詩人の部屋 響月光

響月光の詩と小説を紹介します。

エッセー 「枯山水」& 詩

エッセー
枯山水

 陽気が良かったので、久しぶりにぶらぶらと散歩を楽しんだ。すると、近くにある大きな家の庭が雑草に蹂躙されて、荒れ放題になっていることに気付かされた。高齢のご夫婦が住んでいて、奥さんがこまめに庭の手入れをしていたのだが、いつの間にか空き家になっている。たぶんお二人で高齢者施設にでも入られたのだろう。

 僕はしばらくの間佇んで記憶にある以前の庭を思い出し、背の高い雑草が支配する殺伐とした光景を眺めながら、ふと『奥の細道』の「夏草やつわものどもが夢の跡」や「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」という一節を思い浮かべた。義経のような武将でなくとも、市井の人々にもそれぞれの人生で輝いていた時期はあったに違いない。このご夫婦も長い間幸せな家庭を築いていて、ゆとりのある暮らしが手入れの行き届いた庭に反映していた。経済的に破綻したり夫婦仲が悪かったりすると、家屋敷はたちまち荒れると言われる。このご夫婦の場合は、「寄る年波」という自然の摂理には勝てず、住み慣れた家を去ったということになる。

 僕がこの庭にしばらく見とれていたのは、きっと芭蕉が草茫々の城跡に感じたものと同じく、仏教的な無常観を覚えたからなのだろう。平安時代の恋愛文学でも、恋人の来なくなった女性の家を表現するのに荒れ放題の庭の様子が書かれたりするが、庭というものは家人の意に反して、家庭の事情を道行く人に知らしめる情報の役目を果たしているものかもしれない。通行人はその光景を見て、大なり小なり無常観のようなものを感じる。誰でも壮年期を経て老年期を迎えなければならないし、荒れ果てた庭はかつての幸せな生活が失せた抜け殻を連想させるからだ。

 だから富や権力を誇る王様は、広大な庭を造ってその維持に金をかけ、俺はまだ凋落していないぞ、との自己アピールに余念がなかった。特に文明間の衝突を繰り返してきた西洋では、厳しい自然を征服することは厄介な異民族を支配することにも等しく、伸び放題の樹木はそれらと同じ御し難さを感じたのだろう。彼らは自然を手なずけるように池や樹木を左右対称に配置し、枝は徹底的に刈り込んだ。そして規則性を一分の隙もなく維持することが、権勢の永続性にも繋がると思っていた。

 一方で、農耕民族の血が濃い日本では昔から自然との共存意識が強く、仏教由来の浄土や禅の思想とも相まって、自然を征服対象とはしない中国庭園の考えを基本コンセプトに庭造りを進めていった。限られた敷地内に、その土地の形状を生かしながら、島のある池を中心に庭石や築山などを巧みに使って自然の営みを再現し、四季折々の景色を楽しめるようにしている。だから剪定にしたって、木々が自然の形をとどめたまま美しい姿に成長することをイメージし、日当たりや風通しなども考えて、余分な枝や衰えた枝を切り落としていく。しかしメンテナンスを怠ればたちまち理想的な景観が崩れてしまうのは、西洋庭園と変わらない。木が枝を広げるのは、そばの木を枯らして太陽を独り占めするためで、庭の主人は秩序を乱す構成メンバーを許すはずがない。神社のご神木なら神主よりも偉いから、勝手気ままに成長しても枝を切られることはないだろう。

