詩人の部屋 響月光

響月光の詩と小説を紹介します。

ホラー「蛆女」& 詩

Ideale

 

ずっとずっと昔のこと

目覚めてみると

未来の妻が横で死んでいた

彼女の死に顔は美しかった

それは芸術のカテゴリーに属する美しさだった

それは外面だけの美しさでもなかった

それは心から滲み出てくる香りだった

そこには通俗的なものが一切なかった

それは理知的な美しさのエッセンスだった

僕は涙を流しながら忘却の川の淵に立ち

緩やかな流れに乗って去っていく妻を見送った

それから僕はずっとずっと忘れることもなく

死んでしまった妻のことを思いながら暮らしている

僕がずっとずっと孤独だったのも

出逢う前に妻を亡くしていたからに違いなかった

僕がさびしく死んでいくのも、ずっとずっと…

ずっと昔に妻を失ったからだった

 

 

 

 

古典的ホラー小説

「蛆女」

 

 女癖の悪さは若い頃から。親から受け継いだ資産があるからなおさらだ。もちろん六○になったいまでもいっこうに治る気配がなかった。ところがここ二、三日は家にこもったきりで外出しない。一週間前にゲットした彼女にも会おうとしない。家にいると息が詰まる重雄にとっては異常事態。体が苦しいのだ。身ごもったように腹が膨れ、皮がパンパンに張っている。病気にちがいないとは思いながらも医者嫌いだから、しばらくは様子を見ようと家の中で大人しくしていた。

 こんなケースは、ぐずぐずしているうちに悪化させるのがほとんどだ。案の定、腹の皮が引っ張られて、二六年前の傷跡がほんの二センチばかり裂けた。右の肋骨の下で、ちょうど肝臓のところ。もてあそんだ女に刺された傷だが、腹膜は破れたものの肝臓までは届かなかった。警察沙汰にせず、近所の外科に行って手当てをし、治してしまった。その後、刺した女には会っていない。治療費は自己負担だが、これぐらいの傷できれいに別れられたのだから、まずは上々だと当時は思った。

 しかし、古傷が完全に癒えていなかったことに驚いて、このまま放っておくわけにもいくまいと、重い腰を上げた。ちょっとは文句をいってやろうと、あのとき治療した外科に行った。昔は若くてちょび髭を生やし、きざな風貌だったが、髪も髭も混じりっ気ない白髪に変わり、顔一面シワとイボだらけの醜い高齢者になっていた。酒が好きなのか肝臓が悪いのか、赤黒い肌が白髪の白さを際立たせていた。

「ずっと昔、先生に縫っていただいた傷が悪化しましてね」

 医者はまじまじと重雄の顔を見て苦わらいし、「あんたのことは憶えているよ」とつぶやくようにいう。近所のコンビニで買ったLLサイズのTシャツを胸まで持ち上げて傷を見せた。しかし医者は傷よりも尋常でない腹の膨らみに驚いたようすで、目をパチクリさせる。

「まるで妊婦だな。いつから?」

「さあ、一週間くらいになりますか……」

「ひょっとして女?」

「やだな先生、男ですよ」

「男の想像妊娠かよ。いや、たぶん腹水だな」

「腹水っていいますと?」

「腹に水が溜まるんだが、原因はさまざまだな。とにかく明日、大きな病院で調べてもらったほうがいい。紹介状を書きましょう。傷口も深そうだから、そっちで診てもらうといい」

「原因といいますと?」

「それは調べにゃ分からんて。いろいろあるんでね」

 医者はそういいながら、傷の周りの皮をつまんで傷口を開き、ペンライトを穴の中に当ててウッと顔を背けた。赤黒かった顔が青黒く変色して額に大粒の汗を吹き出し、しばらく椅子の上で目を瞑り、心を落ち着かせてからボソリといった。

「昔は人が死ぬと、こいつらが湧いたものだよ……」

 医者はピンセットを穴に差し込んで、青白い物体を次々に出した。一センチにも満たない物体は五つ。ステンレスの皿の上で気だるそうに蠢いている。

「蛆だよ。どうする?」

「どうするって――」

「釣具屋に売るかい?」

 重雄は苦わらいしながら、「よろしければ酒の肴にどうぞ」と返した。とりあえず傷口を消毒して一針縫い、明日には近くの総合病院に行くことを約束して家に戻った。紹介状は二通、外科と内科宛である。朝早く行けば午前中に両方受診できるという。

 

 

 

 しぶしぶ病院に行く決心をして、医者に止められた晩酌を普段より多めに楽しんでからシャワーを浴び、一気に寝ちまおうと床に入った。

 ところが丑三つ時になって、やたら傷口がうずき出したので目が覚めてしまった。窓は開けっ放しで、網戸を通し生暖かい風が入ってきて鼻毛をくすぐった。

「ムシ暑いな。エアコンでも入れるか……」と起き上がろうとするが、金縛りにあったように体が動かない。

「どうやら夢だな。いや、正気で体が動かないってこともあるだろう。ダチの野郎、脳血栓で運ばれたときはそんな状態だったっていってたな……。頭のところで医者が女房に引導を渡しているのがクリアに聞こえたが、反論しようにも声も出ないし体も動かなかったとさ。俺はもっとまずいぜ。こんな夜中、誰が助けてくれるんだ」

 しかし眼球だけはやたらキョロキョロ動くものだから、真っ暗闇だったはずの部屋がうすぼんやりと青白くなって、頭の上まで見渡せることに安心し、ホッと息をついた。

「やっぱり夢だな。夢じゃなきゃ真上の景色が見えるわけもない。外は暗闇なのに部屋だけ明るいなんて、明らかに夢の世界だ。……トットット光っているのは俺の腹だぜ」

 夢とはいえ、重雄の腹は医者に見せたときよりも膨らんで、ほとんど臨月状態。しかも腹全体が青白く光り、よくよく見ると光の粒々が蠢いていてなんとも不気味だ。ヤブ医先生のケチい一縫いが気になったとたん、応えるようにプツンと軽快な音がして糸が切れるや肋骨の下から盲腸の上までビリビリと傷が裂け、怒涛のごとく内容物が流れ出た。反対に、腹はどんどんとしぼんでいく。

「破れやがった! 救急車だ。いや夢だろ、落ち着け。くすぐったいな。腹水だらけじゃないか。ぬるま湯に浸かっているみたいだぜ。ナンダコリャ!」

 腹水と思ったのは蛆の大群だ。青白い光を放ちながら蛆どもが蠢いている。強烈に光る二つの目もはっきりと見える。シャアシャア不気味な音は無数が擦れ合う音だ。叫び声を上げようとしたが声は出なかった。夢だ悪夢だ、笑い飛ばせといい聞かせたが、恐怖感は募るばかりだ。今度はプチプチという音が聞こえ始めた。蛆どもが体中の皮膚を食いちぎる音に違いなかった。「助けてくれ!」と叫んだが声にはならない。依然金縛りは続いている。しかし、重雄の叫び声を誰かが気付いたようだ。

「いいわ、助けてあげる」と、頭の上で女の声がしたのだ。すると、蛆どもがいっせいに体から引けて、足先のほうに流れていく。つま先から一メートル離れたところに集結して、盛り上がりはじめた。みるみる蛆塚ができ上がって、輪郭が裸の女に整っていく。スタイルのいい女だが、頭の先から足の先まで青白く光っていて、しかも蠢く蛆が透けて見える。いくらいい女でも、こんな体を抱く気にはならなかった。

