詩人の部屋 響月光

響月光の詩と小説を紹介します。

ホラー「線虫」(全文) & 詩

あちらの感性たちへ

 

僕は一割にも満たないこちらの感性で君たちを見ている

遠足の手引きの簡単な漢字が読めなかった無教養な先生を

大笑いで辱めた九割方のあっちの感性たちよ

君らにとって人生の辛さを忘れる手段は

馬鹿笑いだけなのがさびしい限りだ

怒れる君たちはさらに破壊的なパワーを秘めている

単純性のバイアスは笑うか怒るかでファジーな中間は完全蒸発

まるで神楽で踊りまくるおかめとひょっとこみたいに

大袈裟な振りが型にはまって普遍化し、歴史化している

何のてらいもなく馬鹿にし吊るし上げるベクトルで

次なる戦争を知らず知らずに準備しているだろう

君たちは仕事に疲れ、家に帰ってテレビを付け

芸人の戯言に心を癒し、罪人を糾弾し、酒で恨みを忘れ

風呂に入って寝入り、また次の朝を迎える

閉じられたサークルを独楽鼠のように

心臓が破れるまで、あと何千回も回り続けるだろう

そしてその宿命のトラックが外部から邪魔されると

とたんにおののき怒って主役に躍り出る

走路妨害だ! 邪魔者を蹴散らせ!

嗚呼、笑い、怒り、煮えたぎる感性よ

紋切り型の振り付けで徹底的に暴れまくれ!

君たちは文明を完全破壊するパワーで溢れている

 

 

 

 

ホラー「線虫」(全文)

 

 

 五十年ほど前に琴名村の名主の息子が仏心に目覚め、出家して十年ばかし遍歴の旅に出た後、故郷に戻って泉中寺を建てた。町となった今はその孫が住職を引継いでいる。

この坊主は好色で、以前は隣町の色里でしばしば見かけたが、地元で噂になって檀家にとがめられたこともあり、最近では平服姿をとんと見かけなくなった。しかし、噂というのはしつこいもので、今度は別の噂が立つようになった。境内に女を囲っているというのである。

単なる噂として片付けられないのは、あれほどの色道楽をきっぱり断つことは難しいという世間の常識だけではなかったからだ。ちょうど同じ頃、古女房とは別の女が住み着いた。三十前後の痩せた女で、昼間外出することはめったにない。病み上がりのような蒼白い顔をしながら、眼差しに不思議な色気をたたえる美人である。しかし、この女は亭主とともに住み着いたのだから、妾という噂はいささか的が外れているのだが、風評は面白い方向に展開していった。

あの夫婦は実は兄妹か親子で、住職の愛人であることをカモフラージュしているというのだ。夫は五十くらいに見えるが同じように痩せて蒼白く、歳の離れた兄妹と思われても不思議はない。しかし、死んだ魚のような白目は妻の妖艶な眼差しとはかけ離れていて、夢も希望も捨ててしまった敗残者のように見えた。

住職はこの夫婦のために、檀家の反対を押し切って本堂裏の森を伐採し、住居と畑を造って提供した。そこまでして、なぜゆえに夫婦を境内に住まわせなければならないのか。住職の奇妙な行動は、限りなく黒に近いという風評に変わって面白おかしく広がっていった。

 

戸籍上ということで言えば、本当の夫婦なのだ。夫の吉本は生物学者で、戦時中は陸軍の秘密研究隊で生物兵器を研究していた。終戦を迎えたときには、研究隊長が研究資料と引き換えに、米軍から隊員への優遇を約束させた。しかしその中に、吉本は含まれなかったのである。なぜなら、吉本の研究資料が見つからず、また、仲間の取調べでも名前が上がらなかったため助手として扱われ、そのまま丸裸で焼け野原に放り出されてしまったからだ。

しかし何も研究していなかったというと、そうでもない。頑固者で、仲間との共同研究を拒み、一人で黙々と研究を続けていた。上官の命令に従わない研究隊員がお咎めを受けず、陸軍に拘束されなかったのは、研究所にとって欠くことのできない存在だからでもある。実は、吉本の研究内容はトップシークレットの研究だった。秘密が外にばれると非常にまずいことになった。

研究のテーマは酒だ。日本酒でも焼酎でもない。得体の知れない酒だが幻というわけではなく、思う存分に飲むことができる。食糧危機の戦時中に穀類を使わず、いかに良質の酒を大量生産するか……。

所内では「悪魔酒」という愛称で呼ばれ、名目上は生物兵器になっていたが、いつのまにか下戸以外の隊員全員がこの酒をたしなむようになっていた。一度飲んだらまた欲しがり、二度、三度と重ねるうちに止められなくなる。アルコール中毒ではない。酒の配給は断たれ、研究隊員たちはそれまでエチルアルコールを水で薄めて飲んでいたが、仮に対抗馬が年代物の超高級ウイスキーであっても物足りなくなってしまうほど、悪魔酒には後を引く美味さがある。

吉本は、この誘引効果を拷問やスパイ活動のツールに応用する研究をしていたというが、仲間たちにとってはそんなことなどどうでもよく、自ら進んで被験者に加わった。捕虜を使って生体実験を行う前には、どうしても酒を飲みたくなる。そんなとき、手っ取り早く飲めるのが悪魔酒だった。また、生体実験に供される捕虜たちを大人しくさせる手段としても、悪魔酒は有効だった。ところが、悪魔酒には単なるアルコール以上の依存性があった。

止められないのである。麻薬と変わらない。しかし、吉本が進駐軍により放逐されたため、酒を断たれた全員に阿片中毒様の禁断症状が現われた。身体中に無数の虫が這いずり回るような激しい感覚で、しまいには皮膚を食い破って外に出てくる。幻覚ではあるが、これが現われると通常の精神状態には戻れない。彼らすべてが精神に異常を来たし、激しく悶えながら死んでいった。

 

当時、消えた吉本を必死に捜していたのが武藤である。武藤は下戸のために、酒の魔手から逃れられたただ一人の研究隊員だった。仲間たちの悲惨な病状を前に、救う手立てを知っているのは吉本しかいないと考え、必死に行方を追った。吉本自身が悪魔酒を飲んでいたので、無事に生きていれば治療法を心得ていたことになる。しかし、戦後の混乱期には人捜しも多く、自分が生きることに必死で誰もまともには応えてくれないような状況の中、最後の仲間ものたうち回って死んでしまい、捜す理由は消失した。

 

 

医師免許を持っていた武藤は、その後内科医となっていろいろな病院を転々とし、一年前に琴名町の町営診療所に赴任した。そして、先日あの中毒患者を診たのである。運ばれた患者は身寄りがなく、身体中から虫が出ていると叫びながら悶絶死した。武藤は死体を近隣の総合病院に運び、山田という外科医の助けを借りながら解剖を行うことにした。解剖の所見が、あの仲間たちと同じであることを密かに期待していたのだ。

案の定、アルコールで肝臓が肥大はしていたものの、これといった疾患を発見することはできなかった。しかし武藤は、あの当時の解剖は稚拙で不十分であったと後悔していた。精神異常が症状なら脳を見るのは当然だが、当時は脳についての知識が無く、頭蓋骨を切るのも仏に失礼と考え、開くことはなかった。その後、少しは脳味噌の知識も身につけたから、今度は開こうと思ったのである。山田は手馴れた手つきでドリルを回し、頭蓋骨の上の部分を円周状に穴を開けていった。それから穴と穴の間を乱暴に鋭利なノミと金槌で割っていく。死んでしまえばこんな手荒な扱いかと武藤は驚きながら、マンホールの蓋を開くようにして内部を覗き込み、顔を見合わせた。

「先生ですか、この冗談」と言って、山田は懐中電灯を頭蓋骨内に当てた。脳味噌も脳膜もない。脊髄のほうまで髄らしきものは一切見当たらない。

「僕は内科医だもの、こんな高等な芸当はできませんよ」

「ミイラにしようと思ったんじゃないの? ミイラの場合は鼻の奥から脳味噌を抜く。それを食べた?」

「バカバカしい。僕を疑っている?」

頭蓋骨の中はからんどうで、脳髄を抜いたやつがいたとしても、どこから抜いたのかが分からない。

「ヒントはありましたよ。僕はさっき気が付いたんだ」と言って、山田は死体を回して背中を見せた。尻の上の中央部分に小さな穴が開いている。

「ほら脊髄液を採る場所。ここから脊髄に針を入れて、バキュームをかけて吸い込んじまった」

「そんなことできます?」

「分かりません。でも、きっと尻尾まで脊髄も抜かれていますよ」

二人が首と背骨の骨を割って調べると、やはり髄はまったくなくなってしまっていた。

「面倒だな。先生でなくても、誰かがやった悪戯だ。あるいは、髄が大好物のバクテリアでもいるんですかね。どっちにしろ、このまま葬り去ったほうがよさそうだ。先生も、いらぬ嫌疑をかけられるのは嫌でしょう。脳味噌を食っちまったなんて……」

「疲れますな、その冗談。しかし、トラブルはもっと疲れますからな。先生のご一存でよろしくお願いいたします」と武藤は、ニヤリとした下卑たわらいで礼を言った。 

 

帰宅の車の中で、誰がこんな悪戯をしたものかといろいろ考えたが、武藤にはまったく思いつかなかった。死体は武藤の診療所の一室で夜を明かした。しかし、部屋にはしっかりと鍵をかけ、その鍵の場所を知っているのは武藤と看護師ぐらいだった。ひょっとしたら看護師が……、と思って武藤は大きく横に首を振り、ガムを口に放り込んだとき、昔のあの一シーンを思い出したのだ。

「まあチューウィンガムでも噛んで、忘れなさい」

進駐軍の軍医からガムをもらった武藤は、口一杯に広がる強烈なハッカの香りで覚醒し、軍医の診断を冷静に受け入れた。軍医は、神経衰弱による幻覚だと診断し、武藤の言うことを取り合わなかった。仲間の死水を取り、死体を前に連夜の看病疲れからうとうととし始めたとき、ちょうど死体の尻のあたりから青白い液体が一筋の流れとなって流れ出し、床の節穴から床下に落ちていく幻覚を見たのだった。武藤は驚いて立ち上がり、液体に目を近づけた。それは液体ではなかった。体長二センチほどの線虫の大群だった。

「バカバカしい」

武藤は声を立ててわらい、霞のような思い出の首根っこを掴んでパンドラの箱に押し込め、無理やり蓋を閉めた。しかし、箱が一度開いたからには、生きのいい記憶は飛び出してしまったあとで、自由勝手に浮遊しはじめた。きっとあの患者は悪魔酒を飲んでいたに違いない、ならば吉本も生きているに違いないと確信したが、すぐに否定した。これはあくまで仮説だから、科学的手法で証明すべきなのだと思った。死の床にある仲間たちのために、必死に吉本を探したあの情熱が体中によみがえるのを感じた。納得できる結果を得られなければ、死ぬまで悔いは残るだろう。

 

警察署に報告かたがた、死んだ男が泉中寺の墓守であったこと、住職が遺体を引き受けて通夜が営まれることを知った。武藤は看取った医師として通夜に出席した。そして、偶然のように吉本を発見したのである。当時は歳よりもずっと老けた感じがしたが、老け顔は老けないと言われるとおり、五十くらいになった今はかえって若く見える。法要が終わると、さっそく吉本に声を掛けた。

「君はいつまでも若いね。僕を覚えているかい?」

吉本は振り返り、赤茶けた血管が張り巡る白目を武藤へ向け、しばらく凝視してから吐き捨てるように言葉を返した。

「覚えているさ。めっぽう酒に弱い男だ」

「そうだ。君の酒に飲まれなかったただ一人の下戸さ。おかげで僕はここにいる。君はいまだに悪魔酒を造っているんだろ?」

「どうしてそんなことを聞く」

「今日の仏は僕が看取ったんだ。死んだ仲間たちの症状と同じだ」

「警察に訴えるかい?」と言って、吉本は皮肉っぽくわらった。

「いいや。しかし、悪魔酒については非常に興味があるね。もし、君が研究を続けていれば、ライフワークの研究に違いない。だいぶ進展したんだろう。しかし、いまだに秘密主義かよ。この世の中で悪魔酒のことを知っているのは、君と僕だけかい?」

「さあね。で、何がお望み?」

両の白目は怒りでどす赤く変色し、「いくら欲しいんだ」と続けた声も震えている。

「金なんか興味ないね。研究の内容を知りたいだけさ。あれは一応、殺人兵器として研究していたんだろう。この平和な時代に君はいまだに兵器の研究を続けている。興味津々さ。恐らく君はテロリストだ。面白い。なんだったら、助手を引き受けてもいい。君のような優秀な学者が一生かけて没頭している研究なんて、面白そうじゃないか。断ったっていいぜ。酒は非売品なら罪を問われることも……」と武藤が滑らかな口調で続けようとすると吉本は遮り、「分かった分かった。こういうことも覚悟していたさ。ところで君は、なんであんな殺人研究隊に志願したんだ?」と切り返してきた。武藤は返答に窮した。

吉本はニヤニヤと笑いながら、「同じ穴の狢さ。英雄気取りの狂った連中だ。隔離された敷地内に長い間一緒に暮らしていたんだ。俺は君の性格も、性癖だって知っているさ。君はサディストで男色だ。俺は単なるサディストさ。君のが一枚上手の卑劣漢だ。君は捕虜とだって寝たんだろう。それから、じっくりと殺しにかかった」と悪態を吐いた。

「言葉で人を刺す才能は昔と変わっていないな。しかし、僕は自分の趣味で志願をしたわけじゃない。祖国愛に燃えていたからだ。医学研究者は患者の命を救うために実験動物を犠牲にする。兵器研究者は、祖国を救うために実験敵国人を犠牲にする。どこにその差があるんだい? 人を噛む犬も、鉄砲を撃ってくる敵兵も、僕には同じに見えたのさ。高邁な使命感ってやつは、人間をグロテスクな怪物に変身させる」

「まあいいだろう。君の詭弁哲学は後でゆっくり聞くさ。分かった、明日から俺の助手にしてやろう。働き次第では、共同研究者に格上げしてもいい。そのかわり、今の仕事はきっぱり辞めてもらいたい。そして何よりも口を閉ざすことだ。沈黙は金なりさ」と続けて、武藤に右手を差し伸べた。

 

 

武藤が勤務医を辞めるにあたって、後任の医師が決まるまでに二カ月も要してしまったが、その間に吉本は世間体を配慮したものか、研究所としての体裁を整え、武藤を助手に迎え入れる準備を終えていた。まずは酒造免許を取った。次に、小屋の入口に悪魔酒造研究所と看板を掲げ、寺と研究所の敷地の間に柵を作り、境内を通らなくても出入りができる裏道を造った。費用はすべて寺が負担したといっても、研究にかかる費用も住職が払っていたわけで、檀家はそんなことを知る由もなかったが、騒ぎ出したのは目に見える柵が出現したからだ。檀家たちは境内の一部が売られたものと勘違いし、群れをなして寺に押し寄せたのである。ところが住職も吉本も落ち着き払って檀家の群れを本堂に招き入れた。そこには一斗樽が二つ置かれていた。

「今まで秘密にしておりましたが、実は地場産業の育成を考え、地元名産の酒を研究しておりましてな。このたびようやく良い味のものができまして、ちょうどいい機会ですから試飲をしていただこうと、ここにご用意いたしました」と住職。

「しかし、悪魔酒とはまたずいぶん大胆な名前を付けられましたな」と、振り上げた手の収めどころに窮した檀家総代は、にがわらいしながら言った。

「さあ、実際に売り出すとなるともっと良い名前を考える必要もあろうかと思いますが、ちゃんとした工場も建てなければならんわけですし、最短でもあと一年はかかろうかと思います。まずは試飲をしていただき、酒の味にはうるさい方々もちらほらお見受けしますから、忌憚のないご意見をうかがいたい。その前に、私がほれ込みました杜氏の先生をご紹介いたします」

住職によって吉本は紹介されたが、さんざん妙な噂を流していた檀家たちはまともに吉本の顔を見られない。吉本は薄笑いを浮かべながら、使用人たちに試飲の用意をさせた。すると堂内の緊張は氷解し、たちまち私語でざわつきはじめる。

「なんだ、どぶろくか」と、白く濁った酒を見た一人ががっかりした様子でつぶやく。最初は恐る恐る湯飲み茶碗に口を付け、少しばかり口に含んで舌の上で転がしたところで、一転ゴクリゴクリと。酒の喉元を通り過ぎる音が聞こえるほどに堂内は静まり返り、ピンと緊張した異様な空気の中で檀家たちは次々に茶碗の酒を飲み干した。

「もう一杯」としわがれた老女の声がした瞬間、いたるところから「私も」「俺も」という声が立ち、今度は騒然とした光景に急変した。使用人たちは忙しなく給仕に追われ、二つの樽はたちまち空になった。追加の樽が運び込まれてからはもう止まらない。ご本尊を前にして、飲めや歌への大宴会が始まってしまった。そしてしまいには、全員がだらしのない格好で寝込んでしまったのだ。

「住職。これでうるさい連中も片がつきましたな」

「しかし、毎晩のように酒をせびりにくるかもしれん」

「だから早くに工場を建ててくださいよ」

「ご安心なさい。きっとこの方々が工面をしてくださるよ」

 二人は悪魔酒を茶碗に注ぎ、乾杯をした。

 

 その明くる日は武藤の初出勤日。境内で午前様の檀家たちと出くわしたときに、連中が悪魔酒を振舞われたことを知ったのだ。

「先生、お目が高いですな。なんで医者を辞めてこんなところに勤めるのかとみんなでいぶかっておったんだが、あの酒は地方の名産品になりますぜ」

 檀家集団の中にいたなじみの患者に声を掛けられ、武藤は頭から血が引いた。

「境内からは入れませんぜ。柵をしたんだ。お寺がどぶろくを造ってるなんて聞こえのいい話じゃない。門に戻って、右に行けば研究所の表示が出ていますよ」ともう一人。

これだけの人数が悪魔の酒に取りつかれた。吉本に対する激しい怒りが沸き上がったが、長年の医療で培った冷徹さで、ぐっと押さえ込むことができた。いやこれは吉本も指摘したように、秘密研究隊育ちの生まれ持った冷酷さなのかも知れなかった。一瞬、彼らのその後の経過を観察したい気持ちがよぎったからだ。武藤は、顔を赤くさせながら呟いた。

「落ち着け落ち着け。あいつは治療法も心得ている。僕の使命は、治療法を引き出して、あいつのやろうとしていることをぶっ潰すことだ」

 

 檀家たちと一緒に山門まで戻って別れると、しばらく砂利道を右方向に歩き、研究所の看板を左折して新しくできた緩やかな傾斜の小路を上っていく。急に刑務所のような高い壁が現われた。黒光りする真新しい鉄格子の門前に吉本が幽霊のように立っている。ようこそ奈落へ、とでも言いたそうな出迎えである。

