詩人の部屋 響月光

響月光の詩と小説を紹介します。

エッセー「神様の想定外」& 詩ほか

エッセー
神様の想定外

 仏教では修行者が食を絶って大日如来と結合する「即身成仏」や、飢餓などで苦しむ人々の救済を目的に、高僧が生きたまま土に埋められる「入定(永遠の瞑想)」という自ら命を絶つ行為があった。両者ともミイラになるので、即身成仏は空海が有名だし、入定は「即身仏」として全国で17体あって祀られている。当然のことだが、欧化主義の明治政府はこれらを禁止した。話は飛ぶが、カフカに『断食芸人』という短編小説がある。観客がみんな飽きて素通りするのに断食し続け、ついには死んでしまう芸人の物語だ。

 一方、日本の入管施設ではウィシュマさん以外にも多くの収容者が亡くなられているけれど、その一人のナイジェリア人は2019年にハンガーストライキで亡くなっている。窃盗などで実刑を受けたとはいえ、帰国を拒んだため仮釈放後長期にわたり収容され、仮放免が許可されなかったことへの抗議だった。
 
 これらには共通点があるだろう。どれも自分の意思で食を断ったということ。その結末は死であることを承知しての行為だ。しかし、「即身成仏、即身仏」と「断食芸人、ハンスト」には共通でない部分もあるだろう。「即身成仏」は大日如来と結合できるし、「即身仏」はミイラが残って信仰上の仏として生き続けることができる。これらは仏となることを願って餓死するのだ。天国へ行けると信じて自爆するイスラム過激派と似てなくもないが、人の命を奪うか奪わないかの違いはある。※

 「ハンストは」、為政者へのプロテストとして相手を脅す行為だから、死を覚悟しても死にたくはない。死んでしまったら自分の負けで、餓死は目的の扉ではない。できれば扉を開けたくない。その一歩手前で、相手の腰を折るのが目的だ。『断食芸人』は小説だから色々な解釈ができるので、一般的なことを言おう。ヨーロッパでは20世紀をまたぐ頃に興行されていた芸らしく、土地の人間が交代で監視しながら檻に入って定められた期間断食し、決められた日数(小説では40日)断食すれば投げ銭をもらえるといったものだ。未踏峰登山などと同じ挑戦ジャンルで、失敗すれば命はない。

 小説では、観客に飽きられた芸人が無期限の断食に挑戦して死んでいくことになるが、記録を更新して生還すればギネス記録に認定されて栄誉を獲得できるだろうが(現在382日が認定)、危険なので今は認定していないという。一見、「餓死」には二通りあるように見える。死ぬために食を絶つものと、生きるために食を絶つもの(もちろん食う物がなくて死ぬのも餓死だ)。

 しかし、「即身成仏」や「即身仏」は自殺とは違う。自殺は自分の生を滅する行為だが、これらは仏として自分も生き、その力で数多の人々をも生かそうとするもので、結局は生きるために食を絶つものなのだ。つまり、「即身成仏」も「即身仏」も「ハンスト」も「断食芸人」も、生きるための行為ということだ。

 これは人間から離れて、地球を考えてみると分かりやすくなる。地球上の生物は死ぬために生きているのではなく、生きるために生きている。だから飢えや事故で死ぬのは無念の死ということになる。ということは、生きることに嫌気がさして死ぬ自殺は、自然の摂理にそぐわない行為と言える。カフカの『断食芸人』では、芸人が「自分に合った食べ物を見つけることができなかった」と言っているが、これは自殺と同じ絶望死の範疇に投げ込むこともできるだろう。カフカの意図は分からないが、「自分に合った世の中を見つけることができなかった」と言って自殺する人間は五万といる。「この世は不可解だ」と言って華厳の滝に飛び込んだ藤村操(漱石の教え子)もその一人だ。

 しかし自然の摂理が「生きるために生きる」のなら、きっと「死ぬために生きる」も摂理に違いない。自然の摂理が「ほかの生物を殺さなければ生きていけない」ことになっているからだ。食われる生物は、生きるために生きていると同時に、自分の意思に反して死ぬためにも生きていて、捕食者の生存を支えている。つまり「生きるために生きる」は神様の意志ではなく、あくまで生き物たちの意思で、彼らは「死ぬために生きる」ことのないよう、壮絶な営みを繰り返している。

 こんな地球のシステムを創造したのが神様だとすれば、ずいぶん残酷な神だが、神などいないと考えれば、単なる自然現象の一部ということになる。しかしこのシステムを残酷だと感じるのはせいぜい人間ぐらいで、一部の高等動物を除いては仲間の死を悲しむことすらないだろう。多くの生物が単に生きていて、単に食われていくだけの話だ。そこには「無念の死」などという感覚はさらさらない。

 だから理不尽な神様がこの星を創造したのなら、いまの地球は想定外の出来事だったに違いない。生き物たちは本能のままに食らい、食われていれば良かったはずなのに、生物は色々な種に分化して進化し始めたからだ。そして、きわめて本能的に、自分は死んでも種を絶やさないという意思すら持つようになった。もちろん、種が進化したっていずれ絶滅すれば、同じ円環を堂々巡りするだけで想定外というわけではなく、神様も安心できたろう。

 神様にとっての想定外は、ヒトという猿が「脳みそ」という臓器を進化させてしまったことに違いない。それまで生態系は、地球という星の表面で起きている生物界の現象だった。「驕れる者はいずれ滅びる」という法則に則り、栄える種は栄え、滅びる種は滅びればよかった。ところが人間は、滅亡する前に地球を支配してしまった。神様が創った星を、人類が乗っ取ったという構図になる。しかし、いずれ人類が滅びれば、「想定外」は解消される。人間は一時的に地球を支配しただけで、また元に戻るだけの話だ。

 それが証拠に、地球生態系の頂点に君臨した人間は、ほかの生物を食らいながら生き延びてきたが、その餌を獲得するために同種間で壮絶な縄張り争いを繰り返している。きっと胃袋に何も入らなければ、共食いだってするだろう。これは、神様が描いた設計図通りで、壮絶な活動を繰り返しているほかの生物と同じく、自然の一部として完全にコントロールされているということなのだ。人を含めた生物の悲しい性だ。

 しかし、もし神様がいまだに「想定外」だと思っているなら、それは人間が「脳みそ」の進化過程で、「愛」も進化させてしまったからに違いない。人間の「愛」は神様の設計図から逸脱し、納まりどころが悪くてぶらぶら揺れている。最初は生殖のための原初的な愛が、餌を確保するための家族・集団的な愛に進化し、今では「生物愛」や「人類愛」、「地球愛」というところまで進化してしまったが、そのすべてが細い糸で繋がっていて、連凧のように揺れている。この連凧は流行り廃りのある玩具のようなもので、時代や状況によって上の数枚が増えたり、減ったりする。加えて強風でも吹いて個人の生存が脅かされるときには、たちまち糸が引っ張られてエゴの中に格納され、「想定内」に戻る。

 そうなった場合は、「弱肉強食」という神様の設計図に従って活動することになる。各地で勃発する戦争は餌の確保のための縄張り争いで、人間は生物の本能に従って行動している。民族愛や国家愛は、猿の「集団愛」と同じレベルだ。一方で、個人の生存が脅かされない地域の人々は、悠長に連凧を揚げて、やれ「人類愛」だとか、やれ「地球愛」、やれ「ヴィーガンベジタリアン)」などと宣っているわけだ。しかし彼らだって、環境が激変して個人の生存が脅かされるようになれば、たちまち連凧を胸の内に折り畳んで自己主張を始めるだろう。そうして生物の歴史は連綿と繰り返されていくのだ。

 しかしいまの人間は、神様を「想定外」と思わせなければならない時期に来ているのだと思う。進化した人間の脳みそは、「人類は滅びるかもしれない」という共通認識を抱くようになった。その大きな原因の一つは「核兵器」である。脳みその進化で科学も進化し、瞬時に人類を滅亡させるような兵器も出来てしまった。仮に人間が核兵器を使用して滅亡するようなことがあっても、神様の設計図からすれば「想定内」なのだ。

 世界大戦後の米ソ冷戦下の時代に、『渚にて』(1959年、スタンリー・クレイマー監督)という映画があった。全面核戦争後に、難を逃れた米原潜が母国に戻るが、生存者を一人も発見できなかった。彼らはノアの方舟よろしく、まだ死の灰が到達していないオーストラリアに向かうが、いずれそこも汚染され、人類は滅亡するといったあらすじだ。新冷戦時代(第二次冷戦)と言われる現在でも、当時の危機的な状況は変わっていないし、技術の進歩でむしろ危険度は増している。

 しかし、進化した人間の脳みそは「人類を滅亡させてはいけない」とも考え始めている。生物はたとえ本能だろうと、種の存続に命をかける。いわんや人間をや、だ。この望みを実現するには、神様の意図を覆させなければいけないことになる。ところが神様の設計図は、地球生物の血液の中にDNAとして流れており、一筋縄で行くものではない。以前『ホモ・デウス』(ユヴァル・ノア・ハラリ著)という本がベストセラーになったが、少なくとも神様の設計図通りに人間が動いているうちは想定内で、神様(ゼウス)に代わることはないだろう。当然のことだが、僕が「神様」と言っている神は冷厳な創造主(自然の摂理)であって、人間が想像する慈悲深い神でも横暴なゼウスでも、喧嘩好きなそこらの神でもない。

 人間が神様に「想定外」と思わせるためには、少なくとも人間だけは「地球生態系」という設計図から抜け出す必要がある。設計通りなら、ほかの生物と同じことを繰り返すに留まるからだ。これは神様の領域に挑戦して神様に勝つことを意味するが、神様と同じポジションに立つことでも、創造主が二人現れることでもない。僕は『ホモ・デウス』のような驕れる人間をイメージしてはいない。ロケットが地球重力から解放され宇宙に飛び出すように、人間だけが神様の手中から解放されて、独り立ちするという意味だ。人間が生態系から独り立ちしたって、ほかの生物の生態系は変わらないし、「弱肉強食」という神様の基本方針も覆されることはないだろう。

 人はしばしば「天国」を夢見るが、そこは恐らく「地球生態系」という神様の設計図から解放された場所だと思っている。そこに「弱肉強食」という概念は無く、諍いは雲散霧消し、平和で満たされている。「愛」を進化させてしまった人間は、家族や仲間が「弱肉強食」の餌食になるなどして悲しみを共有し、ギリシア悲劇のずっと前から「地球生態系」の居心地悪さを感じてきたに違いない。だから「天国」やら「イデアの世界」やらが現代人の脳裏にもしばしば現れ、空想の中に引き込まれてしまう人たちもいるわけだ。

 しかし「天国」は空想かも知れないが、空想だと決めつけた時点で人間は思考停止に陥ってしまう。人間は昔から「天国」へ行くことを想定して、改心したり、善行を積んだり、免罪符を買ったり色々努力してきたわけだ。現世に不満を持つ人間は、現世で居心地の悪かった部分を解消してくれるのが「天国」だと思っているし、現世に満足している人間は死後も同じような境遇にありたいと願うだろう。

 それでは「天国」など信じない現代人が現世でなにをしているかというと、達成できていない課題を解消しようと努力しているわけだ。これはライオンがほふく前進して獲物に近づくのとは違う。ライオンは本能的に狩りの体勢を取っていて、獲物にありついた自分をイメージしているわけではない。だから獲り逃がしたあとも、涼しい顔をしている。しかし人間は明らかに、「天国」なり「イデアの世界」なりの理想的状況をイメージしながら、それを現実社会に具現化しようと努めている。「天国」というバーチャルな世界を形にする努力は人間だけのもので、それだけが唯一、神様の掌から逃れる隙間なのだ。一縷の隙間をこじ開けるには大きな力が必要だが、ピラミッドを見た人間なら、それは可能かもしれないと思うだろう。古代の祖先が一致団結して造ったのだから。

 もし人類が連綿と続いてきた「地球生態系」の軛から逃れたいと思うなら、危機感を共有する79億もの人間が一つとなって、創造主たる神様に対峙しなければならないだろう。ガキ大将の支配から逃れようとする虚弱少年のように、勇気をもって立ち向かわなければならないが、相手はジャイアン以上の巨人だ。一致団結したって勝てるかどうかは分からない。しかし想定外の進化を遂げた「愛」と、旧態依然とした弱肉強食システムの間に齟齬が生じていることは事実だし、核兵器が人類滅亡のトリガーになり得ることも事実なのだ。

 虚弱な人間たちが巨人に対抗し、巨人の圧力から解放されるには、ワンランク上のステージに這い上がらなければならない。その場所は、人間だけが神様の支配から解放された舞台に違いない。きっとそこは、ほかの生物を食らう「弱肉強食」からも、仲間どうしが食いあう「共食い」からも解放された場所に違いない。異常に進化した「愛」と、異常に進化した「脳みそ」を駆使すれば、不可能ではないはずだ。豚肉が培養肉に置き換わる時代なのだから……。

 仏教の華厳経に「一即多 多即一」という言葉があるが、「あらゆるものは無縁の縁によって成り立っている」といった意味らしい。自分は孤独だと思っていても、79億もの人間と見えない糸で繋がっている。その糸は連凧のように弱々しい糸だ。しかしほかの人間たちが消滅すれば糸も消え、自分の存在意義を失ってしまう。最後の一匹となったニホンオオカミは、恋人にも仲間にも出会うことなく、自暴自棄の中でさみしく消えていったに違いない。しかし反対に、街に爆弾を落とした飛行士は、無念の死を遂げた市民たちと「有縁(うえん)の縁」で繋がってしまう。彼の行為は「共食い」のヴァリエーションで、時たまフラッシュバックとなって死ぬまで悩まされることになる。

 ある民族やある国を消滅させて自分たちだけが繫栄しても、同じメカニズムを繰り返すだけなら、やがてはすべてが消滅する。人間たちは、冷酷な神様の設計通りに動き回っているに過ぎず、その先には設計通りの「絶滅」が控えているだろう。神様のレッドデータには人類も含まれている。そのカタログから抜け出すには、異常に進化した「愛」と「英知」による絶妙のコンビネーションで立ち向かう以外に方法はない。そしてそれが成功した暁には、きっと神様の指の隙間にチラチラ見え隠れする宇宙人たちも諸手を挙げて飛び出してくるだろう。彼らは確実に、人間を超えた愛と英知で神様に勝った連中なのだから。

※ 基本的な願いは「即身成仏、即身仏」も「過激派」も変わらない。両者の願いは世界を救うことにあるのだから。お坊様は仏頼みで、過激派は武力で、と手段が違うだけだ。過激派をいくら糾弾しても、彼らは「創造的破壊」を実行していると反論するだろう。



鬼軍曹の死

(戦争レクイエムより)

自分が埋めた地雷を踏みやがった
五メートル浮き上がって
どでかい音が鼓膜を破った
首はもげて八メートル先の池に落ち
黄色いカエルを真っ赤に染めた
右足は付け根から十メートル飛ばされ
右手はもげても軽機銃を離さず
ドドドと撃ちまくりながら
敵陣十二メートルをひとっ飛び
銃剣がラワンの太っ腹に突き刺さり
台尻からキラキラ血が滴り落ちた
首無し胴体はそいつを見ることもなく
二階級特進してじたばたせず
泰然として砂地にソフトランディング

少尉殿は横目でそれを見ながら
死んだ奴は知らんとばかりに
奪還だ、奪還だと叫びながら
鬼の顔して部下たちを引き連れ
ジャングルの中に消えていった
やがて銃声が遠のくと
野良犬が三匹やってきて、キョロキョロと
もげた右足をウーウー引っ張りあいながら
仲悪く森の中に消えていった

最初に来たのは村の男でキョロキョロと
軍曹殿のポケットをまさぐって
時計や財布を巻き上げていった
次に来たのはバカンスにやってきた
ずっと昔に火あぶりで死んだ
北方の魔女たちだ
ちょうど昼時で腹が減ってたから
何世紀ぶりに魔女会でもしようということになり
沼から生首と赤ガエルを捕まえてきて
巻き付いてた血塗りの手拭いを
法王のマントみたいに
カエルに着せて仲良く並ばせ
どこからか大鍋を持ち出し沼の水を入れ
マングローブの根っこに火を付けた

湯加減が良くなったところで
まずは生首で出汁を取ろうと
魔女の一人が首っ玉を掴もうとしたら
生首が歯をむき出して手を嚙んだので
イテテと笑いながら手を引っ込めた
往生際の悪い奴だねえ
どうせあんたは腐るだけだろ
だからといってお前に食わす理由はないさ
仲間の勝利を見届けてからあの世に行きたいのさ
見るなよ、見ないほうがいい、見るべきじゃないさ
あんたの仲間は今日明日にも玉砕するんだからさ
だからといってお前らに食わす理由はないさ

