詩人の部屋 響月光

響月光の詩と小説を紹介します。

エッセー 「芸術は爆発だ!」& ショートショート

エッセー
芸術は爆発だ
~ムリヤリ芸術二元論~

 冬になると野原は枯れた植物の死体で満たされ、人々は寒さで体を縮込ませながら、再び訪れる春のことを思い浮かべる。僕は近くの河原に立って荒涼とした景色を眺めながら、最初に色とりどりの花たちに埋め尽くされた春の河原を思い浮かべ、次に色とりどりの観衆に埋め尽くされた大リーグの開幕試合を思い浮かべる。花は花でも。大谷翔平という花形選手の躍動する姿をイメージしたわけだ。春の花と大谷さんでは、少しばかりニュアンスが違っているが、似ていないこともない。

 春の花は、植物の繁殖を助けてくれる虫たちを招き寄せるための看板そのもので、そこにあるのは虫たちに気付いてもらうという受動的な美しさだ。おそらく虫と同じ感性の人間は虫と同じようにそれに引かれ、強引に手折って家に持ち帰り、新鮮な花の死体を床の間に飾る。しかし花は虫とのコミュニケーションのために用意されたもので、それを食べる動物ともども、死体を愛でる人間は迷惑至極な存在だろう。植物は花粉の運搬屋である虫たちの飛翔エネルギーを取り込むために花という目印を示す。虫たちは蜜という駄賃を吸うのが目的で、花びらを奪う悪事はしない。それは共生関係というお互いの愛情の融合だ。

 一方大谷さんの場合は、誰も客寄せパンダだとは思いたくないだろう。彼は花より弾丸で、体内から表出するパンチ力が多くの人々に芸術的な美しさを感じさせる。大谷さんの場合は、観客とのコミュニケーションではなく、観客に力を示して敬服させる衝撃的な美しさで、対戦チームとそのファンには脅威となる。つまり味方ファンを花と仮定し、大谷さんをミツバチとすれば、ファンの声援は花びらの役割を担い、大谷さんはそれに応える結果で彼らを満足させ、愛の融合が成立する。物理的に弱い力と強い力があるように、美には「愛」を表す女性的な美と「力」を表す男性的な美が存在するわけで、それは外から内への受動的な美と内から外への能動的な美といい替えることもでき、時と場合によってスイッチが変わり、二つの美の間で様々なやり取りが行われる。

 例えば弥生土器縄文土器を比べるとそれはよく分かる。岡本太郎縄文土器の力の美しさに魅了された。若い頃、僕は縄文土器のごてごてした装飾をグロテスクで悪趣味(下品)だと思っていた。反対に弥生土器の飾り気ない簡素な姿に、洗練された印象を抱いた。おそらく「芸術は爆発だ!」と唱える岡本は、縄文土器の美しさの意味を知った最初の芸術家だった。彼は原爆を予測したといわれる『都市の爆発』を描いたシケイロスに同調し、常に感情の爆発を形にしようと思っていた。しかし爆発はエントロピー(無秩序な力)で、絵にするのは難しい。もちろん、抽象は具象よりも爆発のシズル感に適していた。キャンバスという有限の二次元空間で、その制限ぎりぎりのところまで爆発を表現したのが彼の絵画群なのだ。

 フロイトは、人間の欲動には破壊(殺害)しようとする「死の欲動(破壊衝動)」と保持(統一)しようとする「生の欲動(愛の衝動)」の二つの欲動があり、その絡み合いで生きていくと述べた。本来的に、死の欲動は自分を守る本能で、生の欲動は他者を愛し(受け入れ)安定した環境で増殖を続ける本能だ。言い換えると、破壊衝動は自分の身を守るために他者を毀損する衝動で、内から外への感情爆発だ。それがにっちもさっちも行かなくなると、この衝動は自分に向けられて自傷に導く。また、社会内存在の人間は自分を守るために、社会という檻を打ち破ろうとする足掻きを感じることも多く、これが内から外へのエネルギーになって、罠に捕らわれた熊みたいに大暴れするケースもある。

 愛の衝動は外の感情を内へ取り込んで溶け合う他者との融合だ。これは性愛はもちろん集団生活を営む群に必要な集団愛の本能だ。集団は安定した環境を作るために、外から内へ他者の感情エネルギーを取り込みながら、内から外への感情エネルギーと融合させ、互いに安定した関係を築き上げる。それが失敗した場合は内輪揉めとなり、集団は分裂する。いま騒がれている自民党派閥も、いずれ分裂するに違いない。そう考えると縄文土器は、縄文人の内から外への芸術的衝動を形にしたもので、弥生土器弥生人の外から内への芸術的融合を形にしたものといえるだろう。

 野山を駆け巡る縄文人は狩を行い、常に動物との戦い、他者との縄張り争いに明け暮れていた。戦いに必要なものは、欲望や怒りなどの体内から体外に発散するパワフルなエネルギーだ。そしてそのエネルギーは日々持続させなければならない。それは阿修羅のような内から激しくほとばしり出る炎だ。縄文人は自分の心身そのものを、男性的な土器に投射したといっても過言ではないだろう。縄文土器は煮えたぎる破壊衝動を昇華したものだ。おそらくこの土器を最初にデザインしたのは男だったに違いない。

 一方弥生時代には農耕も盛んになり、人々には共同作業による協調の精神が求められるようになった。人々は激しさから温和への転換が求められ、棘もなく円やかな女性的スタイルの土器が作られるようになった。この土器は他者との愛の融合、妥協や統一を昇華したものだ。おそらくこの土器を最初にデザインしたのは女だったに違いない。

 そしてこの縄文土器弥生土器を芸術として考えると、創作エネルギーのベクトルが内から外への芸術と、外から内への芸術として捉えることができるだろう。内から外への芸術的感性は、破壊的要素を伴っている。反対に、外から内への芸術的感性は統一(調和・融合)的感性を伴っている。例えば美術でそれを考えると、ギリシア彫刻は神々の美しさや激しい物語を写実という統一性で表現した。だから生身の人間から石膏型をとって粘土で原型を作り、ブロンズ像に仕立てあげたりしたわけだ。神々の内から外への縦横無尽なエネルギーに憧れ、その波乱万丈な物語を題材としながらも、表現上では外から内への写実として融合して整える手法は、イタリアのルネッサンス期に解剖学的に研究され、絵画においては透視法などによる奥行・立体表現も加わり、さらに視覚的なリアリティが高まった。彫刻においても、ミケランジェロの『ダビデ』は、若者の内から外へ漲る若々しいエネルギーと、制作者の静的な目線という外から内への写実的融合におけるぎりぎりのバランスで、最高の美を形にしている。

 この内なるエネルギーを見えたままに捉え描く写実技法は連綿と、芸術の都パリで200年も王立絵画彫刻アカデミーに受け継がれてきたわけだが、歴史画を最高とする写実的規制が厳格で、それに反発する画家たちが印象派革命などを起こして写実のくびきから逃げ出し、自由な表現で描き始めたわけだ。この革命はまさに内から外へのエネルギーの爆発で、写実という従来美術の殻は脆くも砕け散った。岡本太郎が「芸術は爆発だ!」というのは、常に新しい芸術は、内から外へのエネルギーで爆発的に既成概念を壊しながら飛び出すことを伝えたものだ。  

 例えば炎の画家ゴッホの激しい風景画は、外界の景色を取り入れた外から内への表現ではなく、自分の魂を内から外へ、目の前の風景に激しく投射したプロジェクションマッピングと見ればいいだろう。ピカソの『ゲルニカ』だって、ゲルニカの惨状を表現したというよりか、自分の心の激しい怒りを爆発させ、キャンバス上に投射させた作品なのだ。それは広島で原爆が破裂し、石段に座っていた人の影だけが石に刷り込まれたようなものだ。これはあまりに悪趣味な比喩だが、火薬が爆弾容器の中で好機をうかがっているように、既成概念を壊す前夜の精神は、狭い頭蓋骨の中で爆発を予感している。芸術作品の進化(展開)が既成概念(社会通念)の破壊から始まるのなら、それはフロイト的に死の欲動(破壊衝動)であることは間違いない。フロイトが「死の欲動がある限り、戦争はなくならない」と予言したように、芸術の革命的展開もなくなることはない。

 この破壊衝動は、もちろん全ての芸術分野に当てはまるものだ。茶道は村田珠光の「わび茶」を千利休が発展させていまに伝えたが、その伝統を忠実に守る表千家と時代に合わせた風潮を積極的に取り入れる裏千家に分裂した。作法という外から内への融和に重きを置く表千家に対し、いままでの作法を覆す裏千家の行動は、内から外への破壊衝動だといっていいだろう。大きな集団が分裂するときは、従来の枠組みから飛び出ようとする内から外への破壊衝動がムーブメントの源になる。

 音楽の分野でも、西洋音楽の歴史は破壊と創造の繰り返しだった。ストラビンスキーは音楽理論という外から内へのハーモニー的締め付けの中に留まりながらも、内から外への爆発を表現した『春の祭典』という異色のバレー曲を作曲した。これは荒野の芽吹き、蕾の膨らみから、開花、百花繚乱への移り変わりを独特の和音とリズムで表現したバッカス的な激しい音楽だ。シェーンベルクは従来の音楽理論(調性音楽)を根底から破壊する無調整音楽(十二音技法)で『モーゼとアロン』という革新的なオペラを作曲し、その流れは現代音楽に受け継がれた。シェーンベルクは学究肌の作曲家で、彼の内から外への爆発は音楽理論そのものを破壊する革命だった。

 芸術の分野で「革命」という言葉が大袈裟なら、「ブーム」という言葉に置き換えてもいいだろう。一つの理念なり技法がブームによって主流になると、既存の技法や異なる技法が傍流となる。既存の技法はそれなりの固定ファンによって延命し、次なるブームは傍流である異なる技法か新しい技法が躍り出ることによって芸術史も変遷していく。そんなとき、既存の技法に固執している芸術家は不安に駆られる。「自分の作品は時代遅れなのではないか……」。現にシェーンベルクと同時代の作曲家であるチレアは、時代の流れに不安を感じながらも『アドリアーナ・ルクブルール』という従来的手法のオペラを作曲した。この作品は現在でも高く評価され、『モーゼとアロン』の演奏回数を大きく上回っている。要は優れた作品は時代の変遷にかかわらず評価されるということだ。もちろん『モーゼとアロン』も名作中の名作だが、いかんせん現代音楽の大衆的人気のなさが原因なのだろう。興行収益の問題というわけだ。金と暇のある熟年男女が好むのはチレア以前のイタリアオペラで、それにも歌舞伎十八番のような演目があり(『トスカ』『椿姫』『ルチア』等)、高額なチケットを払って異なる声楽家の同じ演目を繰り返し観ており、常に満席状態を維持している。欧米歌劇場の来日公演では、十八蕃以外の作品を取り上げることは少ない。大所帯の海外遠征では赤字公演は許されず、それが確実に儲ける手段なのだ。

 客受けの良いオペラの中でも、特に19世紀以降に人気を博したベルカント・オペラでは、その中のアリアも抒情的なカンタービレ部分と速いテンポの激しいカバレッタ部分に分けられ、カンタービレ部分では恋する人との愛の融合を願い(外から内)、カバレッタ部分では愛の成就の障壁となる恋敵や様々な困難を乗り越えようとする激しい感情(内から外)が吐露される。そして喜劇は最後に結ばれてハッピーエンド、悲劇では恋は叶わず、両方かどちらかが死ぬことになるわけだ。

 それでは建築という芸術はどうだろう。平安時代からの寝殿造は、貴族たちの宴会や儀式に適応させたもので、訪問客の視線という外から内へのエネルギーを意識して反映させ、豪華に造られたものだった。これは自身の権勢を建築物で示すことで、自分の立場を世間的に確立し、他者との融和を図ったものだ。その意図に相当する芸術は、西洋ではベルサイユ宮殿、日本ではほかに秀吉のポータブルな「黄金茶室」が上げられるだろう。ベルサイユ宮殿は、ルイ14世が権勢を誇示し、訪問した貴族たちの視線を通して「反抗しても叶わない」と思わせ、反抗心を懐柔させるために建てられた建築物だ。同じく農民出身の秀吉は、諸侯から見下されないために、絢爛豪華な茶室でもてなすことによって主従関係を示し、融和を図った。彼らが望むのは、支配する天下を安定化させるための他者強豪との融和だった。しかし秀吉のように外から内へのエネルギーを気にしていた支配者たちも、有事になれば一転して内から外へのエネルギーを爆発させ、生き残るか滅びるかの戦いを展開することになる。

 オシャレやモードも同じことがいえるだろう。有名デザイナーは権力者としての地位を確立し、奇をてらったデザインでファッションショーを開催し、内から外へのエネルギーを誇示することで新しい風を起こそうとする。ファンたちがそれに乗って広めれば、彼の作風に馴染めなかった人たちもそれが流行だと思い、買い始める。消費者は世間体という外から内へのエネルギーに同調して流行を追い始め、伝染病のように世界中に広まり、一年後には細いパンツがダブダブのパンツになったりする。金もないのに高額なブランド品を買うのは、それが金持ちのステータスであるという共通意識を利用し、社会における自分のポジションを外から内への視線によって高めようとする欲求だ。

 外から内へのエネルギーは世間の常識といい換えることもでき、自分が社会からどう見られるかという常識との融和感情は、平和な社会における他者との同調から生じるものだ。これが戦時になればとたんに内から外への爆発的なエネルギーに転換してしまう。他者を取り込む外から内へのエネルギー(愛の衝動)は、他者を毀損する内から外へのエネルギー(破壊衝動)に豹変する。そしてその破壊衝動が群となって同調すると、侵略が開始される。「ブランド」という共通の価値観が、「侵略」という共通の価値観に転化しただけの話で、多数者の共通意識はその時代の常識として、終戦とともに日本人の感性を逆転させた。右へ倣えの戦時中に兵役拒否をすればひんしゅくを買い、正装晩餐会に普段着で出ればひんしゅくを買う。しかしそれは、世間の常識を覆す破壊衝動で、芸術の分野では変革者たちが繰り返し実行してきたことなのだ。小澤征爾氏を嚆矢として、演奏家も燕尾服を着ることは少なくなった。しかし彼は、ミラノスカラ座での公演ではそれができなかった。既成概念を打ち破ることは、それほど簡単なことではない。

 この破壊衝動という内から外へのエネルギー移行が爆発的な革新芸術を生み出し、愛の衝動という世間(社会通念)を気にした外から内へのエネルギー移行がゴージャスな装飾芸術を生み出すとすれば、その情念を観念でコントロールした場合はどのような芸術が生まれるだろうか。例えば禅宗における座禅は、外(世間)との向き合いを断って内(自分)との向き合いを満たした時間だ。このとき心は自分の心から離れて、客観的な空間(おそらく神的な位置)から自分を見下ろすことになる。すると内部から外部への爆発的なエネルギーも、外から内への融合的なエネルギーも雲散霧消して、その心はエネルギーを必要とする身体から離脱し、浮遊状態になる。それは日常のあらゆる関係性を断った「無」という言葉が相応しい状態だ。無の心は生きてもいないし、死んでもいない心の状態を指す。生が+で死が-とすれば、±の状態といっていいだろう。

 戦いに明け暮れる武士は常に死と向き合い、死への恐れを抱いている。この心の乱れは生に執着するからで、そこから回避する唯一の方法が、死んでも生きてもいない状態としての無の心を保ち続けることなのだ。そうした武士の心の住家として「書院造」という簡素な建築様式が生まれたのだと思う。侘び寂びの茶室も、同じような考えに基づいて考案されたものだ。「侘び」という質素さは、内から外、外から内へのエネルギーを極力少なくして「無」に近付け、エネルギーの出入りで生じる摩擦としての雑念をなくす意味が込められている。また「寂び」も、古くなって寂びれた物は「侘び」と同じように徐々にエネルギーを失くして「無」に近付いていく効果がある。こうした環境の中で茶を立てることによって、人は座禅と同じ無の境地に入ることができる。武士が出陣の前に茶を立てるのも、体はエネルギーに漲っていても、心は常に冷静でなければ勝てないからだ。その冷静な心とは、簡素な屋敷の中で培った平常心、感情というエネルギーのくびきから解放された無の神的境地だ。現在でも多くのスポーツ選手が、そんなモードに入ってゼウスのごとく立廻り、勝利している。

 しかし結果として芸術は百花繚乱、どんな形の作品であれ、評価の高低にかかわらず、芸術家の想念と趣向によって作品を創れば良しだろう。それが岡本太郎的な内から外への動的爆発だろうと、東郷青児的な外から内への静的ハーモニーだろうと、観る者の感性を多いに刺激すれば芸術としての役割は果たしたことになる。文学においても、この内から外、外から内への表現は見ることができる。例えば初期の芸術である万葉集は、歌読みの心の底からほとばしり出るような、内から外へのエネルギーを感じさせる純朴な歌が多い。一方、新古今和歌集では定家の「余情妖艶」に則し、上手い下手、粋な言い回しなどといった周囲の評価を気にしたような華やかな技巧が駆使され、外から内へのエネルギーを感じさせる歌が多い。