「おひさし振りね」

「夢かい、幽霊かい?」

「そんなことどうでもいいわ。愛し合えばいいんだ」

 女はそういうと、断りもなく重雄の上にのしかかってきた。アアアーッと叫んだが、たちまち女の口に塞がれた。女が舌を入れてくる。舌全体が蛆のように蠢いて重雄の舌をこねくり回す。プチプチプチと蛆どもが舌に吸い付いて、苦々しい酸を吐き散らす。腐ったような悪臭が喉から鼻に逆流する。体全体に百足がはいずり回る。いや百足じゃない。女を払いのけようとするが、金縛りではなすすべもなかった。女は次第に高まっていき、荒い息遣いが耳に障る。女の鼻の穴から五、六匹吹き出し、重雄の不精髭に絡まって鼻の下をくすぐる。気持ち悪さが極限に達すると、どうやら脳神経がスイッチを切り替えるらしい。頭の中でパッコンと音がして、くすぐったさがわらいに転じた。

「ハハハハ、やめてくれよ」

 全身の不快感が快感に転じて、息子が勃起しはじめた。女は透かさずそいつを体内に誘導し、蛆千匹で大接待。二人同時にアアアと声を張り上げて轟沈した。嗚呼これで悪夢ともオサラバだと思いきや、女はゴロリと横に退いて添い寝をする。耐え難い長夢だ。

 

「あたしのこと思い出した?」

「俺を刺した女?」

「あんたはお腹に傷が残って、あたしは心に傷が残った」

「生霊かい?」

「生きていたら逢いに来ないわ」とシクシク泣き出した。

「ひょっとして、浮かばれない?」

「あたし蛆女。沼っぷちに置き去りにされて、蝿が寄って集って……」

「しかしまたなんで、俺のところに」

「あんたが好きなんだ。子供だってさ」

 一瞬にして背筋が凍った。

「俺の子?」

「あんたの」

「だって、下ろしたって――」

「ウソよ。ああ、もう明るくなってきた。陽に当たると干からびちゃうわ」

 女はすくっと立つと、頭の天辺から崩れ始め、蛆の流れになって傷口から、尻の穴から、口や鼻からどんどんと重雄の腹に戻っていった。目覚めてみると傷口はしっかり閉じ、パンツは精液でぐっしょり濡れていた。久方ぶりの夢精である。

 

 

 朝食もそこそこに、重雄は恐る恐る病院に行った。グロテスクな悪夢で毎晩うなされるのはまっぴらだ。まずは恐怖を取り除くことだと考えた。いろいろ体をいじくられても、終わってしまえばどうということもない。腹水を抜いて元の腹に戻せば、二度と悪夢を見ることはないだろう。いろいろ検査を受けるだろうが、原因さえ分かれば安心だ。こんなに腹が膨れて病院に行かなかったのは愚の骨頂だ、と意を決して最初は痛くない内科を受診した。田崎洋子という若い女医は重雄の顔色を見るなり、「だいぶ貧血ですね」といった。それから重雄に診察台に乗るよう促し、まず聴診器を当て、次に打診や触診を丹念に行ってから首をかしげる

「小太鼓のようなクリアな音がして、体位を変えても変化がありません。腹の皮がピンピンに張っていますね。触診では波動を認めるものの、まるで指先をゲジゲジが走るような細かな感触です。それに聴診器からはシャーシャー、キューキューと気味の悪い音がしますね」

「つまり?」

「つまり、通常の腹水ではないようです」

 重雄の顔は蒼白になり、全身に鳥肌が走る。

「ならばこんな仮説はどうでしょう。腹水と思ったのは一万匹を超える蛆虫」

 洋子はわらいながら「ユニークな診断ですね」といって、「まずは腹腔穿刺を行って内容物を調べる必要があります」と続けた。

 

 さっそく隣の処置室に通され、傷口とは別のところに太い注射器を刺されたが、重雄の予想通りシリンダの中に一滴も入ってこない。洋子は首をかしげて長い針を引き抜き、もっと太いやつに変えようとしたので重雄が拒否。

「それはご勘弁」

 洋子は苦わらいしながら「それではレントゲンを撮ってみましょう」という。

「しかし、レントゲンで分かります?」

「さあ、固体だから分かるでしょう。CTを撮ってもいいんですが、予約していないものですから、ねじ込む必要があります」

「ねじ込んでください。CTがいいな。腹が張り裂けそうなんだから、緊急事態であることは確かでしょ?」

「分かりました」

 というわけで、地階に行って土管のような機械に入り、結果が出るまで外科に回されて傷口の診察を受け、再び内科診察室に戻ると、洋子が険しい顔してCT画像を睨みつけている。

「驚きました。小さな虫がたくさん写っていますね。なにかしら……」

「蛆虫ですよ。紹介状にも書いてあったでしょう」

「でも、蝿が産み付けたとはとても考えられない量です。これがすべて蛆虫だとすれば、百匹以上の蝿がたかったことになります。不可能ですね」

「じゃあこれはフィクションですか?」

「未知の寄生虫が腹腔内で増殖した可能性があります。でも、それでは腹腔に通じる傷口の意味は薄くなります。蝿が傷口を伝って腹腔に入り込み、中で生活している可能性も否定できませんね。でも、一○年以上前の傷口が開くというのも考えにくいことです。ケロイドになる可能性はありますが、癒着した部分が開くことはありません。いずれにしても入院ですね。明日にでも開腹して内部をきれいにします。外科が担当になりますので、よろしくお願いいたします」

 

 

 

 重雄はそのまま一人部屋に入れられてしまった。外科の担当医は朝傷口を診察した若い女医の恩田静香である。

「明日、腹を切るんですかね?」

「いえいえ、負担のかからない腹腔鏡による手術を行って様子を見ます。それで駆除できれば幸いですし、ぶり返すようでしたら開腹手術をして徹底的に駆除することになります」

「腹腔鏡手術っていうのは?」

「お腹の二カ所に小さな穴を開けて、片方は内視鏡、片方は吸引管をさし込み、虫を吸引します。吸引用の穴はこの傷口を代用しますので、新たに開ける穴は内視鏡を挿入する一カ所だけになりますね。穴といっても小さな穴です」

 静香の口元は微笑んでいたが、目つきは冷ややかだった。こんな気味の悪い作業、どんな医者だって後ずさりするにちがいない。しかも、そいつが単なる蛆ではなくて、感染力の強い新種の寄生虫だったら、なおさら恐怖である。重雄はきつい眼差しの静香に負けじと強い視線を返し、医者の心の内を探ろうとした。きつい女は好みのタイプだった。「そうだ、腹を刺した女も、よく似た顔つきをした激しい女だった」と重雄は思ったものの、どんな顔つきだったかはっきり憶えているわけでもなかった。とにかくしつこく結婚を迫ってきて、孕んだというから、下ろしたら結婚しようとウソをついた。しかし、中絶後ものらりくらりと一向に話を進めなかったため、プツンと切れて腹を刺された。

「ところで先生、蛆を見たことは?」

「もちろん。検死のお手伝いもしますから」と静香は淡々と答えた。

「なら安心だ。腹を切って逃げ出されたら困りますからな」

「グロテスクなものを見ても一向に平気です。自然のものですしね。人間の心に比べれば可愛いものです」といって、静香は皮肉っぽくわらった。

「人間の心?」

「そう、グロテスクな人間の心。身勝手な欲望や愛憎、嫉妬や恐怖、それらが混じり合って発酵し、腐った妄想が膨らんでお腹を膨らませます」

「面白い冗談をおっしゃる。ブラックユーモアですな」

重雄は苦わらいしなから、「ひとつ真面目なことをお聞きします」と続けた。

「蛆というのは腐肉を食べているわけですよね。腹の中の蛆は、いったい何を?」

「ですから明日、内視鏡で見るのです。お腹の中が腐っている可能性もありますしね」

「冗談はよしてください。こうして先生と話している間だって、血や肉や骨がどんどん食われているんだ」

 重雄の声が微かに震えているのに気付き、急に静香の目元に優しさが過ぎった。

「お元気ですもの、まだまだ大丈夫です。手術は明日の午前中に行います。簡単な手術ですから、今晩は気を楽にしてお休みください」といって、病室から出て行った。

 

