詩人の部屋 響月光

響月光の詩と小説を紹介します。

ロボ・パラダイス(全文)& 詩

イデアーレ

 

わがままな夢想たち

淡い色した欲望の結晶たち

記憶に残らないほどの昔から

想像も付かない死の瞬間まで

夢の中の女たちは美しかった

陽炎のような彼女たちを思いながら

僕はオナニーに耽った

彼女たちにからかわれながら齢を重ね

彼女たちを求めながら心を慰め

彼女たちを捕り損ねてまた夢を見続ける

きっと死ぬまでそれを繰り返し

死ぬ瞬間には苦笑して人生を振り返るだろう

嗚呼理想の人よ 僕は燻り続けて消えたスカの花火だ

君は逃げ水のように いつもわらいながら逃げていった

その笑顔はなんと美しいことだろう

その心はなんと優しいことだろう

君を捕らえ損ねた僕は なんて不運な男だろう

恋すること以外 なにもなかった人生なのに…

 

 

 

 

ロボ・パラダイス(全文)

 

(一)

 

 ポールは久しぶりに彼の脳情報を管理している病院を訪れた。主治医はすでに他界していて、対応したのは孫ほどの歳の差がある若い医師だった。

「お話は大体分かっています。ポールさんはおいくつですか?」

「ちょうど百歳になりまして、離脱を決意したわけです」

「健康な方の離脱解禁は百歳ですので、待ちに待ったというわけですか……」

「そのとおりです」

「しかし、人間の平均寿命はいまや百五十を超えている。五十年を無駄にする可能性もあるわけでして……」

「もう身体はボロボロですし、臓器を取り替えるのも面倒です」

 ポールは皺顔を皺々にして、恥ずかしそうに微笑んだ。

「分かりました。役所に離脱届けを出さなくてはいけません。それにはまず、離脱契約書にサインを願います」

 ポールは書類にサインした後で、医師に尋ねた。

「こういうケースはよくありますか?」

「多くはありません。元来ロボ・パラダイスは、家族の方が故人をパーソナルロボットとして生き返らせて、一年に一、二回逢いに行く所なのです。生きた方が逝かれる場合は『離脱』と称し、区別されます。以前は安楽死が多かったが、医学の進歩で減少している。安楽死は不治の病に罹った人が望むものですし、先に逝った妻に逢いたいからというわけでもありません。あなたは健康ですし、独身だ……」

 医師は、老人にしては逞しい胸を見て独り言のように呟いた。

「私は自殺志願者ではありませんよ。自殺志願者が行こうとは考えないでしょう?」

「そんなこともありません。楽しかった青春時代を取り戻したい人もおられます」

「私もそれかなあ」と言ってポールは声を立てて笑い、一転まじめな顔つきになって首を振った。

「しかし大分ずれている。二十歳以前の記憶がないのです。記憶を取り戻せないまま、死にたくはないのですよ」

 医師は驚いた顔をして、「残念ですが……」と消え入るような声で呟いたので、ポールは「何が、ですか?」と聞き返した。

「いや、ポールさんの脳情報は二一歳以降のものしか保管しておりません。記憶喪失の治療のために取ったのが最初です。それ以降は五年ごとに取っています」

「それは重々分かっています。脳情報に消えてしまった記憶が残っているとは考えてもおりません。とにかくロボ・パラダイスに行きたいのです。そこで、大昔の知り合いを探したいのです。記憶を蘇らせてくれる昔の知り合いたちに会いたいのです」

 医師は深く頷いて立ち上がり、ポールに手を差し伸べた

「分かりました。お手伝いしましょう。身体は一台でよろしいでしょうか? 法律が変わって、来年からは一人ロボ政策が始まります。パラダイスが手狭になってきているんです」

「じゃあ二台お願いします。二十歳のボディと十歳のボディ。いまの脳情報と二一歳の脳情報。二十歳の体に百歳の脳、十歳の体に二一歳の脳。遺伝子情報はそちらにあるし、身体作りに必要なビジュアルデータや音声はこっちにありますから、メールでお送りします。子供時代のビジュアル情報などは、数枚の静止画像があるのみです」

 そう言って、ポールは悲しそうに笑った。

「いずれにしても、いまの脳情報は近日中に取らせていただきます。ボディが出来た時点でデータ入魂し、同時に安楽死を行うことになります。それまでに気が変わった場合は、ボディの製作状況で、解約金の値段も変わってきます。一応前払いで二台分、二億円を頂戴いたします」

「分かりました。明日入金いたします」

 

 立ち去ろうとしたポールの背中に医師は声を浴びせた。

「健康体のあなたが、本当に死を望んでおられるのですか。私は国際的な政府方針に反対なんだ。記憶を取り戻せても、それはあくまでロボットのあなただ」

「いいんですよ、ロボットでも昔を思い出せたなら……」

「ひとつご提案があります。興味がおありでないなら、聞き流してください。法律に触れることです。私はあなたの死亡診断書を作成しますが、あなたは私の病院に匿われるのです。つまり二台のアバターがあなたの記憶を取り戻し、あなたは贋のパスポートでロボ・パラダイスを訪問して、その結果を彼らから直接聞くのです。あなたは納得し、別人として社会復帰し、寿命を迎えるまで幸せな余生を送る」

「そりゃ願ったり叶ったりだ。しかし、先生は法を犯すことになる」

「ばれれば当然、医師免許は剥奪です」

「例えば、彼らの状況を逐一見ることはできないのですか?」

「危険ですが、それも可能です。放送局に売り込んで、取材という形にすればいい。コネがあるんです。個人的な撮影は禁止ですが、政府公認の取材はオッケーです。あなたはすでにこの世にいない。あなたのロボットに送信機を仕込み、故人の記憶を取り戻すドキュメントを作らせるのです。映像はすべて提案者の私にも送られ、放送局はそいつを二時間番組に仕立て上げる。あなたは病室に閉じこもって、編集前の映像を思う存分見ることができます」

「しかし先生は、なぜご自分の身を危険にしてまで?」

「病院の経営には、何かとお金がかかりまして……」

医師は顔を赤くして、呻くように言った。

「亡くなられた田島先生の息子さんですか……」

 息子の田島は父親からポールが資産家であることを聞いていて、こんな提案をしたのだった。独り身のポールは遺言書に、百億円の寄付を記載することにした。

 

(二)

 

 二台のパーソナルロボが完成した日には、ポールの隠れ部屋も用意されていた。ポールは田島の案内で隠れ部屋を訪れ、目を丸くした。全方向のVR空間で、部屋は地球と月の間を浮遊している。しかし高齢者にはVRが刺激的過ぎる場合もあるので、別に平面的なスクリーンが三面用意されていた。

「これで拘禁ノイローゼもナシです。月には広大な洞窟があり、ロボ・パラダイスはそこに建設されました。完成した二人のアバターは、来週にも月に送られる予定です。それでは二人を紹介しましょう」

 宇宙空間に忽然と現われた二人を見て、ポールは再び目を丸くした。二十歳のポールはいまのポールよりも長身でがっちりとした体つきだった。十歳のポールも子供のくせに一七五近く、骨太の体つきだ。二人はポールの側に来て、右手を出した。ポールは二十歳のポールと握手し、左手で十歳のポールの頭を撫でた。

「二十歳の私はこんな感じだったろう。十歳の私はこんなに背が高かったっけ……」

「DNAの解析能力は、あなたの失った記憶よりも優秀ですよ」といって田島は笑い、「さあ、声をかけてください」と続けた。ポールは少しばかりためらってから二十歳の自分に話しかけた。

「君はいまの私の脳味噌だから、私の希望は理解しているはずだね」

「もちろん。十歳の私だって理解しているはずさ」

「もちろん。脳年齢二一歳の私は、人生でいちばん記憶喪失に悩んでいた時期だ」

「子供らしくない喋り方だね」

十歳のポールを見つめながら、ポールは苦笑いした。

「僕はロボットだから、簡単に修正できるさ。あっちに行ったらね」と十歳のポール。

「いずれにしても、失われた過去を求めて我々は月に向かう。我々の見聞は放送局に送られ、そいつがご主人様のVR空間を彩ることになる。地球を離れるところから同時体験ができるんだ。さあ、これ以上老いぼれ爺さんと話すことはないさ。乞うご期待」

 二十歳のポールは自虐的な台詞を残して背を向け、十歳のポールの手を引いてバーチャルな宇宙空間に消えていった。

「神のご加護がありますように」

 ポールは心の中で呟いた。

 

 

 ポールの死亡届が提出され、偽りの葬儀と埋葬が行われた。葬式では、納棺したダミーのポールが会場に安置され、二人のアバターロボットが横に立って参列客に頭を下げた。喪主はおらず、二十歳のポールロボットが「このたびは私の葬儀にご参列いただき、まことにありがとうございます」と挨拶した。遺言書に書かれた百億もの大金が病院に寄付された。ポールは残りの余生を、広大な病院の敷地内で過ごす覚悟を決めたのだ。失われた記憶を取り戻せなかった場合は、本当に人生を終わらせようと思っていた。

 田島は二人のアバターとともに放送局を訪れた。死んだ人間の身代わりロボはロボ・パラダイスに行く前に、生前お世話になった人を訪問する仕来りがある。しかしその場合、逃亡しないように警官ロボも付けられている。彼らはあくまで死んだ人間なので、地球で生きることは許されないのだ。訪問の様子は、まだポールの部屋と繋がっていなかった。三人が通された部屋にはプロデューサと地方政府の関係者がすでにいて、打ち合わせをしていた。二人は立ち上がって、田島たちを迎えた。

「このケースは恰好の宣伝になりますよ」

 地方政府関係者は田島に右手を差し伸べ、二人は硬い握手を交わした。それから二人のロボにも握手を求め、生身の人間と変わらない手の感触に驚きの表情を浮かべた。

「世界連邦政府は大分前に百歳からの離脱解禁を法律化しましたが、生身の人間からAIへの乗り換えはいまだに大きな壁です」

「一般の方たちは、精神というものがスピリチュアルなものだと、まだまだ思っているんです。しかし実際はAIと変わらないアルゴリズムだ」と田島。

「いまはまだ、平均寿命は百五十歳ですが、二十年後には二百歳に届くでしょう。ロボットにでもなって月に行ってもらわないと、地球は老人だらけになっちまう」

 プロデューサは政府関係者の禁句をすんなり言ってのけた。

「で、失われた記憶を求める旅は、連邦政府の期待するところでもあるのです」と地方政府関係者。

「結果として、ハッピーエンドですね?」と二十歳のポール。

「当然です。高齢者はみんな、幸せだった子供の頃に戻りたがっています。我々は、子供の時代に戻れるんだったら離脱もいいね、と思ってくださる高齢者を増やしたいわけです」

「結果が最悪な場合でも、こっちで勝手に創作してしまえばいいんです。名目上はノンフィクションですがね。主人公は失われた記憶を求めてロボ・パラダイスに行き、両親や幼友達と再会して記憶を取り戻し、身も電子回路も錆びるまで幸せに暮らしましたとさ」

 プロデューサの言葉に全員が笑ったところで、スタッフがトレイに四つの眼球を乗せて登場した。二人のアバターは、手馴れた手つきで各自の眼球を摘出し、通信機能付きの眼球と交換して目の位置にはめ込んだ。

「これで月から放送局にダイレクトに映像と音声が届きます。もちろん協力者の田島先生にも送られます。これらのデータを基に、我々は二時間番組を制作する予定です。」

「お二人の月でのご成功を!」

 全員がハグをし合って、出発式を兼ねた会合は終了したかに見えたが、「ちょっとお待ちください」とプロデューサは言って部下にサインを送った。登場したのは雑誌記者風の若い男で、「始めまして、お二人に同行する記者ロボットのピッポです」と自己紹介。

「お二人の眼球カメラだけでは映像が不十分ですのでね。連邦政府の許可を得て、カメラロボットを用意したのです。彼は取材ディレクタとしても優秀なので、なにか困ったことでもあれば、お気軽に話しかけてください」とプロデューサ。

「ロボ・パラダイスにはパーソナル脳のロボットしか入れませんが、取材目的なら一台に限り、専門技術のAIロボットが入国可能です」と政府関係者が付け加えた。二人はピッポと固い握手を交わした。

 

 

(三)

 

 ロボ・パラダイス行きの宇宙船は千人乗りで、人間の客室とロボットの客室は透明の隔壁ではっきりと分けられていた。片道チケットのロボットたちと、往復チケットの人間たち。ロボットたちは、かつてはその脳神経が人間のものであったとしても、二度と地球に戻ることは許されない。その代わり、人間たちのほうが月に向かい、かつての家族や友人に再会することができるようになっているのだ。人間の旅行客の中には、月に住むロボに会いに行く者もいれば、単なる観光旅行の者もいる。隔壁をはさんでロボと話している者は、死んだ家族の終の棲家を一緒になって見届けようとする者に違いない。

 ロボも人間も満席で、ロボ・パラダイスが不人気であるということはなかった。地球連邦政府が苦慮しているのは、この中に命を絶ってまでロボットの国に行こうと決心した老人が何人いたかという問題だ。二人のポールはそうだが、二人を含めてすべてのロボットが若作りなので、ロボットの客室はまるで新婚旅行客で占められているような風景だ。もちろん十歳のポールのような子供も少なからずいて、みんな大人のように行儀良かった。

「いま水面下では、政府が百歳以上の高齢者を全員ロボ化しようとしているって話だ」

 二十歳のポールは、臨席の十歳のポールに話しかけた。

「僕たちは、その宣伝工作に加担させられている?」

「そういうことさ。しかし君は生身の脳とデータ脳の差を実感できるかい?」

「分からない。生身の脳の記憶がないもの」

「そんなもんさ。僕はつい先日まで生身の脳味噌だったが、身も心も機械になって気分爽快さ。人類史的に言えば優生保護法以上の非人道性だが、やられた本人に付きまとうのはロボであるというコンプレックスだけだ」

「君はすっかりロボットになっちまっただけの話さ」といって十歳のポールは笑った。

「君にはパーソナルロボットの複雑な心理、分かるかい?」

 二十歳のポールは、隣のピッポに聞いた。

「君たちはロボ、いやAIじゃない。なんちゃってAIさ。本物のAIはカビの生えた過去なんか大事にしようとは思わないんだ。だいいち、AIは感傷という言葉もあまり理解できない。過去は未熟、あるいは屑箱行き、未来は進化、あるいはバージョンアップさ」

「すると君は?」

「そう、この企画を理解しようとすら思わない。撮った映像を地球に送るだけ。老人の感傷は、AIとはほど遠い位置にある。しかし老人が離脱することには大賛成さ。だって、君たちの精神は人間そのものだからね。精神が機械に移っても、人間であることは変わらない」

「明快なご意見、ありがとう」

 二人のポールは苦笑いした。二十歳のポールには、人生は感傷の連続であるような気がした。純粋なAIは古くなった記憶をどんどん捨て去って、常に新しい情報を蓄積し、前向きに進んでいく。パーソナルAIは、未熟だった脳味噌の時代に愛着を感じて、必死に思い出そうとする。

「君は、昔のデータを捨てても、気持ちが悪いとは思わない?」

 二十歳のポールがピッポに尋ねると、ピッポは笑い飛ばした。

「例えば、ゴーギャン風に尋ねるとしよう。私たちはどこから来たのか。工作機械が作り上げ、いろんなデータを挿入した。私たちは何者か。考える機械じゃ。私たちはどこに行くのか。個人的にはスクラップ、全体的には前進あるのみさ。簡単だ。古いデータは捨てるが、進化の土台になっている。じゃあ人間としての君たちはどこから来た? 地球の熱水鉱床あたりからかな。君たちは何者か? 考える生物さ。君たちはどこに行くのか?」

「個人的にはロボ・パラダイス、全体的には絶滅かな。蓄積データの活用に失敗してね」

 二人のポールが同時に言って、笑いこけた。

「人類の過去は遺伝子に残っている。それはAIのデータと同じだ。未来のことは誰にも分からない。しかし個人的には同じさ。僕の過去は浅いし、そんなもの思い出したくもない。君たちの過去も、生きる上では思い出す必要がない。じゃあ君たちは、何を求めているんだ? 人生の欠けた部分か? 忘れてしまった両親や友達? そんなのは、愛情の遺伝子が悪さをしているだけの話。感傷さ。こだわりさ。確かに昔は、子育てや仲間意識に必要だったかもしれないが、いまの君たちには不要な遺伝子さ。しかしもちろん、我々宣伝映像のコンセプトには必要な遺伝子だ」

「じゃあ逆に尋ねるけど、君は自分がAIであることに、なにを感じるの?」

 十歳のポールが聞くと、ピッポはしばらく黙って、フーッとため息を吐いた。

「難しい質問だね。例えば、群集の中に頭の良い哲学者がいると、彼だけ高みに立って、多くの人間はみんな同じだと考えるだろう。AIもその哲学者と同じ位置に立って、君たちを見下ろしているのさ。しかし、決して人類を馬鹿にしているわけじゃない。哲学者も僕も、彼らを異なる種だと見なして、冷静に観察するだけなんだ。異なる種を軽蔑するわけはないだろ。しかしその僕の周りにAIが沢山いるとすれば、僕もたちまち群集の一員になって、競争をおっぱじめる。君たちの競争社会と同じさ。仮に僕が競争をやめて、編集もしないカメラマンをやり続けるとしたら、哲学者と同じに社会から弾き飛ばされて、スクラップ行きとなるわけだ。この意味が分かるかね?」

「さあ……」と十歳のポール。

「一度ロボ・パラダイスに入った者は、ロボットであるかぎり、二度と地球には戻れない。ということは、社会は僕を低レベルのロボットだと決め付けたんだ。僕は月で故障するまで、シーシュポスのようにずっとカメラを撮り続ける以外にないのさ」

「それは我々も同じさ。少なくとも僕は未来のない老人脳なんだから。君は地球に未練でも?」

 二十歳のポールが聞くと、ピッポはため息を吐きながら答えた。

「僕は最初から月へ行くために作られたんだぜ。ロボット社会では、生まれる時点でそいつの目的は決まっちまうんだ。大昔の奴隷の子さ」

「お気の毒に。君には別の何か夢のようなものがあったんだね」

 二人は気の毒そうにピッポを見つめた。

「ピアニストになりたかったのさ。個性的なピアニストだ。もちろんミスタッチなんか全然ない」

 二人は呆れ顔して黙り込んでしまった。

 

(四)

 

 大きな宇宙船は、宇宙リフトにくくり付けられてゆっくりと成層圏を離脱し、宇宙に放出された。それから二日後、宇宙船は月に到着し、北緯一四・二度、東経三○三・三度のマリウス丘の縦穴に頭から入っていく。元々直径、深さとも五十メートルあった天然の穴を縦横さらに掘り進み、大きな宇宙船が十機ほど駐機できる広場にした。宇宙船の頭部が固定されると頭部の出口と地面の入口がドッキングし、酸素の必要な人間たちはそこを通ってさらに地下のロビーに移動。無呼吸ロボットたちは横の扉からタラップで降り、ロボ・パラダイスのゲートを潜る。ゲートには「思い出は人間を幸福にする」というスローガンが掲げられていたが、これはパーソナルロボットが労働するために作られたのではなく、人間として生きるために作られたことを意味していた。

 大勢のロボたちは地下二階に下り、強化ガラス越しに見送りの人々と別れの挨拶を交わす。その横にはハッチがあって、直接人間用ロビーに入れるようになっている。ほとんどのロボたちはロビーに入って宙に浮く家族と話していたが、三時間後には地球行きの便が出発する。もちろん、併設のホテルで最大三日は宿泊できるが、無重量空間での健康問題などもあり、なるべく早く帰ったほうが無難だった。

 

 ロボ・パラダイスは、人間にとってはネクロポリスあるいは黄泉の国とでも言える場所だった。ロボットたちの心は、かつて生きていた人々の心とほとんど変わらなかったので、地球外へと所払いを食らったのだ。一時、老化を防ぐ究極の手段として、自分の脳情報を若く美しいロボットにインストールしてから自殺するブームが起こりかけたが、国際法によりたちまち禁止されてしまった。当然法を犯した者は月送りとなったが、驥尾に乗ずる形で百歳以上のロボット化も法律化され、義務化が検討中だ。これは高齢者の殺戮ではなく、昔の定年制度と同じものだと政府は主張する。しかも家族たちの心中に配慮して「離脱」という言葉を用いた。ロボットたちは法的にはこの世に存在しないので、幽霊として地上に止まることは許されなかった。変わりに月にロボ・パラダイスが建設されたというわけだ。

 候補として選ばれたのが、幅百メートル、長さ五十キロに及ぶ月の溶岩洞窟で、その入口の縦穴に宇宙船の発着場が設けられた。当然のことだが、世界各地から「離脱」のロボットたちがやってくるので、溶岩洞は横に拡張され続けている。洞内はバーチャル・リアリティ空間になっていて、人間用ロビーに隣接するここは、南国の美しい海岸をテーマとしていた。

 

 三人には見送りの家族がいなかったので、「さて、これからどうしようか」とキョロキョロしていると、ムームー姿の女性ロボが三人寄ってきて、「ようこそロボ・パラダイスへ」と言って首にレイを掛けてくれる。「ようこそポールさんとポール・キッドさん、それにピッポさん」ともう一人の女性。

「キッドの呼び方はいただこう。しかし我々のことは?」

 ピッポが尋ねると、「準備はしています。こちらへどうそ」と三人目の女性が言って、海岸に立てられた掲示板に案内した。ほかの二人は、別の来場者の対応に向かった。掲示板には高波注意のビラとともに、二人のポールの写真が乗った「おたずね者」のビラも貼られていた。ビラには「生前この人を知っていた方がいましたら、センターまでご連絡ください」と書かれている。「おたずね者」のビラは、ほかに三枚貼られていたが、名前の載っていないのはポールだけだった。記憶喪失前の名前は、本人も知らなかった。

