詩人の部屋 響月光

響月光の詩と小説を紹介します。

おかしな一家(最終)& 詩他

おかしな一家(全文)

 

 リニア新幹線を使えば、東京から福岡まで二時間ちょっとで着いてしまう。それなのに、地下ばかり走るから退屈だという声が聞かれるのは、あらゆるものが加速度的にスピード化していく中で、移動時間の短縮化にはまだまだ不満を持つ人間が多いということだ。

 しかし光輝の目には、暇を持て余している乗客は目に入らなかった。この二時間を貴重な時間ととらえてスマホやパソコンをいじる者もいれば、座席に設置されたテレビを見る者、電子書籍を読む者もいる。また、窓ガラスは液晶画面も兼ねていて、通過している地上の景色はもちろん、世界中の車窓風景を選択して映し出すこともできる。現に光輝は、ほんの数日前に見たスイス山岳鉄道を選択し、実際の臨場感と変わらないことに驚いていた。メンヒやユングフラウ、急峻なアイガー北壁が迫ってくる。リニアは韋駄天のように走っているのに、ローカルな山汽車に乗っている気分。違うところは、レールの振動がなく、不気味なほど静かなことだ。

 もちろん、何人が映像の車窓風景を楽しんでいるのかは分からない。窓自体が乗客の視線を感知して、映像をその方向に向けるため、ほかの乗客からは見えないようになっている。移動時間は貴重な睡眠時間であることも確かで、居眠りをしている乗客が数人いる。三、四のいびきがハモって、山びこみたいに輪唱になったりする。ソプラノパートは隣で熟睡している新妻の早苗で、どうやらこいつが主旋律らしく、耳のそばでやたらと大きく聞こえる。光輝は早苗がいびきをかくことを知って苦わらいしつつも、いびきの合唱をヨーデルコーラスに見立てて山岳風景を楽しみながら、これから会いに行く幼なじみのことを思い出そうとした。……が、割れたガラスのような記憶が胸を刺し、ズキッとして思わず顔をしかめた。

 

 小学校四年の夏休み、親友の仁は車で家族旅行に出かけて大きな事故に遭った。車マニアの父親が安全性の低いクラシックカーで高速道路を激走し、右側前輪が外れてトンネル入口の壁に激突したのだ。両親は即死、仁と姉は集中治療室に入れられ、姉は数日間苦しんだ後に他界した。ひとり仁だけが生き残ったが右手右足を失い、おまけに脊髄を損傷して歩行が困難になった。

 光輝は毎日のように病院に見舞いに行ったが、一般病棟に移されたあとも仁は一言もしゃべらず、ただぼんやりと天井を見つめているだけだった。言葉が話せなかったわけではない。話そうとしなかったのだ。世話をしていた祖母が促しても無言のまま。あれほど明るかった仁が、何でも話していた仁が硬い殻の中に閉じこもり、しっかりと蓋を閉じてしまった。まだ子供だった光輝は、親友にも口を開こうとしない仁がしゃくにさわったし、手足を失って暗い顔つきをした仁を見るのがつらくなり、次第に面会に行くのも遠のいて、三カ月後にはまったく行かなくなってしまった。結局仁は半年後に退院して、福岡にある両親の実家に引き取られていったが、一切連絡が来なかったのには光輝もあきれてしまった。

 

 ところが、光輝と早苗が新婚旅行から帰ってくると、一〇年間も音信不通だった仁からお祝いのプレゼントが届いていたのだ。イタリア製のクラシックな食器セットで、添えられた手紙は短く、「ご結婚おめでとう。この白いカップみたいに純な早苗ちゃんを傷つけるようなことがあったら許さないよ」と書かれていた。仁も早苗も同じクラスメートだったから、早苗の性格は分かっているのだと光輝は思った。さっそく御礼をとパックに書かれていた電話番号に電話をし、親友の大人声を聞きながら、話の流れの中で招待を受けたのである。二人ともヨーロッパから帰ってきたばかりで疲れていたが、新婚旅行の延長気分で翌朝には九州へ旅立ったといっても、たかが二時間ちょいの車中である。

 

 福岡の駅に着いて改札口を出ると、「光輝・早苗様」と点滅する液晶ボードを持った背広姿の運転手が立っていた。運転手は二人をクラシックなリムジンに乗せて市郊外の豪邸に運んだので、二人は「カネモチィー!」と声を上げた。この屋敷は、武家だった先祖代々からの領地に建てられたものであると運転手が説明した。

鉄門が開き、車が中に入る。すると、そこは広大なサバンナで、野生の草食動物たちがのんびりと草を食み、近くでライオンやチータたちが寝転がり、遠くにはゾウの集団も見える。二人は「なあんだ」と肩を下ろし、ため息をついた。欧米の広い屋敷で流行っている最新の3Dプロジェクションマッピングに違いない。視覚だけでなく、聴覚や触覚、嗅覚までもトータルに騙してしまうトリック・ワークのVRが売りで、日本でも流行りつつある。しかし、ある程度の土地がないとスクリーンボードが隣の敷地にはみ出てしまうので、日本用のスモール版は来春発売される予定、とマスコミで盛んに宣伝されていた。大きなオスライオンが車に寄ってきたので、早苗が窓を開いて手を差し伸べ、ライオンの鼻をなでた。そのか細い手を、分厚いザラザラの舌がなめ回す。早苗はあまりにもリアルな感触に怖くなって、思わず手を引っ込めた。このサバンナの中でどれがVRで、どれが本物かを見分けるのは難しい、といってペットショップでも買えるクローン・ライオンは攻撃的な遺伝子を徹底的に抜かれてしまい、借りてきた猫以上に大人しい。