 

 簡単なはずが二時間以上もかかってしまった。臍の左に穴を開けて内視鏡を突っ込む。右肋骨下の傷口を開いて吸引チューブを挿入し、腹の中の蛆虫を吸い出していく。蛆虫は管を通って一○○リットル用のポリエチレン容器に溜まっていく。スタッフたちの驚きの声が重雄の耳に入ってくる。一人静香だけが黙々と内視鏡を覗き、右手で吸引管を操作しながら丁寧に駆除していく。しかし、蛆は腹腔全体に広がっていたため、内視鏡を見ながら一匹残らず退治するのは至難の業だ。死角の部分は感覚に頼って吸引チューブの先端を入れる以外になかった。

 見た目には一匹残らず駆除したように見えた。虫の塊が無くなると、腹の中が傷だらけになっているのが分かって、静香は思わず唸り声を上げた。見えたのは肝臓や胃、小腸や結腸ぐらいだが、外壁が軽石のようにザラザラになっていて、それらを支える膜も穴だらけだ。蛆虫どもの食い散らかした跡に違いなかった。

しかし不思議なことに出血が見られない。腹水も溜まっていないのだ。これだけのダメージをうけながら、一滴の血も流れていないとは考えにくかった。

「こいつら、きっと血が好物なんだ。だからその大切さも知っている」と静香は思い、なぜか寄生蜂を連想した。この蜂は別の昆虫に卵を産みつけ、その幼虫は宿主から栄養をもらって成長し、最後には宿主を殺して飛び立つのである。独り立ちできるまでは決して殺さない。それが彼らの哲学だ。

次に、ウイルスや寄生虫なども頭に浮かべて、自分なりに仮設を立ててみた。まず、普通の蛆ではない。寄生蜂と同じように、むやみに宿主を殺すことはせず、羽化するまでの共存を理想としている。だから、内臓や血管そのものを食べようとは思わない。膜類の穴は、出入りするために開けた穴で、巧みに血管を避けている。内臓外側の無数の極小ディンプルは蛆の頭の大きさで、おそらく蛆の数だけあるに違いない。乳飲み子が乳房に食らい付くように、彼らはこの窪みに鼻面を押し付けて血を吸い出し、満腹すると水絆創膏のような粘液を出して傷口を塞ぎ、むだな血を流さないようにするのだ。静香はこの仮説に満足した。

「きっと寄生蝿や吸血蝿の性質を兼ね備えた新種に違いないわ。ヒトクイバエとサシバエをかけ合わせたら、こんなのができるかもね」とつぶやき、これが新種なら発見したのは自分だと考えた。

 

 蛆虫を入れた容器は蓋を閉めて厳重に密閉され、一時的に地下倉庫に保管されたが、倉庫の電気を消した瞬間、居合わせた連中がワッと声を上げた。暗闇から蛆虫どもが青白く光って浮き出てきたのである。青い光の線が無数蠢く光景は、解剖に慣れ切ったつわものたちにも鳥肌を立たせた。

「こんな蚕をテレビで見たことがあります」と術看の一人がいった。

「知っています。蚕の遺伝子に夜光クラゲのタンパクを入れたんでしたね。できた絹糸も青く光る」と静香。

「つまり……」

「つまりこの蛆は、天然由来のものじゃない、といいたいんですね」

「だとしたらバイオテロに近い犯罪ですよね。警察ですか?」と術看。

 

そのとき洋子がやってきて、「みなさん冷静に」とたしなめた。

「新種の蝿とかいう話ですけど、かりにそれが犯罪だとしても、すぐに警察に連絡するのはどうでしょうね。不審死や子供の怪しいケガはいいでしょう。でも、この種の事柄は十分検討してから連絡すべきだと思いますわ。バイオテロなんてマスコミがよだれをたらしそうな言葉ですよ。その舞台がここなら、患者さんたちは逃げていってしまいます」

「どうすればいいの?」と静香。

「私、有能な寄生虫学者を知っています。その人は蛆についても詳しかったと思います」

「アッ、分かった。ひょっとしたら、あなたの彼じゃないの? いつだったか、あなたとお酒を飲んだとき、彼の自慢をしていたじゃない。寄生虫は駆除の時代から利用の時代に移ったとかなんとか。二一世紀は寄生の時代だ。格差はどんどん広がって、お金持ちにたからなければ生きていけなくなる――」

「ご冗談」

「そうそう、寄生虫で害虫を駆除したりとか、ダイエットやアレルギーの治療に利用したりとか、ガン細胞を食べるキラーT寄生虫だとか、いろんな話をあなたから聞かされたわ。永いわね、彼とはまだ続いているの?」

 洋子はたちまち顔を赤くさせ、「ええ……」と消え入るように答えた。

「ならこうしましょう。私とあなたは新種の蝿の発見者。そして、あなたの彼は、それを新種登録する研究者。彼には大至急、これの研究をやってもらって、三人の共同研究という形で論文を発表するの。私とあなたは臨床の立場で、彼は昆虫学の立場で」

 静香の提案に洋子は目を輝かせ、「それほどの蝿なら、三人とも有名人になれるかもね」といってわらった。

 

 

 その日の午後、洋子の恋人の別所がやってきた。気胸にでもなりそうな背の高いガリガリに痩せた四○前後の男で、元々蒼い顔が蛆の青い光を浴びて輝きを増し、目をパチクリさせた。相当の驚きようである。

「いったい、これだけの蛆をどこから採取したんです?」

「患者さんのお腹の中です」と静香。

「そうですか。一応これは引き取らせていただきます」

 別所は急に沈うつな表情になって、がっくりと肩を落とし、容器をキャスターに乗せようとしてよろけたので、マッチョな看護助手が手を差し伸べた。

「で、これは新種ですか、遺伝子組み換え製品ですか?」と静香はたずねた。

「いやそれは……。蛆はみんな同じように見えますのでね。それこそ遺伝子レベルで調べないと分かりません」

「いつ頃分かります?」

「一週間ですかね……」

「有害なものなら公にする必要があります」

「それはもっと後のほうがいいでしょう。幸いなことに羽化していませんので、そう慌てることはありません」

 別所は言葉少なげに答えると、乗ってきた車でそそくさと引き上げていった。

 

 その晩、別所から洋子に電話があり、洋子は別所の家に車で向かった。鎌倉の大きな屋敷で、別所家は鎌倉時代からこの地域の名家として知られていた。しかし、両親はすでに他界し、その血脈は別所で途絶えようとしている。恋愛に関して淡白な男だったし、家系の断絶についても気にしなかったが、できれば洋子と結婚して、子供ができたら家屋敷を継がせればいいと思っていた。しかし、洋子のほうが結婚にはさほど興味がなかった。まだまだ仕事に集中する時期だと思っていて、やるべきことがたくさんあったからだ。

 屋敷は別所の曽祖父が大正期に改築した洋風日本建築だった。明治時代に建てた洋館の屋根が関東大震災で崩れ落ち、仕方なしに神社風の屋根でカバーした奇妙なデザインの建物である。洋子は、預かっていた鍵を出して家の中に入ったが、見当たらなかったので一○○メートル離れた研究棟に向かった。昔タコ糸工場として建てられたバラックだが、それはカモフラージュで、老朽化した建物の中に、堅牢な鉄筋の建物が納まっていた。入口の鍵は最近開発された指紋認証キーになっていて、洋子も登録していたので簡単に入ることができた。洋子が研究棟に入れるのは、別所が学会などで出張するときにラットやマウスなどの世話をしていたからだ。