ハハハと嗤いながら両手で鉄兜を引っ掴み
眼ん球を海のほうに向けやがった
そこには白い砂浜が黒くなるほど
地元の幽霊どもが蟠っていやがった
みんなみんな貧相な顔で飢えていて
スープができるのをじりじり待ってるんだ
首のない奴が両手で首を抱えてやってきて
軍曹殿お久しぶりです
こいつはあんたの刀で刎ねられた
おいらの愛しい首っ玉ですぜ
もう用なしなので
あんたと一緒にお鍋に放り込んでくだせえやし

小さな子供が十人しゃしゃり出て
お父さんお母さんを殺されて
おじさんたちが食べ物を残らず持ってったから
腹が減って死んだんだよ
早くおじさんの首っ玉スープを飲ませておくれよ
このままだと腹ペコで死んじゃうよ

子供が引っ込むと
服を裂かれた四人の娘がやってきて
無言のまま涙を流している
おいやめてくれよ、堪忍してくれ!
娘たちが二手に分かれて引っ込んだ間から
振袖姿の女が忽然と現れ
白々しく眺めている

嗚呼出征前に盃を交わした俺の女房
ヘエ空襲でねえ、お釈迦様でも知らんぜよ
私は晴れ着を出しておぼこに戻り
これから天国に行こうと思うんです
私のわがまま許していただけますか
許すも許さんも誰も地獄なんざ行きたくないさ
それに俺だって天国へ行けるかもしれんしさ
お国のために頑張ったんだ
准尉殿は死んでも鉄砲を撃ち続けました

すると魔女どもも村人も女房までもがナイナイナイと大爆笑
挙句に襟から逆三行半を取り出して軍曹殿のオデコに貼り付け
天国でいい人を見つけるのよと宣った
軍曹殿はそのイメージギャップに唖然として
軽く軽く軽々しく、天に召される女房を
重く重く重々しく、上目遣いに見送った
いつも寝る前にあいつの写真にキスしてやったのに
まあ俺の脳味噌をすすらなかっただけでも御の字か…

さあさあサイケデリックな大饗宴の始まりだ
魔女どもは箒に乗って空中を乱舞し
爺さん婆さんから小っこい子供まで
空中浮遊で過激に踊りまくる
みんなお祭りも喧嘩も好きなんだなあ…

さあいよいよ御首様の浸礼儀式が始まるぞ
マッチョの若者が二人、軍曹殿の鉄兜を厳かに取り去り
どっからかくすねた銀のトレイに首級を乗せ
坊主頭の上にカエル法王をちょこんと乗せる
二人がそいつを肩まで上げると魔女どもが降臨して
噛みつかれないよう、代わりばんこにキスを始めた
どいつもこいつも婆さんばかりで
気持ち悪いったらありゃしない
お次はゲリラ連中が首実検
こいつだこいつだと口々に
唾をペッペと吐き付けやがった
食材を手荒に扱うな!

さあいよいよ首っ玉の投入だ
トレイが高く掲げられると
ぐつぐつ煮えたぎる泥水が目の前に飛び込んでくる
驚いたカエルが跳びはねたが両足を縛られよって
かわず飛び込むお湯の音 ジャッポン!
おいおい本気でおいらをぶっ込むつもりかよ
五右衛門さんじゃないんだからよ

万事休すと思ったとたん
敵兵が五人ほどジャングルから飛び出して
敗残兵を探し始めたので首煮会は散会じゃ
幽霊どもはどこかへ消えちまった
九死に一生を得るとはこのことさ
ところが青二才の新兵が
軍曹殿の首っ玉を見つけてニヤリと嗤い
ジャップ!と吐き捨て
思い切り蹴りやがった

お味噌の少ない軍曹殿でも
さすがに五メートルしか飛ばなかったが
仲間の青二才がそいつをサッカーみたいに
波打ち際までドリブルで転がし
最後は海に向かって思い切り蹴りやがった ジャップン!

軍曹殿の鼻っぱしらは完全に折られたが
それでも鍋の具材になるよか百倍マシだ
軍曹殿はさざ波に弄ばれながら
走馬灯のようにクルクルと回転し
群がる雑魚を振り払いながら
涙ながらに故郷の歌を口ずさんだな

名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 首玉一つ
異郷の岸を 離れて
汝はそも 波に幾月
独り身の 浮き寝の旅ぞ
海の陽の 昇るを見れば
たぎり落つ 異郷の涙
思いやる 八重の汐々
異郷の鬼は 故郷の仏
いずれの日にか 国に帰らん…

 

 

奇譚童話「草原の光」
二十三

 でも、勝敗は最初から分かってたようなもんだな。だって相手は図体はデカくても素手でかかってくるのに、こっちは飛び道具を持ってんだ。信長が勝った桶狭間の戦いみたいなもんさ。それに普通、総大将は後ろに控えてるのに、突撃隊長になってんだ。でも、最前列はデカいティラノで固められてるから、怖いことは怖いよな。草食恐竜もカメレオーネもガタガタ震えたけど、誰も敵前逃亡はしなかった。したいにも後ろが崖だから、逃げる場所がなかったのさ。だから仕方なしに銃をぶっ放した。ビームはちゃんと当たるようにできてるから、百発百中。

 撃たれたティラノは総大将以下、急に足がもつれてゴロゴロとこっちに転がってくるからみんな慌てたな。それでも、こっちまで転がって草食恐竜にぶち当たったのは三匹ぐらいだったし、当たった仲間はティラノより大きかったから、横綱稽古みたいにドンと受け止めたな。もちろん怖いのはあのデカい牙だけど、本能的にアパトの首根っこに嚙みついたものの噛む力も無くしていて、体全体を痙攣させた。で、後ろ足からどんどんひき肉になっていくんだ。これを見た崖のカメレオーネたちが、一斉に拍手喝采だ。
 ムスコロもどんどんミンチになっていき、最後に自慢の牙が崩れてウジ虫の山みたいになったところで、頭のあたりのミンチの山から祖先帰りした昔のムスコロがひょっこり現れたんだ。最初はボーッとしてたけど、一斉攻撃二列目が間近に迫ってきたので慌てて崖によじ登り、親父のカッキオと抱き合ったんだ。『放蕩息子の帰還』っていう絵みたいな感じだったな。
 けれど二列目が突進してきても、アインシュタインは「用意、撃て」とは言わなかった。でも臆病な連中が銃を撃ち始めちゃった。それを見たアインシュタインは「撃ち方止め!」って叫んだんだ。見ると、第二陣は攻撃をそっちのけでミンチになった仲間の肉を美味そうにガツガツ食ってんだ。悲しい本能なんだな、可哀そうな連中だよ。さすがに三列目はそれを見て戦意をなくし、くびすを返して敵前逃亡。その後ろの連中も悲しい雄叫びを上げながら草原を散り散りに逃げてった。てなわけでミンチにされて祖先帰りした連中は、恐竜時代のことはすっかり忘れて崖の上によじ登り、昔の仲間と抱き合ったというわけさ。

で、敵のほとんどが逃げちゃったんで、こっちから出向かなきゃならなくなったんだ。草原の掃討作戦だな。みんな祖先帰り銃を持ってるから安心して、分散攻撃で肉食竜を祖先帰りさせることになったんだ。アインシュタインは総大将だから、山の上から軍配持って眺めることにし、先生とナオミとケントの三人は、アパトの頭に乗って追撃に出発。ウニベルとステラは、全長四メートルのニッポノサウルスの首に乗った。ヒカリはトリケラトプスに乗ることにしたんだ。ヒカリのポケットの中にはスネックとハンナとジャクソンも入っているのさ。

 アパトの高い展望台から草原を眺めると、一面に生えている三メートル近い草が所々で凹んでいる。そこに肉食竜の背中がチラチラ見えるのさ。頭隠して背中隠さずってわけ。今まで隠れる必要もなかったんだから、下手は当たり前だな。近くに三頭固まって潜んでるのを見っけたから、先生はまずそこを攻撃しようと思った。三人で標的を分担してアパトはゆっくりと近づいていったな。
 背中が見えるんだから、そのまま背中を狙って銃を撃てばすぐに片付けられるんだ。だけど先生は先生らしくこだわったんだな。相手の了承を得てから撃とうと思ったんだ。でも本当はそんな時間ないんだよな。ターゲットはたくさんいるんだから。でも先生は奇襲は卑怯だと思ってたんだ。で、大声を張り上げた。
「おい肉食派諸君。覚悟はできているかね。君たちは死ぬわけじゃない。昔の君たちに戻るんだ。怖がることはない。生まれたときの君たちになるんだ。純真な心にもどって生き方を見直し、また一から出直してまっとうな人生を歩もうじゃないか。多くの連中がそう願いつつもできないのに、君たちは心身ともに初期化できるんだ。素晴らしい人生を再開できるんだ。さあ、隠れてないで出てきなさい」

 すると三頭ともむっくりと起き上がり、アパトの頭の上の三人を睨みつけた。三人はその迫力に一瞬体が縮み上がった。
「素晴らしい人生ってなによ! まっとうな人生ってなによ!」って肉食女子が牙を剝いた。
「あたしたちの楽しみは肉を食うことなのよ。あたしたちは肉の楽しみのために生きてるのさ。あたしたちの人生は肉に捧げる人生さ。あんたたちのまっとうな人生ってなんなのさ。言ってごらんよ」
 先生はいきなり振られて驚いたが、落ち着いた振りをして答えた。
「私たちモーロクのまっとうな人生は、日々十リットルの水と二十キロの土を食べ、隣人と仲良くするものさ。そして一番大事なのは、仲間たちと協力し合って穴を広げ、社会が必要とする様々な公共施設を造ることだ。また、照明のために必要なヒカリゴケを栽培し、その照明でウドの大木も育てている。もちろん、いろんな趣味も人生には必要だな。例えば私は、雑学を勉強することが趣味と言っても良いな」
「ケッ、つまんねえ人生!」って、もう一頭がゲラゲラ笑った。
「アクティブじゃないけど筋肉は動かしてるわね」ってさらにもう一頭。
「だけどなんで穴なのよ」
「私たちは地底人なんだ」
 すると三頭とも爆音のように笑い出した。
「なんだモグラの仲間か」
「食べても不味そうだわね」
「でもこのバカでかい草食男子は食べ応えありそう」ってアパトを指さす。
 先生は危機感を感じて「一応説明したので同意がなくても撃ちますが、よろしいですか」と言って銃を真ん中のティラノに向けた。それにならってケントは右側、ナオミは左側の恐竜を狙った。
「ちょっと待ってよ」と言って三頭は寄ってヒソヒソ話を始め、うなづき合って元の場所に戻る。
「協議の結果、私たちはカメレオーネに戻って昆虫を食べることにしました。大好きな肉を断つのは断腸の思いですけど、大きな恐竜を食うより小さな虫を食うほうがあんた方の神様が喜ぶなら、そうすることにするわ。おとなしく撃たれることにしたの」
「そうそう、それがいいよ。人生重く生きるよりも軽く生きたほうが得さ」ってケント。
「でも、カメレオーネはいま草しか食べないわ」ってナオミ。
「ケッ、俺たちにのろまな草食竜になれってことかよ!」とオスが切れたが、仲間がドウドウドウとウィンクし、「草でも糞でも、泥よりはマシさ」って皮肉を言った。
「でも撃たれる前に、倒れた獲物を囲んで踊る収獲の踊りを披露したいわ」
「死の舞踏だわさ」
「俺たちの華麗な踊りをぜひとも見せてやりたいんだ」
「あたしたちの大好きな肉を前にして、神様に感謝する踊りだわさ」
「こんな激しい踊り、カメレオーネになったら二度と踊れないものな」
「そりゃ面白そうだ。迫力ありそう」
 時間がなかったが、好奇心の強い先生はどうぞとばかりに頷いた。
「じゃあすんません。アパトサウルスさん、死んだふりをしてお寝んねの姿勢を取っていただけますでしょうか」
 アパトはためらったが、先生の言うことを聞いて素直に足を折り畳んだので、足の分だけ頭の位置も低くなったな。
「さあ、いよいよ『三頭の大きな恐竜たちの踊り』の始まり始まり」

 恐竜たちはアパトの周りを反時計回りに歩き始め、途中で等間隔に分裂して走り出し、だんだん加速していき、しまいには雄叫びを上げながら時速七十キロくらいになって駆けまくったので、アパトも頭の三人も目が回ってしまった。踊り子たちも疲れてきたので、一頭が仲間に声をかけた。
「そろそろ行く?」
「オッケー」
「イチニノサン!」
 いきなり一頭がアパトの頭の位置で急ブレーキをかけ、飛び上がって大きな口でアパトの頭に噛り付いた。残りの二頭も背中に乗って首根っこに噛り付いたり尻に噛り付いたりで、最悪の事態になっちまった。頭に食らいついた奴は、牙に力を入れて顔を左右に振ったので、アパトの首の一番細い部分は簡単に千切れ、三人はアパトの頭と一緒に太い食道を一瞬に通過して大きな胃袋に落ちちまった。とたんに獲物のご到着を歓迎して胃壁から強塩酸がシャワーのように出てきたので、三人は慌てて銃を撃ちまくった。で、結果として胃袋はたちまちミンチになっちまい、そのミンチがドミノ倒しみたいにどんどん周りに広がって、三人は挽肉の山からなんとか生還できたのさ。当然、生まれ変わったカメレオーネがちょこんと首を出したが、恥ずかしさのあまり逃げていった。

 三人が目にしたのは、アパトの体をムシャムシャ食べている二頭のティラノだった。驚いた三人は一斉に銃を撃ったので連中もたちまちミンチの山になっちまい、カメレオーネに変身して草むらの中に逃げていった。三人はアパトの変わり果てた姿に呆然と立ち尽くしたが、どこからともなく小型肉食竜が十匹ほどやってきてミンチの山やアパトに嚙り付いたので、三人はでたらめに撃ちまくった。そしたらアパトにも当たったらしく、小型恐竜もアパトの体もどんどんミンチになっていく。小型連中はみんなカメレオーネに戻って草藪に逃げた。一匹だけ残ってこちらを見てたので、三人はひそかに期待しながら先生が尋ねたんだ。
「君はアパトかね?」
「そうさ」
 それを聞いて三人は飛び上がって喜んだんだ。大きなアパトには脳みそが二つあって、首の脳みそは死んでも、背中の脳みそは生きてたんだな。生きていれば祖先帰りができて、カメレオーネに戻れたんだ。けど、アパトはなんか白々しく三人を見つめてそばにも寄ってこないんだ。で、三人は顔を見合わせて、腰を抜かして倒れ込んじまった。ティラノの腹の中から出ようと思ってパニクッて、知らず知らずにミンチを食っちまったらしく、三人とも祖先帰りしちまったのさ。全然違った顔になっちまって、背もだいぶ縮んじまった。猿と人間の間みたいな見てくれになっちまった。美男美女だったケントもナオミもそんな感じになっちゃったんだ。で、先生は教養をひけらかして、「我々は北京原人まで祖先帰りしてしまった」てうなるんだ。でも言葉は喋れるんだからおかしなもんだな。

 ところが、性格だって少しおかしくなったみたいなんだ。だって三人とも無性にお腹が空いてきて、五メートル先のアパトが美味そうに感じるんだ。三人が物欲しそうな顔つきでアパトを見つめたから、アパトはやばいと思ったらしく、すたこらブッシュの中に逃げ込んじまった。で、三人とも無意識に追いかけてたりして、ケントなんかチェって舌打ちしたんだ……。
 で、次に目が行ったのは、このミンチの山々さ。こいつはまたいい匂いがするんだな。でも先生はその危険性を知ってるから「やめなさい。絶対食べちゃいけない!」って二人を制したんだ。でも北京原人って欲望を制止することができないんだな。若い二人は先生の言葉を無視してミンチの山に食らいついて、腹の膨らむまで食っちまった。そしたらまたまた祖先帰りが始まって、とうとう猿に近いところまで遡っちゃった。先生はいみじくも「これはアウストラロピテクスだな」って宣った。

 で、結局先生も投げやりになっちまって、一人だけ原人に留まるのはどうでしょうって考えたんだ。だって仲間は二人とも猿人になっちゃたんだからさ。自分だけ原人なのはアンバランスじゃない。そう思ったとたんに走り出していて、ミンチの山に顔を突っ込んでいたんだな。食べてるうちにすごい幸せな気分になって、今までなんで土なんか食ってたんだろうって思ったんだ。肉ってのがこんなに美味しいものだって初めて知ったんだな。でも食べてるうちにみるみる顔が変形していくように感じたんだ。で、お腹いっぱいになったところで、全身に黒い毛が生えてることに気づいたんだ。それで先生はいみじくも猿から人類に枝分かれしたばっかの「サヘラントロプス・チャデンシス」って断定して、少しばかり胸高々になったな。だって、人類が猿から枝分かれした開祖のような存在だもの。ほとんど猿になっても、三人は祖先帰り銃を手放さなかった。だって新鮮な肉を食うのに、これは必需品だもの。三人がその場を後にすると、草むらに隠れていた小型恐竜たちがまたぞろいっぱい現れて、喧嘩をしながら大量の挽肉を食べつくし、みんなみんなカメレオーネに戻ってメデタシメデタシさ。

(つづく)

 

 

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エッセー「象徴としてのグレタ・トゥーンベリ」& 詩ほか


獄門星

恐竜どもが闊歩していたとき
ちっぽけな脳味噌は
宇宙の戯事であるこの星の役割を
これっぽっちも考えなかった

邪悪な肉食竜たちよ
おまえの祖先は
おまえを皆殺した飛礫(つぶて)と同じに
どこか平和な星の自浄作用で
瘡蓋(かさぶた)が剥がれて宙に迷い
エーテル河の流れに乗って
はるばるやってきたのだ

漂着したそいつは異臭を放ち
毒々しい酸素や濁った熱水を友に迎え
じくじくふやけた肉塊に膨れ上がり
その心は猛毒の硫化水素を糧にして
生き残るためのずる賢さを育んだ

そうだ、瘡蓋由来の用無しどもは
喧嘩好きの乱暴者となり
生きる価値を見出したのだ
最初はアメーバとして巨大化を目指し
出会うすべてを食らい、陵辱し、我が物にし
要らないものは汚物ともども吐き出した

この星の生きとし生けるものは
清廉たる宇宙から排除された
つまはじき者を母としている
だからその悲しい性を受け継いで
奪った命を瘡蓋に加工し
ケツの穴から吐き出し続けるのだ
嗚呼、彼方にあるべきイデアの星々から
芥として捨てられた
宇宙デブリの末裔たち
その痕跡らしき忸怩たる感性よ…
にじみ出る五臓六腑からの悪臭よ、悪寒よ、自己嫌悪よ!