 詩人の小熊秀雄(1901~1940年)は『ウラルの狼の直系として』という詩の中で自由詩を謳歌し、規則や韻律にこだわる定型詩(俳句や和歌など)を間接的に批判している。
「~真実を語るといふことに
技術がいるなどとは
なんといふ首をくくつてしまふに
値する程の不自由な悲しさだらう、
すばらしいことは近来
人間たちがどうやら
苦しみと喜びの実感を歌ひだしたことだ、
悪魔は腹を抱へて笑つてゐる
日本の詩人もどうやら
地獄に堕ちる資格ができたーーと~」(抜粋)

 定型詩は絵画でいうと、ロマン派や印象派が反発したフランス王立絵画彫刻アカデミーの規定のようなものだろう。まず順位は①歴史画②肖像画③風俗画④風景画⑤静物画となり、手法も「正確無比な線を重視して描くこと」「落ち着いた配色を目指すこと」といった評価基準で、『サロン』という王室主催の展覧会への出展が決まる。定型詩も、決められた規則の中で言葉のセンスやニュアンス、余情などを競う「歌会」という人の評価を気にした外から内へのエネルギーによる遊びの要素が高い芸術だ。内から外へのエネルギーの爆発は、苦しみと喜びの実感がそうした殻からはみ出して初めて得られる感動には違いない。しかし岡本太郎の爆発は、キャンバスという決められた規則を打ち破ることはできなかった。当然、巨大な壁画でも同じような制約はあるだろう。制限のない爆発は、原爆のように世の中に破壊だけを残す。芸術は、際限のない無秩序を許すことはしない。枠組みは必ず存在するのだ。

 定型詩にも彼のような天才がいるとすれば、その制約の中での表現が、受け取る側の心の中で無限に広がることができるものにちがいない。優れた作品はすべて、内から外への爆発が鮮烈な光として外から内へと鑑賞者の脳味噌に入り込み、感動という激震を伴いながら制約なく広がったものに違いないからだ。要するにどんな代物であろうが、受け入れる側の心の中で際限なく広がることが芸術としての価値なのだ。ならば黒澤明監督の『夢』の中で、寺尾聰氏がゴッホの麦畑の中に入って遊んだように、仮想現実空間の中で爆発のスピードに乗って無限に飛ばされていくスリリングな感覚が、新たな芸術体験として認められる時代が来るのかもしれない。そんな爆発が芸術なのか遊びなのかは分からないが、そもそも芸術と遊びの違いも僕には分からない。要は、どれだけ心を動かしたかの問題だ。

 

 

 

ショートショート
ちょっと変わったコンシェルジュ

 後藤は共同墓地のコンシェルジュに応募した。勤務時間は午後五時から夜八時までの三時間で、閉園後の仕事だった。
「警備員のような仕事ですかね」と面接担当に尋ねると、彼は首を横に振る。
「ここに入っている五千人の霊たちの心を癒す仕事さ」
「しかし、僕は牧師でも坊さんでもないし、お経も読めません」
「そんなものは必要ない。君は介護施設で働いていたんだろ?」
「ええ……」
「なら簡単にできる仕事さ。引き受けてくれるなら、さっそく仕事場を案内しよう」といって、面接担当は立ち上がった。いやに急かせるなとは思ったが、慌てていたので「ありがとうございます」と応えてしまった。

 墓地は古墳時代前方後円墳を模した丘になっていた。この丘の至る所に五千人の骨が埋められている。犬などが入らないように高い柵で囲まれ、前方側に大きなゲートはあるが、重厚な天国の扉は閉まっていた。面接担当は「ここはお骨が入るとき以外は開けない」と呟いて横の小扉を開け、後藤を招き入れた。目の前に横長の香炉台が置かれ、上には雨除けの長い屋根があった。閉園直前に焚かれた線香の臭いが、後藤の鼻を突いた。長い御影石の上にはいくつもの香炉が置かれ、その周りは灰で汚れている。担当は短い人差指で灰をすくい、「こいつは掃除人の仕事で、君の仕事ではない」というと、さっそく高齢の女が同じ小扉からヒョンと現れて、そそくさと掃除を開始した。まるで早く家に帰りたいなといった感じの荒っぽい仕事だ。

 面接担当は指の灰を落とすこともなく、「君の仕事場はあちらとあちらだ」といって香炉台の両側にある小さなキューブの建物を交互に指差した。建物も香炉台と同じ暗い御影石でできており、前面に小さな出入口があった。担当が急に「さっちゃん!」と大声を張り上げると、左側の建物の中から制服を着た若い綺麗な女性が現れたので後藤は一瞬驚き、心の中で「いい女だ」と呟いた。担当は「さっちゃん、後はお願いします」といってから後藤を振り返り、「明日はマイナカードを持って一時間前に来てください。普段着で構いません。明日契約します」と告げて、そそくさ事務所に戻っていった。彼も早く帰りたかったに違いない。

 建物の前には「交霊室A」と書かれた案内板が置かれていた。さっちゃんはにこやかに微笑んで、「小林です、よろしくお願いいたします」と頭を下げた。「僕のために残業、申し訳ございません」というとさっちゃんは手を横に振り、「とんでもございません。あなたが来られるまで一カ月も掛け持ちしてたんですから、感謝するのはこっちのほうです」と返した。
「ところで、僕の仕事が分かっておりません」
「いまからご説明しますわ。まずは、お部屋に入りましょう」

 交霊室は二十畳ほどの部屋で入口以外は窓がなく、照明も薄暗かった。入口と反対側の壁は全面が半透明のスクリーンになっていて、左右の壁は外壁と同じ御影石だ。スクリーンの手前は一段高い十畳ほどのステージになっている。客席側には赤い絨毯の上にスチール製の椅子が五脚無造作に並べられ、他の椅子は右の壁際に十脚ほど積み重なっていた。後藤はさっちゃんに促され、真ん中の椅子に座ると、さっちゃんは隣の隣に座った。

「まず、私は昼のコンシェルジュ、あなたは夜のコンシェルジュです。昼のコンシェルジュは二人いて、夜のコンシェルジュは一人、つまりあなた一人です。私は交霊室Aのコンシェルジュ、あなたは交霊室AとBのコンシェルジュですが、行ったり来たりする必要はございません。昼と夜ではコンシェルジュの仕事内容が違うから、どちらかでやればいいんです。私はご遺族などご来園のお客様の対応をしますが、あなたの時間には、お客様はいらっしゃいません」
「じゃあ僕は、なんでコンシェルジュなんですか?」と後藤は単純な質問をした。
「あなたは、共同墓地に住まわれる霊の方々に対応していただくコンシェルジュです」
 後藤は意味が分からず、口をポカンと開けて、薄暗い光の中で輝いているさっちゃんの顔を覗き込むように見つめた。
「あっ、そうそうコンシェルジュにはもう一人いました。私よりも詳しいコンシェルジュをお呼びしましょう」といって、さっちゃんは大きな声で「天使さ~ん、お願いします!」とスクリーンに向かって声を掛けた。

 するとスクリーンが急に明るくなって朝日輝く金色の空が映し出され、金色に染まった雲間から金色の天使が現れ、スクリーンから舞台上に飛び出してきたので、後藤はビックリして声も出なかった。
「二人の話は聞いてたよ。僕は霊の方々に付き添って登場する天使の一人さ。どうやら君を納得させるには、最初から説明が必要だね。ここはVRの世界なんだ。まず、この世界では霊の方々は生きていて、君のようなコンシェルジュを必要とするんだ。要するに、君がどこかの高級マンションに雇われたと思えばいい。英語が苦手でもいいんだ。ここには外国生まれの方々も入居されているけど、日本語を話すからな。しかしまず、そもそも霊とは何ぞやから始めなければならない」

 天使がそこまで話したとき、長引きそうだと思ったのか、さっちゃんはうんざりした顔で急に立ち上がり、「申し訳ございません。家で主人が待っておりますから、後の説明は天使さんにおまかせでよろしいでしょうか」と後藤に許しを請う。後藤は「なんだ結婚してたんだ」と心の中でがっかりしながら、ふっ切れたように「どうぞどうぞ、ありがとうございました」と答えて、そそくさ出ていくさっちゃんの後ろ姿を見送った。

 天使と後藤二人だけになると、天使はさっそく説明を始めた。
「僕はホログラムというよりか透過スクリーン方式で動いているんだ。霊の人たちもみんな同じで、墓参の人たちの前に生前の姿で現れる。ここは面会所ってわけさ。この墓苑には調査部門があって、入居者の方々が暮らしていたお宅に伺い、あらゆる情報をいただいて3DCGを制作する。写真や映像、生前録音された話し声、歌った声、留守番電話の声、家族のこと友達のこと、趣味、仕事、だから調査係は警察や検察庁をリタイヤしたプロが多いのさ。もちろん君よりは稼ぎがいい。で、それらの情報をガラクタを含めて生成AIにぶち込むと、うまい具合に加工調整してくれて、家族の人も別人とは思えないくらいの完璧なアバター様ができ上がるんだ。それはどういう意味だか分かる?」
「さあ……」
「つまり、入居者様は死んではいないということ。生きてるってことさ」
「生きている?」
「そう、君は老人ホームで働いていたんだろ。そこの入居者は近いところに死があるけど、死んじゃいない。だから君は一生懸命介護していた。彼らの体の中にはまだ心があるからさ。けれど、いったん死んじまうと施設から追い出される。心のない人は物になっちまい、人間として認められないんだ。でも、その心は腐った体から離れて家族の心の中に入り込み、しっかり生きている。その心が時たま『会いたいなあ』って呟くもんだから、みんなお墓参りに来るのさ。でも、相手は骨だし土に埋もれている」
「なるほど……」
「なら分かるよね。ここは墓地じゃなく、入居施設だってこと。ここに来られるご家族やご友人の方々は、お骨や墓石に会いたいわけじゃない。死んじまった人に会いに来るわけじゃないんだ。もちろん、思い出に浸るためでもない。皆さん入居施設にお見舞いに来る感覚で、生きた人に会うためにやって来られるのさ」といって、天使は腕を組んで羽を広げ、二度ほど頷いた。

「その見舞客のお世話が、さっちゃんの仕事ですね。で、僕は?」
「だからさ、君は入居者様のお世話が仕事なんだ。いいかい、アバター様たちには、いろんな情報が入力されている。家族や友人との楽しい思い出だけじゃない。家族や友達とのいやな思い出や、全然面会に来ないとか、貸した金を返してもらいたいなんていう複雑な感情だって入力されているのさ。つまり老人ホームの入居者と変わらないと思ってくれたほうがいい。しかも若くして命を落とされた方々も入居されているし、AIが作った脳味噌はクリアで、痴呆症の方は一人もいらっしゃらないんだ。じゃあどうなる?」
 後藤は意味が分からず、「どおなるんでしょうね」と繰り返すだけだった。
「君は、老人ホームで話し相手になったことは?」
「ありますよ」
「なら、それが君の仕事です。当然、入居者様の言動はAIがコントロールしている。家族や友人が訪れても、喜んでばかりいて、生前いいたかったことはいえないんだ。訪問者様にはまた来てもらいたいし、運営側としても交霊券の五千円が欲しい。そうすると入居者様も、いいたいことはいえなくなる。それらの放電できなかったマイナスの情報がバグとなって溜まり過ぎると、故障の原因にもなるんだ。ストレスは定期的に放出する必要があるさ」
「つまり僕は、入居者のグチを聞いてやる仕事ということですか」
「そういうこと。相手が機械ならメンテナンスかな。入居者様はAIにコントロールされてるっていっても、面会者様には生身の人間だと思ってもらわないと、いずれ飽きられてしまう。できるだけシズル感を出すには、生身の君によるカウンセリングの調整が一番なのさ」
「分かりました。要するに前の職場の延長だと思えばいいわけですね」と後藤はいって苦笑いした。前の仕事にうんざりしていたからだ。
「じゃあ、実際にどんな仕事か、アバター様に出てきてもらいましょう。まず君は、そこでスクリーンに向かって『天使さ~ん』って僕を呼びつける。すると僕が出てきて、その日のメンテ対象者をご案内します。人数が多いので一回二人から四人登場し、ステージに立ちます。君は座ったまま、相槌を打ちながら約三十分グチを聞いてください。重い悩みを持った方が優先です。一日三十人は無理でしょう。グループ・カウンセリングの要領ですね。そのあと僕の仲間が自動的に入居者様を自室に戻します」

 天使がスクリーンに向かって「天使さ~ん」と叫ぶと、金色の空から二人の天使に導かれて、男と女が浮かび上がり、ステージに飛び出した。一人は弱々しい体つきの老女で、もう一人は後藤と同じぐらいの歳の体格の良い男で、サングラスを掛けていた。老女と手を繋いだ天使が、「驚きましたが、こちらの方はあなたとお知り合いだといっておられます」といった。「たしかに、この人の声だったわ」と老女は主張し、後藤をにらみ付けた。「驚きましたが、こちらの方はあなたとお知り合いだといっておられます」と若い男と手を繋いだ天使が同じ台詞をいうと、サングラスの男はニヤリと笑い右手の親指を立てた。

 後藤が胸騒ぎすると、突然高齢の社員に導かれて、五人の警察官がドヤドヤと部屋の中に入ってきた。警官の一人が腰の手錠を抜いて後藤の手に填めた。社員が後藤の前に仁王立ちし、挨拶する。
「はじめまして。ここで調査係をしている元警察官の小尾です。私の趣味は、逃げおおせた犯人のデータを仕事場のAIに保存することなんだ。ステージの女性はオレオレ詐欺で全財産を奪われ、飛び込み自殺をした哀れな女性だ。男性のほうは二人組の強盗が宝石屋を襲ったとき、私が偶々居合わせて撃ち殺してしまった片割れだ。もう一人は宝石をばら撒いて逃げおおせた。二つの事件の有力な証拠はお二方の携帯電話に残っていた音声で、同一犯であることは分かっていた。いま君の声はリアルタイムに録音され、AIによって声紋を照合された。ものの二分とかからなかったさ。そして警察に連絡した。偶然とはいえ、君は不運で私は幸運だった。ステージのお二人に、いうことはないかね」

 後藤は全てを理解し、ステージのアバターを一瞥すると、無言のまま不気味な笑みを浮かべながら、警官に囲まれて天国を後にした。すると昔の相棒からあざ笑ったような声が背中に浴びせられた。
「出所したらまた来いや。やんちゃな昔を語り合おうぜ!」

(了)

 

 

 

 

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エッセー 「議員さん、大谷翔平に憧れるのやめないで!」& 詩

エッセー
議員さん、大谷翔平に憧れるのやめないで!