 

 車が進むと、リアルな映像はどこかのポイントで消えて現実の家が現れるはずなのだが、そんな気配はまったくなく、草原の真ん中に背広姿のスラリとした美青年が立っている。車は青年の前に停まり、運転手が降りて早苗側のドアを開けた。二人は車から降り、リムジンは去っていく。いつの間にか、ライオンやヒョウ、シマウマやゴリラたちが三人の周りを取り囲んだ。

「ようこそ、北九州のサバンナへ」

 青年は満面の笑みを浮かべて二人に近づき、まずは早苗に握手を求めた。その手は細く長い指を持っていたが、握手の感触が小さな子供の手であることに驚いて、早苗は思わず手を引っ込めてしまった。光輝は、続けざまに二回も手を引っ込めた早苗を見てわらいながら、「君は?」と青年に聞いた。

「忘れたかい? 仁だよ」

「しかし、たしか君は……」

 青年の頭からつま先まで、光輝はいぶかしげな眼差しを移動させた。記憶の中の痛々しい姿からはあまりにもかけ離れている。すると次の瞬間、美青年が美少年にパッと変わったので、アッと声を上げた。二人とも虚像か、それともどちらかが虚像か、まったく分からなかった。

「これで僕が仁であることが分かっただろ」

 目の前の仁は、交通事故に遭う前日に遊んだときの仁そのものだった。仁はほとんど裸で、草でつくった腰蓑を着けているだけだが、ケガの痕跡はどこにも見られない。

「君は虚像だね」

「僕は本物さ。最初の青年がバーチャル。あれは、君と同い年の僕だ。単なるイメージだよ」

「でも、あなたも本物じゃない。おかしな格好をしているし、一○年の時間は止まることがないもの」

早苗がわらいながらいった。

「この格好は気にしないでくれたまえ。わが家では毎月壁紙を変えて楽しんでいるんだ。先月はイタリアのアマルフィ海岸だった、先々月は南極だった。今月はアフリカのサバンナさ。で、衣装もそのつど変えるんだ。先月はカーニバルの衣装とお面を着けていたし、南極では当然分厚い防寒服。サバンナはやっぱり裸がいい。僕は一年中旅しているのさ。もちろん、バーチャルな世界でね。いまの時代、現地に行くのはばかげている。特に僕のような人間嫌いには、地元の連中との交流はいやだから、バーチャルで十分なんだ。僕は仮想現実で生きているバーチャル・オタクさ」といって、仁はわらう。たしかに、最近のVRは精巧で、人間の粗雑な感覚器官をいとも簡単に騙してしまうから、はまり込んでしまう若者は多い。しかし、それが社会問題になっていても、この場ではどうでもいいことだ。光輝と早苗の目の前にいる少年が3D映像でないとすれば、果たしてそれは何者であるかが問題なのだ。

「分かった。君はロボットだ」

「はずれ。僕は血の通った人間だよ。生まれ方が君たちとは少々異なるだけさ」

 二人は顔を見合わせて、同時に「クローン!」と叫んだ。こんなに似ている子供がロボットでなければ、クローン以外に考えられなかったからだ。

「当たり! いかにも僕は仁のクローンさ。だから正確には、君たちの知っている仁ではない。しかし、僕の心は仁そのものなんだよ。仁の脳神経回路のすべてをプリントされ、そこからスタートしたんだ。君たちとの思い出もすべて仁から受け継いだ。僕は仁なのさ。ガキのくせにこんなに大人びた喋り方をするのは、成長した仁の精神そのものである証拠なんだ」

「しかし……」といってから光輝はなにかを連想し、言葉を詰まらせた。〝大人びた喋り方〟という仁の言葉を聞いて、早苗も光輝と同じ疑念を抱いて動揺した。

「仁君はどうして、あなたをつくらなければならなかったの? というか、あなたに幹細胞を提供した本物の仁君はどこにいるの?」

「本物という言葉はナシさ。僕はニセモノじゃない。君が聞いたのは元祖仁君のことだね。きっと法律上は、世の中に僕は二つあっちゃいけないんだ。いろんなトラブルのもとになるからね。でも、君たちはオリジナルの仁に会う権利はあるだろう。さあ、僕に付いてきてくれたまえ」

 

 仁は背の高い草を掻き分けながら草原を歩き始めた。草に触れると指が切れそうな痛さを感じるが、すべては仮想現実で、本物の草が生えているわけではない。仁の姿は時たま草に隠れて見えなくなるものの、ゾウが付いていたので見失うことはなかった。途中で、ヌーやシマウマの群れに遭遇したが、これはどうやらバーチャルな世界らしかった。一○分ほどして仁は歩くことに疲れたみたいで、ゾウの鼻に乗って頭を伝い、背中に馬乗りになった。ゾウの通ったあとは草がなぎ倒され、歩きやすい。二人は仁をうらやみながら、また一○分ほど歩くと小山が現れた。ゾウは直線的に坂を登っていく。仕方なしに二人も、ゾウの尻尾をロープ代わりに掴んで登っていく。頂上に出ると、遠く地平線まで続くサバンナを一望できたが、白大理石で化粧された大きなピラミッドが眼下に現れた。ギザのピラミッドほどもある大きさなのに、それを見下ろすほどの山は五分で登れたのだから、現実離れしたVRな世界に決まっている。それが証拠に、数分下っただけで、ピラミッド内部への入口にたどり着いた。

「君たちは、バーチャルなトリックに弄ばれて疲れたろう。しかしお付きの動物は本物だ。歩くのがいやならそいつらの背中に乗ればいいのさ。どいつもいい乗り物になるんだ」と仁。しかし、二人は天まで届くほどの巨大なピラミッドに圧倒されて声も出ない。加えて二人を襲ったのは、沈うつな気分だった。ピラミッドが意味するものは、墓以外の何ものでもないからだ。

