに五分ぐらい待たせた。箱の中には、残額のない銀行通帳、期限切れの運転免許証や健康保険証などが入っていた。どれも過去の遺物だった。そこからわざわざ実印を探し出し、契約書に押してからへへへと照れわらいし、顔を真っ赤にした。こんな社会生活の残滓を、いまだ大事に持っていることが未練がましくに思えたし、箱の中身を先生に見られたのもひどく恥ずかしかった。

 

 

 

 翌日の朝は約束の時間にマイクロバスがやってきて全員が乗り込み、あとから軽トラックで二人の作業員がきてダンボールの家々を解体し、きれいさっぱり自然の河原に戻していった。バスが到着したのは山奥のプライベートな植物園だった。広大な敷地の四分の一程度を無料公開しているが、来場者なんぞほとんどいない。ずっと奥の見えない場所に、金持ちが入る保養所のようなゴージャスな研究施設があって、一○人はそこに収容された。植物園も研究施設もミドリの所有で、どうやら彼女は大金持ちらしい。

建物は厳重に警備されていて、共同研究者の医師一人と看護師の女性が三人いるだけで、ほかの人間はだれも入ることは許されていなかった。もちろん治験者の一○人はこの建物内に収容され、まずは浴場に通されて体を洗い、検診着のようなユニフォームを与えられて二階のホールに案内された。

一○○人ぐらいは食事ができそうな大部屋だ。バイキング方式だが、大きなテーブルの上にバラエティーに富んだ豊富な料理が用意されていた。加えてウィスキーから日本酒、ビール、焼酎等々、アルコール類まであったのには全員が驚かされた。ここ一、二年満足に酒を飲んだこともない連中だから、思わず顔を見合わせニヤリとした。

 久しぶりの豪華な料理と美味い酒に舌鼓を打ち、満腹感に浸っていると、ミドリが出てきて話し始めた。

「これからお話しすることはインフォームド・コンセントですが、すでにご契約いただいたわけですから、お聞き流してくださってもけっこうです」

 

 タコ以外はほとんどだれも聞いていなかった。難しすぎて細かいことは分からなかったのだが、大雑把なことはタコにも理解できた。要するに、これから地球はますます食糧不足になって、増え続ける人間を養うことができなくなる。で、当然のこと戦争が起きて、世界中が大変なことになるが、その最悪な未来を回避できる唯一の方法がミドリの研究する人間改造なのだという。

 ミドリはひと通り話し終えると、もう一度実験の利点をアピールした。

「人類の脳の進化は、すでに数万年前に止まっているのです。でも、肉体的な進化の余地はまだまだ残されています。私たちが研究している新しい人間は、エネルギーの基となるでんぷんを体内で自ら生み出すことが可能なんです。つまり、食べ物を摂らなくても生きていけるんですから、みなさんの最大の悩みである空腹感からも解放されます。人類から飢餓が一掃されるんです」

「そいつは夢のような話だぜ」と、毎日夢しか見ないヤスが大きな声を上げた。ひさし振りに酒を飲んだので、かなり酔っ払っている。

「しかし、こんな美味い食事をできないのもしゃくにさわるな」とトメ。

「それは大丈夫ですわ。胃袋はちゃんとありますから、美味しいものはいつでも食べられるんです。でも、食べる必要はありませんけどね」

「いいんだよ。こんな豪華な食い物にありつけるチャンスなんか、もう二度と来やしないんだからな。残飯食いの生活に戻るより、腹がへらなくなったほうがありがたいさ」

 タコはそういって、ミドリにウィンクした。ミドリは微笑みながら優しい眼差しをタコに向けて、しばらくの間逸らそうとしなかった。タコは赤い顔をますます赤くして、ミドリの愛らしい顔を一生懸命脳裏に焼き付けようとした。

〝ようし、今夜も夢の中でこいつとセックスだ〟

 

 ミドリの話が終わると、ミドリに負けないぐらい素敵な皮膚科のマコ先生が話を始めたが、みんな酔っ払っちまって、意識朦朧としている。ミドリは植物学者だが、マコは医療行為ができるので、実際に臨床を行うのは彼女のほうだ。マコは実験のプロセスを一通り説明したあと、「さて、明日から始まりますので、今日は豪華な個室の柔らかいベッドでゆっくりお休みください」といって、晩餐会はお開きとなった。

 

 

 

 明くる日の朝、全員が二日酔い状態の中で、一人ひとり処置室のような部屋に呼ばれて少しばかり尻の皮を剥ぎ取られた。ここから幹細胞を取り出して培養するという。それから一カ月ほどは、三食付きの優雅な生活が続き、昼と晩にはアルコールが飲み放題というわけで、ほかになにもすることのない連中だからすっかりアル中状態になっちまった。もっとも一○人が一○人、もともとアル中で、酒を買う金がなくて我慢していたんだからタダ酒が飲めるとなると際限がなくなる。昼間っぱらから赤い顔して、施設内をフラフラ徘徊する。もちろんタバコも吸い放題。路上のシケモクを吸うよりゃよっぽど健康的だ。マコにいわせると、狭い場所でストレスを溜めるよりか、好き放題にしていたほうが臨床実験には良いコンディションが得られるとのことだが、実際は皮膚移植の拒絶反応を弱めるために、免疫力を低下させるのが狙いだった。

 