「君は檀家たちに酒を振舞ったのか?」

「出くわしたのかい。連中は上機嫌さ」

「しかし、悪魔酒を飲めば悪魔に飲まれる」

「いやいや。結果は分からんよ。いずれにしろ、治験の検体が増えたということだな」

 吉本はふてぶてしい笑みを浮かべ、重い鉄扉を開いた。傾斜のある雑草だらけのだだっ広い庭の向こうに、粗末な小屋が建っていた。小屋の窓越しにこちらを覗う女の顔が見え、武藤は思わず釘付けになった。美しい女を妻にしたものだと感心した。吉本は小屋には向かわずに塀の内側の坂道を上り、塀にぶつかる生垣の隙間から墓地の中に入った。そこには、地面から突き出たピラミッド状の墓石らしきものがこちらを向いている。墓石は三メートルくらいの高さで、なぜか墓参道とは反対側に、緑青を吹き出した青銅の扉が付いている。武藤は憂鬱な気分になった。軍の秘密研究所を思い出したからだ。

「俺はここからは入らないんだ。家からも入口があってね。しかし君はここから入ることになる。鍵は預けるよ」

吉本は大きな鍵をポケットから取り出し武藤に渡した。武藤は鍵穴に鍵を挿し込んで、ガチャガチャと手間取りながらも、中途半端の深さのところで上手く回転させ、ギーッと音を立てながら重々しい扉を開いた。現われたのは地下への長い石段である。ピラミッドにでもありそうな重々しい大谷石の階段を見て、武藤は顔をこわばらせた。どうやら行き先は奈落のようだ。「恐がることはないよ」と言いながら吉本はニヤリと笑い、先に下りていった。

 

「ここらあたりは昔、石切り場だった。お寺だって、石を切り出した空洞の上に建てられているんだ。死体を安置する場所には事欠かない。どうだい。昔を思い出した?」

秘密研究所も銅鉱山の廃鉱跡を利用して造られた。この石段は研究隊員の出入口を模しているように見えなくもない。二人は狭く長い石段を下りていった。

「そういえば、君は地上に出ない男として有名だったな」

「それだけ研究に没頭していたのさ。いや、地下にいれば爆弾の洗礼を受けることもない。研究を邪魔する余計な雑音も聞こえてこない」と吉本。

「しかし、僕は地下生活には耐えられなかった。ときたま、地上の空気を吸いに浮き上がったさ。なぜだか分かるかい?」

「さあね……」

「あの腐臭さ。生体実験をした捕虜たちの死体が放つ……」と言いながら武藤は突然めまいを感じ、吉本の肩に手を掛けた。

「どうした?」

「いや、なんだか人間の腐った臭いを嗅いだような気がしたんだ。甘酸っぱい、あの耐えられない……」

「君はそれで医者か?」

吉本は声を立ててわらった。

 

しかし幻覚ではなかった。石段を下りるほどに腐臭が強くなっていく。石段を下り切ったところで目にしたのは、広大な地下墓地だった。青白い月明かりに照らされているようにうっすらと見える広間は、直径十メートル、高さ五メートルほどの円筒状で、高い所まで無数の横穴が整然と穿たれている。その一つ一つに青白く光る頭が見えるのである。それらの微光が照明の役割を果たしている。黒い髪、ごま塩、白髪、ふさふさとした髪、小さな頭、そしてハゲ頭を見たときに、ホール内の重く淀んだ腐臭にはそぐわない頭皮の艶やかさに、武藤は唸り声を上げた。

「どれも死んだばかりじゃないか!」

「そう見えるだけさ。死後五年以上の仏もいる。まあ、エジプトのミイラに比べれば新鮮だ。ここは身寄りのない仏の共同墓地さ。この寺では土葬が慣習だ。地下には戦国時代からの採石跡が縦横に張り巡らされている。壁はどこでも墓穴になる。だから俺は、ここに研究所を造ることにした。君、秘密研究所で俺が何をしていたか、まさか忘れたわけじゃないだろ。酒造りの前の仕事さ」

「ミイラ……」

 武藤は、吉本が死体愛好者と噂されていたことを思い出した。

「君。俺の研究はどれも取るに足らない趣味だと思われていた」と吉本は吐き捨てるように言った。

生体実験で死んだり、廃人になって薬殺された捕虜たちの死体は外に出すわけにもいかず、坑道の奥の奥まで運ばれ、竪穴に放置された。しかし、土を被せても腐臭が研究施設や捕虜の牢獄まで漂ってきて、これに悩まされた研究隊長は、その対策を一人の研究隊員に命じたのだ。同僚との協調性がなく、手を焼かれていた吉本である。酒の研究を始める前のことだったが、三カ月以内に臭いの問題を解決してみせ、研究隊長を驚かせた。隊長がその解決手法を聞いても「ミイラにすればいいのであります」とわらいながら答えるだけだったが、そのうち「あいつは捕虜の死体を自分の糞に変えている」という妙な噂が流れるほど太りはじめ、血色も良くなった。しかし誰も、殺した捕虜たちのたたりを恐れて、処理現場を確認することはしなかったのだ。

「俺は画期的な死体処理法を思いつき、あの研究所から追い出されずに済んだし、外地へ送られることもなかった。そして、死体処理の研究を酒造りに生かすこともできたんだ」

「ミイラづくりが酒造りに生かされるとは初耳だな」

「ミイラはウソさ。死体を腐敗菌でなく、乳酸菌で発酵させれば腐ることはない」

「しかし、乳酸発酵させたフナ鮨はひどい臭いだぜ」

「だからそれもウソ。死体を腐らせない妙案って何だと思う?」

「……」

「蛆さ。蛆に食わせちまえばいい。食い意地の張った蛆を品種改良で作る。肉が腐る前に平らげるような早食いの蛆だ」

「しかし、蛆はやがて蛹になり、蝿となってお空へ飛んでいく……」

「詩人だねえ。それなら、羽の生えないやつがいい。さて、君だったら何にする?」

「……」

「君は医者だが、俺は生物学者だ。秘密研究所の建てられた廃鉱は、特殊な環境だった。あんなに優秀な学者がそろっていたのに、誰も気が付かなかった。君も知らないだろう」

「特殊な環境?」

「俺たちはきっとガンで死ぬ。あの廃鉱は、非常に高い放射線に晒されていたんだ。銅の鉱脈の下には、きっとウラン鉱脈があったはずだ。」

「知らなかった……。少量のラジウムは金庫に保管されていたが、線量測定器はどれも壊れていたからな」

 すると、吉本は横穴の一つからガイガーカウンターを持ち出し、スイッチを入れた。ガリガリガリという不気味な音がホールに響き渡る。

「なんだよ。ここも放射能で汚染されている」

「そうさ。この地下の深くにはウランの鉱脈があるのさ。あの研究所と同じだ。しかし、恐がることはない。俺はこうして元気でやっている」

「冗談じゃないな。ひどい線量だ」

「まあいい。話を戻そう。俺は、死んだ捕虜たちを横に並べて、一体一体に懐中電灯を当てながら、死体の腐り具合を調べていた。そんなとき、君だったらどんなことを考える?」

「我々はしかし、研究のことしか頭にはなかった。実験で死んだ死体を解剖するのも日課だった」

「いやいや、俺は君よりももっと死体のことを考えるんだ。この世にオギャーと生まれてから、いったい何歳まで幸せに暮らしていたんだろう。恋人はいたのかな。なんの因果で爆撃部隊に配属され、焼夷弾を東京に落とさなければならなかったのだろう。おまけに、宝くじに当たるくらいに運悪く、オンボロ高射砲に被弾し、落下傘で降りたところを住民に捕まって拳固でボカスカ殴られ、あげくの果てには後ろ手に縛られ、実験動物としてここに送られてきたんだ。そんなことを考えるとひどく悲しくなり、いとおしくなり、添い寝でもしてやりたい気分になってくる……」

「正常と異常の境は、本当に添い寝をしたかどうかだな……」

「君は研究所で流れていた噂を知らないのかい? 俺が腐った肉を食っているという」

「本当に食ったのかい?」

「あれはデマさ。しかし君たちの罪償いとして、捕虜たちの家族に、せめてきれいな死体を見せてやりたいとは考えたのさ。それは、腐臭に悩まされていた隊長の意向にも合致する研究テーマだ」

「やはりミイラだ。その前に解剖で切り刻んだ肉片を縫い合わせる」

「違うさ。話は戻るが、俺は端から鼻を押し付けて、一体一体の腐り具合を調べていった。それぞれの死んだ日時と、腐臭の相関関係をまずは調べようと思ったんだ。ところが、一体だけ、まったく腐臭のしない死体があったのさ。しかも、死んだ日付は一番古かった。驚いて、そいつの顔に光を当てた。二十歳前後の若い白人だった。高い鼻の穴から、キラキラ光る白い何かが出てきたんだ。何が出てきたと思う?」

「蛆だ」

「と最初は思った。しかし、ピンセットでつまみ出してみると、それは蛆に似ていたが、蛆ではなかった。放射線環境で変異を起こし、巨大化した恐るべき生物」

そう言うと、吉本は死体搬送台を一番下の穴のハゲ頭に持っていき、手馴れた手つきで死体を引き出して搬送台に乗せた。横穴にはコンベヤのようなものが敷かれてあり、高い所の死体も小型クレーンで簡単に引き出せる仕組みになっている。

「こいつは熟し切っている。収穫時さ。さあ、君の経験から、死後どのくらい経っているかを当ててごらん」

五十くらいの小太りの男で、うっすら青白く光っているのは気持ちが悪いが、死んでいるようにはどうしても思えないのである。今にも目を覚まして、起き上がりでもしそうな生きの良さだ。武藤は恐る恐る、右の瞼を持ち上げた。「生きている!」と叫んで武藤は思わず手を引っ込めた。

「いいや、死んでいるさ」

「しかし、黒目が動いたぞ」

「死んでも黒目は動くさ。生きている証拠とは限らんのだよ」

「バカな。死んだ人間の黒目が震せんするわけがない」

「思い込みはいかんな。君は科学者の端くれだろう。死んだ人間は動かないというのは非常に非科学的だ。足の神経に電流を流せば、死んでいても足は曲がる」

「つまり組織が腐っていないほど、新鮮な死体だ」

「いいや。これは五年前に死んだ男の死体さ。証拠が見たいなら、死体の口を思い切り開けてごらん」

武藤はためらい、なかなか手が出なかった。本当は生きていて、噛み付いてくるかもしれないと思ったのだ。ひょっとしたら、こいつは殺し屋で、武藤の隙を狙って襲いかかるかもしれない。

「どうした。なにをためらっているんだ。君はそれでも医者か。死体を扱うのは慣れているだろう」と言って、吉本はうすらわらった。武藤はやけくそ気味にカバンからゴム手袋を出して手にはめ、死体のおとがいを思い切り下に引いた。そして、腰を抜かしてそのまま後ろに倒れ、尾てい骨を石の床にしたたか打ち付けた。

口から溢れ出したのは大きな線虫の固まりである。二センチ程度のものからミミズ大まで、無数の線虫がとめどなく流れ出し、首の両脇部分の板に開けられた穴を通って、台下に吊り下がるガラス容器に入っていく。線虫の頭がときたま光る。それは睨みつける視線を感じさせるほど不気味に輝いた。死体はみるみる空気を抜かれた風船みたいにしぼんでいく。あげくの果てにはシート状になってしまい、中身の線虫はすべてガラスタンクの中に納まってしまった。

「だらしがないなあ。腰を抜かしたのかい。君が死体だと思っていたのは、皮袋だったのさ。昔の遊牧民は、羊の皮袋に水やワインを入れて運んだものだ。俺は、人間の皮袋に線虫を入れて飼っている」

「線虫? 線虫にもいろいろある。寄生虫だって線虫類の一種だ」

「こいつらのルーツは洞窟の苔や植物の根に寄生する土中の小さな線虫さ。それが突然変異を起こした」

「キラリと光る目ができた?」

「アハハ、あれは牙さ。肉を食いちぎる肉食動物の牙だ。丸い口の周りに十本くらい生えていて、複雑な動きで肉を摘み上げてちょん切る」

「しかし、頭蓋骨も背骨も腰骨も、うまい具合に抜いたものだな」

武藤は腰を抜かしたまま、震え声で言った。

「みんな虫が食ってくれるさ。いいかね。死体は線虫の餌になるんだ。ハエが死体に卵を産みつけ、卵が孵ると蛆虫は肉を食って大きくなる。ちょうどそんなイメージだ。線虫が死体をほとんど食い尽くしたときには、死体は張りぼてとなる。この死体はもう用済みさ」

「どうするんだい?」

「昆布巻にして、どこかに放り投げる。千年後の人間がそれを発見し、千年前には首狩族がいたなどと嘘っぱちを唱える」と言って、吉本は紙のような死体を乱暴に台から引きずり下ろし、床に放置した。

「しかし、そのタンクの線虫はどうするんだ」

「想像がつかないのかね。君は科学者にはなれんな。すぐにピンとくるはずだよ」

「まさか……」

「そのまさかさ。これは米だ。俺はムシニシキと呼んでいる」

吉本は顔面蒼白になった。そうだ。あの酒の白さは、どぶろくの白さではなかった。蛍光塗料でも入っているように、艶々と光る。それどころか、暗闇では蒼白く発光した。喉を通る酒の流れが見えるくらいだった。いったい悪魔酒の原料はなんなのかと研究隊員たちの間でも取りざたされたが、吉本は決してばらそうとしなかった。しかし、原料もわからない酒をなぜみんなは平気で飲んでいたのだろう。研究所には、酒の原料となる穀物は一切入れていなかったのにかかわらずである。ひょっとしたら捕虜の死体かもしれないと、仲間たちは薄々気付いていたに違いない。知っていても止められないほど、悪魔酒に飲まれていたのだ。

 

 

武藤はふらつきながら立ち上がり、搬送台を押す吉本の後をついていった。観音開きのドアを搬送台で押すと、ギイーッという錆付いた蝶番の音とともにドアは開き、武藤はムッとするようなアルコールの臭いに襲われた。慌ててカバンからマスクを取り出し、口と鼻を防御する。

「酒を飲めんやつが酒を研究することもないだろう」と吉本は振り向いて嫌味を言った。

「しかし、キャッシュは浴びたいのさ」と武藤。

暗闇から蒼白く光る六つの楕円が浮かび上がる。右に三つ、左に三つ。一つ一つは明るさが異なり、激しく輝くものもあれば、しっとり上品に発光するものもある。真ん中に、柵の付いた板の橋が真っ直ぐ伸び、その上を吉本は進んでいった。

 醸造所は奈落まで深く掘り下げられ、輝く樽の表面積が分かるだけでその下は真っ暗だが、その円の大きさを見るだけでもかなり大きな樽を使っていることは確かだ。

「どうして、樽によって明るさが違う?」

「今運んでいる虫どもは、右奥の一番光っている樽に仕込むのさ。あの樽は今年から仕込み始めた。樽の中では腐肉を断たれた線虫たちが壮絶な共食いを始めているんだ。みんな興奮して激しく光る。仲間たちと戦い、食い合い、糞をたれ、その糞に酵母が取り付いて酒ができる。悪魔酒の原料は線虫の糞というわけさ。新たに虫を入れ続ける限り、この戦いは繰り返される。虫の供給をストップすると、最後の一匹になるまで生存競争は続く」

「そして最後の一匹は飢え死にする」

「いいや、そいつは救ってやる。何億匹との戦いに勝利した女王様だ。実戦で体は大きくなり、頭も良くなる。利用法はいろいろあるのさ。例えば、女王同士で繁殖させれば、心身ともに逞しい子孫が生まれるだろう。いわば線虫のサラブレッドだ。このガラス容器の中にもリーダーはいるかもしれない。見ててごらん」

 吉本は煌々と輝く樽のところで搬送台を止め、ガラス容器の横に付けられた蛇口をひねった。狭いところに閉じ込められていた線虫は、解放された気分で蛇口から勢い良く飛び出し、生き地獄とも知らずに醸造樽に落ちていく。容器の中の線虫はすべていなくなったと武藤は思ったが、よくよく見るとピンク色に光る長さ二十センチほどの蛇のようなものが蠢いている。パクパクと口を開け、輝く牙をちらつかせる。

「ほら、これが分隊長さんだ。こいつがいるといないじゃ大違いなのさ。こいつは、部下たちを統率する力があるんだ。死体の背骨を食って大きくなり、そこに鎮座する。部下の暴走を止め、部下が増えすぎるとそいつらを食べて調整し、死体をスリムに保つ。こいつがいないと、死体はハチキレちまう」

「このボスは樽に入れないのかね」

「こいつを入れたら、新しいボスは生まれない。この樽から酒ができるまでは三カ月かかるが、線虫同士が食い合いながら発酵して味を出すんだ。そして結果として新しいボスも生まれるのさ。最初からボスがいたら、美味い酒はできないさ。しかし、ボス同士を掛け合わせてボスの子孫をつくり、また新たなボスに仕上げていくのはこれからの研究だ。士官候補生はいくらあっても足りることはないさ。きっといろんな用途に使えるからな。用途開発はまだ先のことだ」

 

 武藤はあることを質問しようとして、少しばかりためらったが、思い切って口を開いた。

「ところでこの線虫だが。腐った肉ばかりを食って増えるのかね」

「いい質問だ」と言って吉本がニヤリとした顔が、樽の光を受けて浮かび上がる。

「雑食さ。蛆と同じだ。腐肉だろうが新鮮な肉だろうが、野菜だろうが果物だろうが何でも食らいつく。強いて言えば、人間の腐肉が一番の好物。そして、二番目は人間の新鮮な肉だ。肉を食うと凶暴になり、野菜を食うと大人しくなる。しかしどうしたわけか、ナスビを食らうと凶暴になる」

「人間の新鮮な肉にはどうやって食らいつくのかね」

 吉本はハハハと声を立ててわらい、「核心を突いてきたね」と囁くように言った。

「いいかね。これらのバケモノどもは、栄養不足の土の中では生きられない。図体はでかくても、直射日光に当たれば死んじまう極めて弱い生物さ。だから、ここから逃げ出して自然界を荒らすこともない。自然環境での繁殖は不可能なんだ。まるでお蚕様さ。しかし、唯一、社会を脅かす方法がある」

「悪魔酒だ」と、武藤は呟くように言った。

「正解だ。樽の中で、虫どもは死んで酒になるが、生き残るものはいる。そう、硬い殻で覆われた卵だ。悪魔酒には、目に見えないくらい小さい無数の卵が漂っているんだ。酒がうっすら光るのは、卵が光っているからさ。それは、口から体内に入り、頃合を見計らって孵化し、宿主の肉を食い始める。そう。まずは柔らかい脳味噌から」

「仲間たちの脳味噌は、線虫に食われてしまった。そして、次には体中の肉を食おうとし始めたときに、死体は荼毘に付され虫たちも焼き殺された。しかし君は、同じ悪魔酒を飲みながら、なぜか今まで生き延びた」

「答えは極めて簡単だ。虫下しを煎じて飲み続けていた。ザクロの皮を干したやつだ」

「そんな簡単な治療法を、なぜ仲間たちに伝えなかった!」

武藤は興奮して声を荒らげた。吉本はしゃがみ込み、青白い光を受けた悪魔のような顔を武藤に向けてシニカルにわらった。

「君はさっき、仲間の死体を荼毘に付したと言ったね。しかし君は、死体が実際焼かれるところを見たのかね?」

「さあ、記憶にないな」

「君は死体を送り、骨になって出てくるのを待った。俺はそのとき、君が次々と死体を運び入れた焼場で何をしていたと思う? 死体を焼く仕事さ。君は俺を探していたようだけれど、灯台下暗しだったな」と言って、「さあ、君に会わせたい者がいる」と続けた。

 