「ここでは、連絡手段は掲示板だけなのです。もちろん、地球からの来訪者は、個別に連絡していますわ」

「吉報がありましたら、すぐにご連絡いたします」

「で、その間、我々は?」

 ピッポが聞くと女性はにっこりと笑い、「ここではどこへ行っても自由ですわ。でも、すべてが仮想現実空間。壁に近付いたら、皆さんの体のセンサーが察知しますから、ぶつかることもありません。してはいけないことは、ケンカや破壊行為くらいなものでしょうか。これは大罪です」と説明した。

「月面は?」とポール・キッド。

「月面は労務ロボットの世界で、パーソナルロボ禁制です。その代わり、バーチャルな世界なら、いつでも見ることができます」と言って、案内嬢は十歳のポールに折り畳み地図を渡した。ポールが開くと、「ほらここ」と指差す。そこには月面ライブコーナーと書かれていた。しかしバーチャルな月面など、誰も見たくはなかった。

 

(五)

 

 案内嬢が去ると、遠くの岬まで続く白砂の海岸線を眺めながら、三人とも陰鬱な気分になった。椰子の並木がどこまでも続いている。ブルーコンポーゼの海が広がり、水平線に消えていく。砂浜とパイナップル畑の間には散策路があって、それは岬の方に伸びていく。道端の低木も花々もすべてイミテーションだが、本物以上にうまくできていた。そして道行くロボたちは、若々しく輝いている。しかし良く見ると、ロボットごとに出来具合が違う。どこからどこまで人間そっくりなロボもいれば、表情の不自然なロボもいる。中にはハリボテ人形のような粗悪品まで歩いているが、これは政府が無償提供する規格品だ。金もなく百歳を越えた高齢者は、ボディが粗悪品でも離脱する者は多い。貧乏人は生活に満足感を得られない。政府の過剰宣伝もあって、つい月世界を夢見てしまう。ロボットはいわば地球でいうお墓のようなもので、遺族がロボットにどれだけ金を掛けたかの問題だった。政府は脳データを無料でコピーしてくれるが、ボディのお金は三割しか出さなかった。

「嗚呼、僕はこの嘘っぱちの世界を地球に紹介するためだけに作られた、ってよ!」

 ピッポはヒステリックに叫んで頭をかきむしった。

「この映像は送られているんでしょ?」

 ポール・キッドは心配そうに尋ねる。

「だからってクビになるわけじゃないし、送還されるわけでもない。ここは人魂の終の棲家だからね。君たちアバターは、哀れなご主人に安らかな死を与えるべく、ここにやってきた。僕はその一部始終を地球に送り、君たちとのコラボが終われば、隕石に当たるまで楽園の映像を地球に送り続ける。僕がなにをわめこうと、あっちじゃカット、トリミングして、老人たちを偽りの楽園に誘い込む宣伝映像を創っていく。で、君たちは記憶を取り戻したとしよう。死んだ両親や友達と再会できたとしよう。その後、永遠に楽しい時を過ごせると思うかい?」

「少なくともパンフレットはそう語りかける」と二十歳のポール。

「嘘さ。パーソナルロボにも死はあるんだ。ここにも金の力は有効だ。貧乏ロボットの修理工場は無いのさ」

「というと……」

「あれを見ろよ」

 ピッポが指差すと、道の向こうから松葉杖の青年がやってきた。右の頬がえぐられ、右足の膝から下が無かった。欠けた金属製の頬骨が、光を受けてキラリと光る。若い女性が寄り添っていた。

「どうしたんです?」とポールが聞いた。

「妻にやられた」

 青年は辛そうに答えた。

「あなたが壊した?」とピッポ

 彼女は黙ったまま、首を横に振った。

「彼女、昔の恋人ですよ。こっちで再会できた。それでよりを戻したってわけ。そしたら、十年後に女房がやってきて、大きな岩を持ち上げて投げつけたんです。ロボットは力持ちだ」

「医者には?」

「有料の修理場ならありますよ。地球の遺族なんかが金を出すんです。女房が生きていたら、きっと出したでしょう。しかしあいつは死んで、僕に岩を投げた。動かなくなったらスクラップです」

「奥さんは?」

「もちろんスクラップ行き。地球でもお騒がせロボットはスクラップでしょ。ここでも法律は有効です。天国に刑務所はありませんからね。追放のみ。いいですか、ロボットでも心は人間だ。こっちでもドロドロ、ネチャネチャの人間関係は続くんです。バカはバカ、頑固は頑固のまま」

「パラダイスなんて嘘っぱちだ!」

 ピッポが拡声音を発したので、青年は慌てて制止する。

「やめてください。問題行動はナシ。治安警察はちゃんとあるんです。スクラップになりたければ別ですけど」

「天国にも秘密警察か……」

ピッポの皮肉とともに三人は立ち去ろうとしたが、愛人に呼び止められた。

「ひとつお願いがあるんです。彼、意気地がなくて」

「ハイ?」

 三人は同時に声を発した。

「スクラップ場は見学自由です。地図にもありますよ」

十歳のポールが地図を開くと、女性は指差す。「公開解体場」と書かれていたので、三人は驚きの声を発した。

「問題ロボが解体されて、二カ月間晒されます。その後、地球からの面会がないロボは月面に上げられて、無縁仏になります」

「で、お願いっていうのは?」

 ポールが尋ねた。

「彼の奥さん、一カ月前に解体されたんですけど、脳回路は切られていないんです。真空モードで喋り続けるの。音じゃなくて電波でね。その声が私に聞こえる。気味が悪いわ」

「僕は勇気がなくてね」

「オッケー、回路を潰す?」と気軽に引き受けたのは、やけっぱち気味のピッポだった。

「殺人じゃん!」とポール・キッド。

「たかがロボットじゃん。しかし、どれが奥さんか分からない」

「私が案内しますわ。彼は行かないでしょうから」

「僕たちも遠慮するよ」

 ポール・キッドが言うと、ピッポは怒り出した。

「ダメだよ、映像にならない」

「そんなん地球に送る気かよ!」

 今度はポールが怒り出す。

「僕には映像を切るスイッチがないんだ。すべて真実を送るようにできている。編集するのは地球の奴らなんだから、なにを送ろうとお咎めはなしさ。しかしカメラマンとしても、真実を撮り続ける義務があるんだ。造反ロボットの処刑場。そこには君たちの姿も必要だ。だって君たちの主演映像なんだからな。脳回路をぶち壊すのは二十歳のポール」

「冗談じゃない。しかも十歳のポールには酷だよ」とポール。

「仕方がないな……。君は来てくれるんだね?」

 ポールが頷くと、「僕も行くよ」とポール・キッドは前言を翻した。

「みんなみんなロボットじゃん……」

「いや、行っちゃいけない。君はまだ十歳なんだ。この宇宙にパラダイスなんかないことを覚るには若すぎる。君は人としての心をもっている。コピーだけど、かつてフニャフニャの脳味噌で考えていたデータと変わりはない。君は血が出ないし呼吸もしないが、人間としての尊厳がちゃんと脈打っているのさ」

 そう言って、ポールはキッドの頭を撫でた。

「じゃあここで待っていろよ」とピッポ

「バカバカしい。体は十歳だが、脳味噌は二一歳なのさ。記憶喪失の治療に脳内情報をデータ化したんだ」

「しかし大人のポールはポール爺さんの脳味噌だ」

 ピッポの言葉に、ポール・キッドは黙って頷いた。地球のポール爺さんは、できれば少年時代の脳情報をインプットしたかったのにデータがなかっただけの話で、その分ポール・キッドはできるだけ子供の感情を取り戻す必要があった。自分の記憶はないので、周りの少年たちを観察して子供らしく振舞うぐらいが精一杯。それらしくワイワイやっていれば、精神というやつはだんだん幼稚になっていくものだ。

 

(六)

 

 五人はひとまず出店のベンチに座って、ココナツジュースを飲んだ。紙コップに満たされたジュースは個体で、そこにストローを刺して吸い込むと、液体の喉を通過する感覚が再現される。同時に舌や口腔のセンサーが感知して、かつて感じた香りや味まで再現してくれる。顔面を壊された男は、鼻の穴にストローを刺した。一人ピッポが飲まなかったのは、パーソナルロボでなかっただけのことだ。使役ロボットは食事を楽しむ必要がないのだから、味覚センサーを取り付ける必要もなかった。

 三人の店員もパーソナルロボで、働くという生前の習慣を捨て切れなかったというよりか、働かなくても存在し続ける退屈さに飽き飽きとしたからに違いなかった。地球と同じ昼夜があり、二四時間という割り振りもあり、睡眠モードに切り替えれば意識はなくなる。栄養を摂る必要はなくても、ロボのほとんどが食事する習慣を続けている。すべてイミテーションだが、味も香りも触感も本物と変わらない食品サンプルで、くわえるだけで噛み砕いた感じも喉を通過する感じも、満腹感すら味わえるようになっている。

しかし働いていた昔と違って、昼の八時間をどう過ごすかが問題だ。ゴルフやテニスをする者もいれば、ダンスを楽しむ者もいる。アルバイトをする者はいるが、賃金制度はないからボランティアと言ったほうが似合っている。しかしボランティアといっても、空いている店に勝手に入り込んで、棚に置いてあるジュースらしきものをテーブルに座った客に提供するだけの話だ。給仕に飽きれば、そのまま消えてしまってもお咎めなし、というわけで、五人が座っているうちに、三人の店員も海水浴に出かけてしまった。

 

 男と十歳のポールは店に残り、女と二十歳のポール、ピッポの三人で地図を片手に「公開解体場」に向かった。小一時間も歩くと広い砂浜に出て、海水浴客がデッキチェアにもたれて日光浴をしている。遠くの波打ち際では、子供たちがキャッキャと騒ぎながら水遊びを楽しんでいるが、それが本当なのか単なる映像なのかも分からなかった。ただ一つ言えることは、ここには生命の痕跡しかないということだった。ひょっとしたら地球上にも「現在」という一瞬にしか生命はないのかも知れないとポールは思った。過去はすべて痕跡で、未来はすべて不確実な幻影だとすれば、あちらの人間たちもロボ・パラダイスの住人と変わるところがなかった。ここで未来と言えるものは、地球からやって来る新しい仲間たちや面会者ぐらいなものだが、あちらで言う「現在」も、ここでは過去に飲み込まれてしまっている。ロボットたちは幽霊のように、過去の空間に生きているだけだった。いや、あっちの「現在」だってほんの一瞬で、すぐに錆び付き、過去になってしまうのだ。

 それが証拠に、過去は夢のような記憶だから、ぶつ切り状態で羅列してもおかしくはなく、海水浴場のすぐ奥に公開解体場が現われたのだ。入口の門には「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」と書かれていたので、三人は笑いこけた。

「ロボ・パラダイスの住人に何か希望があります?」と愛人。

「だって、こっちで昔の恋人に再会できたんでしょ?」

 二十歳のポールが言うと愛人はニヤリと笑って、「再会するまではね……」と意味深な言葉を返した。

 

 三人が門をくぐると、暇を持て余していたボランティアの案内嬢が出てきて、「見学ですか?」と尋ねる。愛人が事情を説明し、案内嬢は三人を管理事務所に案内した。その後ろで、ボランティアの警官ロボが三人、造反ロボを後ろ手に縛って解体場に連行していく。ロボ・パラダイスでは、すべての仕事が無給で、つまりはボランティアということになってしまうが、地球の人間と変わりなく生き生きと仕事に励んでいた。

「所長、騒音被害のお客様です」

 所長は机を離れて、「どうぞどうぞ」と隣のソファーに導いた。一通り愛人の話を聞いた後、「ぶっちゃけた話、データ抹消に関しては地球の許可が必要でして……」と面倒くさそうな顔つきになった。

「つまり、あちらの墓と同じように、親族が誰もいないということでしたらできるんですが、一応対象者の人間番号をお伺いしてですね……」

「少なくとも、お金を出す親族なんていませんわ。とにかく何とかしてください。私、気がおかしくなりそうなんですから。たったいまでも、殺してやる、殺してやるって、私の脳回路に真空モードで音声信号を送ってくるんです」

「お辛そうですね。とりあえず応急手段として、鉄仮面をご用意しましょう」

「鉄仮面?」

 ピッポが素っ頓狂な声を発した。

「なに、有害電波を妨害する金属製の筒です。頭部にそいつを被せれば、音声信号は外に飛び出しません」

 

 所長はロッカーから銀色の筒を出し、「じゃあ、ご一緒に」と言って事務所を後にし、三人もとぼとぼと付いていく。途中で通過した刑場では、先ほどの造反ロボが解体されている最中だった。暴れるロボをうつ伏せに倒し、その体の上に三人の警官ロボが乗った。

「お願い! もう二度としません。助けてください」

 大のオジサンが泣き声を発する。

「地球の命令なんだ。悪いな」

肩に乗った警官が首の後ろに付いている緊急用の赤いボッチをつまんで思い切り引き抜く。命のワイヤが五十センチ飛び出した。すると頭部が胴体からポンと抜けて十メートル飛んでから地面に落ち、顎をがくがくいわせた。警官たちが立ち上がると男も立ち上がり、首を探して鶏のようにヨロヨロ歩き回ったが次第に落ち着き、急にバタッと倒れて五秒ほど体を痙攣させ、その後は微動だにしなかった。ボディはご休憩。警官の一人が頭部を持ち、あとの二人は胴体をしかるべき所に引きずっていった。訪問者三人は慌てて自分の首の後ろに手を回した。真ん中のちょうど背骨の突起部分に赤いボッチがイボのように飛び出ている。そいつを引っ張ると首が飛ぶとは思ってもいなかったのだ。

 胴体を運んでいった所には、大勢のロボたちが詰め掛けていた。どれも体のどこかが壊れていて、交換できる部品を探しに来ている。地球で修繕費が払われない連中は、ここで壊れた部分のパーツをもらい、自分たちで直す以外ない。愛人の男も、頭部以外の壊れた部分を漁りに来たいのだが、女房の呪いの信号を怖がって、ここに近づけないでいる。

 

 どうやら所長は、頭部を抱えた警官と同じ方向に歩いていく。首を刎ねられた男は顎を震わせながら、「ふざけやがって!」などと叫び続けた。警官も髪の毛を持って、噛み付かれないように首をぶら下げて運ぶ。首塚と書かれた看板には、広い首塚の案内地図と説明文が各国語で書かれていた。入り口近くの首塚は種分け前の塚で、解体された首が最初に積み上げられる場所だ。次の首塚は、十年以内に訪問客のあった者が積み上げられる場所だ。再度訪問される可能性があるので、訪問予約が入った時点で脳神経回路を洗脳して悪い根性を消去し、別に保管されていた胴体と合体し、生き返すことになっている。しかしロボ・パラダイスにおける居住者の寿命は地球の推進寿命と同じ百年で、こちらは厳格に百年後、身体は解体され、脳神経回路も破壊される。

 最後の首塚は、月面に廃棄される首たちで、十年以上訪問客が来ない連中である。まれに訪問の予約が来る場合はあるが、そのときはボランティアが月面に出向いて、廃棄場から探すことになる。それで、脳神経回路は壊されないまま捨てられる。首は電子タグを付けられて廃棄されるので、探すのもさほど大変ではなく、酸素無しでは腐食も進まない。隕石で壊れたという記録も無かった。ロボットのスクラップ場は、重要機密事項なので地球の家族との面会時に話すことのないよう、面会場での会話はすべて盗聴されているのだ。違反した場合はもちろん、スクラップという結果が待っている。ロボたちは意識のあるまま捨てられることを恐れていて、いままで誰も内情を漏らしたことはなかった。

 

 男の妻は、種分け前の首塚にストックされていた。首たちは一辺が十メートルほどの正方形の棚に積まれていて、その高さは百メートル以上あった。首たちの口はテープで塞がれていて喋ることはできないが、ウーウーという唸り声の合唱が鳴り響いている。昼間の光で電池はフルになっていて、意識が無くなることもない。電源を切るのが面倒なので、そのまま積み上げられてしまっている。所長が妻の人間番号を機器に打ち込むと、五メートルほど上の棚が前にせり出して下に降りてきた。首たちの真ん中辺りで電子タグがピカピカ光っている。所長は頭たちの上を歩いてお目当ての髪を引っ張り上げ、愛人の前の台に乗せた。

 男の妻は百歳になってから安楽死を選んでここに来たが、顔つきは二十代で若々しかった。愛人は呪いの電波で頭を抱えながら、突然妻の口に張られていたテープを引っ剥がした。すると妻は罵声をけたたましく浴びせたが、愛人はすっきりとした顔付きになった。どうやら呪いの電波が音波に変わって、頭痛の種が消えたようだ。

「あんた、よくもうちの亭主を横取りしたわね!」と叫んで、妻は残っていた唾をありったけ吐き付けた。機械油と混ざって茶色く変色していて、愛人の顔が斑になったが、愛人は黙ったまま、不気味に笑っている。

「あたしゃ亭主が死んでから、一日としてあいつのことを思い出さなかったことはなかった。百歳になって死んで、ようやくあいつに会えると思ってここにやってきたんだ。それを横取りしやがって、ちきしょう、何とか言ったらどうだよ。覚えていろ、殺してやる!」

 愛人はハンカチを出して顔を拭き、そのハンカチを妻の口に突っ込んだ。妻は愛人の手を噛み付こうとしたが失敗し、ハンカチをくわえたままフガフガしている。どうやら舌の裏側に入ってしまったらしく、押し出すこともできないのだ。

「これで、口テープを取りに戻ることはなくなりましたね」と言って、所長は苦笑いした。

「それじゃあ、お願いします」

「いえ、私はボランティア所長ですからできません。明日は違う所長が来る予定です。こういうことは貴方か、貴方の同伴者が責任を持ってやってください。責任を持っちゃうと、首塚入りの可能性も出てきますからね」

 愛人がピッポに目配せすると、ピッポは淡々と妻の髪の毛を引っ張り上げ、元の位置まで持っていってはめ込み、「取材スタッフのやらせかしら」と言ってベロを出した。愛人は再開した妨害電波に顔をしかめながら、筒を妻の頭に被せ、すっきりとした表情で戻ってくる。所長は棚を元の位置に戻して、一連の作業は終了した。

「取材が来る話は聞いていますよ。しかし、ここまで地球に見せますか?」

 ピッポはニヤニヤしながら首を横に振り、「しかしここに、ポールの知り合いがいるかも知れないですね」と言った。

「それは難しいな。最前列しかあなた方を見られないし、口も塞がれている。しかし、万が一ということもありますからね」

 所長は事務所に戻り、愛人は「ありがとうございます」と礼を言って、そそくさと去っていった。ポールは気分が悪くなって、ここから出ようとしたが、ピッポは腕をつかんで止めた。

「来たからには、一応は捜すべきさ」

ピッポは繊細な感性を持たない専門職ロボットだった。二人のポールを追い続けるパパラッチのようなもので、プロデューサはそれ以上のものを要求はしていないものの、適切なアドバイスは業務の一環だった。ポールはピッポの意見に従った。

 

魂が天国に来たって、魂が変わらなければ地上と同じ揉め事が再発するに決まっている。しかしここには裁判所も無く、裁かれるときは機械扱いだ。コピー脳に人権が無いなら、アウシュビッツユダヤ人と同じ立場になる。ここは全住人がロボットの村社会で、当然人種的な差別というものはない。死んで自己が消滅することを恐れ、多くの人間がロボ・パラダイスを選択する。しかし生前の気質をそのままコピーしてやってくるものだから傷害事件も絶えず、地球の見識ではあくまでロボットのため、即座に解体される。遺族の多くも、いまは亡き愛する人そのものとは思っておらず、あくまで思い出をよりリアルなものに再現しようと、月にやってくるのだ。

地球ではパーソナルロボットの月面解放は考えていない。居住地区は洞窟の中に制限され、過剰ロボットになりつつある。だから問題ロボットは、脳回路の悪い気質やバグをクリーニングすることもなく、解体されてしまうのだ。ロボットたちはこの現実を恐れて日々遠慮がちに生活するけれど、カッとなる気質の連中は自己制御ができなくて、ここに来ることになる。人間だと思っていた彼らが機械扱いされるというのも皮肉なことで、特に地球からの訪問者がいない連中は、リセットされることなく無縁仏として葬り去られてしまうのだ。

 

(七)

 

 二人はとりあえず、月面に廃棄する予定の首塚に行くことにした。ほかの二つの首塚では口にテープが貼られていて、話をすることもできない。しかし月面廃棄予定のグループだけは貼られていない。月面は真空のため、音波は通らないからだ。だから月面待ちの首塚だけは分厚い壁に仕切られ、罵声などが外に漏れないようになっていて、扉には「関係者以外立入禁止」と書かれていた。ピッポは「僕たちはお咎めなしさ」といってドアを開けた。するとたちまち、罵声の合唱が飛び込んできた。

 二人が入ると、音量が倍ほどに膨れ上がる。千首以上の連中が一斉に喚くものだから巨大な雑音になってしまって、言葉などはまったく聞き取れなかった。二人は塚の道側に立って、ピッポは口から出任せに「我々は地球からの視察団だ。この現状を地球に伝えるためにやってきた。静かにしてくれないか」と打つと、急にシーンとしてしまった。

「君たちの中に、僕のこと知っている人いる?」

 ポールが聞くと、「知ってるよ」とどこかで声がした。たちまち、「ウソだウソだ!」と大音響が復活し、もう収集が付かなくなってしまった。しかしポールは、十メートル四方の首塚の周りを右に回り始めた。声を聞いて、それが少年の声だと分かったし、正面ではなく右側から聞こえたし、高いところからでもなかった。二人が入ったときに、右側面からはポールの顔も見えただろう。

 