地球という悪魔星は
逃げ出すことのできない孤立星
根を張る連中はどいつもこいつも
無用な瘡蓋として降り注ぎ
しっかり根付いた害来種
生きることは殺すこと
殺すことは生きること
殺し合うのが存在証明

されど命短し、罪とて同じ
旺盛な悪事も、つかの間の快楽も
やがては消え去る運命なのだから…
けだし愛というやつも欲望の一つなら
悲しい性を背負ってあり続けるに違いない
イデアの星々の何かしらを夢想しながら
霞のように、幻のように
この星では何も得られないという…

 

クライマー魂

人を寄せ付けない
魔の山の絶壁が
朝日で金色に光っていた
多くのクライマーが
気高い輝きに心を奪われ
あげくに魂までをも奪われた

ある日山の頂に
コーンのような愛らしい
白い笠雲が掛かっていた
斬捨御免の山が発心し
お遍路にでも出かけるか…

不思議なことに
多くのクライマーが
ピッケルをキラキラ振り回し
嬉々としながら
笠雲の頂を目指していた
彼らは魂となって魔の山を征し
さらなる高みに挑戦している
僕は涙を流しながら
大声でエールを送った
嗚呼、偉大な挑戦者たちよ
常に上を目指し続ける君たちは
なんて幸せな人生だったろう

…それにしても、僕はなぜ未だに
背中を丸めて目線を落とし
砕け散った幸せの断片を
キョロキョロ探し続けているのだろう
遠い過去ばかりに目を向けて
心を砕かないように恐る恐る
小さなつるはしを振り下ろす
臆病者の考古学者みたいに…

 


エッセー
象徴としてのグレタ・トゥーンベリ

 
 昨年のCOP26は不満足な結果に終わったが、これは予想通りだった。参加国それぞれの経済的な思惑が絡んでくる話なので、ああした会議で目的が達成されることはないだろう。

 しかし人類のやらかした事とはいえ、地球温暖化はもはや科学現象なので人の都合には合わせてくれない。温暖化は制御できない時代に入りつつある。このままだと、きっと多くの人々は奈落に落ちていくだろう。専門家のご意見が「想定外」ではないのだから、政治家も後になって想定外とは言えまい。そのときには地球から「落ちる者」と「留まる者」との選別の時代が始まっている。ノアの方舟のような事態が恐らく起こるのだ。

 昔、神と契約を交わして幸せを得ようとした種々の民族がいた。しかし神は天上にいるので、神と話のできる代表が必要になった。力を持つ者が超能力を標榜し、その任を担う。彼は神の力を得て地域を治めたが、神の言葉は彼のやりたいことだった。そして彼は事実上の神となった。地域内の混乱や紛争は「神の言葉」により平定し、時たま現れる反逆者や予言者も、神のお告げで首をはねた。

 ところが周りの地域も、それぞれ違う神を掲げ、神の代理人たちは自分の神を広めることを口実に戦いを仕掛け、次々に打ち負かしていった。大国が小国を呑み込む形で、世界中に文明が形成されていく。今の世界も、基本的にはこのプラットホーム上にできている。ロシアのクリミア併合が最近の出来事だ。現在、神を捨てた国(文明)もあれば、神を大事にしている国もある。しかし、神が死んでも、その代理人的な存在がなければ国は滅びてしまう。それがプーチンのような統率者といわれる人たちで、自分が神になろうとさらなる努力を厭わない。

 だから教祖はもちろん、王様だって独裁者だって、大統領だって首相だって、統率者の背後には神のような象徴が背後霊としてこびりついている。日本の首相だって、始動当時は後光が差しているから、国民の支持率が上がるわけだ。統率者は、国民の支持を食って生きている半獣半神の生き物である。当然、国民の夢を食ったらバクになってしまう。

「人は象徴を操る動物である」と哲学者のカッシーラは言った。国民は彼らの能力のことは分からないから、神のような者として信頼し希望を託すのだ。もちろん、国民が自分の生活が豊かになることを願っているのは昔も今も変わらない。だから国全体が貧窮すると、ヒトラー毛沢東のような超人気の半獣半神が現れ、前者は戦争に敗れて獣となり、後者は戦争に勝って神となった。

 一部の階層に寄与する政権も多いが、基本的な役割は統治する国民全員の生活を豊かにすることで、内外的に色々な方策を行う。しかし国民一人ひとりの境遇や能力は異なるため、富の偏りが生じて、富める者と貧しい者が出てくる。貧しい者の目には統治者の後光は消えて単なる貧乏神となり、権威主義国ではテロや内乱、領土紛争が勃発し、民主国では政権交代が起こる。

 つまり太古の時代から、この形態を保ちつつ人類は増え続けてきたけれど、それは人類の進化とは言えないだろう。円環を回り続けているだけの話だ。グローバル化により地域ごとの独自なシステムが平準化しても、沢山あった円環が一つに大きく纏まっただけだ。だから、ちょっとのことでたちまち分裂して元に戻り、馬脚を現して諍いが始まる。

 産業革命以降は、科学だけがやたら進化して、あらゆる産業が地球の資源を食い尽くしていき、そのおかげで人類も平均的には豊かになった。しかし反対に資源は枯渇し、おまけに「地球温暖化」という副作用が覆い被さってきたというわけだ。この「地球温暖化」は、豊かさの追求や経済活動とは真逆のベクトルなので、人々が豊かになればなるほど、深刻度は上昇する。しかし人々は、一度手にした豊かさを手放そうとはしないので、後戻りのできない深刻な状況に陥りつつあるわけだ。

 しかし、一縷の望みはあると思う。まず、いまの社会はグローバル社会であることだ。通信や交通のスピードが速く、世界中に情報網が繋がっているので、情報はたちまち世界に拡散する。昔は国家という体制だけが世界中にバラバラと散在していたが、グローバル化で纏まりつつある。しかしいまは、さらにインターネットという根茎(リゾーム)が地球を覆っている。これは古来の国家体制と国境を越えた新たな体制の二層構造が出来上がっているということだ。仮に古来の秩序を重んじた制度的・システム的な体制を「アポロ的」なものだとすると、感覚的・感情的な新たな体制は「ディオニソス的」なものと言っていいだろう。※

 「アポロ的」な体制の代表は、国単位で参加する国際体制で、国家間の関係とか国連とかCOPなどが含まれる。これは国単位の利益(打算)が優先する極めて政治的・経済的なシステムだ。「ディオニソス的」な体制は、インターネットの根茎的な繋がりによる庶民レベルの感覚的・感情的なグローバル体制だ。つまり、いまの世界体制は、二重の構造になっているわけだ。古来の一重体制はすでに古い体制になっており、COPも国単位なので、政治的色彩の強い会議を何回開催しても埒は開かないということになる。これは国連会議でも言えることだろう。各国は、まず自国の不利益を避けようとする。しかし、インターネットでは、「地球温暖化問題」それだけを俎上に載せることができ、余分なフリルである各国の思惑などは捨象することが可能だ。直接そのものにメスを入れることができ、埒を開ける可能性があるということだ。

 昨年、全体主義国家の中国で恐らく「アポロ的」に、周近平総書記が2060年までにCO2排出量をゼロにすべく、脱炭素推進策として8月から計画停電を実施し、各地に大きな混乱を引き起こした。同時に石炭の掘削抑制や輸入規制を標榜した。これは中国政府が国際アピールを目論み、権威主義の力を借りて上から規制をかけたものだが、世界には民主主義国も多いのだから、同じことをしようものなら、たちまち政権は転覆してしまうだろう。民主国は国民の同意を得るための事前工作が必要だ。残念ながら、権威主義の中国でさえ勇み足であったことに気付いて、COP26では石炭規制に関して抵抗勢力のインドに同調した。民主国アメリカのバイデン大統領が標榜する「グリーン革命」だって、すんなりとは行かず、意気込みだけに終わってしまう可能性はある。国の最優先課題が「経済」である限りは……。

 しかし、毛沢東が中国を日本の植民地支配から解放したときは、革命的ロマン主義を掲げて人心を掌握し、「長征」などのディオニソス的とも言える戦いを中国全土に広げていったわけだ。毛沢東たちは人民の熱狂的な支持を得て蒋介石(国民党)に対する劣性を挽回した。反対に「アポロ的」な策謀的抵抗運動を展開した蒋介石は、計算尽くめの地味な持久戦を展開して人気を失い、台湾に逃れた。この「長征」の派手な勝利には、今後の環境保護活動にとって、大きなヒントが隠れているのだと思っている。民衆は派手なパフォーマンスに期待する傾向がある。これはナチス政権の派手な映像を見れば分かることだ。

 その後毛沢東は自分の権力を保持するため、「大躍進政策」や「文化大革命」などの運動を起こしたが、失敗に終わった。当然、最初の「長征」的解放運動が成功したのは、人民が植民地支配から逃れたいと心から願い、目に見えて勢いのある共産軍を選択したからで、後の二つは毛沢東の個人体制を守るための小賢しいアポロ的な押しつけだったから、人民に熱が入らず失敗したわけだ。

 古来、社会情勢や圧制などで一定の人々が圧迫されると、ディオニソス的な運動が起こってきた。古代ギリシアの「バッカスの女たち」は、集団ヒステリー状態で女たちが狂気のように踊り狂ったと言われているが、慣習的に家の中に閉じこめられていたことによる鬱屈した感情の、一時的な解放だったとされている。アメリカでは18世紀中頃、住民の間から宗教的自覚を高めようという熱狂的な「大覚醒」運動が沸き上がり、いまのアメリカ社会にも大きな影響を残している。

 日本でも圧制などに苦しむと、農民や庶民が感情を爆発させ、罪の軽い形で集団行動に出た。江戸時代後期の「おかげ参り」や「ええじゃないか」は代表的なものだろう。これらは「集団的ヒステリー」と捉えられがちだが、単なるカタルシスではなく社会改革運動的な側面もあったに違いない。これらが思想的に統一されて、頭の良い先導者がシンボルとなって統率すれば、大規模化してロシア革命のようなことも起こり得るわけだ。大塩平八郎レーニンほどのシンボル性を持たなかったことになる。

 地球温暖化問題は一国内にとどまらない世界的な問題だが、各国の代表が集まって協議する「アポロ的」解決に頼っても埒が開かないのは前述した。貴重な時間を費やすだけだ。各国代表の背後には旧体制由来の経済界やら利益享受団体やらがこびり付いているからだ。しかしこの期に及んでも解決方法を模索しなければ、地球が最悪の事態を招くことは目に見えている。その唯一の解決方法は、インターネットで繋がり、危機意識を共有する世界中の人々の感情的(ディオニソス的)高まりなのだと思っている。

しかし、この行動のうねりは革命的なパワーがなければ息切れしてしまう。中途半端で終わってしまえば、何の意味もない。しかも、この運動を進めれば、経済や暮らしに大きな副作用を伴うだろう。癌を駆逐する抗ガン剤のようなものだ。経済活動と環境活動のベクトルを一致させるには、多くの抵抗勢力を排除する必要がある。それらは正常細胞であると同時にガンでもある。あるいは正常細胞を装ったガン細胞かも知れない。 

 抗ガン剤が正常な細胞をも破壊するのと同じように、ディオニソス的運動は、経済の正常な部分を大きく浸食する。しかしそれは、外科手術のような暴力的革命ではなく、世界中の人々が集結した暴力を伴わない「静かな革命」だ。あるいはルターの「宗教改革」に習えば、「改革」という言葉がふさわしいかもしれない。革命のような基本的な体制を変えることではないからだ。この改革を成功させるには、かつてのレーニン毛沢東のような、象徴的な主導者が必要だが、付き従うのは武装集団ではない。インターネットの呼びかけに応じた非武装のグローバルなプロテスト運動(社会運動)で、当然のこと、その中心はグレタ・トゥーンベリさん以外考えられないだろう。彼女に象徴としての役割を与えるべきだ。

 最近グレタさんの活動が、各国政府の喉元に刺さった棘になりつつあるという話を聞くが、いまの地球は頭に茨の冠を被せられ、釘で手足を十字架に打ち付けられた状態であることを忘れてはならない。グレタさんの活動がさらに大きなウエーブとなって、世界中の統治機構を震撼させることを願うばかりだ。


※「アポロ的」:主知的で秩序や調和ある統一を目指すさま。(例えば各国政府の打算的外交など)
 「ディオニソス的」:熱狂的、激情的とも言える感情を行動に変えるさま。(例えばインターネットで広まる危機意識からの世界的な運動)

 

 

奇譚童話「草原の光」
二十二

 アパトはみんなを頭に乗せて、山に向かって草原を一直線に進んだ。途中でいろんな肉食恐竜がやってきたけど、アパトは大きいのでティラノ以外はみんな並走してチャンスを窺ってたな。するとまたティラノが五、六頭やってきたから、アバターアインシュタインは、立て続けに銃をぶっ放したのさ。多少ずれたって光線はちゃんと標的に当り、ティラノたちはミンチになっちまった。で、カメレオーネになっちまって逃げてった。ほかの肉食恐竜たちは、寄ってたかってミンチを食ったから、やっぱカメレオーネになってめでたしめでたしだ。いろんな肉食連中が次から次へとやってくるから、山に着くまでに百頭以上の肉食連をカメレオーネに戻してやったな。このペースで祖先帰りをやってけば、一年以内に平和だった昔のカメレオーネ星に戻るって計算だ。

 山の麓に来ると、そこは切り立った崖で、アパトと別れなけりゃならなくなった。でも、アパトは自分も昔のカメレオーネに戻りたいって言い出したんだ。
「君は大きな体が自慢じゃなかったのかい?」
「図体が大きくたって、ティラノには食われちまう。カメレオーネに戻って、山に暮らせば、いつもビクビクしていることもないしな」
「いいや、君はティラノと戦うんだ」ってウニベルが言った。
「そうよ、アインシュタインさん。祖先帰り銃を百丁作ってちょうだい。アパトは仲間の草食竜を百頭集めて。みんなで肉食連中と戦うの。いままで虐められてきた借りを返すのよ」ってステラ。
「でも、敵でもカメレオーネになったら踏みつけちゃだめだよ」ってヒカリは釘を刺した。
「そうさ、カメレオーネは仲間さ。肉食竜がみんなカメレオーネに戻ったら、君たち草食竜もカメレオーネに戻るんだ」ってケント。
「分かった。それで、仲間たちはいつ集めればいい?」
「いまでしょ!」ってアインシュタインは叫んだ。

 アインシュタインはポケットから大きな黒い袋を出して銃を放り込み、自分の鼻毛と白髪を一本引き抜いて加えると、袋の口を握って思い切り振り出したんだ。すると袋がどんどん大きくなってずっしり重くなり、中には百丁の銃が入ってたってわけさ。
「どうだい、カメレオーネもシリウス星人も分裂して増えるんだから、道具だって同じ方法で増やすことができるのさ」ってアインシュタイン
「じゃあ仲間を二百頭集めるから、あと百丁作っといて」って言って、アパトは草原に向かって大きな声で唸り声を上げたのさ。この雄たけびは百キロ届くんだ。誰かが肉食獣に食われそうになると、こんな声を発して、そいつを聞いた仲間たちがはせ参じるってなわけだ。

 しばらくすると、遠くからすごい音が聞こえてきて、すごい数の草食恐竜がドドドッてやってきた。大小いろんな草食恐竜が集まったんで、山の中に隠れてたカメレオーネたちも驚いて、崖の上に集まってきた。そん中の太った一匹が「おいウニベル、なんでこんな所にいるんだ?」って声をかけてきたんだ。そいつは何万年以上前に別れた幼なじみのカッキオだった。カッキオは年寄りの長老として、カメレオーネ集団を統率してたんだな。