吉本はそのまま死体搬送台を押しながら、次なる石室に入って消えた。武藤は茫然としてしばらく立ちすくんでいたが、我に返って慌てて吉本を追った。最初は吉本の研究室と思ったが、中央に巨大な石棺が鎮座しているだけの何もない部屋だ。しかし石棺と思ったのは、血のように赤い花崗岩の解剖台で、死体が八体、無造作に乗せられ、手術燈で照らされていた。こちら側に足を向け、どれもその根元には男性器が付いている。武藤は周りを見回したが、放置された搬送台だけで、吉本の姿はない。

すると、どこからともなくデルフォイの神託みたいな声が聞こえてきた。

「俺が姿を隠したのは、君が興奮しているようだからだ。暴力は嫌いだし、殴られたくはないからね。軍の秘密研究所はもう遠い昔のことだよ。我々は、祖国を勝利に導くために、一丸となって殺人兵器の研究に没頭した。君たちに検体は必要だったし、自由にできたのは捕虜だった。しかし俺には大事な検体は与えられなかった。そう。用済みになった死体しかね。だから俺は、同僚を検体にしようと考えたわけだ。俺は死体を焼く仕事に就き、隊長から君の助手まで、君が運んできた同僚の死体を無縁仏の骨とすげ替えてかっさらい、解剖を行った。この解剖は俺にとって、戦後の研究の礎となるものだった。酒飲みの仲間たちには非常に感謝しているよ。さあ、君も懐かしい人たちに会いたまえ。そこに並んでいるのは、プロトタイプの線虫人間だ」

 

武藤は台の向こうに回りこんで、一体一体の顔を確認しながら嗚咽した。終戦直後にタイムスリップしたように、見送った仲間たちの死体がそこにあった。隊長もいる。毒ガスの研究をしていた山本もいた。炭素菌の研究をしていた横川も、米軍を皆殺しにしてやると騒いでいた川上も、捕虜に冷酷で武藤には忠実な助手もいた。まるで昼寝でもしているようだ。「なんていうやつだ!」と武藤は叫んだ。再び神託が聞こえてくる。

「君は入社試験不合格だ。君は社長に悪意を持っている。とても助手にはできないな。知っているぞ。君がこいつらの数人とできていたことをな。国辱ものだ。君は隊長ともできていた」

「嘘っぱちだ!」

「まあ、今となってはどうでもいいことだ。しかし、君のように同僚思いの人間は珍しいな。俺には異常としか思えないよ。他人の災難など、むしろ楽しいくらいだ。それで、君もここから出すわけにはいかない。お前が死ぬのを見るのが楽しいんだ。一番いい方法は、樽の中にお前を落として、飢えた人食い線虫どもの餌食にすることだ。さあ、懐かしい友が来たんだ。同僚の皆さん、目を覚ますがよい!」

すると仲間たちが、ゆっくりと起き上がりはじめたのである。ビックリして「ワアーッ!」と叫び、また腰を抜かした。逃げようとしても足に力が入らず、起き上がれない。そのうちに死体たちはどんどん立ち上がり、武藤を睨みつけ、武藤のところにやって来る。武藤は八人の死体に取り囲まれ、軽々と持ち上げられた。

「武藤君。久しぶりだな」と隊長が囁いた。

「喋れるんですか?」

「もちろんさ」と山本。

「僕をどうするんです!」

「さあね。吉本君の命令に従うまでさ」と川上。

「現在の隊長さんは吉本君なんだよ」と隊長。

 

死体たちは二列縦隊になって、丸太でも扱うように武藤を肩にのせ、醸造室に向かった。武藤は必死になって逃れようとするが、ブヨブヨとした肩の上で力を分散させられてしまい、成す術がなかった。そしてとうとう、激しく輝く樽の上にやって来た。

 「助けてくれ!」と叫んでも、石の巨大空間にむなしくこだまするばかりだ。死体たちは、武藤の体を片手で軽々しく持ち上げた。そのとき、死体たちの体全体がはちきれんばかりに膨らんだと思ったら、男性器がパン、パン、パンと風船でも割れるような音を立てて次々に破裂。線虫どもが滝のように樽の中へ落ち、死体たちはみるみる萎れていく。武藤は支えを失って掛け橋上に転がり落ち、弾みで鉄柵の隙間から奈落へ放り出されたが、運良く鉄柵に右手がかかって命拾いをした。しかし、線虫温泉での足湯状態になってしまい、プチプチプチと不気味な音が聞こえてくる。まるで、養殖場で争って餌を食らうウナギのように、線虫が武藤の足に食らいつき、革靴や靴下、ズボンの裾を食っている。武藤はワーッと悲鳴を上げ、遊んでいた左手で同じ鉄柵を掴むと、満身の力を込めて小太りの重い体を引き上げた。

 線虫も必死である。立ち上がると、両すねを数匹の虫が這い上がる感触がした。慌ててズボンを脱ぐと、青白く光る線虫が十匹程度、両すねにへばりついている。尻の穴を狙っていると直感した。靴やズボンを食いかじるくらいの乱暴者が、人肌に付くと穴を目指すのも不思議だが、最悪の危機を脱したからか妙に安心してしまい、虫どもを注意深く観察した。こいつらは人の皮を食わないようにできている。臆病な性格で、ヤドカリ精神を持っている。寄生する者は、寄生される者から常に守られて生きていける。だから、張りぼて状態になるまで、皮は食わないのだ。人の弱みに付け込んで強請り続けるやつらと変わらんな、卑しい腐った連中だと変なことを考えながら、ゆらゆら上ってくる光の筋を一つ一つ叩き潰していった。

 

 この作業に少々時間がかかり過ぎたようだ。最後の一匹を叩き殺し、頭を上げると、カタコンベの方から死体たちが二列縦隊でこちらへむかって橋を渡ってくる。逃げ道をふさがれた武藤はもう一度先ほどの石室に引き返すほか方法がなかった。石室に入ると再び吉本の声が聞こえてきた。

「どうだね、仲間たちとの再会を楽しんだかね。しかし君も運の強い男だ。どうしたんだね、ズボンをどこへ忘れたんだ」

「虫干しに出したのさ。ところで、僕をどうする気だ」

「酒造りには原料が欠かせない。ここでは君は人間ではないんだ。アウシュビッツのように、毛布や石鹸の原料になるのだよ。ここには監視兵はいないが、飢えた虫たちがいる。しかも、この研究所は、我々が昔働いていた研究所とは比較にならないほど出るのが難しいんだ。いろんな方向に穴が掘られていて、迷路になっているのさ」

「しかし、僕が家に戻らなかったら、まず疑われるのは君だぜ」

「君は家に戻れるよ。君は死なない。君の同僚のように動き回ることだって、話すことだってできるんだよ。確かにそれは君ではない。君の優秀な脳味噌は虫さんにすべて食われちまう。しかし、周りの者が君だと思えばそれでいいじゃないか。世の中、人様があって君がある。人様思うゆえに我ありさ。君の価値は人が決めるんだ。ほら、先輩たちがやってきたぞ」

 張りぼて死体たちが、ドアを蹴開けてなだれ込んできた。武藤は悲鳴を上げて走り、反対側のドアまで行って思い切り開けるとそのまま飛び込んだ。しかし急勾配の下り階段だった。高低差十メートルをコロコロと転がりながら、再び石の床に叩きつけられ、ボキッと無気味な音がした。満身創痍になりながらも意外と元気に立ち上がるのは、恐怖心のおかげに違いない。遊園地のお化け屋敷にでも紛れ込んだような暗闇。いたるところから、プチプチプチ、キイキイキイとか細い音が聞こえ、ホタルのように薄ぼんやり光っては消える。あの醸造所よりは大人しいが、周りに線虫がうようよしていることは確かだ。

 武藤は片足を引きずりながらあてどもなく歩き始めた。すねとふくらはぎの上から下へ伝わるものを感じ、ヒャーッと叫んで思い切り叩いた。激痛とともに手のひらにべっとり生暖かい液体が付いた。虫ではなく血が流れている。きっと線虫どもは血の臭いに敏感に違いないと怯え、歩きながら足を擦っては流れている血を掬い取って口に入れた。

 

「意外と頑丈だね。プロレスラーなみのタフガイだ」と、吉本の声が追いかけてくる。

「ここは何をする場所だ」

「日本酒で言えば、原料となる米を栽培しているところさ」

「というとここも死体置場か」

「そういうこと。原料あっての製品だからね。死の谷は大きいほど商売はうまくいく。研究者にとっては恐るべき矛盾だな君」

 突然、施設全体に青白い照明が点され、武藤はその広さに愕然と立ち尽くした。大型爆撃機が数機入るくらいの巨大倉庫に、荒削りの木材を使った五段ベッドがジャングルジムのように組み立てられている。ほとんどが空で、所々に死体が寝かされ腐臭を放っている。

「ここは死体の強制収容所だ。君に見せるために照明を強くしたが、本来は暗闇にしておく。虫は光が嫌いなんだ。いまはすかすか状態さ。満杯にするには、全国から死体を集め、機関車で運んでくる必要がある」

「まるでナチだな。悪夢のような話だ」

「いいや、悪夢じゃないよ君。俺は嫌がる人間を無理やり引っ張ることはしない。死体からここに来させればいい。自由意志さ。住職と私の夢はね、この寺を日本の名刹に押し上げることだ。信者で賑わい、寺の名物の悪魔酒をお土産に買って帰る。悪魔酒にはまた行きたいという誘引効果があるのさ。そのうち悪魔酒の中毒になって脳は侵され、死期が近づくと遺言にこの寺に埋めてくれと書き遺す。仏を受け入れてここに納め、線虫を飼育して悪魔酒を製造する。これは永久に儲けが膨らんでいく持続的発展の循環サイクルだ。もうすぐこれらのベッドは屍で満杯になる」

「ここらあたりで奇妙な病気が流行っているって噂になって、国も調査に乗り出すさ」

「君さえバラさなければ大丈夫さ。そして君は決してバラさない。なぜなら君は、ここにいるからだ。さあ、線虫ども。このオジサンに濃厚なキスをしてやりたまえ。口と口をドッキングさせ、線虫を体内に送り込んでやれ!」

するとベッドのあちらこちらから死体が起き上がり、視線を一斉に武藤に向けた。武藤は叫び声を上げ、足を引きずりながら走りはじめたが、前方のベッドから手がたくさん伸びてきて行く手を阻もうとする。こん棒で叩かれるわけではないが、首でも引っ掛けられたらたまったものではない。しかも数体が通路に降りて、待ち構えている。踝を返して後ろを振り向くと、三メートルのところに死体が降り立ちこちらへ向かってくる。とっさに武藤は、ベッドの下に潜り込み、匍匐前進で這いずり回る。ベッドの上から手が出てくる。突然、どこから出てくるのかも分からない。しかし、相手も分からないはずだ。いや、向こうは武藤の血の臭いをかぎ分けているに違いなかった。武藤はネズミを考えた。危険を察知したネズミは、人気の無くなるまで、動かずにひっそりしているものだ。しばらく動かないで様子を見よう。武藤は死体のようにピタリと静止し、息を止めて通路の方に目を凝らした。

すると寄ってくるのである。大勢の足が、武藤の潜んでいるベッド群のところに集ってきた。やばいなと思い、どうしようかと考えていると、突然上から太い手が下りてきて、武藤の肘を掴んだ。万力のように締め付ける。武藤は悲鳴を上げながら手をガブリと噛み付いた。すると手の力は弱まり、その隙を突いて振り払うと、蛇のように体をくねらせながら猛スピードで壁際のほうへ這っていった。

 

壁まではどう見ても五十メートルはあるのだ。ベッドの下を覗き、手を差し入れて待ち構えているやつもいる。武藤は慌てて、小さな通路を匍匐で横切り、隣のベッド横丁に移動し、また壁を目指した。壁際に何かがあると期待したわけではない。ひたすらネズミを考えたからだ。ネズミは壁伝いに逃げ回る。

おそらく二十分くらいは逃げ回っていたはずだが、武藤には四、五分程度に思えるほど、無我夢中だった。ようやく壁際にたどり着くと、運の良いことに人の入れるくらいの排気口が開いている。しかも、ネズミもエサになるような施設らしく、ネズミよけの柵すらなくて、簡単に入り込むことができた。

モグラ穴みたいな換気穴だ。くねくねと曲がっていて急に上の方向に向かいはじめた、といっても真っ暗闇の中で、上下の感覚が保たれているかも疑問である。しかし、武藤にはこの穴がずっと地上に向かっていて助かるような気がしたのである。そうしてまた十分ほど匍匐前進してから、とりあえず命拾いしたことに安心したものか疲れがどっと出てきて、全身の力も抜けてしまい、しばらくの間体が動かなかった。このまま寝込んでしまいそうだと思った矢先に、アヘアヘと女の淫らなうめき声が聞こえてくる。驚いて目を覚まし、そのまま進んでいくと分岐点があって、左の穴の奥から光が差し込んでいる。武藤は興味津々左折して、猛スピードで匍匐前進を開始した。

 

ところがとたんに頭をゴツンとぶつけた。横穴といっても一メートルもなく、穴は節穴程度の小さなものだった。どうやら部屋の下横に開いている穴のようで、藁が数本突き出ている。石の床にワラが敷かれ、その向こうに1本のロウソクが灯されている。女の太ももの上に男の毛だらけの太ももが乗っかっている。女のうめき声と激しい動きの中で、ときたま接合している二人の性器が影の中からうっすら浮かび上がる。そのとき、女の顔が一瞬見えた。美しい女だ。吉本の女房だと武藤は思わず呟いた。それにあの特徴的な坊主頭は住職に違いなかった。やはり噂は本当だった。住職と吉本の妻はできているのだ。ふだんは冷静な武藤も、性的な興奮が高まるのを感じ、ようやく落ち着いた呼吸が再び乱れ始めた。

 「待って!」と女が小声で叫び、坊主が横に退くのが見えた。女の体が回転し、痩せた女にしてはけっこう豊かな乳房が二つぶらついているのが見える。犬のような格好でこちらを向いているとすれば、ハアハア興奮した息を感じてバレたかなと思いきや、突然覗き目に激痛が走った。武藤はうめき声を上げて後ずさりし、そのまま本道へ戻って渾身の力で匍匐前進を再開した。硬いワラで思い切り目を突かれたらしい。通気穴に逃げ込んでいることが女房にはバレてしまった。しかし、女房は坊主と乳繰っていたのだから、亭主に告げ口するとは限らない。が、告げ口されれば万事休すである。

 すると、今度はかなりの角度で登りになった。この先は通気口に違いない。網が被せてあっても思い切り叩けばなんとかなるだろうと希望が湧き、武藤は疲れも忘れてがむしゃらに登り始めた。穴は一直線である。遠い先に地上の光が見えるようになった。武藤は左目を瞑り、突付かれた右目だけで見てみるとまったく見えない。あふれ出てくる液体も、涙なのか血液なのかも分からない。いや、小さな覗き穴の真ん中を突いてきたからやばい部分だし、そんなところに血管はないのだから、眼房水と涙の混じったものだろうと推測した。通気口まではかなり遠いが、ゴツゴツザラザラした岩肌の突起を掴み、動く方の足を掛けながら、まるでロッククライマーのように手馴れた要領で登っていった。火事場の馬鹿力とはよく言ったものだ。

 

 通気口がだいぶ大きく見えるようになると、大勢の声が聞こえてきた。一瞬、あの沈黙の軍団を思い返し、声を発している集団は少なくとも人間には違いないと考えた。連中にたとえ線虫が寄生していたとしても、肉も骨も食い尽くされているわけはない、と少しばかり安心した。とうとう通気口までたどり着くとそこにはやはり、鉄の網が被せられていた。畳に座った人の横から、角隠しが目に入った。新婦は武藤も診たことのある近隣の娘である。新郎の顔も見覚えがある。寺が数年前に始めた結婚式場であることが分かった。本堂の仏像前で式を挙げた後、この宴会場で酒宴が始まる。中居たちが次々に一升瓶を運んでくる。蛍光を発する白色は、一目で悪魔酒であることが分かった。

「飲んじゃいけない!」

武藤は渾身の力を込めて網を叩き破り、中年女の大きな尻に鼻をぶつけ気絶した。驚いた女が尻を浮かせて放屁したのである。

 

 

武藤が目を覚ましたのは、あの患者を解剖した地域の総合病院だった。二日間も意識を失い、右目には眼帯、左足にはギブスがはめられている。看護師から意識を取り戻したことを聞いて、山田が駆けつけてきた。

「しばらくは片目で生活しなきゃなりませんね。左足首は単純骨折」

「不思議だなあ。骨折しても元気に動いていましたよ」と言って、武藤は笑った。

「いったい、あの寺でなにがあったの?」

「こんな状態で本当のことを言っても信じないでしょう」

「それはそうだ。二日間も寝ていれば、夢の話も現実味を帯びてくる」

「しかし、一緒に解剖した仏さんの死因を訂正したいと言ったら?」

「バキュームで髄を抜いた話? ところで、あれから十体ほど、同じ所見の死体を解剖しましたよ」

「本当かよ!」と武藤は調子外れな声を上げた。

「しかも、全員が土葬にしてくれと遺言している。ここら辺の寺で土葬は泉中寺だけだ。そして、先生も寺の敷地内に就職した。これは何か因縁のようなものですかね」

「また解剖しますかね?」

「今日、あと一人解剖します。でも先生、その体じゃ無理でしょう」

「いや、リハビリは早いほうがいい。見学くらいさせてよ。疾病の原因を話すから」

「まさか、新種の病原菌じゃないでしょうね」

「虫だと思います」

「虫か。なら詳しい女医がいますよ。世界中の寄生虫を研究しているんだ。参加させましょう」

 

解剖は音羽という若い女医を加えて、夜の九時から深夜を過ぎるまで行われた。やはりすべての髄が抜き取られていたが、線虫の痕跡はどこにもない。しかも、前回の患者と違って脊髄注射の跡すらなかった。

「最初の患者以外は外部に穴すらなかったし、背骨自体にも損傷はなかった。なのに髄は抜き取られている。おそらく融けて、リンパ液に運ばれちまったんでしょうな。とすると、細菌かウイルスだ」と山田。

「いいえ、虫です」と武藤は反論した。

「でも、私の経験から言うと、どこにも虫の痕跡はありません」と音羽

「どこか特定の場所に潜んでいるということは? 虫は明るいところでは生きていけないでしょう」

武藤は音羽を見つめた。マスクを付けていると美人に見えるが、素顔はきっとそれほどではないだろうと推測を立てた。

「普通は体のどこかにいるはずです。組織を取って、顕微鏡で見なければ分からないほど小さな虫かもしれません」

「組織検査は何回もやったよ。しかし、虫も新種の細菌も見つからなかった。可能性があるとすればウイルスだ」

「僕が知っているのは体調が二、三センチ、あるいはもっと大きな線虫」

「それは絶対いないわ。断言します」と音羽は言い、山田と顔を見合わせてわらった。町医者がバカなことを言っているといった顔付きだ。

「だから考えてよ。先生はアフリカに行っていろんな虫を見たんでしょ?」

「恐い虫はいろいろ見ました。体中を這いずり回って肉を食い荒らすような虫もね。でも、痕跡は必ずありますわ」

 