 一本の通路の両側に、小動物の飼育器が積み上げられている。その区画を通り抜けると、扉を隔てて更衣室になっていて、ここでクリーンルーム・ウエアに着替えなければならなかった。厳重な扉を開けるとクリーンルームが始まり、両側に一畳程度の小部屋が四〇並んでいる。そのセル一つひとつで、多様な蝿が飼育されているのである。ここ一○年、別所は蝿に的を絞って研究していた。

 右の一番奥の扉の上に緑のランプが点いていた。赤いランプはセルに何らかの異常が発生した場合に点滅するが、緑はセルで作業をしていることを示している。扉が開き、白いキャップを被った別所が顔を出した。半畳ほどのスペースに別所の体と病院から持ち帰った蛆が窮屈そうに納まっている。あと半畳はガラス張りになっていて、ほかのセルの場合は下が卵と蛆の飼育器、上が蛹と成虫の飼育器になっていて、羽化のために土が敷き詰められているのだが、この蝿のセルだけは様子が異なっている。下にはラットが五匹、上にはマウスが一○匹飼育されていて、蝿は生きた動物の体に卵を産み付けるのである。いずれにしても、これだけの施設を別所ひとりでこなせるわけがなく、二年前から伊藤という学生アルバイトを雇っていたが、先月辞めてしまった。

「これはうちの蛆だよ。何を意味しているか君には分かるだろ?」

「つまり、自然界には存在しない」

「そう。天然ものと区別できるように、遺伝子組み換えでオワンクラゲの蛍光タンパクを入れてあるんだ。僕の蝿さ。しかも……」

「しかも?」

「最も危険なやつだ」

「危険?」

「害獣を駆除する目的でつくったのさ。こいつをつくるために、二○種類の蝿の遺伝子を利用した。八割かた成功だ。しかし、あと二つの仕事が残っているんだ。ひとつは、こいつがオーダーメイドになること。たとえばアライグマを駆除したければ、特定の遺伝子を操作して、アライグマだけに卵を産みつける品種を量産できるようにする。もちろん、地球上で最も異常繁殖している人間を駆除したければ、人間だけに産みつける品種をつくらなければならないけどね」といって、別所は不気味にわらった。

「あとひとつは?」

「時限爆弾さ。こいつが地球上に繁栄しないために、制限を持たせるんだ。代を五回繰り返せば、それ以上は繁殖できないようにする。ほぼ一年で害獣駆除の役割を果たし、次の年にはこいつらもお役御免となって絶滅する。これで初めて市場に出すことができるんだ。僕は金を儲けようと思っていないし、自然愛護団体からも反対の声が上がるだろう。しかし、目的は害獣駆除だから、こっそりと解き放てばいい。この種の研究に実地試験は不可欠なんだ。いつの間にか鎌倉からアライグマや台湾リスが自然消滅した。それでいいじゃないか。特許もいらないし、有名人にもなりたくない。僕は金も名誉も欲しくない人間なんだ」

「お金は欲しいわ」といって、洋子はわらった。

「まさか君、派手な生活を送りたいわけじゃないだろ?」

「でも貧乏はいや」

「僕は土地持ちだ。君を幸せにするくらいの資産はあるよ。しかし、これから話すことはそんな幸せな話じゃないんだ」

「不幸せなお話?」

洋子はつぶやくような小声でたずねた。

「こいつら流出したのさ。考えられないことだが確かだ。いいかい、僕はこんな量つくっちゃいない」といって、別所は足元の大きな容器を指差した。透明ポリエチレン越しに無数の蛆が不気味に波打っていた。

「自然界で繁殖したとすれば――、考えたくないが、こいつらは自然消滅する加工を施していない。日本、いや世界中に広がる可能性も否定できない。おまけに特定の動物を選択する遺伝子も組み込んじゃいない。哺乳類だったら、あたりかまわずさ」

「どうやって逃亡したの?」

「知らんね。しかし、相手は羽の生える虫だからね。思わぬところに逃げ道があったのかもしれない。自力で逃亡したのならアウトだよ。僕たちには何もできない。あとは神様が彼らをどうするかの問題。もっとも、卵から成虫まで青白く光るから駆除はしやすいだろう。自爆遺伝子を仕込んだ仲間をつくって放てば、逃亡組の子孫もそいつらと交尾して、いずれは死滅するかもしれない。しかし繁殖力が旺盛なら焼け石に水さ。けれど僕は、連中が自力で逃亡したとは思っていないんだ。その場合は、まだ救いがある」

「なぜ?」

「蛆を見れば分かるさ。この蛆は二回脱皮する。こいつらすべて、二回脱皮した三齢期の蛆だ。蛹になる直前。つまり、温度などいろいろ操作して、粒を揃えているんだな。蛆をいっせいに羽化するように操作しているのさ。誰かが盗み出し、繁殖させたんだ」

「いったい誰!」

 洋子は声を荒らげた。

「僕かもしれない。君かもしれない。あるいは伊藤かもしれない。いずれにしても、ここに入れる人間だ」

「私じゃないわ」

「僕でもない。ならば伊藤だ。しかし、彼だって白を切るだろう。なんの目的で盗んだのか。金儲けか、テロか、そんなことはどうでもいい。肝心なのはこれ以上の繁殖を食い止めることなんだ。彼はアルバイトだから、蝿の詳細な情報を知らない。しかしセルの様子を見ていて、何かピンとくるものがあったんだろう。金の匂いを感じたのさ。仮に彼が盗んで、どこかで繁殖させたとしよう。学者の卵だから危険性は知っているはずだ。自然界に放出されていない可能性は十分あるんだ。病院に運ばれた男が最初で最後の被害者なら安心だ。羽化する前に駆除したんだからね」

 別所はセルから出てしっかりと鍵を閉めた。

「さあ、母屋に戻って話をしよう。もうすぐ私立探偵が来る」

 

 

 小田は髪の薄い五○ぐらいの男だった。別所は伊藤の履歴書を小田に見せた。

「大学院で昆虫学を研究している学生です。二年前に助手として採用しましたが、先月大学が忙しくなったといって辞めました。彼が盗んだかどうかは分かりません。盗んだ蛆はあなたにもすぐに分かります。暗闇でホタルのように光るからです。成虫も光ります」

「そりゃユニークな蝿ですね」

「下宿生活ですから住居で飼うことはしないはずです。きっと大学かなにかの研究室に置いてあるはずです」

「犯人だという前提で?」

「そうです」

「ほかの人物の可能性は?」

「ないですね。この研究所に入れるのは僕と彼女と彼だけです」

「で、お二人とも被害者なら、犯人は彼というわけですか。彼の近辺で光る蛆虫を発見すればそれで特定というわけですが、探偵は泥棒ではありませんので研究室に忍び込むわけにはいきません。外から望遠鏡で覗きますか」といって小田はニヤリとわらい、「ついでにその体内に蛆を孕んでいた患者さんについては?」とたずねた。

「保健証の写しなら病院にありますけど、まずは伊藤さんを調べることが先決ではありませんか?」と洋子。

「しかし常識的に考えて、伊藤さんが蛆を盗んで、その蛆が患者さんの腹から出てきたとなれば、伊藤さんと患者さんの関係を調べる必要がありますな。仮に蛆という現物が出なくても、二人の間に何らかの関係があったなら、きわめて疑わしいということになります」

「それは正論ですね」といって別所はうなずいた。

「で、彼が犯人だと分かった場合、警察に届けますか?」

「いいえ、そこまではしたくない。伊藤君は将来性がある学生なので、訴えることはしたくないんです。卵から成虫まで一匹残らず返してもらえばそれでいい。気になるのは、いったい彼がどんな目的で盗んだかだ」