 で、話はとんとん拍子に進んだってわけさ。カメレオーネたちは、銃を持って恐竜たちの頭に飛び乗った。でもって、戦車が二百台でき上がった。もちろん、大砲は祖先帰り銃さ。で、アパトを先頭に、いざ出陣ってなったとき、遠くの方からまたドドドドッてものすごい音がしてきたんだ。そいつは肉食恐竜の群だった。連中は嗅覚が鋭いから、草食恐竜のゲップやオナラの臭いを察知して大群でやってきたんだな。草食恐竜の胃腸は年がら年中醗酵してるから、年がら年中ゲップやオナラが出るんだな。だから、見つからないようにしても、我慢ができずに一発やらかし、食われちまうってわけさ。二百頭も草食恐竜が集まれば、息もできないほど臭いから、肉食恐竜だって見過ごすわけにはいかないさ。

 で、まるで関が原みたいに、肉食軍と草食軍が東軍西軍ってな感じに鼻を付き合わせたんだ。この星の天下分け目の戦いだな。でも両軍の配置からすれば、どう見ても草食恐竜が不利だったな。だって、彼らの後ろは岩山なんだから、逃げようにも草食恐竜たちは象さんの足みたいで登れないんだ。
 でも祖先帰り銃っていう最強兵器があるから、慌てなかったな。これさえあれば、相手がいくら強くても食われることはないんだ。で、敵方の大将はバケモノみたいに大きなティラノだった。こっちの大将は当然、アインシュタインや先生たちが頭に乗ってるアパトさ。アパトはでかくても頼りないけど、先生もアインシュタインも銃を持ってるから力強かったな。

 で、先生は敵の大将に向かって「君の名は?」って聞くと、「ムスコロさ」って大きな声で答えたな。するとカッキオが「おいムスコロ、久しぶりだな」って言うんだ。
「父さん、まだ生きてたんだ!」って息子のムスコロは驚いたな。
「気安く父さんなんて言うなよ。とっくに勘当したはずだ」ってカッキオ。
 肉食恐竜の大将とカメレオーネの大将が親子だったなんて、みんなたまげちまった。
「おいムスコロ、俺っち隣のウニベル小父さんさ」ってウニベルも声をかけた。
「憶えてるぜ。よく遊んでくれたな」
「お前は賢い子で、将来は偉いカメレオーネになると思ってたんだ」
「当り! 僕ちゃん肉食恐竜の総大将だもん」
「ってことは、この星の王様じゃん」ってアインシュタインも持ち上げた。
「あんた、ヨレヨレ爺さんのくせにいいこと言うね。あんたは不味そうだから、食わんといてやるよ」
「じゃあ、カッキオは食うのかね?」ってすかさずアインシュタインは突っ込んだね。
「もちろんさ。親子の縁はとっくに切ってんだ」
「じゃあカメレオーネに戻ったら復縁するの?」ってステラはすかさず聞いたな。
「俺が? この星最強のティラノが? なんでちっこいトカゲに戻らなならんのよ」
「冗談じゃない。お前がカメレオーネに戻ったって、こっちも息子とは思わんさ。こいつは多くの仲間を食らってきた悪党なんだ」ってカッキオも反発。
「お父さん、そんなこと言わないで受け入れてやりなさいよ」ってステラ。二匹の愚にもつかない問答を聞いていたムスコロは逆上し、問答無用とばかりに「ウルセー!」って叫びながら、アパト目がけて突進してきたな。総大将が先陣を切ったんで、部下たちも遅れてなるものかと猛突進。草食恐竜軍の頭に乗ったカメレオーネたちも大きな標的に向かって祖先帰り銃をぶっ放したな。天下分け目の戦いが始まったってわけだ。

(つづく)

 

 

 

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エッセー「 武士道と戦争」& 詩

エッセー
武士道と戦争

 日本人は「武士道」という言葉に凛々しさや頼もしさを感じるようだ。いざ戦争になれば、頼るのは兵隊さんなのだから、当然のことだろう。彼らが武士道の精神を投げ出し、背を向けて逃げ出したら、国は滅びてしまう。

 しかし、「武士道」という言葉ができたのは江戸時代と遅く、その最初は武士の処世術のようなものだったらしい。武名を高めて主君に認められ、自分や一族の発展を有利にするというもので、就職活動の基本的姿勢のようなものだ。武士はしょせん「ケンカ屋さん」で、だからその中には「卑怯な戦法でも勝てば良し」とする思想も含まれていたらしい。道理はどうであれ「勝てば官軍」というわけ。さほど高邁な思想があったわけではないし、主君が喜べばそれで良い話だった。

 これは、「相撲道」とは違うところだろう。昔、白鵬が立合いで「かわし(注文)」や「猫だまし」をしたことに、「大横綱のやることか」と批判が集まったが、相撲がスポーツではなく「神事」であるなら仕方のない話だ。僕は相撲の神事的な部分が嫌いで、なるべく見ないようにしている(子供の頃は大ファンだった)。頻発する「横綱の責任」という言葉にも辟易するが、それは僕が無責任な人生を歩んできたからだろう。相撲協会三角錐の頂点に相撲の神様「野見宿禰(のみのすくね)」が鎮座し、その下に横綱や役員が侍るプチ・ヒエラルキー社会だ。で、神様が横綱に「注文を付けるな」と注文を付けるわけだ。このプチ封建社会に注文を付けた元横綱貴乃花氏に先日引退したハリさんに代わって、市井の僕は「アッパレ!」を与えよう(少々古い話だが…)。

 しかし、僕のように相撲を国際的スポーツにしてほしい人も、何々道という「道」が付くものに特別の意識を持つのは、古来より神道儒教道教(中国思想)の影響を受けてきた日本人の属性だと思う。だから柔道が国際的スポーツになった今でも、「シコシコ勝てばいいじゃん」と言う外国選手に対して、日本の選手は「美技」にこだわりを持つわけだ。「道」は美や真実の根源らしいから…。

 ともあれ「武士道」が、今の人々が思うようなものになったのは、幕藩体制の維持のために利用され、朱子学と結びついて武士の道徳律として定着してからだ。親孝行や目上の者を尊び、名誉を重んじ、家名を存続せよと言ったって、結局は主君たる徳川将軍に忠誠を誓えということに行き着く。※

 将軍が恐れていたのは大名たちで、下級武士から地方の殿様まで一律に倫理規定の網を掛ければ、うまい具合に収まる。大名たちが造反や仲間内のいざこざなど、将軍をトップとするピラミッド体制を少しでも揺るがせば、武士の道を外したとして取り潰すよと脅しをかけたわけだ。だからこの道徳律の裏には、関ヶ原以前の「下克上」や「裏切り(寝返り)」といった武士の血(本性)を押さえつける意図があった。

 基本、武士は闘争意欲が強く、スポーツ選手と同じに一人ひとりが金メダルを狙っている。だから武士集団は○○競技チームのように、キャプテン(大名)の下にまとまって敵を負かし、全員が胸に金メダルをぶら下げようと頑張るわけだ。ところが江戸幕府は国を平定し、日本○○競技連合のような巨大な組織になってしまったから、将軍(理事長)はゴマすり連中を役員にして周りを固め、現行体制に批判的な連中をピラミッドの下部に追いやるわけだ。それが俗に言う「外様」というわけで、スポーツ界では時たま外様の反乱が起きてマスコミ界を賑わしている。これは武家社界やスポーツ界に限らず、政界をはじめ、およそ「界」の付く塊には共通の界奇現象でもある。

 結局、外様の部下が反旗を翻して明治維新となったが、武士の時代が終わっても「武士道」だけはしっかり引き継がれた。明治憲法で「兵役の義務」が定められ、徴兵検査に合格した男子は全て武士になっちまったからで、政府はこの封建的な道徳律が利用できると判断した。結果として、第二次世界大戦で敗れるまで、日本の男たちは武士道の精神を背負って次々と自爆・玉砕していった。アメリカはしかし、真珠湾攻撃のことを「宣戦布告を遅らせた卑怯なやり口だ」と未だに非難する。けれど卑怯な戦法でも勝てば良しとする思想が「武士道」の腰骨に含まれているのだから致し方ない。

 日本は「攻撃直前に出すつもりだった」と言い訳するが、直前だろうが奇襲であることは変わりなく、だからといって「武士道」精神を傷付けることもない。昔から武士たちは機先を制して勝ってきたのだから、騙し討ちだって戦法の一つだろう。スポーツ選手だって反則すれすれの技を批判されるいわれはないが、戦争の場合、そもそもルールなんて存在するのかも分からない(一応「戦時国際法」なるものはあるが、強制執行力はないのだから、違反したって経済制裁ぐらいだろう…)。

 つまり、昔の武士だろうが今の軍隊だろうが、勝たなければならないという使命は金科玉条なのだ。一騎打ちの時代も集団戦法の時代も、さらにはロボット兵器の時代も、核兵器の時代も、武士も軍隊も勝つために生きてきたプロフェッショナル集団に変わりはなく、常勝軍団であり続けなければならない。

 2015年にロシアのプーチン大統領が、クリミア半島への軍事介入のときに、「核兵器使用を準備していた」と発言したが、垂直統治機構で軍を掌握している彼の言葉が示すとおりで、軍隊は勝つために何でもやらかす集団なのだ。

 危惧するのは、そういった集団が核兵器を握っていることだ。しかも軍隊は、時たま政府の命令を無視して暴走する。1932年に中国にできた「満州国」は帝国陸軍関東軍)の暴走によるものだ。あげくに日本政府は軍に振り回される形で太平洋戦争に突入した。最近では「金正恩キム・ジョンウン)は北朝鮮軍の操り人形に過ぎない」なんて専門家が言い出すぐらいだから、政府(背広組)が軍(軍服組)を掌握(制御)するのは並大抵なことではない。

 その血気盛んな軍隊が、核兵器を使用することに踏み切った場合、相手の核反撃をかわす意味でも、最初から一気に先制攻撃を仕掛けるだろう。使用される核兵器は半端でないはずだ。病原菌に対する抗生物質と同じで、一気に叩き潰さないと、敵はゾンビのように復活し、戦いは泥沼に陥ってしまう。ことにパワーバランスが拮抗する国に対しては、中途半端な攻撃はしないはずだ。

 …ということは、どこかの大国がひとたび核兵器を使えば、たちまち核による全面戦争に拡大する可能性があるということだ。しかも最初の一発は誤判断あるいは誤操作かもしれないし、勝敗の決着は秒単位の出来事かもしれない。かつてパリを占領したヒトラーが、シャイヨ宮殿からエッフェル塔を眺めたように、どこかの国の国家元首がねじ曲がったスカイツリーを眺める日が来るかもしれない。恐ろしい未来だ、と言うよりか、我々はそんな時代に両足を突っ込んでいるのだ。そして当節、「権威主義」VS「民主主義」という新冷戦の水面下で、沸々と熱水が湧き出し始めている。

 地球市民の皆さんは、火傷をする前に両足を抜く必要に迫られているけれど、重い足かせが付いていて、足湯のように気楽に抜ける状況ではない。結局、世界各国が一丸となって、血気盛んな武士たちの暴走を止める手立てが必要になってくるわけだ。恐らく片方の足かせを解く鍵は、各国政府の外交手段に違いない。もう片方の足かせの鍵は、その政府を支持する国民の冷静な判断に違いない。政府と国民の二つのベクトルが一致し、その相乗効果が温和な知的行動を促し、初めて外交的解決は上手く進行するものなのだ。

 隣国中国を例に取れば、新彊ウイグルや香港などで、民主主義国の反感を買っているし、ロシアはロシアで、クリミア進攻問題などで反感を買っている。特に中国に対する米国民の感情は最悪で、暴力事件も起きている。問題なのは、ロシアや中国だけでなく、民主国家の多くの政権がポピュリズム政権であることだ。これは民主主義の最大の弱点でもある。ポピュリズム政権は、国民感情に沿った政策をチョイスする傾向が強く、アメリカ現政権も中国に対する行き過ぎた制裁をするのではないかと危ぶまれている。

 かつて日本も日中戦争を起こし、1930年代から1940年初頭にかけてアメリカを中心とした「ABCD包囲網」という強力な経済制裁を食らって石油を断たれ、ドイツやイタリアと手を組み、太平洋戦争に突入していった。仮にバイデン政権が来年11月の中間選挙の票獲りを睨んで、国民感情を利用した形で中国に包囲網的な経済制裁を加えれば、習近平政権がどのような対抗手段に出るかは分からないものの、今の中国の現状から、一触即発の事態になる可能性は否定できない。当然、日本もアメリカの子分としてイギリスやオーストラリアなどと共に包囲網に参加せざるを得ないだろうし、中国は中国でロシアとの関係をより強固なものとしていくに違いない。

 しかし今でこそ、日本人は習近平体制に対して悪感情を持っているが、中国国民に対しては別の感情を抱いているに違いない。それは、かつて日本軍が中国に侵攻した苦い過去への悔恨の念だろうし、さらには太古の時代から連綿と続いてきた文化交流が日本にもたらした、莫大な文化遺産に対する感謝の念だ。日本はアメリカなどと違い、中国との永い繋がりがあることを忘れてはいけないし、何よりも彼らは隣人なのだ。

 ならば我々の取るべき道は明白だろう。日本政府も日本国民も、過度な感情に走ることなく、冷静・沈着な姿勢でアメリカと中国の対立状況を見据え、両者の行動が行き過ぎた場合には、その危険性を指摘するぐらいの若干ニュートラル(第三者的)な立ち位置を保持することだ。これは、ずる賢い態度とは違う。今回、北京オリ・パラに日本政府代表団の派遣が見送られたことについて、自民党の佐藤外交部会長は「時期が遅すぎる」と苦言を呈したが、僕は岸田首相が冷静・沈着な姿勢で状況を判断し、絶妙のタイミングで出したと思っている。おかげで中国の態度もさほど硬化はしなかった。佐藤氏は元自衛官だから、血気盛んなのだろう。

 およそ対立と名の付くものは、最初は小さくても連鎖反応的に大きく発展する危険性は常にある。加えてアメリカは、イラク進攻のように時たま大胆なことを仕出かす国民性を持っている。喧嘩腰の両者の主張や行動がぶつかり合ったときには、必ずそれを緩衝させる第三者は不可欠で、それが日本の役割だと思っている。これは駅のプラットホームでの喧嘩も同じことで、止める者が必要なのだ。過去の苦い経験を思い出せば、日本政府も日本人も、そうした役どころを演じるのは名誉挽回にも繋がることだろう。かつて武士たちが中国にもアメリカにも喧嘩を仕掛けたのだから……。

 岸田政権はコロナ対策について、最悪の事態を想定して対処すると宣言しているが、日本にとって、国際情勢の最悪の事態は恐らく台湾有事だろう。アメリカが介入すれば、日本も必ず戦争に巻き込まれる。中国も台湾もアメリカも日本も、誰も戦争を好ましいとは思っていないはずだ。こうした危機を回避するには、外交的手段以外にはありえない。各国政府の冷静な外交と、それを支える各国民の沈着な国民感情が不可欠なのだ。かつてABCD包囲網が日本を戦争に駆り立てたように、過度の経済制裁が台湾有事を引き起こさないように、日本政府も日本国民も冷静に賢く振舞い、政府は最善の道筋を探って行くべきだろう。当然その努力は起こってからではなく、起こさないための努力であるはずだ。

 また、人権問題については、できるだけ多くの国の政府がプロテストを表明しなければならないし、日本政府も逸脱することはないはずだ。しかしこれは、ほかの人権問題と同様、地球市民一人ひとりが真剣に考えなければならないものだと思う。中国と経済関係の強い発展途上国でも、黙認するのは政府だけで、その国の人たちは「否」と考えているに違いない。インターネットが張りめぐらされているグローバルな時代に、人権問題は環境問題や核問題とともに、地球市民がプロテストを盛り上げていくべき御三家だと思う。各国国民のストライキが認められているように(弾圧する国もあるが)、地球市民には自発的な不買運動は認められているのだから……。政府間の軋轢は戦争を引き起こすが、地球市民のプロテストは戦争を招かない唯一の解決法だと考えている。なぜなら、それは国境を越えたビッグウェーブなのだから……。


(※)これは今の中国で、習近平が政権維持のために打ち出した「共同富裕」の思想にも共通するところがある。習近平が恐れているのは、過去に鄧小平が「改革解放政策」を唱え、社会主義体制を維持したまま資本主義を導入する「社会主義市場経済」を進めた結果、現在のような貧富の格差ができ上がってしまった。
 置いてきぼりを食らった貧乏人たちが政権に反旗を翻すのではないかと恐れた習近平は、一部の大金持ちの財産を巻き上げ、多くの貧民のルサンチマン(嫉妬)を解消するポピュリズム政策を考え付いたわけだ。しかし、中国の経済成長を支えてきたのは大金持ちたちで、出る釘を打つ平準化政策が成功するものかは疑問視されている。経済発展の足を引っぱる可能性が大きいからだ。といって金持の蓄財を放置すれば、いずれ社会主義の根本概念も崩れ去ってしまう。中国は大きなジレンマを抱えている。じゃあどうするか。内なる問題を火山のように外部に噴出させればいいのか? その外部はまさか台湾じゃないだろうな!