「おいちょっと見て!」と山田が叫んだ。

「どうしました?」と音羽

「いや、思い違いかもしれないが、いつも最初に背骨を開く部分がきれいに前の状態に戻っている。死体の骨が再生する? しかも、なんか骨がテカテカ光ってないかい?」

「そういえば、背骨も肋骨も腰骨も、いやにツヤツヤしてますね。学生時代にお世話になった安手のプラスチック模型みたい」と言って、音羽が背骨にメスを突き当てると、ズブリと刺さって青く光るゼリー状の汁がピュッと出てきた。

「骨の部分に思い切り光を当ててください。それから出口の反対側に逃げましょう」

「なんですか? いったいどうしたんです?」と言って音羽は光を当てた。

三人が壁際に逃げると同時に、死体の骨たちがみるみる融け始め、死体から流れ出した。線虫どもは激しく発光しながら解剖室のドアの隙間から廊下へ逃げて行く。白い流れがなくなると、死体には頭蓋骨も背骨も腰骨も手足の骨も、骨という骨がなくなっていた。山田と音羽は腰を抜かして床にしゃがみ込んでいる。どうしてみんな腰を抜かすのだろうと武藤は思い、おかしさがこみ上げてきた。

「いったい何だよアレ?」と山田。

「あれが真犯人です。巨大な線虫の群れ」

「昆虫の擬態は知っていますけれど、寄生虫は初めてです」

「元々土の中の虫だから、光にはめっぽう弱い。だから光を当てられて耐えられなくなったんでしょうな」と言って構造躯体を失った哀れな死体を前に、武藤は二人にことの経緯を話した。ところが話しているうちに、分隊長さんのことを思い出したのである。

分隊長さんはどうしたんだろう。見かけていないな」

分隊長さんとは?」と山田。

「この体の線虫どもを統率していた二、三十センチほどの線虫で、ほかの奴らとは違い太くてピンク色に光っています。いない場合ももちろんある」

「そんなでっかいやつがいたら、最初から見つけてますよ」

「だから擬態かも知れないっていうことですよね。例えば肉に化ければきっと見分けは付きません」と音羽

「ピンセットでつまめば分かるんじゃない? 剥がれたやつが分隊長だ」と山田。三人は大きなピンセットを持って、武藤と山田は頭から、音羽は足から死体の皮膚や肉をくまなくつまみ始めた。そして音羽は両足を付け根まで調べ、袋の上に鎮座していた大きな包茎を不思議そうにつまみ上げた。すると一物はまるでサックのようにスポット抜け、驚いて思わず顔を近づけた瞬間、シャーッという甲高い音とともにマスクの上からツンと尖った鼻に食いついたのだ。キャーッという叫びで、ほかの二人は駆け寄り、食らいついた分隊長を必死に離そうとするが、ウナギのようにツルツルとくねり、なかなか引き離すことができない。五分近くは格闘しただろう。ようやく引き離して、山田が靴で踏み潰した。しかし、鼻の先五ミリほどは完全に食いちぎられてしまっていた。

分隊長を解剖して、組織を取り返そう」と山田。

音羽は医者らしくすぐに落ち着きを取り戻し、毅然とした態度で断った。

「いいです。シリコンですから」

 

 

 二人に警察関係は任せ、武藤は明くる夕方に退院して自宅で療養することにした。しかし、内心は怯えていた。線虫人間が再びやって来るような気がしたからである。しかし、悪魔酒をたしなんだ連中はすべて、線虫人間の予備軍なのだ。いったいこの町で、何人が悪魔酒を飲んでしまったのだろう。そうだ、こんなことはしていられない。俺にはこんな悠長なことをしている時間などないんだと発奮し、不自由な体で敷いたばかりの布団を、もう一度押し入れに戻した。ところが、家を出ようとした矢先、玄関のベルを鳴らす者がいる。ガラス窓から訪問者を覗うと、和服姿で菓子折を抱えたあの女であった。

 怪訝に思いながら、武藤はドアを開けた。

「どちら様ですか?」

「吉本の妻です」

「吉本君の奥さんですか。どうしてまたこんな夕方に」

「舞と申します。お見舞いとお詫びにまいりました。おケガはいかがですか?」

「いや、大したことはありません。まあ、よろしければお上がりください」

と言って、男の一人所帯に人妻を招き入れるのはいかがなものかと後悔したが、当の人妻は何の抵抗もなく上がり込む。舞の声には不思議な響きがあった。周囲が静かでないと聞き取れないくらいの微かな音だが、言葉を発する一瞬前にシャーッというスピーカーの雑音のような音が入るのだ。武藤は舞が持参した菓子折を開け、お茶とともに出した。

「それでお詫びというのは?」

「その、お目目。わたくしがストローで突いたんじゃございません?」

「いや、その」と武藤は赤くなって首を擦りながら返答に窮すると、「穴から出てこられたのが武藤さんだと聞き、悪いことをしてしまったと反省しております。いえ、単なる覗きかと思いまして……」と舞。

「確かに覗きましたが、悪気があったわけじゃ……」

「わたくし、見られたくないものを見られてしまったものですから、ごめんなさいね」

「いや、一週間もすれば治ります。で、見てしまったものは内緒にしておきます」

「困りますわ。そんないい加減なお約束」

「と言いますと?」と武藤は動揺して訊ねた。

「主人は恐ろしい人なんです。人殺しだって平気な人ですわ。あのことがバレれば、ただでは済まされません。だから口約束では困るんです」

「ならば、どうすれば?」

「私バカですから、口で説明するのは難しいわ。体で説明しますから、そこに座ったまま見ていてください」と言って、突然帯を解き始めた。唖然とする武藤の前で、舞はとうとう素っ裸になってしまった。

「ああら武藤さん。私を裸にしてしまってひどいわ。お巡りさんを呼びましょうか?」

「いや、そりゃ困るな。どうすりゃいいんだ」

「武藤さんって女に興味がないんですってね。本当かしら。私そういう男の人を見ると、無性に挑戦したくなるの」といって、舞はちゃぶ台を足で蹴り除け、武藤に飛びかかった。その勢いで武藤は後ろに倒れ、障子の敷居に後頭部を強か打ったが、舞はそんなことお構いなく口を合わせ、舌を突っ込んでくる。エエイままよ! と観念して早々に抵抗をあきらめ、いつも通りにされるがままの受身姿勢を取るべく、全身の力をスッと抜いた。

 ところがこれが人生最大の油断であった。舞は口を合わせたまましばらく楽しんでいたが、スキに乗じて武藤の体の上に全身を乗せ、ズボンのチャックを開いてまさぐっていた手を急にスッと上げて武藤の腕に合わせた。舞の顔も体も手足も、武藤のそれらの上にピタリと乗っかり、鋳型のように合致させた。武藤の恥骨と舞の恥骨がぶつかり合い、武藤の胸と舞の乳房がブヨブヨと震え合った。こんなに大きな女だったかしらといぶかりながらピッタリ合わさった舞の両の目を見つめると、目と目の間隔が見る見る離れていく。同時に口が大きく広がっていき、武藤の鼻まで飲み込んでしまった。体も手足も、とろけたキャラメルのようにフニャフニャになり、とうとう武藤の体をスッポリと覆ってしまった。

息ができない。身動きが取れない。ガリバーでも息はできたじゃないか。このまま窒息死か……、と声も出ないまま叫びながら意識が朦朧としてきたところで、どこからともなく吉本の声が聞こえてくる。

「大丈夫だよ。君は虫さんの餌だもの。まだ死なせないぜ」

 そのとき、舞の鼻がグニャリと潰れて、武藤の正常な左目と舞の歪んだ片目が接触。武藤はその大きく広がった瞳孔を通して恐ろしいものを見たのである。それは、青白い光を発しながら蠢いている無数の線虫だった。

「やめてくれ!」と心の中で叫びながらも、舞の唾液とともにドッと流れ込む線虫どもをむなしく受け入れた。線虫は武藤の舌の上をくねくねと流れ、螺旋を描くように食道を進み、胃袋の中に落ちていった。武藤は酸欠状態のまま意識を失った。

 

 小一時間ばかり過ぎてから、武藤は意識を取り戻した。すでに舞はいない。悲鳴を上げながらトイレへ駆け込み、口の奥に指を突っ込んで嘔吐した。出てくるのは胃液のみ。すでに線虫どもは小腸に引っ越した後だった。きっとその後は腸壁を食い破り、背骨に小さな穴を開けて脊髄を食い荒らすに違いない。武藤の線虫化はスタートを切ったのだ。武藤はサイレンのように悲鳴を上げながら松葉杖を突いて家を飛び出し、薬屋と漢方薬屋に向かった。多量の虫下しとザクロの皮を買い占め、家に取って返してまずは三倍の量の虫下しを飲み込んだ。それからザクロの皮を煎じて、これまた一リットルくらいをがむ飲みしたが、激しい胃痙攣を誘発。あまりの痛さに耐え切れず、全部吐き出してしまった。武藤は、涙ながらに自分での処置をあきらめ、救急車を呼んで出てきたばかりの病院に戻った。

 

 病院では、鼻に大きなばんそう膏を貼り付け、マスクが手放せなくなった音羽が治療に当たった。どうやら昔の鼻の高さに戻ったようだ。山田は、新しい風土病として学会に発表するため、執筆の最中だった。時間がないと焦る武藤に対して、山田は反論した。

「研究者の立場としては状況証拠だけでは実証されないし、学会からは相手にもされません。水俣病だってイタイイタイ病だって、医学界の常識になるには相当の時間を要している。我々が悪魔酒の恐ろしさを証明するには、悪魔酒に含まれる線虫の卵を孵化させ、その線虫が人体にどれほどの悪さをするかを証明しなければならない。しかし、僕は悪魔酒すら見たことがないんだ。闇雲に騒いだって、脱線三人組だと笑われるだけですよ」

「しかし、これはあきらかに酒を介した伝染病だ。しかも、狂った人間が目論んでいるテロです。僕もあいつも、戦争中はお国のために殺人兵器を研究していた。しかしやつは、目的を失った戦後も何かのためにずっと研究を続けてきたんだ。金のためであるわけはない。自分の力で社会を管理してやろうという病的な欲望だ」

「被害を証明できなければ警察だって動けないでしょう。まずは酒だ。なんとしても酒を入手したい」

「悪魔酒ならここにありますわ」と言って、音羽は御神酒と書かれた紙に包まれた一升瓶を差し出し、紙を取り除いた。悪魔酒の不気味な発光色が武藤の片目に飛び込み、たちまち嘔吐感を催す。

「今朝からお寺の売店で売り出したみたい。長蛇の列ができていましたわ。一人一本しか買えない大人気。私の後は売り切れました。生産体制が追いつかないんですって」

「でかしたね。一本あるだけでも十分さ」と山田。

「次の発売日は一週間後の今日。来週は三人で並びましょうね」

「しかし、来週まで人間でいられるかは自信がないな」と武藤はうめくように言った。

「そうそう、武藤先生の治療を始めなきゃ。私たち、いい検査法を思いついたの」

「この線虫が自然界の放射線で変異した種であると聞いてね。それなら放射能を蓄積しているはずだと推測した」と山田。

「なら、最近導入したばかりの最新検査機器を使えば、線虫の居場所が分かるはずです」と音羽。それはガンマ線を感知する最新鋭のガンマカメラだった。普通の検査では、血管にわざわざラジオアイソトープを注入するが、武藤の場合は虫がアイソトープの代わりになってくれるというのだ。

「ということは……」

「そう。例えばこういうこと」と言って、音羽はテーブルに置かれていた放射線検出器の計数管を一升瓶にあてがった。するとメーターの針が少しばかり触れたのだ。

「これはあくまで予測ですけど、卵のうちはこの程度の放射能でも、成虫になれば自然界のラドンを取り込んで、もっと放射能が強くなるはずです」

「すると、線量計を持ち歩けば、相手が線虫人間であるかどうかの区別が付くわけだ」と武藤は興奮気味に叫んだ。

「さあ、僕にも当ててくれたまえ」

 音羽が恐る恐る計数管を武藤の腹部に押し当てると、ガリガリガリという激しい音とともにメーターの針が大きく振れた。

「驚いたな。虫に食い尽くされなくてもガンに食い尽くされる」と武藤。

「危険水域ですな」

「しかし、これは妙案かもしれない。寄生虫などと騒いでもお上は腰を上げないけれど、放射能汚染と聞けば敏感に反応する」

「お寺が御神酒に放射性物質を混ぜ、多くの参詣客が放射能汚染に晒される。これは立派なテロです」と音羽

「この際、手っ取り早く起訴して投獄することが第一と考えれば、警察が酒蔵に乗り込み、放射能を調査してそれで一網打尽だ」と武藤。

「しかし、悪魔酒の放射線の数値が微妙なところだな」と山田。

「少しでも針は動きますわ。酒は食品ですよ!」

「分かった。こちらのほうは、僕が解剖所見と放射線障害の広がり、悪魔酒との因果関係をレポートにしたため、至急県警と学会に報告しよう。音羽先生は、武藤先生を検査して、一刻も早く先生の体から線虫を駆逐する治療法を開発してくれ」と言って山田は部屋から出て行った。

 

 ガンマカメラによる検査で、今のところ線虫たちは消化器管内に留まっていることが確認され、武藤もとりあえずはホッとした。壁を食い破り、腹空内に出てしまえば、治療が難しくなることは明らかだったからだ。音羽は、今までの寄生虫研究で積み上げた知見を駆使してさまざまな駆除薬を組み合わせ、武藤に飲ませることにした。

寄生虫は有史以前から人間と付き合っているんです。だから、新薬よりも歴史のある薬草のほうがすっと効果があるわ」と言って、ザクロの皮をはじめ、イモリの黒焼き、ガマの油などを混ぜ込んだ煎じ薬を開発した。なかでも、アフリカから内緒で持ち帰ったわけの分からない草は、根っこの細毛を罠にして、小さな線虫の首根っこを捕らえて食べてしまうという優れもので、この根に含まれる物質は線虫を呼び寄せる能力を備えている。音羽は、線虫を集めて一網打尽にするという合理的な設計思想を持っていたが、武藤にとってはどう見ても魔女の秘薬にしか思えなかった。

しかし、これが効いた。武藤は病院の裏庭の芝に連れて行かれ、真ん中に穴の開いた丸椅子に尻を出して座った。下腹部は人に見られないようにシーツで覆い隠されたが、ときたま風でまくり上がる。椅子の穴の下は、そこだけ土が五十センチほど掘られている。入院患者が暇つぶしに集ってきてケラケラわらう。

音羽は、黒色した煎じ薬を一リットル一気に飲ませると、野次馬とともに五メートル先に避難した。武藤はそのまま二十分くらい座り続けていたが、そのうち激しい腹痛が始まった。腸の中で虫が騒ぎ出す。我先に小腸から逃れ、大腸に回り、結腸を上り、直腸を下降する。腹の中でネズミの運動会でも始まったような騒々しさだ。とうとう線虫どもは怒涛のごとく肛門から排出され、地面に掘った穴に落ちて地中に吸い込まれた。同じことを四日ほど続けただけで、線虫はほぼ消滅し、放射能も正常値に戻った。

 

「でも残念ながら、完全に駆除できたとは言えませんね。数匹でも残っていれば、また体内で増え始めるはずです。定期的に検査して、増えたらまた駆除する。残念ながら、それは一生続くかもしれませんわ」と再検査の画像を見て音羽は呟くように言った。

 

山田は山田で、十数体の解剖所見と放射能汚染、悪魔酒の検査による放射能の因果関係を報告書に認め、悪魔酒の販売日には三人で三本買って県の機関に提出することになった。ところが、新たに買い入れた悪魔酒は単なる濁り酒の色をしており、発光もしないし放射能の反応もまったくないのである。一本を開けて、先日入手した酒と比較したが、虫の卵は同じ数だけ漂っているのに、放射能を帯びていない。

「まずいな。カモフラージュされている。これで悪魔酒との因果関係は証明できなくなった。これじゃあ、単なるドブロクじゃないかで終わってしまう。ひとます報告書を書き直し、地域の放射能汚染だけで出すことにしましょう。それでも国が乗り出してくるから、醸造元だって勝手なことはできなくなるはずだ」と山田。

おそらく吉本の研究がワンステージ上がったのだと武藤は直感した。酒が放射能を帯びていれば、いずれバレてしまうのは明白だ。吉本は、卵から放射能を取り除く研究を行っていたに違いない。線虫は自然界の放射能を蓄積する性質があり、卵から孵った虫がどんどんラドンを取り込んで大きくなる。線虫人間に放射能がなくなることはないだろうと武藤は予測した。この能力を失ってしまえば、代を重ねるうちにどんどん矮小化して、最後には元の線虫に戻ってしまうはずだ。線虫人間は、これからも測定器の針をビンビン振ってくれるだろう。

三人は急きょ方向転換して悪魔酒を切り離し、まずは放射能汚染だけの問題で世間を騒がしてやることにした。全国から注目が集れば、悪魔酒の販売にもブレーキがかかるに違いない。武藤は少しばかり不安を感じつつも、ひとまずは退院して、家に戻ることにした。

 

 

 病院から戻ったときは、すでに夕方の六時を過ぎていた。武藤は近所の店で買った弁当をちゃぶ台の上に置き、お茶を飲もうとやかんの水を沸かした。沸騰したところで火を止めると、チャイムが鳴った。

「どなたですか?」

「舞です」

 顔から血の気が失せ、全身に戦慄が走って膝同士がガクガクとぶつかり始めた。震え声で「どんな御用です?」と訊ねる。

「ああら、白々しいわね。おんなじ虫仲間じゃございませんか」

「冗談じゃない。僕がなんで虫にならなきゃいけないんだ」と声を荒らげる。

「いいからさ。早く開けなさいよ」と、図に乗ってきた。

「開けるものか、バケモノめ!」

「まあ、女性に向かってバケモノだなんて。ショックだわ! これでもあなたの愛人なんだから」

「誰が愛人だ。女は嫌いなんだ。僕はゲイです。帰ってくれ!」

「お構いなく。さっさ、早く開けなさいよ。ドアを叩いて大声で怒鳴るわよ。テメエ乗り逃げかよ! 返してくださあい、私の青春!」

「絶対に開けるものか!」

「分かったわ。こっちにはいろんな手があるんだから。また来るわね」と吐き捨てるように言って、舞は去った。意外とすんなり帰ったが、毎晩来られたらたまったものじゃないと武藤は思った。

 

 その晩、武藤は怯えおののきながら電球を点けたまま寝床に入った。枕もとから玄関のドアをじっと見つめたまま目を離すことができない。あんな薄っぺらなドアは、一蹴りで開いてしまうだろう。また来るのではないかと考えると、恐くてとても眠る気分にはなれない。しかし疲れが溜まっていたので、夜中の三時頃にはうとうととし始めた。夢かまことか分からないような状態で、ドアと玄関のコンクリとの間の細い隙間から、なにかしら黒いものが入ってくるのが見える。それはドアを通り過ぎるとふわりと膨らんで、隙間風でさらさらと揺れている。髪の毛だ、と驚いて立ち上がろうとしたが、金縛りにあったようにまったく体が動かない。「そうだこれはいつもの夢だ」と武藤は心を落ち着かせようとした。ここのところ自律神経が失調気味で、夜中に金縛り状態になることがあった。だからこれは悪夢であると断言したかったし、信じたかった。