「俺たち天国にいるんじゃない?」とゾウが絆創膏の貼られた大きな尻を搔きながら感慨深げにいった。豪華な食事と高級ウィスキーやタバコ類、それに優雅な個室に寝心地のいいベッド。おまけに二人の先生と三人の看護師はどれもとびきりの美人ときてる。こんなのは夢か天国か高級クラブかのどちらかに違いないとなれば、天国を選ぶのは当然のことだ。全員が夢でないことを確信できたのは、ひとつの欲望だけが満たされていないこと。毎晩先生たちと寝ることができるのは夢の中で、そいつだけが口惜しかったからだ。

 

しかし、天国があれば地獄もある。彼らは地獄の話を聞かされなかったと主張するだろうが、契約書にはちゃんと書かれていて、ちゃんと判を押している。入所から一カ月後にとうとう地獄の釜が開くことになった。本格的な臨床実験が始まったのである。

ミドリは切り取った皮膚から幹細胞を取り出し、高度なバイオ技術を使って小麦の遺伝子を組み込んだ。これを三週間かけて、特殊な培養床で移植用の皮膚の大きさまでに培養したが、そいつは一センチ四方の基から一平米にまで大きく育っていた。

いよいよ移植手術である。けっこうな大手術なので、一日二人が限度で、全員の手術が終わるまでは五日ほど要した。試験台は全身麻酔をかけられ、まず移植部分の皮膚が全身にわたり二○カ所剥がされ、二○分割された移植用皮膚が次々に貼り付けられていった。一人四時間ぐらいかかって手術が終わると、すぐに無菌室に運ばれ、移植部分が定着するまで絶対安静となった。

最終日まで残ったのはタコとモツ。仲間と呼べるほど親しくはないが、ほかの連中が二人ずつコンビで忽然と消えていくのは、二人にとっても不気味な感じだ。しかもここ数日、先生方を見かけることがなかった。タコとモツの世話をするのはモナという若い看護師一人だけで、ほかの看護師もどこかへ消えちまった。タコは不安になってモナに聞いた。

「いったいみんな、どこへ消えちゃったんだい?」

「一日二人ずつ手術をしているんです。先生たちは手術で忙しくて、ここに来る時間もないんです」

「そんなに大変な手術なのかい?」と、モツが不安そうな目つきでたずねた。

「いえ、一〇分くらいの簡単な手術です。光合成のできる皮膚を移植するお話は、もう知っていらっしゃいますよね」

「ああ、体内ででんぷんができるから、メシを食う必要がない」とタコ。

「そいつはソーラーパネルのようなものかな?」とモツ。

「いいえ、それ以上のものです。移植は簡単ですけど、皮膚は外から侵入するばい菌を遮断する関所ですからね。完全にくっ付くまでは、無菌室に隔離する必要があるんです。五日間ぐらい入っていれば、もとのようになって、みなさんここに帰ってこれますよ」

「へえ、五日間禁酒禁煙かい?」

 モツはいって、顔をしかめた。ただでさえ皺だらけの顔が、丸めた紙くずのようにクチャクチャになった。

「少しばかりのガマンです。お酒を飲むと皮膚の定着が遅くなるんです。そろそろ肝臓を休めてもいい時期ですしね」といって、モナは可愛らしくわらった。

 

 

 

 そしていよいよ最終組の手術が行われ、無事終了。二人は無菌室で五日間養生したあと、首まである分厚いガウンを着せられてホールに戻され、呆然とした。出迎えた連中は全員ふんどし姿。しかも顔から爪先まで緑と肌色のチェック模様になっている。特に顔は、両目の周りがひし形のブチになっていて、まさにピエロ状態。

「なんだよお前ら、みっとも悪い恰好して」

 タコは思わずふき出したが、連中はひどく憂鬱そうな目つきでタコを見返し、なにもしゃべらなかった。モナが二人の着ているガウンを次々に剥ぐと、二人とも同じ模様になっていたのにはさらにビックリだ。ミドリとマコがニコニコしながらやってきた。

マコは二人の体をくまなく見ながら、「光合成皮膚は完璧に定着しましたね」とつぶやいた。

「先生、チェック模様はないだろ。チェスでもするつもりかよ」とタコが怒っていうと、マコは平気な顔で「いずれは新しい皮膚が育って、いっぽうの色に統一されますわ」と答える。

「どっちの色だよ」とモツ。

「もちろん緑色ですわ。緑は葉緑素の色です。だって、葉緑素がなければ光合成はできませんもの」

 ミドリがいった。

「まいったな。緑色になっちまったぜ!」

 タコは吐き捨てるようにいって、「もとの体に戻してくれよ」と食ってかかる。

「それは困りますわ。だって、契約なさったんですし、契約書にも書かれています。まさか、契約書を読んでらっしゃらない?」

「あんな長ったらしいもの、読めるかよ!」

 すると、二人を除く仲間たち全員がゲラゲラとわらい出した。

「あきらめろよ。俺たちゃ契約書にサインしちまったんだからな」とトラ。

「そうさ、俺たちとおんなじ文句を繰り返してもむださ。俺たちも最初は食ってかかったが、いまじゃもうあきらめが付いたんだ。まさかあんた、これから就職活動しようってわけじゃないだろ。世の中の人間が気味悪がったって、アウトサイダーには関係のない話さ。全身にタトゥーを入れたと思えばいい。自分さえ気にならなきゃそれでいいんだ。それによ、光合成が始まりゃ残飯を漁りに出かける面倒も解消さ」