 

冥界の王宮

木々は色づき
稲穂は頭を垂れ
朽葉色の秋がやってきた
魔王はバルコニーから地上を仰ぎ
愛する王妃に想いを馳せた
妃は大地の豊穣を母とともに見届け
やがて冬の王宮に戻ってくるだろう

妃を喜ばせるため
夏の間に王宮の改装を行ってきた
直すべきところはすでに直し
外壁は灼熱の溶岩で血色に染め上げ
大人しかったファサードの壁面彫刻は
罪人たちの阿鼻叫喚を
満面に散りばめた
正門である地獄の門の彫刻も
妃の帰還を祝福するべく
四十八手の拷問に禁じ手を加えた

あとは仕上げが残るのみ
広大な王宮の床一面に
人肌色の絨毯を敷き詰める
職人たちの足で汚さぬよう
奥の寝室から始めたが
半分ほどで材料不足に陥った

腹心のタナトスヘカテーを呼び
世界中からかき集めろと発破をかける
二人はそれぞれ
悪疫を詰めた大袋を背負い
地上に上っていく

しばらくすると
大量の材料が資材置場に搬入された
施主が指図する中
鬼たちはまず
産地ごとに異なる色合いの
選別から始めなければならなかった
暗色系は落ち着いたリビングにふさわしい
淡色系は客をもてなす鏡の間にうってつけ
廊下はすべて黄色系に統一すべきだろう
入れ墨入りはアラベスク風に
水煙草の間にでも敷いてみるか…

材料の配置が決まると
鬼たちはさっそく皮剥ぎを始めた
使う部分は腹と背だけ
あとは愛犬ケルベロスの餌となる

裁断した筒状の材料は
中に毛髪を詰め込み
長寿を全うしたニンフたちが
余分の髪で縫い閉じ
それらをさらに縫い繋げて
幅広の絨毯に仕上げていった

王は出来上がった絨毯の上に立ち
雲上と変わらない柔らかさに
大層ご満悦だった
これで后も喜ぶことだろう…

翌日、ハデスは地獄の門に立ち
ペルセポネを迎えた
王妃は新装の門を一瞥しただけで
ケルベロスの三つの口を撫でてから
涎で濡れた手を王に差し出した
王は接吻をして
二人は手を取り合い
絢爛たるファサードに向かって
仲良く歩いていった

円蓋を抜けて内廷に向かおうとしたとき
ひれ伏した無数の躯幹に気付いて
王妃は呆然と立ち尽くした

ようやく気付いてくれたことに溜飲し
王は満面の笑みを湛えて王妃を見つめ、語りかけた
今年は豊作そうで
お母上も喜ばれたことであろう

そうでもございません
流行り病で多くの百姓が死に
稲穂はそのまま立ち枯れております

まあ、そういう年もあろう…
どうだね、私の贈り物は気に入ったかね

殿ならではのセンスには毎回驚かされますわ
冬には冬の、春には春の趣があるもの
それは地上の僭王たちも変わりません
そうして天上も地下も
下々の歴史も創られていくのです
郷に入りては郷に従え
私はただ、貴方の熱い想いを受け入れ、微笑むだけですわ
多くの王の妻がそうしたように…

ペルセポネはため息をつき
真新しい絨毯の上に恐る恐る足を乗せ
二人は睦まじく奥床に向かった
絹のごとく人革をなめした
天蓋付きの寝台へ…


Muishkin gene

ムイシュキン公爵
発作で天に召されたとき
主治医は脳味噌を
ホルマリン漬けにした

百五十年後
好事家が発見し
若い学者に寄託した
「きっと地球外生物です」

学者は脳味噌を解剖し
くまなく調べたが
人類と異なる部分はどこにもない

薄切りにしてガラスに伸ばし
蛍光色素を垂らそうとすると
ふと、金色に光る
DNAに気付いたのだ

「生きているのか?
うようよいるぞ!」
電気泳動法を試すと
陽極に移動して
旋盤屑みたいに丸まり
金の玉になった

「地球だ!」
アフリカ、アメリカ、ヨーロッパ、
アジア、オセアニア、南極…
螺旋のスカスカを太陽風が抜けていく
からかうように、金粉を振り撒いて…

嗚呼、クルクル空回る金の鳥カゴ
極小宇宙の不都合な真実よ…
「貴重な宝がザルから逃げていくぞ!」
学者は悲鳴を上げ、倍率を拡大した

するとお日様の金粉が
螺旋のフィルターに引っかかり
にこやかに食らいついて
異常な速さで増殖している
まずは螺旋に金箔を貼り
ジクジクと沸騰しながら
金のペレットに育っていった

一握りの遺伝子が
地球をパンクさせないために
仲間をどんどん増やしている
「こいつら黄金の受精卵だ
倍々どころの騒ぎじゃないぞ!」

学者は雄叫びを上げた
ムイシュキンは人間だった
どこにでもいる人間だった
星々の狭間を暫し遊泳しながら
予言することなく帰還し、復活し
純朴な心でダフネを愛した
アポロンの末裔だった

そしてそのさらなる子孫が
力強く地球を支え始めたのだ
ムイシュキンは人間だった
黄金の月桂冠を頭に乗せ
永久に光明を失うことのない
人類のエッセンスだった…

ムイシュキンは人間だった
挫けることを知らない
どこにでもいる人間たちだった

 

 

 

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エッセー「音楽的人間」と「画家的人間」~キム・ヨナの場合 & 詩ほか

 エッセー
「音楽的人間」と「画家的人間」
キム・ヨナの場合

 クラシック界の歴史的名指揮者ブルーノ・ワルター(1876~1962年)は自伝の中で、人間は「音楽的人間」と「画家的人間」に分けられると記している。なんでも彼が音楽総監督をしていた歌劇場に専属のテノール歌手がいたが、声はそこそこなのにどうもしっくりと歌うことができない。その原因を指揮者は、この歌手が生来の「画家的人間」だからと決め付け、それは生まれつきなので修正はできないと断言しているのだ。

 偉大な指揮者の経験に基づいた言葉だから、僕に反論する気はさらさらなく、その言葉を基に話を進めたいと思う。世の中の人間がどちらかに分類できるのだとすれば、僕なりに部分けをする必要があるだろう。「音楽」は音の流れだから、それは時の流れや川の流れのような一瞬たりとも止まることのない流動的な世界を意味している。一方で「絵画」は、時の流れの宇宙現象をスパッと切り取った断面の世界で、天才画家がいかに生き生きと描こうが、紙焼写真のような静止した世界に違いない。

 この「動」と「静」の二項に人間の天性を部分けするのであれば、とりあえず職業別に大雑把に投げ込んでいけばいいことになる。例えば「動」には、音楽家はもちろん、スポーツ選手(F1レーサーや騎手なども含め)、バレリーナ、ダンサー、執刀医などが含まれるだろう。秒単位の時間の流れに対応しなければならない職業は、すべて「音楽的人間」の資質が求められるわけだ。

 「静」には、画家や彫刻家、工芸家が当てはまるが、最近の現代美術は行動的(アクション)だから、「動」的要素も求められるので、なんとも言えない。しかしここには、小説家などの文章家や詩人も含まれるに違いない。

 ワルターが「音楽的人間」と「画家的人間」の話を持ち出したのは、職業的ミスマッチについて言いたかったからだ。彼は「画家的人間」が音楽を専攻しても、偉大な音楽家にはなれませんよと言っている。音楽をやっても、生まれつきのセンスが違えば苦労をするばかりだよ、と主張しているのだ。だから、人間が大きく二つに分かれたとしても、その才能が厳密に必要とされる職業に就きさえしなければ、さほどの問題にはならない。リズムに乗って仕事をこなそうが、画家のように黙々と仕事をこなそうが、人それぞれの方法でこなせば何とか上手くいくのが大多数の仕事だ。

 問題になるのは、選ばれし人間だけが成功するような厳しい職業の場合だ。分かりやすく、フィギュアスケートを例にとって言おう。2010年のバンクーバ冬季五輪で金を獲ったキム・ヨナは、まさに「音楽的人間」の典型だった。彼女が「画家的人間」でないことは、その演技を見れば明らかだ。彼女は別に難しい技術を駆使して金を獲得したわけではない。それなのに優勝できたのは、彼女が生まれ持った「音楽的人間」であったからだ。

 フィギュアスケートはもちろん、クラシックバレエでもモダンダンスでも、生まれ持った質が「音楽的人間」か「画家的人間」かは、比較的簡単に判断できる。例えば「画家的人間」について言えば、画家でも彫刻家でも、最初はキャンバスへのデッサンなり台座の上に骨組みを造ることから仕事が始まり、絵の具や粘土を重ねながら作品が完成していく。つまり、完成品のあらゆる部分が、最初のデッサンなり骨組みと関わりを保ち、その拘束から免れない。当然、作品を解体してみると、最後にデッサンや骨組みが現われるだろう。

 僕は、キム・ヨナと争った日本人のスケーターは「画家的人間」だったと思った。なぜなら高度な演技の所々で、骨組みである背骨の存在がチラリと見えていたからだ。彼女は背骨を軸に回転していた。手足の先端までもが、背骨の回転に従っていた。一般的に、「体が硬い」とかそういった表現を使うが、そうではない。単に本質が「画家的人間」だったということだ。

 キム・ヨナの場合は、すべての組織が背骨から解放されていた。あらゆる部分がモナドと化し、各自が時間の流れを敏感に察知し、即応していた。キム・ヨナはしかし背骨のない軟体動物ではない。彼女は「音楽的人間」なだけだ。「音楽的人間」は、手の先から足の先まで、すべての細胞が背骨の支配を受けず、素早い音の流れに即応し、同調して、リズムの波の上に体を乗せ切り、自然体に、サーフィンのように流れていくことができるのだ。

 これは生まれ持った才能なので、ほかの選手がそれを上回ろうとすれば、高度な技術を磨いて、技術点を稼ぐ以外にはなくなる。キム・ヨナの演技は高い芸術点を獲得したが、「音楽的人間」が音楽に乗り切った場合、不自然な硬い部分が蒸発して、宇宙の重力に逆らうことなく、あらゆるものを芸術に昇華させることができるのだ。
 
 当然のことだが、基本「音楽的人間」が求められる世界に「画家的人間」が挑戦した場合、その欠点を克服するための努力は並大抵ではないだろう。しかし、「好きこそものの上手なれ」とういう諺があるとおり、努力しだいでは何とかなるのもこの世の良いところだ。才能に溺れて大成しなかった人間も数多い。ブルーノ・ワルターは自分の立場上、歌手に厳しい要求をしたことは推察できる。

 だから根本的な欠点があっても、人には必ず伸ばせる長所はあるものだ。フィギュアスケートだって、四回転や三回転半をバンバン飛べるぐらいに技術を磨けば、それだけでメダルはポケットに入ってくるだろう。多少芸術的でなくても高度な技術を失敗しなければ点は稼げるのだから。

 問題は、ブルーノ・ワルターが体育会のコーチではなく、再現芸術家であったということだ。スポーツと再現芸術は似て非なる世界だ。「技術」面に関しては基本なので双方とも似ているが、芸術は美的な表現をより重視する世界でもある。きっとフィギュアスケーターとプリマバレリーナの違いは、ワルターの持論を克服できるか、克服できないかの違いに現われてくるものかも知れない。バレリーナが片足立ちで何回回ろうが、そんなのは刺身の妻のようなものだ。大事なのは、その役どころをいかに美的に個性的に再現でき、彼女独自の世界を創出できるかだ。しかしワルターは断言する。それは生来的なものであると、生まれ持った音楽的センスの問題であると……。恐らく「画家的人間」は一生「音楽的人間」にチェンジすることができないのだ。

 僕は自称詩人だから、当然「画家的人間」だ。しかし、詩人の扱う言葉は歌詞にもなるのだから「音楽的人間」の要素も多々含まれている。言葉は硬くなく、ゼラチンのような半流動体である。だからある種の詩人たちの言葉は流れを持っている。エッセーだって、そういう資質を持った人の文章には流れのようなものを感じる。きっと彼らは「音楽的人間」なのだ。これは一種のセンスで、生来的なものだ。

 そのことが良く分かるのが、訳詩を読んだときだ。翻訳者の多くが学者で、学者の多くが「画家的人間」だ。だから、原語では流れを持った作品も、彼らはキャンバスに絵の具を置くようにシステマチックに翻訳し、結果として「目黒のさんま」のような和訳ができ上がる。しかし本人は「画家的人間」だからそれが分からず、誤訳のまったくない名訳だと自画自賛するわけだ。これも生来的なセンスで、恐らくその人の生涯で覚ることのない真実なのだ。残念ながら……。

(補):「音楽的人間」と「画家的人間」は水と油のようにスパッと分かれるものではない。80:20で混在している人間もいれば50:50で混在している人間もいる。例えば指揮者は「音楽的人間」であるべきだが、彼が一つの作品を演奏しようと思えば、最初に楽曲を分析(アナリーゼ)する仕事が待っていて、これには「画家的人間」の才も必要とされる。音楽学者のようなこともやらなければならないわけだ。
 この分析によって、作曲家の意図を読み取ることができるし、各パートの強弱やリズム、テンポを自分流に解釈しながら再統合し、自分がイメージする音楽を創出することが可能になる。
 この分析の後で、指揮者は画家が筆やペインティングナイフを使ってキャンバス上のいろんな色彩に手を加えるように、作曲家が描いた楽譜に鉛筆で独自表現のアイデアを書き込んでいく。この楽器のリズムはぼやかそうだとか、このリズムは鮮明に出そうとか、このメロディはこの楽器だけ特にはっきり出そうとか、云々……。 しかしこのドローイング作業の最中でも、主導するのは彼の脳内に鳴り続けている仮想現実的音楽というわけだ。

 


牛タン・エレジー

牛タンを食べたいというので
無理をして高級店に入った
にこやかに話をしていた女が
料理が来ると真剣な顔になり
黙々と鉄板に乗せ始めた

二、三切をそそくさ裏返し
小皿に乗せて俺に差し出し
目を大皿にして焼け加減を吟味し
ひょいと摘んで口に入れ始めた

そのうち女は「美味しい、美味しい」と呟き始めた
唄のように流れに乗っていた
エクスタシーの吐息だ
俺は唖然として箸に肉を挟んだまま
煙越しにじっと見つめた

女は没頭していた
快楽が体の内から膨らみ
マイヨル通りの街灯を通り越し
受精卵のようにボコボコ分裂
とうとう巨大なアメーバになった
喜びの唄をネチネチと
ひたすらに、がむしゃらに
肉を食らい、煙を吸い込む

ハッとして俺は幼い俺を想像した
得体の知れない重い蓋が
どこにもなかったあの頃を…
女はすっかり解放され
一切のしがらみを突き抜け
法悦の中を泳いでいる

俺はこのとき
この星の真実を知った
一粒一粒の生命体が
この喜びのために
蠢いていることを
そしてそれが
悠久の悲しみでもあることを…

 

竹藪

あの頃
裏には深い竹藪があった
台風が来ると
トタン屋根は小太鼓の連打となり
竹たちがパニックを来して殴り合い
ザアザアと音を立てた

竹藪は異界のとば口だ
病気になると
いつも同じ夢を見た
私を乗せた布団が
魔法の絨毯になって舞い上がり
お姫様の宮殿に向かうどころか
庭を竹藪に沿ってただ一周する
きっと耳鳴りだろう
虫の音がリンリンと
緩やかな波を繰り返し
魔王の囁きを物真似する

これは悪夢からの脅し
夜の竹藪を見たこともないのに
異様なほど鮮明なのは…
長々しい屏風絵のように
竹たちの硬直が静寂を醸し出す
密生した竹林の背後は
底なしの暗闇が広がる
布団がからかって
落とされるのではないかと恐怖した
尻に敷き、寝汗を吸わせた積年の恨みか…

私は虚弱な昆虫のように
死体を擬態して
指一本動かせない
なぜか目はキョロキョロと
闇の奥に妙な光を見つけた
消え入るように一点、橙色の灯
あんなところに人家はあるものか
人魂のように揺らいでいる
だがふらふら飛び回るわけではない

明くる朝、親が噂話をしていた
裏の竹藪に浮浪者が住み着いた
怖いわねえ…
毎晩のように訪れる悪夢が
夢ではなかったことに気がついた

いや、夢でなければいけない
私は病気の体を奮い立たせ
寝間着のままふらふら庭に出て
切り通しの崖を登り竹藪に入った
夢の記憶を思い出し
竹と格闘し、隙間を縫いながら
灯のあった方角に分け入った