 しかし、夢にしてはいやに生々しい。髪の毛の下にはスルメ状態の顔がくっ付いて、玄関を通り抜けた。その下には首、そしてビロンと潰れた乳房が乳首をピクつかせながら通過する。ホタルのように光を発する線虫どもが、皮の周りにあふれ出ている。アリの大群よろしく舞の皮を一生懸命運んでいるのだ。

これは夢のわけがない。「助けてくれ!」と必死に叫ぼうとし、体を動かそうとするが、いつもと違って金縛りを振り切ることができないで、むなしくもがくばかりだ。心臓の鼓動だけがドキドキと高鳴り、今にも破裂せんばかりだ。

全身の皮のすべてが入り切ると、髪の毛が武藤の頬に触れた。こそばい感触がひどく生々しく、夢ではないと確信できた。

外に出ていた線虫の群れは、舞の股から、口から、耳から、鼻から、体内に戻り始めた。まるで空気入れでビーチボールを膨らませるように、女の裸体はどんどん膨らみ始め、ものの数分で美しい女体が現出した。

「こんな苦労までさせて。意地悪な人」と言って舞は起き上がり、しばらく見下すように眺め、おもむろに武藤に覆い被さった。

「せっかく悪い虫さんを入れてやったのに、追い出しちゃったのね。だったらまた入れるしかないわ。この前はキスだけだったけど。今夜は、もっと楽しいことしてあげる。線虫千匹って知ってる? 気持ちいいわよ」

 

 舞はやはり女型のように乗っかって体を密着させた。今度は窒息させようという気はないようで、口付けして舌を入れてきたまでは同じだが、鼻まで蓋をしようとはしない。ところが突然舞の体がバイブレータのように小刻みに揺れ始めたのである。気持ち良さを通り過ぎた激しい振動で、しだいにパジャマのズボンは下がり、上着のボタンは外れ、はだけていく。とうとう舞の肌と武藤の肌はじかに接して、気色の悪さはフェーズ七まで跳ね上がりパンデミック状態。

 ところが武藤の意志に反して、粗末な男性器はジャッキアップを始めたのである。「バカ息子メ!」と必死に諭すが、怖いもの見たさというか親の気持ち子知らずで、とうとう舞の穴に首を突っ込んでしまった。クネクネとした線虫が千匹、体をよじらせながら息子を出迎え、根元から切っ先まで上を下へのカオス的大サービス。そのこそばさに耐え切れず、ものの数秒で終わってしまい、力なく萎れ果てた。

 しかし、天国から地獄へ急転直下。今度は私が遊ぶ番よとばかりに、舞の反撃が開始された、イタタタタ! 突然息子に激痛が走る。サービス嬢たちが壁から離れ、一列縦隊になって武藤の尿道を膀胱に向かって登り始めたのである。それと同時に舞の口も酸素マスクのように大きく広がり武藤の口と鼻をすっぽり塞ぎ、舌伝いに線虫の大群が降りてきた。武藤は強姦されたオカマの惨めさで、むなしく涙しながら再び意識を失った。

 

武藤は明くる朝に意識を取り戻し、巨大に膨れ上がった陰のうと、骨折した片足に翻弄されながらも再び病院を訪れ、音羽の診察を受けた。

武藤の陰のうを見て、「まるでフィラリア症だわ」と音羽は驚愕した。

「武藤先生の場合はフィラリアの特効薬は効かないだろうし、消化器系と違って、泌尿器系はまた別の治療法を考えないといけないわね」

「すんません。いろいろご面倒をおかけして」

「しょうがないわね、悪い遊びばかりして。多少荒療治をする以外ない気がするわ」

「どんな治療です?」

「魔女の秘薬を直接尿道に注入する。淋病だって治るわ。ついでに、象さんのような袋に注射する」

「そりゃ妙案だ。しかし、痛そうですな」

「線虫人間になるよりはマシでしょ」

「分かりました。お任せしますよ。思う存分いたぶってください」

 

武藤は広い手術室に搬入されて中央の手術台に縛り付けられた。手術台は音羽の首ほどの高さに上げられ、股側の床には、コロの付いた台座の上に土入りのドラム缶が置かれた。山田と数人の助手、看護師たちが見守るなか、音羽尿道カテーテルを装入し、多量の秘薬を注入。ついでに陰のうに大きな注射を二本打った。「さあ、引いて」と音羽の号令がかかると、全員がドアのない壁際に避難する。

突然膀胱の中で、陰のうの中で、線虫どもがパニックを起こした。武藤の下腹部は跳ね上がり、乗せていたシーツが激しく踊る。尿道から線虫が滝のように流れ落ち、ドラム缶の土の中に落ちていく。しかし陰のうに入り込んだ線虫は、出口が見つからないらしく、袋を頭で叩き始めた。それが狸太鼓のようにポンポコ、ポンポコ音を放つものだから、観衆が一斉に笑い出す。しかし、内側から急所を蹴られたような激しい痛みに、呼吸も思うようにできず、額からは脂汗。耐え切れなくなって、「イテテテテーッ!」と叫んだ瞬間、袋のあちこちに穴が開いて、牛乳のように勢いよく線虫が流れ出し、袋はみるみる萎み始めた。

線虫の流れが途切れると、音羽は「蓋!」と叫ぶ。助手たちがドラム缶に蓋をして、手際よく手術室から運び出す。手術台は低くされ、今度は山田が陰のうの穴を縫合し始めた。縫合が終わると、武藤はストレッチで運び出されて裏庭まで連れて行かれ、また丸椅子の上に座らされて魔女の秘薬を一リットル飲まされた。

中世の拷問にも引けを取らない荒療治だが、完全のマイナスにはならないものの、ほとんどの線虫を駆除することができた。しかし、目と足のケガに加え、消化器系も泌尿器系も生殖系もかなりのダメージを受け、そのまま一カ月程度の入院が必要との診断だが、山田だけではなく、音羽までもがノーと言う。

「きっと病院にも舞さんがやって来るわ。病院はけっこう自由に人が出入りできるし……。他の患者さんに迷惑です」

「しかし、また家に戻ることもできない。といって、この町のことを考えると、逃げるわけにもいかない」

「とりあえず、家に戻ることですね。お気の毒ですけど、先生を受け入れる施設はどこにもないのよ。いずれにしても、ほかの患者さんに迷惑がかかることだけは避けなければ……」と音羽につれなくあしらわれた。

 

 

山田は町の放射線障害を県に報告した。国の調査団が四日後に現地入りするという。それまでは自宅で怯えながらひっそりしていようと武藤は決意し、霧吹き器に入った線虫忌避剤をもらい、ついでに放射能測定器を借り受けて、再び自宅へ戻った。

戻った早々、玄関先に隣人の熊倉が待っていて捕まってしまった。これから町内会が始まるから出席しろと言う。風邪で体の具合が悪いと断っても、大事な話なので十分ほどでいいから出てくれとしつこく勧誘する。武藤は仕方なく、荷物を玄関先に置いて熊倉とともに町の集会場に赴いた。

 

集会場ではすでに酒宴が始まっていた。テーブルには悪魔酒が十本ほど置かれている。町内会長の隣には寺の住職が法衣を羽織って座っている。嗚呼、彼らもすでに悪魔酒の毒牙にかかってしまった、と武藤は悲歎した。

「先生、こちらこちら」と町内会長が手招きした。武藤は松葉杖で他人の尻を突かないよう気を使いながら指定された席に着いた。

「先生はお酒に弱くて、お寺さんの酒蔵を一日で辞めなさったそうですな」と町内会長が言い、爆笑が沸き起こった。

「しかし先生もこの町の住人であるからには、悪魔酒の販売には協力していただかなければいけません。ご住職は、地域復興の切り札として悪魔酒を開発されたんですからな」と町内会長。

「いったい僕が何をするんです?」

「いや、これから皆さんがです、手分けしてやることはいろいろありますよ。ねえ住職」

「まずは下戸をなくすことですかな」と住職が言うと、どっと笑いが沸き起こる。

「いえこれは冗談。飲めない方に無理強いはしませんよ。お酒の好きな方は悪魔酒を飲んで、その美味さを味わい、全国に噂を広める。この地方に美味い酒ありということで、全国から引き合いが来れば万万歳だ。しかし、全国の需要に応じた供給体制がまだできておりません。原料が不足しておるのです」

「米ですか?」と誰かが訊ねると、住職は「米ではありませんが秘密です。特殊な原料でな。真似られてしまったらアウトです」と答えた。武藤は「原料は死体にわく虫ですよ」と答えたがったが、ぐっと我慢をした。

「で、皆さんは、この酒の評判を口コミで広め、お寺にいっぱい人が来るように仕向けてください。悪魔酒は当分の間、境内のみで販売します。一年後にはちゃんとした供給体制を整え、全国に一斉販売する。収益の半分は皆さんに還元いたします。坊主ウソつかない」と住職が宣言すると盛大な拍手が沸き起こった。

「しかし住職。酒造の免許を取られたんなら、原料も明記したはずでしょう」

と武藤は住職に訊ねた。

「明記しましたよ。しかし、なにもこちらから宣伝する必要はない。雑穀類ですからな。イメージが悪くなる」

「ナスだ!」と、酔っぱらった自営農の老人が声を張り上げた。

「境内にはいたるところにおかしなナスが植わっておるで。今まで見たこともないようなバケモノナスじゃ。高い棚からヘチマみたいにぶら下がってよ、風もないのにブラブラ揺れちょる」

「おじいさん。それはヘチマかタヌキのキンタマよ」と酔っぱらった孫娘が口を挟んだ。

「いいや。あれはどう見てもナスじゃ」と老人。

「さすが農業をやられている方はお目が高い。いかにも新種のナスビ。悪魔酒の原料です。しかし、品種登録が済んでいませんから境内から出すわけにもいかん。来年からはみなさんの畑で育てていただこうと思っております」

「みなさん。来年からは、畑はすべてナスビにいたしましょう。ナスビ以外を育てたら、腕をちょん切られて村八分だ。悪魔酒造りのために身も心も捧げることを誓い、また、町の繁栄を願って、町内会全員の血判をいただきます。みんなみんな億万長者になりましょう」と言って町内会長は懐から小柄を出し、太い巻物を紐解き、勢い良く転がし開く。人々が列をなし、次々に署名して親指を切り、血判を押していく。不衛生な状況だが、この状況で反抗すればたちまち村八分だと悟った武藤は、一人だけ足の包帯に指を入れ、乾いた血を擦り付けて巻物に押し付けた。町会長は、全員が押したのを見届けると親指を切って押し、締めは住職である。小柄に当てる力が強過ぎたらしく、鮮血が飛び散り、巻物を汚した。小柄の横から線虫が一匹クネクネと躍り出し、畳の隙間に逃げ込んでいった。

 

町内会の帰りに、酔っぱらった熊倉が素面の武藤を誘うのである。

「どうです。そのナスビとやらを一つかっさらってやりましょうよ」

「盗んでどうするんです?」

「金が絡むと仲間割れも起きますからね。一株だけでも盗んで栽培していれば、後々得することもあるでしょ」

「いいですね。ナスを盗んで、どこかで酒造りを始めますか」と、武藤は三本足で足手まといとは知りつつも、熊倉に付いていくことにした。線虫が人間以外にも食いつくことは知っていたから、ひょっとしたら、吉本はナスビを代替原料にできるものか研究しているのに違いないと思ったからだ。しかし今の時点では、酒類申請のためのカモフラージュではないかとも思えた。

 寺は安全上の問題という理由で、暗くなると門が閉ざされる。しかし、熊倉は寺に入り込むのは簡単だと言う。

「若い頃は空き巣をやったこともあってね。人様の家に侵入するなんて晩飯前なんだ」と熊倉は言って、腹の虫をグウと鳴らした。山門に着くと、熊倉は千枚通しのような道具で横の小さな木戸をいとも簡単に開けてしまった。

二人は境内に入り、塀伝いにナスビを植えているという畑の方向に向かった。日は暮れて月もなく、どんよりした雲が町の灯火を反射する微かな光がたよりである。しばらく歩いていくと、腐ったような臭いが武藤の鼻を突いた。武藤はビクリとして立ち止まり、震え声で「帰りましょう」と熊倉の袖を引っ張った。

「臆病ですねえ。ここまで来て引き返しますか……」

「いやな予感がするんだ」

「いいでしょう。お帰りください。僕は行きます」

「それじゃあ」と言って武藤が踝を返したとき、突然雲間から煌々とした月明かりが降り注いだのである。同時にいたる所からキューキューという虫の声が聞こえ、青白い光が次々に点灯して二人を取り囲んだ。いつのまにかナス畑の中に入っていた。高さが三メートルもある棚から、無数のバケモノナスがぶら下がり、一斉に光り始めたのだ。武藤はとっさに、ナスに巣食った線虫どもが、月の光に驚いて騒ぎ出したのだと判断した。

「気味が悪いなあ」と熊倉は悠長なことを言っている。

「逃げましょう」

「一つもぎ取ってからね」

 もう熊倉なんぞはどうでもいいと思い、武藤は足を引きずりながら逃げた。すると、ナスどもが揺れながら蔓を伸ばして武藤の頭に降りてくる。キューキューという音が耳元で聞こえてくる。額に当たる、頬に当たる。鼻頭に当たったナスの皮が破れ、線虫どもが勢い良く飛び出して数匹が武藤の鼻の穴から侵入した。グニュグニュと鼻腔を這い回りノドチンコの上を通って、食道に落ちていった。

 「ワワワワワーッ!」と武藤は、松葉杖を捨て、得意の匍匐前進を開始。ナスどもの蔓は延び切って、武藤の頭の数センチ上でビヨンビヨンと上下動を繰り返している。ざまあ見ろ! ほうほうの体でナス畑から逃れ安心した瞬間、背後から鼓膜を突ん裂く断末魔の叫び。振り返ると、蔓に巻き上げられた熊倉が棚の近くで小刻みに揺れ、手足はバタバタと虚しく遊泳している。四方八方のナスから青白い筋が流れ出て、熊倉に向かっていく。ギャーッ!という悲痛な叫び声も、口から鼻から肛門から流れ込む線虫によって、すぐにかき消されてしまった。

 

 

武藤はどうやって戻ったものか、気が付いたときには家の中にいた。警察に知らせるものかどうか迷った。二人でナスを盗みに行き、ナスに襲われて熊倉は食われた、などと主張したところで相手にはされず、業務執行妨害で留置されるのが落ちだ。見ざる言わざるで通したほうが無難だ、と決めたところでドアチャイムの音。

「どなたですか?」

「熊倉ですよ。一人で逃げるなんてひどいなあ」

「いや、ごめんなさい。ご無事でしたか?」

「なんとかね。少しお話ししたいんですが、開けてくれますか?」

 武藤は、熊倉の声が変わっているのを敏感に察知した。舞と同じく、シャーッという発音前の微かな雑音を聞き取ったのだ。

「いえ、今日はちょっと」

「ほんの数分ですから」

「いえ、具合が悪いものですから」

「いいから開けやがれ、コノヤロー!」と熊倉の態度が一変した。

 音羽から貰った線虫忌避剤をドアの隙間から外に向かって吹き付けると、熊倉は罵声を浴びせながら去って行った。武藤はさっそく電話で山田と音羽に知らせようとしたが、電話線が切られている。武藤は心細くなった。線虫どもは夜中にまたやってくるに違いないと思ったからだ。忌避剤を浸した雑巾で玄関ドアの隙間を塞ぎ、両手に忌避剤のスプレーを握って壁際に座り、今夜は眠るものかとコーヒーをがぶ飲みした。

 

 やはり、やって来たのである。建付けの悪い家だ。敵は忍者顔負けの芸当をやってのける。畳と畳の間から、射的の的のように薄っぺらな熊倉の顔が現われた。やみ雲に二丁拳銃で忌避剤を吹き付けると、そのまますんなりと引っ込んでしまった。まるで縁日の射的ゲームだ。

「こんばんは」

突然真後ろで女の声がして、武藤は両手をねじ上げられた。あまりの痛さに思わず忌避剤を二つとも落としてしまったが、それで安心したものか、強引に武藤をくるりと転がし、袈裟固めで攻めてきた。裸の舞だ。力が強く、まったく抵抗できない。

「いい加減にしてくれ!」と、武藤は泣き声で叫んだ。

「いい子ね。そんなに泣かないで。今日は換気扇の隙間からお邪魔しましたわ。こんなボロ家、どこからでも入れてよ。あなたの体だって、穴だらけ。もうあきらめて楽になりなさいな。今夜もたっぷり虫さん入れてあげる」

「分かった分かった。少し力を緩めてくれよ。虫さんをもらう前に、すこし聞きたいことがある」

「いいわよ、何かしら」と言って舞は武藤から体を離し、側に正座した。鼻の穴から興奮した線虫がポタポタと落ち、恥毛の森に消えていく。

「あんた、脳味噌だって虫に食われちまったのに、なんで喋れるんだ?」

「いい質問ね。あたし、単なる虫袋ですわ。だから何も考えていないの。あなたの声をお耳のマイクでキャッチして、本部に電送する。すると本部から電波が帰ってきて、刺激された虫たちが体を震わし、声になるのよ」

「なんだ、がっかり。ケツ振って音出すミンミンゼミかよ。あんたは単なる虫けらってわけだ」

「まあ、言ってくれるわね。言葉なんて必要ないわ。男と女の話なんて、半分は嘘っぱち」

「……ということは、僕は吉本君と話していることになる」

「そういうことだな武藤君」と、舞が突然男の声で喋り始めた。

「いったい、すでにこの町には線虫人間は何人いるのかね」

「悪魔酒を飲めば、一週間後には虫の卵が孵るから、もうだいぶの人間が線虫人間ないしはその予備軍さ。パンデミックだ。もう、悪魔酒なんて必要ないさ。虫人間が人間を襲えばいい。君はあまり夜の街に出ていないだろう。線虫は夜が好きなんだ。石を投げれば虫人間に当たるさ。もう俺にも制御ができなくなりつつある」

「悪魔酒が必要ないなら、いったい君の目的は何なんだ!」

「酒を売ってぼろ儲けをするのが目的でないことは確かだ。要するに人間が嫌いなのさ。嫌いな人間が増えすぎている現状は耐えがたい。君は知らないだろうが、必要以上に人間が増えると、質も落ちていくのが自然の摂理だ。おかめとひょっとこがどんどん増えてくるのさ。例えば、欲の深さ。周りに人間が多すぎると欲望が満たせなくなってくる。不景気になれば、食えない奴も出てくるだろう。そうなると、みんなバカになって騒ぎ出し、再び戦争だ。しかし、戦争はもうこりごりだろ。だから、バカを起こす前に、間引きをする。日本の人口を食糧事情に合った形態にする」

「なるほど。食糧を増やせなければ、人を減らす以外にない。極めて論理的だ。君はある種の平和主義者だ。それとも神様か?」と言って、武藤は皮肉っぽくわらった。

「君にとっては虫の好かん虫野郎さ。で、俺にとっての君だが、君は危険人物だ。どうでもいいことに首を突っ込みたがる、おせっかい焼きの人間さ。だから君にも虫になってもらう。異議はあるかね?」

「大ありだね。君のムチャを叩き潰すまでは、虫にはなりたくない」

「それはだめよ。体の中の小悪魔ちゃんが、出たがってうずうずしてるんだもの。もう止められないわ」と舞は再び武藤に襲いかかった。片手を忌避剤に伸ばしたが、手の届くような距離ではない。武藤はもうあきらめる以外に方法がなかった。