 トメはそういって、タコの肩をポンポンと軽く叩いた。タコは一人暮らしが長すぎて、体を触られるのが嫌いだった。カアッと頭に血が上り、肩でトメの手を払いのけた。血が上ると普段はユデタコ状態になるはずの顔だが、なぜか旧皮膚部分は緑に染まり、移植部分は黒緑になった。

「もう、ひもじい思いをすることはありませんわ」

医者のマコは動じることなく、すました顔して説得する。それがますますタコの癇にさわった。

「とにかくこんなみっともないのはいやなんだ。おいモツ、お前も同じだろ?」

「うん、まあ、基本的にはいやだけどな。しかし……」とモツは言葉を濁す。

「なんだよ、こんなんが好きなのかよ」

「そりゃ、こんな色で外へ出るのはいやさ。ダンボールの中でずっといるわけにもいかねえしな。光合成ってえのは、日向ぼっこしなきゃだめなんだろ?」

「陽に当たることは必要ですね」とミドリ。

「陽に当たれば当たるほど、満腹感が得られます」とマコ。

「でも、あの河原に戻る必要はありませんわ」

 そういって、ミドリは優しい眼差しをタコに向けた。

「じゃあ、どこに行きゃいいんだよ」

 タコは睨みつけるような視線でミドリに応戦した。

「ずっとここにいていいんです。ここに根を生やしてください。枯れるまでここにいていいんですよ。ここで思う存分枝を広げて暮らしてください」

「そりゃどういうことだい。ここは養老院かよ」

「いいえ、研究所です。だから、あなたたちを観察する必要があるんです。あなたたちは新人類を創造するための貴重な資料です。ずっといてくれなくては困るんです。それも契約書には書いてありますけど――」

「契約書なんか読んでないっちゅうの! しかし、なんだ。死ぬまでメシも食えるし、酒も飲めるってわけだな?」

「ええ、それはお約束します。食べたければいつでも食べられるし、飲みたければいつでも飲めますわ。でも光合成が始まれば、空腹になることもありませんけどね」

「おいら、やっぱりこのままでいいぜ。ダンボールの家よか、ここのがよっぽど快適だからな。体が緑になったって、ここにいりゃ困ることもねえさ」とモツ。

 

 頭に上っていた血が徐々に落ちてくるにつけタコは落ち着きを取り戻し、その脳裏には凍てつく冬の寒さとうだるような夏の暑さが浮かんできた。寒い明け方に目を覚まして、残飯を漁りに街まで出ていく光景を思い出した。あれは生き地獄だ。古新聞をクチャクチャに丸めてボロ着の中に詰め込み、まるで宇宙遊泳をしているような膨れた恰好でフラフラと歩いていく。磨り減った靴底では凍った道路は滑りやすく、ツルリとすべって尻をしたたか打ち、袖口から新聞玉が二、三個転がり出る。そいつをまるでオムスビのように大事に拾って元の場所に詰め込み、湯煙のようなため息をつきながら立ち上がって再び歩きはじめる。「嗚呼俺は、なんでこんなんなっちまったんだ」と毒づきながら、そいつを怒りに変えてグリコーゲンをふりしぼり、一歩一歩足を進めていく。いつのまにか、タコの目から大粒の涙が流れ出てきた。ワンワンと泣き出したからほかの実験台はみんな驚いたが、先生二人はきわめて冷静だった。

「安心してください。私たちはずっと一緒ですわ」とミドリ。

「もうずっと、ひもじい思いをすることはありませんわ」とマコ。

「本当だな。ウソじゃないんだな。俺たちは家族なんだな」

 タコは「家族」という言葉を口に出したのがひどく恥ずかしくなって、より一層顔を黒くさせた。

「私たちはみんな家族ですわ。一○人のオジサマたちと五人の娘たちの大所帯です」

 ミドリはそういってタコに近づきハグした。若草の匂いがタコの鼻の穴に入ってきて、後頭部を痺れさせた。嗚呼、葉緑素の爽やかな香りだ。人に体を触られるのが嫌いなタコも、このままずっとハグしていたいような気になって、ふんどしをわずかばかし盛り上がらせた。

 

 

 

 しかし本当の地獄は、まだ始まっていない。地獄は、緑のお肌がいやだなんだといったムーディーな話じゃないのだ。そのまま一カ月ほどは煉獄的な中途半端な状態だが、これは天国といっても間違いはなかった。目立ったイベントもなく、悠々自適の生活を送ることができたのだ。しかし、いよいよ第二クールが明日に迫ってきた。試験台のチェック模様は、すでに深緑の領域が大幅に増加して古い肌を蹴散らし、そいつは鹿の子模様のように、かわいらしく点々と残るのみになった。前の晩は飲めや歌えの大宴会となったが、必要以上に飲まないと不安を紛らわすことはできなかったので、みんなかなり酔っ払ってしまった。最後にミドリが締めくくる。

「さあ、明日から実験本番ですが、気楽になさってください。難しいことはなにもありませんし、痛いことをするわけじゃありません。いよいよみなさんの肌が光合成を開始します。明日からは自給自足人間です。ほんの少しばかりじっとしていただきますが、快適ですからすぐに慣れてしまいます。第二クールはデータの収集が主な目的です。最後に、実験の成功を願って一本締めで終わらせましょう」

 

 ミドリの音頭で全員がポンと手を打ち、明日に向けての決断式が締めくくられた。ところが、小便に行ったゾウが「大変だ大変だ!」と叫びながら、ふんどしを外して飛び出してきたので、女性陣は思わず目を背けた。