 

 花崗岩の台に寝かされている仁は、二人が最初に出会った虚像の青年だった。胸から下は花々に埋められ、美しい顔は、いまにも目が覚めるのではないかと思えるぐらいに生々しい。これは虚像ではないと、二人は確信した。

「彼はつい最近まで生きていたんだね?」

 光輝は目頭を熱くさせ、顔を両手で覆いながら仁にたずねた。

「そう……、仁は君たちの結婚話を聞いて絶望し、自らの命を絶ったんだ。君と電話で話したのはこの仁だった」

 仁は抑揚をわざと抑えるようにして事務的に答えたが、二人は驚きのあまり呆然として、しばらくは声も出せなかった。

「彼は昨日の夜、君に電話をした二時間後に自殺したのさ」

「いったい何で……」

 早苗の声は震えていた。

「君に恋していたからさ」

「一○年間も会っていない私に?」

「そう、恋愛感情は想像の世界で凝縮され、エッセンスになるんだ。彼が恋していたのは彼のイメージの中にいる君さ。それに……」

「それに?」と早苗。

「仁は二人必要ないんだ。花を除けて彼の手足をよく見てごらん。右手右足を失ったまま、しかも脊髄損傷で車椅子の生活だった。この時代に、手も足も、おまけに脊髄までも再生ができなかったなんて悲劇さ。彼はある種のアレルギー体質で、たとえ自分の組織でも、新しいものを受け付けなかったんだ。まるで家族以外の人間を受け付けなかったようにね。しかし、彼は立派に再生した。僕という形でね。だから悲しむことなんかちっともない。仁は死のうと思って自殺したわけじゃないんだよ。だって彼はちゃんと生きている。君たちの友達の仁は、この僕なんだからね。仁は未来を僕に託して消滅した。こいつは僕の抜け殻さ」

 仁の言葉を聞いても、二人は遺体に近づこうとはしなかった。二人とも頭の中が混乱していて、わけが分からなくなっていたのだ。少しばかりの沈黙が続き、ようやく光輝は仁に提案した。

「僕たちはいま、仮想と現実の入り混じった世界にいるみたいだ。ここに仁の生々しい死体があって、そこに子供の仁が立っている。死体は現実だといっても、巨大なピラミッドは仮想だ。僕には何が現実で、何が仮想か分からない。君の話も分からない。一度、プロジェクションマッピングをダウンさせてから話し合うことにしようじゃないか」

「分かった」といって、仁は指を鳴らした。するとたちまちにして石室は上からガラガラと崩れ落ち、燦々とした太陽が顔を出した。ウソの世界はすべて崩れ去り、三人と六頭が広大な荒畑の真ん中にいることが分かった。ほんの五百坪ほどが黒い金属板で覆われていて、どうやらこの舞台の下に虚像を演出する装置が仕込まれているようだ。巨大な三次元スクリーンとなるフェンスは、千坪ほどの広さで舞台を取り囲んでいたが、墨色からみるみる透明になっていき、遠くに点在する家々が見えるようになり、その向こうには寂れた街もあった。豆粒のような車が遠くの道路を行き交っている、……けれどこれだって仮想現実かも知れず、仁を信じる以外にはなかった。 

「僕たちは休耕地の中にいるんだ。しかしここは、僕にとっては夏の宮殿なのさ。夏になるとこの平土間に立って、仮想現実の中でじっくりと休養し、英気を養うようにしている」

 しかし、そばに横たわっていたはずの死体が消えていた。光輝は元祖仁の遺体すら虚像だったと思い、怒りがこみ上げてきた。

「仁君の遺体はどうしたんだ。あれもウソじゃないか!」

「いやいや、しっかりとそこにあるさ。舞台の映像をダブらせて消してあるんだ。仁が昨日死んだことは秘密だからね。誰が見るとも限らないから、カモフラージュは必要だ。もちろん役所にも届けない。だって、仁は僕なんだからね」といって、仁はカニのように二メートルほど横に歩き、手招きした。光輝が仁の横に行くと、ストレッチャーに寝かされて首から下をシーツに覆われた元祖仁の遺体が確認できた。

「さあ、余興はこれで終わりだ。あの遠くに見える森が、本物の僕の家です」と仁は北を指差す。

 舞台横の農道にはリムジンが控えていていた。仁がそっちに歩き始めたので、早苗は慌てて「仏様は置き去り?」と声を上げた。仁は無言のまま指をパチンと鳴らす。すると今度は巨大な前方後円墳が目の前に出現し、リムジンが飲み込まれてしまった。

「偉大なアダムは、王様の墓に葬るのがふさわしい」

「でも蛆が湧くぜ」と光輝がいうと、仁は振り返ってニヤリとわらい、「彼の死体は存在しない。歴史からも消えるのさ。君たちも忘れてほしい。仁は死んじゃいない。仁はこの僕なんだからね」と答える。光輝はいささかうんざりして、「遊びはやめろよ!」と語気を強めたので古墳はもちろん、遺体すらもパッと消えてしまった。

「やっぱ子供だ……」

 華奢な早苗の両肩に、ヨーロッパからの長旅の疲れがドッとのしかかってきた。

 

 