舞の身体が完全に武藤に乗っかり、その唇は武藤の唇にあてがわれる。ダリの絵にあるフニャフニャ時計みたいに、身体が見る見る柔らかくなって武藤の上でダラリと伸び始めた。しかし、線虫が出て行くのに武藤の体内には入ろうとしないのである。線虫は舞の口からは出ないで、下腹部から出ているようだ。武藤は力いっぱいに覆い被さる舞を撥ね退けると、舞は軽く跳ばされグニャリと畳に転がった。

下腹部から線虫どもが隊列を作って畳の隙間に消えていく。大慌てで逃げている感じだ。突然、舞の口から分隊長が飛び出し、蛇のようにシューシュー音を立てながら素早く便所の方に逃げていく。頭がいい。肥溜めの中に隠れるのだろう。武藤は助かったと胸をなでおろし、部屋中に異様な薬剤の臭いが充満していることに気がついた。シュッシュッシュッという音が玄関から聞こえてくる。誰かが鍵穴から霧吹きしているのである。玄関を開けると、音羽が立っていた。

「大丈夫でした? 心配して来てみたら、女の声がしたので舞さんかと思ってスプレーしました」

「助かりました。まあ、どうぞどうぞ」と言って武藤は音羽を家に入れ、「紹介します。舞さんの抜け殻です」と両手でペッタンコになった舞を摘み上げた。

線虫はパニック状態になったらしく、大事な住みかを残して消えてしまった。音羽は、足の部分をめくり上げながらしばらく触っていたが、つま先からクルクルと巻き始め、巻き上がったところで武藤が紐でぐるぐる巻きにした。

「一応これは死体ですから、警察を呼ばなければいけません」

「ご冗談。警官はきっと怒り出す。どう見ても空気を抜いた大人のオモチャだ」

「とりあえず放置しておきましょう。だれも死体だとは思わない。この家にいるのは危険ね。でも、外はもっと危険だわ。ここに来るまでに、暗がりの中で青白く光る顔を何人も見ました」

「で、僕はどうすれば?」

 音羽はしばらく考え、「私の家でよかったら」と答えた。

 

 

 音羽のアパートは、ちょうど町を挟んで武藤と反対側の町外れにあった。外へ出ると町全体が異様に暗い。広範囲の停電らしく、街灯という街灯が消え、家々の明かりもまったくない。窓からはちらつくロウソクの炎が見える。街中を通れば車で二十分ほどの距離だが、危険である。小一時間ほどの回り道となるが、海岸ぎわを通る道で行くことにした。夏は夜まで海水浴客で賑わうが、今の時期は往来もまばらに違いない。

 

 ところが海岸道路は大渋滞になっていた。不思議なことに、多くの車がライトを点けていない。ライトを点けた車があると、前の車から人が出てきて、フロントガラスを叩いている。音羽は横道から渋滞の列に入り込み、百メートルほどのろのろ前進してから点けていた車幅燈を消し、大きな間違いを仕出かしてしまったことに気付いた。消したとたんに、前の車の人影がぼんやり青白く光り始めたのである。

渋滞はビタリと止まって、一メートル先も進むことができなくなった。それもそのはずである。ドライバーが車を降り、新月の砂浜に出ている。道路は完全に放置車で塞がれてしまった。暗闇の中でうようよとする青白い顔が、下の方に伸びていく。服を脱いで裸になり、次々に海に飛び込んでいくのだ。漆黒の海に、海ほたるのようにプカプカと青白い光が見え隠れする。

その先の沖を見て、二人はアッと声を上げた。今朝の地元新聞に載っていたイギリスの豪華クルーズ船が停泊している。

「金持趣味の派手なライティングが癇に障ったんだろうな」

「肉食動物のお肉を味わってみたいんじゃないかしら」などと二人は冗談を言いながらも、足をガクガクと震わせている。放射能測定をしなくても、闇夜の青白い光で線虫人間かどうかは区別が付いた。ということは、線虫人間からも、光を放たない人間は一目で分かる。それはやつらにとって、格好の獲物に違いなかった。そしてとうとう、恐ろしいことが始まった。二台前の車が線虫人間の集団に取り囲まれたのである。窓を軽く割られて引きずり出されたのは若い男女だ。暗闇の海岸でデートというところまでは上々だったが、楽しむ前に酷いことになってしまった。二人は海岸まで連れて行かれ、その周りで線虫人間どもの壮絶な殴り合いが始まった。エサの取り合いである。その隙に、エサの男が逃げ出してこちらへ駆けてくる。なぜかこの暗闇で、恐怖に駆られた男の目と音羽の目が合った。音羽も武藤も、来ないでくれと心の中で必死に願った。

突然、前の車のドアが激しく開き、中から光った頭が三つ飛び出して、一人が男にタックルを掛けた。男はギャッと叫んで路肩にバッタリ倒れ、三人はすかさず男に食らい付く。一人は頭から、一人は足から、一人は右手から、蛇のように口を大きく開けて飲み込んでいくのである。線虫人間どもが獲物を奪い合うときは、まずは飲み込んでエサを確保し、安心しようとするらしい。蛇と同じで、頭から飲み込むほうがうまくいくに違いない。しかし肩のところまで飲み込むと、右手に食らいついた線虫人間の口とぶつかった。突然キーンという電動ノコのような音がし、頭から来たほうが右手を切り落とし、そのまま一気に左手と胸を飲み込み始めた。取り分が右腕だけになってしまった線虫人間は、がっかりした様子で立ち上がり、脱落宣言。残る二人の壮絶な戦いを指をくわえて見つめている。

二人の口と口はちょうどヘソのところでガチンコした。しばらくは押し合っていたが、埒があかないと判断したものか、またあのキーンという音を立てて、胴体を切断し始める。お互いの口の位地を見ると、どうやら片方は左から、片方は右から協力して切っているようだ。取り分が決まったのだ。やはりヘソのところで両者のカッティングがぶつかったようで、とたんに密着していた口と口が三十センチほど離れ、きつく閉じた。すると、カッティングの際に飛び出し、端材となった小腸が三十センチほど、路上でくねくねのたうっている。そいつを狙って、両チームの鼻の穴からそれぞれ十匹程度の清掃班が飛び出し、恐ろしいスピードで腸を食い始めたのだが、観戦していた線虫人間がおもむろに手を伸ばして腸をつまみ上げ、線虫もろとも口に入れてしまった。人間の胴体を飲み込んだ二人は、満腹感を楽しんでいるものか、体が重くなって立ち上がれないものか、大の字になって大きく膨れた腹を擦りながらニヤニヤと暗黒の天空を見つめている。

 

女の方では、殴り合いをしていた線虫人間の周りにさらに十人ほどが集り、喧嘩をするには数が多すぎることに気付いたらしく、紳士協定が結ばれた。十五人程度でスクラムを組み、女の回りを取り囲む。女はしばらくパニック状態で忙しなく逃げ道を捜していたが、円の中心で棒立ちになるとバッタリ失神。これを合図に全員か地面に向かって線虫を吐き出した。線虫は円陣の中に満たされ、女の口から鼻から、スカートの下からどんどんと移住していく。女の腹は次第に膨らんでいって臨月を通り越し、音羽がこれは危ないと思った矢先にボンと鈍い音を立てて爆発。多量の血とともに線虫どもが飛び散った。

そして次は音羽たちの番が来た。浜の喧嘩で女を食い損ねた連中が数人、逃げた男を追ってやってきて、食後の余韻を楽しむ二人に躓いた。こいつらが食べてしまったことを悟り、あきらめの境地で軽く腹を蹴ったのはいいが、そのままこっちのほうにやってくるのだ。二人は恐怖で気が動転し、後部座席の床に隠れようと後ろを振り向く。すると、すでに二人の怪物がちゃっかり乗り込んでいて、口を開いて笑いながら二人の首に手を掛けた。

「ギャーッ!」

二人は忌避剤を吹き付け、ひるんだ手を振り払って車外に躍り出た。音羽はボンネットの上に飛び乗って海岸と反対側の路肩に転がり落ち、武藤とともに畑の中を無我夢中に逃げる。しかし、線虫人間が集団になって追いかけてくる。ミイラのようにぎごちない動きでときたま転ぶが、少なくとも松葉杖の武藤よりは速そうだ。それならいちばん近い家に逃げ込む以外に方法はないと思っても畑ばかりで、町全体が停電では遠くの灯りも見つけることは難しかった。

ところが幸運なことに、麦秋前の育った麦の奥から、小さな掘立て小屋が浮かび上がってきた。二人は藁をも掴む思いで必死に走った。それが本当の掘立て小屋であることに武藤はがっかりしたが、鍵もなくて簡単に逃げ込むことができた。

四畳半ほどの土間に、肥料や農薬の袋が積まれている。

「グッドアイデアが浮かんだわ」と言って、音羽は農薬の袋を開け、中の農薬を素手ですくい出した。ツンとした刺激臭が武藤の鼻腔に飛び込んできた。

「これを小屋の周りにぶち撒くの」

「それなら袋ごとやろう」と言って武藤は三本足で二十キロ袋を引きずり出し、小屋の周りに粉のサークルを描いた。

音羽のアイデアは大成功だった。線虫人間どもは、小屋周りを取り囲んだが、両手で口と鼻を押さえ、中に入ってこようとはしなかった。

 

「農薬はお嫌いですか?」

武藤は誰へともなく、化け物どもに声を掛けた。

「虫ですからね。そりゃ」と一人が答える。

「喋っているのは吉本君ですか?」

「いえいえ、私は中嶋です。はじめまして。まだ言語中枢を食われておりません」

「不思議ですね。脳味噌がいちばん美味そうじゃありませんか」

「そりゃ好き好きでしょう。線虫にだって好みはあります。私の場合、線虫度は五十かな。だから、せめて脳味噌は食われたくない。それには、あなたが必要なんです。私を助けると思って出てきてくれませんか?」

「ご冗談。なんで私があなたの犠牲になるんです?」

「それはあなたが赤の他人だからですよ」

「なるほど。まだ頭はしっかりしていらっしゃる。それならこうしましょう。この輪の中に入ってこられたら、この体を差し上げましょう」

「またまたまた。人をおからかいになって。私にそんな勇気があるわけないでしょ。虫の息なんですから」

「それなら諦めるんですな。弱虫!」

「ひどい侮辱ですな。分隊長さんが怒ってますよ」

分隊長というのは線虫の親分さんですか?」

「残念ながら、私にはまだ着任されておられません。しかし、この連中にはいらっしゃいます。線虫度九十ですから」と仲間を指差す。

「しかし、体の半分が虫ってえのも中途半端だ。自分が人間なのか虫なのか迷うことはありません? 自己アイデンティティーの喪失ってやつだ」

「私は人間ですよ。小学校の校長です。だから、あなたの助けを求めているんだ」と言って急にひざまずき、「恥を忍んでこんな格好をするのも、人間だからできることであります。私はまだ、人間でいたいんです」と続けて、オンオンと泣き出した。大粒の涙とともに青白く光る線虫が零れ落ち、土の中に消えていく。

「まあまあまあ、どうぞお立ちください。他人を犠牲にまでして助かりたい、そのお気持ちは分かりますが、この私だって実際こうして生きているんだ。なぜ、私がご縁のないあなたの犠牲にならなければならないんですかね」

「それは、あなたが虫になるのは時間の問題だからですよ。どうせ虫になるんなら、いまだっていいじゃないか。どうせなら私を救ってくださいと頼んでいるんです。こんなに苦しんでいる人間を無視するとなれば、虫けらのような人間と言われても仕方ないな」

「分かりました。あんたは虫の好かん男だが、おっしゃることは非常に人間的で感動しました。喜んであなたのためになりましょう」

「本当ですか。あなたは神様のようなお方だ」と今度は嬉し涙を流す。

「しかし、私はあなたに体を捧げるんだ。あなただって、私に無理な要求をしているわけだから、それなりの覚悟を示していただかないと……。どうか勇気をお見せください。さあ、こちらへ来て私を食べてください」

「いや、それはできないな。私は行きたいけど、足の部分は虫のテリトリーですからな。脳からの命令は完全に無視されている」

「それじゃあ、諦めてもらう以外ないな」と言って、武藤は両耳に親指を突っ込んで手をパタパタさせながら、思い切り舌を出した。

 すると突然、中嶋は雄叫びを上げて緩衝地帯を跳び越え、武藤に飛びかかってきた。武藤は仰向けに倒れて後頭部を打ち、失神。中嶋が武藤の唇を奪った瞬間、音羽が小屋から飛び出して忌避剤を中嶋にかけると、中嶋は再び悲鳴を上げてサークル外に跳んで帰った。武藤もすぐに息を吹き返して雄々しく立ち上がり、照れ隠しに猿のポーズで中嶋をからかう。

「分かりました。私は諦めましょう。しかし、仲間たちが面白い芸当をお見せしたいと言っております。昔のプロレスファンなら知っておられるでしょう。人間ミサイルという捨て身の技です」と中嶋は言い、片腕を上げた。

「皆のもの、一列横隊」

 中嶋の掛け声とともに、五人ばかりの線虫人間が横に並んだ。

分隊長殿ミサイル発射用意」

 五人は大きく口を開けると、どんどん伸びて顔全体が大砲の筒になってしまう。「発射!」と中嶋は雄たけびを上げ、五人の口からボンと分隊長が発射された。驚きのあまり声もなくポカンと口を開けたのが悪かった。開いた口に五匹の分隊長が一度に命中し、我先に胃の中に入り込もうとして喧嘩となり、入り口は押し合いへし合い状態で完全に閉塞。分隊長の先端がノドチンコを押し上げ、鼻呼吸もできない状態で、武藤は意識がもうろうとしてその場に仰向けに倒れた。小屋の中からマスク姿の音羽がゆっくりと登場し、両手に握っている農薬を口から飛び出している五匹の分隊長に塗りたくり始めた。分隊長たちはキューキューと悲鳴を上げ、音羽はケラケラと笑う。分隊長たちは必死に逃げようとするが、体に力を入れれば入れるほど、ますます抜けなくなってしまう。しばらくは激しくのたうっていたが、次第に勢いがなくなり、とうとう五匹とも死んでしまった。音羽分隊長たちの死体を武藤の口から引き抜くと、マスクを上げて武藤の開いた口に唇を合わせ、人工呼吸を施した。武藤が息を吹き返すと、音羽はホラヨと掛け声を掛けながら、死んだ五匹の分隊長を一匹ずつ宿主に投げ返した。

 分隊長を失った線虫人間たちは、泣きながらキャッチ。一同はようやくあきらめたらしく、分隊長をホシイモ代わりに食いながら、肩を落として去って行った。武藤は這うようにして小屋に戻った。

「虫をからかうものじゃないわ。相手も必死なんだから」

「僕はもうくたくただ。君は?」

「大丈夫。私は好戦的な女」

「もうこれは、僕たちの力ではどうしようもできないな」

「明日は、国の調査団がやってくるわ」

「遅かったね。みんな線虫人間になっちまう」

「悲観的ね。でもきっと、この町の事件は世界中に知れ渡る」

「いまごろ、沖の豪華客船も線虫人間にシージャックされている」

「そうなる前に、止める方法はないのかしら。線虫は恐いけれど、数が多いだけで弱い部分はたくさんある。日光にも弱いし農薬にも弱い。虫下しは効くし、忌避剤もある。要はスピードの勝負。明日はこの忌避剤で、調査団と新聞記者の前で線虫どもを蹴散らしてしてやる」

「それほどの量あるの?」

「病院に戻れば、二十リットルくらいは……」

「ぜんぜん足りないね」

 

 突然、暗闇の中で音羽はマスクを脱ぎ去り、武藤にのしかかって唇を合わせた。武藤は、驚いてウワッと悲鳴を上げる。

「失礼だわ。線虫でもないのに驚いて。でも、線虫かも……」

「君は大丈夫さ。しかし僕は線虫予備軍だ」

「それなら私、薬を飲むわ」と言って、音羽上着のポケットからアメリカで流行っている避妊薬を出して飲んだ。武藤は唖然としながらも、成り行き上拒否することのほうが不自然に思えたので音羽のされるままになったが、その荒々しさに体中の傷が悲鳴を上げた。これは明らかに強姦だ。もっとやさしく扱って欲しいと思った。

 

十一

 

 一方、遠泳レースのほうは百人以上の線虫人間が参加していた。豪華クルーズ船の舷側に手をタッチして勝負が決まるというわけでもない。レース参加者の最終ゴールは、世界のお金持ちの体内に納まることだ。シップサイドにたどり着いても喫水線から甲板までの絶壁を登らなければならない。

ところが、そんなことは線虫人間にとって朝飯前だ。口からどんどん線虫を吐き出し、もぬけの空となった皮を背負って勢いよく登っていく。次々と甲板に到着し、甲板上で元の姿にもどって歩き始めた。ちょうど夕食時で、甲板は人もまばらだったが、デッキチェアで重なり合い抱き合っていた若いカップルの前で人間戻りを披露したから大変だ。二人はメドゥーサににらまれたように石となって硬直したところを、ご褒美とばかりに上位五人が我先に獲物に襲いかかり、恋人たちの甘い唇を奪い合う。遠目から見れば明らかに集団暴行で、巡回していた二人の船員が気付いて駆けつけた。すると、六位から十位までのアスリートが船員たちに襲いかかる。さらに後続の海賊たちも次々と甲板に到着すると、広い甲板上の獲物たちを次々に襲い始めた。

 

大食堂では、船長とともにタキシード、ドレス姿の老若男女が晩餐を楽しんでいたところに、濡れネズミ、水ぶくれのアジア人がドタドタ入り込んできたから、場内は騒然となった。

「正装でなければ入れません」とボーイが品のいい英語で語りかけても、英語が分かるはずもなく、次から次へとどんどん入ってきて、大広間の壁沿いに並んで客たちを取り囲んだ。客は驚いて立ち上がるが、銃器を持っていないからか意外と落ち着いていて、闖入者を用心深く観察した。しかしその静寂はほんの一、二分のことで、闖入者全員が口から一斉に線虫を吐き出し始めたからたまらない。一変して大混乱となったなかで虫の大群はホールの壁伝いに恐ろしいスピードで旋回し始めた。しかも目くらましに、時たま回転方向をスイッチする。しばらくはそうやってからかっていたが、ようやく回転方向を時計回りに定め、シャーッという金属音とともに蛍光色の輪は加速度を加え、このまま待っていればバターでもできそうな光景を船客たちは茫然と鑑賞することに。これは、魚たちを泡のサークルで囲い込むザトウクジラの漁法に似ていた。

線虫どもは、次ぎなる行動にシフトする。回転のカーブをどんどんと内側に切り始めたかと思うと、突然ドドーンという大音響とともに津波のごとく船客たちに襲いかかったのである。会場はたちまちにして地獄絵となった。阿鼻叫喚の中、人々はワームウェーブに飲み込まれ、線虫をたらふく食らってたちまちブクブクの線虫人間に変身してしまった。

 

十二

 