 日本庭園のコンセプトを象徴するのが枯山水だ。これは大名屋敷の広大な名園とは似て非なる意味合いを持っている。大名庭園は自分の屋敷の中に自然の景観を取り入れ、家人が楽しむと同時に部下にも見せて権勢を誇示する目的があった。これに対して枯山水は、イメージを共有する庭師(僧)の技を借りて、内なる心を外に表わし、五感を通して再び内に戻し入れ、いまの心境をじっくりと味わうものだ。人は枯山水を通して、自分自身の心を見る。その心は「わびさび」と言われている。「わび」は栄華とは真逆のわびしさや質素な趣を表していて、自分の思い通りにならない現状を静かに受け入れ、悲観することなく人生の糧として楽しむ心だ。「さび」は無常観と孤独感からくる寂しさを趣として楽しむ心だ。きっとニーチェが生きていたら、「弱者によるルサンチマンの反逆」などと揶揄されそうだが、ヒトラープーチンを見れば分かるように、強者がどんなに栄華を誇っても「おごれる者も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」になるのだから、枯山水に感ずる美意識を持ち続けるのは意味のないことでもないだろう。

 誰でも若い頃は「力への意志」が旺盛だが、それが叶わなかったときには挫折し、これまでの野心は消失して、カッカとしていた頭も冷えていく。そのとき、醒めていく情熱の片隅に佇む悟りの心境が、鈍く輝きながらある種の美しさで現われてくる。川には青々とした水がなく、山には緑のないモノクロームの世界だが、ピカソが『ゲルニカ』で描いたモノクロームとは異なる世界だ。『ゲルニカ』の色は、「力への意志」を実行したナチス空爆が、市民の生を吹き飛ばした死の色で、それは絶望の色でもある。枯山水は「力への意志」を邪念として、それを払ったときにようやく訪れる無我の色だ。どんなに人生を楽しもうが、最後は衰えて死んでいくのだし、そうした喜怒哀楽を越えた無我の境地が、岩と砂で簡潔に表現されているのだ。

 こうしてみると、竜安寺の石庭はベルサイユ宮殿の噴水庭園の対極にある庭であることが分かる。ルイ14世は10キロ離れたセーヌ川から水を引いて巨大な噴水を造り、貴族を周りに住まわせて庶民も自由に入場できるようにし、その豪華さで人々を驚嘆させ、王朝の権勢を誇示した。徹底的に樹木を刈り込み、「反抗するとこのように首を刈るぞ」と貴族を脅したものの、その孫は庶民によって首を刈られた。こうした西洋庭園は、一糸乱れぬ軍事パレードの背景には相応しいだろう。統率された軍の行進と徹底的に刈り込まれた樹木、左右対称の池や豪華な宮殿等々、すべてが絶大な富と権力を象徴しているからだ。

 これに対して竜安寺の石庭は、一人で座って沈思黙考する場を提供してくれるが、こんな所に軍隊がやって来れば討ち入りになってしまう。もっとも、いつも観光客でごった返していて、一般人が沈思黙考できる状態ではない。しかし、ほかの日本庭園だって、軍事パレードとの相性が良いはずはない。基本的にそれは自然の景色なのだから、隊列を作る連中は無用だし、そこに佇む人々は身も心も自然に溶け込むことを求められる。

 生まれてから死ぬまでの長い人生の中で、人間の欲望は常に二つの心の間を揺れ動いている。サプライズに溢れた奢れる日々を求める心と、質実な生活に甘んじようとする心だ。そうした二つの心を満足させる場として、庭も造られてきた歴史があったに違いない。ときには華やかに、ときには純朴に。ちょうどベルサイユ宮の絢爛豪華な噴水庭園の近くに、マリー・アントワネットが愛した田舎風の庭があったように……


未知との遭遇

異星人どうしが惹かれ合うのだから
ほとんど好奇心に近いものさ
理解し合えるとすれば
皮膚の上を滑っていく 軽く快い 
意味のないシニフィアン・ミュージック
君はしかし 時たま遠い故郷を思い出し
分かり合えた仲間たちの会話を懐かしむだろう
いいや君も僕も生まれたのは蒼々としたこの星だ

一番鳥が時を告げると獣たちはいっせいに目を覚まし
鉛色の妄想から逃れようとせかせか体を動かしはじめる
それがこの星の上手な利用方法なのだから…
けれど暗闇好きな夜行動物たちは確かに息づき
不器用ながらも頑固に生きている
太陽の恐ろしさを知って目をしっかり閉じ
雷の恐ろしさを知って耳をしっかり塞ぐ
ヤマアラシみたいに全身針にして じっとじっと夜を待つ