 車はスクリーン壁の狭間を通過してしばらく畑の道を走り、それから鬱蒼とした森に入った。林道を五分ばかり走ると開けたところに出て、田んぼには稲が青々と育っている。今度こそは本物であろう門の前で停止し、鉄扉は音もなく開く。そこから屋敷の玄関までは五分ほどかかった。古びた洋館だが、贅を尽くしていることが分かる重厚かつ繊細な造りだ。ホテルなみの玄関に横付けすると、メード服を着た三人の女性とバトラー風の男三人、一族と思しき七人ばかりが出迎えた。

「さあ、家族と従業員のお出迎えだ」と仁。

 不思議な家族である。髪の薄い初老の男性以外はすべて子供なのだ。男性は長い顎鬚を生やし、昔風の白衣を着ていたので、専属の医者のようにも見えた。一○歳前後と思われる男女が前に出てきて、男の子のほうが「一○年ぶりだねえ」といって二人に握手を求めた。光輝は握手を交わしながら、「赤ちゃんのときに会いましたっけ……」とたずねると、少年は「仁の父親ですよ」と答える。光輝は狐につままれたような顔で、「たしか仁君のご両親は交通事故でお亡くなりになったはずですが……」といった。

「たしかにオリジナルは死んで、コピーの私は直接会ったことがないんです」

 少年はそういってニヤリとわらい、今度は手を早苗に差し出す。早苗は恐る恐る手を出して、小さな手をつまんだ。

「つまり僕の両親は僕と同い年。伯父さんが両親の死体から細胞を取り出して初期化し、クローンをつくったというわけさ」と仁は説明して、髪の薄い男性に顔を向けた。伯父はわらいながら頭を下げて挨拶し、「仁、ちゃんと分かるように家族を紹介したまえよ」と注意する。

「つまり、薄々気付いていると思うけれど、僕たちは新しい形態の家族なんだ。いや、新人類の先駆けといってもいいだろう。有性生殖によってではなく、クローンによって家族を永続させる一族。僕たちの辞書に死はない。まるで細菌のように体を分裂させ、分身を生み出していく分裂家族さ」

「すなわち、人間はようやく神々の仲間入りができたというわけです。セックスや出産などというプリミティブな行為から開放され、初期化した細胞と人工子宮という先進の機器を駆使して、まるでゼウスのように体を千切って分身をつくり出すことのできる時代が到来したのです」

 伯父は誇らしげにいった。

「姉さん、前へ出て」と仁がいうと、やはり一○歳ぐらいの女の子が一歩前へ出て、「仁の姉の彩香です」と自己紹介した。

「あなたはたしか、ご両親の後を追うようにお亡くなりになった……」と早苗。

「ええ、あのときは不幸でした。でも立派に再生いたしましたわ」

「それからこちらが僕のお祖父ちゃん、お祖母ちゃんです」

五歳ぐらいの男女が前へ出て、頭を下げた。

「父と母は五年前に立て続けに亡くなったんで、死体からクローンを再生させたんです」と伯父。つまり、仁の祖父母は仁より五歳も若いことになる。で、最後に残ったのは伯父の横に立っている白衣姿の三歳くらいの男の子で、光輝が「そちらの坊やは?」と聞くと、坊やは賢く「仁の伯父のクローンです。オリジナルはここにいるので、伯父のアバターといったほうがいいかもしれません」と答えた。

「つまり両親や姉、祖父母は死体から再生させたわけだけれど、僕と伯父は生きているうちにクローンをつくったんだ。このほうが、多くの個人データを転写させることができるんだ」と仁。

「とくに私のクローンには私の医療技術を継承させ、この新人類家族を末代まで繁栄させる義務があるんです。もちろん彼だけでなく、私を除く一家全員がクローンで生まれたアバターなのです」と伯父はいってわらう。

「ようするに、伯父さん以外は全員がクローン人間で、伯父さんのクローンは伯父さんのアバターとして代々お医者さんを続けていくんですね」

 早苗は呆れ顔して、ため息まじりにいった。

「ひょっとしてあなた方はいま、『人間とはなにか』という深い哲学的疑問に直面していらっしゃる?」

 伯父はいたずらっぽい目つきでたずねた。

「なんなんでしょうね」と早苗は戸惑い顔で、つぶやくようにいった。

「人間とは単なる生き物ですよ、地球に生息するね。アリやハチと変わることはありません。違うところは、妄想すること。妄想することで火をおこし、神様からしかられた。動物とは違うという傲慢な考えを抱いたり、動物ならすぐに忘れてしまう悲しみを長引かせたりするのも、妄想のなせる業です。しかし生き物の仲間である以上、神の前では平等だし、神から与えられた課題はみな同じだ。その課題というのは、どれだけ永く種を保ち続けられるかです。神は助けちゃくれない。みんなみんなこの星に投げ出されたんだ。お前ら世に出したんだから、あとは自分たちで工夫しろというわけです」と伯父。

「で、伯父さんはさらに考えたんだ。神様だってしょせんは人間の妄想じゃん。自分たちの妄想が暴走しないように、神様という蓋をつくっただけの話さ。でも神様なんて、一九世紀の終わりに死んじゃったんだよ。偉い人がそういっているんだ。いまは誰でも神様の代わりができる時代になったんだよ。それで伯父さんは、だったら自分が神様になろうじゃないかって決心したんだ。神様だったらなんでもしていいんだ。世界を変えることもオッケーさ。方法は問われない。感情も感傷もナンセンス。有性生殖でも無性生殖でも、分裂でもクローンでもいい。そんなのは単なる方法論だ。要は、課題をどう解決するか。人類を滅亡させない。家族の幸せを永続させる。どんなにグロテスクな方法でもいい。だいたいグロなんて感覚も、それが当たり前になればグロとは思わないしさ」と仁が付け足す。