「見ろよ、オケケから一○本ぐらい草が生えてるぜ!」

 男たちはゾウの周りに集まって、口々に「本当だ!」と叫び驚きながら、自分のふんどしを緩めて確認し、口々に「おいらにも生えてるぜ!」、「俺もだ!」と叫びながら、全員がふんどしを取っ払って、先生方の診察を待った。二人の先生は、額に皺を寄せて、白と黒と緑の三色が入り乱れるそれらを散漫に観察した、というかほとんど目の焦点を合わせていなかった。そのうちに、誰かが隣のやつの頭にも少しばかり若芽が群生していることを発見して大騒ぎになった。

「みなさん、お静かに。これは想定内ですので落ち着いてください。病気ではありません。体毛が変形したものです。たとえばサイの角を思い出してください。あれは複数の体毛が集まって変形したものなのです」

 ミドリはゆっくりはっきりと、愚かな子供たちにいい聞かせるように説明した。年寄りとはいえ、パニック状態になったら女たちの手では制御が難しい。

「いいかよ、髪の毛まで草になっちまったらたまんねえぜ」とロク。

「顔が緑で頭が草なんて、まるでジャングルのゲリラ部隊じゃねえか」とタン。

「そう怒らずに落ち着いて聞いてください。まず、椅子に座りましょう。納得のいくようにご説明しますから」

 男たちはブツブツいいながら、それぞれ近くの椅子に座る。女たちもニコニコしながら腰掛けたが、不安を隠す作りわらいにも、悪意のある薄わらいにも見えた。

「みなさんに移植した皮膚ですが、そこには選択された植物の遺伝子が組み込まれています。その遺伝子は葉緑素を生産し、光合成を行わせる遺伝子です。でも、この選択には高度な技術が必要で、一定の割合でほかの遺伝子が混入する場合があります。芽が出たのでしたら、きっと発芽遺伝子です。みなさんの皮膚にはほんの少しばかり、発芽遺伝子が混入したんです」

「じゃあ、失敗ってことじゃねえか」

 タコはいって、ミドリをにらみつけた。

「失敗というわけではありません。技術的に改良の余地があるということです。きっと五年後には完璧な選別が可能でしょうが、いまの時点では必要悪ということになります。抗癌剤の副作用のようなものです」

 ミドリはすまし顔で答えた。

「じゃあ、こいつが伸びてきたらどうすりゃいいんだよ!」とタコは食い下がる。

「伸びる前に摘み取りましょう。みなさん。芽は食欲が旺盛で、体内の栄養分を吸い取って育ちます。せっかく光合成して体に栄養を溜め込んだのに、たまったもんじゃないわね。だから、気が付いたらむしってください」

「なるでダニだな」

「そうそう、マダニのようなものだと思ってください」とミドリ。

「でも、マダニと違うところは簡単に取れるし、食べられることです。自給自足人間は自分の毛も食べちゃうんです」

 マコが付け加えた。

「食べれるのかよ」

「食べられますよ」とミドリ。

「自分の頭のハエを追えないやつらが、頭の芽をどうやって摘み取るのさ」

「そこですわ。一石二鳥のいい提案があるんです」とミドリはグッドアイデアが思い浮かんだとでもいうように、右の拳固で左の掌をポンと叩いた。

「私たち家族宣言したのに、みなさんなにか他人行儀のような感じがします。これから永いんですから、互いにもっと接近する必要がありますわ。スキンシップです。それが大事。お互いでグルーミングしてください」

「なんだいそいつは?」とトメ。

「サル山のおサルさんを見てください。みんな仲良く毛づくろいし合っていますわ。だから、お互いお相手の頭から芽を抜いて、食べてください。捨ててはいけません。芽は栄養価が高い野菜ですからね。もちろん下腹部の芽はご自分で抜いてお食べください」

「汚ねえなあ――」

ずっと汚ない暮らしをしてきたモツが顔をしかめた。

 

「さあ、これからみなさんで毛づくろいを始めましょう」とモナが音頭を取り、女たちは一○脚の椅子を円形に並べた。男たちは大人しく座って、自分の前に座った男のグルーミングをはじめる。まるでゲーム大会みたいになってきた。こいつはミドリが発明した新しいゲームだが、罰ゲームにも匹敵する苛酷な内容が含まれている。毛の薄い連中は簡単に探すことができたから、まだマシだ。しかし、相手は抜かれるたびにキャッと悲鳴を上げた。若芽とはいっても根はあるから、丈夫な毛を抜く程度には痛いのだ。ボサボサ頭に当たったやつは抜くほうも大変だ。自分の頭の痛みに戦々恐々としながら、前の男の毛をかき分けながら五センチほどの小さな芽を探し出す。サルだって、手馴れるまでには数年かかるだろう。抜いた部分は穴になり、血がにじみ出る。しかし、血の色は緑色をしているのだ。トラの頭の芽を抜いていたタコは、思わず口に入れてからペッと吐き出し、声を上げた。