竹を切った六畳ほどの空間に
継ぎ接ぎだらけの布を屋根代わりに
ボロボロの着物を着た老人が
笹を燃やして湯を沸かしていた
私を見るとニヤリと笑い
「坊ちゃん、お名前は?」と聞いた
先生に、名前を聞かれたら
ちゃんと答えなさいと言われていた

老人は炭団のような顔して
悪魔みたいに笑っていた
私は恐怖で強ばって
口から言葉が出なかった
捜しにきた祖母が
無言のまま私を抱いて
足早に連れ戻した

その三日後の夜
いつもの夢の最中
老人のたき火が燃え移り
竹藪の半分が灰になった
そこに老人の黒こげ死体もあった

人生で幾度か
無一文のときがあった
私はその度に
名前を言えなかった自分を悔いた
そして、今ふたたび…

 

奇譚童話「草原の光」
二十一

 三匹のティラノが攻撃態勢に入ろうとしたとたん、アインシュタインは右側のティラノに祖先帰り銃をぶっ放した。赤い光線が恐竜に当たり、恐竜は火山のように血肉を四方に飛ばしながらどんどん小さくなり、最後には大きな肉の塊になっちまった。その上から一匹のカメレオーネが顔を出したんだ。二頭のティラノは驚いた顔つきで、肉の塊の上のカメレオーネを見つめていたけど、リーダーは心を落ち着かせて恐る恐る聞いたんだな。
「お前はいったい誰だ?」
「あんたの子分ですぜ、ボス」
 二頭のティラノは大きな体をガタガタ震わせて、銃を構えるアインシュタインを見つめ、リーダーが捨て台詞を吐いたんだ。
「分かった、分かった。俺たちはあんたらを襲わないことにしたよ」
 二頭は踝を返して元来た道を引き返そうとしたけど、アインシュタインは呼び止めたのさ。
「待てよ。せっかく私が右側の子分を解体してやったのに、その肉を食べないで帰るんですか?」
「俺たちに共食いしろと?」
「腹減ったら共食いでも何でもするんでしょ?」
「分かった、分かった。食べましょ、食べましょ。その代わり、銃をぶっ放さないでね」

 肉の上のカメレオーネは驚いて肉から飛び降り、すたこら逃げちまった。二頭は仕方なしに仲間の肉に食らいついたんだ。すると、どんどん体が小さくなって、食べ終わったときには、二頭ともすっかりカメレオーネになっちまっていたのさ。二頭は互いに見詰め合って驚き、そのままどこかに逃げていった。
「愚かなゴキブリどもめ!」って言ってアインシュタインは笑ったけど、また二つの肉の山ができちまったんだ。アインシュタインはリーダーの肉に向かって、「元締め、出てきなよ」って声をかけると、大きな肉の山の上からアインシュタインが出てきて、長い舌を出したんだ。こっちのアインシュタインは「あれが本物のアインシュタインさ」ってみんなに説明した。本物はお尋ね者だから、強い恐竜の胃袋に隠れていたんだな。彼はすたこらアパトの頭まで上ってきて、分身のアインシュタインをハグした。すると分身は空気を抜いた風船みたいに萎んじまい、彼はそいつを肉の山に向かって投げ付けたんだ。アインシュタインは一つの星に一人いればいいんで、分身は用無しなんだな。でも、そっくりだからどれが本物でどれが分身だなんて、どうでもいいことなのさ。

 ウニベルはアインシュタインに抱きついて、「こいつはすごい!」って叫んだな。先生も抱きついて、「この祖先帰り銃を量産できるのかね?」って聞いたんだ。するとアインシュタインは首を横に振って、「君たちはこれ以上私を罪人にしたいのかね?」って言った。ウニベルも先生も、この銃さえあれば、恐竜たちを昔のカメレオーネに戻せると思ったんだ。だけど、カメレオーネに戻りたい恐竜がどれだけいるんだろう。
「俺たち草食恐竜はきっと賛成すると思うよ」ってアパト。「けれど、その条件は肉食恐竜がいないことさ」
 そりゃそうだ。カメレオーネになったら、小さい肉食恐竜にも食われちまうんだからさ。それが証拠に、レエリナサウラだとかヘテロドントサウルスとかエオラプトルだとか、小さな恐竜たちがもう臭いを嗅ぎ付けて、十匹ぐらい肉の山に首を突っ込んでんだ。そいつらは食い終わったところで、みんなカメレオーネになっちまった。とくに体長が三十センチしかないエオシノプリテクスなんか、祖先帰りする必要もなかったぐらいさ。で、みんな驚いて逃げちまった。

 すると先生はアパトの頭から降りて、肉の山からアインシュタインアバターを引っ張り出してティラノの足跡の窪みに置き、アパトに「オシッコをかけてくれ」って言ったんだ。するとアパトは臭いオシッコをアバターに向かってかけたんだ。足跡が湯船になって、アバターはすぐに生き返ったけど、ションベン臭かったな。で、先生は「このアインシュタインは私たちの味方さ」って本物のアインシュタインに言ったんだ。本物は苦笑いして「君たちの好きに使ってくれ」って言うと、アパトの頭から手を広げてどこかに飛んでっちまった。やつは天才だから、この星の重力やら引力やらを計算して、飛ぶこともできるんだな。だから飛ぶ前に裸になって、祖先帰り銃も置いてきやがった。これでアバターも同じ物を量産できるようになったんだ。ウニベルもステラも、この星を昔の姿に戻したかったから、とっても喜んだのさ。

(続く)

 

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エッセー「化石賞」VS「ノーベル賞」 & 詩


霊子Ⅱ

夕日が紅茶色に輝いていた
霊子は僕の腕に手を回し
浜の先の磯に誘った
ゴツゴツした岩に座って
軽い霊子を膝に乗せ、キスを求める
爽やかな冷気がクルクルと
僕の口先をからかい
海の方へと逃げていった

君はどうして唇が冷たいの?
あなたの唇が熱いのは
あなたの食べた命のおかげ
命の熱をもらっただけよ

わたしはそうして神様から
愛する人との命を授かった
でもそれは大きな癌だったの
赤ちゃんの代わりに育てることになった

泣いて泣いて
涙がなくなってしまったとき
行かなければならない場所のことが
頭に浮かんできたわ
するといま育てている悪い子は
あっちの世界でもそうなのかなって思った

だってこの子はだだっ子のように
わたしを必死に引っ張っるんだもの
この子はただ
あなたがほかの命から熱をもらうように
わたしの熱を借りて
そこに行こうとしているに違いない

そう思ったら悲しみが吹っ切れて
わたしはもう泣かなくなった
それよりも
この子がそんなに行きたいところを
見てみたい気もするようになったの
だってこの子は悪い子でも
血の通ったわたしの子なんだから

きっとこの子は
そこでしか生まれない子
だからわたしを一所懸命引っ張るの
わたしの命を奪う子は
いったいどんな顔してるんだろう

ある日あんまり強く引っ張るから
とうとうわたしもこと切れた
わたしは赤ちゃんに引かれて
お空に昇っていった

とても素敵なお花畑の中で
わたしは赤ちゃんを産んだんだ
下界の彼にそっくりな
とっても可愛い男の子
大勢の人と獣が寄ってきて
赤ちゃんを祝福してくれた
空には蝶も舞っていたわ

わたしはそのとき知ったのよ
宇宙にはいろいろあって
喜びと悲しみが混じったものもあれば
悲しみだけのものもある
わたしは子供に連れられて
喜びだけの宇宙にやってきた
そして時たま、生まれ故郷に戻ってくるの

でも君はなぜ
その彼に会いに行かないの?
彼には奥さんも子供もいたからよ
そして君は僕に目星を付けた
喜びだけの宇宙で結ばれるために

いいえあなたには奥さんがいるもの
ただあなたが好きなだけ
だってわたしは
いつまでも幸せでいたいから…


霊子Ⅲ

病院の窓から
木蓮の白い花が
風に揺れていた

陽の光がベッドに降り注ぎ
わたしは七色の粒々を飲み込んだ
すると痩せた体は暖かくなって
幼い頃のことを思い出したの

冬に風邪を引くと
お母さんが縁側に
布団を出してくれて
わたしは横になった
涼しい風が顔に当たったけど
布団はお日様を吸って
ポカポカになったわ

ああ、あのとき
あまりにも気持ちがよくて
まるで蚕が繭に抱かれるように
ずっといたい気持ちになった
きっとわたしは
病気になるのが楽しみだった

わたしは同じ気持ちを感じたわ
動かなければならない世界は棘だらけ
お日様はわたしを優しく包んでくれた
体が動かない可哀想な子たちも
お日様に包まれていれば
ずっと幸せなの
幸せ袋の大きさは人それぞれでも
中には同じ幸せが詰まっているわ

天国で生んだわたしの赤ちゃんは
お日様の揺りかごの中で
みんなに見守られながら
永久(とわ)の幸せを楽しんでいる
わたしはこの子と一緒に
いつまでもお日様と
遊んでいるの
いつまでも、いつまでも…

 

エッセー
「化石賞」VS「ノーベル賞

 世界中でコロナの流行が続く中、日本の鎮静化だけが目立って、世界も注目している。原因はよく分かっていないが、その一つにほぼ100%に近いマスクの着用が功を奏していると考える専門家も多い。

 マスク嫌いの人間には辛いだろうが、実際マスク無しで町中を歩くには勇気がいる。マスクを忘れて家を飛び出したときには、衆人環視の中を歩くことが恥ずかしくなり、コンビニを探す羽目になる。その心理には「波風を立てない」という日本人の感情が潜んでいることは確かだ。

 日本社会の雰囲気は、戦争を体験した高齢者には思い出すところがあるかもしれない。国家総動員法が発令され、大政翼賛会が「鬼畜米英」をスローガンに掲げた時代に、少しでも平和主義的な言動をすれば近所の連中に密告され、たちまち憲兵が飛んでくる。しかし、その密告者は悪意があるわけではなく、保身のために密告するのだ。仲間と思われたら大変なことになってしまうからだ。

 日本人の大多数が「セロトニン トランスポーターS型」という恐怖を感じさせる遺伝子を持っていて、それに比べると欧米人(白人)は少ないという話だ(日本人の97%、ドイツ人は64%)。これは白人よりも臆病者が多いということ。「年功序列」だとか「終身雇用」というガッチリした社会システムも、臆病な働きアリたちが築き上げた安心・安全なライフ・スタイルだったに違いない。

 出る釘は打たれると言うが、「終身雇用」を守るには、能力の平準化が必要で、その反動として才能ある人たちが息苦しくなり、自由を求めて外国に逃げていく。保守政党である自民党が人気あるのも、臆病な人間の基本スタンスが「保守」だからに違いない。臆病者は冒険ができない。今までそこそこやってきたので、新しい政党で冒険することもないだろう、という考え。日本人は、石橋を叩くことが身に付いていて、確信がなければ新しい世界に踏み込むことはできないだろう。だから、ビジネスの世界でも、グローバル・スタンダードをなかなか受け入れられないのだ。

 「郷に入れば郷に従え」「長いものには巻かれろ」という諺は、「波風を立てない」という臆病者の気質を表している。権力者や目上の者の主張がおかしくても、異議を唱えずに従う社会風土は確かに存在する。古の時代から、社会や歴史を変えてきたのは武士たちで、平民は付き従うのが基本のスタンスだった。従順に対応すれば、不利益を被っても命は保証されるからだ。百姓一揆は飢餓など、よほどの事態に陥らなければ起きなかった(宗教がらみは別として)。

 ニーチェは、付和雷同する大衆を「畜群」と称して揶揄した。羊の群は、羊牧犬に追われながらも、従っていれば草を食べさせてもらえる。彼らは現時点での満腹や安楽、快適しか眼中になく、将来首を落とされて肉にされることなど考えない。だから羊は苦悩することもなく、苦悩から逃れるために逃亡することもない。

 人間の場合、将来に対する不安は十分なほど抱えている。しかし臆病者ゆえにそれを苦悩にまで高めることなく逃避してしまう。仮に苦悩しても、解決法を模索して積極的に対処するのではなく、老後に備えて貯金をするか、マルクスが「大衆の阿片」と称した宗教に救いを求めるかになってしまう。

 「阿片」はもちろん、共産主義者の言葉で、極貧国における宗教は、秩序を維持する意味で大きなメリットがあることは確かだ。共産主義自体、マルクスの思惑通りにはいかなかったので共同幻想に格落ちし、今のポジションは宗教と同列である。権力者たちの阿片というわけだ。

 ビジネス界では昔から「茹でガエルの法則」がよく取り上げられてきた。カエルはいきなり熱湯に入れると驚いて飛び出すが、常温の水に入れて水温を少しずつ上げていくと気付かず逃げ出さず、最後は死んでしまうという作り話だが、示唆に富んでいる。今の時代、未来を予測して先手先手に攻めなければ、企業は潰れてしまうだろう。

 これは「地球温暖化」にも言えることだ。現在、CO2等による温暖化で、地球全体の平均気温が過去100年間で0.3~0.6℃上昇しており、2100年には平均気温が約2℃上昇すると予測されている。しかし、肌で感じる温度上昇が微々たるものなので、世界中の人々が「茹でガエル」状態に陥っていることは否めない。

 人間もカエルも現状に甘んじていることは同じだ。しかし人間はカエルとは違う。カエルは楽園にいる状態で、ここにいれば安全だと思っており、不安に駆られることはない。

 アダムとイブは満ち足りた生活の中で、未来を考えずに過ごしていた。好奇心さえ起こさなければ、追放されることはなかったろう。18世紀末、英国の武装艦バウンティ号の船員は、地上の楽園タヒチの人々が明日のことを考えずに暮らしているのを見て、驚いた。食料が豊富で、将来のことなど考える必要がなく、今を楽しく生きることに専念していたからだ。
 
 しかし、今の世界はどこにも楽園はなく、裕福な人々すら将来に不安を抱えて生きている。世界中の人々に共通する不安は「我々は何処へ行くのか」というものだろう。当然のことだが、不安原因の筆頭は「核戦争」と「地球温暖化」だ。核戦争はまだ起こっていないけれど、地球温暖化は現実に進行している。

 当然のことだが、「地球温暖化」は人間がもたらした災害だ、ということは自分たちで解消する義務があるということ。しかも、その責任はCO2を大量に排出する先進国や工業国で、もちろん日本も含まれる。

 COP26ではCANインターナショナルが日本に「化石賞」を与えた。これは温暖化対策に消極的な国に与える不名誉な賞だが、当の日本政府も国民も茹でガエルの面に小便のような顔つきで、マスコミすら権威なき一団体が勝手に作り上げた賞だとして大々的に報じることはなかった。

 しかし僕はアンチな意味で「化石賞」はノーベル賞に匹敵するものだと考えている。日本人がノーベル賞を受賞すれば、国中があんなに騒ぐのに、なぜ化石賞は騒がれないのだろう。ノーベル賞が人類の発展に寄与する賞であるとすれば、化石賞は人類の滅亡をくい止める賞であるはずだ。ノーベル賞の対極はイグノーベル賞ではなく、化石賞だ。今の地球の状況を鑑みると、その意義は同等か、それ以上のものに違いない。

 当然日本が受賞するというのは、こと環境問題に関して、日本は政府も国民も同じレベルで意識が低いことを表している。その理由として、まずは経済優先という政府の方針もあるし、政府と経済界が癒着していることもあるだろうが、僕は臆病な国民が、温暖化に対する不安以上に、今の生活に対する不安の解消に汲々としているからだろうと思っている。

 温暖化対策はそれをもたらした先進国の義務であるのに、衆議院議員の選挙の争点も、国民の生活水準の向上に終始したのは、国民が今を豊かにすることを望んでいるからにほかならない。

 本当は、生活も豊かになり、温暖化も解消というのが理想だが、豊かな生活の基盤が電力やガスなどのインフラである限り、望むべくもない。核融合炉や超伝導電力貯蔵などの革新的な技術が実用化されれば話は別だが、今のところ化石燃料に頼らざるをえないのが現状だ。

 だからといって、このままの状態であり続けると、温暖化も後戻りのできない状況に陥ることは目に見えている。しかし良く考えれば、コロナ禍と温暖化には共通点があることに気づくだろう。それは両者とも「世界危機」であることだ。

 違いといえば、コロナは急激にやってきた危機であり、温暖化は徐々にやってくる危機であること。病気でたとえれば、急性か慢性かの違いだが、処置をしなければ最後は同じ結末になる。

 岸田政権は、オミクロン株に対して迅速な入国管理体制を取った(憲法違反であるという話は別として)。経済に固執した菅政権の轍を踏まなかったことは賞賛しよう。しかし、そんな岸田政権がなぜ化石賞を受賞したのか。それは、自分の政権のことばかり目を向けているからではないだろうか。