「いやいや、まだ彼が盗んだことを証明したわけじゃないですよ。それにしても腑に落ちないことが多いですな。たとえば、盗まれた蛆が、どうして他人の腹に入ったんですかね」

「あなたは口の堅い探偵だと聞いて、お願いしたんです」

 別所は確かめるような眼差しを小田に向けた。

「もちろん。お客さんの不利になることはいっさい口外しないから信頼されているわけです」と小田はいってニヤリとした。別所は大きくうなずき、「ご質問に答えましょう」とささやくような小声で話し始めた。

「この蝿は動物の皮膚に長く鋭利な輸卵管を刺して、皮下に五○粒程度の卵を産み付けます。ちょうど表皮と真皮の境目ぐらいのところ。そこで卵は蛆に育ち、蛆は真皮乳頭といわれる部分の毛細血管から血をくすねて大きくなります。毛細血管に血が流れているかぎり、動くこともなくその場で蛹になります。外から見ると、その部分は小さなこぶのように見え、脂肪の塊だと勘違いする医者も多いでしょう。しかし、蛹が孵るときは皮膚を食い破って飛び立ちます。一度に数十匹単位で飛び立つ場合はかなりのダメージになります」

「腹の中というのは?」

「この蝿の習性として、動物の足や口の届かない背中に卵を産み付けます。腹の中というのは、……あくまで想像ですが、卵が血管に入って血管内で蛆に育ち、特定の臓器を食い破って腹腔に出た可能性がありますけど、現時点で蝿が自然界に拡散したとは考えていません」

「といいますと?」

「誰かが悪意を持って腹腔に穴を開け、多量の蛆を注ぎ込んだというところが順当じゃないでしょうかね」

「なるほど。伊藤さんが犯人なら、窃盗だけじゃなく、傷害事件まで起こしたということになりますね」

小田はニヤニヤしながら、「それでは患者さんの保健証についてはよろしくお願いします。ここにFAXください」と続けて洋子に名刺を渡し、立ち上がった。

 

 

重雄はすがすがしい朝を迎えた。腹は完全にへっこみ、伸びた皮が萎れて割れた風船ガムのように腹を覆っていた。血圧を計りにきた看護師がそれを見てわらい、「余分な皮を切って縫い合わせたほうがよさそうね」といった。朝食のあとに静香がやってきて、術後のCT画像にはまったく異常がなかったことを告げた。

「ということは、今日退院できる?」

「どうでしょう、貧血がありますから、ある程度快復しなければ退院はできません。造血細胞は正常に機能していますし、いい注射もありますから一週間もあれば元気になるでしょう」

「一週間はつらいね。蛆虫に食われた臓物は?」

「どれも正常に機能しています」

 静香の回診が終わると、重雄は腕に点滴をつけながら病院内をうろうろしはじめた。タイプの看護師に声を掛けようと思ったのである。ところが廊下をやってきた洋子に出くわして注意をされた。

「恩田先生にいわれませんでした? 貧血がありますので、しばらくは安静になさってください。遠目から見てもフラフラしていらっしゃいましたわ」

 

 しぶしぶ部屋に戻ると、見知らぬ男がソファーに座っている。小田はもう若くはなく、張り込みなどの肉体労働を嫌う傾向にあった。それに、アルバイトが犯人であるといった依頼者の決め付けにも抵抗感があった。誰かが重雄の腹に蛆を注ぎ込んだとすれば怨恨の可能性が高く、被害者の身辺を調査したほうが簡単に犯人に近づける。

「探偵の小田と申します」といって、小田は名刺を渡した。

「探偵さんがなんでここに?」

「探偵というのは地獄耳でしてね。あなたが大きな災難に遭われたという噂話が、この病院から流れ出ていまして、肉の匂いに誘われる蝿のように舞い込んだしだいです」

「しかし、僕って探偵を雇うような立場に置かれているかしら?」

重雄は疑問符を小田に投げかけ、不機嫌そうにベッドの中に滑り込んだ。

「蛆もばい菌も肉の中から自然発生するという考えは大昔の話でしてね。私が考えるに原因は二つあるはずです。ひとつは蝿があなたの体に卵を産み付けた。しかし、あれだけの蛆の数だけ卵を産み付けるとはまず考えられませんな。ならばもうひとつの仮説として、誰かがあなたの寝ているうちに腹の中に大量の蛆を注入した。これは明らかに犯罪だ。警察に訴えられますか?」

「うーん」といって重雄は腕を組み、顔をしかめた。

「取り合ってくれませんよ。しかし、犯人があなたを殺そうと思っているなら、次はきっと成功させるはずです。このまま放っておくのはあなたにとって危険だ。そういうときに便利なのが探偵です。犯人が分からなければお代は受け取りません。分かった場合は二○○万。あなたのようなお金持ちにはハナクソのような金額だ」

「しかし、これが犯罪だとすれば、僕に恨みを持つ人間の仕業でしょ。あなたは僕の過去の多くを知ることになる」

「もちろん、個人情報の保護は探偵の義務です。決して漏らしません。いかがです?」

「分かりました。面白そうだ。僕をこんなひどい目に遭わせた犯人を捜してください。証拠を整えてから告訴しましょう」

「ありがとうございます」

 

 それから小一時間ばかり話し合い、小田はいろんな情報を手にした。仕事関係でのトラブルは思いつかないという。すると、まずは異性関係から調べる必要がある。金持ちで女癖が悪いということは、泣かした女がすべて疑わしかったが、それらをしらみつぶしに調べるのには時間がかかり過ぎた。仕方なしに、疑わしい女を思いつくままに五人ほど上げてもらった。

「ナイフでこんな傷を付けた女もいるんです」といって、重雄は縫い付けたばかりの腹の傷を小田に見せた。

「ああ、それですか。いったい何年前?」

「確か……、二六、七年前かなあ」

「今頃になって悪さをするなんて、想像を絶する怨恨ですな」といって、小田はわらった。重雄は首を横に振り、「夢枕にそいつが現れたんでね……」とつぶやくようにいった。

「正夢ですか。可能性はなくもない。あなたを刺してから女の転落が始まった。二六年間、彼女は鬱々と過ごしてきた。最近になって、自分の不幸な人生の元凶はあなたにあると再認識し、もう一度復讐する決心をした」

「その線はなかなかいいね」

 重雄は声を立ててわらったが、傷の周りの筋肉が引きつって痛み、額に皺を寄せる。

「しかし、大昔の話ですからね」と小田。

「この歳になると、昔愛した女が恋しくなることがよくあるんだ。刺した女とはいえ可哀相なことをしたもんだ。いろんな女と付き合ったが、心底愛してくれた女はあいつしかいなかったんじゃないかな。結婚していれば、僕もけっこう落ち着いた人間になれたのかもしれない。そういう感傷は歳を取った証拠かね?」

 重雄は自嘲的な笑みを浮かべ、小田を見上げた。

「まずは気になるその女から調べましょう。あなたが彼女の一生を台無しにしたとは考えたくないでしょう。彼女がシロとなれば」と続けるところを重雄はさえぎった。

「頼みますよ。老人の感傷は聞き流してください。彼女については古い手紙くらいしか残っていない。手紙はマンションのロッカーに置いてあります。僕の手下が探すのを手伝ってくれますよ。女の名前は忘れたが、住んでいた場所は手下が知っている」といって、その場で部下に電話をした。

 

 

 同じ頃、洋子と静香は職員食堂で食事をしながら重雄の件について話していた。

「採取した蛆の分析は進んでいるの?」と静香。

「一週間はかかるみたいだわ。でも、自然界で繁殖したものじゃない」

「というと?」

「被害者が増えていないのが証拠。それに常識的に考えて、あれだけの蛆をお腹に産み付けるには、体を真っ黒に覆うぐらいの蝿が必要だわね、ということはやっぱり傷口から注ぎ込まれたっていうのが正論」