「きっと我々の生き様はグロテスクに見えるでしょうが、現に我々は幸せなんだ。バケモノでも幸せならいいんじゃない。どうです、死んだ両親も弟一家もこうして生き返った。離別の悲しみから永遠に解放されたんだ。わが一族は永久に不滅です。これはまさに科学革命だ。愛する者を失うことがないんですからね。こんな私たちってグロテスク?」

「いえ、まあ……」と光輝はあいまいな返答しかできない。伯父と仁の力説に対して、あんたらバケモノだよとはいえなかった。

 

「さあ、こんな暑いところにいないで、冷房の効いた家の中へどうぞ」と仁の母親がいうと、おかしな家族は両側に別れて大きなドアが開かれ、赤い絨毯が家の中へ続いている。二人は一週間前の結婚式とはまったく違った戸惑いを感じながらバージンロード風の緩やかな階段を上がって、広いエントランスへ入った。エントランスにはライオンやトラをはじめとするいろんな野獣が寝転がっていた。白大理石の床に敷かれた絨毯はエンタシスの柱廊に囲まれた円形のアトリウムまで続いていて、中央に置かれた大きな丸テーブルで途切れた。昼食の時間である。テーブルの上にはすでにフルコースの食器が整えられ、「こちらへどうぞ」と二人の執事が席に案内した。しかし新婚の二人は並んだ席に着くことができなかった。丸テーブルの対面に座らされてしまい、その間を家族たちが次々に着席していく。 

 光輝の両側には仁の父親と伯父が、早苗の両側には仁と仁の姉が座った。まずはシャンパンが抜かれて次々に注がれていく。仁が立ち上がり、「光輝君と早苗ちゃんの結婚、おめでとう!」と音頭を取って乾杯が行われ、子ども会のような宴会が始まった。もちろんシャンパンはノンアルコールだ。酒飲みの光輝は少々不満だったが、すぐにワインが出てきたので機嫌を直した。ワインの味と香りはいうまでもなく、次々に出てくる料理も高級レストラン並みの味で、美的な盛り付けはフォークを入れるのがもったいないような気を起こさせる。

「しかし、有性生殖で子孫をつくらないといっても、外部から血が混じらなくて不都合はないんでしょうかね」

 光輝はステーキを味わいながら伯父さんに聞いた。

「子孫という言葉は間違っていますね。私たちは子孫をつくりません。その意味は、永久に死なないということなんですよ。仁は百年後も仁なんです。十代目であろうと仁なんです。だってアバターなんだ。親子じゃない。歌舞伎役者の襲名とは違います」

「僕が心配しているのは、仁君が代を重ねるごとに劣化するのではないかということです」と光輝。

「もちろん、多くの胚の中から、もっとも優秀だと思われるものを厳選して育てるので、そこは大丈夫です。しかしある意味では、我々のやっていることは自然の摂理に反することですから、天地創造の神々は罰を与えようと思われるかも知れません。いままで種々雑多な血が交じり合って人類は発展してきたんですからね。我々も神様を怒らせる気はさらさらない。神様のアイデアをバカにはしませんよ。たまには有性生殖を行うことを考慮に入れています」

「といいますと?」

「たとえば、仁の両親は肉体年齢として一○歳ですから、これから思春期を迎えるわけです。で、当然のこと夫婦なんですから、お互いの血統も異なります。自然発生的に生殖行動を起こすかもしれませんが不都合はない。間違って子供ができてしまえば、一家で育てましょう。動物的な行為ですが、これはゼウスのような神様だって楽しまれた遊びです。我々一族では、あくまで本人の意思を尊重しています。仁に好きな相手が見つかれば、外部から嫁を取ることだって大歓迎です」

「それを聞いて安心しました。有性生殖を拒否なさっているわけじゃないんだ。ただ仁君は死なない。あなたたち家族に死別の悲しみがないということですね」

「そうです、その一点だけだ。でも、それだけで十分。私たちは、永遠に幸せな家族なのです。これって、いままで宗教がやってきたことでしょうが、現実が変わらなければ詐欺ですよね。信じれば救われるってわけだが、それは単なる気の持ちようで逃避にすぎない。自己欺瞞だ。人間、生まれてから悲しみや苦悩が次々に襲ってきて、それらと戦いながら、最後には気力、体力も衰えて死んでいく。これが現状です。この惨めな現状を変えることができないから、皆さん信心などという逃避行動に走るわけです。麻薬と変わりませんよ、宗教は。しかし私はこの重い現実を変えました。悲劇の根本が変わるのです。愛する者は死なない。もう、トロイの女たちが嘆くことはないのです。仁の魂は次々と生まれる新しい仁に乗り移っていくのです。時空の波に乗って、永遠に人生のサーフィンを楽しむ。最初に死はありえないと決めてしまえば、そこからは死の概念も存在しません。それが新しい家族です」

「なるほど――」

 伯父さんが一族の悲劇を得意の科学で必死に乗り越えようとしたことが、光輝にはよく分かった。しかし宗教が自己欺瞞なら、クローンをオリジナルと同一視することも、それに勝る自己欺瞞ではないだろうか……、ということはこの家族も一種のカルト集団なのだろうと光輝は思った。

 

 光輝の反対側では、仁と早苗が思い出話に花を咲かせていた。

「一○年前、僕たち家族を襲った事故の一週間前のことを憶えているかい?」

「教室でのこと?」

「そう、僕がクラスの級長に選ばれたときのことさ」

「ええ、憶えているわ」

「みんなが選んでくれたのは嬉しかったけれど、本当は級長なんかしたくなかったのさ。そういうタイプじゃないし、照れ屋でもあった。なのに君は僕の肩に手を置いて、良かったね、良かったねってしつこく僕の体を揺すってさ……」