「おいおい青汁が出てきたぜ。先生、これはいったいなんなんだよ」

「毛細血管を傷つけたことによる出血です」

 マコが医者らしく学問的に答える。

「ぜんぜん赤くないぜ」

「血が赤いのは含まれるヘモグロビンの色です。そこに葉緑素が加われば、当然のことダーク・グリーンになりますわ」

 タコは理由も分からず変に納得して、大人しく毛づくろいを再開した。トラは不精な男で、施設の風呂で髪の毛を洗うところを見たこともなかった。髪の毛をかき分けると悪臭が鼻の穴を駆け上がったが、タコのほうもこの臭いには慣れている。指に付いた汚れもしかり、緑色でも血だと分かれば、ためらうことなく口に入れた。味わうには小さすぎたが、新鮮な感じでけっこういける。しかし、このぐらいで抜いておかないと、育てば育つほど根も伸びて、傷口も大きくなるにちがいない……、といって茎で切っても草はすぐに伸びてくる、……ということは、ほぼ毎日毛づくろいする必要があるということだった。

 

「ちくしょう、こんなこと毎日すんのかよ!」

 タコは切れて、椅子を横に倒して勢いよく立ち上がった。男たちの手は止まり、女たちは目を丸くしてタコを見つめた。

「抜かないで丸刈りにする手もありますわ」とマコが冷ややかな顔つきで弁解した。

「バカな。狂ってるぜ。もとの体に戻してくれ。俺は降りるよ。家に帰りたいんだ。ダンボールだろうが家は家さ。ワラの家よりゃよっぽどマシだ。まさか、剥ぎ取った皮は取ってあんだろうな」

「ご安心ください。ちゃんと冷凍保存してありますわ。分かりました。明日手術をして、もとに戻してさし上げます。みなさんの中で、タコさんと同じに帰りたい人がいましたら、手を上げてください」とミドリ。驚いたことに、全員が手を上げたのだ。

ミドリは大きなため息をついても微笑みは絶やさず、「分かりました。多少時間はかかりますけど、みなさんをもとの体にお戻しいたします」と気を取り直したようにハキハキ声でいった。

「ごめんな。悪気があるわけじゃないんだ。俺たち、面倒くさいことがだめなんだ。毎日毛づくろいなんて、俺たちの性分には合わないんだよ」

 タコは申し訳なさそうにいった。

「いいんです。ほかの賛同者を募りますわ。多少研究は遅れるでしょうけど、人類の未来のために止めるわけにはいきません。さあ、一次会はチャラにして二次会といきましょう。私たちも飲みます。グデングデンに酔っ払らっちゃいます」

 二次会はお別れ会となって、一次会よりもさらに楽しいものになった。男たちは一抹の不安から解消された。女たちは制服をかなぐり捨て、下着姿で蝶のように舞った。男たちは美しい蝶を捕まえようとするが、からかうようにひらひらと逃げる獲物を我が物にすることはできなかった。次第に男たちはへとへとになり、そのうち酔いが回って次々に倒れ、クウクウと眠り込んでいった。

 

 

 

 

 多少個人差はあるが、実験台は次々に意識を取り戻していった。気が付いたところは一○○メートル四方の中庭である。一方は建物の壁、対面は鬱蒼とした山林の壁、両脇は刑務所のような高い塀になっている。建物の壁には窓一つないので、だれもこんな庭があることに気付かなかった。庭土は耕されている。その上に、まるで野外イベントの観客席みたいに椅子が四○○整然と並んでいて、足は柔らかい土に埋まっていた。最前列中央に、あの一○人が座らされていた。拘禁椅子である。手首足首、腰にまで頑丈なプラスチック・ベルトが巻き付けられている。全員が身動きの取れない状態に置かれていた。

 彼らの目の前に舞台があった。舞台というよりは白く輝くテラスだ。後ろにドアがあって、ビキニ姿の女が五人ぞろぞろ出てきたと思うと、デッキチェアで日光浴を始めた。ピチピチとして、まぶしい若さだ。まだ五月だが日差しは強く、男たちはもちろん、女たちにも容赦なく降り注ぐ。ミドリが慌てて誰かを呼んだ。すると白いボーイ服を着た白髪のバトラーが出てきて次々にパラソルを開き、すぐにまた引っ込んだ。しばらくすると今度は盆に五人分のアイスティーを乗せて出てきた。女たちはサイドテーブルに置かれたアイスティーを飲みながら雑談を始める。たわわなブドウを見ながらワインをたしなむシャトー・オーナーといった感じの、セレブな雰囲気だ。

 

 タコはいつものように夢を見ている気になっていたが、夢であろうが現であろうが、女たちに話しかけなければ物事は進行しないだろうと考えた。まずは首を下に向けて拘禁されていることを確かめた。次に足の甲から下が土に埋まっていることも確認した。容赦なく太陽が降り注ぐ。動けない手足を見ると、体毛という体毛が若芽に変わっていた。

〝俺はいったい、何になろうとしているんだ〟と自問してから、〝植物になっちまうぞ〟と結論付け、頭にカッと血が上った。タコは二分ぐらいかけて心を落ち着かせ、それから緑のビキニ姿が愛らしいミドリに優しい声をかけた。

「ミドリさん。これはいったい何のまねですか?」

 するとミドリはニヤニヤしながら隣のマコに「まだ話せるわよ」といって、思わずプフッとふき出した。

「昨日のこと、覚えていらっしゃいます?」

 マコがミドリに代ってタコに聞いたが、その眼差しは軽蔑に満ちていた。

「覚えていますよ。俺たちを家に帰してくれる約束だった……」

「でも、それは不可能でした。残念ですわ。切除した皮膚が腐っていたんです。冷凍庫が故障してね。仕方がないので廃棄しました。だから、もう元には戻れません」

「分からねえなあ、どういうことだよ!」とトラが大きな声を張り上げた。すると、モナが急に立ち上がってテラスを降り、トラのところにツカツカツカとやってきて思い切りトラの頬を叩き、「お静かに」と優しい言葉で注意した。女たちが一斉にわらう。トラは驚きのあまり、その後は一言も発しなかった。