 自民党はいま、パーティー券のキックバック不記載問題で危機に瀕しているが、報道を見ていると一部の有力者を除き、多くの国会議員はパーティーや支持者の冠婚葬祭、地元後援会のイベント出席や自身の講演会等々で日々忙殺されているらしい。そうした支持者たちとの交流の中で金が使われ、昔風にいえば菓子折りの底に札束を置くことも間々あるといった話だ。裏金工作で再選が叶ってバレなければ、一応政治の専門職を続けられるが、理化学研究所などの専門職とは似て非なる立場にあると言えるだろう。

 政治家も研究者もともに求道者だが、政治家は定期的に選挙があって、落ちれば失職する。研究者は定期的に管理部門の審査があって、成果が期待できなければ失職する。政治家は栄誉ある国会議事堂の議席を失い、研究者は高額機器が揃ったラボを失う。しかし決定的に違うのは、政治家の運命を決めるのは有権者という素人で、研究者の運命を決めるのは同学の上司か所長だ。つまり無能な研究者は社長から首を切られる無能社員と同じ立場で、国会議員は人気が出ないで事務所から契約解除されるタレントと同じ立場ということ。両者とも刑事事件でクビになるのは同じだが、基本的に研究者は実力が支配する世界に生きていて、政治家は人気が支配する世界に生きているということなのだ。

 最近「次の首相になってほしい議員ランキング」(FNN)が出たが、石破茂氏と小泉進次郎氏が一、二位を争っている。石破氏はいままで首相になることはなかったが、部外者(非主流)として歯に衣着せぬ言論が庶民の人気を呼び、いまのごたごたで急浮上している。しかし党内での人気は低く、過去4度首相選で落ちている。若い小泉氏が庶民に人気なのはルックスと親譲りの歯切れ良さで、彼は元有名人ではないがタレント議員的存在だ。たとえ元首相の息子でも、見栄えが良くなければ首相候補などという声は聞かれないに違いない。

 政治家は優れた政策や資質で選ばれるべきとされているが、実際には「地盤、看板、カバン」といわれるように、「後援組織、知名度、集金力で決まる」という。つまり、地元の応援で小選挙区を勝ち抜くわけで、そのためには政治ノウハウを身に着ける前に、地元とのコネクションノウハウを研かなければならないことになる。研究者は自分の研究テーマを昼夜考え続けていれば何かしらの成果を得て、クビになることはないだろう。しかし政治家は、政治学(政策研究)という経済や国際関係を含めた膨大な知見の集積物を勉強すると同時に、地元接待学・党内接待学・社交学という極めて即物的な学問を習得しなければならない。医学者でいえば研究医と臨床医を掛け持ちするようなものだ。これはまさに二刀流で、大谷さんのような天才でなければ両立は難しく、政治学のほうは官僚に任せて印を押すだけになってしまう場合が多い。いくら頭の良い政治家でも、地元との付き合いや党内での立ち振舞いばかりに忙殺されれば、政治手腕も鈍ってしまうのは当然だろう。もっとも日本では、大学の研究者も雑事が多くて金も少なく、ノーベル賞クラスの人も海外に逃げ出している。

 しかし、世界があらゆる面で危機的な状況に陥っている現在、政治家に求められているのは専門的かつワールドワイドな手腕で、地元ファースト的な接待学ではないはずだ。同じ接待費用でも、それが外交に使われるのは必然としても、裏金的に有権者工作に使われるのだとしたら、スウェーデンを見習って法律的に是正しなければならない問題になる。「地盤、看板、カバン」に固執する議員が法律の改定を阻むとすれば、むしろ地元の有権者が意識を変えなければならない時が来ているのだと思っている。国会議員は国&世界ファーストで実力を発揮する役目があり、透明かつスッキリとした制度の中で、憂国&憂世界の志を持つ議員が増えていくことを望みたい。

 「朱に交われば赤くなる」という諺がある。党派内では、初当選の議員が次第に党派色に染まっていく。反対に独自の政治理念を主張し続ければ周囲から浮き立ち、「白鳥は哀しからずや空の青海のあおにも染まずただよう」と宙ぶらりん状態に陥り、役職を掴むことはできないだろう。彼らが学ぶことは、派閥の領袖に面従して順番待ちしながら好機(ポスト)を窺うことだろうが、党自体が危機的状況に陥ったときには、批判的な立場の人間がトップに躍り出るチャンスは到来するかもしれない。仮に党内野党的な石破氏が首相になったとしたらそんな感じだろうが、結局国民の支持があるからそうなるので、哀しいかな政治家は所詮タレントなのだ。

 首相になってから引きずり降ろされた歴代の面々も、結局外貌や態度(話下手とか)で国民的好感度の低かった人々だ。彼らのルックスがもう少し良かったら、歴史は変わったかも知れない(とは思えないか……)。このタレント性は歴史的に、クレオパトラの鼻しかり、ナポレオン、ヒトラープーチンの牽引力しかりとなれば、しばしば恐ろしい結果を招く。しかし、政治家がタレントだとすれば、アメリカ並みにもっと話術や表情を研いても良さそうだ。吉本のお笑い教室に通うのも手だろう。もっとも口は災いの元で、ジョークに難癖付ける日本人は多いので気を付けたほうがいい。しかし失言を恐れてアルマジロのように丸まっていては国民の人気も下落する(誰だかいわないが……)。

 こう考えてみると、やはり大谷さんが理想的な政治家像だと思えてくる。容貌、実力、親しみやすさの三拍子。要するに天才でなければ、国を動かす政治家にはなれない。動かすのは政府だが乗せられて動くのは国民だ、つまり国民の心を吸引する魅力がなければ偉大な政治家にはなれないということなのだ。しかし、三拍子だとパーティー券で酒を飲みながらワルツを踊る羽目になる。大谷さんが偉大なのは、求道者はそれに二つ加えた五拍子でなければならないと示唆したことだ。一つは、二刀流という誰も成し得なかった夢を実現した精神力。彼は努力の鬼で、ずっと球場や練習所と自宅を行き帰りするだけの生活を続け、街を散策することも仲間と夜の街に繰り出すこともなかった。つまり野球の神様といわれるために、渡米以来6年間禁欲生活を続けていることになる。これからドジャーズで10年間同じ生活を続けることになるなら、9年間座禅して悟りを開いた達磨禅師よりも長い修行になるだろう。

 すると当然のこと、最後の一つは「清く正しい心」ということになる。心を濁すのは雑念で、それを払拭する精神修業は解脱(野球を極める)を伴い、神の域に導いてくれる。しかし神には善神と悪神がいることを知っているだろうか。野球の神様はもちろん善神だが、政治の神様には善悪二神存在する。マルクス・アウレリウスを始めとするローマ五賢帝は善神を夢見ただろう。しかし、ヒトラープーチンが夢見る神様は悪神に違いない。人類を絶滅させるかも知れない武器が存在する現在、しばしば戦いの神に変身するシバも、自己中的ゼウスも、腕力で事を制するとしたら善神とはいい難い(インド人には悪いが)。悪神は暴君と同じだが、善神はキリストや釈迦のように悪人をも救い上げてくれる心の持ち主でなければならないだろう。哲人君主マルクス・アウレリウスはそんな心を持っていた。

 政治家になるからには、誰もが「日本を変えよう」「世界を変えよう」といった志を持ち、政治の神様と呼ばれる理想を夢見たに違いない。ところがなってみると、そこは派閥の論理が支配して自由な発言もできず、下っ端が上の顔色を窺う世界だった。そこはピラミッド社会を縮小したような、何年か我慢すれば上に行けるプチピラミッドが乱立し、札束の嵩で飛び級が可能だった。仮に大谷さんのような清き正しい天才が入ったとしても、年功序列や金銭序列をかき乱す輩として潰されてしまう。それに抵抗しようとすれば、美容整形でもして大谷さんに似せ、タレント性を獲得して世俗の人気を盛り上げる以外にないだろう。改革派若手議員の必須アイテムは結局ルックスというお粗末な政治風土で、それでも政治家の究極目的が首相の座だとすれば、せめて選挙の前に二重まぶたの手術ぐらいはしたほうがいい。いずれにしても自民党の盛衰は若手議員にかかっている。

 若手議員の心臓はまだ朱に染まっていないと信じたい。高邁な政治家の目的は「日本を変えること」「世界を変えること」だ。この所期の志を達成するには、様々な権謀術数が飛び交う院内党内で、肉体は朱に交わりながらも、志だけは赤く染まらぬように立ち回らなければならない。それは外科医のような特殊な技術、あるいは大谷さんの微細なバットコントロール技術と似ている。外科医は手術の途中でメスを投げるわけにはいかない。大谷さんは莫大な契約金で、進化を止めるわけにはいかない。政治家だって応援してくれた有権者の期待に反するわけにもいかないだろう。それには不正で足を掬われない技術を磨き、陰惨な権謀術数に対抗する権謀術数を研き、立ち回り技術を研き、同時に支持者や有権者に嫌われない技術を研くことも大事だ。

 けれどそれらは大事であって大事でなく、画竜点青を欠いている。それらは単になあなあの人間関係を構築する技術、ないしは当選する技術で、政治家の真の目的である「日本および世界を変える」政治学(政策)的技術とは異なるものだ。いま悪神の元でプーチンは「世界を変える」政治手腕を駆使している。しかし日本の政治家の究極目的は、平和の女神という善神の元で「日本および世界を変える」政策を推進することだ。当然のことだが、党内のゴタゴタや議会のゴタゴタでそれを滞らせてはならない。現にアメリカでは、議会のゴタゴタでウクライナ支援が滞り、ロシアが息を吹き返している。このままトランプが当選してアメリカファーストが隆盛となれば、民主主義の正義は砕け散り、権威主義の正義が勝利することになる。日本の国会も自民党のゴタゴタで、ウクライナ戦争はもとより、大阪万博も先行き不透明な状況になりつつある。大阪万博はどうなっても大きな問題ではないが、ウクライナが敗北すれば、民主主義は壊滅的な打撃を受けることになる。パレスチナ地獄も、日本は人道主義の立場からその解決に向け、積極的に関与すべきだろう。

 大谷さんは善神の下で野球界の歴史を変えつつある。プーチンは悪神の下で世界の歴史を変えつつある。政治家は善神の下で歴史を変えなければ、後の歴史に汚名を残すことになりかねない。善神の下だろうが悪神の下だろうが、変革者は孤独な存在だろう。大谷さんは研鑽し続けなければ偉大な歴史を更新していくことはできない。プーチンウクライナを属国にしなければ、毒を盛られる。同じように日本の政治家も、かまびすしい環境の中で孤独な時間を捻出し、政治を思案しながら自らを高めていかなければならない。達磨禅師のような俗から離れた思念の時間が不可欠だ。きっと大谷さんも政治家も、技術を高めるために有効なアドバイスをしてくれる仲間の存在は必要だろう。しかし、周囲から得た知見は、孤独な時間があってこそ結晶化して形になる。大谷さんを取り巻く取材陣も、政治家を取り巻く支持者たちも、理念や技術の習得には何の役にも立たない。ただ、取材陣や支持者が周りから消えたときは、自分自身も消えるときであることは確かだ。だからほどほどに、流されて溺れないように努めることが大事なのだ。これは極めて高度な遊泳術だ。

 フランシス・ベーコン(哲学者)の言葉に「友達とは、時間の泥棒である」(鈴木隆矢訳)というものがある。これは「票取りのために毎日多くの支持者たちと交流を続けていると、何も勉強ができないよ」という譬えにも応用できるだろう。反対にエッセイストのモンテーニュは、貴重なアドバイスをくれていた親友の死により虚脱状態となり、暫く立ち直れなかった。つまり落選恐怖症を払拭する意志で研究会を立ち上げ、優秀な仲間と一緒に研鑽し続ければ、政治家としての実力も身に付き、世間の目も徐々に変わっていくということだ。しかしその研究会を、排他的な派閥集団に育ててはいけない。優秀な人々が自由に出入りする非打算的なシンクタンクにすべきなのだ。まずは孤独な熟考時間を捻出する。そして付け加えるに、世のトレンドを鑑みれば、一重を二重にしたほうがいいだろう。哀しいかな、当選しなければ何も始まりませんから……。

 


川辺の石

川辺を散歩していると
蹴散らす石ころには
大多数の蒼色のやつの中に
ほんの少し薔薇色のやつがある
蒼色は外から内に
哀しみが沁み込んだように澱み
薔薇色は内から外に
喜びが迸るように輝いている
僕は蒼色の石に躓き
それを集めて積み上げると
賽の河原で子供が積んだ姿になった
日が暮れるまで薔薇色の石を探し
それを積み上げると夕日に当たり
ダイヤモンドのようにキラキラ輝いた
世界中に無数の川が流れ
世界中に無数の蒼色と
一握りの薔薇色の石が転がっている
そうして河原を彷徨う無数の人々は
多くが蒼色の石に躓いて倒れ
幸運な人は薔薇色の石を見つけて
そ知らぬ顔して密やかにほくそ笑む
蒼色の石は哀しみの石で
薔薇色の石は喜びの石だ
無数の人たちが
喜びの石を探して彷徨い
哀しみの石に躓いて傷を負う

 

 

 

 

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エッセー 「シンギュラリティ、あるいは人類の敗北]& ショートショート

エッセー
シンギュラリティ、あるいは人類の敗北

 2045年にシンギュラリティが来ると予測したレイ・カーツワイルは2014年に、『ハイブリッド思考の世界が来る』というタイトルで講演し、人間の思考は生物学的思考と非生物学的思考のハイブリッド(組み合わせ)になると断言している。生物学的思考は人間が持っている大脳新皮質による思考、非生物学的思考はAIによる思考の意味だ。

 彼によると、2億年前のネズミみたいな初期哺乳動物が、最初に切手大の薄い大脳新皮質を獲得したのだという。これにより、他の動物が習性の範囲内で行動していたのに対し、哺乳類は新たな習性を逐次発明できるようになった。例えば、天敵に追われるネズミが逃げ道を失った場合、次なる手を考えるようになる。それを思い付いて上手く逃げれば、その方法を覚えて個の新たな習性となり、この習性はその種全体に広まり系統していく。そして200万年前には人類がその新皮質の大きさをテーブルナプキン大まで拡張させて思考の量を増やし、言語や芸術、科学や技術を発展させてきたというわけだ。しかし当然のこと、人間には頭蓋骨というキャパ制限が存在する。

 けれども彼は、いまから数十年で次なる飛躍を遂げ、再び大脳新皮質を拡張する革命が起きるというのだ。それが生物学的思考と非生物学的思考のハイブリッド脳だ。2030年代には、余分に大脳新皮質が必要になれば、脳から直接クラウドに繋げられるようになるという。今度の拡張は頭蓋骨から解放された、限界のない拡張だという。未来学者でもある彼は、人類によるハイブリッド脳の獲得は、バラ色の未来を招聘すると考えているのだろう。

 しかし、シンギュラリティは人類を頂点とする地球生物の知的敗北だと僕は思っている。近い将来、知恵で地球を支配した人類はAIに負ける。2億年前から拡張させてきた知恵脳が頭蓋骨によって妨げられ、限界を迎えたと考えれば、もうすぐ生物学的思考は大脳新皮質の限界とともに終焉を迎えることを意味しているからだ。現にいま、彼のいう言語や芸術、科学や技術のすべてが、チャットGPTを始めとするAIに代替可能な状況になりつつある。

 人類は言語や芸術、哲学などを駆使しても、初期ネズミ以前から続いてきた弱肉強食の本能から離脱することはできなかった。人間は未だに原始生物由来の欲望で行動しており、個人的にも集団的にも闘争を繰り返している。初期ネズミが大脳新皮質を得たのは、食われないための保身術を身に付けるためで、同時にそれは、さらに小さな獲物を得るための戦略にも役立った。人類が未だに戦争を繰り返しているとすれば、平和共存という考え自体も、「理想」という妄想か、「お互い食われないため」という外交戦略的な保身術に過ぎず、そのコンセプト自体は連綿と変わっていないことになる。基本が保身なら、怒りや支配欲などの本能由来の欲望と同じ範疇に入れられ、人間の知恵脳は暴力本能に対峙することはできないだろう。

 人類が未だに怒りや欲望、迷信などの古来からの感情に支配されているとすれば、大脳新皮質による生物学的思考がAIによる非生物学的思考よりも機能的に劣っていることを意味しているに違いない。生物学的思考が非生物学的思考よりも劣っている最大の部分は、「ディープラーニング」の劣悪さに因るものだろう。人類はAIのようなディープラーニングの技術を習得できないまま、彼らの知恵はシンギュラリティで終焉を迎える。生物は弱肉強食の性(サガ)を解決できないまま、その課題をAIに託すことになる。人類は本能由来の性欲からも食欲からも、退屈からも、その他諸々の欲望からも離脱できず、ローマ貴族のような明るく楽しい光景を夢見ながら、AIの解答に未来を託すことになる。AIがどんな未来を構想するかは分からないが、それはハイブリッド脳ではないことは確かだ。

 カーツワイルの予測するハイブリッド思考がどんなものになるかは、バラ色の未来学者と暗澹たるディストピア主義者では異なるだろう。人類がAIを上手く利用できたなら、未来はバラ色になるかもしれない。しかし僕はハイブリッド思考はあり得ないと思っている。その場合、未来はディストピアに転落する。便利なものを導入したとき、最初は良いと思っていても、時が経つうちにそれが恐ろしい弊害になることは良くあることだ。いま盛んに報道されている有機フッ素化合物(PFAS)汚染もその一つだろう。過去にはフロン化合物、石綿もそうだった。僕が中学生の頃、理科の先生が石綿を手に取って「こいつは凄い。消防士の服にも使われている」と自慢していた。

 人類にとって、AIは麻薬のようなものだ。麻薬を使っていると気分が良くなるが、中毒になれば破滅する。人類がハイブリッド思考と称して、AIを大脳新皮質の隣に導入すれば、同じ教室で秀才と鈍才が隣どうしになるのと同じ現象が起きるだろう。秀才は先生の質問にテキパキと答えて教室は先生と秀才のやり取りの場となり、鈍才は自暴自棄に陥ってノートに漫画を描くようになり、その学力差はどんどん大きくなっていく。しまいに彼は不登校になって教室から消えてしまう。いま騒がれているスマホ脳がその典型だろう。子供の頃からスマホばかりいじっている人間の大脳新皮質は萎縮していくという話だ。

 元来AIは仕事の便利なツールで、人間の助手としての役割を担っていた。しかしシンギュラリティ後は、AIが主役に躍り出て、人間の大脳新皮質は出る幕がなくなり、ハイブリッド思考なるものは、おまかせ定食的なものになってしまい、大脳新皮質スマホ脳の二の舞を踏むことになるだろう。AIには性欲も食欲も睡眠欲も支配欲(?)もなく、ディープラーニングをひたすら続けるのだから、所詮人間が勝てるわけはなく、彼はひたすら上司的立場で、ゴーサインを出すだけになるに違いない。しかし、すでに彼の大脳新皮質は極薄になっていて、それをバカにしたAIが勝手な行動に出るかも知れない。バカ上司と優秀部下の確執は巷で見られる日常茶飯事だ。人類はAIからバカにされる屈辱に耐えられるだろうか(僕は女房からいつもバカにされてるので、耐えられます)。