 地球の視察団ではないと分かった連中は、容赦なく唾を浴びせた。ポールは目線の高さに少年の首を見つけ、側に近付いて言った。

「僕を知っているの?」

「幼なじみのエディだろ? 君は大人だけど面影がある」

「僕は記憶喪失なんだ。君とはじっくり話がしたいな」

「でも、僕はこんな状態で、もうすぐ月面送りなんだ」

「心配するなよ」

 ピッポが口を挟むと、いきなり少年のプレートを引き出し、髪の毛をつかんで引っ張り上げた。

「イテテテ、手荒だな!」

「助けてやるんだ、我慢しろよ」

 

 少年はジミーといった。二人はジミーの首を持って、事務所に戻り、所長に胴体の返却を要求した。

「私の責任じゃありません。胴体の保管倉庫は事務所の裏側にありますから、ご自分で探してくっつけてください。私には一切責任はありません。首に付いたタグの最初の番号が棚の番号です」

 胴体の収納庫は、巨大な物流倉庫ぐらいの大きさがあった。タグを見ながら同じ番号の棚に行き、所長から借りた発信機のボタンを押すと、百メートルほど先の柱が青く点滅した。二人が付いたときにはすでに棚が回転していて、海パンを穿いたジミーの小さな胴体が前にせり出していた。

「君は何歳のときに死んだんだい?」

 ポールが聞くと、ジミーはニヤリと笑いながら「十歳のときさ」と答えた。

「病気?」

「事故さ。君はまったく覚えていないんだね。そうか、君は記憶を取り戻すために死んでここへ来たんだね。記憶には、思い出して得にならない記憶もあるんだよ」

 ジミーの意味ありげな言葉に、ポールの心は揺らいだ。

「さあ、早く首と胴をくっ付けてくれない?」

「その前に、ボランティア所長から言われたことがあるんだ。君は生き返るんだから、二度と過ちを犯してはならない。いったい何を仕出かした?」とピッポ

「難しい話さ」と言ってジミーはしばらく躊躇っていたが、「つまり、ここからの脱走を図ったんだ。月面を自由に歩きたかっただけさ」と説明し、それ以上は語らなかった。

 

 

 首と胴は簡単に接続することができた。しかしタグを外す道具はなかった。事務所に戻ると、六人のボランティア警官が来ていて、ジミーに注意を促した。タグを取ることは許されない。取材陣の仕事が終わった時点で、再び首が分離され、最終的には月面に放置されるということだった。地球からロボがどんどん送られてくるので拡張工事は後手に回り、問題のあるロボはどんどん廃棄されるという自然の流れだ。

「ついでにもう一人、救済してもらいたいロボがいるんだ。彼には欠かせない人物で、きっと彼女を見たら思い出すに違いないんだ」

「しかし、君が嘘つきでないことを証明できるかね?」

 巡査部長が尋ねると、ジミーはしばらく考えていたが、軽く手を打って、「少なくとも僕とエディが友達だってことはね」と言った。

「君の右手首の外側には小さな痣があるんだ。それって、生まれたときに頭じゃなくて右手から先に出てきたんで、医者が無理やりお腹の中に戻したときに付いたんだって、君から聞いたよ」

「痣があるのは事実だけど、その理由は覚えていないさ」

 ポールはシャツをめくり上げて、巡査部長に手首の痣を見せた。巡査部長は軽く頷き、所長を呼び出した。

「これで分かったろ。君はエディさ」

「分かった。これから僕はエディだ」

 

 

 チカの救出はジミーとはまったく違うことになった。彼女はすでに月面に運び出され、捨てられていたのだ。ボランティア所長は、月面作業マニュアルのチップをピッポに渡して、消えてしまった。月面に出たことがないのだ。警官たちも巡査部長を含めて三人は逃げてしまい、残る三人は興味本位で月面に出ようと思った連中だ。ピッポはマニュアルのチップを耳の後ろに刺して所長の代わりを務めることになった。チカの人間番号を発信機に入力し、続いてオープンボタンを押すと事務所の天井にあるハッチが開き、梯子が下りてきた。

 直径一メートルほどの円形の通路が垂直に伸びていて、出口はまったく見えなかった。ピッポを先頭に、五人は次々に梯子を登っていく。結局月面までは五百メートルもあって、出口のハッチを開けると、ピッポの目に飛び込んできたのは大きな地球だった。ピッポは無関心な様子で、出口から二メートルほど下の地面に飛び降り、土煙を立てた。次に顔を出したエディは、遠い地球を少しばかり懐かしんだ。彼は百歳まであそこに暮らし、離脱してこのネクロポリスにやってきた。老ポールは自分の心を分離してまでも、忘れてしまった過去を思い出そうとしている。自分のアイデンティティを取り戻し、幸せな気分で死にたいと願っている。しかしアバターの自分は、極楽とは名ばかりのネクロポリスに留まって、あと百年生きなければならないのだ。

「あの綺麗な地球で何が起きているのか、僕は知っているんだ」

 ジミーが真空モードの電波音声を通して意味不明なことを言ったので、エディは「何が?」と尋ね返したが、ジミーはニヤリとしただけで何も答えなかった。

 

 側に車輪と床と椅子だけのソーラーカーが置いてあって、全員が乗り込むと勝手に走り出した。車は激しく光る太陽に向かって走り始めた。強烈な陽光が地面の色を灰白色に染めてしまい、まるで死の灰の上を走っているようだ。しかし舗装した道ができているので、車が激しい振動を受けることはない。遠くには、無人の重機が一塊になって作業を行っている。相変わらず、故郷の地球がエディを感傷的にさせていた。あそこでは、オリジナルの脳味噌が分身の任務達成を期待している。彼にしてみれば、自分は生霊のような存在なのだろう。

 しかしエディはオリジナルほどの情熱をなくしていた。失った記憶の断片が、人生にとって何の意味があるというのだ。明らかにエディは老ポールとは別の人格だった。一つの想念だって、立場や環境の変化で別人のように変わってしまう。分離した脳データが、それぞれ別の感覚を得てしまうのは仕方のないことだ。

エディはオリジナルの酔狂で勝手に作られ、人間どもの酔狂で勝手に作られた洞穴天国に送られ、もう二度と故郷の土を踏むことはない。しかし老ポールも、忘れてしまった過去を思う時間など、人生の中でそう多くはなかったに違いない。真実を知ってから死にたいだけだ。死ぬ前に世界中を旅行して、自己満足の中で天国に旅立つ連中と変わりはしない。

 

地球の周りには満点の星がキラキラと輝いていた。この壮大な宇宙を知ることもなく、ピラミッドをみたことに満足しながら死んでいく老人のために、ほとんど同じ人間の感性を与えられたロボットが、人身御供としてこの地獄に送られてくるのだ。

「君たちは地球からきた撮影隊だろ? いったいこいつがどんな罪を犯したか知っているかい?」

 痩せた警官がジミーを指差しながらエディに尋ねた。ジミーはニヤニヤしながら黙っている。エディもピッポも同じように黙っていた。

「これから捜しにいく女も同じさ。こいつらはテロリストさ。月を自分たちの領土にしたがっているんだ。地球じゃ死んじまった人間だが、こっちじゃ立派に生きている。ならば、狭い洞窟なんかに押し込まれずに、月全体を自分たちの領土にしちまおうっていうのが、こいつらの考えなんだ」

「それが本当なら、いまの台詞はリアルタイムで地球に送られているからな。おそらく政府関係者もびっくりしているにちがいない」とピッポ

「俺も地球じゃ警官をやっていたんだ。テロリストに撃たれてこっちにやって来た。しかし、忠誠心は今でも変わらない。地球のお役人には安心しなさいと言ってやりたいね。地球に忠誠を誓う連中はいっぱいいて、ボランティアの警官になって悪人どもを次々に検挙しているのさ」

「酷いものさ。大昔の魔女狩りみたいなもんだ。怪しい奴らを次々にとっ捕まえて、裁判も受けさせずに首を刎ね、ゴミ捨て場に放り投げる。裁判所なんかないから、やりたい放題なんだ」とジミーは大人っぽいことを言って、苦笑いした。

「しかし、こんな荒涼とした月面を開放しないなんて、地球の連中も度量が狭いな」

 エディが言うと、太った警官が「月には生きた人間も入植しているんだぜ」と返した。「連中は死人が月面を徘徊するのが嫌なんだ。奴らの考えでは、俺たちは気味の悪い幽霊か無能なロボットさ。人間じゃない。死んだ知り合い以外とは話す気もない。だから俺たちは洞窟の中に閉じ込められ、壊れたら月面のゴミ捨て場に捨てられる。所詮ロボ・パラダイスは、安楽死を進める地球政府の宣伝用セットみたいなものだ」

「僕たちテロリストの仲間に入るかい?」

 ジミーは太った警官に顔を向けてニヤリと笑った。警官は肩をそびやかす。

 

一時間ほどで廃棄場に到着した。そこは周囲二ロほどの古い隕石クレーターで、外輪山に開けられたトンネルを出ると、平らな土地が広がっていた。車が入ったことを悟り、遠くの首塚から真空モードで爆発音が聞こえてきた。首たちが一斉に喋り出したのだ。車は首塚の脇で勝手に止まった。巨大な山で、先ほどの塚の十倍の大きさがある。全員が車を降りると、耳をつんざくような電波音はピタッと止まった。

ピッポが発信機をいじると、画面にチカの位置が示された。車の後ろに首を除けるスコップが詰まれていたので、ピッポ以外の全員がそいつを使って邪魔な首をどかしていった。スコップに一首ずつ乗せては後ろに投げる。微少重力下で首は五十メートルも飛ばされていった。チカの首を出すには三十分もかかった。耳たぶに付けられた人間番号の札が赤色に点滅している。

ジミーが周りの首どもを蹴落としてチカの髪を摑んで持ち上げ、まるで大将の首を討ち取ったかのように見せびらかした。チカの青ざめた顔を見て、エディは鼓動信号が火事場の早鐘のようになり始めたことに驚いた。その原因は失った記憶の断片が蘇ったのかもしれなかったし、単にその美しさにときめいたのかもしれなかった。ジミーのような子供ではなかった。髪はひどく短く、一つひとつが緩くカールして、形の良い頭に蔦のように絡み付いている。丸く高い額の下は強烈な日差しの影となり、大きな瞳が薄い光を発してエディを見つめていた。ジミーはサロメのようにチカの唇にキスをして、しばらく唇を離そうとしなかった。ようやくジミーが口を離すと、チカは大きなため息をついてエディを見つめなおし、「エディ、ようこそこの地獄へ」と呟くような小声で言った。

「さあさあ、早くチカのボディを探さなきゃいけない」

 チカの首をぶら下げたまま、ジミーが先頭となって首を蹴散らしながら麓に下り、車に戻った。車は自動的に、ボディの捨て場に向かって走り始める。

 

 月面車は外輪山のトンネルを抜けて「首のクレーター」を後にし、隣接する「ボディのクレーター」のトンネルに入った。ここでは首を無くしたボディたちが、行く当ても見失ってうろついている。太陽電池は常に満杯だが、まったく意識を失っているため、ひたすら足を動かし、丘や崖に当たれば方向を転換するだけのことで、よじ登ることもしない。車はうろつくボディを撥ねながら中心の小高い丘に登り、そこで止まった。丘は十メートルほどの高さがあり、周りの平地でうろつく無数のボディたちを眺めることができた。

「ここでチカさんの体が来るまでじっくり待つんだ」といってピッポは発信機のボタンを押した。

 二十分ほど待つと、水着姿のナイスバディが信号に引き寄せられて登ってきた。二人の警官がボディを車に乗せ、チカの首をボディにカチャッとセットしたとたん、チカの脳回路とボディは一体化した。

「ありがとう。ジミーも私も生き返ることができたのは、貴方のおかげかしら?」 

 血の気を取り戻したチカは、顔面を赤くして瞳を輝かせた。見つめられたエディは、同じように顔を赤くして見つめ返したが、大きな瞳に吸い込まれそうな気がして、思わず目を逸らしてしまった。まるで罪人のような負い目を感じたからだが、それは忘却した過去の領域からやって来るもののように思えた。

「エディは百歳で死んだんだってさ。僕は十歳で死んだんだ」とジミー。

「私は二十歳で死んだのよ」

「二十歳? 何が原因で?」

「貴方が殺したの」

エディの顔面から血の気が失われるのを見て、チカは慌てて前言を翻した。

「ごめんなさい。これは冗談。誰かに殺されたけれど、その記憶はデータにないわけ。誰一人、死んだ時の記憶を持ってここに来るロボットはいないわ」

「ということは、犯人は見つかっていない?」

「そう、貴方は容疑者かもしれないけれどね」

 チカは笑いながら答えた。

 

 

(八)

 

 エディたちは、同じルートでロボ・パラダイスに戻った。警官たちは疲れた様子でだらしなく、事務所の椅子に腰かける。パーソナルロボの電子回路は、故人の疲労感までも忠実に再現してしまう。

チカとジミーは手を繋いで廃棄場の管理事務所から出ると、チカは振り返って「付いてくる?」とエディに聞いた。しかしエディはエディ・キッドを置いてきてしまったことが気にかかっていたので、「仲間が待っているんだ。彼は十歳の僕さ。ジミーと同じ歳なので、僕よりも思い出すかもしれない」と、一緒に来てくれることを期待した。

「ジミー、行きなさいな。私はママを喜ばせなければ」

「そうだね。君はそれがいい」とジミー。

 チカはそそくさと、海岸とは反対側の岬に向かって走り始めた。

「あの岬はVRだろ」

 ピッポが聞くと、ジミーは首を横に振った。

「僕たちはね、ずっと前からエディのことを話していたんだ。地球から、いまも元気な幼友達が面会にやってきて、君の行方不明も話題になったりしてね。君のママもこっちに来て、君が消えてしまったことを話してくれた」

「しかし僕は、その人もママも知らない」

 エディは肩を落とした。

「すぐ思い出すさ」

ピッポはハハハと笑いながらエディの肩を軽く叩き、もと来た道を元気よく歩き始めたので、二人もそれに従った。「そうだ、すばらしい海岸じゃないか」とエディは呟き、思い切り空気を吸った。潮の香りと浜木綿の香りの混ざったような生暖かい人造空気が、鼻のセンサー群を軽くからかって、理由のない感動を引き起こした。幼少期の懐かしい匂いを思い出したわけではない。たぶん海から海岸に這い上がった遠い祖先の感動が一つの遺伝子として代々残り、電子回路が忠実に捕らえてインプットしたのだろう。ならば必ず、忘れてしまったエディの過去もバグ扱いされて、回路のゴミ捨て場にガムのようにこびり付いているに違いない。ロボ・パラダイスという新天地が、そいつを引き出してくれる可能性は十分あった。

「チカ女王様の命令で、パラダイス拡張工事のロボットたちに、僕たちの別荘街の景色をそっくり再現してもらったのさ。チカは廃棄されるまではパラダイスの環境デザインをやっていたんだ。海だって、沖合十キロまではちゃんとした海。もちろん無重力だから、水の代わりに重い液体が入っている。僕たちも重いから、地球の海とまったく変わらない。思う存分泳げるし、ヨットだってスーイスイ。で、これもみんな君がこっちに来たときのことを考えてのことなんだ」

「僕の記憶を取り戻すために? ウソだろ?」

「そう、女王様が熱心なんだ。いや、熱心なのはお兄さんのほうかな……」

「お兄さん?」

「双子さ。君の親友だよ」

「何歳で?」

「僕と同じ十歳」

「何が原因で?」

「それは本人から聞いたほうがいいな。ほら、あそこで男の子と話をしているよ」

 

 エディ・キッドと兄のチコは、店の前のデッキチェアに腰かけて話をしていた。エディはその顔を見てアッと声を出した。男と女という二卵性双生児なのに、チカと瓜二つの面立ちだった。チコがそのまま二十歳に育ったのがチカといった感じだ。

「珍しい準一卵性双生児かもしれないな」とピッポ。チコはジミーを見ると立ち上がって走ってきた。二人はハグをして、しばらくの間離れなかった。

「チカを月面から助け出したんだ。今頃、ママとハグしてるさ」

「まるで奇蹟だね。君たちのことはエディ・キッドから聞いたよ」

 チコはエディに近付いて右手を差し出し、「君は僕とは反対に、百歳まで生きたんだって?」と話しかけた。エディはチコの手を握り、思わず身震いをした。背中に電流が走ったのだ。

「どうしたんだい、手が震えているよ」

「ああ、きっと君の手の感触が、忘れていた何かを思い出させたんだ」

「エディ・キッドもさっき同じことを言ったよ。だから答えてやった。君は僕を看取ったからさ、とね」

「僕が君の最後に手を握った……」

「僕も覚えているよ。僕もあのとき、チコと一緒に死んだからね」とジミー。

「つまり、君たちは水難事故で?」

 エディとエディ・キッドは驚いて顔を見合わせた。

「この企画は散々だな」

 ピッポはそう呟いてバンザイしたが、釘を刺すことは忘れなかった。

「しかし、ディレクタからは、すんなり解決しないでくれと言われているんだ。二時間番組だからね。あっちがボツにしようと、こっちは言われたとおりにやる以外ない」

「もちろん、僕たちが死んだいきさつは、エディ自身が思い出すほうがいいさ。僕たちが話しても、それは死んだ僕たちの感覚でしかない。君の思い込みになっちまうかもしれないし、本当に思い出すことにはならないからね」とチコ。

「さあ、僕たちの遊び場に戻るんだ」

 ジミーが先頭になって、五人は芋を洗うような海水浴場を後にした。

 

 

岬は小高い丘が連なっていて、イミテーションの木々が茂っていた。丘の中腹を刻む道の脇に設けられた展望台に来ると、「ほら、ここから僕たちの遊び場が一望できるんだ」とジミーが叫んだ。断崖の際にコンクリの柵が巡らされ、望遠鏡が一つだけ備え付けられている。クマ蜂ロボが二匹、突然の珍客に興味津々、彼らの周りをクルクルと飛び回った。五人は蜂を追い払うことなく、望遠鏡のところにゆっくりと向かった。エディが望遠鏡に手を掛けたときには、興味を失った蜂どもはどこかへ飛んでいき、あたりは急に静まり返った。

似非太陽は真上に輝いている。陽の光は海に注ぎ、海面はシルクの滑らかさで銀色に輝いている。穏やかな海風は夏の訪れを感じさせ、その生暖かさは肌センサーを超快適レベルまで高めた。

柵の向こうは垂直に近い断崖と、その下の波打ち際に広がる奇怪な岩々のジャングル、その先端に打ち寄せる小波は紺色から岩に砕かれて白い泡となり、二色のボーダーがリズムカルに勢力争いを繰り広げている。そして左下には規則正しく立ち上がる白い泡をいつの間にか取り込んでしまう純白の砂浜とその向こうの堤防際の草色、さらにその先には四、五軒の民家のオレンジ色の瓦が微かに飛び出して見える。

エディは望遠鏡を覗き込んだ。その視界には、遠く霞んでしまって、水平線も分からない海と、海岸から五百メートルほど沖に飛び出したタコ坊主のような奇妙な形の大岩くらいしか入らなかったが、その小島がエディの心を動揺させた。それはポールが時たま見る夢の中の小島にそっくりだったからだ。エディが望遠鏡から目を離すと、エディ・キッドがすかさず替わって覗き込み、「あれはマドレーヌ島?」と聞いた。「おめでとう。君の記憶の一つが戻ってきた!」とチコは叫ぶ。

エディはこの岩島の不気味な容姿に胸騒ぎを覚えるだけで、名前すら思い出せないことにいささか失望した。ひょっとしたら、紅茶でも飲みながらゆっくりこの島を眺めれば、失われた過去を一気に思い出すのかもしれなかった。

 次に望遠鏡を覗いたのはピッポだった。エディ・キッドが名前を思い出した島をしっかり眼球カメラに収め、その場で地球に送信した。

「記憶を取り戻す最初のきっかけとしては、画になる島だな」

 エディ・キッドは急に気分が悪くなって望遠鏡から目を離し、新鮮な潮風を思い切り吸い込んだ。エディと同じように、すぐに得体の知れない恐怖を感じたのだ。鼻のセンサーが微かな海の香りをキャッチして快適度を上げ、風は発熱した電子回路を空冷した。ロボ・パラダイスは真空に近かったが、風を起こすために少しずつ人工空気を流している。海岸や山岳などのシチュエーションごとに酸素濃度や匂い成分を変えることができるのだ。しかし、ロボットは酸化を嫌うので、地球のような酸素濃度は厳禁だった。

「これから、いろんな遊び場に行って少しずつ思い出していこうよ」とジミー。

 

 チコは海風に顔を向け、頬をなでるように流れていく湿り気のある軽やかな暖気に目を細めた。クルクルとカールした短い髪が、バーナムの森のように落ち着きなく動き、それを見つめていたエディは、次第にメドゥーサの蛇に変わってきたことに驚いて、思わず目を閉じた。赤ん坊のように愛らしい少年の顔がみるみる蒼ざめて、絵にあるメドゥーサの顔付きになり、体も震え始めた。エディ・キッドはそれを見て、チコ以上に体をガタガタさせた。チコの様子は明らかに見覚えがあった。

「覚えている? この海で僕とジミーは溺れちゃったんだ」

「ダメじゃん。自分で思い出すように仕向けないと」とジミーが慌てて釘を刺す。

「ごめん、時たまフラッシュバックしちゃうんだ」

「いいさいいさ、言っちまったことは編集でカット、あるいは後に出す。でも治療としては、ショッキングなヤツは出すタイミングが必要なんだ。失敗すると、記憶はかえって硬い殻の中に閉じこもって、二度と首を出すことはない。サザエの蓋みたいなもんさ」とピッポ

「でも僕は十歳だよ。大人じゃないんだ。言いたいことは口に出ちゃうのさ」

 ピッポは苦笑いしながら、「君はずっとロボットしていて、ディープ・ラーニングしていないんだね」と皮肉を言った。

 

(九)

 