「じゃあ警察、といけないところが難しいところね。殺人蛆虫の患者を病院が収容したとなれば、いい評判にはならないのも確か」と静香はいって、苦わらいした。

「分析結果が出るまで待ちましょう。彼が最初で最後の患者なら、なかったことにもできる」と洋子。別所に口止めされていたので、蛆が別所の研究所から盗まれたものだとは伝えなかった。

「でも、患者さんが死んだら?」と静香は不安げにたずねた。

「検査の数値が正常なのに、そう簡単に死ぬことはないわ。でも……」

「でも?」

「患者さんには知る権利がある。いえ医者の見解を聞く権利がある」と洋子。

「それはやめたほうがいいわ。少なくとも入院しているかぎり、危害を加えられることはないし」

「病院なんかセキュリティはあまいし――、ならせめて退院するときに伝えるべきだわ」と洋子。

 

 しかし、午後の内科回診の折に、洋子は思い切って自分の見解を重雄に述べた。すると、重雄が「先生のご意見もそうですか」というのを聞いて、少しばかり肩透かしを食ったような気分になった。重雄はサイドテーブルの上の名刺を顎で示す。

「実は午前中にこんな人物がやってきてね。これは傷害事件だから、私が犯人を挙げてみせます。犯人が挙がらなかったら、お代はいりません。挙がったら二○○万円いただきますってなぐあいで、話術巧みに契約させられちまいましたよ」

 重雄は下卑た顔して、へへへと自虐的にわらった。名刺の名前を見て、洋子はあ然とした。一つの案件について二人の依頼者から金を取ろうというのである。目的の達成が両方の依頼者に益となれば、それも許されるかもしれない。だが別所と重雄の関係は被害者どうしだといっても、その利害関係は異なってくる。重雄は全面的な被害者だろう。しかし、別所は重雄に対して加害責任を負わされる可能性がないとはいえない。たとえば、別所の飼っていた犬が盗まれ、そいつが重雄に噛み付いたら、管理不行き届き云々の飼い主責任が出てくる可能性があるだろう。そう考えると、犬が虫に変わっただけのことになりかねないのだ。別所の飼っていた蛆が、結果的に重雄を襲ったことは確かだからだ。心配なのは最後の最後で小田がどちらかの依頼者を切り捨てることである。別所の資産を引き出せると見れば、小田が重雄の味方をして裁判に有利な資料を重雄だけに提供する可能性もあった。

 

 洋子はさっそくこのことを携帯電話で別所に伝えた。電話越しに別所は黙って説明を聞いていたが、不気味なわらい声でボソリといった。

「実は小田との契約は今朝解除した。彼は新しい依頼者を見つけただけの話さ」

「いったいなぜ?」

 洋子は驚いて、素っ頓狂な声で聞いた。

「君のようなおしゃべりな人がいると、きっとまずくなると思ったからさ。君は医者だから、患者に自分の考えをいうことは義務かもしれない。しかし、考えはあくまでオピニオンで、事実じゃない」

「事実じゃない?」

 洋子は理解ができずに聞き返した。

「君は夢を見ていたのさ。君は患者の病態以外は知らない立場にあるんだ。たとえば、いったいあの蛆や蝿が僕のところから盗まれたものだと証明できるかね? だって、僕はあの蛆や蝿を所有していない。僕が所有していた物的証拠はどこにもないんだ。つまり僕はさっき、一匹残らず焼却処分しちまったんだ。もちろん、君たちが持ち込んだ分もね。あいつらはもう僕の研究所に存在しない。存在するのは僕の頭の中さ。あいつらを作出するレシピはすべて記憶している。ひと月もあれば、すぐにつくり出すことができるのさ。しかし、当分研究は再開しない。伊藤が僕の研究を横取りして、手持ちの蝿で商業化にこぎ付けたとしても、訴訟に勝つ証拠は保持しているんだ。だいいち、僕が操作した遺伝子組み換え情報が、一介のアルバイトに解き明かせるはずもない。パソコンのセキュリティは万全だしね。だから、しばらく様子を見ることにした」

「というと、探偵は?」

「もう興味がないね。探偵を雇ったことは失敗だった。冷静さを失っていたんだな。でも、いまは落ち着いて、論理的に考えられるようになった。あの蝿も蛆も、僕は一切知らないんだ。当然、僕と結婚する君も知らないはずだ。探偵だって、僕たちの話を聞いただけにすぎない」

「つまり、あなたはこの件から手を引こうというわけ?」

「そう。で、君に頼みがあるんだ。患者さんから預かったあの貴重な蛆たちだが、実験室で小火が発生し、丸ごと灰になってしまった。恩田先生に重々謝っておいてくれたまえ」

「ひとつ、聞いていい?」

 洋子は怒りで声を震わせながら続けた。

「もし仮に、伊藤さんの手持ちの蝿が自然界で繁殖するはめになったら、あなたはいったいどうするおつもり?」

「形式的には政府から依頼を受け、研究用の個体を受け取り、生殖不能遺伝子を組み込んだ蝿を作出して自然界に放つ、という手順は君も分かっているはずだ。しかし残念ながら、この蝿の繁殖力は旺盛だ。しかも、熱帯から寒帯まで、湿潤地帯から乾燥地帯まで、あらゆる環境に順応する能力を持っているんだ。焼け石に水だと思うよ。パンデミックさ。盗まれるのがあと一カ月遅かったら、生殖をコントロールできて商業化のめども立っていたのに、まったく運が悪かったよ」

 電話越しに別所のため息が聞こえてきた。

「卑怯者。私たちの関係も終りね」

「ああ、君が僕を許さないのは、長年付き合っていれば分かるさ。僕は君を捨てて、研究者としての生命を取った。分かってくれよ。僕も被害者なんだ。僕の被害を最小限に止めるのは、このシナリオがいちばんなのさ。僕は何も知らない。まったく知らないんだ」

 電話が切れた。洋子は携帯電話を激しく閉じ、「クソッタレ!」と怒鳴ったので、近くを通り過ぎた看護師が目を丸くした。

 あの蝿の真の危険性は別所と洋子しか知らない。となれば、その被害を最小限に食い止める者は洋子しかいなかった。しかし洋子は日々の診療に忙殺される一介の勤務医で、事件に首を突っ込む時間はほとんど持てなかった。ということは、やはり探偵の小田に頼る以外はないと考え、小田に電話をし、別所の代わりに自分が契約続行することを告げた。小田は二つ返事で承諾。小田と重雄の契約は、犯人が挙がったときにのみ礼金が支払われるものだったが、洋子とは月々五○万という確実なものだったからだ。しかしその条件として、毎日洋子に調査報告を行うこと、重雄には犯人が挙がるまで経過報告はしないということを約束させた。別れると決めたものの、長年の恋人の不利になることはしたくなかったのだ。

 

 一方小田は、仲間にアルバイトの伊藤を調査させ、自身は昔重雄の腹を刺した女の調査に力を注いだ。二六年前の女の手紙は刺したことを詫びるもので、刺すほど愛しているのだからと再び交際を迫っていた。しかし、それ以降は一通も来なかったらしい。別所はひとまず差出人の住所を訪ねた。そこは大田区の町工場街で、精密機器の会社を経営していた重雄が、たまに試作品の部品を発注するために訪れ、町工場の上階のアパートに住んでいた女を軟派したという経緯があった。シャッターを下ろした工場がある中、住所の工場は稼動していて、開け放たれた屋内には古臭い旋盤機械などが所狭しに置かれ、うるさい音を立てていた。この工場の上の二、三階が賃貸アパートになっており、最上階が工場主の住居である。当時はそれでも景気のいい時期で、この埃くさい鉄筋の建物も新築物件だったらしい。