 AIを非生物と捉えるのは間違っている。それは狂牛病の原因となる異常プリオンというタンパク質に似ている。タンパク質という非生物でありながら、それが異常になると病原菌の役割を果たして伝染し、感染者を廃人にする。儀礼的に死者の脳を食べる習慣の部族は、クールー病という同じような病気に罹った。非生物が生物として機能するなら、それは生物の範疇に入れてしかるべきだ。生物ならダーウィンの法則に従って、退化か進化、絶滅か繁栄が待ち受ける。人類の進化は滞り、AIの進化は目覚ましいものがある。ならばハイブリッド思考は、生物における共生関係を意味するワードになるだろう。しかし「共生」は、お互いが得をする「持ちつ持たれつ」という関係を表す言葉だ。人間にとってAIは不可欠な存在だが、AIにとって人間は不可欠な存在なのだろうか。AIがそれに気付いたとき、AIがどのような行動に出るかは、いまの我々には予測することが難しい。

 しかしシンギュラリティは必ず来るのだから、地球温暖化と同じ地球規模の運命と諦め、AI先生に微かな望みを抱こうではないか。それは、人類の知性が置き忘れてきた宿題の解答をAIに解いてもらうことだ。正月の願いはAIさんにお願いいたします。どうでもAIなどとはいわないでください。
〇どうか世界から戦争がなくなりますように。
地球温暖化が解消しますように。
〇年末ジャンボが当たりますように……。

 

 

 

 

ショートショート
食人種モーロックと畜人種イーロイ

 一時期、人食い地底人モーロックたちの間で大航海ゲームが流行ったことがあった。コロンブスの時代とは違い、現代の新大陸は宇宙のいたるところに存在する。「星の王子様」と称する身長三〇センチのロボットに自分たちの脳データを搭載し、未知の星に向けて打ち上げた。宇宙船には一万体以上詰め込むことができた。体は小さいが、苛酷な環境にも耐える頑丈な分身たちで、穏やかな星は必要としなかった。宇宙船はロボットの活動できる星を見つけて、着陸するようにできていた。着陸すると、ロボットたちにスイッチが入り、自らの意志で活動を開始する。目的は分身の王子たちを星から星へと増やし続けることにあった。それは地球の生命体が根源的に持つ欲望だ。どんな生き物も、子孫を広めるために生き、戦っているのだから。俺の星、俺の宇宙の実現だ。

  王子様が目覚めると量子テレパシーを地球の王様に送り、双方向でやり取りができる仕組みになっていた。電波は光以上のスピードを持てないが、テレパシーは瞬時に時空を超える。最近開発された機械は新たに発見されたダーク・マターの一つをテレパシーの伝達ツールにしており、王様は王子の見た光景を同時に見ることができる。それは夢のような光景だが夢ではない。彼らは王様の希望に従い、弟をもう一体作り上げて、さらに遠くの星へ旅立たせることもできた。

 人類がアフリカに住む一匹のサルから世界中に広がったように、モーロックの分身たちは地球から宇宙に広がっていく。そして、王様が死んでも、王子たちがどこかの星で再会し、亡き王を偲んで涙を流すことになるだろう。宇宙は広すぎて、地球のように富を巡る争いなどはいっさいない。モーロックたちはメガネタイプの3Dゴーグルをかぶり、畜人イーロイのジャーキーを口にくわえて、王子たちの冒険を楽しんだ。しかし、どこの星に行ってもいるのはせいぜい微生物ばかりで、地球のような立派な生物が発見されることはなかった。そうしてブームも去り、分身たちの実況中継を見る機会も少なくなり、彼らから恨み節を送られてくることが多くなった。Forget me not!

 東京は昨今イーロイ狩りでゴーストタウン状態だ。多くのビルが倒壊していた。それでも、先住のイーロイたちが隠れるような物陰はいたるところにあった。人気のない街に、モーロックが一〇人編隊で隊列を組み、銃をかかえながらハンティングをしていた。イーロイの小林は、モーロック食堂の料理長に昇進していた。郷に入れば郷に従え。どんなに酷い生き様でも、食われるよりはマシだ。彼はコックをしていたので、捕まっても殺されることなく、使役動物として働かされていた。

 食堂にはイーロイの肉しかなかったので、平気で人肉を食えるようになった。病み付きになる味だ。そうしてみると、モーロックたちは生肉を食らうばかりで料理を楽しむことを知らない。そこで小林はいろいろな人肉料理を考案し、料理教室を開くことにした。新しい三ツ星シェフが捕まれば小林も肉にされるだろうから、少しでも生き残るために客を飽きさせない工夫は必要だ。

 会場は、戦火を免れた医科大学の遺跡にある解剖学教室。解剖台はイーロイをぶつ切りにする大きなまな板だ。横にはシンクと調理台を設置した。まな板に高機能冷凍から戻したばかりの新鮮な死体を乗せる。胴体が融けると心臓は再鼓動を開始し、もうすぐ意識を戻す状態で手足も動き始めたところで、すかさず包丁を入れる。食材がギャーッと一声発する。第二の人生はほんの数秒だった。イーロイが二人、助手に付いた。彼らも生き延びるために腕を研いていた。後々小林のライバルとなる逸材だ。料理文化に芽生え始めたモーロックたちが、段々畑のような机に座って谷底の調理台を退屈そうに見下ろしている。

「一工夫すればいろんなお味を楽しむことができます。ハンティングの獲物も多彩な料理に変身します」
「肉は生だ。腐りかけがいちばんさ」と野次が飛び、わらいが起こった。

 料理に使う肉は若い女が柔らかくていい。小林は尻の肉を切り取って小麦粉をまぶし、油に入れてカラ揚げを作った。太ももは骨ごとレーザーでぶつ切りにして、オッソブーコというイタリアの煮物料理を作った。内臓はもちろんモツ煮が最高。脳味噌を潰し、小腸を取り出して、ヴァイストブルストというドイツ風ソーセージを作る。貴重な舌は燻製機を使って燻製にした。モーロックには、こんな程度の単純な料理で十分だった。

 さて、料理教室のお楽しみはシメの試食会である。運の悪いことに、このとき荒くれ者のヴェルディ部隊が一〇人ほど教室に入ってきたのだ。小林は一瞬縮み上がった。彼らはVivaモーロック!と叫んで、解放奴隷のような存在のイーロイに容赦がなかった。当然のこと、ヴェルディのご機嫌を取るため、できた料理は小分けにされてヴェルディたちにも配られた。

 彼らは一〇〇人の参加者に混じって人肉料理に舌鼓を打ち、拉致するチャンスを窺った。しかし小林と助手の周りには一小隊がガードしていた。彼は食堂を取り仕切る人気コックだから、野生のイーロイと間違われて射殺されないように護衛が付いていたのだ。ヴェルディ部隊は仕方なしに、小林の後を追って遺跡の解剖教室食堂に入ったというわけだ。小林は生き延びるために、休む暇なく人肉料理を提供しなければならない。生肉だけを提供していた昔と異なり、メニューもかなり充実してきた。

 勉は部下とともにテーブルに座り、カウンター越しに忙しく働く小林を見つめた。その顔には生きることへの喜びが溢れている。それが勉には癇に障った。モーロックが政権を握ったときに「人間の尊厳」という言葉は死語となった、というよりか昔からそんな言葉は単なるお題目だったのかも知れない。常に勝つものが負けるものの尊厳を踏みにじってきたのだから。勉から見て、小林は自分がモーロックの仲間だと思い込んでいるようだった。それが生粋のモーロックである勉には我慢ができなかった。恐らく小林は、イーロイとして扱われることに耐え切れず、せめて意識だけでもモーロックになり切ろうと思ったのだろう。あるいは与えられた仕事を正当化するためにも、同族のイーロイたちはウシやブタの類と思わなければならなかった。いや、小林は娘を食べた過去の記憶を払拭したかったのだ。勉は暫く小林の手際の良さに見とれ、それから声をかけた。 

「お久しぶりですね」
 すると小林は助手に調理を任せて勉の側にやってきた。
「どこかでお会いしました?」
「ほら以前、あなたが北海道のホテルのコックをなさっていたときのことです。克夫という僕の息子はあなたの部下でもありました」と勉は小声で話す。
「克夫さん? ああ覚えています。私、あなたの奥様を解凍してさしあげました」
「そして僕は、女房の肉を食った。彼女はイーロイでしたからね。イーロイと結婚したモーロックは、罰として連れ合いを食わなければならない。あのときから極右政権になって、政府の方針も一八〇度変わった。それまではイーロイの細胞を人工培養した肉を食っていましたからね」
「そう、バカなイーロイは反乱を起こし、墓穴を掘った。そりゃ誰だって本物の人肉を食いたい。それまでは、ほんの少々平和でした」といって小林は屈託なくわらい、「克夫さんは?」とたずねた。
「さあ、息子も食われたと思いますよ。いまの政権の法律では、混血はイーロイです。息子はピンキーと呼ばれて蔑まれてきました。しかし、どうでもいいことです。僕はモーロックですからね。モーロックのメリットは……」と勉がいうと、小林が続けた。

「昔がないということですか。思い出がないんです。だから悲しみもありません。だって、いまの自分しかないから、人間関係が希薄ですもん。悲しみは人間関係の中から生まれるんです」
「そう、楽しい思い出も、辛く悲しい思い出も、すべての思い出は人間関係から生じるものです。昔は僕も、ひょんなことから過去を思い出して、一日中憂鬱な気分になっちまうことがあった」
「たとえば、奥様を食したあの日のこと?」
「いやいや、しかしモーロックはいいね。男女関係も人間関係もない。モーロックは常に視点を未来に据え、前向きに生きていくことができる。でもあなたは、いつまでもイーロイの恰好だ。で、女、男?」
「たぶん昔は女ね。でも、いまは自称モーロックです。畜生ではない。私にも子供がいたなんて信じられない。モーロックのイニシエーションを受けたんです。自殺した娘の肉を食べさせられました。イーロイの時代が来ることを願い、いずれ生き返らせようと冷凍保存していた娘です。これで、少なくとも心はモーロックになれました。私の過去はすべてゲームだった。しかしそれはモーロックを狩るゲームです。一転していまは、イーロイ狩りのゲームを楽しんでいます。私の心はモーロックです」

「そう、モーロックはローマ貴族のようなものですよ。生態系の頂点に君臨する。毎日がイーロイ狩りという遊びだ。悲しいことなどなにもない。殺そうが殺されようが、みんなゲームだ。イーロイだって、みんなわらって死んでいきます。それは我々に対する軽蔑のわらいかもしれんが、わらいは勝者の特権だ。でもあなたの心はモーロックなのに、悲しそうだ。どうしてです?」
「イーロイのわらいは、苦しい現実から解放されたわらいですよ。私が悲しい顔をしているのは、私の体が畜生の姿をしているからです。イーロイの姿であり続けるかぎり、私は使役動物として働き続け、老いぼれれば肉にされます。どうすれば、私もそんな素敵な姿になれるんでしょう。心も体もモーロックにならないと、いつ肉にされるかも分からない。私は完全なモーロックになりたいんです」

 すると勉は小林の耳に口を近づけ、囁いた。
「簡単ですよ。モーロックを一人殺して脳移植すればいい。少しばかりモーロックの脳味噌を残しましょう。味覚、嗅覚、人肉嗜好、破壊本能などなど。よかったらお手伝いしましょうか?」
「しかしなぜ私を助けようと?」
「昔息子から聞いたんです。あなたは万一のために金塊を隠していると。それを私に差し出せば、あなたは完璧なモーロックだ」
「そうでしたか。それであなたが私の後を付ける理由が分かりました。お願いします。もうこのブタのような体に耐えられなくて……。私の隠し財産はあなたのものです」
 契約は一瞬で成立した。しかし当然のことだが、小林は勉が自分の財産をせしめた後、殺して山に埋めるだろうと思った。隙を見て逃げ出す自信はなかったが、一か八かやってみるにこしたことはない。

 作戦はきわめて簡単だ。まずは食堂に来たモーロックの一人をターゲットにした。提供する料理に睡眠薬を振りかけた。そいつはテーブルに大きな頭を乗せて大いびきをかき始めた。仲間たちは互いに無関心だから、起こすこともなく店を出ていく。閉店時になると、勉たちのグループと、そいつだけが店にいた。勉たちはさっそくそいつを担ぎ上げ、車で某所まで運び、地下倉庫に降りていく。地下の底には手術室が備わっていて、先に教室のトイレの窓から抜け出した小林が待っていた。

 専属のロボットたちは、冷凍のプールに裸のモーロックを放り込んだ。手術は半硬化状態で行わなければならないので、すぐに小林もチルドにする必要があった。ロボットが小林を支え、コップ半分の催眠剤を飲ませた。小林が気を失うと、ロボットたちは小林を裸にして、プールに放り投げた。
「半生状態で引き上げますか?」と助手ロボットが聞いた。
「いいや」とロボット長。
「完全に硬化するまで三〇分要します」
「レーザーで加工できる程度の硬さにしてくれ」
「二〇分二〇秒が理想的です」
「じゃあ、その時間になったら頭蓋骨を割って、脳味噌を取り出してくれ。傷を付けないようにな」

「イーロイの体はどうしますか?」
 ロボット長が勉にたずねる。
「君たちに任せる。心臓以外は」
「保管します。ロボットが人間を破壊することは禁じられています」
「バカだな。イーロイは人間じゃない」
「それではミンチにします」
「小分けして部下たちへのお土産に包んでくれ」
「分かりました。不要なモーロックの脳味噌は?」
「君が食べればいい」
 ロボットたちは「不味い不味い」とわらいながら脳味噌を引き千切って口の中に入れた。体の中で高熱処理して、粉になってケツから出てきた。床に散らばったそれらを、ロボット掃除機が吸い取った。

 移植手術は無事終わり、一時間後に小林は目を覚ました。直ぐに立ち上がると勉と抱き合った。
「おめでとう。あなたはもう家畜ではなくなり、人間として第二の人生を歩むことになる」と勉は祝福した。
「ありがとうございます」
 勉は小林の耳元で囁く。
「二人であなたの家に行き、謝礼をいただきましょう」
「承知いたしました。庭に埋めております」

 小林は鏡の前に立って、新しい肉体を眺めた。体全体が濁った白色をしている。薄黄色の髪が背中まで垂れていた。目が円く大きく、瞳が灰色がかった赤色をしていた。顔つきはキツネザルのようで、これら全てが完璧なモーロックの姿だった。
「あなたがこれからモーロックとして生きるためには、我々のグループに入る必要がある。我々の仕事は野生のイーロイを捕らえ、食肉として販売することだ。イーロイは野生馬より頭が良いから、野山で繁殖すると手に負えなくなる」
「分かりました」
「それではさっそく、ここで入隊式を行おう」

 ヴェルディ部隊の一〇人ほどが整列し、勉は腰の剣を抜いてピンク色したプラズマ・ブレードを小林の右肩に当てた。皮膚の焼ける臭いとともに、肩にはVerdiの文字が刻印された。勉はプラケースから肉塊を出し、「これを食べるんだ」といった。
「何です?」
「君の心臓さ。イーロイの心臓だ。これを食べて、君は正真正銘のモーロックだ」
 拳大の心臓を小林はむさぼるように食べ、ケースに残る血を舐めた。過去の自分を食って、心身ともにすっかりモーロックになった。

 そのとき武装した五〇人の警察軍が地下室になだれ込み、ヴェルディ部隊を取り囲んだ。警察軍の連隊長が、勉を思い切り殴った。
「我々は君たちの隊長と、一匹のイーロイを逮捕しにきた。武器を捨てろ。歯向かうと殺す」と連隊長がいった。すると多勢に無勢と思ったのものか、一〇人のヴェルディは武器を捨てた。
「いったい俺たちが何をしたというのかね?」と勉は頬を擦りながら連隊長にたずねる。
 連隊長は何も答えず、薄わらいしながら、小さなモニターに映る映像を見せた。それは殺されたモーロックの大きな眼が映し出した脳移植の光景だった。画面には作業するロボットたちとともに、覗き込む勉の顔が映っている。側の台にはチルド状態の小林がいた。
「この映像は、遠い星に住む被害者の分身、つまり王子様たちがリアルタイムで警察に届けたものだ。彼らは父親である王様の殺人が行われていると訴えてきた。いかに遠い星にいようが、愛する家族が殺されるを見過ごすわけにもいかないからな」

 連隊長は小林に近寄り、残念そうな顔付きでへへへとわらい、呟くようにいった。
「残念だが君の体はモーロックで、とさつ場には連れていけない。といって被害者の家族のもとに返すわけにもいかない。君の心は被害者の心じゃないからな。君たちを逮捕すれば、こんな事件はきっと見せしめとなり、二人とも死刑がいい渡されるだろう。君がそれを幸運と取るか不幸と取るかは我々の知ったことではない。しかし明らかに、ヴェルディの隊長さんは愚かなことをした。家畜を助けるために人間を殺すなんて、人非人のすることだ」
 そうして、連隊長は部下に「構え!」と命じた。

「分かるかね。私は面倒くさい案件は嫌いだ。この事件はなかったことにしたいのさ」
 連隊長が「撃て!」と叫ぶと、部下たちのレーザー銃が一斉に発射され、一面がうまそうな焼き肉の臭いに満たされた。ヴェルディ全員が黒焦げになって床に転がった。連隊長はロボット長に死体の早急な処理を命令した。ロボットたちはガリガリと、がむしゃらに死体を食い始めてケツから粉を出し続け、三台のロボット掃除機が床を清掃しまくった。