「つまり、もうあなたたちは植物になるしか方法がないってことですわ」

 今度はミドリが立ち上がり、サンダルを土に汚しながらモツの椅子までやってきて、両の手でモツの顔に生えた若芽を思い切り引き抜く。頬から緑色の血がほとばしり出た。

「イテテテテ、なにしやんでえ!」

「ほろほら、体中からこんなに芽が出ているわ」といって、パラパラパラとモツの足元に落とした。

「太陽を浴びて、光合成でいっぱいでんぷんを蓄えて、体中から芽を伸ばして花を咲かせ、受粉して実をつくるのが、これからのお仕事です」

「おいおい、話が違うじゃないか。俺たちゃ自給自足人間になるんだろ。光合成でメシを食わなくても生きていける人間になるんだろ。仕事ってえのはどういうことだよ!」

 タコが声を荒らげると、ミドリはタコのところにやってきて、二の腕の若芽を思い切りむしり取った。

「イテテテテ!」

「もちろん、こんなキモイもの、私たちはぜったい口にしません」といって、ミドリは同じようにパラパラパラと落とした。

「これがいったいなんに育つか知っています?」

「なんになるんだよ」

「小麦ですわ。秋になれば、あなた方の体中で小麦がたわわに実を結びます。でも、それを食べるのはあなたでもないし、私でもない。排除される人たちです」

「なんだよ、その排除される人たちっていうのはよ」

「人類の未来にとって必要のない人々です。間引きされるべき人々です。まあ、これ以上詳しい話をあなたたちに話す必要はありませんわ。だって、あなたたちは人間じゃなくて小麦なんですから」

「バカいってやがる。俺たちは人間だぜ」

「でも、あとしばらくすれば、おバカな脳味噌も小麦粉になってしまいますわ。植物にとって不要な組織はすべて分解・吸収されてしまうんです。もうすぐ減らず口も叩けなくなってしまいます」といってミドリはわらった。

「いったいなぜ、なんの恨みがあって俺たちをこんな目に遭わせるんだ!」

 ゾウが泣き声で叫んだ。モナがゾウのところにいって、「うざいわね!」といって頬を叩いた。するとミドリがゾウに近寄って、叩かれた頬を優しくなでる。

「恨みなんてありませんのよ。そんなものまったくないわ。でも、犠牲は必要なの。神様だって犠牲を求めるものよ。神様のために、自分の息子を差し出した男だっているんですから。つまり、あなたたちは生贄なの。人間の犯してきた罪を償うための生贄なのよ」

 心地よく響くミドリの声は慇懃無礼で、実験台を思いやる心なんぞ皆無だった。

〝そうか、俺たちはハメられたんだ!〟

 タコはようやく女たちのことが理解できた。

〝こいつら狂ったカルト集団だ。目的達成のためには平気で人を殺す殺人集団だ。俺たちは小麦にされちまって世界にばら撒かれるんだ。チキショウ、小麦にされてたまるか!〟

 タコは異様な叫び声を発しながら必死になって体を動かし、手かせ足かせを千切ろうとした。すると、ほかの連中も同じように叫びながら体を捩りはじめる。もちろん、むだな足掻きをしても体力を消耗するだけだ。

「やばいよ集団パニックだ。心不全でも起こされると計画は台無しよ」

 ミドリは少しばかりあせってマコにいった。

精神安定剤が有効だわ」とマコは答えて、三人の看護師に指示した。

 ビキニ姿の看護師たちは大急ぎで施設内に戻ると、五分も経たないうちに白衣に着替え、注射器を持って再登場した。医療行為のときは白衣という決まりをしっかり守っているらしい。三人手分けして実験台の肩に次々と注射を打っていく。薬が効いたものか体力を消耗したのかは分からないが、注射を打ってから五分も経たないうちに、実験台たちは目をつむり、うめき声すら出さなくなった。

 

〝嗚呼、おいら若い女が好きなのに、こいつらなんでジジイを毛嫌いするんだろう……〟

 タコは意識が朦朧とした状態で、ずっと若い頃、夏に一人旅をしたことを思い出していた。場所は忘れちまったが、山陰地方のどこかの海岸で、上半身裸になって甲羅干しをはじめた。燦々と輝く太陽を浴びながら寝ていると、全身の皮膚の感覚が研ぎ澄まされて、皮膚細胞の一つひとつがポツポツと焼け死んでいくのを感じ、それがけっこう心地よくて、このままジリジリとローストされながら死ぬのもいいなと思った。若い頃からすべてに無関心で、働く気力に欠けていた。そのままずっと、焼け付くような無気力感に支配されながら、野垂れ死にすることもなく、なんとなく生きてきた。段ボール暮らしになっても、夏場は河原に寝転がって日光浴しながら、あのときの心地よさを再現し続けた。

“ああ気持ちいいぜ。このまま死んでいくのは本望じゃないか……”

 半意識状態の中で、全身の皮膚感覚が異様に研ぎ澄まされ、皮膚細胞から芽がすくすく伸びていくのが手に取るように分かった。同時に、体内に向かってズンズンと根が伸びていくのを感じた。風船ガムみたいにのび切った腹膜が、根に押されてパチンと破れた。腹腔内まで到達すれば、肝臓は栄養満点の肥溜めにちがいない。