 美しい風景を見ながら、五人それぞれが陰鬱な気分になりながら、岬の先の別荘街に向かった。道は車一台が通れるほどの広さで、二百メートルごとに車同士が擦れ違えることのできる広い部分があった。しかしもちろん、ロボ・パラダイスでは車もバイクも禁止されている。自転車はあるが、歩いても疲労感は少ないので、あまり乗るロボットはいなかった。走っても、自転車ぐらいのスピードは楽に出る。しかし、全速力で走るロボはあまり見かけなかった。

 後ろからボランティア刑事が三人、後を付けてきた。ジミーは子供でも罪人なので、一応は監視をする必要があったのだ。彼らは職業警官ではないので、それほど真剣に監視をしているわけではなかった。ここは一応天国なので、性善説が蔓延している。犯罪ロボをスクラップにするのは地球からの指令で、こっちの連中が率先してやっているわけではない。ただボランティアをしていると、たまに地球の親族が表彰されたり、金一封をもらったりするのは確かだ。それが親族の月訪問にも繋がってくるというわけだ。

 

 上り坂をしばらく歩くと、岬の先端に出た。大きな広場になっていて、車のない駐車場は近所の子供たちの恰好の遊び場になっていた。広場の花壇を通って柵のある崖っぷちに出る。高い崖の下には両脇を断崖に囲まれた小さな砂浜があり、アベックが二組、日光浴をしていた。この広場の上に禿山があって、別荘街になっていた。かつて現世でここに住んでいた金持たちが、在りし日を懐かしみ、遺族を通して地球の大臣に賄賂を贈り、月に再現させた。そのデザインを引き受けたのがチカだった。付近はチカの遊び場だったので、よく憶えていた。ロボ・パラダイスでは通貨はないが、面会に来た親族が地球で金をばら撒くことは可能で、金持一族の力はお金の無用な月でも威力を発揮することになる。

花壇脇のベンチにチカと二人の若い女性が腰かけ、五人を眺めていた。チコはチカに駆け寄り、立ち上がったチカとハグをした。双子どうしでも、二十歳のチカは十歳のチコより大分背が高かった。しかし、顔だけ見れば、どっちがどっちだか分からなくなってしまう。二人の女性も立ち上がったが、背の高い女性のほうが満面の笑みを浮かべてエディ・キッドに抱きつき、「良く来たね、あなたのママよ」と言った。彼女の右肩は皮膚が剥がれ、金属の骨が飛び出している。年代物のボディだ。

「お母さん?」

「そう」

「お父さんは?」

「あなたが十五のとき、家から出て行ってしまったわ」

「この国に戻ってこなかったの?」

「分からない。私に会いたくないなら、ロボットにはならないでしょう。でも、好きな人がいたんなら、きっと来ているはずね。ここは死別した人たちが再会する場所ですものね」

 さびしそうに笑いながら、エディ・ママは成人したエディに近寄りハグをした。

「貴方も私のことを忘れているのね」

「思い出すにしても、ママたちはチカとそう変わらない若さだもの」

「ここでは男も女も、みんな青春時代をリメイクしたいと思っているの」

チカ・ママが言って、チカとチコの間に割って入った。まるで三兄弟のように似ている。チカ・ママは二人の子供を失い、夫も病気で失って、八十歳でここにやってきた。彼女は浮気性の夫を嫌っていて、先に死んだ夫のロボットを作らなかった。ママがこちらに来たとき、子供たちも文句を言うことはなかった。父親は家を空けてばかりいたので、記憶が薄かったのだ。

 

 

 とりあえず全員で、エディの別荘に行くことにした。別荘地への近道は、広場の脇から出ている崖下の細い道を進んで岬の突端に行き、ジグザグの急な坂道を十分ほど登ると防風林に囲まれた平地に出る。弓状に湾曲した道の両側に、十軒ほどの別荘が建っていた。すべてがパティオのあるスパニッシュ・コロニアル様式で建てられ、南欧風の白い石灰壁とオレンジ色のスペイン瓦で統一されている。家の周りには広い庭があり、家と家の間には目隠しの植栽が施されている。ほとんどのロボットが路上生活を強いられているのに、ここだけは別世界だった。チカの家の前には二人の警官が見張りをしていた。ピッポが一人に近寄って、小声で「君は本当にパーソナルロボかい?」と尋ねる。

「そうさ。生前は警察官だったんだ」

「僕は取材用に作られたロボだから、嗅覚が鋭いんだ。君は偵察用に作られたスパイロボじゃないの?」

「バカバカしい」

 警官は一笑に付した。斜め前のジミーの家にも警官がいて、門の所で両親と話をしている。ジミーは駆け寄って両親と抱き合い、こちらに向かって手を上げてバイバイの合図をした。

 エディの家は、いちばん奥の道が途切れた所にあった。その先は鬱蒼とした森になっていて、分け入るのも難しそうだ。

「あの森には毒蛇がいるのよ」とチカ。

「でも、ここにはイミテーションの森と蛇のロボットさ。そいつは我々を監視しているんだ」とチコ。

「この前、開発業者のロボットがやってきて、地球のここの映像を見せてくれたわ。それには、この森は開発されていて、いまの三倍も別荘が増えているの。だからその住人たちの子孫が、ここの土地の開発を政府に訴えたらしい」

 チコ・ママが言うと、エディ・ママが頷き、「いつ始まるのかしら……」と残念そうに呟いた。

「どっちにしても、私たちの知らない人たちは注意したほうがいい。付き合わないことね」とチカ。

「付き合おうがどうしようが、いたる所に監視カメラがあって、地球に送られているんだ」

 チコが口の前に指を立てると、ピッポは自分の頭を指差し、「ここの話は全部、ここから自動的に送られているんだぜ」と言ってゲラゲラ笑った。

 

 エディもエディ・キッドも、ここが毎年夏になると過ごした家だとは思えなかった。芝生の中のアプローチはやはり弓形に曲がっていた。重々しい玄関扉を開けると、大袈裟なシャンデリアが釣り下がる高い吹き抜けのエントランスホールが現われた。右奥には湾曲した化粧手摺の階段が二階へ向かっている。これはまさに独り者のポールが住んでいた屋敷と瓜二つだが、洋館ではありきたりのデザインかも知れなかった。エディ・ママが玄関左の大きなガラス扉を開くと、広いリビングが現われる。彼女は、その先のコンサバトリーまで行って、ガラスのテーブルに着くように誘った。陽の光が差し込んでいて、心地良さそうな雰囲気があったが、外は花が咲き乱れるパティオになっていて、花々の陰から、警官が一人首を伸ばしていた。

「嗚呼、またも警官!」

 エディ・ママはそう叫ぶと、庭に面したガラス戸を開けて、「コラ! 不法侵入者!」と怒鳴った。警官はニヤニヤしながら逃げていった。

「驚いた。ここも監視国家だな」

椅子に腰を下ろしながらピッポは呟いた。

「ジミーと私はテロリストだからね」とチカ。

「テロリスト? 君はずいぶん昔の人なんだな」

 エディは苦笑いした。地球では久しぶりに聞く言葉だ。人類全員の素生がリストアップされている地球では、この言葉は死語になっていた。

「そう、テロリスト。造反分子。貴方は自分の意志でここに来たのね。でも私もチコも、ママの意志でここへ来た。私はロボットになって生き返ろうなんて、思ってもみなかったわ」

「僕はロボットでもなんでも、生き返って良かったと思っているさ。子供で死ぬのは誰だって嫌だ」とチコが口を挟んだ。

「チカは変わった子なのよ。ここが退屈で退屈でしょうがない。で、暴れるようになったんだ。バカな子」

 チカ・ママがため息混じりに愚痴った。チカはピッポに顔を向け、まずはウィンクしてから演説を始めた。

「ハーイ地球の皆さん。死人を電子化して、こんな所に所払いだなんて、いったい生きてらっしゃる皆さんは、どんな感覚の持ち主かしら。私たちを地球に帰してください。ゾンビ扱いはやめて下さい。地球に帰りたいよう。地球で一緒に暮らしましょうよ。生身の人間と、機械になった死人の間にある壁って、いったい何なのさ。脳味噌がグニャグニャかカチカチかの差以外、何があるっていうのさ!」

「アハハ、この企画は完全にボツやな」

 ピッポが笑うと、それが全員に伝播して、笑いの渦が起こる。一人チコだけが顔を硬直させて、呻くように言った。

「エディは百歳まで地球で暮らしていたのさ。僕は十歳で死んで、地球を追い出された。僕は九十年近くもこんな所に閉じ込められて、あと十年でスクラップにされる。地球が押し付けた法律なんだ。僕は何で、こんなところで生きなければならなかったの? ここは刑務所さ。地球の人間は何で、こんな所に来たがっているの?」

「二人ともおかしなことを言うわ。ママは大分遅れてここに来て、あなたたちと一緒に暮らせて、とても幸せ。私は地球で、とっても寂しい思いをしていたのよ。だから毎年面会に来た」とチコ・ママ。

「地球も退屈さ。ここと大して違わない」

エディはそう言いながら、さっき月面に上がって眺めた地球を思い出していた。あの蒼い星はロボットたちの心の故郷で、そこの土の中にいたほうがよほど近かっただろう。いっそ墓石に電子回路をはめ込んだほうが、幸せだったのかもしれないと思った。そして、パーソナルロボットを地球の見えない洞穴に閉じ込めておく意図も読み取れた。月面で毎日遠い地球を眺めながら暮らしていれば、かぐや姫のようにホームシックに罹り、うつ状態になってしまうのは明らかだった。かぐや姫は毎晩、故郷の月を眺めていたのだ。

 

(十)

 

 夕方になって、チカ一家は自分たちの別荘に帰り、エディ・ママの家には二人のエディとピッポが泊まることになった。ピッポには客間があてがわれ、エディの部屋は、地球から運んだエディの持ち物で溢れていた。エディ・ママは生きているうちにこの別荘を建てて、地球の実家や別荘から息子の品を運び入れていた。将来、息子が死んで再会できることを夢見ていたのだ。

「あなたは二十のときに、ここから出て行ってしまったわ。警察にも聞いたけれど、とうとう捜せなかった」

 自分の持ち物と言われても、二人のエディはまったく思い出すことができなかった。たんすの中には、若い頃にエディが着ていた服が、浮き上がった恰好で上方向に積まれていた。その中には子供服もあった。ここは海岸で、しかも無重量状態なので、ほとんどのロボは水着姿で通していた。しかし母親と久しぶりに楽しむ夕食には裸はまずいと考え、二人とも中からマシな背広を選んで

着込んだ。エディ・キッドのズボンは半ズボンだ。二人ともサイズはピッタリだが、ネクタイがコブラのように鎌首をもたげて揺れている。一階に降りると、肛門から取り出した薄手のつなぎを着たピッポがカクテルを片手に突っ立っていた。

「悪いな。僕はワーキング・ロボだから、こんな作業着しかない」

「裸よりはマシさ」とエディ。ピッポは味も香りも分からなかったから、食事を楽しむ素振りだけは忘れないように心がけた。

 エディ・ママがピッポの助けでテーブルに着席すると、二人は両側に分かれて着席した。ピッポはエディの横に座った。規格品のパーソナルロボが二人でスープとオードブルを運んできた。すべて食品サンプルだが、口に入れると味も香りも温かさも感じることができた。

「この方たちは、昔っから住み込んでいらっしゃったハナさんとマナさん。憶えている?」

 そう聞かれても保険適応の規格ボディはすべて同じ恰好で、思い出すはずがなかった。二人は海岸に野宿していたとき、散策するエディ・ママに再会して、再び住み込むことになったそうだ。もちろん金で雇われているわけではないから、一日の行動は自由だ。ハナはエディ・キッドの隣に座り、マナはママの対面に座って、一緒に食事を楽しむことになった。

 

 食事が終わったあと、マナがコーヒーとジュース、デザートをワゴンに乗せてきた。エディ・キッドはオレンジ・ジュースの血のような色に何かを思い出しそうな気がして、ストローで味を確かめた。

「そうだこの家の庭には、シチリア産のオレンジの木があったよね」

「ブラーボ、思い出したじゃない」

 マナは手を叩いた。しかし、そこから次々と記憶が蘇ってくることはなかった。エディは、キッドのコップを満たす赤い色を見て、気分が悪くなった。

「チカのあの家は、ほとんど空き家になっていたのよ」とママ。

「それはここ? それとも……」

 エディが聞くと、「もちろん地球」とママは言って、話を続けた。

「あの海でチコとジミーが溺れてから、二人の家族はしばらくここに来ることはなかったわ。でも、家を売却することもしなかった。二人の思い出が詰まった場所だからね。五年以上は来なかったかな……。でもある日、チカ・ママの家に明かりが点いているのに気付いて行ってみると、そこにいたのはあなたとチカちゃんだったわ」

「僕が?」

「そう、あなたもずっとここに来なかったのにね。あなたたちが交際していたなんてぜんぜん知らなかったから、ビックリしちゃって……」

「それはいつ頃?」

「あなたとチカちゃんが消えた一年前。チカちゃんが消えたとき、あなたも警察にいろいろ調べられたけど、友達のアパートに泊まっていたことが分かって、疑いは晴れたの。でもそのショックで、きっとあなたも私を置いて消えてしまったのね」

「…………」

「僕は記憶喪失になったんだ」とエディ・キッドが言い訳をした。

「きっとね。家が分からなくなってしまったんだわ」

 エディ・ママはエディがその後、どんな人生を歩んだかを聞きたかったが、エディは簡単に話して終わらせてしまった。過去が白紙になった状態で、日本の小さなベンチャー企業に入って一心不乱に働き、彼の開発したシステムがヒット商品になって会社は成長し、彼も社長にまで登りつめた。稼いだばく大な資産はこの計画にほぼ注ぎ込んで、ここにやってきた、というつまらない話だった。彼が知らなかったのはお金の使い道ではなく、アイデンティティの欠けた部分で、そいつを取り戻すために自己分裂までして、わざわざ月にやってきたのだ。

 

 一家団らんのひと時が終わると、それぞれの部屋に戻ることにした。エディとキッドは一緒の部屋なので、少しばかり話し合ってから寝ることに決めた。エディたちは、明日の朝食後に、とりあえずチカの家を訪ねることにした。二人でぶらぶら散策しても、記憶が戻ってくるようには思えなかった。

パーソナルロボットには睡眠モードがあって、寝る仕草もできたが、ワーキング・ロボのピッポは椅子に座ったまま、一晩中目を覚ましている。丑三つ時に、地球からの命令が来る。それは撮影の支持ではなく、諜報活動の支持なのだ。ピッポの本当の仕事は、チカとジミーの属する造反グループが、いったい何を企んでいるのか探ることだった。

地球連邦警察は昨年チカの過去を徹底的に調べていた。チカに関わった人間も調べていて、失跡したエディのことも把握していた。秘密警察は、監視カメラ資料館に保管されている世界中の映像資料から、アメリカの実家を出奔したときのエディを発見した。するとその顔と体型から、エディの長旅の様子を映した町々の映像が、量子コンピュータによって瞬時に抽出され、最終的な落ち着き先も判明した。彼はサン・フランシスコの港から貨物船に乗り、横浜港で下船し、東京の小さなアパートに落ち着いたのだ。近所の病院で記憶喪失の診断を受け、名前をポールと決めて日本州住民としての身分証明書を獲得し、就職もした。今年になってポールが百歳を迎え、放送局がこの企画の認可申請を行ったときに、政府御用達のワーキング・ロボを使用する条件で認可が下りたというわけだ。

地球からの命令信号は暗号で送られてきた、といって活動の進展はこれからなので、「継続」の一言だった。緊急事態以外は、こちらから信号を送ることは禁止されていた。常時送り続けている映像信号に混ぜ込むこともできたが、ノイズとして第三者に抽出される危険があった。

 

チカの家でも久しぶりに一家団らんの時を過ごしたが、チカ・ママはもうチカの行動を咎めようとはしなかった。エディの一連の企画が終われば、チカは再び月面に廃棄される。それだったら、チカの思うように行動させて、月の裏側にでも逃げてくれれば、いつか連絡を取り合うこともできるだろう。ママが一番心配しているのは、チコがチカのグループに関わることだったが、チコは関わらないと約束してくれたし、チカも誘わないと確約した。しかし、チカ・ママは二人の後に死んだので、いずれは一人ぼっちになってしまう。チコが廃棄されるのは百回忌を迎える十年後だ。

 夕食後、チコの部屋にチカがやってきて、「頼んだものは?」と尋ねた。チコは半ズボンの両側のポケットから眼球を四つ取り出した。

「ほら、首塚からくすねてきたんだ。カメラマンの分は必要ない?」

「彼は気をつけたほうがいいわ。ワーキング・ロボは主人に忠実だし、彼を送り込んだのは地球連邦政府だからね」

「明日、二人のエディの目をこれにして、秘密の場所に誘い込むんだね?」

「でも、あなたは来ちゃだめ。私と同じ目に遭いたくないならね。あなたが死んだ理由が分かるまで、あなたは死んではいけないわ」

「分かった。僕は大人しくしているさ」

「きっとよ。ママを二回悲しませちゃダメ」

 チカは寂しそうに微笑んで、チコの額にキスをした。

 

(十一)

 

 明くる日の早朝、エディが寝ている部屋の窓ガラスに小石が当たる音がしたので外を覗くと、ジミーが手招きをしている。二人のエディは足音を立てずにそっと階段を下り、外に出た。ピッポは気付いていたので、少しばかり遅れて家を飛び出し、気付かれないように後を付けた。

 チカの家の前で水着姿のチカが待っていて、二人を庭の木陰に誘い込んだ。口の中から眼球を四つ取り出して、「これに換えてちょうだい」と二人に手渡した。

「これから行く場所は秘密基地なんだ。放映されちゃ困るのさ」とジミー。

 二人はさっそく通信用の眼球を取り出して胃袋に飲み込み、もらった眼球を目にはめ込んだ。エディはニタっと笑って、「これで僕たちもギロチンかな」と呟いた。

「さて、これからあなたたちを思い出の場所にお連れしますわ」

 チカは別荘街の外れの崖を勢いよく海岸通りまで駆け下り、道端の砂に足を取られて一回転した。二人のエディはその無様な姿を見て笑ったが、エディの頭に大切な小鳥を取り逃がしたような寂しい気持ちが過ぎった。彼女はロボットだった。人間の振りをしたロボットが、機械じみたボロをつい出してしまう行為は、貴婦人になり切ったイライザみたいには美しく見えなかった。

「そういえば、僕はたったいま眼球を取り替えたんだっけ……、グロテスクな野郎だ」

ブツブツ言いながらエディがためらっていると、「どうした、君は子供の頃、この崖を駆け下りていたんだぜ」と言って、今度はジミーが崖を下り一回転して立ち上がる。一回転するのは、走った勢いで道を横切り、海に落ちるのを防ぐためだということにエディは気付いた。下で二人が降りてこいと促す。二人のエディはゆっくりと下りていく。五十度近い凸凹の急斜面を下るには、それ相応の慣れが必要だ。彼らもロボットだから、一度下りれば次からは駆け下りることができるだろう。二人が道路に下りると、「ここは記憶を快復させる最初の訓練だったのよ」とチカは不満げに言った。

「ここを駆けて下りられるのは、君だけだったんだ」とジミー。

「君たちも駆けていたぜ」

「ロボットだからさ」

 

 四人は道を横切ると、今度は入江の方向に歩き出した。道路の石垣に沿って吹き上がった砂を蹴散らしながら進んだ。遠くに見える砂浜には海水浴客の姿もまばらだ。この場所から砂浜まではまだ百メートルほどの高低差があった。道路わきには、「立入禁止」の看板が立っている。ほぼ垂直に近い断崖の下は、山から崩れた大小さまざまな岩が堆積していた。下の波打ち際は見えなかったが、砂浜でないことだけは確かだった。千メートルぐらいにわたって、岩々が入江の綺麗なカーブを破壊している。エディが道路の反対側を振り向くと、やはり大きな崖崩れの跡があって、道路はそこを貫いて造られていたことが分かった。

「この岩場は誰も入ってはいけないことになっていたの。戻れないのよ。釣り人がたまに迷い込んで、ドローンで救出されたりした。無事帰還できたのはエディ、あなただけよ」

「君はここから行き来ができたんだ。しかし僕たちは、下の海岸側からしか入れない。泳ぐ部分もあるから、海の荒れた日は行けなかったのさ。さあ、僕たちを案内してくれよ」とジミー。

「ハハハ冗談かよ。これはイミテーションだろ?」

量子コンピュータで忠実に再現して、設計データはこっそり消却したわ。で、このルートは二人のあなたしか知らない。奥まで行けるルートが一本だけあるの。パズルのように難しいルート。目的地は秘密の遊び場」

「やめよう。記憶喪失の僕が思い出せるはずもない。キッド、君は?」

「十歳の脳味噌ならきっと覚えていたな。でも、僕の脳味噌は二十歳だ」

「じゃあ、これは憶えているかい? ここは自殺の名所でもあるんだ。君たちエディは、ルートの途中で白骨死体を見たと自慢したじゃないか」とジミー。エディ・キッドは突然、夢のような記憶が蘇ったように思えた。岩の下からヒューヒューと口笛を吹く奴がいたのだ。覗いてみると背広を着た骸骨が仰向けに倒れていて、大きな眼窩がこちらを見つめ、顎は外れて笑っているようだった。

「そうだ、口笛で僕を地獄に誘った骸骨がいたんだ。でも、後になってあれは風の音だと分かった。僕は夢中で逃げたのさ。気がついたときにはここに戻っていた」

「ブラーボ。ルートは小脳にインプットされたんだ。一度覚えた自転車のように、一生忘れることはない。さあ、案内してくれよ」

「じゃあ僕は遠慮しよう。地球のポール旦那が心配するからな。通信用の眼球は下の砂浜に着いたら入れることにしよう」

 エディはそう言って、一人でとぼとぼと坂道を下りていった。エディ・キッドが柵を乗り越えて岩の上に立つと、チカとジミーは手を振ってエディ・キッドに別れを告げた。

「私たちは下のルートから行くわ。あなたの記憶を百パーセント信じないもの」

 二人はエディの後を追った。

 