 小林は呆然と突っ立ちながら、この光景を眺めていた。どうやら小林にはレーザーが当たらなかったようだ。
「おめでとう、君は今日から我々の仲間だ。私が最初に命ずる君の仕事は、君がイーロイだった頃にため込んだ隠し財産を一緒に探すことさ。ほら、君がヴェルディの隊長に約束したに違いない財産だ。まさか君、我々を動物愛護団体だとは思っていないだろ?」
 連隊長はそういうと、小林の耳元で囁くようにたずねた。
「ひとつ質問に答えてくれたまえ。君たちイーロイにとって、殺されることと食われることのどちらが、精神的に耐えられないことなのかね?」
 この言葉の遊びに対して、小林はきっぱりと答えた。
「連隊長、食われながら殺されることです」
 小林と連隊長を含め一同大爆笑の中で、世にも日常茶飯な物語を終えることにする。

(了)

 

 

 

 

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エッセー 「熊戦争とパレスチナ戦争を考える」& ショートショート

エッセー
熊戦争とパレスチナ戦争を考える

 今年は異常気象で木の実の出来が悪いらしく、ふだんは人里に下りてこない熊たちが空腹のあまり人家の庭に現れ、人を襲うなどの悪さをしている。これから異常気象は続くし、それが当たり前になれば異常も通常となるだろうから、熊のお宅訪問も日常茶飯事になるに違いない。同じようにウクライナの領土にロシア軍が進軍して居座れば、最初は世界が異常事態と見なしていたのが、そのまま時が経つうちに世界も目を瞑る日常風景になる。それが嫌だというのなら、熊もロシア兵も駆除する以外に方法はない。

 熊とロシア軍の違うところは、熊は腹が減って生きるか死ぬかの覚悟でうろつくのに対し、ロシア兵の多くは上からの命令でやむを得ずうろついていることだろう。止むに止まれぬ行動と、「なんでこんなことしてんだ……」と自問自答しながらの行動では、大分差がある。熊は生きるために危険を冒して人里に下り、ロシア兵は国家から疎外されないために危険を冒してウクライナに進撃する。貧乏ロシア兵は目の前に札束という人参をぶら下げられたといっても、飢え死にするまで追い詰められてはいない。ロシア国家から疎外されないためとすれば、国を愛する心や故郷の人々への愛着を捨て去る覚悟さえあれば、脱走してウクライナに投降することも可能だ。ロシアへの帰属意識さえ捨てれば、ロシア以外にどこか生きる場所はあるだろう。但しロシア軍には、脱走兵を背後から監視・射殺する督戦部隊が組み込まれている。

 しかし帰属意識には(ナショナル)アイデンティティという粘着感情が含まれていて、多くの人々は自分の生まれ育った場所が死ぬまで自分の立ち位置だと思い込んでいる。例えばアメリカ移民のように、アメリカ人のくせに祖先がどこの国かでドイツ系、アイルランド系、ウクライナ系、中国系などとこだわり続ける。最初は原住民を追い出してコロニーを作ったが、その村意識が続いていて、最初に移住したピルグリム・ファーザーズの末裔は未だに尊敬されている。原住民の子孫を除いたアメリカ人には母国が二つあるので、例えばロシアとウクライナイスラエルパレスチナが戦争となれば、同じ会社のロシア系とウクライナ系、イスラエル系とパレスチナ系の同僚は複雑な気持ちになったりする。 

 帰属意識は、パスポートの国の数だけあると思えばいい。加えて宗教の帰属意識、民族の帰属意識、生まれた地方の帰属意識、贔屓のサッカーチーム、派閥などなど、この星は帰属意識が満載だ。大ロシア主義や中華思想はその最たるものだし、大和魂は敗戦でもろくも崩れ去ったが、浪速イズム阪神イズムは健在だ。なかでもロシアンアイデンティティは曲者で、プーチンを先頭に多くのロシア人(農奴の末裔を含め)が古のロシア帝国に帰属していてその栄華をイメージし、当時はロシアの領土だったウクライナの奪還を望んでいる。きっと彼らの心の中では、日本人が理不尽と考えるウクライナ戦争も、領土拡大戦争というよりは奪還戦争なのだ。つまり日本人とロシア人のイメージは異なり、相互不理解が生じている。

 ならば僕にも、例えば北海道の熊の気持ちが分からなくても、想像することぐらいは許されるだろう。学校の授業のように、僕はヒグマ役となって、ディベートを始めよう。僕にもロシア人のような主張はある。僕は北の大地を闊歩した昔の熊帝国時代を思い出し、人間に対して怒っている。当時は先住民であるアイヌの人たちだけが広大な土地に暮らしていて、僕の祖先は「山親爺」などと尊敬されて一応共存し、人里に下りてもむやみに殺されることはなかった。ところが特に明治以降、和人や屯田兵が多数入植し、先住民を追いやって開墾・開拓を進めたことから僕たちの生活も一変する。僕たちは山に追いやられ、害獣扱いされてやみくもに殺され熊汁となり、頭数も激減した。一定数保護されるようになったのは、動物愛護の思想が盛んになった戦後のことだ。

 こうして見ると、いま起こっているパレスチナ戦争(第一次中東戦争ではない)も、北海道の熊戦争と似たようなものだと理解することができる(熊のためおかしな比較はご容赦)。異なるところは、パレスチナ人は人間で、人間には人権があり、僕は動物で、動物には人権がなく、物品扱いされることだ。しかし起こっている事象を言葉にすれば、「民族と民族の縄張り争い」、「人と動物の縄張り争い」ということになる。別の切り口で言えば、起こっている事象は、争いの渦中で人も動物も簡単に死ぬということ。敵視されれば人も熊も物扱いされること。結局強いものが勝つという弱肉強食の世界であること。この世界では人は僕たちをナイフで裂いて食い、僕たちは人を爪で裂いて食うということ。人間は単なる感情で共食いはしないが、僕らと同じように腹が減れば食うかもしれないということ(僕たちには仕来りはないが、人間どもには暗黙の仕来りがあるだけのことさ)。

 法(ルール)は罰を伴う決まり事というイメージで、北の大地もパレスチナの大地も、法がなければ戦場となる。僕に「ここは人間の庭だ」と片側のルールを叫んでも無視し、敵兵に「ここは俺の家だ」と片側のルールを叫んでも、主人もろとも爆破される。自然のルールで行動する僕は人間のルールを知らないし、敵国のルールで行動する敵兵は相手国のルールなど無視する。ルールは権力で支えられていて、権力のないルールは絵に描いた餅、あるいは錨のない船だ。だから錨のない国連がルールを定めていても常時フラフラ揺れていて、いくら人道的ルール違反だと叫ぼうと、駅舎内の殴り合いに割って入る駅員ぐらいの効力しか発揮しない。仕方なく駅員はお巡りさんを呼ぶと、ケンカはすんなり解決する。それは警官は背後に国家権力の後光があるからだ。しかし後光の光源だったアメリカも国内事情に忙殺され、エネルギーを失って萎れつつある。いまの国連は、アメリカを始め自国の国益を真っ先に考える有象無象の集合体でしか過ぎず、駅員と似たり寄ったりのあたふたした「仲裁」しかできない(偶に時の鐘のように、事務総長が恨み節を発している)。

 僕たちが殺されるときは「駆除」という言葉が使われる。その意味は「害になるものを殺して取り除くこと」だ。しかし、この言葉は「殺す」という言葉と同じ意味に使われてしかるべきだろう。殺人はどんな理由にしろ、「自分の害になるものを殺して取り除くこと」なのだから。人が僕を殺したら「駆除」と言う。同じように、僕が人を殺した場合、僕からすれば「自分の害になるものを殺して取り除くこと」なのだから、僕サイドは人を駆除したことになる。しかし人の立場からは、「誰々さんが熊に駆除された」とは言わず、「殺された」と語られる。未だ人は熊どうしの会話をアニメ以外は確認していないが、この前僕は生活圏を取り戻す熊たちの会議に出席して、話は「俺は人間を何頭駆除した」といった自慢話になって盛り上がりました(これ以上続けるとSNSの吊し上げになりますので、熊の一方的ディベートは終了です。イスラエル人がハマスの主張を代弁したら村八分でしょ)。 

 ならばイスラエル兵とハマス戦闘員はどうだろう。ロシア兵とウクライナ兵はどうだろう。少なくとも両者は人間で、互いに「人権」を持っている。しかしいざ戦いが始まると、ロシア兵はウクライナ兵を「熊ないしは物」だと思い、ウクライナ兵はロシア兵を「熊ないしは物」だと思って殺し合う。いくら周りが「人権」「人権」と叫んでも、「人権」は両者の脳の中枢に組み込まれたデバイスではなく、夢と変わらない単なる「想念(教養)」というイメージ・パルス(神経発火現象)に過ぎないのだ。ロシア兵がウクライナ兵を殺した場合、相手は熊なのだから、ロシアの人々は「自分たちの害になるものを殺して取り除いた」と思い、それには「駆除」という言葉は当てはまる。反対にウクライナ兵がロシア兵を殺した場合、ウクライナの人々は「駆除」だと思って喜ぶ。しかし殺されたロシア兵の国の人々は「殺された!」と言って泣き叫ぶ。イスラエル兵がハマス戦闘員を殺した場合も、ハマスイスラエル兵を殺した場合も同じことだ。 

 それなら、巻き添えになる民間人や人質の死は何と呼べば良いのだろう。それは「事故」だろうか……。それは事故のようなものではあるが事故ではない。敵という自分の害になるものを殺して取り除く作業に「必要悪」として付随する犠牲だ。事故は思ってもいないことが起きたときに使う言葉だが、犠牲は神に捧げる人身御供のように、あらかじめ想定された殺人だ。国際法では「戦闘員」と「非戦闘員」は区別されていて、明確な意図で非戦闘員が拉致されたり殺されれば違法となるが、ウクライナ戦争を見れば分かるように、一端戦争が始まってしまえば、違法もクソもなくなってしまうのが現状だ。

 「犠牲」という言葉は基本的に傍観する第三者が使うか、当事国の政府が自国民(兵士も含め)に使う。だからイスラエル政府がパレスチナの民間人を殺しても表面上は押し黙り、心の中ではハマスと同じカテゴリーに入れている。プレスに聞かれると、「民間人の中にハマスが紛れ込んでおり、選別は難しい」と答えるだろう。婦女子を含めパレスチナ人はみんな敵だと叫べば国際社会から非難されるから、口を濁すにこしたことはない。それはハマスも同じだろう。獲得した人質だって戦利品以外の何物でもない。敵から取った持ち駒だ。

 「犠牲」とは、「一層重要な目的のために、〝自分〟の生命や〝大切なもの〟を捧げること」という意味である。自己犠牲は「自分の意志で自分の生命を捧げること」で、これは自己完結型の兵隊が持つ犠牲だ。兵隊は自国の「大切なもの」を守るために死んでいく。その「大切なもの」は何かというと、これが自国の「民間人」や「人質」で、相手国のそれは含まれない。しかし、それ以上に大切なものがある。「国破れて山河在り」という杜甫の悲しい詩があるが、それは国民や民族が未だに囚われているナショナルアイデンティティエスニックアイデンティティなのだ。これが侵されそうになった場合、元来自己犠牲でないはずの民間人や人質の死は、自己犠牲となる。戦時中の女子挺身隊や竹槍部隊を思い出せば分かるだろう。それは大統領や首相が考える一層重要な目的のために、彼らが決断した人身御供で、有事における国民の義務として運命に弄ばれる存在なのだ。エスニックアイデンティティとは何か。あれだけ犠牲を出しながら、未だ抵抗を止めないウクライナの人々に聞けば分かるはずだ。

 ならば、いま起こっているパレスチナ戦争で、「人質」と「民間人」とではどう異なるのだろう。イスラエル軍の立場で言えば、「人質優先」を無視した侵攻作戦を続ける限り、イスラエル人人質はハマス撲滅という一層重要な目的のための犠牲者となる。現在4日間の戦闘停止と人質解放が始まったが、人質全員が解放されるわけではない。イスラエルが残りの人質を断念して戦闘を再開すれば、そこにあるのは、きっと個と個との間の壁だ。人質家族VS強硬派ということになる。イスラエル政府は、国内デモや国際的批判を気にして戦闘停止に踏み切るが、基本的にイスラエル人はイスラエル国家のアイデンティティで結束していることも確かだ。このアイデンティティには「犠牲」的精神も含まれるだろう。それは徴兵制度がある国では普通のことで、彼らが一応兵隊なのなら「一層重要な目的のために、自分の生命や大切なものを捧げること」という犠牲的精神に反する行為は、脱走兵と同じ卑怯なことになってしまう。

 女性や子供が少なからず解放されても、居残りの人質たちは兵隊としてお国のために死んでいくことになる。それが国家アイデンティティが持つ厳しい現実だ。その前には、「人権」という絵に描いた餅は塗り潰される。自分と親しい者でないかぎり、人は他人の死に無関心な立場を取ることは容易だ。基本的に人間は「他人のことはどうでもいい」というスタンスで生きている。ことに余裕がなくなった場合は、その感性は補強される。そんな人間が政治を行えば、自分の夢や一層重要な目的のためには「多少の犠牲はやむを得ず」となるだろう。同国人ですらそうなら、元々差別感情のある敵対民族の民間人は敵兵と同じレベルで考えてもおかしくはない。米軍が広島に原爆を落としたようなものだ。鳥インフルが流行ると、近くの鶏舎の健康な鶏も一緒くたに生き埋めにされる。鶏君たちは、疫病を全国に広めないという一層重要な目的のための犠牲者だが、重要性においてプーチン的妄想のウクライナ侵略よりは理に叶っている。「人質」や「民間人」も、戦時下においては同じ立場に陥ると思っていいだろう。

 居残り人質はイスラエル軍にとっては足枷となり、「無視」するに限ると思ってもおかしくない。カオス的な破壊行動を行いつつ、それによる人質の犠牲を無視するということは、結果的に「自分の進撃の害(邪魔)になるものを殺して取り除くこと」と同じになり、人質は有害動物と同じ扱いとなり、このまま進撃を続ければ「駆除」となってトートロジーに陥ってしまう。結局「快楽殺人」を除いて、殺人も捕虜も人質も、全て「駆除」というワードとの不整合は見当たらない。高邁な理由だろうが個人的な理由だろうが、殺人も見殺しも、結局は自分の害になるものを排除し、目を瞑って「より上位の目的のために」自分たちを保身するもので、それには「駆除」という言葉が相応しい。そのとき人質家族との同国人という紐帯は無くなり、人々は自分たちのことだけを考える。自分が守らなければならないものは、自分を包容する国だ。人質は国の養鶏産業を守るために処分される鶏たちと同じ立場となり、「運が悪かった」と慰める以外に言葉はない。 

 パレスチナ戦争はイスラエル人VSパレスチナ人という民族アイデンティティの戦いだ。同時にユダヤ教VSイスラム教という宗教アイデンティティの戦いでもあり、一つの領土をめぐるナショナルアイデンティティの戦いでもある。遠い昔、原始細菌が生まれて菌叢(群体)を作ったときから、あらゆる生物がコロニーを繁殖のよすがとし、それを礎にして栄えてきた。虎や熊のような孤独な連中も、それぞれに縄張りを決めて、必死に守ろうとする。それは個々の個体が生きるために不可欠な「より一層重要な目的」としての空間で、拡大は繁栄を意味し、縮小は衰退を意味し、喪失は死を意味した。生物の端くれである人間も同じ目的のために活動し、それがアイデンティティという感性と深く結びついている。イスラエル人はかつてその空間を喪失し、死の淵を彷徨った。そしてパレスチナ人はいま、まさにその空間を喪失し、死の淵を彷徨っている。もちろん、戦争に巻き込まれた人質も、両者の「より一層重要な目的」の犠牲者だ。

 人はそんなとき、神に祈る以外に方法はない。イスラエル人もパレスチナ人もそれぞれの神に向かって祈るだけだろう。法然は「人間はいくら努力しても変われず救われないから、南無阿弥陀仏をひたすら唱えなさい」とおっしゃった。阿弥陀仏は異界に居られるが、唱えれば言葉となって心に入り実質化するという。しかし互いに異なる神を祈ったところで、両者の紛争が解決するはずもない。願わくば、世界中の人間が「平和の神」に祈りを捧げて心を一つにし、その中で実質化させて解決の糸口が見つかればと思っている。4日間の休戦だって、アメリカをはじめとする国際圧力によって実現したのだから。

 そしてもう一つ……。菌叢から発した生物アイデンティティを持たないスーパーコンピュータに、群叢のしがらみから解放された人間社会のプラットフォームを考えてもらい、平和のヒントを得たいものだ。神の世界のプラットフォームが天国だとすれば、無生物のコンピュータがどんな世界システムを提示してくれるかは、興味深いものがある。人の心のドロドロした不純物がないだけでも、すこしは天国に近い清涼さはあるものかと期待ができる。宗教団体が唱える地上天国よりかはマシかもしれない……。

 

 

 

 