「先生、いったい俺は小麦なのかい? それとも、小麦を育てる土なのかい?」

 タコはつぶやくようにミドリにたずねた。

「あなたは種麦を育てる母体であり、小麦そのものでもあるのよ。つまりあなたたちはようやく、社会に貢献できる存在になったんだわ」

 ミドリはそういうと、看護師たちに目配せをした。看護師たちはテラスから畑に降りて、手かせ足かせを次々に外していった。

「さあ、あなたたちを拘束するものはなにもないわ。いつでもここから出て行ってかまわないよ。でも、君たちはもう植物なんだ」

 ミドリはからかうようにいって、わらった。

〝ふざけやがって!〟

みんな最後の力をふりしぼって立とうとしたが、体が動くことはなかった。短時間のうちに、急速に植物化が進んでしまった。椅子に接触する部分からはツタのような根が生えて椅子に絡み付いていた。土に埋まった足からも根が出てしっかりと土壌に張り、ほんの一センチも足を持ち上げることはできなかった。もじゃもじゃに伸びた芽の奥の瞳が涙でキラリと光り、根から吸い込まれた水がほとばしり出て、口の中に流れ込んだ。そいつは涙なんかじゃなく、真水だった。

「社会貢献? クソッ食らえだぜ!」

 ゾウは渾身の力を振り絞って怒鳴った。しかし、水を流せるのも減らず口を叩けるのもいまだけだ。目や口の両脇からヤニが出てきて、目蓋も唇も埋まりつつあった。植物にとっては無用の器官なのだ。もちろん、耳も鼻も、心臓も肺も、その他あらゆる臓物も無用だった。そして彼女たちには、なによりも無用の人間の存在が許せなかったにちがいない。

「任せてちょうだい。あなたたちを無用な人間では終わらせないわ。地球上のあらゆる生物は、生きるために活動しなければならないのよ。それは義務です。義務なんです。だから、私が手をお貸ししますわ。あなたたちを英雄にしてさし上げます。堕落した人類を救う、最初の英雄にしてさし上げます」とミドリ。

「みんなみんな、人類の未来を考えなければならない時代が来たんだからね」とマコ。

「放っといてくれ。あんたらヒトラーか? 河原に返してくれよう。俺たちがなにをしたっていうんだ。ひっそりと生きることもできねえのかよう――」

 すでに声帯に毛根が絡まりはじめ、タコの叫びは女たちに届くこともなかった。そのうちタコは精根尽きて、残っていたわずかばかりの筋肉を弛緩させ、安楽な世界へと落ちていった。植物の世界……、それは大便をしに公衆便所に出向くことのない世界だ。小便をしに水辺に出向くことのない世界だ。腹を満たすために繁華街をうろつくことのない世界だ。

〝なんだそうか、こいつは俺たちにとって理想の生活じゃないか……〟

 タコが人間として思考したのは、それが最後だった。

  

 

 

 

 それから三年が経った。ミドリたちは、ほかのホームレスや職のない若者たちと次々に契約を結び、同じような手順で中庭のシートを満席にした。小麦たちは母体の栄養を吸収しながらすくすくと育ち、夏には青々とした葉を風になびかせ、秋になると小麦色に変身してたくさんの実を付けた。実験は成功したのだ。小麦たちが根を張った最初の一○株はすっかり養分を吸収され、ミイラになっていた。しかし、その遺伝子は子孫である小麦たちにしっかりと受け継がれていた。後方の若い株ほど穂数は少なく、時たまヒューという不気味な唸り声を発する株も見受けられた。退化した声帯が、そよ風を受けて振動するのである。

 いよいよ収穫の前夜となった。今年で三回目、種麦のストックも十分だ。彼女たちは収穫祭を催し、アメリカから二人の農場主を招くことにした。二人とも大農場主で、ミドリの信奉者でもあった。彼らはテラスに座って新種の小麦を眺めながら、シャンパンでミドリを祝福した。

「すばらしい。この新種はなんと命名されました?」とフレッドが南部訛りでミドリに聞いた。

「正式には新人類一号、ニックネームは悪魔の小麦よ」

「そりゃ、ピッタリな名前だ」といって、マイクがわらった。

「収穫した種麦はこっそりとアメリカに持ち帰ってくださいね」

「任せてください。で、うちの広大な畑の一画で大事に育て、どんどん増やしていきます」とフレッド。

「遺伝子操作をしないかぎり、ほかの小麦と交配させても実を付けることはありません」

 ミドリはいって、ニヤリとわらった。

「で、私の畑で収穫した小麦は粉にして、慈善団体にでも寄付しましょうか」とマイク。

「それはまずいわ。あなたの畑で採れたことがばれてしまう。あなた、警察に捕まりたくないでしょ。私も捕まりたくないし」

「いちばん安全な方法は、闇ルートに流すことですわ」とマコがいって、マイクにリストを渡しウィンクした。世界各国の密輸業者のアドレスが書かれている。

「ということは、ターゲットは世界各地に分散してしまう」とフレッド。

「それでいいんです。私たちのターゲットは不特定多数なんですから。仮にその中に、あなたの家族が含まれていたとしても、それは仕方のないことね。間引きっていう昔からの知恵よ」