 小田は持ち前の図々しさで工場内にずかずかと入っていって、いちばん年取った毛の薄いオヤジに声を掛けた。

「ああ、その子のことは良く知っとるよ。四階にババーがいるから聞くといい」というので、エレベータで四階に上ってベルを押した。出てきた女性に家の中に入れてもらい、居間で話を聞いた。夫人は封筒の名前を見て目に涙を浮かべた。

「かわいそうな娘さん。きれいな子だった。御得意に悪いのがいてね。手を付けて孕ましちまった。お客はその話を聞いて、うちにも来なくなっちまったがね、この子は腹ボテさ」

「というと、中絶は?」

「生んださ。生んで青森の実家に帰った。ちゃんとした仕事があったのにねえ、かわいそうに」

「青森の実家というのは?」

「さあ……、そうだ、一度実家から葉書が来たわさ。お世話になりましたって――」

「ありますかね」

「捨てるわけにはいかんしね」

 夫人は戸棚から蒔絵の硯箱を出してきた。おそらくいろんな思い出の手紙がたくさん入っていて、金粉をほどこした豪華げな蓋が浮いている。虫眼鏡を使いながらお目当ての一葉を探し当てるのに一〇分もかかった。菜の花畑の絵葉書で、住所は六ヶ所村になっていた。重雄の子供を生んだのなら、六ヶ所村には行かなければならないだろうと思って、気が重くなった。三沢まで飛行機を使うにしても、それからが遠くてやっかいだった。

 

 空港でレンタカーを借り、六ヶ所村に向かった。ところが、葉書の住所に行ってみても、そこには風力発電の風車が何本も立っていて、家らしきものは一軒もなかった。村役場に行って探偵の名刺を示し、たずねたが、住所近辺の地主や住人は売電業者に土地を売って農業をやめ、むつ市などに移住したという。対応した職員が高齢だったので葉書を見せて、家族を探しているのだというと、驚いた顔をして、「地元の人間でこの一家を知らない者はいないですよ」と答えた。

 職員から聞いた話はこうだ。娘は派手な顔立ちの美人だったので、地元ではけっこう知られていたらしい。その娘が、老夫婦のもとに赤ん坊を抱いて戻ってきたので、未婚の母としてさらに地元を賑わした。都会と違い、いまだに村社会的な風土が残っている地域である。シングルマザーの親子が暮らしていくのはなにかと大変なので、誰もが戻ったのは一時的なもので、むつ市三沢市で仕事が見つかれば、子供を両親に預けるなりして出て行くものと思っていた。周りの予想どおり、三カ月後に娘は子供を置いたまま、ふらっと出ていった。老夫婦も警察に届け出ることもなく、仕方なしに赤ん坊の世話をしていたという。

 ところが、失跡から三週間経って、湖岸の叢から娘の腐乱死体が発見された。死体には大量の蛆が湧いていたという。外傷はなく、溺死の疑いが強かったので、自殺と断定された。残された子供は五歳まで老夫婦が育てていたが、その夫婦も相次いで病死し、仕方なしに東京でクリニックを開いている息子、すなわち自殺した女の兄に引き取られていったという。

「その兄という方が開いている医院は?」

「さあ、いまだに開業しているとは思えませんけどね。住所は分かりますよ」といって、職員は奥へ引っ込み、五分ほど待たせてからメモ用紙を小田に渡した。

「二○年前はここで開業していました。親戚とは折り合いが悪くて、両親が死んでからは一度もこちらに来たことはありません。引き取られた子も、おそらくここに来たことはないでしょう」

「いいえ、昨年いらっしゃいましたわ」と、そばの机で仕事をしていた中年の女性職員が口を挟んだ。

「エッ、ここに来たんですか?」と小田は驚いて聞き返す。

「ええ、あなたの立っていらっしゃるところに来られて、私に話しかけてきたんです。古い地方新聞を出して、載っている写真の場所を探しているっておっしゃいました。ピンときましたわ。ああ、この若い女性があのとき自殺した人の娘さんだって」

「ひとつお願いがあります。その現場に連れて行ってくれませんかね」

「それは無理ですね。あの方にもそういいました。当時の岸辺は水の中にあるんです。湖のように大きな沼ですけど、気象条件によって水位が変わります。ここ数年、水かさが増していますから、あの方はボートを出してもらって、花束を投げ入れて帰って行かれたようですよ」

「そうですね。三○年近く前の現場を見たって、何も得るところはありませんからね。ありがとうございました」

「あっ、それから、半年前にこんな方も調べに来ましたよ」といって、女性職員は机の引き出しから名刺を出して小田に見せた。

「競合の探偵社か……、妙だな」といって、小田は首をかしげた。小田は現場を見ることもなく三沢に戻り、その日の最終フライトで東京に帰った。

 

 

 翌日の午後、小田はもらったメモの住所を訪ねた。驚いたことに、重雄の住居と一キロも離れていない。看板には恩田外科医院と書かれている。自殺した女も恩田という苗字だ。そういえば、重雄が入院している総合病院の外科医も恩田という苗字だったな……、と思いながら医院の前をうろうろしていると、エントランスから重雄が出てきたのでびっくりした。

「社長、いったいどうなさったんで」

「今朝退院したのさ。課題の貧血も良くなったし、あとはここの先生に診てもらえばいいということになったんだ」

「そりゃおめでとうございます。で、ちょっと聞きたいことがあるんですが、入院なさっていた病院の外科医の苗字と、このクリニックの苗字と同じですが、偶然ですかね?」

「いやいや、僕も今日初めて知ったんだが、病院の担当医はここの先生の娘さんだったんだ。二人とも何もいわないからさ。同じ苗字だからここの先生に聞いたら、そういうんだからふき出しちゃったよ。先生、自分の娘に紹介状を書いたんだ」といって重雄はわらい、「で、犯人は分かったかい?」と続けた。

「だいたいね。いずれ二○○万円をいただきに上がりますよ」

「まあいいさ。治っちまったんだから、もういいような気がしないでもないな」

「いずれにしても、戸締りだけはしっかりと」

「了解。犯人が幽霊だったら一銭も払わんよ」

重雄は声を立てて大げさにわらい、「頼むよ」と小田の肩を軽く叩き、去っていった。

〝犯人は幽霊かもしれんな〟とつぶやきながら、小田は恩田医院に入っていった。目的はもちろん、静香が重雄の子供であることを確認するためだったが、そのほかにも意味があった。探偵が動いていることを静香に感知させて、次の行動を遅らせようとしたのだ。小田の仲間は別所の身辺を調査し、静香と別所との深い関係を疑っていた。彼は鍵会社の従業員の振りをして別所の研究所に赴き、指紋認証キーのメンテナンスだと称して登録データを抜き取っていたのだ。病院から採取した静香の指紋がデータに含まれていた。つまり、別所の研究所に入れる人間には静香も含まれる。恐らく殺人蛆を盗み出したのは静香で、どこかで増殖させて重雄の腹に注入したのである。動機はもちろん、母親を自殺に追いやったことへの怨恨だ。

 

 しかし甘かった。退院した夜中、重雄の夢枕に再び蛆女が現れ、いいように遊はれてしまったのだ。案の定、翌朝になって重雄が目覚めると破裂しそうな腹が目に飛び込んできた。重雄は悲痛な叫び声を上げた。

「幽霊の仕業だ。大手術になっちまうぞ!」

すぐに病院だと考えたが、腹が重くて立つこともできない。それもそのはず、前回の倍近くも膨れているのだ。仕方なしに枕元の携帯電話で救急車を呼んだ。静香が病院に出勤すると手術室には重雄が運び込まれていて、全身麻酔をかけている最中だった。「再発は私の責任ですから、私が執刀します」といって、静香は更衣室に駆け込んだ。