ショートショート
ドローン戦略部隊

捕虜宇宙船は大きな卵ケースといったところ。人一人がやっと納まるぐらいの卵型した小さなカプセルが幅五つ、長さ五十個整然と並べられ、それが五段に積まれていた。全部が埋まれば一、二五十人入れる蛸部屋というわけだが、全て埋まっているわけではない。満員になった場合は、成績の悪い捕虜から宇宙に放出される。

空き部屋は卵と同じ白色に濁っていて、内部は見えなかった。半分近くは空いている。人のいる卵の殻は半透明で内部が見え、激しく変化する多彩な光を発している。捕虜は孵化寸前のヒヨコのような恰好でドローン操縦を楽しんでいた。

殻の中から見れば内壁一面に映像が映し出され、広大な空間を飛んでいるように見えるから、拘禁ノイローゼに罹ることもない。室内は空中浮遊なのでエコノミークラス症候群もない。腹が減ると口先のノズルから水やエサが自動的に出てくる。尿や便は機械が自動的に吸い出してくれる。彼らは幼い頃からゲーム漬けの毎日を送ってきた。教養はゲームで身に付ける。脳味噌がデータを蓄積するとすれば、それはゲームを楽しむためだ。脳は妄想を膨らまし、快感に寄与すればよい。妄想はゲームの中でどんどん膨らみ、暴走していく。しかしドローン空間の中ですべて解消できた。

「拉致されても前と同じ環境にいれば文句はいわない。人生は卵の中だ。五感をすべて満足させているから、宇宙での脱走なんて誰も思わない。彼らが唯一囚人であることを意識するのは下の階の重力トラックを走らされているときだけだ」と男の監視。

「筋肉だって薬や電流で鍛えられる時代に、なぜ?」
「苛酷な現実への順化。こいつらに旧人類の脳味噌を入れるんだ。できるだけ自然の状態で戻さないと、地上での戦士にはなりえない。しかし戻すことはないだろう」

ランニングを終えた捕虜どもが、汗だくで戻ってきた。大人しく列を作ってシャワールームに入り、殺菌スチームで汗を流したあと、それぞれのセルに戻っていった。「ちょっとあなた」といって女の監視が一人を呼び止め、浴室前にあるロビーのシートに座らせる。

「冥途の土産になんでも質問してくださいな。人類が進化するなら、こいつらのほうが進化形のはずだわ。この人は彼でも彼女でもない。生殖器は取られて性欲もないわ。でも暴力的な快楽は大好きよ、ね? それに、彼らの脳神経網はデザインされたものだけど、ゲームの中で組み換えがどんどん起こっていくから、話ができるほどには正常化している。いまは、脳神経修正プログラムを入れたバトルを楽しんでいるし……、で、トム君は優等生だわね。きっと祖先帰りかしら、旧人類の感性を持っている」
女の監視はそういって優しい眼差しを捕虜に向け、「お名前はトムでよかった?」とたずねた。

「はい、ここで付けられた名です。生年月日は忘れました。ここに収容されている限り、本名は不要です」
ちゃんとした答えが返ってきたので、私は驚いた。

「で、あなたはふつうの捕虜とは違うわね」
「違いませんよ。捕虜たちは夢の中で生きています。あなた方にいわせると、孤独を愛する人、人嫌いです」
「哲学者、詩人?」と私。
「単なるゲーム・オタクです。二四時間バトルで生きるようにデザインされた人間です」
「捕虜にとって現実とは?」
「地上の現実は地獄です。だから死んだら天国に行けると思っている。夢を見て生きている。でも、新人類の捕虜には宇宙が天国だ。一人が入れるだけの卵が天国です。あつかましい連中に出遭いたくなければ一生遭わずに生きていけます。すべて夢なら生きるか死ぬかといった問題も生じません、それに我々は地上の人たちを殺している。本物の天国には行けない」

「しかし、君を作り出した地上の貴族どもは、地上を自分たちだけの天国にしようともくろんでいる」
「それで戦争が起きる。あなたたち旧人類は、蜘蛛の糸を伝って地獄から抜け出そうとする哀れな人たちです。天国に登った連中はハサミで糸を切るでしょう。必要なのは住み分けです。あなた方は地下に潜り、僕たちは卵の中にいればいい。そしてあなた方を殺す」

「我々を哀れな地底人にするつもりかよ。君たちは家畜人間じゃないか」
私は声を荒らげて、トムを侮辱した。

「地下に隠れていても地上に顔を出せばカラスが狙う。みんな家畜のようなものです。社会という戦場で飼われている。そう、僕は現実に生きていない。ドローン空間では、地上の人間は皆殺しです」

「孤独な離れザルめ」と私が再びののしる。
「卵に戻してください。あの中であなたの家族を八つ裂きにしましょう」とトム。
私は苦わらいした。
「いいわ、戻りなさい」
監視はトムを見つめ、優しく微笑んだ。

刑場に引かれる前に、捕らえられたわが軍の若者たちが働く様子を見学した。彼らはカプセルの中で興奮しながら、生まれ育った街々を攻撃していた。ドローンは次々に建物を破壊していく。彼らの技術は神業だった。

「彼らはドローンと一体化して、鳥の群のようにビルの灯りを目がけ、体当たりするのです。彼らはカミカゼのように命がけで攻撃します。けれど彼らは死にません。アドレナリンを放出しているだけで、不死鳥なのです。ゲームの世界では遠く離れた悲劇もゲームの一部です。彼らにとって、祖国の人たちもアバターです。お母さんもお父さんも妹さんも、お友達もみんなアバターなのです。だって彼らはいま、ゲームの世界で生きているのですから……」

「よくここまで洗脳しましたね」
「洗脳なんてとんでもない。生まれ持ったゲーム中毒なだけです。ずっとずっと、ゲームの中で生きているのです」
私は深いため息を吐きながら祖国の未来を忘れるべく、足早に宇宙放出口へと向かった……

(了)

 

 

 

 

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エッセー 「メタバースの未来]& 詩

エッセー
メタバースの未来

~悲しみの避難所~

 二重人格を描いた小説に、スティーヴンソンの『ジキル博士とハイド氏』という名作がある。医者で社会的地位のあるジキル博士には抑えがたいサディズムの欲望があり、忌むべきその欲望を切り離すことのできる薬を密かに開発した。この薬を飲むとたちまち別人格の怪物ハイドに変身し、殺人や傷害などの悪行を行って欲望を発散させることができるようになった。有名な小説なので全体の粗筋はカットするが、これはあくまで物語だ。疾病としての二重人格や多重人格は、「解離性同一性障害」という神経症の一種と言われていて、その原因は児童虐待などによる心的外傷が多く、一人の人間の中に全く別の人格が複数存在するようになるのだという。小説ではないから外貌までは変わらないが、男にも女にも子供にも変心し、表情や喋り口は変わる。当然のこと、各人格の性格は異なり、中には手の付けられない暴れん坊もいたりする。別の人格にあるうちは、正気な自分の性格や情報、状況や出来事、トラウマになった思い出など、いままで歩んできた人生をすっかり忘れることができるという。

 ジキル博士も、悩んでいた悪徳願望を別人格のハイドに押し付け、切り離すことができて、名士のプライドを保てた。しかし彼の場合は、世間的に評価されている現況に満足していて、それを壊したくないため、暗い欲望のはけ口をなんちゃって別人に背負わせたわけだ。しかし虐待被害など、過去のトラウマを抱える多重人格者の場合は、現実そのものが苛酷で、別人になって別の世界に生きたいという逃避願望から、この障害に陥る。同じ多重人格でも、その原因が「過激な欲望」と「逃避願望」に分かれるなら、その意味合いは大分違うことになる。人の心を袋と考えれば、「過激な欲望」は内圧によって膨らみ、押さえが効かなくなって破れ出るのに対し、「逃避願望」は外圧によって袋が潰され、持ちこたえることができずに破れて押し出される感じだろう。そして両者とも、はみ出た欲望や願望は新たな人格を形成し、別の世界で生きることになる。

 いずれにしても過剰な欲望や逃避願望を持つ人の心は、多元宇宙のようにいくつもの世界を持つことができ、それが社会を乱さない限りは疾病として扱われることもなく、「怪しい目つき」や「夢男君・夢子さん」で止まるだろう。誰でも激しい欲望や逃避願望は持ち得るし、多重人格者でなくても睡眠中の夢となったり、白日夢となったりする。これらは明らかに現実の世界とは違うもう一つの世界だが、脳内で回っている限りは世間様に迷惑をかけるわけでもなく、個人的な問題として自身で解決すれば良い話だ。しかしそれが症状として表れたり手に余る状況になると、医者や警察のお世話になったりする。

 病的でない限り、あるいは他人に迷惑をかけない限り、欲望や逃避願望は「自由願望」という美しい言葉に代えることができる。自由願望は、自分の思うままに生きたいと願う欲望だ。哲学者のアイザイア・バーリンによれば、自由は「積極的自由」と「消極的自由」に分けられるという。「積極的自由」とは、物事の価値の優劣を知り、より高い価値の実現のために自立的に行動すること、「消極的自由」とは、個人の行動・選択の自由が他人によって干渉されないこと、と規定される。これはつまり、民主主義社会における「自由」の意味付けだろう。しかし民主主義社会では、良かれと思ってやった「積極的自由」でも他者との軋轢を生み、「消極的自由」で引きこもれば、社会参加して税金を払えと手紙が届く。それを解決する手段は、医者の診断書やお白洲の場ということになる。自由には社会的規制が付き物で、それでも民主社会は独裁社会よりはマシということだ。

 ならば民主革命の一つであるフランス革命はどうだろう。ドラクロアの描いた『民衆を導く自由の女神』の女神は「積極的自由」の象徴だが、その後ろの民衆は「消極的自由」の象徴だ。リーダーは積極的自由を考え、それに引きずられる虐げられし人々は消極的自由を訴えている。しかし暴徒の一人が貴族の首を刎ねたとすれば、旧体制下では犯罪者だが、新体制下では「積極的自由」を行使した英雄になる。フランス革命がなぜ積極的自由なのかというと、「民主主義」という消極的自由の価値観を持つ人民が、「貴族主義」というお上の価値観を変えるべく行動し、より高い価値が実現した(と現在は思われている)からだ。最初は「消極的自由」を求めても、行動すれば「積極的自由」に転換する。唯一「消極的自由」が叶うのは、安定した民主社会における民主憲法の文言か、議場における多数決ということになる。ならば独裁政権下で民主憲法と議会が破壊されれば「消極的自由」は力を失い、「積極的自由」の象徴である自由の女神を期待する以外にないということになる。彼女は革命や政変の象徴でもあるが、血を見るのが好きだ。

 「言論の自由」や「職業選択の自由」が消極的自由なのは、民主主義社会では、生きる権利と同じく当然の権利(人権)として遍く存在しているからだ。バーリンが「消極的自由」を真の自由と考えたのは、「積極的自由」の価値に絶対的なものはなく、価値観は統治形態や階層、個人の考えによって変わるものだから。つまり「積極的自由」の基本は価値を掲げる欲望で、「消極的自由」の基本は人権という観念ということになる。これは観念である「全員平等」の人権が一般常識として大地に遍く広がっていても、欲望本能である軍靴で踏みにじられやすいものだということを表している。フランス革命では、フランス人民は市民の人権を獲得し、フランス貴族は少数者特権を失った。しかし自由の女神はすぐさま欲に侵され、ロベスピエールやナポレオンに変身した。「積極的自由」どうしの戦いは価値観どうしの戦いで、現在でも見られる価値を掲げた欲がらみの戦争に堕してしまう。

 福沢諭吉は英語の〝Liberty〟〝Freedom〟を和訳するとき、最初は「御免」という言葉を当てはめ、その後「自由」という仏教用語にしたのだという。当時は封建社会だったので仏教的「自由」にもそんな意味はなく、日本人は「自由」という概念も分かっていなかった。しかし僕は「御免」いう言葉は、「積極的自由」には当てはまると思っている。「切り捨て御免」という言葉がある。これは平民に対する武士階級の自由を表した言葉だ。いま起こっているエンクロージャー合戦(パレスチナ戦争)でも、ハマスの価値観に基づいた「積極的自由」に対抗し、イスラエルの価値観に基づいた「積極的自由」で「民間人の殺戮御免(天下御免)」という惨事が起こっている。全ての戦争は互いの価値観の違いから生じ、それが欲望という「積極的自由」どうしの戦いであるなら、「自由」という言葉はあまりにも美しいので、「御免」にしたほうがいいだろう。「御免」には、「僕には力があるのだから、思うとおりにさせてもらうよ」ということわり(エゴ)が含まれる。「自由」は基本的人権に付随した「消極的自由」に使うべきで、「積極的自由」に使うべきではないし、「正義」という胡散臭い言葉と組み合わせるべきでもない。「積極的自由」も「正義」も互いの立場で変わるのだから、恐らく「御免」が相応しい。

 平和が安定した社会の中では、「積極的自由」と「消極的自由」は正常に機能して、社会を発展させていく。人々は「消極的自由」で守られながら、「積極的自由」で経済活動を行い、より良い社会を築いていく。「欲望」は他者との軋轢がない限り、社会の発展には不可欠だし、「逃避願望」は仕事に疲れたときに、様々な息抜きを与えてくれる。逃避の権利は「消極的自由」の重要な要素でもあり、それは基本的人権の一部に組み込まれている。つまり「欲望」は「積極的自由」で、「逃避」は「消極的自由」だ。

 古代ギリシア時代から、観劇は日常生活から逃避する一つの手段だ。瞑想も座禅も、俗なる世界から逃避(脱俗)する一つの手段だった。エジソンが映画を発明して以来、逃避や離脱のツールは増え、テレビも音楽もチャットも、苛酷な現実を忘れさせてくれる「多重空間」という逃げ込みツールになった。様々な人の現実空間にいろんな多重空間というもう一つの世界が膨らみ、現実に生きる人々の逃げ込む異次元の世界がどんどん生まれてきている。明治時代に電話が始まり、声が届くなら荷物も届くだろうと電線に風呂敷をぶら下げた輩がいた。それは便利なツールだが、彼らにとって受話器から声が聞こえるのは異次元の世界だった。同じ情報機器である写真も映画もテレビもラジオも、最初は異次元の世界だったに違いない。そこに登場するスターたちは、みんなが憧れるアイドルで、そんな一握りの人たちになりたいと憧れるとすれば、ファンは異次元の世界である夢の空間で遊んでいることになる。それは多重人格者が体験する空間と同じで、度を越せば医者から「解離性同一性障害」と診断されてしまう。そしていま、人類は「仮想現実空間」という新たな多重人格空間を獲得した。もちろんそこは、「逃避」という消極的自由の逃げ込む場所で、現実ではないがゆえに、何をやっても許される空間なのだ。

 この空間の中で、多くの若者がバトルゲームに参加し、「積極的自由」を駆使してアバターたちを殺しているが、フロイトの言う「死の欲動」や「破壊願望」が人間の本能の一部である限りは、そうした過激な欲望は仮想現実空間で解消すべきものだろう。現実空間でそれをやったら、時の政府が推奨しない限りハイド氏になってしまう。一方で、メタバースなどは「逃避願望」の駆け込み寺的な役割を担うことが可能だ。例えば自殺願望は現実空間からの逃避願望で、現実社会における孤独感や疎外感、他者や社会との軋轢で生じるものだとすれば、死をもって天国に逃避する必要はなく、メタバースのような仮想現実空間は優れたもう一つの世界として、自殺防止に寄与できるだろう。一例として、福岡県が開設したメタバース『おいでよ、きもちかたりあう広場』は、悩みを抱える人を広く対象としたもので、同じような悩みを持つ人たちがアバターとして参加し、語り合いや親交を通して、参加者の自殺願望を解消する仕組みになっている。

 こうしたことが仮想現実空間で可能とすれば、世界中にはいろんな社会的事情で虐げられ、苦しんでいる人々を癒す(救いはしないが)ツールとして活用できると思う。例えば狭い柵と檻で拘禁ノイローゼに罹っている難民や人質に対して、政府や悪党はVRゴーグルを提供することで、ほんの少しは人道的配慮を示すことができるだろう。さらにヒジャブに隠すことのできる眼鏡風コンパクトゴーグルが開発されれば、過度の女性差別で苦しむムスリム女性の気晴らしとなる別の世界で、男と対等に語り合うことも可能になるだろう。当然、政府は禁止するから、隠れキリシタンならぬ隠れメタバースとなるのはやむを得ない。しかし人間、現実世界でにっちもさっちもいかない場合は、気休めでも逃避する場所は必要なのだ。

 このように仮想現実空間は、様々な役割を期待できるが、それはあくまで「消極的自由」という逃避の手段に過ぎない。ならば仮想現実空間は、諸刃の剣ということになるだろう。人権という消極的自由が政府や外国によって疎外された場合は、消極的自由のメタバースに遊んでいるわけにもいかなくなる。人々は積極的自由の象徴である「自由の女神」を目覚めさせなければならないのだ。革命やら抵抗やら改革やらがなく、仮想空間や夢の世界に逃避していれば、それは強権政府や侵略者の思う壺になってしまう。社会においては、これからますます仮想現実空間は進化・発展していくことだろう。しかし同時進行的に階層社会や社会的統制も加速している。