 夜明けの薄明かりの中、農薬小屋を出ると、扉から五メートルほどのところに、木馬が置いてあるのだ。馬の倍は大きい。二人は顔を見合わせ、思わず笑った。

トロイの木馬だわ」

「すると、あの中には線虫が詰まっている」

 木馬の胸に、紙が貼り付いている。「虫穴から見た淫らなご関係。とりあえずご婚約おめでとうございます。これはお二人へのプレゼントです。中嶋」と書かれていた。

「どうやら夜明けまで、小屋の周りをうろついていたみたいね」

「まるで飢えたオオカミだな」と武藤。

 ところが、いつのまにか書かれている文章が変わっている。音羽は声を立てて読み始めた。

「おまじないを唱えてください。ヒラケムシ!」

 たちまち木馬が崩れ始めた。木馬の中に線虫が潜んでいたのではない。木馬も紙も、全てが線虫の擬態だったのだ。十秒も経たずに木馬は完全崩壊して無数の線虫に変わり、二人の周りを旋回し始めた。回転木馬にでも乗せられた気分だが、忌避剤を小屋に忘れたことに気付いたとき、二人は蒼くなった。万事休すである。線虫の群れは回転スピードを増し、二人には青白く光る液体の渦に巻き込まれているように見える。「もう最後だわ!」と音羽が叫んだ。その瞬間、バーンという大きな音がして、目の前が急に明るくなった。

 夢のような情景だ。強烈な朝日が武藤の片目を刺した。夜が開け、太陽を嫌った線虫たちは、土の中に消えてしまった。まるで、いままでの恐怖が悪夢であったかのように、小鳥たちが一斉にさえずり始めた。

 

今日は太陽が燦々と輝く晴天である。二人は放置されていた車で病院に向かったが、車の往来も少なく、沿道で人を見かけることはまったくなかった。病院に着くと、宿直の山田が出てきた。泥だらけの二人を見ても、あまり驚いた顔をしない。

「ところで君たちはまだ人間かい?」

「今のところは」と音羽は答えた。

「残念なことに、ここの入院患者はみんな、昨晩外出したっきり帰ってこない。しかも、動けない連中もだ。先生たちに心当たりはありますか?」

「動けない人が動けるようになるんだ。自ずと分かるでしょう」と武藤。

「我々の考えが甘過ぎたということですね」

「昼間は道を歩く人もいないわ。みんな太陽を避けているんです」

「インフルエンザなみの伝染力だな。きっと、解剖室や死体安置所から病棟に広がった」と山田。

「さあ、あと一時間後に国の調査団がやってくるわ。それまでに、死体安置所を見ておかないと」

「それには及ばないね。死体は入院患者が盗んでいったみたい。ここには調査団の先生方に見せるものはありません。だいたい、院長だって医者だっていないんだ。どこへ消えちまったんだ」

「泉中寺さ」と武藤。

「それなら、そこに案内しよう」

「すこぶる危険だ」

「警察官だって大勢来るし、マスコミの人たちだって来るわ。ミステリーで終わらせることはできないでしょう」

「いずれにしても、ゴーストタウンになった町をまずお見せすることだ」と言って、山田は外来のロビーに二人を連れて行くと、そこには忌避剤のスプレー容器が用意されていた。

「すごいわ。百個はありそうね」

「徹夜で作ったのさ」

 

 ところが、空港から小型バスでやって来た調査団はたった四人で、しかも同行の記者は二人しかいない。それに県の副知事と職員が二人、県警が二人、町の職員は誰も出迎えなかった。

「今日は休みですか?」と団長。

「いいえ。この町の住人はほとんど消えてしまったんです」と山田。

「院長先生ですか?」

「院長は消えました」

「なるほど、皆さん放射能を恐れていらっしゃる」

 調査団の一人が放射能測定器を出して調べはじめた。

「団長、微量の汚染があります」

調査団員はさっそく放射線防護服を着始めたが、周りの連中に提供しようという意志はないらしい。

「すいませんねえ。我々の分しかないもので。しかし、大した汚染ではありません。飛行機で世界一周するくらいなものですよ」と団長は言い、防護フードとマスクをした。

 全員バスに乗り込んで、街中まで行き調査を開始した。街を歩き回っても放射能汚染は確認されない。

「これはやはりデマですな」と団長。

「質の悪いデマだ。町の方々が恐れをなしてみんな親戚の家に非難をした。悪質です」と調査団員。

「あなたでしょ、騒ぎ立てたのは」と県警の刑事が山田に食ってかかった。

「では、病院はなぜ軽度でも放射能汚染があったんです?」と山田は反論した。

「おそらく放射性物質の管理体制がずさんなんだ」と団長。

「いずれにしても、これは極めて悪質だ。記者のみなさん、新聞の一面に、放射能汚染はなかったと書いてくださいよ。そして、あんたら三人は警察のほうに来なさい。調書を取るから」と刑事は三人を睨みつける。

「私たちがデマを流したとおっしゃるなら、ちゃんとした証拠をお見せすればいいんですね?」と音羽は睨み返す。

「いや、それは危険だよ」と武藤は音羽を制止した。

「でも、牢屋に入れられるのはいやだもの」

「いずれは分かることだし」

「分かったときには日本中虫人間よ!」

「何ですか、その虫人間って」と新聞記者が聞く。

「皆さんバスに戻って、スプレーを両手に持ってください。これから、放射能汚染がひどい所にお連れしますから」と音羽は言い、バスに向かって歩き出した。調査団は再びバスに乗り込み、泉中寺の山門で降りた。

 

「みなさん。この寺は危険ですから、放射能が検出されたところで、引き上げましょう。それだけでも我々の主張がデマでないことは明白ですから」と言って、武藤は一団を先導し、バケモノナス畑へ案内した。ところが、すでにナスは実を取ったあとで、放射能の反応もまったくない。仕方がなしに武藤は、生垣を破って墓地内に入ることにした。

「勝手に生垣を壊していいのかね」と刑事。

「いいんですよ。住職も逃げていますし、あとで弁償しますから」と武藤は足で蹴って生垣の竹を破り、墓地内に入って地下研究所の入口である石のピラミッドまで一団を先導した。すでにこのあたりで、線量計の数値は少しばかり上がっている。武藤は扉の鍵を開け、「これでお分かりですか。ここからは放射線汚染領域です。防護服を着た人しか入れません」と言った。

 調査団長は恐る恐る地下奥深くまで伸びている石段を覗き込みながら、「いやまだジェット機で東京ニューヨーク間を往復したくらいの線量です。危険領域に入る前までは防護服なしで行けますよ」と反論。四人だけで入るのは恐い様子である。

「僕たちは遠慮します」と武藤。

「あなた、中に入ったことあるんでしょ?」と刑事が問うと、武藤は思わず頷いてしまった。

「じゃあ、あなただけでも来なさいよ」

「いや、入るのは危険だ。それに足をケガしているんだ」

「意気地のない男だな」と新聞記者。

「ぬれぎぬを晴らすためにも、君は入るべきだよ。しかし、その足では無理か……」と刑事。

「私も中を見てみたいわ」と音羽が言い出したのを聞いて武藤は慌て、「やめたほうがいい。危険だよ」と止めにかかった。

「あなたの代わりに入るわ。これがあるから大丈夫」と両手の忌避剤を掲げた。

「それなら、僕も行くさ」

 頑固な音羽に武藤は呆れたが、音羽だけを行かせるわけにはいかなかった。いずれにしても、下のホールに降りれば放射線が一気に跳ね上がるだろうし、調査団も恐れをなしてすぐに引き返すだろうと武藤は考えた。

「僕は恐いから、一人で待っていますよ」と山田は言って、ニヤニヤする。成り行き上、山田を除いて全員が地下探検に出発することになった。

「あなた、そこにいなくてもいいから、公衆電話で県警に連絡して、応援を頼んでください。放射能汚染源発見とね」と刑事は山田に言い残し、率先して入っていく。

 最後に武藤が入り、四、五段降りたところで、突然バタンと青銅の扉が閉まって真っ暗闇になり、ガチャンと鍵の掛かる音がする。驚いた武藤は、踝を返して駆け上がり、持っていた鍵を差し込もうとしたが、外側からの鍵に邪魔されて入れることができない。開けろ開けろと怒鳴りながら扉をドンドンと叩くと、外から吉本の声が聞こえてきた。

「悪いね武藤君。山田君は僕のお仲間になったんだよ」

「先生には言わなかったけれど、僕の脳味噌もやられちまったんだ」と言いながらゲラゲラわらう山田の声がする。刑事はピストルを抜いて扉の方に戻ろうとするが、防護服を着込んだ連中に石段を塞がれ、引き返すこともできない。仕方なしに、ひとまず全員が下に降り、もう一度上って銃で鍵を壊すことになった。

 

 ところが降りたホールでは、町のお歴々をはじめ、住人たちが一行の到着を拍手で出迎えてくれていた。町長も、住職も、町内会長も、町の職員も含めて百人ほどがホタルの輝きで立っている。武藤と音羽には全員が線虫人間であることが分かった。酒樽が二つ置かれ、横には木槌が立てかけられている。

「おや、町長はここにおられたんですか。町役場に行っても誰もおられなかったものですから、皆さん放射能に恐れをなして町ぐるみで避難されたのかと思いましたよ」と県の副知事。

「いえいえ、お国の調査団の皆さんが来られるのに町長が逃げ出したなんて、格好のいい話じゃありませんからね。ここで、歓迎しようとお待ちしていたのです。ごらんの通り、ここはカタコンベでありますが、町の名産である悪魔酒の酒造所でもあるんです」と町長は返した。

 調査団員がガイガー計数管を死体の頭に近づけると、ガリガリという大きな音とともに針が大きく振れ、一斉に驚きの声が上がる。

「危険です。かなりの放射線量ですよ。三十分以上はいられません」と調査員。

「みなさん、お聞きの通り、なぜかは知らんがここは放射能に汚染されています。至急非難する必要があるんです」と調査団長。

「いやいや何かの間違いでしょう。ここは酒造所ですよ。原爆を造っているわけじゃありません」と町長。

「とにかく、皆さん出てください。警察の命令だ。階段の上の扉は鍵で締められてしまった。出口はどこですか?」と刑事が震え声で訊ねる。

「ちゃんとした出口はこちらですよ。すぐに出られます。その前に皆さん、せっかく悪魔酒を用意したんだ。この小槌で威勢良く蓋を割って、升酒をひっかけてください」と町長。

「いや、職務の最中ですから、アルコールは……」と調査団長。

「まあまあ、固いこと言わないで、せめて蓋を割るくらいはしてくださいよ。今日は町の酒が全国へ出荷されるおめでたい日ですから」と町長。

 仕方なしに調査団長は完全防備のまま木槌を手に取り、副知事とともに同時に二つの樽酒の蓋を叩き割る。拍手の中で水しぶきならぬ虫しぶきが飛び散り、二人とも体にかかって腰を抜かし、尻餅をついた。線虫が泉のごとく樽のふちから溢れ出す。

「どうですみなさん。ビックリしましたか。これが幻の酒といわれる悪魔酒の原酒です。さあさあ、お飲みください」

 女が四、五人集り、用意した升に柄杓で次々に線虫を満たし、回りの連中に配りはじめる。連中はごくごくと上手そうに飲み始めた。

 「さあさあ、調査団の方たちにもお配りして」と町長は女たちに指図する。

突然刑事と巡査は拳銃を抜き、出迎えの住人たちを押しのけるようにして奥の部屋に向かった。 

「刑事さん。そっちに行っちゃダメだ。引き返して拳銃で扉の鍵を壊してください」と武藤は大声で制止したが、無駄だった。腰を抜かしていた二人も、そのほかの調査団員も新聞記者も、武藤と音羽を残して全員が刑事の後を追った。しかし、調査団の間に線虫人間が次々と入り込み、バラバラに分離してしまった。武藤と音羽は全員がホールから出て行くまでひっそりと待ち、ホールに人がいなくなったところで、石段に引き返した。

「あっちに行ったら大変なことになる。鍵はあるんだから、外側の鍵さえ落とすことができればすぐに外へ出られるよ」

「私に任せて。胆管に入り込んだ寄生虫を取り除いて縫合したことだってあるんだから」と言って、音羽は武藤から鍵を預かり、先に石段を登り始めた。

 ところが、石段を半ばまで登ったところで、カタコンベの死体たちが目を覚ましたのである。隊列をなして石段を登ってくる。武藤は石段に腰を下ろし、松葉杖を横に置いて、忌避剤の二丁拳銃で上ってくる先頭の線虫人間をめがけて拭きつけた。すると、ひどく驚いたものか、とたんに仰け反ると、ドミノのように次々と隊列に伝播し、ゴロゴロと音を立てながら転がり落ちて消えてしまった。

 外側から掛けられていた鍵は、音羽がすでに抜いていて、二人は無事に地上に生還することができた。

 

十三

 

 調査団一行には苛酷な運命が待ち受けていた。まずは、醸造所で最初の悲劇が起こった。板橋の上を一行が一列で渡っていたときのことだ。

「ここがお酒を造る醸造所です。皆さんは醸造樽の上を歩いているのです」と町長は自慢げに解説する。ところがガイガーカウンターの音が鳴り止まず「大変危険な放射線量です」とパニック状態の調査員が叫び出した。

「黙らせなさい」と町長が言うと、後ろの住人が調査員を軽く持ち上げ、一番輝いている樽の中に放り落としたのである。飢えた線虫は調査員の防護服や防護マスクに群れたかり、ピチピチジャージャーという音とともにたちまちにして食いちぎると、青白い光の中で真っ赤な血が広がり、調査員の内臓が浮かび上がったかと思う瞬間、線虫の固まりが食らいついてたちまちにして底に消えてしまった。驚いた警察官は、落とした住人の腹に向かって発砲した。穴の開いた腹から小便のように線虫が流れ出し、住民の体がみるみる萎れていく。他の調査員は震える手でガイガーカウンターのスイッチを切った。

「これでおあいこですかな」と言って、町長はわらった。調査団一行は恐怖で身を震わせながら借りてきたネコのように大人しくなって、なんとか三途の川を渡り終えた。

 

「次は、お酒の原料を育てる大きな大きな工場をお見せします」と町長は言い、一行を巨大格納庫にご案内。

「ここでは、お酒の原料となる虫たちを増やすために、大量の人間の死体を熟成させ、虫の好きなお肉に仕上げてから虫を植え付けます。ほら、肉は腐りかけが美味しいと言いますが、線虫の場合は、もっと腐っていたほうが美味いらしい。人食う虫も好き好きですかな」と言って、住職はゲラゲラとわらう。

 無数のベッドは町の住人でほとんど満杯状態。強烈な腐臭が刺激となって、防護服を着ていない一行の目からは涙がポロポロと流れ落ちる。調査団長は、町長の目から涙の代わりに線虫がポタポタと落ちていくのを見て再び腰を抜かし、その場に崩れ落ちた。

「どうしましたか。ご気分でも悪いのですか。ご安心ください。ここには横になるベッドはまだ残っております。今夜はここでお泊りください。おい、皆さんお疲れのご様子だから、ベッドにご案内しておくれ」と町内会長。

 町内会長の言葉を聞いて、調査団長は必死の体で立ち上がった。

「いや大丈夫です。ここで見たことは内緒にしておきますから、どうか外に出してください。記者諸君も写真は撮るな、絶対書くなよ!」とまでは言えたが、再び倒れてしまった。

「まあ、宇宙服みたいな重い服を着ていれば、気分も悪くなりますな。しかしここは、同じ日本人でも民族が違うわけですな。ほら、あなた方は虫の好かない連中だが、我々は虫の巣食っている連中だ。互いに民族が違えば対立が起きる。誰かが、ここはアウシュビッツに似ていると言いましたが、確かに似ていないこともない。ここに入ったからには、もうここからは出られないんです。ここであなた方は浄化されるわけだ。歴史は繰り返す。しかも、非常にグロテスクな形で」と町長は一行の結末を宣告し、パンパンと手を叩く。すると、人が五人は入れるほどのガラス壺が通路まで運ばれてきた。線虫五右衛門風呂である。その前には、ヒノキ製の長方形の浴槽が運び込まれた。こっちのほうは線虫足湯という趣向だ。

 

「まずはみなさんお泊りになる前に、旅の疲れを癒すには最高の風呂をご用意いたしました。町の名物はお酒だけではありませんよ。町には温泉がありません。そこで観光客を呼び込むために生み出したのが線虫風呂です。これに浸かると、線虫が体全体に食らいついて、長年にわたって皮膚にこびり付いたゴミを毛穴の奥まで掃除してくれるんです。どこかの国にはそんな小魚がいるそうですが、そんなのぜんぜん雑魚ですな。お虫様は、体の外側のみならず、内側だってきれいにしてくれる。ここの温泉は飲んでもいいんです。美容効果抜群。さあみなさん。服は脱がなくてけっこうです。服なんか、もう必要ないんだ。さあ、一度にどっとお入りください。威勢良くいきましょうや!」と町長もだいぶ酔いが回っている。

 一同が立ちすくんでいるのに痺れをきらした町長は、新聞記者の一人を指差した。

「それじゃあ、まずあなた」

 記者たちが、思い出したように手に持っていた忌避剤を散布したが、周りからは爆笑が沸き上がる。人ごみの後ろから山田と吉本が顔を出した。

「それ効きませんよ。僕の作ったやつは水です」と山田。

刑事が山田めがけて拳銃を撃った。弾は心臓を射抜き、山田はその場にバッタリと倒れ、息を引き取った。

「これは罪が重いですよ。人殺しだ。彼はいかれた男だったが、体は健康そのものだった。しかし、ここは何でもありの世界ですからいいですよ。どんどん鉄砲を打ってください」と吉本。

 今度は巡査が吉本の心臓めがけて一発食らわした。胸と背中に風穴が開いて線虫が流れ落ちたが、吉本は両手を蛸人間のように回して、風穴を抓み、流出を食い止めた。

「無駄はやめましょうよ。弾だってもったいないでしょ。それより、団長さんが心配だ。町長、その重苦しい宇宙服を脱がしてやりなさい」と吉本が命令すると、町長の口から大量の線虫が流れ出て、調査団長の防御服を食い始め、あっという間に素っ裸にしてしまった。恰幅のよい町長が痩せ痩せの老人に変身し、分家した線虫たちは、調査団長の口と肛門にドッと流れ込んでいった。

 次に二人の男が新聞記者の一人を捕まえ、両手両足を掴んでハンモックのように振ってガラス風呂の中に放り入れた。「ストライク!」と町長がか細い声を張り上げる。飛び跳ねた線虫たちが調査団一行の顔にかかり、抜け目なく鼻の穴にスルリと入り込む。

 複数の叫び声の中で一番悲痛なものは、ガラス風呂から聞こえてきた。溢れんばかりの線虫の中で、服を食いちぎられ丸裸にされ、もがきながらときたま虫だまりの上に顔を出し、大きく息をするがたちまち底に引きずり込まれ、目から、鼻から、口から、肛門から、あらゆる穴から線虫が入っていく。ものの十分も経たないうちに線虫人間ができ上がり、釜の中でスクッと立ち上がる。体全体がほんのりと色気づき、落ち着いたしぐさで釜の外に出てきた。

「お先にいい風呂を頂戴しました。みなさんも続いてお入りください。気持ちいいですよ」

 これを見た一行はパニックを起こし、悲鳴を上げて走り出すが、通路は風呂が塞いでいたので、防護服を着ていない連中はベッドの下にもぐり込む。防護服の残りの二人は動きも遅く、たちまち捕まってしまった。