「うるさいな! って私を怒鳴りつけた。驚いちゃったわ」

「僕は見かけによらず短気なんだ。で、君はそれ以来僕に近付こうとしなくなった。僕を見る目つきもひどく怯えていた。ああ、いまでも忘れない、君のあの目つき」といって仁は苦わらいした。

「きっと私もショックだったのね」

「僕はすぐに謝ろうと思ったんだ。しかし謝る機会を逸したのさ。ぐずぐずしているうちにあんな事故に遭っちまったからね。で、いま謝りたいんだ。繊細な女の子の心を傷付けてしまった。僕は永遠の命を授かったから、この悔いは永遠に続く。なら、こんな機会に謝らない手はない」

「あなたって私よりも繊細な人ね。私はほとんど忘れていた……」といって、早苗は愛想わらいをした。

「君は僕が好きだったんだろ?」

「うーん、たぶんね」

「でも、あの年齢の女の子は早熟だけれど、男の子はあまり異性に興味がないんだ。寄ってこられると、うざいと思ったりする。君も相当うざかったよ」といって仁はわらい、「ごめんね、怒鳴ってしまって――」と続けた。

「ぜんぜん気にしていないわ。昔のことだもの」

「君の軽い受け答えには少し不満だが、嬉しいよ。これで長年の蟠りは解消した。で、これからの話に移ろう。いまはようやく僕も精神的に成熟した。だから君の希望に応えることができると思う。僕も君が好きだ。僕は君を愛している」

 藪から棒に少年から愛を告白されて、〝なにいってんだ、こいつ〟と早苗は思わず噴き出しそうになったがグッと抑え、「私、つい最近あなたの親友と結婚したばかりですわ」とすまし顔でいった。

「そんなことは分かっているさ。でも、僕は君が好きなんだ。愛を告白せずにはいれないのさ。だからといって、いますぐ光輝と別れて僕と一緒になろうなんていわないさ。なにか別の方法を考えるしかない。君にはいいアイデアがあるかい?」

「さあ」といって、早苗は仁の顔をまじまじと見つめた。仁はあのころの仁と瓜二つの美少年だった。あの頃、早苗は夢にまで見るぐらいに仁に憬れていた。仁は、早苗にとって初恋の人だったにちがいない。しかしだからといって、大人になった早苗が子供のままの仁を恋愛の対象として考えるわけはなかった。

「あなたはたしかに仁君だけれど、私の思い出の中の仁君にしかすぎないわ。きっと大人になったあなただったら、もう一度恋してしまうかもね」

「それなら君はすでに大人の僕と会っているよね。あの死体は一○年後の僕の姿なんだ。一○年待ってくれれば、僕は生きた姿で君の前に立つことができるよ」

「なら、一○年後に現れてくださいな。光輝と私の夫婦関係がどうなっているかも分からないから、請うご期待」といって、早苗はわらった。

「バカだね君も。一○年後には僕の恋の炎も燃え尽きてしまっているさ」

「ならどうしましょう」

「いますぐ君は離婚して、僕とここに住めばいい。一○年後に僕が肉体的に成熟したら結婚しよう。この家にいるかぎり、僕たちは永遠の夫婦になれるんだ」

「あら、さっきは光輝と別れろとはいわないって……」

「でも、本音は別れてほしいんだ」

「困ったお坊ちゃま……」

「僕は子供じゃないよ!」

 仁が大きな声を出したので、周りの連中がフォークを止めて二人に注目した。早苗の隣で二人の会話を聞いていた姉が、「仁ちゃんお静かに」とたしなめ、「私、いいアイデアを思い付いたわ」といって介入してきた。

「仁ちゃん。あなたは二○歳で結婚しないで、三○歳で結婚するの。そのお相手はここにいる早苗さんだけれど、彼女はすでに人妻だわ。なら、どうしましょう。簡単よ。今日、早苗さんから皮膚の細胞を少しだけいただいて、伯父さんにクローンをつくってもらうの。みんなで早苗さんのアバターを育てて、彼女が成人したら仁ちゃんと結婚させる。早苗さんは二人に分裂するけれど、一人は光輝さんの奥さんだし、一人は仁ちゃんの奥さん。これならウィン・ウィン・ウィン、三方良しということになるわ」

「そいつはグッドアイデアだ!」と仁は叫び、ポンと手を打つ。

「ちょっと待ってください。私のクローンですか?」

 早苗は驚いて聞き返した。

「そうです。あなたのクローンです。伯父さんの手にかかれば、簡単なことですわ」と姉。

「でも、私のクローンって、いったいなんなんです? 私の子供? 私の分身? 私自身?」

「私はクローンですけど、仁の姉です」

「僕はクローンだけれど、仁そのものだよ」

「でも、伯父さんのクローンは?」と早苗はいって、伯父とその分身を睨みつけた。

「僕は仁の伯父です」と三歳の伯父が答える。髭の伯父はアバターの頭を撫でながら、「要するに、本人であるか本人でないかというのは感覚の問題なんです。自分がスーパーマンだと思えば、そいつはスーパーマンなのさ。この可愛い伯父さんはアバターだから、自分が仁の伯父だと思っている。老骨の私はオリジナルだから、仁の伯父だと思っている。パソコン上に同じデータが二つあるのと同じです。中身が同じであれば、どっちも正しいのさ。ただ、少しばかり時間的なズレがあるけれど、周りの者がそれを認めていれば家族間の齟齬もなく、全員が死の悲しみから開放され、幸せになれるんです。ほら、伊勢神宮では定期的に神殿をリニューアルするでしょ。だからといって、神殿の伝統的な価値が下がるわけじゃない。みんなが正しいと思えば、誰も文句はいわないんです」と説明した。