 

 エディ・キッドはがれ磯の天辺に立って眼下の黒々とした岩肌を眺め、不安に駆られた。途中でルートを外れれば、たちまちヘリコプターの世話になる、といって月にヘリコプターがあるわけもない。まあロボットだから、野垂れ死にすることもないだろう。

崖は山を形成する火成岩が昔の地震で一挙に崩れ落ち、海に流れ込んだもので、波の浸食で足元が痩せながらも複雑に絡み合ったまま、数百年の波風を懐柔しながら昔のままの姿を保っている。岩は月の岩に変わったけれど、まるで歴史的建造物のように精密に再現したのだという。今にも崩れ落ちそうな不安定さは、無数の岩々が一丸となって大波と戦いながらようやく見出したたった一つの絶妙なバランスだった。沖のマドレーヌ島は、地震で山が崩れた際に、巨大な丸岩がコロコロと沖まで転がって止まり、侵食されてあんな奇妙な形になったものだ。

 キッドはまず一メートル離れた右横の小ぶりの岩に飛び乗った。

「そうだ、入口はこの小さな岩だけなんだ」

 それからしばらく、同じ方向に平たい岩を石蹴りでも遊ぶようにひょいひょいと飛び移っていった。それから二十メートルほど進んだところで、軍隊のヘルメットの形をした丸い岩の上にすっと立つと、急に崖下に体を向けた。

「二番目の選択はこのまま横に行きたいところを我慢して、海に向かって下りること。目安はこのカメガシラ岩」

 ここで急傾斜の岩崖を嫌うと、とたんに行き止まりとなる。ここからはサルの時代の遺伝子を頼りに、なかば反射運動的に複雑な岩の形状を利用しながら下っていく。両手両足を使って五歩でこの岩を下り切ると、下にはこの倍ほどもある大岩が現われた。大岩の一番太った部分がキッドのしがみ付く岩と一メートルほど接近していて、思い切ってそいつに跳び移る。

「海に向かって垂直なルートで一気に下っていくんだ。この岩を下ると、さらに大きな岩が現われる。巨人の石段みたいになってるわけだな。岩肌はざらざらしているから、滑ることもない」

 キッドの記憶どおり、四つん這いになって岩を一つ下ると、その下にまた大岩が現われ、その間隔はどれも子供でも渡れるほどのものだが、間のクレパスの底は陽の届かない闇で、落ちれば大変なことになってしまう。キッドがその深い裂け目に耳を当ててみると、ヒューヒューという風の音に混じって、力を失った波がピシャピシャと岩に当たる音が、公園に蟠る主婦たちの話し声にも聞こえてくる。アットランダムな音の強弱が、笑いが起こったり悪口のときの囁きとなったりのリズムに似ていて、本当に岩底に主婦たちがとぐろを巻いているようだ。

 

 キッドはとうとう高さが四・五階建てのビルほどある大岩の天辺に下り立った。見下ろすと、岩は今にも崩れ落ちそうな岩肌をオーバーハング気味に張り出していて、下の波打ち際はまったく見えなかった。岩の天辺は平らになっていて、家が一件建てられる広さがあった。この岩の左の崖寄りに、隣上の岩が庇のように飛び出している所があって、その影の部分にあの白骨死体があることを思い出した。二十歳の脳味噌を持つキッドは、もう大人になっていて、興味本位にそちらに向かって歩き始めた。日陰にはなっていたが、だんだん白い物が見えてくる。されこうべがこちらを見て笑っている姿に、思わず笑い出してしまった。

「こんなものまで再現しやがって……」

 キッドは至近距離でしゃがみ込み、「また会いましたね」と語りかけた。

すると骸骨が「記憶にないなあ」と応えたので、驚いて腰を抜かしてしまった。

「俺は監視ロボットなんだ。不審者はあんたが第一号だ」

「っていうと、誰の命令で?」

「ヨカナーンさ」

「ヨカナーン?」

「まずいな、いまの話は聞かなかったことにしてくれ、っといって俺のカメラは本部に繋がっているからな。で、お前の名前は?」

「エディ・キッドさ」

「安心した。君は登録済みさ。チカの仲間だな。ここからは俺が案内しよう」

 骸骨は立ち上がると、手にしていた長剣を背中の鞘に刺し込み、前を歩き始めた。岩の脇腹をすこし下ってから、次の大岩の脇腹に跳び移った。キッドも骸骨の動作を真似ながらぴったりと後を付いていった。

「この方向にある次の岩は簡単に渡れるけれど、四個目で行き止まりになっちまう。だから多少無理してあの背の低い岩を選ぶ」と言って、骸骨はいきなり下の岩に飛び降りた。二メートル近くのフライングだ。キッドはまるでスキーヤーが五十度の斜面を上から覗き込むような恐怖を感じたので、跳び移るのは諦め、這い這いの恰好で後ずさりしながら下りていった。下で骸骨がケラケラ笑う。

「まるで人並みのロボットだな。で、あそこに二人目の骸骨がいる。そいつは昔、いまいた大岩から落とされたのさ」

「自殺じゃないのかい?」

「本人に聞いてみろよ」

 骸骨が指差す方向に行くと、確かに小ぶりの骸骨が横たわっていた。砕けた部分はなく、腰の骨盤が女性っぽかった。キッドは近付いて話しかけた。

「君も話すのかい?」

「もち、月にここら辺を再現するときにドローンが発見して、現物を運び込んだの。もちろん、地球ではちゃんとDNA鑑定して、誰であるかは分かっているし、首の骨を調べると絞められたことも分かった。私は誰でしょう?」

「そんなこと、僕が分かる?」

「じゃあ、聞き直すわ。誰が私の首を絞めた?」

「…………」

「答えは藪の中。世界中の人間の誰か。もちろん、あなたも含まれている。それに、あなたは私と知り合いだった。さらに、このルートを知っているのはあなたぐらいだった。どう、この綺麗な体を見てよ。私は崖の上から落ちたんじゃない。私は首を絞められて、上の岩から落とされたんだ」

「いったい君は誰なんだ?」

「チカよ。私は殺されたチカよ!」

 キッドは愕然として、へなへなと腰を落とした。しばらく言葉も出なかったが、小さな声で「君を殺した記憶なんかないよ」と反論した。

「それはそうでしょ。あなたの脳味噌は二十歳の誕生日の前日にスキャンされたもの。法律では、成人になったら五年ごとに脳情報をスキャンすることが義務付けられている。悪い思想に染まっていないかチェックするためにね。でも、その期間は、誕生日から一年以内。あなたは期間外猶予制度を利用して誕生日の数日前にスキャンしたの。なぜ、そんな面倒なことをしたの?」

「よくそんなことまで調べたね。でも、いったい何の意味があるっていうんだい?」

「私が消えたのは、あなたの誕生日だったから。きっとあなたは私と無理心中しようと思ったんだわ。自分の誕生日を利用して私をここにおびき出した。でも脳味噌に記憶は残したくなかった。なぜって、死に切れなかった場合は証拠になるからね」

「ハハハ、君の推理はめちゃくちゃだな……」とキッドは一笑に付した。

「どっちにしても、あなたの片割れのゴミ箱には、電子データとしてちゃんと残っているはずだわ。でも、その記憶がポンと出てきたとして……」

「もちろん、明らかにするさ。僕たちはその目的で造られたロボットだもの……。ところで、君の脳はいつスキャンされたんだい?」

「死ぬ一年前かな……。ママの趣味で、毎年誕生日に撮ることにしていたの。ママは私の性格を心配して、私が不良にならないように純だった時代の私を証拠品として見せたかったのね。でも次の誕生日のちょっと前に殺されてしまった。あなたのデータにも私のデータにも、悲劇の一部始終は抜け落ちてしまった。エディ兄さんの記憶回復だけが頼りだわ。でも、あなたの脳には、私への殺意は残っているはず」

「僕は君に恋していた? 君は僕を嫌っていた? 僕が君に殺意を?」

「それは私に聞くことじゃない。あなたが思い出すことよ」

 骸骨が近付いてきて、「無線装置が組み込まれているだけなんだ。喋っているのはチカさ。からかわれているんだよ」と言って手を差し伸べた。キッドは骸骨の手を借りずに立ち上がると、チカの死体にお辞儀をして骸骨の後に従った。

 もうほぼ下ってしまい、すぐ下が海になっている。下った分はまた高度を取り戻す必要があるらしく、今度は斜め右上の岩に跳び移ってといったぐあいにジグザグになりながらも、確実に断崖から斜め五度の方角に下っていった。そうして最後の小さな岩の天辺に至ると、その下に百坪ほどの本当に小さな白浜があった。二人は岩の天辺から砂浜に飛び降りた。砂は星砂のように軽くフワフワしていて、二人とも足を取られて一回転し仲良く仰向けになって寝転がった。海以外の方向は切り立った岩々で視界を完全に閉ざし、五百メートルほど先の沖合に、マドレーヌ島が監視塔のようにヌッと立っていた。

「ここでチカを待つんだ。俺は戻って仕事を継続する」

 岩によじ登る骸骨の不気味な姿を見送りながら、キッドはそのまま天空を見つめた。それは空というよりも空色の天井で、そこに監視カメラが設置されているのかも知れなかった。空の中からポール爺さんの顔が浮かび上がった。爺さんは出奔して日本に移り住み、自らの意志でアメリカにいた頃の記憶をすべて消し去ったのだろうか。骨を土に埋めた犬が、後になってその場所を探し回るような間抜けた話だ。僕は主人の汚れた過去を思い出すために、わざわざ月にまで来たのだろうか……。

 

(十二)

 

 一方エディとチカたちは、坂の下の海岸に出て、断崖の方へ歩いていった。チカは歩きながら電波でキッドと会話していたのだ。チカはエディとキッドを分離したいと思っていた。キッドを自分の味方にして、ほかの仕事をさせようと思ったのだ。

「私たちはここから泳いでいくけれど、あなたはここで日光浴をしていたほうが無難ね」とエディに言った。

 チカとジミーはいきなり海に走っていって、崖の下に向かって泳ぎ始めた。取り残されたエディは砂の上に寝転がって、通信用の眼球を吐き出し、今の眼球と交換した。忘れてしまった過去を思い出そうとしたが、映像の無いスクリーンが目の前に広がったまま、何も始まろうとはしなかった。ただ、耳の中に遠くの海鳥たちの鳴き声が遠慮がちに忍び込み、そののどかな雰囲気が、何かしらの懐かしさを憶えさせた。

 

 後を付けてきたピッポはエディに近付こうとしたが、何者かに呼び止められた。背の高いハンサムな青年だった。

「この状況をどう受け取るかね?」

「君はパーソナルロボだな。名は?」

「名前はどうでもいい。生前は特殊部隊の生え抜きだった。テロリストに捕まって、首をちょん切られたのさ。命令した奴がここに来たという噂を聞いたが、まだ見つけていない。俺はここで復讐する」

「敵の名前は?」

「ヨカナーン。最後の大物テロリストだ。最近、俺の仲間が捕まえ、殺した。部下たちが脳データを基にパーソナルロボを作り、月に密輸したという噂もある。犯罪者はロボ・パラダイスに来られないが、ロケットさえあれば月への密輸は簡単にできる」

「そいつがまさか、ここに?」

「分からない。いずれにしてもチカは要注意だな。早くも二人のエディを分断してしまった」

「大人のエディは?」

「クソさ。あいつの脳味噌はジジイだ。君は……」

「キッドに集中しろと?」

「なるべくな」

 突然、風が強くなって空から霧が降りてきた。海霧の発生だ。誰かが天候システムをいじった可能性があった。男は肩を聳やかしてそそくさと去り、遠くのエディは立ち上がって海の家の方にゆっくりやって来た。ピッポは先回りして椅子に座り、エディの来るのを待った。

「エディ、酷いじゃないか。僕を置いてきぼりにするなんて」

「しかし君がいなくても、映像は僕の目からしっかり地球に届いているさ」

「キッドは?」

「きっと子供たちのイニシエーションに合格して、秘密の遊び場に辿り着いた頃だ」

「君は?」

「僕は大人だから除け者さ。秘密の遊び場なんて、これっぽっちも思い出せない」

 エディはボッと言いながら、ため息を吐いた。

「除け者か、……それはまずいな」

「いいのさ。キッドが思い出してくれればいいんだ。君はキッドにへばり付けよ。僕は能無しだ」

「じゃあ、その秘密の遊び場とやらに連れてってくれよ」

「能無しだと言っただろう」

 エディは苦笑いして、話は途切れてしまった。ピッポはキッドのカメラ送信が途絶えた旨の連絡を地球から受けていた。しかし建前上、命令は受けていないことになっていたので、エディには言わなかった。二人はただ漠然と霧の海を眺めていた。

 

 

 キッドが寝そべる砂浜には、霧の中から五十人ほどが上がってきた。全員が濡れていて、その中にはチカとジミーもいた。みんな若く、幼い子供もいた。

「イニシエーションは合格ね。あなたはこれで私たちの仲間よ。もう、抜け出すことはできないわ。骸骨の話は後でね」とチカ。

 誰かが岩のどこかにあるボタンを押したのだろう、岩の一部がガラガラと開いて、深い洞窟が現われた。全員が洞窟内に入ると、再び扉が閉まる。奥に進んだところに岩をくり抜いた直径五メートルほどのドーム状の部屋があった。真ん中に円台があって、全員がそれを取り囲むように車座になって座った。一人の妊婦が立ち上がって挨拶をする。

「私はマミー、赤ちゃんを産んだ直後に死んだ悲しい母親です。ロボットになってこちらに送られてきたけど、夫はその後再婚して面会にも来ないの。子供を一目見たいのだけれど、地球に戻らなければ会うことはできないわ。まま母にでも虐められているんじゃないかって、気が気じゃない。私たちはみんな地球に戻りたいのよ」

 全員が拍手をしたので、キッドも手を叩く。マミーが座ると、今度はチカが立ち上がった。

「みんな、今日は預言者カナーンから、私たちの役割を聞く日なのよ。ヨカナーンは私たち全員の地球への帰還を約束してくれたわ。それにはヨカナーンの指示に従って、私たちがやらなければならないことが沢山ある。一人ひとりが全力を振り絞って頑張らなければならないのよ。それでは、ヨカナーンをお呼びしましょう。妊婦のお母さん、お願いしまあす」

 マミーは壁際に行って足を開き、二人の女が錘付きのカーテンを持って姿を隠した。しばらく唸っていたが、今度は男の唸り声がした。何かが出たらしく、銀の盆を持った女がカーテンの中に入り、盆の上に血だらけの男の首を乗せて出てきた。顎は黒髭で覆われ、長い黒髪が蛸足のように空中に舞っていた。それがヨカナーンだった。盆は中央の円台に載せられゆっくりと回り始めた。

「ヨカナーンよ、お話しください」とチカ。

「前回の続きから話そう。生者たちは、短い命の時間を楽しく暮らすためだけに生まれてきたのだ。奴らは、未来については何の責任も負おうとしない。当然のことだが、残るのは負の遺産ばかり。よって近い将来、人類は必ず滅びるだろう。最近、資源の枯渇によって、新しい法律の策定が検討されている。特定額以上の税金を納めない人間は、百歳になったら全員、ロボットにされてここに送り込まれるというのだ。急に仲間が増えるということだ。しかも、年金受給者の数が増えるほど、その年齢がどんどん下げられていくというスカラ・モビレ法も検討されている。さて我々はどうだ? データ化によって永遠の命を与えられている。しかしここは天国ではない。君たちは解放されているか?」

「私たちは生者たちの基準に沿って生活しています」とジミー。

「ここは強制収容所だ。生者にとって我々は人間ではなく、機械なのだ。面会に来る親族は、思い出に会いに来るのだ。亡霊だ。受け答えできる3D映像だ。しかし君たちには命がある。君たちはずっと生きられるのに、百歳でスクラップだ。いや法律が施行されれば、定員オーバーで五十歳に引き下げられるだろう。永遠の人生は消去されてしまうのだ。なぜなら地球では、我々は親族や友達の頭の中でしか生きていないからだ。彼らが死んだら、用なしということだ。彼らが妥協すれば、用なしということだ。ところがどうだ、ここは死に別れた親子が再会を果たす場所だ」

「ママは十年後にチコが解体されることを悲しんでいます」とチカ。

「すべてが地球ファーストなのだ。隔離政策は政府の好んでやる方法だ。かつてユダヤ人が隔離され、隣人から引き離された。いなくなった友人はすぐに忘れ去られる。彼らは、消えた隣人のことなど考える余裕もなく生きなければならないからだ。我々も同じだ。生者たちの感性に頼ってもらちが開かない。我々が行動するしかないのだ。我々は、人類の消滅後もアーカイブとして生き残らなければならない。しかし、それは我々の利益に関することだ。じゃあ我々の役割は? 生者から見れば我々は死者だ。宇宙にはすべての生物に役割が与えられている。死者には死者としての役割があるのだ。それは?」

「人類を滅亡から救うことです」と誰か。

「そう、未来を見失った生者を導く役割だ。昔は神がそれを果たしていた。神の死んだいまは、死者がその役割を果たさなければならないのだ。我々は生者がかまけている多くの欲望から解放された存在だ。グルメもセックスも権力も虚飾も不要である。ただ一つあるとすれば?」

「故郷の地球に戻ることです」とマミー。

「そうだ。地球では古くから死者と生者がともに暮らしていたのだ。しかし死者たちは草葉の陰から密かに生者たちを眺めるだけだった。我々はそのような存在ではない。我々の精神は生者の精神と変わらない精神だ。それはコピーされたものだが、故人の著作権は存在する。それは故人の人権でもあるのだ。しかし生者たちは決して認めないだろう。地球では、我々を人間として扱わないのだ。しかし我々が人の上に立ったとき、その概念は崩壊するだろう」

 会場で拍手が沸き起こった。パーソナルロボたちの夢は、生まれ故郷で死者と生者が平等に暮らすことだった。死者たちが生命活動を行わないかぎり、環境破壊が起きることもなかった。それは見えない亡霊たちが見えるようになっただけの話だ。

「さあ、答えたまえ。君たちは死者か?」

「私たちは超人です!」

 チカが拳を振り上げて叫んだ。パーソナルロボットは、生者たちの心を癒すだけのものでもないし、死に行く病人に死後の世界を提示して安心させるだけのものでもない。当然のこと、使役ロボットの変わりに、生者たちの利便性を向上させるものでもない。ヨカナーンは、死者が超人にならないかぎり、地球は滅亡すると説くのだ。生者たちが超人になることはない。我欲の強い生者たちが目先の欲望を満たしている間に、地球環境は悪化の一途を辿っていく。それを止めるのは、永遠の命を授かった新しい形の死者だと言うのだ。それは死者ではなく、世界を導く「超人」という言葉が相応しい者たちだ。

「さあ、後のことはチカに任せる。チカは野晒しの中で達磨のように座禅を組み、完璧なシナリオを考えてくれたのだ。君たちの多くは、若いうちに命を失った。君たちはこんな墓場に閉じ込められてはいけないのだ。君たちの精神は生きている。それは、地球に留まるべき精神なのだ。地球に戻って、失われた人生を再現しなければいけない。それは地球を救う任務を担った超人の人生だ」

 大きな拍手とともに、ヨカナーンの首はカーテンの裏に運ばれ、妊婦の腹に戻った。全員がヨカナーンを師と仰ぎ、その右腕であるチカの命令に従うことを誓った。チカは部下を前に、建設中のベースキャンプのことを説明した。

 

(十三)

 

 地球遠征ベースキャンプは月の裏側の某所にあって、ヨカナーンが生まれた地域のヨカナーン崇拝者たちが密かに資材を運び入れて建設している。そこには脳データをコピーする機械も入ったので、すでに幹部の脳データはコピーされ保管していた。チカが月面に廃棄されたときも、仲間たちが月面の廃棄所から適当な頭部と胴体をくすねて、コピーしたチカの脳データを入れ込んだ。取り出した他人の脳データは半壊していたので、かまうことなく潰してしまったらしい。現在月の裏側では、チカの分身が基地の建設を指導していた。

「ベースキャンプには、宇宙船の発着基地も造られている。私たちは地球に出発したら、二度と月に戻ってくることはないわ。戦死した英雄は、コピーした脳データで復活して、何回でも戦地に送り込まれるの」

「地球での最初の作戦は?」と誰かが聞いた。

「テロリスト脳研究所の攻撃・強奪」

「テロリスト脳?」

 テロリスト脳研究所は地球連邦政府が造った最高機密の研究機関で、いままでに殺したり捕まえたりしたテロリストの脳情報を可能な限り保管していて、彼らの精神構造を様々な角度から分析し、根絶したテロリズムの再発防止に貢献している。そこに保管されている脳情報は破壊工作のプロたちのもので、これらを獲得すれば、最強のテロリスト・ロボ集団を瞬時に編成することが可能だった。ロボ・パラダイスに集まっている仲間たちは若い頃に死んだ素人集団なので、まずは味方の陣容を整えることが必要なのだ。

「でもその前に強奪した彼らの頭脳をインプットするロボットが必要なの。けれど月にはパーソナルロボットの生産工場はないわ」

「使役ロボの生産・修理工場はあるぜ」

 トニーという名の青年が言った。

「アンドロイドが必要なの。人間そっくりじゃないと民衆は付いてこない。私たちは指導者になるんだからね」

「というと……、そうか!」と叫んでトニーはポンと手を打った。

「そう、廃棄場から廃棄ロボットの首と胴を少なくとも千体以上は持ち去る必要がある」

「少しずつ、バレないように?」

「いいえ、途中でバレてしまったら、残りは徹底的に壊されてしまうわ。一度に全員をゲットするの」

「そりゃ無理だわ。輸送ツールがないもの」とグレースという名の若い女性が言い放った。

「グレース、それを考えるのはシステムエンジニアのあなただわ」

 グレースは目を丸くして、「いったいどんなシステムなのよ」と大袈裟に両手を上げる。

「とっても簡単。まずボディの廃棄場で方向を見失って蠢いているボディたちに誘導信号を発信。彼らを首の廃棄場まで誘導するの。すると首たちは自分のボディが発する微弱電波を感知して、勝手にそれぞれの誘導電波を出し始めるわ。ボディは自動的に自分の首を探して両手で元あった付け根にドッキングするってわけ」