 短期的な政権が事なきを得ようと思えば、長期的な課題を後回しにしようと思うのは、温暖化問題に対する今までの政府の対応を見れば明らかだ。しかも、温暖化対策は、産業界ばかりか、国民に対しても負担を強いるものだから、それをやるにはよほどの勇気と説得力を持たないとできないだろう。しかし、医師が急性患者も慢性患者も分け隔てなく治療するのと同じに、政府も分け隔てなく対応しなければならないのだ。

 この点に関して、岸田政権は従来政権と変わらず、腰が重いと言わざるをえない。このままでは、環境対策で先を走るヨーロッパから相手にされなくなるのは必定だ。

 以前、フジテレビのプライムニュースで、評論家の橋下徹氏が「政治家の考えと世論が異なる場合、最終的には世論に従うべき」としたのに対し、新聞記者の橋本五郎氏は「政治家はたとえ世論と意見が異なっても、自分の考えを貫くべき」と主張した。僕は、五郎氏の意見を支持したい。

 橋下氏の意見は、民衆の考えが常に正しいという前提に立った典型的なポピュリズム思想で、世論が常に正しいわけではないことは、歴史を見れば分かることだろう。政治家に求められるのは、間違った世論を変える説得力と落選をもいとわない強い意志だ。その好例がチャーチルやドゴールであり、悪い例がヒトラーだが、三人とも自分の理想に大衆を導こうとする政治家魂を持っていた点では共通する。世論を気にするひ弱な魂を持つ者は、真の政治家ではない。特に温暖化問題では、「肉を切らせて骨を断つ」荒療治が必要になるからだ。

 当然ヨーロッパでも、政府の環境対策と産業界との確執が続いているし、規制に対する国民の不満もあるだろう。しかし彼らの政府は、脱炭素移行期の難しさを十分認識した上で、温暖化という地球の慢性疾患に対して積極的に取り組む姿勢があり、負担を強いられる国民に対しても、説明・説得を怠らない。

 その結果かどうなるかはまだ分からないが、少なくとも欧州の人々は日本人よりも環境問題に対する意識が高いことは事実だ。政府が国民を取り込んだのか国民が政府を動かしたのかは、鶏が先か卵が先かの話で、どうでもいいことだ。必要なのは、温暖化に対する危機意識を政府と国民が共有していることなのだ。日本の場合は、政府と国民が温暖化に対する「無関心」を共有していることが問題なのだ。

 COP26で、石炭火力発電について当初案の「廃止」から「削減」に表現が後退したことに対し、政府も電力業界も安堵し、松野官房長官は「国内政策と整合的だ」と宣った。これには石炭から水素を作り出す「ブルー水素」計画も考慮しているが、製造過程でCO2が出るのは必然で、地下に貯留するとなればコストもかかり、成功するかは疑問だ。

 政府の方針は、生命を育む地球という慢性疾患の患者に対する大いなる誤診に違いない。地球の最後を看取るのは神かもしれないが、地球を生き返らせる医者は、人間のほかにいないのだから。それとも、宇宙人が助けてくれるとでも思っているのだろうか……

「過去の因を知らんと欲せば、現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、現在の因を見よ」(釈迦)

 

今までの作品

 

 

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「マリリンピッグ」(幻冬舎
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エッセー「ミルフィーユとディベート」& 奇譚童話「草原の光」二十 & 詩


パリジェンヌ

(戦争レクイエムより)

うんざりしたコロンの臭いも
突き刺さる毒々しい言葉も
小馬鹿にしたような眼差しだって
突然の炸裂音と一緒に
どこかほかの宇宙に飛んじまった
君の彼女が残したものは
紙吹雪のような無数の肉片と
香水よりは増しな血の香りだ
彼女のことを知らないうちに
知らないどこかに行っちまった
まるで捕り逃がした魚のように
もう二度と帰ってこないんだ
きっと君が辛いと思うのは
分からなかったからに違いない
そのまま理解できずに終わって
三日三晩も泣いただろう
テラスの小さな丸テーブルが
彼女のロイヤルシートだった
好色な男たちが声を掛けたに違いない
僕もその一人だったのだから
そしてなぜ僕が選ばれたのかも
分からずじまいに終わっちまった
きっと気まぐれだろうと
納得していたにも関わらず
そして君は最後の最後に選ばれちまったのさ
きっと君がほかの女を弄ぶように、きやすく
君は僕以上に、運が悪かっただけさ…

 

卑怯者
(戦争レクイエムより)

老兵は海辺に小さな家を買った
毎日あの時間が来ると浜に出て
水平線の彼方のあの浜を思い浮べた
沖に浮かぶ無数の敵船から
無数の上陸艇が、無数の敵兵を乗せてやってきた
上官から敵の数を把握せよと命じられたので
見える範囲で声を出して数え始めると
そいつに思い切り頬を叩かれた
数える暇があるなら機銃を点検せい!

戦闘が始まると、わが軍は果敢に立ち向かった
しかし多勢に無勢で後退を余儀なくされたのだ
味方はジャングルでの戦いに敵を引き込んだが
彼だけは機銃を倒し、浜の塹壕で丸くなっていた
叩かれた頬が痛くて、やる気を失くしてしまったのだ
わが軍は玉砕し、一人だけ捕虜となった

老兵はいつも、死んだ仲間たちのことを思い出すのだ
決戦の前日に連中とマージャンをやった
誰かがポンをする前に牌を入れちまったので戻したが
手が震えていて、すり替えたと疑われた
あの牌があれば満貫をテンパることができたのに…
しかしなぜ手牌を広げて、潔白を証明しなかったのだろう
上がったら、ますます卑怯者だと思われたろうに
俺は子供の頃から意気地なしだった…

老兵は海の彼方を見つめながら
あのときの失態を悔やむのが日課だった

 

エッセー
ミルフィーユとディベート

 福岡で開催された新体操の世界選手権大会では、フェアリージャパンが大技「ミルフィーユ」を決めた。その名前は誰もが知っている人気のフランス菓子で、フランスでは「千枚の葉っぱ」を意味するらしいけど、実際には三枚のパイ生地の間にクリームを挟むのが主流だそうだ。

 本物の葉っぱが落ち葉としてミルフィーユ状態になれば、土壌細菌が下から食い尽くして最後には肥えた土になり、捨てた主人を育ててくれる。自分が出した廃棄物を養分として再び根から取り入れるのだから、植物は太古から効率的なリサイクルを行ってきたことになる。だから沙漠に植樹するには丈夫な植物を選ぶ必要があるし、たくさんの葉っぱを落とすようになるまでは管理が必要だ。ミルフィーユ状態になったときに初めて、人手をかけずに木々が育っていく土壌は形成されることになるのだ。

 昔はオフィスの机が書類のミルフィーユで、最下層の紙は薄茶色に変色するものの、机の肥やしにはならずに残存していたものだ。でも引っこ抜いてみると破れて粉々になり、ゴミ箱入りとなる。書類がデータとしてパソコンに入ったいまでも、ミルフィーユ状態のデータはなかなかゴミ箱入りにならない。みんな何か大事な内容があるんじゃないかと思っていて、なかなか捨てきれないようだが、ほとんどが古臭い情報だ。時代はどんどん流れているんだから。

 人体について言えば遺伝子科学の分野で、最近になって何の役にも立たないと思われてたジャンクRNA(遺伝子情報をタンパク質に翻訳できない)が、炎症防止や老化防止に大きな役割を果たしていることが分かった。クズだと思っていたのに、立派な働きをしていたことになる。

 それじゃあ脳味噌の場合はというと、そいつもたくさんの情報を入力していて、メカニズムはどうであれ、イメージとしては葉っぱのように積層していく。必要な情報は厚い葉っぱで、つまらない情報は薄い葉っぱ。当然のこと脳味噌にはキャパがあるから、薄い葉っぱからどんどん捨てられていく。それがきっと忘却なのだろう。けれど必要・不必要以外にも、印象的な情報は厚い葉っぱとして腐らずに、いつまでも残ることになる。楽しかったこと、怖かったこと、愛したこと、振られたこと、失敗したことと色々だが、忘れたい記憶も印象が強い分、残っちまう。そいつが時たまフラッシュバックとして悩ましたりするから、心療内科は繁盛する。

 しかし忘却処分した用のない情報も、全部がきれいに捨て去られたわけじゃない。たぶんジャンクRNAのようなカスとして半溶け状態で残っていて、肥やしとなって人間を成長させてきたに違いない。彼の人格やら人間性は、遺伝的なものをベースに、味噌もクソも含めたあらゆる入力情報で築き上げたものだ。それは、過去に入力したいろんな情報のミルフィーユといってもいいだろうし、そのどれが有用で、どれが無用かなんて誰も決め付けることはできないだろう。ジャンク情報は忘れ去られても、忘却菌に侵されて溶けるときには脳内に痕跡を残す。一つひとつの痕跡はチョコレート色かもイチゴ色かも知れないが、いっぱいあれば斑になり、点描画のように遠目で見れば一つの色になる。きっと人それぞれの好みや経験でその色合いは変わるだろう。そいつは、人格やら性格やら能力やら、人間形成にも影響を与えるのだ。薔薇色だったら、きっと薔薇色の老後が待っている。そんなに甘くないか……。

 当然だが、ミルフィーユが厚いほど人間は幅広い問題に対処できるようになる。つまり脳味噌は、コンピュータのようなものだと言えるだろう。優れたコンピュータはデータベースとして豊富な情報を抱え、与えられた未解決問題を検討しながら、より速く必要な情報をピックアップし、そいつらを再構築して正しい答えを引き出す。人間でも将棋の棋士は、同じことをやっている。彼のデータベースも豊富な葉っぱが整理されて蓄積し、目の前の将棋盤を見ながら瞬時に同じような展開に対応した過去の葉っぱを引き出し、それを基に新たな一葉を考え出すわけだ。きっと稚拙なジャンク情報の引き出しもあって、時と場合によってはそいつを漁って奇をてらった一葉に変身させ、相手に目くらましを与える。

 ということはコンピュータでも脳味噌でも、まずはミルフィーユの枚数が必要となる。多ければ多いほど、引き出しも多くなる。だけど必要な一枚を引き出せなけりゃ、蓄積データは宝の持ち腐れになっちまう。記憶力は、きっとその一枚を引き出す検索エンジンで、そいつの保存状態が悪くてもインデックスさえ付いていれば、ヒットした後にある程度修復することもできるし、ことに知識の場合は、そのキーワードからの再調査も可能だ。修復データは図書館やインターネット(真偽のほどは分からないが)の中にある。きっと東大生は検索エンジンの質が良く、将来は○○○のように葉っぱをお札に変えて暮すのだろう(ひがみです)。

 ところで、コンピュータにも汎用製品もあれば専用製品もある。汎用製品のデータベースは多方面にわたるが、専用製品のデータベースは使用目的に対応した情報しか入っていない。昔、企業が「ゼネラリストよりスペシャリスト」なんて言葉を叫んでいた時代があった。ゼネラリストは「広範囲にわたる知識を持つ人」でスペシャリストは「専門的な知識に長けた人」という意味だ。産業が進化し続けると製品もシステムも複雑化し、高度な技術が必要になるから、企業がそう叫ぶのも無理はない。昨今巷には自称スペシャリストが溢れ、そんなスローガンは必要なくなった。

 けれどそんなスペシャリストが主力商品を開発して、その勢いで社長に昇格しても、彼のミルフィーユが専門分野一色だったとしたら、会社経営は難しくなるに違いない。社長には人事や経済、取引先との人間関係、マーケティング、市場予測、ゴマすりなどなど、別の経験や知識、才能が必要だからだ。オウム真理教事件の受刑者にも優秀な専門家が多かったが、そうした人たちにも専門外情報の入力不足はあったかもしれない。AI兵器の専門家も、彼のミルフィーユが専門一色に染め上がっていれば、人類滅亡の武器を開発している自分の立ち位置を理解することはできないだろう。

 さてそのミルフィーユだが、人それぞれで溜め込んでる葉っぱの枚数は千差万別だ。人生百年とすると、経験による葉っぱの数はさほど異なりはしない。とすれば、あとはメディア(書物も含め)から獲得した知識ということになるだろう。一般的にゼネラリストのほうがスペシャリストよりも世の中を上手く渡っていけると思われているのは、ジャンクを含めた幅広い経験と知識を活用しているからに過ぎない。反面、スペシャリストは人生の多くを研究室や開発室、屋内や現場で過ごすから、経験も知識もそのあたりが多く、溜め込んだ葉っぱも定年後には無用のゴミと化すことはあるだろう。きっと交友関係も少なく、何か趣味を持たなけりゃ長い老後は退屈かも知れない(独断的偏見)。もちろん、趣味でも専門分野を継続すれば別だ。

 学校教育には、知識を詰め込む教育もあれば、体験教育もある。これらはすべて脳味噌の葉っぱを増やす作業に違いない。ついでにそれを引き出す方法も、引き出したものから何かを創り出す方法も教えてくれる。けれど基本は、いろんな葉っぱを脳味噌に詰め込むことが第一に違いない。詰め込んじまえば教師の役目は果たしたと自己満足でき、あとで忘れようが、それは出来の悪い子供の責任だ。日本は民主国家だからいろんな色の葉っぱを詰め込むことができるが、権威主義国家では違う色の葉っぱは燃やしちまう偏向教育が行われている。これは秦の始皇帝時代から変わらない。

 詰め込まれた葉っぱは、教科に関するものはもちろん、社会で起きてることや、世界や地球のことや、経済のことや、生活のことや、人間関係のことなど色々だ。それらは子供の脳味噌の中で好みによって整理されていく。そのとき、好きな(必要な)色の葉っぱは上のほうにまとまり、嫌いな(不必要な)色の葉っぱは下に落ちていくことになる。しだいに下の葉は上の圧力で変色し、最後にはジャンクとなって忘れ去られる。けれどジャンクと化した葉っぱも、脳味噌の炎症(炎上)防止には役立つのだから、教師は詰め込まれた葉っぱを偶に攪拌してやる必要があるだろう。詰め込み教育の弊害は、この攪拌作業を教師が怠ることに起因する。子供が受験のことしか考えていないとすれば、必要な教科以外はジャンク化するだろう。攪拌すればジャンクが舞い上がって、子供が覚醒することだってありえる。底には社会の勉強に不可欠な情報が散乱しているからだ。

 その攪拌作業というのが、先生を含めた「ディベート」なのだと僕は思っている。先生も生徒も世の中のいろんな問題を俎上に乗せ、子供はディベートによってほかの仲間たちの考えや好み、先生の考えていることなんかも知ることができ、自分とは違う考えの人たちがたくさんいることに驚かされるだろう。そしてそれが、民主主義社会の土台であることを知る。たまには誰かの言葉に心を動かされ、それは自分がかつて捨ててしまったジャンクな葉っぱであることを思い出して、脳味噌の底から掬い上げることだってあるだろう。そんな作業を繰り返していくうちに、世界中のあらゆる現象を俯瞰的に捉えて、的確に判断できる能力が培われていくのだ。

 欧米では、ディベートや子どもたちだけの自主的な活動を教科に取り入れている学校が多いと聞く。日本もそうしていけば、脳味噌のキャパも大きくなって多くの葉っぱを収納でき、検索エンジンの能力も向上して、頭の硬い頑固親爺の数も減っていくに違いない。欧米は自己主張のお国柄だけど、理解し納得すれば簡単に握手することができる。それでも頑固親爺が無くならないとすれば、きっと葉っぱの色が偏っているか、単純に枚数不足なのだろう。(頑固親爺とは、理屈に合わないことを頑強に主張するおバカな連中を指す)

 日本は「へりくだり」、「すり合わせ」、「横並び」の社会で、自己主張する人間やズカズカものを言う人間が、周囲から煙たがられる風習が未だに残っている。これは士農工商や村社会、『和を以って尊しとなす』といった過去が、負のジャンク感性となって残存しているからだ。お侍にペコペコ頭を下げていた平民は、現在では地位の高い人にペコペコしている。彼らはマスクやワクチンを拒否する欧米人を見て、愚かな奴だと思うだろうが、逆に欧米人から見れば、そんな人間がほとんどいない日本人を気味が悪いと思うに違いない。彼らは日本にやって来て、朝の通勤ラッシュ時に、電車から同じ色合いの背広を着たサラリーマンがドッと出てくるのを見て驚愕するのだ。その服装はサラリーマンのユニフォームであり、「私は自己主張しません」という宣言をアイコン化したものに違いない。そんな雰囲気を嫌って、ノーベル賞の眞鍋淑郎氏はアメリカに渡った。

 ヨーロッパでは、どんな田舎のバーや広場でも、リタイヤした老人たちが酔っ払って、日がな一日ディベートしている。内容は政治や社会、生活、ゴシップなどなど多岐にわたるが、それらは退屈な老後の活性剤になっていることは確かだ。恐らく古代ギリシアの時代から、広場で自分の考えを戦わす習慣は続いてきたのだろう。しかし殴り合いになることはなく(暴力の刑も重い)、主張が平行線に終わっても、最後は握手で続きはまた明日ということになる。