「じゃあ、仁君は私のクローンを私だと思うわけね」と少しばかり不満そうに早苗はたずねた。

「ああ、僕は仁のクローンだけど仁だよ。だから、君のクローンも君だ」

「おいおい、いったいなんの話をしているんだい。君のクローンって?」

 対面から光輝が声を上げた。

「いま仁君が私にプロポーズしたのよ。仁君はまだ子供だし、私はもうあなたと結婚しているからって丁重にお断りしました。それなら、私のクローンと結婚したいんですって」と早苗は怒ったようにいう。

「君のクローン? そいつはいったい君のお腹の中に宿っている子供とどんな関係になるんだ?」

「妊娠ですって!」と家族全員が驚いた顔をする。

「いえいえ、生理が遅れているだけの話ですわ」と早苗が訂正すると、全員がホッとした顔付きに戻る。光輝は席を立って早苗のところに足早にやってきて、耳のそばで「まさか君は、仁君のために君の細胞を提供するつもりじゃないだろうね」とささやいた。早苗はひそひそ声で「ぜったいいやだわ」と答える。二人は子供をつくることを楽しみにしているのだから、クローンなどというややこしい生命体が出現することは断じて反対だった。

「そろそろおいとましようよ」

「そうね。退け時だわね」

 二人は目配せして早苗は立ち上がり、光輝は早苗の肩に手を回した。

「そろそろ、おいとまさせていただきます。今日はお招きありがとうございました」と光輝はいって、二人はお辞儀をする。

「いえいえ、それは困りますな」

 二人の伯父が立ち上がった。

「早苗さん。お帰りになるなら、あなたの組織の一部を置いていってください」と髭の伯父。

「いえ、お断りしますわ」

「なぜです。耳かき程度でいいのです」と幼児の伯父。

「耳くそだろうが鼻くそだろうが、妻のクローンはつくってほしくないのです」

 光輝は強い口調でいった。

「僕の一生のお願いなんだ」と仁は食い下がる。

「私のクローンはぜったいノーです」

 早苗もキッパリと断った。

「なら、早苗さんは光輝君といますぐ別れて、この家に留まるべきだ」

 髭の伯父は命令口調でいう。

「ならこうしましょう。仁君がここでいますぐパッと青年になったら、留まりますわ」

早苗はそういって、わざとらしくニヤリとわらった。

「伯父さんはマジシャンじゃないもの、それは無理だよ」と仁。

「いいや、私の辞書には不可能という言葉はない」と幼児の伯父が大きなことをいう。

「私たち家族を不幸にしないでください」と仁の母親。

「私たちは不幸に耐えられない家族なんです」と仁の姉。

「私たちの幸せには、早苗さんが必要なんです」と仁の祖母。

「いいかげんにしてくれ! 僕たち夫婦には僕たちの夫婦の幸せがあるんだ。それを犠牲にしてまで、君たちを幸せにする義務なんかありゃしない」

 とうとう光輝は爆発して、早苗の手を引っ張ると、玄関の方向に歩き始めた。

「待ちなさい。私たちには早苗さんの肉片が必要なんだよ。それはどういうことを意味しているか分かっているかね」

 悪魔のような髭伯父の言葉がホールに鳴り響いた。するとそれまでいたる所で昼寝をしていたライオンやヒョウ、トラたちがむっくりと立ち上がり、一斉に吠え始める。

「ヤバイ、駆け足だ!」

 二人は手を繋ぎながら、玄関に向かって全速力で走り出した。野獣どもが二人の後を追いかける。玄関を走り抜け、遠くの門に向かってひたすら走るが、茂みのいたるところから獣たちが飛び出してくる。

「もうダメだわ!」

 二人は走ることをやめ、庭の真ん中で抱き合ってうずくまった。野獣たちが二人を幾重にも取り囲んだ。

「君、少しばかり肉片を分けてやれよ」

 早苗はあ然として、光輝の顔を凝視した。

「あなた、本気でいっているの?」

「ライオンに手を差し出すんだ。死ぬよりはマシさ。腕の一本や二本、再生できる時代なんだからね」

「あなたって……」

 早苗は失望し、いわれるままに大きな雄ライオンに手を差し出した。ライオンは口を開けて早苗のか細い手をパクリと飲み込む。ライオンのザラザラした舌の上に、なにかフックのようなものがあったので、早苗は不思議に思いつつも指をかけて引いてみた。すると屋敷も森も庭も門も野獣たちも、すべてが一瞬にして消え去り、あたりは荒れた畑に一変した。

「ハハハ、こいつもイルージョンだったのか」

 光輝は大声でわらいながら、吐き捨てるようにいった。

 早苗は立ち上がると光輝に目もくれず、一人で凸凹の畑を歩き始めた。遠くにうっすらピラミッドを見たような気がしたのだ。

「早苗、どこに行くんだ」

白馬の騎士のところ」

 光輝は疲れ果て、早苗の歩みに付いていけなかった。ピラミッドは逃げ水のように消えたが、ストレッチャーが置かれていて、その上に成人したばかりの美しい青年が寝かされていた。それは仁だった。早苗はその唇に薄い唇を合わせた。すると仁の閉じた目から一筋の涙が流れ出た。早苗が唇を離すとゆっくりと目を開き、しばらく彼女を見つめてから起き上がって強く抱擁した。

「さびしい人。私しかいなかったんだ……」

「ああ、ずっと君だけだった――」

 仁はストレッチャーから降りると早苗を軽々と抱き上げ、あぜ道のリムジンに向かって歩き始めた。

「やられた……」

光輝は立ち尽くし、二人の後姿をただ呆然と見つめるばかりだった。

                                    (了)