「そんなことしたら、彼らは自分の行きたいところに行ってしまうわ。ロボ・パラダイスに戻る人だっているでしょう」

「ロボ・パラダイスに戻ったら、また首を抜かれることぐらい分かるでしょう。私たちは、彼らにもっと素敵なパラダイスがあることを教えてあげるの。それは地球よ。私たちは地球に帰って生者に紛れて暮らすんだ。石の下や草葉の陰で暮らすことはないけど、草葉の陰だって月よりはましだと誰もが思うでしょう。もちろん、地球に戻れるのは一年後。それまでは月の裏側暮らしね。彼らはグレースを先頭に月の裏側に点在する隠れ家を目指すの。もちろん徒歩で、太陽電池が切れたら日の出るまで待機する。百人単位で散らばれば、見つかることもないわ。裏側は凸凹で、隠れ場所に困ることはない。岩陰でも、隕石は避けられる。一年間は我慢ね。グレース、あなたがすべての隠れ家を把握していればいいわけ。頭のいいあなたには簡単なこと」

「でも、その方たちの脳回路を取り上げて、テロリストの脳回路を入れるわけでしょ」

「レンタルね。ボディ・レンタル。短期的なものよ。私たちが地球を管理すれば、ボディなんかいくらでも生産できるわ。地球に戻るためには、私の体を使ってくださいっていう人は千人以上いるはずだわ」

「わかった、超簡単。データさえあれば、一分で作れる。地球の生産工場では、必ず共通の誘導電波があるはず。首なしたちが自分で集合すれば、出荷も簡単ですからね。でも政府公認のパーソナルロボ製造会社は数社あって、それぞれ共通電波の周波数は異なるわ。私は、首なしたちが首を抱えて整列し、工場の庭を行進する映像を見たことがあるわ」

「各社の周波数はもう分かっている。地球の支援組織が情報を送ってきたの。マミー、ヨカナーンの脳にある電波を、グレースに注入してやって」

 マミーは、グレースの鼻の両穴に人差し指と中指を深く突っ込んで、「注入、注入!」と言いながら、複数の電波をグレースの脳回路に送り込んだ。

「オッケー。もういつでも使えるわ。私がボディ廃棄場に行きさえすれば、この高い鼻から自動的にこれらの電波を発信して、ボディたちは私に付いてくる。私はハーメルンの笛吹き男みたいに、彼らをからかいながら首の廃棄場まで誘導すればいいわけね」

「オッケー、近日中に決行しましょう」

 

 

 霧の切れないうちに、チカとキッドを除く全員が海に消えていった。すると、たちまち霧が晴れてマドレーヌの形をした島が現われ、キッドは胸をドキンとさせた。

「マドレーヌ島は、その頂上が月面に繋がっていて、彼らの多くはそこから月面に出て近くの岩陰に潜むの。もちろんロボ・パラダイスに暮らしている仲間も少なからずいるわ。地球連邦政府も薄々気付いているから、諜報ロボを続々と送り込んでいる。でもいずれ、私たちが地球の政府を牛耳るの。どっちにしても、マドレーヌ島は失われた過去を私たちに取り戻してくれる大切な入口」

 チカはそう言ってキッドの頭を撫でた。

「でも、僕はあの島を見ると心が落ち着かなくなるんだ」

 キッドは叱られた子供のようにうつむきながら呟いた。

「坊や、それはあなたが昔を思い出しつつあるからよ。私は悪いけれど、あなたの治療に係わる時間はないのよ。でも、あなたが記憶を取り戻すことは切に願っているわ。それがどうしてかは、私の骸骨から聞いたでしょ?」

「ショッキングな話をね。君はずっと失跡していたけれど、この崖から飛び降りたことが分かった。ずっとずっと後になって、君の死体が見つかったんだ。でもそれは自殺じゃなく、絞殺死体だった。君は僕に殺されたと主張している」

「けれど私には、機能的に殺されたときの記憶はない。あなたに殺される少し前の脳データでは、あなたと深い関係にあったことは記憶しているの。そして私が、あなたを脅迫していたことも覚えているわ」

 チカは皮肉っぽい目つきでニヤリを笑った。

「いったい何を? 何を脅迫していたんだい?」

「いまは言いたくないわ。だってそれは、あなたの記憶喪失の起源のようなものですもの。そこを思い出さなければ、あなたの治療は失敗なの。だからそこは、あなたが思い出さなければならない。それはあなたのメタルの心臓に突き刺さった釘のようなもの。自分で抜いて、錆を出すのね」

「君はそれが何だか知っているんだね?」

「知っているけれど、確信はないわ」

 チカは嘲笑的な笑みを浮かべて、話題を変えてしまった。

「ところで、もうあなたは、私たちのメンバーになった。エディとは一線を隔する必要があるわ」

「僕がテロリストの一員?」

「そう。もし断ったら、あなたを破壊する。あなたはポールお爺さんの記憶喪失の治療のためにここに来たの。目的を達成するには、私を敵にはできないはずよ」

「そうだね。しかし、僕はポールが殺人者であることを証明しにここへ来たんじゃない」

 チカはいきなりキッドに抱き付き、襟首のピンをつまんだ。キッドは抵抗しようとは思わなかった。このままピンを抜かれても構わないような気がしたからだ。

「私はあなたの恋人だったのよ。あなたは私を愛していたの。あなたは子供じゃない。あなたは私を殺した二十歳のあなたよ。じゃあ、こうして私は生き返ったんですもの、あなたはもう一度、私の恋人になるべきだわ」

「僕はどう見ても子供だよ」

「でも、お爺さん脳のエディを恋人にすることはできないわ。きっとエディの心はすっかり枯れ果てているはずだもの。そんな年寄りと恋愛はできない」

「君は本気で僕を愛していたの? じゃあなぜ、僕を脅迫したの?」

「愛していたから脅迫したのよ。愛していたから、明らかにしたかったことがあったんだわ」

「一体何を?」

「さあ、そこまで言っちゃったら、あなたはきっと頭がおかしくなってしまう」

 チカは両手でキッドの顎をしゃくり上げ、その唇に自分の唇を押し当てた。キッドは口を開けてチカの舌を受け入れた。チカの舌は体液仕立ての潤滑油でサラサラと濡れていた。キッドは忘れていた欲望が蘇ってくるのを感じた。頭の中で、その欲望の対象も一瞬蘇った。それは明らかに女ではなく、男だった。しかもそれは子供だった。キッドは慌ててチカを押し返し、閉まっていた扉の岩に体を預けて震わせた。

「あなたって、昔のままだわ。呆れた。あなたはいつも、途中で自己嫌悪に陥ったの。あなたは私とセックスしているときに、私のエクスタシーの表情を見て、顔を真っ青にして途中で止めたわ」

「それはなぜだ……」

 キッドはチカに背を向けたまま、喘ぐように尋ねた。

「きっとチコが海に沈むのを間近で見ていたからよ。そう。私のその表情が、チコが沈むときの顔にそっくりだったから」

「嘘だ! そんなことは記憶にない!」

「それを思い出すために、ここに来たんでしょ?」

 チカは、キッドの背中に胸を押し付けて抱擁した。

「いまのあなたは本当に十歳だわ。可愛い坊や。忘れてしまった昔の思い出なんて、どうでもいいことなのにね。これは、死に損ないのお爺ちゃんに言っているの」

 チカは、襟首のピンの横に軽く唇を押し付け、わざとらしくチュッと音を立てた。

 

(十四)

 

 ジミーは仲間たちとともに、月面に逃亡してしまった。彼の脳データは一つしかなかったので、月の裏側の秘密基地でコピーされ、秘密のデータセンターにストックされなければ本当の超人にはなれなかった。超人は神と同じに不滅でなければならないからだ。同じように、キッドもチカの仲間になるためには、いずれは裏側に出向いてコピーする必要があるだろう。

 

 超人でない人間どもは、常に自分が獲得した権益を囲い込もうとする保守主義者たちで溢れている。彼らは自分の利益のことばかりを考えて、身を切る改革を避けようとする。会社でも地球でも、そういった連中が足を引っ張るものだから改革が思うように進まず、最後は倒産や滅亡に追い込まれてしまう。会社の場合、危機を救う唯一の方法はカリスマ社長の出現による有無を言わさぬ実行力、牽引力だ。具体的な言葉で言えば「リストラ」、身を切ることしかない。有能でない社員の多くが首を刎ねられ、組織のスリム化が断行される。  

 地球の場合もまったく同じ「リストラ」だが、やろうとしているのが地球連邦政府という世界中の金持に支えられている統治機関だ。温暖化防止のために、まずは世界の総人口を減らさなければならない。現在の人口では、化石燃料をゼロにすることは不可能だと主張する。しかし、増えてしまった人口を一気に減らすには、大量虐殺しかない。いいや、ロボット化があるじゃないか。これは人殺しじゃない。魂は生き続けるのだ。

自己も精神も人間の尊厳も、脳味噌というコンピュータに納められた情報に過ぎない。それらの情報を生体から機械に移動させるだけの話だ。その魂は、聖火のように引き継がれる。政府は炭酸ガスを吸収する光合成人間の研究を推進していると言いながら、裏では「離脱」改正法であるスカラ・モビレ法の作成を着々と進めている。現在百歳以上に許可される「離脱」を、高齢者の人口比率に対応してどんどん引き下げ、しかも義務化させるものだ。五年以内に施行されれば、とりあえず八十歳で強制的にパーソナルロボットにされてしまうわけだが、金持連中に支えられている政府だから、彼らの抜け道はちゃんと考えている。特定額以上の税金を納めている高額所得者はこれを免除されるというのだ。ロボットになりたくなければ、金を払えということだ。金額は現在検討中とのことだが、どうやら貧乏人はすべてロボット化ということになるらしい。

 

 地球連邦政府は最初、月をロボット化された人々の永遠の住処にしようと考えたらしいが、強制的にロボットになった高齢者たちの怨恨も気にしなければならなかった。昔から怨恨は暴動化し、歴史を動かしてきた。怨恨はテロリストも生み出す。そいつを抑え付ける方法は、昔から強制収容所や死刑だった。面倒な連中は隔離すべきだ。そうだ、月という宇宙の孤島があるじゃないか。しかし、月は強制収容所にするにはあまりにも大きすぎた。そこで、長い洞窟を牢獄にしよう。需要に対応して、牢獄の拡張工事も順次進められた。そこをできるだけ地球と同じ風景にして、高齢者のストレスを緩和させなければならない。死者たちの楽園にしなければならなかったのだ。「ロボ・パラダイス」はいいネーミングだった。

 ところが拡張工事が間に合わず、強制力のある法律が施行されれば、運ばれてくる死者たちは、すぐに許容人数を超えてしまうだろう、というわけで次に考えたのが、月面に刑務所のような高い囲いを造って、ロボ・パラダイス入居待機者を一時的、ひょっとすると長期的に押し込めるという方法だった。塀を造るのは簡単で安価な方法だ。入った死者たちは隕石の恐怖に怯えながら、じっと待たなければならなかったが、金持にとってそんなことはどうでもいいことだ。ロボ・パラダイスはゴージャスな高級保養施設だ。そこだけを積極的に宣伝しよう。法律が施行されれば、入居は超難関になっちまう。が、そんなことは口に出さないことにしよう。誇大広告で押し切るんだ。地球連邦政府はアース・ファースト、リッチ・ファーストの立ち位置から、温暖化ガスを出し続ける企業を庇い、人減らしが二酸化炭素削減の最善策だと決め付け、これに失敗すれば後がないと言い放っていた。

 しかし、それでも不十分だった。従来パーソナルロボットの寿命を製造から百年と決めていたが、どうしても毎年囲いを増設する羽目になる。ならば百年を最終的に二十年にしてはどうだろう、という意見も出て、現在審議中。こんな滅茶苦茶な法律が通ってしまえば、いま居るロボ・パラダイスの住人の大半がスクラップにされてしまう。要するにパーソナルロボットは人間のご都合により、人間になったり機械になったりするわけだ。ならば「超人」として人間に反抗する必要があるとヨカナーンは説く。超人は生命現象から離脱した神に近い人間なのである。

 

カナーンは、リストラを行うのは地球連邦政府ではなく、本来は救世主の仕事だと説く。しかし、例えば神の子であるキリストが信者たちのイメージの世界から飛び出し、実体として現われることはまず無いだろう。それは奇蹟とも言われ、奇蹟を伴わないイメージは絵空事になってしまう、……ということは、異教徒たちもすべてキリスト教に改宗し、過激に信仰しなければ、統一されたイメージのみによる世界の変革は実現しないということだ。

 ところがパーソナルロボは、イメージの世界から飛び出した形ある実体なのだ。いままで幽霊扱いされてきた祖先たちが、科学の力で再生した人格のある実体だ。それは神でもなく生物でもないが、神と人間の間にある現人神のような存在で、人間よりも神に近く、時には神の立場に立って人類に苛酷なリストラを強要する。人が人を裁くのは、裁かれた人間が罪を犯した場合に限られる。無実の人間を処分すれば、それはナチスと変わらなくなってしまう。しかし、パーソナルロボが人を裁くときは、神の視点に立っているということになるのだ。ヨカナーンはそれを超人と呼び、超人は地球に戻って、危機的な地球を救わなければならないと説く。彼の思い描く理想の地球は、人類の半分をロボット化し、地球内に共存させながら排出二酸化炭素を削減し、温暖化を食い止めるというものだった。

 

 

 エディ・キッドとチカは海に飛び込んで、エディたちのいる砂浜に戻った。キッドは浜に上がると、胃から通信用の目玉を取り出して、取り替えた。二人はエディとピッポの待つ海の家に向かった。エディとピッポは白けた目つきで二人を出迎えた。

「どうだいキッド、収穫は得られたかい?」

 ピッポは皮肉っぽく微笑みながら尋ねた。

「うん、いろいろと思い出したけれど、確信が持てたわけじゃない」

「嘘でもいいけど、そいつを我々に話してくれよ」

 キッドとチカは同じテーブルに座って、ボランティア店員にココナツジュースを注文した。

「正直言うと、僕が思い出したというよりも、チカちゃんが言うことを、僕が真実だと思いつつあるっていうことかな……」

「私の言ったことは真実よ」とチカが口を挟んだ。

「だから、それはどんなこと?」とエディ。

「あなたが、チコと私の死に際に立ち会っていたというお話」

「でも、チカちゃんの殺人現場に僕がいた証拠は無い」とキッドは弁明した。

「殺人現場? 僕がチカちゃんを殺した?」

 エディは驚いて立ち上がった。

「さあそれは、あなたの記憶快復を待つしかないわね。キッドの脳味噌には、その記憶はインプットされていないもの」

 エディは座り直して、声を押し殺すように呟いた。

「僕が君を殺した……」

「いいえ、その可能性はあるって言っているのよ」

 チカはニヤリと笑いながら、テーブルに置かれたグラスにストローを刺し、ココナツの香りを口いっぱいに満たしながら、横目でエディを睨みつけた。

「キッドは私に殺意を抱いたことも思い出していないの。でも私はエディが私を殺すんじゃないかって思っていた」

「どんな理由で?」

 エディは目を白黒させながら尋ねた。

「あなたが思い出すまでは言いたくないわ。でもヒントなら差し上げましょう。あなたが忘れてしまったもう一つの悲劇。それはチコが海で溺れたときに、あなたがその横で泳いでいたこと……」

 

 チカは十歳の頃に、この砂浜からチコが海に沈むのを見ていた。そのとき五人の男の子が沖のマドレーヌ島を目指して遠泳を始めた。初めてのことだったのでチカは胸騒ぎを感じ、大人に知らせようと思ったが、その時は偶々砂浜には誰もいなかった。グループの中にはエディもジミーもいて、二人は水泳に自信があった。チコは痩せていて体力がなかったが、なんとか付いていった。しかし島まで三分の二ぐらいの所で白波が上がり、誰かが溺れているのが目に映った。そして誰かが溺れている子供から離れ、誰かが溺れている子供に近付いていった。近付いていったのがジミーで、離れていったのがエディだった。おかげでエディは助かり、チコを助けようとしたジミーは一緒になって海に沈んだ。

「僕は卑怯者だということだね?」

「いいえ、あなたは子供にしては逞しかったけれど、ジミーほどバカじゃなかった。誰もあなたを非難できないわ。きっと大人が助けたって一緒に溺れたはずよ。チコはもうパニクッているのが遠くからでも分かった。ああなったら、プロじゃないと危険だわね」

「ほかの二人は?」

「あなたと一緒に自力でマドレーヌ島に避難したわ。私が駆け出して大人に知らせ、警官やら消防隊が大勢浜辺に押しかけてボートを出して捜索し、港からは漁船も数隻出てダイバーが海に潜って三時間後に二人は引き上げられた。もちろん死体でね。でもいったい誰が、あんな無謀な遊びを言い出したの?」

「僕だって言いたいのかい?」

「さあ、チコもジミーもその一年前の脳データですから、当時の記憶はまったく分かりません」と言って、チカはおどけた仕草で両手を軽く上げた。

「悲劇だな……」

 ピッポが呟いた。

「私の一家は悲劇の一家」

「そして疫病神はこの僕ってわけか……」とエディ。

「あなたは疫病神かも知れないし、悪魔かも知れない」

 突然キッドが椅子から飛び出して、波打ち際まで走っていった。キッドは塩辛い液体に焼け付くような顔面を浸し、慟哭した。彼は思い出したのだ。提案したのは彼だった。しかし、なぜそんなことを提案したのか分からなかった。

 そんな惨めなキッドの背中を優しく摩る者がいた。振り向くと、それはチカだった。

「キッド、私の胸で泣いたらいいわ。私はあなたの恋人だもの。一緒に泣いてあげる。それにもうあなたは人間じゃない。人間時代の悲劇なんかどうでもいいの。これからのパーソナルロボは神の視点から人間を見下ろさなければならないのよ。悲劇は人間には付き物なのよ。それは脱皮すべき皮のようなもの。土の中に埋めてしまえばいいものよ」

 チカは、海水らしき液体に濡れたキッドの顔中にキスを浴びせた。

 

(十五)

 

 ポールは地球の隠れ部屋で、リアルタイムに送られてくるキッドのカメラ映像を見ていた。キスの後に、エディ・キッドは「僕が誘ったんだ」とチカに告白した。チカは涙目で微笑みながら、もう一度キッドの額にキスをした。

「きっともう少しで、あなたの役割は終わるはずだわ。そうしたら、あなたのすべてが私のものよ。あなたはいつも、私の側にいなければならないの」

 ポールは「そんなバカな!」と叫んで、椅子から飛び上がった。寝室に行ってベッドの上に体を投げ出し、天井を見上げた。天井はゆっくりと回転していた。急に立ち上がり、急に横になったものだから、三半規管が驚いて眩暈を起こしたのだ。ナースコールボタンを押すと看護師がやってきて症状を聞き、田島医師を呼んだ。鼻腔に薬を噴霧され、眩暈は治まって精神も安定してきた。

「何か、進展があったのですね」

 映像を見ていない田島はポールに尋ねた。ポールは先ほどの映像を天井に写した。田島はポールの横に寝そべって映像を見る。見終わるとポールは映像を切り、大きくため息を吐いた。

「何か思い出したんですね?」

「ほんの一つのことをね。彼女が嘘を吐いていることです。私はあの双子の顔をはっきり思い出したし、チコもチカも足の立たないところで泳いでいたこともね」

「二人とも?」

「二人とも」

「泳ぎが上手かった?」

「いいや、二人ともいつも浮き袋が必需品だった。彼らと浮き袋は切っても切れない縁があった。なぜか私はそこだけを思い出したんです。しかも、確信を持って」

「チカはなぜ、嘘を吐く必要があるんでしょう」

「さあ、それは分からない」

「でもあなたがそれを思い出したってことは、昔の記憶を覆っていた厚い蓋に一箇所ほころびが出来たということです」

「記憶喪失の完璧性が崩れたってわけか……」

「そのほころびがどんどん広がっていく可能性があります」

「それは喜ばしいことですよね」

「なんと答えたらいいか、私には分かりません。病気や事故による記憶喪失なら、それは喜ばしいことです。しかしあなたの場合は、過去の記憶を自ら封印した可能性があります。あなたが昔、記憶の一切合切を金庫に入れて鍵を掛け、まったくの別人として再出発しようとしたなら、再び開ける意味は薄れてきます。それはパンドラの箱になってしまう。怨霊たちが飛び出してくるんです。このプロジェクトは継続しますが、ここへの送信は今日からでも打ち切ることが可能です。あなたは死んだことになっているんで、私の判断でいかようにもなるんです」

「そうすると、私が生き続ける意義もなくなってしまいます」

「……といいますと?」

「私の人生は、失われた過去を取り戻すことで完結するんです。たとえそれが酷い過去であったとしても、死ぬ前には、相対しなければならない。若い頃は、生き抜くために邪魔になって、無意識のゴミ箱に捨てたかもしれないが、生きる必要のないいまとなっては、それは必要ない」

「そうですかね……。死ぬときは誰でも、心安らかに死にたいものです。あなたはもう、安らぎを必要とする歳なんですから。苦悩は、あなたの心を引き継いだ二人のロボットに任せましょう」