思い描くのはまだ知らない故郷 きっと祖先はそこから来たと願う
さあ帰ろう 安らぎの故郷へ さようなら不可思議な君と君たち
酸素が多すぎるこの世界は 昼ごもりの動物には息苦しいのさ
彼らの故郷はさほど遠くない未知の暗黒星雲――微少酸素空間

阿波踊り

一年に一度
阿呆どもが
あらゆる虚飾を脱ぎ捨て
まことの自分をさらけ出す
この大いなるカタルシス
所詮持っているものは
これだけという
人間の悲しさよ

虚飾と虚飾がぶつかり合い
時間だけが食われていく
これだけという
社会の虚しさよ…

PIETA

この醜さを哀れんでください
…同情は人が獣でない証だから
この渇望を哀れんでください
…慈しみは人だけの愛のかたちなのだから
この憎しみを哀れんでください
…賢しさは人が授かった望みの一滴だから
この激しさを哀れんでください
…皮肉は人が育む理想の糊代だから
この惨たらしい結末を哀れんでください
諦念は人が土となるための通過儀礼なのだから…

敗残兵
(戦争レクイエムより)

暗闇の中で
タッタッタと雫の落ちる音がする
規則的な間隔で不規則なトーンで
ひとつの悲しいメロディーになって
頭の奥深くまで響き渡る
グレゴリア聖歌の死の旋律を真似ている
タッタッタ 勇ましい騎兵隊の行進にも聞こえる
狭い狭いカラカラの洞穴で 誰かが焼け付く喉をゴクリと動かす
タッタッタ 誰もが恵みの雨を連想する
タッタッタ それは砂の上に水が落ちる音だ
タッタッタ 嗚呼もったいない たちまち砂に吸い込まれちまう
タッタッ…、突然数個の音が飛んで闇に消え
不気味な沈黙がみんなを包み込む
誰かが雫の下で口を開けた大馬鹿者を連想した
誰かが笑うとみんなが笑い シーッと怒るとみんな黙る
タッタッタ 死の旋律はもうすぐフィーネにさしかかる
ドサリと倒れる音はエンディングの不協和音
嗚呼また一人、みんなの誰かが消え去った
いつもと変わらぬアクシデントのように……

断食芸人

僕はあるとき気が付いた
人類は大きな思い違いをしていることに…
地球上の生物 とりわけ人間は
食べなくては生きていけないという思い違い
考えなければ生きていけないという思い違いだ
あるいは 動かなければ生きていけないという思い違い
さらには 愛さないと生きていけないという思い違いも…

人類は思い違いをすることで
どれだけ苦痛を強いられていることだろう
食わなければ死んじまう 考えなければ死んじまう 
動かなければ死んじまう 愛さなければ死んじまう
バカな 誰がそんなウソッパチを言いふらしたのだ
君たちは強迫観念に苛まれ たちまち殺し合いを始め 生き残ろうとするのだ
たらふく食べ たらふく妄想し たらふく動き たらふく愛することが幸せか 
大きな大きな不幸をもたらすだけさ 

君たちは僕のように路傍の草となって ひっそり呼吸をするべきだろう
何も食べず 何も考えず 何も動かさず 何も求めない
ひたすら自然の中に溶け込もうと透明になっていく
自然が胸襟を開き 僕がすっかり自然の一部となったときに 
人々は僕を忘れ 僕は彼らの異形に体を震わせる
僕は理解するのだ 悲しき人間たちの行く末を
自然とかけ離れた迫力の彼らが、二度と自然に戻れないことを
追放者たちよ 大いに奪い合い、騙し、争い、求め合うがいい
たらふく食べ、たらふく夢み、たらふく動き、たらふく愛し、たちまち滅びよ

 

 

 

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