 日本の中高年者は、テレビの報道番組やバラエティー番組でゲストたちのディベートを視聴しながら、こいつの言うことはいいとかおかしいとか呟きながら、傍観者として楽しんでいるが、それほどの数はいないだろう。若い人たちは携帯やパソコンをやるぐらいで、短文のチャットでは感情が先走り、ディベートにもならない。今回の選挙(衆院選)の投票率は55.93%で戦後三番目の低さだったというが、有権者の半数近くが政治には無関心ということになる。受験教育は個人の将来、一国の経済を決めるきわめて私的・地域的な教育だが、ディベートを核とした広範な話題の社会教育は国を跳び越して、世界から人類・地球の将来を決める、きわめて重要な教育だ。「教育」には自分を高める教育と社会を高める教育があり、どちらも等分に必要なのだ。

 政治や社会の問題について言えば小中高の授業では少なく、欧米並みにディベートの機会を増やすべきだろう。受験、受験と、多くの若者たちが私的な殻の中に閉じこもっている状態から一刻も早く解放され、地球の将来をフォーサイトできる眼力を身に付けてほしいものだ。

 


奇譚童話「草原の光」
二十 ティラノとの戦い始まる

 で、みんなは一列になって遠くの山脈に向かって歩き始めたんだ。草原は地球では見たこともないような赤い色をしていて、だれも食べようとはしなかった。草は背の高さぐらいあって歩くのは大変だけど、アインシュタインはすぐに道を見つけたんだな。これは巨大な草食恐竜の尻尾が草をなぎ倒した跡さ。だから、時たま巨大なウンコに遭遇するんだ。そいつは五百メートル手前からも分かるような臭いがしたけど、みんなは鼻をつまみながら近付いていくと、道のど真ん中に小山のようにしてあるんだ。おまけに大きなハエがたかっている。ウンコの中を通るわけにはいかないから、みんなは深い草の中に入って回り道するんだけど、アインシュタインはウンコの壁に手を突っ込んで、握ったウンコに白い粉をかけたんだ。
 するとウンコはたちまち白い色に変わって、大きなメレンゲになっちまった。アインシュタインはそいつを美味そうに食べたから、お腹の空いたみんなは腹を鳴らしたな。そしたらアインシュタインはもっと大きなウンコをすくって白い粉をかけたんだ。最初はみんな、ためらっていたけど、あまりにもお腹が空いてたから、齧りついたんだ。そしたらけっこう美味しかったんで、みんなは喜んだな。宇宙では、ウンコも簡単にリサイクルできるんだ。何でも利用できるんだな。


 みんなはお腹も張ったしアインシュタインもいるしで、安心して旅を続けたんだ。そしたら道を造ってくれた草食恐竜に追い着いちまったのさ。それにこの恐竜は大グソを垂れたとたんに、いきなり九十度曲がっちまったから、山に行く道も途切れちまった。それでアインシュタインは恐竜に声をかけたんだ。
「おい恐竜君。君の名は?」
「アパトさ」
「君は昔の姿に戻りたくないのかね」
「カメレオーネに戻れってか?」
アパトは長い首を後ろに向けてバカにしたように笑ったんだ。
「カメレオーネは山の中に隠れて生きてるぜ。そんな生活は真っ平さ」
「でも君は、いつも肉食恐竜に食われるんじゃないかって怯えている」
「だから食われないようにここまで大きくなったんだ」
「じゃあ、例えばティラノサウルスが三匹同時にやってきたら、どう防ぐんだね?」
「湖の中に逃げるさ。首が長いから、沖に出ても溺れることはない」
「でもここには湖はない。しかも三匹同時にやってきた」

 見ると、巨大な肉食恐竜が三匹、こっちに向かってくる。
「ヤバイな、万事休すだ。あんたら、おいらを助けられるかい?」
 アパトは大きな体を震わせて、アインシュタインに懇願した。
「わしたちを背中に乗せて、山まで運んでくれたらな」ってアインシュタイン
「助けてくれるなら、何でもするさ」
 で、みんなはアパトの尻尾から登って、頭の上まで行ったんだ。頭の上は平たくてみんなが登れるぐらいの広さがあった。アパトは恐怖でぜんぜん動かなくなっちまったから、落ちることもなかったな。

 三匹のティラノサウルスが獲物を前にして、ニヤニヤしながら近付いてきた。一匹が正面から、一匹は横から、一匹は後ろから攻めるのが標準的な攻撃パターンだから、アインシュタインは三匹が分かれる前に声をかけたんだ。アパトがパニクッて、ふるい落とされるのは嫌だものな。
「おい君たち、食うつもりかい?」
「もちろん。腹が減ってるんだ」って真ん中のでかいやつ。どうやら彼がリーダーみたいだ。
「でも僕は、君たちの祖先なんだぜ。君たちは僕の兄弟から生まれてきたんだ」ってウニベルは言った。
「笑わせるぜ。俺たちの祖先がお前だなんて、バカにするにもほどがあるぜ。どこにそんな証拠があるんだ」
「じゃあなぜ、君はカメレオーネ語を話すんだ?」
「そんなことは知ったこっちゃない。俺たちはこの星で一番強いんだ。俺たちがこの星を支配してるんだ」
「じゃあなぜ、君たちは仲間どうしで殺し合いをする?」って先生が聞いた。
「そりゃ、獲物を独り占めするためさ」
「強い恐竜が美味い部分を食えるのさ」って右隣の恐竜が言った。
「仲間を殺して楽しいの?」ってヒカリが聞いた。
「楽しくないさ。けど、美味いものが食いたいんだ」って左側の恐竜。
「美味いがすべてさ」
 リーダーが相槌を打った。
「じゃあ、美味しい部分ってどこ?」
 ナオミが聞いた。
「肉だな。血の滴るやつだ」ってリーダー。
「じゃあ、仮に君たちの一人が新鮮な肉を提供したら、あとの二人はそれに食らいつくのかね?」ってアインシュタインは変な質問をした。
当たりめえじゃねえか。この星は弱肉強食の星なんだ。食い物が無くなりゃ、共食いを始めりゃいい」
「じゃあ君は体が大きいんだから、子分を食えばいいじゃないか」
「バカだなお前。目の前に大きなエサがあるのに、なんで仲間を食わなきゃいけないんだ?」
 三匹は大きな口を開けてゲラゲラ笑った。
「そりゃだって、我々は食われることを拒否しているからさ」
「バカだなお前、拒否したって食われるときは食われるんだ」ってリーダー。
「それは我々が君たちより弱い場合だろ?」
「驚きのアホだな。肉食恐竜のほうが草食恐竜よりも強いのは常識じゃん」
「誰がそんなことを決めたんだい?」
「ええもうウザイわ。早く食っちまおうぜ」
 痺れを切らした右側がわめいたので、アインシュタインは慌てて訂正した。
「じゃあこうしましょう。君たちは共食いも辞さない星に住んでいらっしゃる」
「はい、そうです」ってリーダー。
「仮に我々が君たちよりも強い場合、君は右隣の方を食べますか?」
「ははあ、分かった。要するに、三対一は不公平じゃないかって言いたいんだろ?」
「ボス、俺は一匹でもこんな草食竜は仕留められますぜ」って右隣。
「バカバカしい、こいつらの話なんか聞く耳持たんわ。さあ、攻撃開始だ」
(つづく)


(コリン星出張のため、次回の投稿は一カ月後となります)

 

 

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エッセー「他人の命について」 & 奇譚童話「草原の光」十九 & 詩


天空の花園

人生で一度だけ
この世のものとは思えないほどの
美しい花々を見たことがある
それはアルプスの高原に広がる
高山植物の群生だった
一センチにも満たない花たちがそよ風に揺れながら
年に一度の装いを競い合っていた
汚れのない空気が花びらに溶け込み
清らかな陽の光を透過して
どの花たちも高貴な輝きを放っていた
花粉を運ぶ虫たちのために
こんな演出をするはずはなかった
私は顔を上げて陽の光を浴びながら
きっと近くにイデアの世界があるのだろうと思った
神様がそこに咲く花たちを、夜のうちにそっと置いたのだ
巧みな画家も、写真家も、詩人たちだって
あの清楚な色ざしを形にすることはできないだろう
それは超自然の力が戯れに与えてくれた
光と空気と風による、つかの間のイコンに違いなかった
そうだ、ここは下界と天界の分水嶺
濁り色した現世に天のエキスが混じり合い
てらいのない光が穢れたちを浄化し、同化させたのだ
そのとき私は、いつか訪れるだろう恒久の幸せを予感した…

 


エッセー
他人の命について

 地球上のあらゆる生物が活動できるのは、「命」があるからだ。魚や動物だけを考えれば、「命」は玩具の電池のようなもので、それがなければ止まってしまう。乾電池なら取り替え、蓄電池なら充電すれば、再び動き出す。しかし命を失った動物に、いくら外部からエネルギーを注入しても、再び動き出すことはないだろう。

 科学者は命を、たんなる抽象概念だと一蹴するだろう。あるいは心臓を中心とした血液循環システムがそれに相当すると言うかも知れない。しかし多くの人は、「命」というコインの裏には「魂」というものが付いていると思っている。それには「心」だとか「精神」だとかの要素も当然含まれている。ソクラテスは魂を「真の私」と言ったそうだが、「魂」を「私」と言い換えれば、「命」は「私」を包み込む袋のようなものとも言えるだろう。だからそれが破れれば、「私」はどこかに飛んでいってしまうことになるのだ。しかし「命」が袋なら、きっとその中に入っている「私」のほうが大事な存在かも知れない。意識が無く、延命措置を施されている「私」は、家族にとっては「私」かも知れないが、私にとっては「私」でないからだ。

 科学者とは違い、多くの人が「命」を「私」だと捕らえている。だから他人が死んでも、人は「私の死」を考えてから、お気の毒と思うことになる。ならば、健康で自分の死を意識したことのない人間と、余命宣告された癌患者では、他人の死に対する印象も異なるに違いない。

 コロナ渦で、多くの人が命を失った。毎日のように死者数が表示されるが、それは単なる数字であって、その裏にある哀れな人々の壮絶なドラマは見えてこない。テレビの視聴者は、前の週より減った、増えたなどと一喜一憂し、収束の兆候を見出して安堵感を抱くぐらいなものだ。そうした人たちの多くは、純粋に「命」が「私」であると思っていて、「私」が命の危険に晒されなくなったことを単純に喜んでいる。

 しかし、その死者の中に自分の身内や友人が含まれていたら、この数字の捉え方は違ってくるだろう。この数字の中の一人の「命」が、「私」という魂に深く関わっていた「命」であったことで、その喪失感を味わうことになるのだ。そのとき初めて、人は「私」が入っていた命袋の片隅に、別の魂も入っていたことを知る。コロナで死んだ友と関係があれば、「私」は悲劇の当事者に加わり、そうして初めて「私」以外の「命」の喪失を意識することになるのだ。

 アリストテレスの「カタルシス」論は、悲劇の舞台で殺される英雄や不幸な妻子を観ることで、観客の心の中に溜まっていた不安や怒りや罪悪感などを吐き出して浄化する効果を述べているらしいが、それは舞台上の英雄たちが観客とは関係のない人たちだからできることだ。自分の父親が舞台で殺されたら、心がすっきりするはずもない。人が思う「命」は、恐らく私的な概念で、きわめて私的な「私」というハブを中心に、四方に広がるリムを伸ばして身近な関係者と繋がっているだけなのだ。一人ひとりがそんな車輪を転がしながら生命活動を営んでいるわけだ。そのリムと繋がらない近所のおばさんが死んでも、気の毒には思っても、悲しくなることはないだろう。

 だから大量虐殺などが起きても、それがおかしいと考える人たちだって被迫害者に関わりたくないと思い、せいぜいリムで繋がっていた友達だから匿ってやるぐらいなのだ。コロナ渦でも、社会の目を気にする日本人は、お利口さんにお上の言うことに従って行動するが、個人主義を大事にする外国では、命袋の中の「私」が大きくて、若者は他人の「命」よりも「私」を優先して、ああした行動に出るわけだ。コロナに罹るよりも、自由の制限が「私」そのものを壊しかねないと思うからだろうし、赤の他人の「命」よりも「私」の維持のほうが優先順位は高いと思うからだろう。やんちゃな若者なら自分の「命」よりも、「私」を優先させることだってあるのだ。

 こうしてみると、「命」というのは「私」を保護する袋で、それが破れれば「私」が消滅するだけに過ぎないということになる。私の「命」が無くなれば、「私」も無くなる。しかし、他人の「命」が無くなっても、「私」の「命」が無くなることはない。すると、他人の「命」はたちまち抽象的な概念となってしまい、社会や時代の状況で解釈が変わっていくことになる。歴史的に間々起こる「大虐殺」や「戦争」も、他人の「命」が私の「命」と異なることから生じる現象に違いない。私の「命」の中には「魂(私)」が鎮座しているが、他人の「命」の中には「魂」は無い。人々は他人の「命」という袋を見ているだけで、本当は存在する中の「魂」を透視することはできないからだ。

 自分と他人の「命」が同じだと思うには、他人の「命」の中にも「魂」があることを想像する必要がある。しかし想像することは知的な作業で、それは「教育」によってしか得ることはできないだろう。国どうしがいがみ合う状況の中で、「教育」方針が時の政府によってクルクル変わるとすれば、それは人類にとっての大いなる悲劇に違いない。憎むべき敵国人の命袋の中にも、我々と変わらない「魂」が宿っているのだから。

 

 

奇譚童話「草原の光」
十九 カメレオーネ星に到着

 で、隣の時空から元の時空に戻り、ワームホールから飛び出したとき、目の前にギラギラ輝くシリウスが見えたんだ。シリウスは太陽の倍ある大きな星だけど、カメレオーネ星は遠いから、地球と同じくらいの気候さ。海と陸の比率も同じ。空気だってある。
 大気圏に入るや、いきなり湖の上に着水した。バカンスは終わりだ。大きな湖で、周りは草原だった。遠くには山脈が見えたし、まるでエロニャンの国みたいな風景だった。でも違うのは、岸の草原で大きな恐竜たちが取っ組み合いの喧嘩をしていることだ。この恐竜たちが、カメレオーネの子孫だなんて、ウニベルもステラも考えたくなかったな。だから彼らは、未だにカメレオーネの姿をしている仲間たちを探したいと思ったんだ。でも、遠くの山に隠れて住んでいるらしい。そこまで空飛ぶ円盤で行けばいいんだけど、それは宇宙法に違反するってアインシュタインは言うんだ。宇宙法では現地の人たちを脅かすような行為は禁止されているからね。
「わしは一度法律に違反したから、罪の上乗りはしたくないんだ。空飛ぶ円盤の免許を取り上げられちまうからな」
 それで、仕方なしに遠くの山まで歩いて行くことにしたのさ。

 アインシュタインは空飛ぶ円盤を岸に着けて、サービスロボを残して全員が陸地に上がったんだ。円盤は自動的に沖に戻ったな。でもって身の安全を図るため、アインシュタインは自分が開発した「祖先帰り銃」を携帯したんだ。
「実は本当のわしはこの星のどこかに隠れていて、研究を続けているんだ。その一つの成果がこの祖先帰り銃さ」

 アインシュタインが言うには、カメレオーネがいろんな動物に変身できる能力を科学的に分析して、なんで大きな恐竜に変身できたかを突き止めたんだ。そしたら、カメレオーネはいろんなウイルスを持っていることに気が付いたのさ。その一つは、モーロクの子供たちが罹った眠り病ウイルス。これはウニベルとステラが地球に持ち込んだものだったんだ。二人は驚いて縮こまったけど、先生もケントもナオミもぜんぜん気にしてなかったな。もともとウイルスなんて宇宙から地球にいっぱいやってくるものなんだ。
 そしてもう一つは巨大な変身ウイルスだ。このウイルスは細菌以上の大きさがあって、カメレオーネが変身しようと思うと出てくるホルモンを受け取り、瞬間的にドッと増えちまうんだ。カメレオーネが真似する相手を見詰めていると、視神経の情報をキャッチして同じように増殖するから、ハリボテみたいにスカスカのそっくりさんになっちまうってわけさ。でもって、元に戻ろうって気がないと、そこに肉が入り込んで、元に戻れなくなっちまうってわけ。そうなる前に戻ろうと思わなけりゃいけないな。で、恐竜たちはカメレオーネに戻れなくなっちまった。

 それでアインシュタインはその巨大ウイルスだけをやっつけちまう光線中を開発したってわけ。そいつを恐竜に当てると、元のカメレオーネに戻っちまうんだ。獰猛な恐竜に出くわしても、これさえあれば食われることもないさ。
アインシュタインおじさん。その銃を使えば、眠り病の子供たちを眠り病に罹る前の子供たちに戻すことはできるの?」ってヒカリは聞いたな。
「残念だが、それはできないな。だって、これは巨大ウイルスにしか効かないんだ。眠り病のウイルスを駆逐する能力はないんだよ」
 それを聞いて、みんなガッカリさ。

(つづく)

 

 

 

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