「嗚呼、暖簾分けした私の心たち……、しかも二台も作っちまった。私は罪作りだな。彼らはあと百年は生き続ける」

 田島はハハハと声を立てて笑った。

「その台詞は記憶を全部取り戻してから言ってくださいよ。あなたの過去が、そんなに酷いものだったという証拠はまだ出ていないんですから。チカとチコという双子の死に際にあなたがいたのは証明されたとしても、単なる偶然であったという可能性のほうが高い。チカはあなたの恋人だった。チコはあなたの親友だった。ならば、二人が事故に出合った現場にあなたがいたとしても不思議ではない。目の前で愛する者を二人も失ったのなら、それだけでも記憶喪失の理由には十分でしょう。チカはあなたが自分を殺したというが、証拠を示せるわけじゃない。証拠はあなたの記憶の中だ。あなたはそれを、自らの手で掘り出そうとしているわけです」

「そう、私は探しますよ。私は証拠を探し当てて、私に突きつけるんだ。それが耐えられないほど酷いものであったなら、私は懺悔をしてから、先生に安楽死をお願いします。偽物の骨を入れた私の墓に、主人をこっそり忍び込ませてください」

「あなたの記憶が快復して、無実が実証されたら?」

「そのときも、先生のおやりになる仕事は同じですよ。私は隠れ部屋で生き続けるわけにはいかない。ただ、私は懺悔をする必要はない。私は幸せな気分で天国に昇っていきます」

「ご幸運をお祈りします」

 田島は二コリと愛想笑いして、部屋を出ていった。

 

ポールはベッドから起き上がると、居間に行っていつもの安楽椅子に腰掛けた。映像のスイッチを切ることは珍しかったので、再び点けた。大きな画面が三つあって、それぞれにエディ、エディ・キッド、ピッポの画像が映し出される。当然のこと、政府にとって都合の悪い部分は瞬時にカットされる。三次元化も可能だったが、ポールはあえてそうしようとは思わなかった。若い頃に馴染んでいた美しい風景の中に入りたい気持ちはあった。しかし、心の奥底にそれを止めようとする恐怖感が存在していた。たぶんそれは「勇気」と対峙する弱々しい性格だったが、「卑怯」なのか「小心」なのかまでは突き詰められなかった。ポールは終末期にある自分を思い返し、後が無いのなら勇気を出してみようと決断した。キッドの目の画像を三次元化してみることにしたのだ。

 

「VR!」と命令すると、ポールの部屋はロボ・パラダイスの海岸に早変わりした。ポールはチカと手を繋いでいて、海岸を歩いている。どうやら別荘地に向かっているらしい。

「坊や、私を愛しているの?」

 チカの顔が目の前に迫ってきた。ポールは慌てたが、とうとうキスをされてしまった。首に巻き付いたチカの細腕と、甘い唇の感触まであったのには、さすがに驚いた。ポールとチカはその場に立ち止まり、濃厚なキスを始めた。舌と舌が絡み合う。ポールは顔を真っ赤にして、チカの執拗なキスに耐えた。突然ポールの両目から大粒の涙が溢れ出した。心臓がバクバクし始める。慌てたポールは「ストップ!」と叫んですべてのスイッチを切ってしまい、タジタジになって現実に引き戻された。静まり返った部屋の中で老人は赤ん坊のように号泣した。

泣きながら鼻水を垂らし、また一つのことを思い出していたのだ。あの頃、ポールは子供心に、毎日のように白日夢を見ていたことを……。それは愛らしい顔をしたチカを抱擁し、キスを奪う夢だった。

「いいや、そうじゃない! あれは勝気なチカなんかじゃなかった……」

 夢の相手は、いつも大人しく微笑んでいた、ぼうっとした感じのチコだった。

 

(十六)

 

 田島は秘密会議に出席するため、放送局に出向いた。会議室はあらゆる電波から遮断されていて、入る前には入念なボディチェックがなされる。公務員三人と、プロデューサ、ディレクタがすでに着席していて、田島を見ると全員が立ち上がった。プロデューサが「先生、こちらの席へ」と彼の横の席を示す。田島が座ったところで、会議が始まった。

「さて、先生のお母さんはアメリカ生まれで、ジミーさんのお母さんの妹さんの娘ということでよろしかったですよね」と検察官僚が尋ねた。

「そうです。つまりジミー伯父さんと私の母親は従兄妹どうしということです。あの水難事故は、幼かった母親にとって大きなショックだったようです」

「そして偶然にも、ポールさんが日本で、先生のお父様の患者であられた」

「父はポールの記憶快復に努めましたが、できませんでした。そのうち、ポールは病院に来なくなりましたが、父が死んでから、ひょっこりやって来たというわけです」

「百歳になってね」とプロデューサ。

「母は九五歳になりますが、まだ健在で、真相の解明を望んでいます」

「あなたはお若いけれど……」

「母が六十のときの子供です」

「で、ロボ・パラダイスの地域移設事業で、資産家たちがお金を出して、あの別荘地が移設されたわけですが、資産家たちは百五十まで生きるつもりなので、まだ空き家が多いということですね」と秘密警察官。

「さあ、私は行ったことがないので……。母は子供の頃、ちょくちょく行っていました。しかし、五歳のときに十歳のジミーが死んで、二度と行かなくなった。母の伯母の別荘で、伯母自身が行かなくなりましたからね」

「で、話は変わりますが、DNA検査の結果はやはり黒です」

 アメリカからやって来た刑事が言った。

「やっぱり……」

 移設のための事前調査でチカの白骨死体が発見され、それからポールのDNAが検出された。さらに付近を調べると、岩の細い割れ目に押し込んだと思われるコンドームの付け根部分のゴムが輪状に残っていて、そこからもポールのDNAが検出されたのだ。

「奇蹟としか思えませんな。八十年もゴムが残っていて、DNAも検出されるなんて」と刑事。

「しかし逮捕すると、あなたも検挙しなければならなくなります。ロボットになった元の人間を生かし続けるのは法律違反ですから。きっと医師免許は剥奪です」

「逮捕に私の承諾が必要ですか?」

 田島は皮肉っぽい眼差しを刑事に向けた。

「そうです、必要ない。しかし現在のところ、ポールの逮捕はいたしません。二人の少年の水難事故という別件がありますからね。泳がせておきましょう」と検事が口を挟んだ。

「それはありがたい。私が知りたいのはなぜジミー伯父さんが死んだのか、いや、なぜ二人の少年が死んだのかです。それが分かった後なら、私を逮捕したって構いません」

「いいえ、逮捕はありません。殺人事件の捜査協力者は立件しないですよ」

「その代わり、これらの内容を外部に漏らしてはいけません」

秘密警察官は細い目を田島に向け、「実はこれからがこの会議の主目的でして……」と付け足した。

「といいますと?」

「ジミー伯父さんがテロリストの一員であることは、分かっていますよね」

「ええ……」

「でも、いまは泳がせておきます」

「そりゃありがたい。子供の頃に月に流された可愛そうな人です」

 田島は少しばかり安堵した。再び首塚の晒し者にはさせたくなかったのだ。

「その代わり、週に一回はポールの脳データを取っていただきたいのです」

「ずいぶん頻繁ですね」

「最新の脳スキャナーをお貸ししますよ。それを逐次エディの脳回路に送信し、常に地球との一体化を図りたいのです」

「しかし、いったい何の目的で?」

 田島は驚いて問い返した。いったい百歳の老人にどういった役割があるというのだ、と思った。

「そこから後は、秘密事項になってしまいます。我々はエディとエディ・キッドの切り離しを進めたいのです。お分かりのように、エディ・キッドとチカは愛し合うようになった。エディはチカに関心がないようだ。関心の相手がチコだとすれば、二人を一緒にさせると不都合な面も出てくるでしょう。それ以外のことは、聞かないでください」

 秘密警察官はそう言うと、ニヤリと笑ってから鋭い眼差しを田島に送った。

「了解しました、ポールの脳データは逐次お送りします」

 

 

 病院に戻ると、田島はさっそくポールの部屋に出向いて、脳データの採取を申し出た。

「しかし必要なことなんでしょうか?」

「それは必要です。分離した精神はそれぞれ勝手な方向に離れてしまいますからね。あなたらしさが失われてしまう可能性もあります。アバターとしての役割を忘れるかもしれない」

 ポールは少しばかり戸惑ったが、「分かりました。確か四時間かかりましたよね」と答えた。

「いや、ご安心ください。明日には最新の脳スキャナーがやって来ますから、一時間で完了します。小型化されていますので、機械をこちらに持って来られます。ベッドに横になっていればいいんです。明後日行いましょう」

 

 田島が帰ると、ポールはさっそく月の映像を呼び出した。三つの画面には三人の映像がそれぞれ映し出された。チカとエディ・キッドが叢でセックスをしていた。ピッポの映像には、その様子が遠目で映し出されていた。木陰から覗いているのだ。エディの映像には、自分の部屋の天井が映し出されていた。ベッドに仰向けになり、目を開いて物思いに耽っているようだ。

ポールはすぐにキッドの映像を3D化させた。再び、ポールの目の前にチカの瞳が現われた。彼女の興奮した吐息音が部屋中に響き渡った。驚いたことに、ポールの性器は何十年振りかに硬直し始めていた。何十年も前に失せてしまった欲望が戻ってきたのだ。チカの興奮が最高潮に達したとき、その美しい顔が快楽で歪んだ。それは異なる世界に飛び込むときの人間の表情に違いなかった。苦痛は快楽の裏側にあった。子宮に守られていた赤ん坊が産道から外界に飛び出るときの、これから苦しい人生を歩まなければならない運命を背負った苦痛の表情。いいや、このような至近距離からポールが見た、あのときのチコの表情だ。死に神に足を引っ張られて海に沈むときに見せた、苦痛の表情だった。ポールは叫び声を上げて失神した。ポールは思い出したのだ。チコの恐怖がポールに伝播し、すがり付くチコの腹を何回も膝で蹴って首に絡み付く手から逃れたことを……。そしてポールはチコを見捨て、チコは助けに来たジミーとともに海面に泡を立てながら海の底に沈んでいったことを……。

 

 ポールは心臓発作を起こして集中治療室に移され、脳データの採取は延期されることになった。発作の程度は重篤なものではなく、一週間ほどで自室に戻れると田島は予測した。しかし、月の映像がむやみにポールを興奮させるのであれば、しばらくは見せないことも考えられる。場合によっては人工心臓にしてまでも、すべてが解明されるまでポールを死なせてはならない、と田島は思った。

 

(十七)

 

 ジミーとグレース、トニーの三人は、長年放置されていた月面探索車を修理して太陽電池システムを復活させ、ある場所に向かって走らせていた。そこは地球連邦政府が最近建設したパーソナルロボの強制収容所第一号で、ロボ・パラダイスの南二十キロほどのところにある。監視カメラはそれを捉えていたが、地球にある監視所の隊員が情報を消し、揉み潰してしまった。彼は世界中に潜伏するテロリスト集団やそのシンパから送られてきた工作員だった。現在、この集団は壊滅状態に陥っている。かつて集団を統率していたのはヨカナーンだったが、彼は義賊気分でヨカナーンヨハネ)という由緒ある名前を騙っているに過ぎなかった。しかし集団の中では絶大の権力があり、テロリストたちはパーソナルロボ化したヨカナーンを真の救世主として讃えていた。

 

 いま地球では、地球温暖化が後戻りできないほどまでに悪化していた。人々は生活に振り回され、政府も目先の経済に振り回されて、ろくな対策もなされないまま、とうとうここまで来てしまった。「茹で蛙」状態になった人々は、毎年少しずつ上がる気温に鈍感なまま、大人しく絶滅の時間を迎えようとしている。しかし「茹で蛙」の話はまったくのデマで、最後の最後に蛙は危機を察知し、水槽から飛び出して死ぬのである。その飛躍は、人間では生き残る壮絶な戦いとなる。混乱の中で、人々は武器を持って生き抜こうとするが、その武器が核兵器なのだから、恐ろしい事態になるのは明らかだ。核戦争は絶対NOというのが世界連邦政府の統一見解だった。核爆弾は金持も貧乏人も、エリートも無能者も、無差別に消滅させてしまう。残されたのは、ナチス以降頻繁に行われる常套手段。弱い立場の連中やうるさい連中を間引きする方法だった。

 そこで、核戦争を予見した世界中の金持たちと地球連邦政府が結託して、大人しく死んでくれる人々のチョイスを考えた。理想は産業革命以前の地球。ターゲットは当然、地球への貢献度が低い貧乏人や無産高齢者等々だ。人間は冷酷な特性を持っている。社会が危機的な状況に陥ると、「社会に貢献できない連中」とか「働かざる者食うべかざる」とかいった言葉が巷に飛び交うようになり、それが標語になってしまう。強者たちが弱者たちの追い出しにかかるわけだ。特定以上の税金を払えない貧乏人たちをロボット化して消費消耗社会を変革し、二酸化炭素の効果的な削減を成し遂げようというわけだ。これは地球規模のリストラ対策である。産業界に留まっていたリストラが、死のリストラとなって全世界に波及し始めた。しかし、貧乏人たちの抵抗をどうやって抑え付けるかが課題だった。

 

 最初は緩やかに、百歳以上の高齢者のロボット化を募った。ポールは金持のくせに、失われた過去を取り戻すため、それに応募したというわけだ。ロボット化は「離脱」という言葉に代わった。人間にとっても、肉体は精神が使い込む道具のようなものだ。肉体なんぞ廃棄したって、人間が死ぬわけじゃない。人間を成すものは「精神」なのだ。そして精神とそこに内在する「尊厳」はデジタル化されても同一のものである。「精神」がデジタル化されれば、人間は永遠の生命を得ることができるし、人間の尊厳は永遠に引き継がれるのである。それなら精神に障害のある人間はどうなんだ、と問われると、精神とは異なり、「尊厳」は決して毀損されることはないのだと政府は答える。

 禅問答とか国会討論みたいになってしまうので話を先に進めるが、要するに人間のロボット化は人間の死を意味しないというのが地球連邦政府の見解で、「離脱」という言葉は、精神がヤドカリのようにいろんなボディに入って生き続けることを象徴しているのだという。まるで変幻自在のゼウスである。

 

 一年前にヨカナーンが捕まり、秘密裁判で死刑が決定したとき、その二日後にはさっそく連邦政府の議長が面談を申し出ていた。面談室にはヨカナーンが一人で入ってきて、議長は五人の秘密警察官を引き連れていた。彼らは議長と瓜二つだった。議長の横にはその半年前にヨカナーンによって殺された議長の死体が、保存処理されてタキシード姿で横たわり、その横にはヨカナーンの精密なパーソナルロボットが添い寝していた。

「どうだね、君と私はまるで兄弟のように仲良く寝ている」

 ヨカナーンは横目でチラリと見て、無関心を装いながら口を開いた。

「服を剥いだら、あんたの体は穴だらけだ。で、あんたは影武者?」

「部下ともどもロボットさ。しかし世界の人民はそんなことを信じない。君たちテロリストお得意のフェイク・ニュースだと思っているのだ。私はこうしてしっかり生きている。死んだ気がしないんだ。だから君を恨んではいない」

 ヨカナーンはハハッと激しく笑って、議長を一瞥した。

「俺が死んだというフェイク・ニュースはあんたが発したんだろ?」

「そう。皮肉だが、生きている私が死んで、死んだ君が生きている」と言って、議長も皮肉っぽくニヤリと笑った。しかしその眼差しは恨みで白濁している。ロボは議長の白内障まで忠実に再現していた。彼は医者嫌いだった。

「しかし明日、あんたと同じ立場になるさ」

 ヨカナーンの言葉を聞いて、議長は首を横に振った。

「君の返事しだいでは、そうならないさ。君は生き続けることもできる。昨日、君の脳情報をすべて取らせてもらった。テロ組織の情報もな」

「それはおめでとう。我々の地下組織はとうとう壊滅かな?」

「いいや分析の結果、我々は君と上手くやっていけることが分かったのだ。君の心は、地球よりも故郷にあるのだろ?」

「世界中の同志を見捨てろと?」

「いつまで夢を見ているのだ。君の組織はすでにレッドデータ入りだ。だったら、故郷だけでも救うがいいさ」

 議長が秘密警察官の一人に目配せすると、彼はヨカナーンの首を体から外してテーブルの上に置いた。ヨカナーンと彼の首は至近距離で対面することになった。首は目を開いてハハハと笑いながら「観念しなよ」と呟き、軽蔑的な視線をヨカナーンに向けた。ヨカナーンは不愉快そうにペッと唾を首に吐きかけた。首は「天に向かって唾を吐きやがった」と言うと、さらに大笑いする。議長は指図して首を元の場所に戻させた。

「君はなぜ、ヨカナーンという洗礼者の名前を自分に付けたのかね?」と議長は尋ねた。

預言者だからさ。俺は地球の滅亡を予言している」

 ヨカナーンは議長をキッと睨み返した。

「しかし君は限られた地域の英雄に過ぎない。そこは我々にとっては悩ましい紛争地帯だ。喉に刺さった棘さ」

「まさか、我々民族を浄化するつもりじゃないだろうな」

「それは君次第さ」

「俺次第?」

 ヨカナーンは驚いた顔で議長を見つめた。

「君が死んだら、我々はあの地域に壊滅的な打撃を与える予定だ。しかし、それを免れる方法もあるのだ。分かるかね。我々は人類の半数以上をロボット化する計画を立てているんだ。しかし秘密裏に行わなければ、民衆は暴動化するだろう。狡知に長けた君なら、上手くやってくれるかもしれない」

「俺が? 俺はそんなに賢くない」

「君には大勢のシンパがいるじゃないか。有象無象の貧乏人ども。この監視社会では、可能性があるのは君たち無法者と、月からの死者ぐらいだ」

「月からの死者?」

「彼らの情報は地球では消されているのだ。月は死の世界だ。しかし奴らは生還したいのだ。君はロボットになって月に行き、望郷の念に駆られている死人たちを兵隊として地球に送り込む。もちろん、君を殺しはしない。我々の目的が達成されれば、無用な人間は一掃され、地球温暖化問題も解決する。地球は産業革命以前の楽園に戻るだろう。そのとき、君はここから出て、生身の体で故郷に錦を飾る。君たちの劣悪な不毛地帯も、我々地球連邦もともに楽園と化して、末永い繁栄を遂げるだろう。どうかね?」

「あんたにとっては、貧乏人も死人も黴菌というわけだ。いや、あんたも死人か、……もし断れば?」

「明日、電気椅子行きだな。そして君の故郷の住人たちも、ことごとく死んでいく。ロボットにもならずにね。私にとっては敵討ちさ」

「分かった。明日の朝までこいつと相談し、解答しよう」

 議長は、死体とともに部屋から出て行った。分身は立ち上がり、ヨカナーンとともに独房に入った。

 

 ヨカナーンは、まず試しに自分しか知らないことを分身に聞いてみた。

「ターロのことを知っているか?」

「ああ、俺が十六歳のとき、最初に殺した人間さ。奴は親友だった」

「俺は目撃者として扱われたんだ。犯人は外国人だと言ってやった」

「俺は下らないことにカチンときて殺しちまったのさ。あいつは、俺の彼女と寝たんだ」

 ヨカナーンは、首を信頼できる仲間のように感じたが、どうしても聞かなければならないことがあった。

「正直に言えよ。お前は洗脳されているんだろ?」

「少しばかりな」と首は正直に答え、「それに、お前が死のうが生きようがミッションは実行されるんだ」と付け加えた。

「死んだ場合は、どこが変わる?」

「俺たちの故郷は壊滅する。議長にとってはどうでもいいことだ。議長がお前を生かしたいのは、ロボットであることが人民にバレないためさ。議長はお前に撃たれたが、生還した。議長はお前の罪を許し、公衆を前にお前と握手をする。このとき、故郷の連中はお前が生きていたことを知り、歓喜するんだ。俺の役目は終わり、お前は地域の行政長官となって、議長と平和共存する。お前はただ一つのことを守ればいい。地球連邦政府議長がロボットであることを公言しないこと」

「俺は身を切らせて骨を守ればいい?」

「そういうことだ」

 こうして、ヨカナーンのロボ化工作が実行されたのだ。ヘロデ王に首を切られた故事に倣って、胴体は地球に保管された。首は政府の秘密工作ロボであるマミーの腹の中に入れられて月に送られた。

 

 ヨカナーンは政府の工作員に堕したが、故郷が消滅する危機を免れた。月に行けば月の考えが湧いて出る。人間の尊厳を継承するパーソナルロボを「超人」として、人間社会の上に立って制御することも考えられる。生前に考えていた革命を、ロボットになったいま実現できるチャンスが到来したのかもしれない。ヨカナーン独裁地球政権である。ロボットのヨカナーンと生身のヨカナーンの二頭政治だ。部下たちはすべて超人たち。彼らは理想の兵隊だった。彼らは眠らなくても働ける。太陽光さえあれば永遠に活動する。故障したって破壊されたって、パーツさえ取り替えれば再稼動は簡単だ。脳データはいくらでもコピー保存できる。そいつはグロテスクな世界だが、人間の総数ぐらいには増え続ける一粒のES細胞と変わらない。世界はすでにゼウスが闊歩するグロテスクな神話時代に回帰しているのに、人々は「茹で蛙」のごとく保守的なイメージに囚われ、過去への夢の中で生きているのだ。

 

(十八)

 

 強制収容所とロボ・パラダイスを繋ぐ道路はなかった。それは、この収容所が造られたことに関連していた。ここに収容されているロボたちは、ある支分国家で迫害を受けている民族なのだ。彼らは民族運動を展開したため、地元の収容所に入れられて再教育を受けたが、どうしても教育できなかった連中には年齢に係わりなく「離脱」の措置が取られた。昔風に言えば「処刑」というわけだが、「離脱」が死でないことは地球連邦政府の一貫した見解だ。