「お二人はまずどちらにしますかな。足湯か御風呂か……」と町長は訊ねる。

「足湯!」二人は声をそろえて答えた。

「それでは服をお脱ぎください。つなぎじゃ足を出すことはできませんからな」

「いえ、これは脱ぐことはできませんよ」と一人。

「それじゃあ、御風呂にしましょう。風呂だったらそのままで入れますよ」

「いや、どちらともいまはご遠慮したいのですが……」ともう一人。

「よし、じゃあ三択にしましょう。細雪ちゃんこっちへ」

 しゃしゃり出たのは町一番の美人ホステスとして評判だった細雪だ。彼女も、今では評判の線虫美人に変身。

「出血大サービスだ。足湯か風呂か、ミス琴名のディープキスか。四択はありませんよ。どれか一つ決めてもらいます」

「すいません。できればカレになってほしいわ。このごろ体の中で悪い虫さんが増えちゃって、少しお分けしてダイエットしたいの」と細雪

「足湯にしてください」

「僕も足湯」

 二人が誘いを断ったことに細雪は激怒し、「こいつ」と勝手に一人を指名した。指名された一人は線虫人間たちに取り囲まれ、防護服のフードを剥ぎ取られた。その顔めがけて細雪は女豹のごとく襲いかかり、勢い良く調査員を倒すと口を大きく開いて濃厚な接吻を開始。ドドドドドと二人の体は激しく振動し、接合部から青白い湯気と線虫が漏れ出す。たちまちにして細雪は二分の一ダイエットに成功し、フラフラと立ち上がった。調査員は倒れたまま大きな腹を擦りながら、お楽しみのあとの余韻を味わっている風情だ。

「いやだわ。めまいがする。ダイエットのしすぎかしら……」

「確かに、幅も背丈も半分に縮じこまりましたな」と言って町長は笑う。

「お次の方は足湯ですかな。しかし、足でお湯を濁そうなんて考えは甘い。お虫様は、一番近い穴を積極的に狙いおる」。

 もう一人は強引に防護服を剥がされ湯船の縁に座らされ、両スネを足湯に浸からされた。お湯といってももちろん線虫。膝を腹のほうに上げて逃げるが、線虫人間によって膝を押さえつけられた。線虫はたちまちスネ毛に食らいつき、毛を抜いた穴から入ろうと試みる。強引な侵入で皮膚は破れ、血の臭いで線虫どもはさらに興奮し、肛門と尿道に向かって一斉に足を這い上がる。

「ウワアアア!」と調査員は大きな悲鳴を上げるが、両肩両膝を押さえつけられれば逃げることもできない。あれほどの量の線虫が湯船にほとんどいなくなり、調査員の下腹部は妊婦のように膨れ上がった。

 

ベッドの下に逃げ込んだ警官も新聞記者も副知事も、息を潜めてこの惨劇を見物し、恐怖で全身を硬直させた。しかし、このまま動かなければすぐに捕まってしまうのは明らかで、そろりそろりと逃亡を開始したが、武藤のようには上手く逃げおおせるわけがない。捕食者の数があのときの百倍も多く、ベッドというベッドから手が伸びてくる。たちまちネズミどもの襟首を簡単に捕まえ、もがいているうちに数人が駆け寄って、まるでバーゲンのワゴンに群がる主婦のようにガツガツと獲物にのしかかり、穴という穴に食らいついて我も我もと線虫を吐き出していく。ものの一時間も経たぬうちに、調査団の一行は全員、線虫人間に変わってしまった。

 

十四

 

 武藤と音羽は、町の事態を早急に伝えようと、放置されていた車を使ってゴーストタウンと化した琴名町から逃れ、隣町の警察に駆け込むことにした。日暮れまでは二時間しかない。日が暮れたら原始時代の哺乳類よろしく、線虫人間どもが活動を始める。しかし、国道は主人のいない車で詰まっている箇所があるため、山を抜ける旧街道を行く以外にない。そこには樹齢三百年を超える名物杉並木があるが、観光客が行くのはここまでで、その先はほとんど人が行かない。整備されずに荒れ果てた町有林を抜けて、峠を三つ越えなければならない険しい道で、江戸時代には山賊が出没する難所としても知られていた。国道が整備された後は、通る車といえば山賊の子孫だと噂される沿道集落の軽トラックくらいなもので、先日の春の嵐で杉が一本倒れただけでも、琴名町に引き返さなければならなくなる。琴名の人間は、昔からここらの集落の人間とは付き合わず、自分の家の猫がいなくなると、やつらが食っちまったと言うのであるが、昔は琴名の連中も猫をよく食べた。

 

 杉並木を抜けたあたりまでは道も整備されていたが、観光バスの折り返し広場の先は舗装もされていない凸凹道に一変した。音羽は、昼なお暗い森に迷い込んだ子羊のように心細くなった。戦国時代に切り拓いたままと思われても仕方ないくらいの荒れた道。車一台ようやく通れる感じで、所々が対向車をかわすために広くなっている。そこだけ、昭和に入ってから手が入ったものかと想像ができる。それでも、峠を二つ越えたところまでは何とか順調に進んだが、最大の難所と思われる峠を登ろうとしたところで大きな倒木が道を塞いでいた。

「引き返すか……」

「少し前に、海のほうに下るような道があったけれど……」

「海岸に行けば、ボートくらいはあるかも知れない」

 Uターンができるところまで車をバックさせ、車を方向転換して十分ほど戻ると、海のほうへ下りていくさらに細い道があった。漁労を営む集落でもあるだろうと希望を持ち、ノロノロ運転で山を下って行った。しかし、この山の地下には国道のトンネルが走っているが、トンネルの手前に枝分かれする道はなかったのを音羽は思い出した。集落があるなら、国道から入る道がないのも不自然だ。

 

 三十分くらい下ると突然森が開け、水平線に夕日が沈みかかろうとしていた。二人は車から降りて絶壁の縁に立ち、眼下に小さな港があるのを認めて抱き合った。港の奥の狭い平地に、あばら家が十軒ほど建っている。同時に、一キロほど沖に停泊しているあの豪華クルーズ船を認めて慄然とした。

「なんでこんなところに……」

「あの船はいま、どうなっているのかしら」

「とにかく早いところ船を出してもらって隣町に行かなければ」

「急がないと日が暮れるわ」

 音羽は、倍のスピードで山道を下り始めた。しかし、スピードを出し過ぎたためにハンドルを切り損ね、助手席側の車輪を絶壁から脱輪させた。音羽は真っ先に車から飛び出したが、車はぐらぐらと揺れ、だんだんと揺れが大きくなっていく。武藤は運転席側から逃げようとしたが、車は左に回転して運転席側も脱輪。とっさに後部座席に這って逃げ、ドアを開けて転がり出た瞬間、車はガラガラと大きな音を立てて落ちていく。そして、崖下のあばら家を潰して止まった。

「どうしましょう。大変なことになったわ」

「しかし逃げるわけにはいかない」

「自分が運転していなかったからって、気楽なこと言うわね」

「じゃあ君はどうしたいんだ?」

「一緒に逃げて!」

「だけど隣町まで歩いたら一日がかりだぜ。それに、空家を壊しただけかも知れない」

 音羽は武藤から離れ、般若のような形相で怒鳴り始めた。

「狂ってるわ。戦争よ。殺し合ってる! 事故なんかどうでもいい! どうせみんな死ぬんだ」と言って泣き崩れた。

 そのとき、男たちが四五人駆け登ってきて二人を取り囲んだ。

「お前たち、なんてことをしてくれたんだ。俺んちをメチャメチャにしやがって」と一人が怒鳴った。

「すいません。どなたかおケガをされた方は?」と武藤。

「さあな。それより俺のマイホームはどうしてくれるんだ」

「いやそれはもちろん、損害保険も入っていますし……」と武藤は言ったものの、運転していたのはどう考えても盗難車だ。

「とにかく二人とも来な」

「できれば、町の警察に連れていってください」と武藤。

すると男たちは一斉にゲラゲラと笑い出した。

「町ってどこだ? 琴名か?」

「いえ、隣の和泉町です」

 すると男たちはいっそう大きくゲラゲラと笑い出した。

「ほうら、もう日が沈んだ。どうだい、俺たちはあの客船から泳いできたんだ」

 男たちの顔がほんのり青白く光り始めた。

「俺たちは偵察部隊さ。黒船の上陸地点を捜している」

 武藤と音羽は忌避剤のことを思い出したが、車とともに落ちてしまい手元にはない。

「貴方方のことは良く知っていますよ。立派な方たちだ。実はあの車の中に、泉中寺の醸造所からいただいたお虫様の大好物があるんです」

「本当かい? まさか虫下しじゃないだろうな」ともう一人が嬉しそうな顔で問い返す。線虫は人に騙されやすい単純な性格らしい。二人は男たちに囲まれて、山を下り集落の中に入った。

 集落では、泳いできた線虫人間が日没とともに集落内を闊歩し、数少ない住人を次々に襲い始めている。二人は線虫人間に囲まれながら、その光景を横目に落ちた車に向かった。車は裏返しになって潰れた小屋の上に乗っている。小屋の下から多量の血が流れ出ているのを見て、音羽は気絶しそうになった。線虫人間の一人が血の臭いを嗅ぎつけ、口から線虫を吐き出すと、線虫の群れは流れ出る血の上流を目指して重なるベニヤ板の下に入っていく。しばらくすると、板が思い切り持ち上がって上に乗っていた車を払いのけ、中から老女と幼女が元気良く出てきた。

「あんたらかい。あたしの家を潰してくれたのは」と言って、ゲラゲラわらいながら駆け去った。車はうまい具合に一回転してタイヤを下に無事着地。音羽はお土産を捜す振りをして、潰れた十センチほどの隙間に手を入れ、ダッシュボードの物入れから忌避剤を取り出し、助手席の松葉杖を武藤に渡してから「これです」と言って虫どもに噴霧した。驚いた連中がたじろいで背を向けたところを突破し、裏の急斜面に逃げ込んだ。石段があって上には祠が見えたし、そこが唯一の逃げ場所だった。ところが、祠から上は道がなかった。二人は祠の中に入り込み、しばらく様子を見ることにした。

 

十五

 

 祠の格子ごしに漁船の漁り火がちらほらと見える。クルーズ船の灯りは見えなかった。いつもと変わらないのどかな夜景が、この町で起こっている惨劇とはあまりにかけはなれていて、そのアンバランスが宇宙の啓示のようにも思えてくる。いいや、きっとどちらかが幻覚に違いないと武藤は否定した。

「もう、私たちも最後かも知れないわね」

 音羽は、人を殺したショックから立ち直れず、逃げ抜こうとする気力がすっかり失せていた。

「朝までここで待とう。朝になれば、連中もいなくなる」

 そのとき音羽の腹の虫がグーと鳴き、暗闇の中で二人は思わず顔を見合わせわらい出した。わらいが止まらない。八方ふさがりの状況に陥ると、笑う以外に手立てはなくなってしまう。音羽の心を曇らせていた陰鬱な罪悪感が、いつのまにか消えていた。

「私の中にも線虫がいるみたいね。過去も未来もどうでも良くなった」

「いずれ僕たちも線虫人間になっていくのさ」

 

 小さな桟橋に、青白い微かな光を放つ線虫人間が数人、沖に向かって手を振っている。まるで二人の刹那的な愛を守ろうとする衛兵のようだ。音羽はマスクを取り去り、二人はおとぎ話の王子様とお姫様の気分になって、接吻を交わした。

ところが突然、片側の頬に強い光が当たり、驚いた二人は唇を光の方向に向けた。巨大な船体が恐ろしい勢いで迫ってくる。それまで闇にまみれていたクルーズ船が、突然ライトを一斉に灯したのだ。バリバリバリと耳をつんざく音とともに、砕氷船のようにあばら屋群を潰しながら船首をこちらに向けて進んでくる。数秒後に、切っ先が祠の下の岩壁にぶつかり、地響きとともに二人をかくまう小さな祠は飛び上がり、甲板にハードランディングした。祠の扉が開かれる。イギリス人の船長をはじめ、さまざまな国の船客たちがタキシード、ドレス姿で二人を出迎えてくれている。二人が祠から出ると、大きな拍手が沸き起こった。

「さあ、お二人ともどうぞこちらへ。私は船長のワームクリフです。船では私が神父の代わりになって結婚式を執り行います。お二人の新たな門出を祝福することはもちろんですが、私たち全員が、これから世界を隅々まで回りながら、人類の新たな進化を進めていくのです。虫の心で、虫の強さで、虫のようにしぶとく生きていく新人類です。今まで人間が持っていたあらゆる弱さ、悲しさ、繊細さは一掃され、辛く悲しく、夢に終わるだけの人生から解放されます。そう、ほかの生き物たちのように素直に楽しむ人生の始まりです。あらゆる残酷さが自然の営みとなる世界の始まりです。いまの瞬間だけを生きることが、生命の本質なのです。過去も未来も、そんなものは余計な憶測だ。さあ虫人間たちよ。世界を凌駕し、世界に繁茂し、地球をあるがままの世界に戻したまえ。そして、あなた方二人に神のご加護があらんことを」

 

 若い女が出てきて、ウエディングベールを音羽の頭に乗せた。船長は、二人の手を取って「さあ、虫神様の前で夫婦の誓いを」と続ける。

「こんな年寄りでよかったら、君の夫になることを誓います」

「鼻の欠けたお雛様ですが、あなたの妻になることを誓います」

「微妙な誓いの言葉ですが、まあいいでしょう。虫になったらそんな劣等感は消え去ります。いまあなた方は虫神様の前で夫婦となります。それでは指輪の交換を」と船長が言うと、パーサーがエンゲージリングを乗せた黒いビロードのトレーを捧げながら、船長に渡した。

「どちらでもけっこうですよ。フリーサイズですから」と言って、船長は武藤の前にトレーを差し出す。指輪を見て武藤は思わず後ずさりした。青白く光る線虫どもが蠢きながらリングをつくっている。武藤は恐る恐る線虫指輪を摘み上げ、震える音羽の指にはめた。指輪は音羽の指にフィットしゆっくりと回り始める。気味の悪い回転感覚によって、巻き上がっていた少女時代の思い出が後ろ向きに転がり放たれ、大粒の涙があふれ出てきた。音羽は泣きながらも毅然と指輪を摘み上げ、武藤の指にはめる。再び大きな拍手と歓声がわき上がった。

 そのとき、群集の後ろから悪魔酒の入ったシャンパングラスを両手にした吉本と山田が現われ、「おめでとう」と言いながら二人にグラスを手渡し握手をした。その後ろには淑やかな舞の姿もあった。スピーカーからオペラ椿姫の「乾杯の歌」が流れ出る。ボーイたちが大きな盆を片手に線虫の紳士淑女に悪魔酒を配り始める。船長の音頭で、皆が悪魔酒を飲み干す。ワンテンポ遅れて、新郎新婦も飲み干すと、一斉に甲板にグラスを投げ付け、ガチャガチャガチャという音とともにウエディングパーティーが始まった。ダンスを始める者、会話を楽しむ者、はめを外してプールに飛び込む者、デッキから地上にダイビングする者など、まるで赤道を通過したときのようなお祭り騒ぎになった。

 

 船客が次々と、クィーンズイングリッシュで新郎新婦に祝福の言葉を贈る。突然、カウボーイの出で立ちをした背の高い若者が二人、新郎新婦の前に壁のように立ちはだかり、西部訛りで祝福の言葉を述べた。そして、つたない日本語で武藤に語りかけた。

「武藤さん。私たちを覚えていますか?」

 武藤は男たちの顔をまじまじと見つめ、口をポカンと開けたまま固まってしまった。いつも夢に出てくるあいつらの顔を、忘れるはずはなかった。

「思い出しましたか? ジョニーです」

「デープです。線虫人間一号、二号です」

「先生の実験材料にされた捕虜ですよ」

「生きておられたんですか……」

「虫の息で吉本さんの治療を受け、虫になって再生されました」

「不要になった人間の肉体は、虫の住まいとしてリサイクルされるのです」

「地球環境を破壊する人間を虫に変えることで、持続可能な地球に変えるのです」

「何と言ってお詫びをしたら……」と言って、武藤は二人の手を取り、頭を下げた。グローブのような手が、武藤の小さな手をやさしく包み込んだ。

「お詫びなんかとんでもない。武藤さんもこれから虫になるのですから、もう敵味方ではありません。人間はグロテスクな生物ですが、線虫は違います。線虫は危機に瀕すると、仲間を消滅させることによって自らを救うのです」

「人間のように迷うことはいたしません。私たちは、もっと合理的に明快にできているのです。まずは自分が繁栄することが、線虫界ではルールなのです」

「さあそれはどうでしょう。人間も線虫も生き物であるかぎり、仲間や家族を思う気持ちはきっと同じですよ」

「いいえ。私の悲劇も、あなたの後悔も、虫になることですべて解決できるのです。人間の考える自由はどれも詭弁です。私たちには本当の自由があるのです」と言って、ジョニーはカウボーイの朗らかさで大げさにわらった。

 武藤は溢れ出す涙を押さえることができなかった。そうだ武藤の人生は、線虫人間に引けを取らないグロテスクな人生だった。これからは、虫たちが臓腑と一緒に心の片隅に押し込めていた膿も食い尽くしてくれる。それは罪悪感という、忘れることはできるが決して癒すことのできない病巣だった。これからは、善悪の彼岸に棲む虫たちに変身して、より自然の意志に則した生命活動を営むことができるようになるのだ。

 

 「さあ、ここで新郎新婦を虫に格上げするイニシエーションを始めます」と吉本が大きな声を張り上げる。

人びとはダンスを止め、会話を止め、おふざけを止め、子供たちは駆け回ることを止め、寒気のするような冷たい静寂が新郎新婦を包み込む。これはきっと宇宙に繋がる無機的な静けさだと音羽は思いを巡らし、まな板の鯉のように覚悟を決めた。

「おいくらでもよろしいのです。お二人の門出を祝福して、皆さんのお虫様をお分けください。太り気味の方は太っ腹で、痩せぎすの方は量り売りで。子供たちはほんのご愛嬌、ご老人はしみったれ。さあ、一、二の三で一斉にお願いします」と吉本は続けた。

 

「一、二、三」。

全員の掛け声で、口々から一斉に線虫が吐き出された。あるいは貴婦人たちの頭がポロリと床に落ちて鼻も耳も目もすべて線虫に崩壊し、かつらだけが残る。貴婦人のふくよかな胸が潰れて首から立ち上がり、マネキン様の艶やかな頭部が再生され、背の低い痩せた女に変身。慌ててかつらを拾い上げ、ハゲ頭に乗せる。参加者すべてが心ばかりの恵みを施し、線虫は床一面に広がりながら新郎新婦の周りに集った。二人はしっかりと抱き合い、接吻をしてお互いの口をかばい合う。線虫たちは竜巻のような渦となって、足元から腰、胸へと立ち上がっていく。そうして二人の姿はとうとうワームホールに飲み込まれ、新たなグロテスクの世界へと旅立っていった。

 

                               (了)

 

 

 

響月 光(きょうげつ こう)

 

詩人。小熊秀雄の「真実を語るに技術はいらない」、「りっぱとは下手な詩を書くことだ」等の言葉に触発され、詩を書き始める。私的な内容を極力避け、表現や技巧、雰囲気等に囚われない思想のある無骨な詩を追求している。現在、世界平和への願いを込めた詩集『戦争レクイエム』をライフワークとして執筆中。

 

 

 

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