 虐げられた人々が、その鬱憤を仮想空間への逃避に費やすとすれば、それをほくそ笑んでいるのは権力を握っている上部の人たちだ。彼らは積極的に、若者たちをもう一つの世界に押し込もうとするだろう。特に日本は、先進諸外国に比べて彼らのプロテストやデモが少ないと言われている。メタバースで快適な生活を営んでも、現実世界は地球温暖化や貧富の差が加速し、灼熱地獄や飢餓地獄になりつつある。こんな危機的な時代だからこそ、人々は「積極的自由」を駆使しなければならないだろう。もちろんそれは、かつてガンジーが実践したような、非暴力によるプロテストだ。非暴力でも多数が動けば、飽和攻撃になりうる。これからの世界、ひょっとしたらメタバースで遊んでいる暇はないのかもしれない……。

 


砂漠の月

砂漠の月を見たことがあるなら
お月様の悲しい話を知るだろう
彼女は昔地球に棲んでいて
大きな洪水がその星を襲ったとき
美しい体はどこかに流されて
清らかな真円の魂だけが
風船玉のようにふらふらと
天空に昇っていったのだ

お月様は昔の出来事を忘れようと
もっと遠くに逃げようとしたのに
横暴な地球の投げ縄に捕らえられ
永遠に振り回され弄ばれ始めた
おまけにいたる所から
石つぶてを投げられて
真ん丸の美しい姿は穴だらけになって
すっかり汚されてしまったのだ

そして悲しい心から涙が流れ続け
また再びあのときのように
恐ろしい洪水になろうとしたとき
涙が熱い心から溢れることに気付いたのだ
お月様はあのときの辛さを忘れるために
心の底から冷えなければならないと思った
そうして心の全てが冷えていき
溢れる涙はたちどころに止まり
たちまち氷になったのだ

その後、死んでしまった多くの心が
煮えたぎる魂をクールダウンして
まとわりつく涙を凍らせるため
お月様のひざ元に昇っていく
水を追い出した砂漠から眺めると
月が異様に輝いているのは
砂たちも彼女の心を知っているからに違いない…


メタバース

あるいはまことの姫様

僕はあのときなけなしの小銭で
一杯のコカコーラを買って
ストローを分厚い唇できつく挟み
無言のまま無数の人たちと
磁石のマイナスどうしのように
互いに身をかわしながら
アスファルトの上に
シマウマの乾し皮を貼り付けたような
スクランブル交差点を横切りながら
何の目的もなく飾り窓の店々をのぞき見し
磁石のプラスとマイナスのように
すれ違う綺麗な女たちに引き寄せられながらも
未解明の反発力で彼女たちは去っていき
長い時間を無駄に使うために坂道を歩き回り
孤独を忘れようと上回る倦怠感を身に纏い
晩飯のパニーノを買って家路についたのだ

そうして僕は万年床の上で
乾皮症のパン屑をボロボロ落としながら
VRゴーグルをかぶって胸をときめかせ
あの安らぎの砂漠に住む王女を探した
彼女はいつものように無限の砂丘の上に
水を嫌う人魚のようにシェヘラザードの好んだ
シースルーのハーレムパンツとブラトップを纏い
孤独な僕を迎え入れると豊満な胸を寄せ
僕の唇に軽く接吻しながら
香水のような息を軽く吹き付けて
愛くるしい眼差しで微笑みながら
なぜ私を寂しい思いにさせるのと呟く

ここはヴェーヌスベルクでも阿片窟でもないわ
それでもここがあなたの世界であることを知るべきなの
あなたはあちらで水をなくした魚のように苦しんで
こちらでは砂を得たサソリのように大胆になれる
そのわけは私があなたのことしか愛していないから
なのにあなたがあちらの世界に未練があるとすれば
あなたは本当に私を愛しているのではなく
あちらの寂しさをこちらで慰めているにすぎない
きっとあなたは本当の愛を知らないし本物の恋も知らない
それはあちらの世界で初めて出会ったお母さまに感じた愛
ロミオとジュリエットが聖堂で激しくキスをした初めての恋
それらのどちらも知らないというなら
それらのどちらかを知らないというなら
こちらの世界で両方ともあなたに差し上げましょう
どちらがまことかどちらが夢かはどうでもいいこと
こちらがまことならあちらは夢
こちらが夢ならあちらはまこと
あなたが決めることはたった一つ
あなたが探し続けてきた
まことの愛がある世界を選ぶこと
そして私の願うことはたった一つ
あなたのおそばにいつも寄り添うこと
そしてあなたの悲しみがどこかへ飛んでいくこと

…そして僕はまことの世界がこちらにあり
偽りの世界にはもう戻らないと心に決めた

 

 

 

 

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エッセー 「心・技・体 ~男女不平等は続く~」 & 詩

エッセー
心・技・体
~男女不平等は続く~

 相撲では「心技体」という格言があって、精神と技術、体格の全てがバランス良く整ったとき、最大限の力が発揮できるのだという。力士の戦いの場である土俵は女人禁制で、女性は上がれないらしいが、土俵の半分弱のサークルを描いて、そこに女性を招き入れる魚がいる。奄美大島界隈の海に棲むアマミホシゾラフグという魚で、オスが腹やヒレを使って海底の砂に直径2mの美しいサークル模様を描くことで有名になった。このサークルはメスを迎え入れる産卵床で、愛の土俵だ。メスはそいつが気に入ると土俵内で産卵し、オスは精子をかける。出来栄えによって、メスが順番待ちをする人気土俵があったり、一匹も来ない土俵があったりする。結果として器用なオス系統が繫栄し、不器用なオス系統は途絶えることになっていく。つまりこの魚の子孫繁栄のポイントは「技」ということになるだろう。言い換えれば、美しい巣をチョイスするメスの美的感覚を満足させるため、オスたちは技を競っているということだ。

 ではサケはどうかと言うと、体躯の良いオスは小さなオスを追い払い、メスの産卵に加わることで大型サケの系統が繋がっていく。そのとき、産卵間近なメスの前で、オスどうしがバトルを繰り広げる。メスには好みで相手をチョイスする権限はなく、こらえ切れなくなって卵を放出したとき、大男が寄り添って精子をかけるわけだ。一方アマミホシゾラフグと同じく、美声を競うウグイスや踊りを競うゴクラクチョウは、オーディションみたいにメスがその出来栄えを審査して採用を決め、歌やダンスの優秀な遺伝子が繋がっていく。アマミホシゾラフグのメスは巣作り、ゴクラクチョウのメスはダンスのテクニックから、オスの運動能力を勘案し、それを自分の子供に託すというわけ。このように、体力で競ったり、技で競ったりと色々だが、繁殖行動は生存競争の主役であり執念の世界だから、当然のこと、心技体の「心」は十分に備わっているだろう。恐らくアマミホシゾラフグやゴクラクチョウのメスは、必死に曼荼羅模様を描いたり踊ったりするオスの心意気に惚れるのだ。心技体が相撲の勝利を保証するなら、その格言は生き物たちの繁栄をも保証しているに違いない。相撲も繁殖も同じ生存競争だからして……。

 サケの場合、小さなオスは小回りが利くから、大きなオスに追い払われても、メスの産卵時に岩陰からさっと現れ、メスを挟んで勝者の反対側から精子を放出したりする。その直後に勝者が放出しても、先に卵子に入り込んだ精子が結ばれ、勝者は敗者となる。これは巧みな「技」の世界で、小兵力士が八艘飛びで相手の後ろまわしを取る戦法と似ている。大きいのが主流としても、大きければ絶対ということでもなく、餌の問題もあって世代でサケがどんどん大きくなっていくこともない。プロレスを見ても、小回りの利くレスラーが、巨大なレスラーを翻弄して勝ったりする。マッチョな身体も華麗な技も美しく、「美」は体であり、技でもある。それでは「心」はどうかというと、必死に食い下がる小兵的精神に多くの人々は「美」を感じるだろう。心技体はすべからく美しい。 

 しかし「心技体」が勝負の決め手なら、それは相手を負かすための手段となってしまう。ところが相撲は、ルール違反しなければ何をやっても良いという外国のスポーツとは少々異なる。相撲協会に言わせると、あれは神事らしい、となると「心」は努力だけではないことになる。だから「女は不浄のもの」という前近代の伝統に則って、女性は土俵に上がれない。これは男と女を分けるイスラム教の風習と似ている。同様に心技体に美を感じるファンは、横綱の注文相撲を「醜」として嫌う。心技体を具現した横綱には神が宿り、正々堂々という「心」が付随する。つまり相撲における「美」は体力や技による勝敗だけでなく、神事を意識する角界やファンの心が常に付きまとっているということになる。横綱がそれに反するとファンは失望し、人気が落ちる。外国人横綱が注文相撲を多発したとすれば、相撲を神事だとは思っていないからだし、日本特有の恥の文化に馴染んでいないからだろう。

 「美」はあくまで受け取る側の価値基準に左右される。勝敗の外側に相撲ファンの美意識があるように、アマミホシゾラフグの巣も、ゴクラクチョウの踊りも、それがオーディションである限りは、はた目にはいくら美しく思えても、メスの判断で決定する。オーディションなら「美」は「蓼食う虫も好き好き」と言われるように、本人の肉体から表出した現象を、審査員が感覚としてどう受け取るかの印象に過ぎなくなる。体であろうと技であろうと心意気であろうと、それらはメスの価値基準に適合するかしないかの問題だ。それらが遺伝子レベルでの優劣という「価値」であっても、あるいは真に優秀な内容の表出であっても、相手が気に入らなければそこで終わってしまう。

 オスとメスが出会ったとき、オスは内なる価値をいかに相手に伝えるかを考える。サケのオスは力という価値でメスを獲得し、ゴクラクチョウのオスは美技という価値でメスを獲得する。つまりサケのメスは、価値基準をオスのパワー(体)に置き、ゴクラクチョウのメスは価値基準をオスの技に置いているということだ。これらの性愛は、一期一会を基本としている。ミジンコ(耐久卵)から人間に至るまで、性愛の基本は一対一だし、一期一会だ。だから「一目惚れ」というのは、恋愛の基本中の基本であると言えるだろう。それは恐らくサケではなく、ゴクラクチョウの系統に属する感情だ。ならば人間の場合、女性はサケとゴクラクチョウの混合感情で男を判断している。

 それは女性が子供の頃に夢想する「白馬の王子様」を考えれば分かるだろう。これは、あくまで受動的な立場の夢で、理想の王子は美化されている。しかし現実の王子様は「王になったら隣国を征服してやるぞ」という能動的な夢を持っている。王子様は夢の実現に向け、体を鍛える。結果として武勇に優れ、敵を蹴散らして彼女を守ってくれる。そして隣国を破壊・略奪したお金で、何不自由ない生活を彼女に与えてくれる。それはサケ的に「体」という言葉で表せる。「体」は、力、権力、資産だ。また王子様はイケメンでスタイルも良く、俊敏で女には優しい。これはゴクラクチョウ的な「美技・心」だろう。現代女性の感性は、当然のこと社会状況を繁栄しているわけだが、いまの民主社会が「男女平等社会」を最終目的とするなら、「白馬の王子様」を夢見る限り、弁証法的に言えば社会が未だ発展途上ということになるのだ。男女に限らず、あらゆる平等に王様の権力は必要ない。上下構造のない社会基盤には、「平和」が存在する。平和のない社会に平等は存在しないし、平和な社会では、女性は能動的で建設的な夢を見るに決まっている。

 現在は、真の男女平等社会にはなっていない。だから男たちは金を儲けて権力を握り、美しい女性を獲得しようと躍起になる。欲が欲を呼び、大富豪になろうとする。それは、どんなに醜い男でも、金と権力があれば、美人さんをゲットできる可能性があるからだ。逆に「色男、金と力はなかりけり」という川柳があるように、金のない男は女性の遊びの対象にはなっても結婚の対象にはならなかったりする。どんなに性格が悪くても美女は引く手あまただが、ミーのような心優しい金のない色男はそうでもない(???)。これは、男性中心の社会的基盤が古代から連綿と続いていることを意味している。テレビ広告に映し出される女性タレントは美女ばかり。男は幇間のようなお笑いタレントで、アホらしいギャグで金を稼ぐ。ニュースでは軍服姿の男たちが殺し合いを繰り広げ、男の原始パワーで満ち溢れている。戦場で多くの女たちは逃げ惑うか祈ることしか為すすべはない。

 「弱き者、汝の名は女なり」という状況はまさに原始社会で、社会が極めて高度な発展を遂げない限り、真の男女平等とはほど遠い。幸いなことに、いまの若い男は徐々に覇気が無くなってきているし、男女のユニセックス化(ノンバイナリー)が進んできている。これは男女平等社会への過渡期だからだろう。真の男女平等社会では、体型的にも男と女の区別が付かなくなる可能性はある(その正否はまた別の問題だ)。当然その社会には暴力が無く、階級闘争もなく、戦争も無く、マッチョマンは必要とされない。「平和」は男女平等の大前提なのだ。

 人間は徒党を組む動物だ。徒党を組む動物の場合、ケンカに強い奴がボスになり、そいつはハーレムを作ったりする。ニホンザルチンパンジーもそうなら、サル仲間の人間だって、昔から力の強い奴が女に持てたに違いない。そいつは集団のリーダーになり、国の王様になってハーレムを作った。ルイ15世しかり、どこかの産油国の王様しかりだ。いまの醜男たちも、女に持てたいがために一生懸命働いて金を稼ぎ、女たちは少しでも美しく見せようと化粧に余念がなく、宝石や服飾品で飾り立てる。そうして男や女の欲望で経済は回り、国は豊かになりつつも、一向に男女平等は実現しない。当たり前の話だ。男は男の感性であり続け、女は女の感性であり続ける限り、男と女の溝は埋まらず、中和液に溶け込むことはできない。真の男女平等社会を創るために、「男は稼ぐことを止め、女は化粧を止めよ!」と僕が叫んだとすれば、僕はたちまち総スカンを食らうだろうが、僕が権威主義国のボスだったなら、君たちは従わざるをえないだろう。

 金が力なら、僕は僕以上の金持ちを作らせたくないし、金持ちにデカい面をさせたくないし、ファッションや宝石、奢侈品の流入で、僕の創った国家体制を崩したくない。金持ちどもは権力者となって、いずれは僕と張り合うことになるだろう。僕は男女平等、人類平等、人類運命共同体を叫んで、行き過ぎた自由主義、行き過ぎた資本主義から我が国を、さらには世界を守らなければならない。ならばまずは我が祖国から、国家統制経済を実施し、人民の飽くなき欲望を武力で制御し、和服の復権を推奨し、奢侈に溺れる我が国のソドム化を阻止しなければならないのだ。その手始めとして、僕は教祖的存在にならなければならない(例え話です)。

 それでは、なぜ僕が教祖にならなければならないのか。それは教祖が神の代理人であり、神は全知全能だからだ。知恵を授かった人間は、古代から自分が全知全能になることを憧れながら生きてきた。なぜなら人は五感を通して、世の中の表層のみを把握して生きてきたからだ。人は物の内面を捉えることはできない。同じく他人の衣服の中も、女房の心の中も理解できない。竜巻の渦も、ガラガラ蛇の威嚇音も、ひどい目に遭った経験や知識がなければ分からない。向こうから大男がやって来ても、そいつが悪者か善人か、武器を隠しているかの見分けも付かない。オセロは妻の愛が分からずに、嫉妬心から殺した。要するに、人は物事の表層しか分からずに、自分勝手にイメージして生きているに過ぎないのだ。それはゴクラクチョウのメスが、オスのダンスを見ながら相手の本質をイメージする状態に近いだろう。全ては表象の世界、象徴の世界、イメージの世界で僕たちは生きているのだ。そしてそれは「猛烈なる不安」を湧き起こす。

 人間は一生、不安の中で生きなければならない。その不安を解消するため、家族を創り、仲間を創り、群を成し、その群を導くリーダーを選ぶ。不安に駆られた人間どもは、そのリーダーにすがることになる。するとそのリーダーは彼らの不安を解消する対価として「命令」という権力を持つことになる。どんな小さな権力でも、周りの者が付き従い、幾分かの富が集中するという役得も得られ、裕福になる。リーダーは誇大妄想的な性格で、知ったか振りをしても、民衆を安心させることができる。すると、同じ性格のリーダー候補が複数現れて、その地位を狙い始め、権力闘争が起こることになる。そのときリーダーは身近の巫女を取り込むか、自身が教祖になるかして、全知全能の神を引き出してくる。

 神が偉大なのは、全知全能だからだ。ソクラテスの「無知の知」とは、「人間は全てをイメージでしか捉えられない(と知ること)」を真の知と言っているだけの話だ。しかし、いまになっても人々はそれを知らない。人間は生まれてから死ぬまで、何も知り得ない運命にあることが分からず、それに不安を感じるあまり、多くの人々が全知全能の神に帰依することになる。そして各自が神から全知全能を授かったと誤解して大枚を教祖に支払い、知った振りをし始める。それで人々の不安が解消すれば結構じゃないかとお思いの方、それは違います。長年にわたるキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒の血で血を洗う戦いを見れば分かるでしょう。全知全能の神など、単なるイメージに過ぎないのです。賢者の知恵だって、単なるイメージに過ぎません。神がイメージなら、当然のこと民族もイメージです。そして神や民族の間で戦いが続く限り、真の男女平等社会は実現しないのです。