 ミドリは試すような目つきでフレッドを見つめた。その眼差しには氷のような冷たさがあった。

「怖いですねえ。せいぜい、アメリカ国内で流通しないように努力しましょう」

 フレッドは薄わらいしてヒューと口笛を吹き、シャンパンを一気に飲み干した。その口笛に呼応して、後方の小麦たちが一斉にヒューとうめき声を上げた。

「グロテスクだな。で、この小麦を食うと?」

「小麦になっちゃうわ。このバケモノたちのお仲間になっちゃうのよ」といって、ミドリは畑を指差した。

「いったい、人類の何パーセントが間引きできるかは知らないけれど、風評が広まって小麦を食べない人が増えることは確かだな」とマイク。

「じゃあ来年はお米にしましょう」

 ミドリはいって、わらった。

「同じ手法で、どんな穀物にも?」

「もちろん。あらゆる穀物を汚染させれば、人類を半分に減らすことだって可能よ」

「すばらしい。これで、人口増加をリセットすることができる」

 今度はマイクが一気にシャンパングラスを空にし、バトラーにおかわりを要求した。バトラーはフレッドのグラスにもシャンパンを注いだ。二人は注がれたシャンパンを再び一気に飲み干してから顔を見合わせる。フレッドが目を丸くしてマイクに「見たかよ」と聞くと、マイクは黙ってうなずいた。青い二人の眼は恐怖で細かく震えはじめた。二人とももっと強い酒を飲みたくなって、バトラーにバーボンを要求し、そいつが来るやいなや一気に飲み干した。酒に強い男たちで、飲むほどに顔が蒼くなっていき、眉間に皺を寄せて沈んだ顔つきになり、一言もしゃべらなくなった。

 

二人は沈黙状態のまま畑の小麦を見つめていたが、マイクがフレッドに〝しゃべれよ〟といったふうなゼスチャーをしたので、フレッドは意を決したようにうつろな視線をミドリに移した。マイクは小麦の様子を注意深く見ながら、しかし畑まで降りようともせずに「いまは花粉の季節じゃないから安心だな」とつぶやく。

 それを聞いたマコが、軽くわらいながら「あなた、花粉アレルギーなの?」と聞いた。

「いや、別に……」

 しばらくミドリを凝視していたフレッドは、急に目を逸らして下を向き、少しばかりためらってからミドリに質問した。まるで門番が女王様にでも話しかけるような感じにおどおどしながら、声も震えている。

「こいつの花粉を人間が吸い込むと、健康上どんな問題が起きるんですかね? つまり、パンは食わなくても、鼻から入ってくる花粉は避けようがないからさ」

「花粉アレルギーの人は心配ね。でも、それは普通の小麦と変わりませんわ」

「君はいったい科学者なのかね?」

 フレッドは突然怒ったような口調でいい返した。

「どういう意味?」

 ミドリはフレッドの急変ぶりに驚いてその顔を見つめ、唇が震えていることに気付いた。

「だって、そうでしょ。そんなことは三年ぐらいで分かることじゃないからさ」

「そうさ、新種をつくり出したって、商品化されるまでは一○年以上かかるのが普通だ。不具合はその間に発見されることも多いんだ。最低一○年は観察する必要がある」

マイクもフレッドに加勢した。

「商品化するつもりでつくったわけじゃないわ」とミドリは反論する。

「そりゃそうだ。人間を小麦にしちまう毒草だからな。しかし、そいつをつくっている人間まで小麦にされちゃ敵わないんだ。俺たちには家族もいることだし」とフレッド。

「なんせ、悪魔の小麦だから、花粉にだってそれ相応の毒はあると思うんだ」とマイク。

「分かりました。つまり、花粉の安全性を証明すればいいわけね。マウスの実験なら、二、三カ月で結果が出るわ」とミドリは不愉快そうに答えた。

「じゃあ、結果待ちだな」とフレッド。

「結果が出たら、また会おう」とマイク。

 

 二人は椅子から立ち上がると、ろくな挨拶もせずに、タクシーで逃げるように引き上げていった。

「変な連中……」とミドリはつぶやいた。

「怖気づいたのかしら……」とマコ。

 二人は同時に、大きなため息をついた。

 

 植物園の門から研究所の玄関先まで、ミドリとマコは肩を落としながら並んで歩き、「チキショウ!」と同じせりふを叫び、ふくれっ面して顔を見合わせた。日差しが木葉を通して、二人の頬に鹿の子模様を演出した。二人は思わず立ち止まり、互いに相手の顔を凝視する。一瞬二人とも、全身が緑色になり切る前の男たちを思い出した。あの鹿の子模様は可愛かった……。しかし、なにか虫ずの走るようないやな予感がし、それがたちまち悪寒に変わった。小さななにかが、さわさわそよいでいる。地獄からやってきた小鬼のように〝ようこそ小麦の世界へ〟と手招きしているのだ……。

 

「ギャーッ!」

 

示し合わせたように悲痛な叫び声を発し、二人ともがむしゃらに走り出した。どこへって? ……恐らく、想定外の明日に向かって――。

                                     (了)

 

 

響月 光(きょうげつ こう)

 

詩人。小熊秀雄の「真実を語るに技術はいらない」、「りっぱとは下手な詩を書くことだ」等の言葉に触発され、詩を書き始める。私的な内容を極力避け、表現や技巧、雰囲気等に囚われない思想のある無骨な詩を追求している。現在、世界平和への願いを込めた詩集『戦争レクイエム』をライフワークとして執筆中。

 

 

 

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