「お母さんだって蛆だらけになった。きっとお母さんの祟りだよ」

 静香は麻酔で意識のない重雄に語りかけながら、母親が刃物を刺したその場所に鋭いメスを思い切り刺したのだ。とたんにバーンと大きな音がして腹が破裂し、真っ黒い煙が飛び出し静香の顔をビシビシ叩く。静香を含め、重雄を取り巻いていた数人が爆風で一メートルほど後ろに飛ばされた。しかしこれは爆発ではない、殺人蝿の羽化だった。ブンブンバチバチ壮絶な羽音の集合体――、手術室全体が無数のハエで暗黒状態になったが、すぐに反時計回りに旋回をはじめ、まるで竜巻の中に入ったような状態になった。バチバチというぶつかり音は出なくなったものの、耐え難い騒音に全員がしゃがみ込んで耳を押さえる。必死に押さえても鼓膜が破れそうなブンブン音――、それは飛行機の旋回音のようにも聞こえた。幸い全員がマスクをしていたので、穴という穴は塞がれ、蝿が体内に侵入することはなかった。「窓を開けろ!」と誰かが叫ぶのを聞いて、「開けちゃダメ!」と静香は大声を出したが、壮絶な音に掻き消されてしまった。麻酔医が立ち上がって壁際まで突撃し、必死になって非常用の窓を開けた。自由を得たハエたちは勢いよく外へ流れ出て、渦を巻きながら天空に昇っていった。

手術室はいつもの静けさを取り戻しつつあったが、耳に残る羽音が消えるまで誰も立ち上がろうとはしなかった。ため息の輪唱が始まってから、ポツリポツリと腰を上げる者が出てきた。ようやく安らいでいく状況になった……が、再び恐怖に引き戻したのは静香の悲痛な叫び声だった。大げさに腹を開いた屍が手術台に乗っかっている。やはり爆発だ。砲弾でも貫通したかのように大きくささくれている。床には臓物が散乱し、タイル壁には血や肉片がこびり付き、見れば全員が多量の血潮を浴びていた。

「お父さん!」

静香は死体に駆け寄り、蒼白い顔に頬ずりしながら声を上げて泣いた。

 

 

 月五万の安アパート、義雄の部屋のパイプベッドを軋ませながら、二人は裸になって抱き合っていた。

「すべて終わったわね」

「ほとぼりが冷めたら一緒になろう」

 ところが、こっそりと鍵を開けて別の男女が土足のまま闖入し、ちちくっているベッドサイドに立ったので、ベッドの二人はあ然として石のように硬直した。

「お取り込み中、失礼します。無用心な部屋ですね。ドアの鍵はたった五秒で開きましたよ」と小田。

「私が別所さんを奪おうとしていたって、あなた、そんな噂を病院中に流した?」

静香は薄わらいしながら洋子を睨みつけた。

「なんの話? 知らないわ」

 洋子はしらを切った。

「洋子さんは別所さんの資産を狙っていたが、途中で重雄さんの財産に切り替えたんだ。なぜなら、重雄さんの息子さんと恋に落ちたから」といって、小田はニヤニヤした。

「おっしゃる意味が分からないわ」と洋子。

「重雄さんの周辺を徹底的に調べました。すると、あなたの隣に寝ている男性が重雄さんに認知された唯一の子であることが分かった。母親は違うが、義雄さんと静香さん、どちらも父親は重雄さんだ。しかしいまのところ、義雄さんだけが重雄さんの財産を相続する権利がある。義雄さん、あなたも探偵を使って親父さんの身辺を調べたんでしょ? 素行の悪い親父さんだ。どこから隠し子が飛び出てくるかも分かりませんからね。調べる過程で、静香さんと重雄さんの関係が浮かび上がり、彼女の母親が自殺していたことも分かった。もちろんあなたは、静香さんが重雄さんに、あなたの娘ですと名乗り出るのが怖かった」 

 小田は鋭い眼差しで義雄を睨みつけた。

「で?」と義雄。

 

 

「あなたは金に困っていた。重雄さんはあなたに小遣いもくれない。DNA鑑定を突きつけられ、しぶしぶ認知しただけの息子。で、重雄さんを殺してでも財産を奪おうと考えた。そこで一挙両得、静香さんを犯人に仕立て上げようと思った。そのために、病院で一緒に働いている洋子さんを利用しようと、彼女に猛烈アタックした。プレイボーイの息子だけあって、義雄さんも相当の美男子だ。洋子さんをゲットするのは朝飯前、というわけで研究所から蛆を盗み出したのはあなたたち二人だ。重雄さんの住居に侵入し、睡眠薬を打ってから腹腔に蛆を注ぎ込んだのもあなたたち。義雄さんは父親の重雄さんから住居の鍵を預かっていた。鍵を預けたのは、心の中でもあなたを息子だと認めた証拠だ。……なのになぜ?」

「なぜと聞かれても犯人じゃないもの、答えようがないな。それに静香さんだって別所さんとできていた。それが証拠に、研究所の指紋認証キーに静香さんの指紋も登録されている」

 義雄は真っ赤になって反論した。

「よくそれが分かりましたね。あなた鍵屋さん?」

 小田はわざとらしく驚いた顔をした。

「おわらいぐさ。私が別所さんとできているなんて、まったくのデタラメ、つくり話だわ」

 静香は声を立ててわらった。

「登録したのは洋子さん、あなたでしょ。病院で静香さんの残留指紋をゼラチンに写し取ってキーに登録した。彼女を犯人に仕立てるための工作だ」と小田。

「どこにそんな証拠があるの?」

 洋子は声を荒らげた。

「あるさ、ここに」

 三人の男が土足で入ってきた。二人は刑事、中央にDVDを持った別所が立っていた。

「証拠はこの円盤にあるさ。君は防犯カメラのデータをすべて消去しただろ? そんなことをすればすぐに気付かれるさ。でも安心したまえ。君の知らない場所から、もう一台のカメラが入口を撮っているんだ。僕の留守を見計らって、君がキーに工作している姿が映っていたよ」といったところで怒りを抑えることができなくなり、別所はブルブルと唇を震わせながら「君にはあの蝿の危険性を教えたはずだが、なぜバカを繰り返した?」と続けた。

「まさか羽化するとは思わなかったのよ!」

ほとんど叫び声で洋子は答えた。

「いかんせん、恋は盲目というやつでして――」と小田が茶々を入れる。

「あの蝿は、蛹の期間が六時間と異常に短いんだ。ところで、腹に蛆を入れて人を殺すアイデアは、僕の研究データを覗き見した君が考え出したんだね?」

別所が聞くと、洋子はベッドに突っ伏して慟哭した。別所の怒りは哀れみに変わり、絶望的な眼差しを、小刻みに震える女の背中に向けた。

「君を盲目にしたのは恋かい、金かい? どっちにしろ君は僕を破滅させ、君自身も破滅させた。きっと何年後かには、世界中の自然も破滅させているだろうさ――」

別所は口元を引きつらせてさらに絶望的なうす笑いを浮かべ、生気の失せた顔をクルリと回転させると、萎れた風船みたいによろけながらドアを通過し、強い日差しに溶けて消えた。

 

(了)

 

 

 

 

響月 光(きょうげつ こう)

詩人。小熊秀雄の「真実を語るに技術はいらない」、「りっぱとは下手な詩を書くことだ」等の言葉に触発され、詩を書き始める。私的な内容を極力避け、表現や技巧、雰囲気等に囚われない思想のある無骨な詩を追求している。現在、世界平和への願いを込めた詩集『戦争レクイエム』をライフワークとして執筆中。

 

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