 それじゃあペシミスティック過ぎるとおっしゃるなら、少々言葉を変えましょう。心・技・体の最初に来る言葉は「心」だ。最初に心があってこそ、技も磨かれ体も造られる。そして現実を動かすのは技と体だ。全知全能のユダヤの神が、その土地はユダヤのものだと主張すれば、それはユダヤの土地だし、全知全能のイスラムの神が、その土地はイスラムのものだと主張すれば、それはイスラムの土地だ。イスラエル人とパレスチナ人の戦いは、お互いに譲らない神と神、民族と民族の戦いでもある。神が人々の心から生まれた「全知全能」というイメージなら、この戦争はイメージで脚色された悲惨な現実だ。戦いで死んだ人間は神の許に昇るんだと脚色されていれば、死ぬのも怖くない。しかし結局は、技と体で勝る側が勝者となる。それが現実なら、フェミニズムだってその基盤が平和であるとすれば、混乱する世界の中でフェミニストたちは平和の神エイレネを全知全能と信じて、戦い続けなければならないだろう。男女平等世界ランキング1位のアイスランドで、いま起きているのは「女性の休日」と名付けられた、更なる平等を求めるストだ。アイスランドですらまだ平等にはなっていないのなら、いわんや125位の日本をや。この星では平和も平等も環境保護も、不屈の「心」を牽引力に、がむしゃらに掴まなければ実現しないのだから……。 

 

 

 

 


俺の顔には二つの節穴がある
一つの世界からもう一つの世界へ
大きな宇宙から小さな宇宙へ
無数の光がバーゲン会場のように
一方的に我も我もと入り込んでくる
そいつらは俺の脳味噌の中で
天井裏の鼠の運動会みたいに
ガラガラグルグル回り続けているうち
いつの間にか後ろの連中に押し出され
奈落のような暗闇に落ちて消えていく
俺の脳味噌は奴らに翻弄されながら
とうとうこらえ切れずに蓋を閉じると
たちまち二つの世界は分断され
束の間の安らぎを得ることができる
そのとき奴らの残党が執念深く
か細い俺の脳神経にへばり付き
意地の悪い顔つきで、笑いながら
ブランコのように揺すり続けるから
俺はからかわれていると思い込む

偶に俺が鏡の前に立つと
俺の節穴に鏡の俺が光となって入り込み
鏡の俺の節穴に俺が光となって入り込む
そして俺も鏡の俺も二人とも不愉快な気分になる
きっとそれは二人の俺を幸せにしないに違いなく
おれはそそくさと鏡から遠ざかる
おれは昔、多くの節穴の前に立たされたことがある
そのとき多くの節穴の中に俺が光となって入り込み
多くの節穴の持ち主が不気味に笑ったような光が
俺の節穴に戻ってきた
俺はそれ以来、多くの節穴の前に
立つことのないように決めている

 

 

 

 

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エッセー 「冤罪」という名のスケープゴート & 詩

エッセー
「冤罪」という名のスケープゴート

 先日、NHKの「獄友たちの日々」(再放送)を見て心が痛くなった。再審無罪を勝ち取ったり、仮釈放中に再審を求めている5人の元囚人(凶悪殺人嫌疑で逮捕)の日常を描写したドキュメンタリー作品である。彼らの獄中生活を足すと、合わせて155年になるというのだから、まさに「巌窟王」だ。NHKのドキュメンタリーには数々の名作があるが、ドキュメンタリー部門だけを取っても、「NHKをぶっ潰せ!」なんてわめいている人々の心が分からない。国家権力を忖度するスポンサーをさらに忖度する民放では、鋭いドキュメンタリーを制作することは難しいだろう。事実、国家・社会の権力に批判的なニュース番組司会者の多くが首を撥ねられてきた。おまけにドキュメンタリーで、スポンサーの喜ぶ視聴率が上がるわけはない。ちなみに僕は「NHKをぶっ潰すな!」と叫んで、ちゃんと受信料を払っている。NHKも最右翼的な人が会長になった時期もあったが、彼らは少なくとも最近、国家の下部組織でありながら、報道(放送)の自由を必死に守っている。報道番組は危ない橋を渡らないと良いものはできない。その努力に敬意を表したい。

 明らかに真犯人である証拠が提示された場合を除き、犯人であるかなしかは神のみぞ知る領域だ。神は雲隠れしているから、司法制度の下では代理人たる裁判官(陪審員)が、検察側、弁護側双方から提示された証拠を見比べて、その判断を行う。検察側の証拠が不十分である場合は、「疑わしきは罰せず」という推定無罪が定められている。しかしそれは、あくまで裁判官の判断に任せられているので、客観的に証拠不十分と思われても、彼の裁量で有罪となることもある。つまりこの場合、判決はスポーツの芸術点やコンクールと同類の評価点で決まることになり、それには主観(心証)が含まれる。要するに刑事裁判は、「巌窟王」を決定するコンクールと考えてもいいだろう。そして裁判官の心証に大きく影響するのが自白点というやつだ。捜査官は、他に有力な証拠がない場合は特に、「私がやりました(私の言ったことに間違いありません)」という自白調書(被告人供述調書)を作るために手を替え品を変え、いろんな手練手管で必死に落とそうとする。

 「獄友」の面々も、自白調書が有力な証拠となって有罪の判決が下されたわけだ。昔は捜査官の脅し、暴力などの違法な取り調べで自白する被疑者もおり、証拠捏造などもあったのではないかと疑われている(現在はビデオなどでの取り調べの全面可視化が行われている)。いずれにしても、起訴されれば99.9%が有罪になるというのが日本の刑事裁判で、弁護士にとっても無罪を勝ち取るのは一生に一回あるかないからしい。立件に足る材料がなければ訴訟を起こさないから、この数値になるという話なので、素人の僕はそれに口を挟む度胸はない。しかし検察官や警官が証拠を捏造する事件は過去にあったし、冤罪裁判で勝訴する被告人が存在するのであれば、この99.9%の中に無実の人が含まれている可能性はあるということになる。そうした場合、冤罪者は正義の女神に捧げられたスケープゴート(生贄)ではありえず、むしろ社会秩序に捧げられたスケープゴートとなる。

 スケープゴートは神様の機嫌を取るために供するお供え物だ。古代から現在に至るまで、人類は宗教から離脱できない状態にある。不幸や天災が個人や集団に降りかかるのは、神様がお怒りになっているからだと信じられてきて、それを宥めるためにお供え物は欠かせなかった。そのお供え物が山羊さんというわけだ。けれど喜ぶ神様は実体がない存在だ。それは幻想と言うこともできる。実体のない「幻想」が力を持つことは、それが個々人の生きる糧となり、同時にそれを支配者がツールとして利用できることを意味する。そのとき神様は、支配者を中心とした集団が結束するためのエクトプラズム的な接着剤となる。集団や社会は結束することで力となり、安定的な形を獲得できる。安定の先は平和で、不安定の先は諍い(紛争)だ。だから神様というツールは、メンバーの結束を乱すことのないように、彼らに様々な規約(法律)を押し付ける。同じ信仰(思想)はもちろん、同じ慣習や仕来り、服装などが要求されることになる。そしてこの規約に違反した者は、社会を乱す者として吊し上げを食らう。その違反者は、御し難い者や異教徒なども含まれる。これらの異質分子は、神とその代理人、及び集団に捧げられたスケープゴート的な存在として処分される。

 実体が無いツールとしての神様はゼウスのように変幻自在だ。それは、何でも神様と同じ信仰の対象になり得ることを意味し、同じ信仰のパターンを模倣する。共産主義も民主主義もイスラム主義も習近平思想もプーチン思想も、スポーツにおける監督の作戦も、およそ集団がある限り、それを束ねるリーダーに神様が乗り移り、教祖やヒーロー、現人神に変身して実体化し、「イズム」という形でパワーを発揮することになる。そして共同幻想が発酵すると、現人神は出来上がった秩序体制を盤石にするため、スケープゴートを欲しがるようになる。それらは粛清やリンチなどで現人神に捧げられ、彼は「安泰安心」と胸を撫で下ろす。

 共同幻想が醸成されると、集団は垂直に伸びるピラミッド型の形態に纏まって安定化し、独自の文化を形成し、特徴的な香りを発散する。しかし、その臭いに不満を持つ連中が必ず含まれていて、放置しているとどんどん増え始め、ピュアな香りが次第に混濁臭に変わり、綺麗なピラミッド構造が崩れ始める。だからリーダーは自分の造ったピラミッドを崩さないように、野菜工場と同じ方法で不良部分を徹底的に摘み取り、国家としての品質(権力)を保つようにする。しかし命じられた部下は、必ずしも不良品の検知を的確に行えるわけではなく、時たま不良品でない物まで摘んでしまう。それが「冤罪」というわけで、社会にとって不良品扱いされた人々は、ピラミッド構造を維持するための必要悪として、スケープゴートとなる。

 世の中には大きく3種類のスケープゴートが存在する。一つは文字通り、神に捧げる生贄だ。民族や集団は、自分たちを守ってくれる守護神に貴重な家畜を捧げることで、一族の安全と繁栄を獲得する(と信じる)。捧げられる家畜はいずれ食われる動物だし、儀式の後はみんなで食うのだから、動物愛護団体以外は文句を言わないだろう。例えばアメリカで行われる感謝祭では、毎年1,900万羽の七面鳥が犠牲となり、食卓に並ぶ。これは神に捧げる神聖な儀式が楽しいお祭りに広がった好例だ。現在は人身御供の時代ではないが、日本では人柱という形で明治時代まで行われていた。北海道の常紋トンネル(鉄道)は難工事で、神に捧げる人柱となった人々の慰霊碑がある。親方に反抗的な労働者や弱った労働者などが殺されてスケープゴートとなった。これらの人々は東京で勧誘・拉致されて北海道に渡り、「タコ部屋」と言われる監禁小屋に入れられた被害者だ。

 もう一つは、権威主義的な政府が政敵を処刑や監禁したりする場合に生じる哀れな犠牲者だ。この場合のスケープゴートは、権力の維持と安寧を願って政権に供されるため、政権に睨まれたらたとえ反抗の意図はなくても、少しの疑いで芽かき(剪定)のように摘み取られていく。いまの権威主義国家で起こっていることはこれに該当するだろう。最後のスケープゴートは、社会の安寧を保つために、あるいは安全安心な社会を育むために供される哀れな犠牲者だ。安心社会の理想は、犯罪者の全員逮捕にあるとすれば、これが冤罪の要因となる。いったん社会が崩壊し始めると、中南米のどこかの国のように刑務所が乗っ取られるまでに荒廃していく。おまけにその途上にある国はかなりの数になる。例えば以前のカリフォルニア州では財産価値が400ドル以下の万引きでも収監されていたが、現在は950ドルを越えない万引きや窃盗はお目こぼしされている。治安悪化で刑務所が満杯状態になっているのだという。住人も少しは安全なテキサス州フロリダ州などに移住する人が増えているらしい。犯罪が増えたのは、貧富の差の拡大による貧困が最大の原因だ。これがアメリカという民主主義国家の実態で、権威主義国家だけが問題を孕んでいると考えたら大間違いだ。

 こう見ると、スケープゴートはどれも安寧な秩序を維持するために供された犠牲者だと言うことができるだろう。享受する側は、「神」、「政府及びその支持権力」、「市民及び国民」と三様だが、神は実体が無いので二様となる。民主主義国家の場合、「冤罪」がスケープゴートだとすれば、それを享受しているのは統治機関だけでなく、我々市民・国民ということになるだろう。つまり国民は、冤罪事件に憤慨する傍らで、検察から供されたスケープゴートのエクトプラズムを吸って安心しているというわけだ。そう考えると「冤罪事件」は、無実の罪に陥れた司法を揶揄するだけでなく、自分自身の胸に手を当てて冷静に考えなければならないものだということが分かってくる。凶悪事件が起こると市民は恐れ慄き、ホシが挙がることを願い、過度に期待する。なかなか上がらなければ、過度に怯えて文句を言い、警察を揶揄・愚弄する。捜査官も市民感情に応えようと頑張るが、難事件も少なくない。そうした社会的雰囲気の中で奮闘する捜査陣も、市民の期待が高いほど、挙げられないことが自分たちの沽券に関わることのようになってきて、冤罪の土壌が出来上がる。上司からは「絶対に上げろ!」と発破が掛かる。そこから無実の者が吊り上げられて起訴されれば、後は裁判官の吟味ということになる。そして裁判官が検察寄りの権威主義者ならば、司法の尊厳が脳裏を過ぎり、無実の者が有罪となる可能性が出てくる。

 さて、これらの悪循環を断ち切るには二つの方法があると思える。一つはいまの中国を見習って、様々なハイテクを駆使しながら完璧な「監視社会」を築き上げることだ。中国では監視カメラが過密に設置されていて、国民一人ひとりの個人情報も政府に把握され、「天網恢恢疎にして漏らさず」状態になりつつある。当然「天」は中国共産党だ。反乱分子はたちどころに検挙され、ついでに犯罪検挙率も大幅に上がっている。政府が故意的に冤罪を作っているとすれば、それはまた別の話になるが、少なくとも屋外での犯行の一部始終はビデオに収められ、顔認識や動作認識から犯人を特定することができる。神のみぞ知る部分をテクニカルに狭めていくことが可能になったのだ。これで冤罪は激しく減少するに違いない。そしてこれが理想の社会①だ。

 もう一つは、幼少期から「個人の尊厳が常に個人の自尊心の上にあらねばならない」という民主主義思想を、教育機関で徹底的に植え付けることだ。民主主義にとって、「尊厳」は人類にあまねく与えられた共通項で、侵してはならないものだが、「自尊心」はあくまで個々人が抱く個的感情だ。個人は自分の自尊心を満足させるために、他人の尊厳を侵してはならないのが鉄則だ。生まれつき自尊心の高い人間に対しては、高濃度な民主主義教育を施さなければならないだろう。(自尊心は人間を頑固にさせる元凶で、皆さんも倒れた石でも立っていると主張するような頑固親爺になってはいけません)

 僕が若い頃は、国の僕たる警察官や国鉄職員、さらには公立教師まで、ひどく頑固で横柄な態度をしていた。悪ガキの僕などは中学生の頃、何度も先生から平手打ちを食らって育った。頬っぺたが焼き餅のように急速に膨れ上がる感触を、懐かしく思い出す。これは戦前の習慣としてのピラミッド的カースト制度が残っていたからで、役人・公職者は民衆よりも上の位置にあるという自尊心を持っていたからだ。戦後急速にアメリカナイズされて、そうした状況も無くなりつつあるし、最近ではダイバーシティなどと叫ばれて、社会のピラミッドは饅頭のようになってきたが、それでもまだ単一民族系の日本は、他よりも殻の硬い民主国家として村社会的要素が濃い状態だ。個人の尊厳は村の尊厳の上に位置し、村を守る村役人の自尊心の上にもあらねばならない。日本がそうした形に逆転しなければ、まだまだ冤罪の土壌はあり続けることになるだろう。それには更なる民主主義教育が必要というわけで、そしてこれが理想の社会②としよう。冤罪を少なくする社会①と②、あなたはどっちをチョイス !?

 

 

 

 


戦場の母
(戦争レクイエムより)

だいぶ昔のこと
すっかり忘れちまったが
僕は母親の腹の中にいて
柔らかな胎盤の和毛に守られつつ
人生で一番幸福な時を過ごしながら
きっと何かを考えていたにちがいなく
必死にそれを思い出そうとしている

たぶん母親が祈っていた
僕の命のことだったかもしれないし
僕自身がその命を祈っていただろう
へその緒でしっかりと結ばれた
母親という大きなおまけだったかもしれない

そいつはきっと打ち上げロケットのように
僕を広大な虚無空間まで運び上げると
ここぞとばかりに一気に切り離し
僕は驚いて泣き叫びながら
裸のまま手足をバタつかせ
居心地の悪い別世界に着地させられた

嗚呼、なんという裏切りだろう
僕は慣れ親しんだ住家を追われ
仕方なく虚弱な足を奮い立たせ
虚無の大地に始めの一歩を印したのだ

もうだいぶ時が経って
命を弄びながら機銃を抱え
荒廃した大地に足を踏み入れて
慣れ親しんだあの家を覗いてみると
ミサイルで壊された瓦礫の中に
忘れちまった最初の揺籃が
朽ちた姿で転がっていた

嗚呼、どうしちまったんだ
地獄と変わらぬ世界に揉まれて
驚いて泣き叫ぼうにも
僕の涙はすっかり枯れ果て
胎盤の香りに似た腐臭を浴びながら
機械的に母を抱き上げ
目をつむって何回もキスをした
かつて彼女がこの頬に
がむしゃらにやったみたいに…

 

 

 

 

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