 

 

 

 

ホモ・ムイシュキン

 

私たちは遠い昔から隠れて棲んでいた

私たちは追い出されたわけではないのです

私たちは彼らのために出ていったのです

彼らは私たちをバカな人間だといいました

私たちは蛇も毛虫も羊も犬も、そして彼らも同じ家族だと思っていました

草たちも仲間でしたが、生きるために仕方なく、涙を流しながらむしったものです

私たちは普段草しか食べない人間です

たまには肉も食べますが、生きた動物を殺すことはしません

みんなみんな仲間ですから、死んだ仲間を見つけると、腐っていても喜んで食べます

私たちも、死んだときは誰かに食べられたいと思うものです

私たちはいつも、誰かを助けるために生きているのです

自分の屍も、誰かの命をつなぐためにあるのです

ところが彼らは違う思想の持ち主でした

彼らは死んでも生き続けたいと願うのです

せめて名前だけでも残していきたいのです

彼らはそのために自分を大きく見せようとするのです

彼らは縄張りをどんどん広げていきました

私たちの住んでいた所も、自分たちのものだといいました

私たちは喜んで立ち退きました

私たちは誰かが喜ぶのでしたら、死んでもいいと思っていたからです

私たちは誰かのために生まれてきた人間なのです

でも彼らが飼っている家畜とは違います

私たちは喜んで引き下がるのです

嫌がらずに死んでいくのです

なぜならそれは変な遺伝子で

私たちの体にたくさん流れているのです

ほんのちょっとだけ、彼らの体にも流れていて

ときたまおかしなことをしでかすのです

かれらにとってはおかしなことなのです

 

 

 

響月 光(きょうげつ こう)

 

詩人。小熊秀雄の「真実を語るに技術はいらない」、「りっぱとは下手な詩を書くことだ」等の言葉に触発され、詩を書き始める。私的な内容を極力避け、表現や技巧、雰囲気等に囚われない思想のある無骨な詩を追求している。現在、世界平和への願いを込めた詩集『戦争レクイエム』をライフワークとして執筆中。

 

 

響月 光のファンタジー小説発売中

「マリリンピッグ」(幻冬舎

定価(本体一一〇〇円+税)

電子書籍も発売中

 

 

『マリリンピッグ』とイデアの世界Ⅱ

 

 『マリリンピッグ』では、主人公の少女がイデア(ものごとのあるべき姿)の世界に足を踏み入れる場面がある。そこで幼い頃に死んでしまった両親と幸せに暮らすイデアの自分に会って勇気を与えられ、地球の平和に向けて再び走り出し、マリリンの丘を目指す。

 プラトンが言うには、人間の魂はかつて天上のイデアの世界にいたが地上に転落し、窮屈な肉体に閉じ込められ、ほとんど忘れてしまったのだという。しかし地上の物事はイデアの模倣だから、昔見ていたイデアをおぼろげながら思い出す。そこで、かつて見ていたイデアを「想起」することが、真の認識に繋がるのだという。

 ニーチェは『悲劇の誕生』で、「アポロ的」と「ディオニュソス的」という概念を唱えた。「アポロ的」は静的・知的な秩序や調和を表し、「ディオニュソス的」は陶酔的、創造的、激情的な動きを表している。プラトンの言うイデアは極めて「アポロ的」なものであり、窮屈な肉体からの解放は極めて「ディオニュソス的」なものだと言える。

 この二人の偉大な哲学者は、人間の本質を見抜いていたのだと思う。ノーベル賞の先生からそこらの兄ちゃんまで、誰もが自分の将来にイデア的な調和(落としどころ)を「想起」し、そこに向かってディオニュソス的な情熱をもって努力する(怠け者は?)。これは集団になっても変わらない。社員は会社のイデアを求めて一丸となり、一心不乱に努力する(??)。大臣たちはいろいろ叩かれながらも、国の理想に向けて努力する(???)。もちろん、ゲリラやテロリスト、革命軍や侵略国家、マフィアにいたるまで、それぞれのイデアを持ってディオニュソス的に戦っている。かつて紅衛兵毛沢東)は「造反有理」というスローガンを掲げたが、これはイデア(道理)に向かって謀反することは正しいことだという意味で、マルクス主義というイデアを実現するため、ディオニュソス的な文化大革命に突き進んだ。

 驚いたことに地球上の全生物は、知恵もないのに各々のイデアに向けて蠢き、敵対者を蹴散らして進化を遂げていく。きっとそれぞれの理想を本能的に想起しているに違いないが、そのイデアは「自己繁栄」を機軸にしている(例外的に共存・共生もある)。

 『マリリンピッグ』は、すべての生物が「平和」という統一的なイデアに向けて、ディオニュソス的に行動する夢物語だが、地球規模の統一イデアといえば、「平和(核)」以外にも、人間の引き起こした温暖化への対応が挙げられる。温暖化対策については、もはや夢物語が夢物語に終わって笑って済ませるような時代ではなくなっている。経済優先主義の現代人は、金儲けや快楽消費などに精一杯の毎日だが、心中にはすでに真珠の核となるプラスチックの異物が入り込んでいるのに気付いている。こいつを大きな真珠(イデア)に変えるには、ディオニュソスの力を借りる以外に手はないのだ。運動を盛り上げるには、ジャンヌ・ダルクのような旗振り役が必要だ。スウェーデン少女(グレタ・トゥンベリ)の国連での演説には小泉環境相も感銘を受けたという。少女の運動が、地球規模に盛り上がることを切に願っているし、カリスマ政治家である小泉氏の今後の活動にも期待したい。

 

 

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