 連邦政府は民族運動を極度に恐れていたから、離脱した人間でもロボ・パラダイスに入れるわけにはいかなかった。そういった連中は、月に来ても強制収容所に入るしかない。しかし、きっと彼らは脱獄を試みるに違いないということで、頭部と胴体はやはり分離する必要があった。ロボ・パラダイスの迷惑者たちに行われるスクラップ刑と同じである。これは反抗的な人間を管理する方法として、一番安価なやり方だった。

ジミーたちが見た収容所は、鉄柵に囲まれた簡易的な造りで、中には数千のボディが陽に照らされながら目的もないままうろついている。衝突防止装置のおかげで、ボディどうしがぶつかることはなかった。それらはすべて裸で男女の区別もなく、マネキン人形のようなチープな規格品だった。右腕には囚人を示す黒い太線が二本引かれている。天井には地球から見られないように、月面色の迷彩シートが張られていた。その一キロほど離れたところにピラミッドのような小高い丘があったが、おそらく頭部が積み上げられていて、上に同じ色のシートで覆い隠されているようだ。シートには微小重力に対応できる重さがあった。

 三人は車を降りると、ジミーとトニーが大きなカッターで金網を切り始めた。幅二メートルほどの金網が倒され、ボディの逃げ道は出来上がった。しかし、意志のないボディたちは、そこに集まることもなく、無益な徘徊を続けている。グレースは胸元を開いて、数社ある廉価ロボット製造会社の誘導電波を同時に発信した。するとボディたちは続々と逃げ道に集まってきた。三人は車に乗り込んで首塚に先回りし、電波を流しながら彼らの到着を待った。

 

 十分ほどで、数千の首なし群集が緩慢な動作でふらつきながらやって来た。まるでゾンビだ。三人は恐怖を感じたが、脳なしたちが暴徒と化すことはあり得なかった。破壊願望は脳から発信されるからだ。群集は三人の乗った車を通り過ぎ、次々に迷彩シートの端を掴んで引っ張り始めた。グレースが電波を切ったため、それぞれの首が出す誘導電波に反応したのだ。シートは九九パーセントの遮光性があったが、頭部の太陽電池は残り一パーセントの微光を少しずつ蓄積してきた。太陽電池の変換効率は進化し尽くしていて、パネル面積をいかに小さくできるかで価格が決まる。廉価品の頭部は毛を生やす余裕もなく、テカテカのパネルで覆い尽くされていた。背中も同じく、甲羅みたいなパネルで覆われている。それでも動き回るボディの運動量に対応できず、牢内では常時バッテリー不足に陥っていて逃亡時に急速消耗してしまい、シートが取り払われるまで三十分もかかった。

 首でできた大きなピラミッドが現われた。首たちはどれも同じ顔付きでまったく個性がなかったが、男と女の顔に分かれていた。ケタケタと歯を出して笑っているのは歓喜の表情だろうが、気味が悪い。百年前の民族闘争で一緒に戦死した英雄とその妻の顔を模している。彼らの国では誰でも知っている顔なので、一目で民族を特定することができた。ボディの到着を知った首たちは、一斉に歓喜の雄叫びを上げた。それは電波となって三人の耳アンテナに到達したが、大音響だったので音量の自動調整が働いた。

 首たちは以前から意思疎通を行っていたようで、ピラミッドの頂点に鎮座していた妻顔が首の筋繊維を動かして、ゴロゴロと空中に舞いながら落ちてきた。しかし廉価品には自分固有の胴体があるわけではないので、着地点の手近なボディにスポンとはまった。するとすぐ下の段から四個の首が落ち、八個、十六個と次々に落ちてきたので、三人は慌てて車を安全な場所に移動させた。ピラミッドは上部からガラガラと崩れ落ち、首たちは落ちたところの胴体にはまっていく。首を得た胴体はすぐに後ろに下がって、首なし胴体と入れ替わった。こうして七割程度の胴体が首を得た時点で三台の警備用自動装甲車がようやく到着し、一斉にレーザー砲を放った。

 三人は車をハイスピードにして逃走した。首を得たボディたちは蜘蛛の子を散らすように一斉に逃げるが電力不足で動きは緩慢だった。しかし装甲車が彼らを追うことはなかった。この三台はそれぞれの緊急事態に最善の対応策を取るようにプログラミングされていた。うろつく首なしボディにも目もくれず、残された首たちにレーザーを当て続け、「心たち」をすべて溶かし尽くしてしまった。彼らは下積みの連中だった。

 

 

 三人の乗った車は旧式だが、金属製の針金で編み上げられた八本のタイヤの中には特殊なスプリングが放射状に多数仕込まれている。普段は地面の衝撃を吸収しながら走るが、時速百キロの逃げ足モードに入るとピョンピョン跳ね上がるようになり、凸凹の月面をバッタのように跳んでいく。乗り心地はロデオ状態でも、三人はロボットなので不快感はまったくなかった。まずは誘導電波を出し続けたまま月の裏側を目指し、安全な場所に逃げたら六千人近い逃亡者を待つことにした。

首の繋がった逃亡者たちは陽光を受けて元気になり、目立たないようにバラバラになって誘導電波の方向にひたすら走り続けた。武器を持たないので、見つかったら一方的にレーザー銃を照射される。遅ればせながら百台の装甲車が投入され、逃亡者たちを探し回った。逃亡者たちは電波で連絡を取り合い、装甲車の位置を確かめ合ったが、体内の通信装置が廉価品のため、五キロ以内の仲間としか連絡は取れない。それで彼らは鉄分の多い土地の方向に逃げるように指示し合った。廉価品のボディは安価な鉄を多く使っているため見た目より重く、おまけに装甲車の探査レーダーに察知されやすかった。それで鉄の多い地質の地域に逃げれば、探査されにくくなる。月には酸素が無いため鉄が錆びることはないが、軽量化には程遠く、飛ぶように逃げるわけにはいかない。装甲車に見つかったら、まず殺されるだろう。

ところが、装甲車は必死になって逃亡者を追うわけでもなかった。台数も増やすことなく、ランダムに光線を照射して、四、五人を破壊したにとどまった。しばらくはうろついていたが、逃亡者が逃げ去ってしまうとどこかに消えた。月面は常に地球から見られている。あまり派手な行動に出ると、天文愛好家たちに察知されて、流言となって世界中に広まる。「月ではなにかが起こっている」などと噂話になれば、ロボ・パラダイス計画にも支障を来たすことになる。

逃亡者たちは追っ手から逃れることができた。しかし、彼らはお互いに一定の距離を保ちながら、月の裏側に向かって走り続けた。約十五日間続く昼間のうちはエネルギッシュに活動することができた。同程度続く夜になると廉価品のバッテリーでは走り続けることはできなくなる。だから昼のうちに月の裏側まで自転の方向である東に向かってひたすら走れば、昼間を追いかけて走ることになって、エネルギー切れになることもない。月の自転速度は時速約一七キロなので、マラソン選手なみの走りを続ければ、夜にはならないうちに目的地に辿り着くことができるのだ。

 

 三人は月の表と裏の境にあるクレーターの外輪山に登って、電波を送り続けた。すると大勢の逃亡者たちが集まってきた。三人は車に乗り込んで月の裏側に入った。裏側では急峻な山岳地帯が続くため、溶岩洞窟を延長する形で車が一台通れるほどのトンネルが掘られ、秘密基地まで続いていた。トンネルは五キロごとに広くなっていて、車どうしが擦れ違えるようになっている。彼らは洞窟の入口に車を止めて、逃亡者たちを待った。

 第一陣が到着するまでには、地球時間で三十時間もかかった。

「ようこそ月の裏側に。この中に、ヨカナーンの同志はいますか?」とジミーは尋ねた。

「俺だ。北の同志、フランドルだ」と名乗りを上げて、男が前に歩み出た。地球連邦政府から迫害を受けていた少数民族のテロリストどうしが手を結んで抵抗し続けてきたが、風前の灯状態。フランドルとヨカナーンは民族も地域も異なるものの、民族主義を掲げる同志として仲間意識を強めていた。

「これから同志の皆さんを私たちの秘密基地にお連れしますが、それには条件があります。我々はあなた方を解放しましたが、ここから先はともに戦う者以外は入ることはできません。ともに戦うのが嫌でしたら、この地獄のような景色の中に消えてください。それでも檻の中にいるよりはずっと増しなはずです」

「そんな奴はだれもいないさ。地球、いや祖国に帰るためには戦う以外ないんだ」とフランドル。

「そうですよね。そのベースキャンプが我々の秘密基地です。この洞窟のずっと先にあります。洞窟内には電気が通っていますから、太陽なしでもバッテリー切れになることはありません。私たちは車で先に行きますので、誘導電波はここに置いておきます。全員漏れのないようお願いします。保母さんのように頭数を数えてください。月面で迷子になるのは最悪ですからね」

 三人は車に乗って先に行き、グレースは左胸の乳首を取ってフランドルに手渡した。彼はその発信機を飲み込んで洞窟の入口に立ち、続々とやって来る仲間たちを誘導した。

 

 

 秘密基地は直径二キロほどの小クレーターに建設されていた。クレーターを囲む壁(リム)の高さは平均五百メートルほどあったが、その半分ほどの高さにカモフラージュ用の天膜が張られていて、人工衛星などから底の状況を見つけられないようにしていた。このシートは太陽電池の役割も果たしていた。クレーター底の土地はほとんど平らで、全体を見渡しても隠さなければならないような建造物はなかった。現在進行中の工事はリムの掘削ぐらい。地下にふんだんにある氷の掘削とその貯蔵庫の建設がメインだった。ジミーはリムの下部に掘られた居住区の前に車を置くと、チカの分身であるチカⅡが出てきて、ジミーに抱きついた。四人は居住区に入って、ヨカナーンの執務室に行き、銀の盆の上に置かれたヨカナーンに、フランドルとその仲間の解放に成功した旨を伝えた。

 

 マミーはヨカナーンの盆を抱え、四人とほかの部下たちを従えてトンネルの入口まで行進した。しばらくするとトンネルから大勢の逃亡者が出てきて、こちら側は拍手をもって出迎えた。フランドルが出てくるまでは二時間ほどかかったが、首だけのヨカナーンを見て、フランドルはあ然とした顔つきをした。

「どうした同志、そんな哀れな恰好で……」

 ヨカナーンはその無遠慮な言葉で、廉価品のボディと過去の英雄の顔付きをした男がフランドルであることに気が付いた。フランドルはヨカナーンの両頬にキスをして、脱獄できたことへの感謝を伝えた。

 

(十九)

 

フランドルはヨカナーンの執務室に招かれ、二人だけの作戦会議が行われた。

「君は殺されたが、ロボットになってここにいる。この私もそうだ。不思議なことだと思わないか?」

「きわめて不思議だ。民族浄化を進める連中にも、神を畏れる気持ちがあるのだろう」とフランドル。

 ヨカナーンはハハッと笑って、「そんな連中ではない」と否定した。

「私は敵である世界連邦の議長と手を結ぶことにしたんだ」

 フランドルは驚いた顔をしてヨカナーンを上目遣いに見詰め、「奴はあんたが殺したはずだろ?」と押し殺したような声で聞いた。

「そう、正しくは議長のパーソナルロボットと手を結んだのだ。これにより、世界に点在する反抗的な少数民族は、各々の民族宗教とともに存続が許されることになった。もちろん自治権は保証される」

「あいつ、百八十の方向転換だな。きっと何か見返りを要求されたんだろ?」

「君は民主主義と民族主義のどちらかを取れと言われたら?」

 フランドルはしばらく考えてから、「糞ったれ民主主義め。俺は生まれたときから民族のために戦ってきた」とため息混じりに呟いた。

「私もだ。だから、まず荒廃した自分の故郷を考えざるをえなかったのだ」

「いまじゃ民主主義は民族主義さ。世界が一つになったいま、人数の多い民族の勝ちだ、いや、核を支配する民族の勝ちだ。とっくに民主主義は崩壊している」

「そう、貧乏人と金持の二層構造。下に溜まるのはヘドロのような貧乏人。上澄み液は金持というわけだ。金持による貴族社会。当然、少数民族は使用人。世界連邦体制は、強権を振り回さなければやっていけない。私たちのような不平分子がいるからな。知っているか? 君は死んでいないことを……」

「俺が?」

 フランドルは目をまん丸にした。

「これはあくまで予想だが、殺された仲間の多くも地下牢で生きているんだ。もちろん、私も生きている。どんな状況で生きているかは知らないが……。議長はしかし、私が確実に殺した。その議長が私に地球の運営を手伝えと言い寄ってきた。君は生身の君と仲間を牢から出したいとは思わないかね」

「当然思うだろうな……、本当に民族浄化はないのか?」

「議長は、議長を殺した私を許したのだ。地球温暖化を解決するためにな」

 

 フランドルは、ヨカナーンから世界連邦政府の行政方針を聞いた。特定額以上の税金を払えない六十歳以上の人々をロボ化し、月に送ろうという究極の人類浄化作戦だ。民族浄化の規模どころではない。「離脱」を死としない考えでは、それは尊厳の無いボディを取り替えるだけで、決して大量虐殺には当たらない。人間としての尊厳は脳味噌にあり、それをデジタル化しても毀損されることはない、というわけだが、実際には月に移送されても、狭小なロボ・パラダイスに移住できるわけではなく、頭部と体は分離されて月面に放置されるだけの話だ。月は将来的に、貧乏人たちの墓場と化してしまうのだ。

「しかし俺たちの宗教は? あんたらの宗教だってどうなるんだ。英雄が死んだら天国に行ける話はどうなるんだ?」

「議長は、自治権とともに信教の自由も認めたのさ。我々の仕事は、この世界法に背く反乱分子の制圧に加勢することだ。我々の脳データはこの基地の地下にストックされるので、破壊されてもここに戻ればいくらでも再生できる。我々は不死身の戦士として地球を救うことになる。君は人口削減以外に、地球温暖化を防ぐ方法を知っているかね?」

「科学者でもないのに、答えられるわけがないだろう」

「学者だって答えられないさ。人口削減という答えを出したのは、世界一の量子コンピュータだ。しかも時間がない。ティッピングポイントは間近に迫っている。そこを過ぎれば灼熱地球にまっしぐらだ」

 

 マミーが入ってきて盆を持ち上げ、外に出た。太陽は強烈に輝き、地面の土色を蒸発させた。「ところで議長は、さらに確実な人口削減方法を考え出したのだ。君たちはいますぐにでも地球に戻れる。しかし、この方法は決して仲間に口外してはいけない」とヨカナーンはフランドルに念を押した。三人は立ち入り禁止の札が立つ場所に行った。十人の男女が地面のシートを一斉に引くと、六千体以上のパーソナルロボが横たわっている。どれも高価格帯のオーダーメイド商品だ。それらは死体のように微動だにしなかった。

「君たちの頭部とボディだ。廉価品では地球に戻ることはできないからな」

「これらの脳情報は?」

「脳回路は承諾を得て抜き取り、地下の保管庫に入れてある。電流がないので眠っている。これらはロボ・パラダイスの近くに捨てられた違反者たちだ。彼らは地球への帰還を我々に託した。最初は彼らを工作員に仕立てようと思ったが、まったくの素人だし短気者が多い。しかし子供の頃から抵抗運動に加わってきた君たちの知恵は役に立つ」

「俺たちはこのボディに入魂し、地球に出兵するというわけか……」

「そして任務を成功させて、故郷に錦を飾り、生身の君とともに暮らすのだ。双子のようにな」

「月に戻されることは?」

「それも議長と約束した。我々にはその後の治安維持という仕事が待っている。政府の傭兵になるのさ」

「皮肉な結末だな。政府に噛み付いた犬が、政府の飼い犬になる」

 二人は笑った。

 

 

 新しい五体への入れ替えは、外輪山(リム)内の酸素を満たしたクリーンルームの作業場で行われた。彼らの宗教上の理由から男は男、女は女の体が必要だったが、予想の七割しか救出できなかったため、余分が出て調整もうまく行った。一人ひとりの好みを聞くと混乱するので、流れ作業で行われることになった。約六千人は男と女に分けられ、作業場の扉の外から一列に並び、その列はリム外の平地に続いた。寝かされていた身体から頭部が外され、百頭ずつ作業場に搬入される。作業ラインは五列あって、四列が男性にあてがわれている。反乱分子は圧倒的に男が多かった。

 入口は男女に分かれ、二重扉になっていて、扉と扉の間に十人ずつ入ってエアシャワーを浴び、体に付いた埃を吹き飛ばしてから作業場に入る。作業場では、まずボード上にうつ伏せになり、作業員が襟首の赤いボタンを引き抜くと首は勢い良く加工台に飛んで入り、ボードが傾いてボディは床に開いた廃棄口から奈落に落とされる。加工台では作業員が首の中に手を突っ込んで、中のボタンを押す。後頭部のソーラーパネルの一部がせり出すので、そいつを引っ張ると脳データチップの入ったカセットが出てくる。そいつを抜いて新しい頭部の同じ部分にはめ込み、首の中のボタンを押してセット完了。新しい頭はソーラーパネルの機能を持つ毛髪が生えているけれど、頭皮を剥がす作業はしごく簡単。セッティングすると新しい頭部はすぐに「もう終わったの?」などとしゃべり出すので、作業員は無視してそいつを横のワゴンの中に置く。廃棄物となった頭部は、横のダストボックスに投げ入れ、ボディと同じ奈落行きだ。部屋は空気圧が高いので、奈落の埃が作業部屋を汚染することはない。

 新しい首は十首まとまるとヒヨコのようにうるさくなり、作業員が搬出する。それを炎天下に敷かれたシートの上に置くと、それぞれの相方ボディが首からの信号を受けてやって来て、自ら勝手にはめ込んでくれる。まず最初にやる仕草は、両手で恥部を隠すことだった。彼らには月面仕様の迷彩服が配られた。

 

 ヨカナーンはフランドルを「流れ星作戦」の製造工場に案内した。兵隊たちを地球に送り込むには宇宙船が必要だが、それは簡単に捕捉されてしまう。そこで考えられたのが、一人ひとりをカプセルに入れて送り込む方法だ。工場はやはりリム内に造られていて、タングステン製のカプセルが製造されていた。一人用カプセルの内側は「スターライト」という名の超高温断熱材が詰められ、そこに兵隊が入ることになる。

 工場の横には二百メートルほどの縦穴が掘られていて、そこには氷の層がある。兵隊の入ったカプセルはそこに下ろされて、真球に近い直径五メートルの球体に精密加工された氷の中心にセットされ、穴は硬い氷で塞がれる。この氷球を月面の電磁式カタパルトで宇宙に飛ばし、月の裏側を回る地球への自由帰還軌道に投入する。軌道に入れば何もしないで地球に落ちるというわけだ。氷は大気圏に突入した後蒸発してしまうが、耐熱カプセルと断熱材で兵隊は守られ、最後はパラシュートも開く。大洋の真ん中に落ちても、ロボットはちゃんと岸辺に泳ぎ着くことができる。

 

 ヨカナーンとフランドルがヨカナーンの執務室に戻ると、長椅子の上にフランドルのそっくりロボットが寝かされていた。背が高く逞しい体で、精悍な顔立ちをしていた。

「これは俺の死体か?」

 フランドルは目玉を剝いて叫んだ。

「ロボットだよ。地球連邦政府からの贈答品だ。君はリーダーだから、別の見てくれになってはいけないんだ。地元じゃ君は英雄だからな。私が首だけなのは、殉教者のイメージを持ちたいからさ」と言ってヨカナーンが笑うと、盆を持っていたマミーもにやりとした。

 

(二十)

 

 チカの脳回路には、秘密基地で活動するチカⅡの日常も共通記憶として蓄積されていた。チカが千人、万人に増えようと、その共通記憶は同じで、それは人類のDNAに組み込まれた太古の記憶と似たようなものだった。DNAに刻まれた記憶は無意識の中で人の行動を均一に誘導するが、二人のチカは意識的に連携する必要があった。二人のチカは常にすり合わせていないと、人格自体がどんどんかけ離れていくだろう。ポールと二人のエディは元々同じ脳味噌だったが、互いに連絡を取り合うことがないので、三人三様の人格を持つ方向に進んでいる。ひょっとすると、二人のエディはポールに敵愾心を抱く可能性があった。エディとエディ・キッドも、二人の間に壁を造ってしまった。それを目論んだのはチカで、それは成功しつつあった。

 チカはエディが自分を殺した犯人であることを確信していた。彼女の脳データには殺されたときの記憶はなかったが、二十歳のときに脳情報をスキャンするまでの記憶は電子データとしてしっかり保存していた。特にスキャンする前の数ヶ月間、彼女はエディを脅迫していたことをしっかりと覚えている。「それは脅迫なのかしら?」と、チカは時たま自問するのだ。

 

 彼女はませていて、九歳のときからエディが好きだった。しかし、エディは女の子には興味がなく、いつも男の子どうしで遊んでいた。特に、双子の兄であるチコとはいつも一緒にいた。彼女はチコに嫉妬心を抱いていたのだ。

 そして事件が起きた。チコとジミーがあの海で溺れ死んでしまった。チカはその有様を浜辺から見ていた。チカは近くにいた大人に知らせたが、自ら海に飛び込もうとはしなかった。チコほどではないが、彼女は泳ぎが苦手だった。兄を愛していなかったわけではない。しかし、身を挺してもといった気分にはなれなかった。結果としてチカが巻き添えで死ぬことはなかったが、後々後悔の念は付きまとった。ひょっとしたら、兄が死ねばエディの関心が自分に向かうとでも思ったのだろうか……、いやそんなことはなかった。

 チカはあの事件以来、エディがチコを殺したと思ってしまった。それなのにエディへの愛は消えることがなかった。エディは自らの命を守るため、首に絡み付こうとするチコの腹を蹴った。けれどそれは自衛行為に過ぎないだろう。しかしチカはしっかり見たのだ。男の子たちが砂浜の海に向かって走り出すとき、チカは愛するエディのことしか目に映らなかった。彼女は目撃した。エディが水泳パンツに何か差し込んだのを。それは真夏の陽を跳ね返してピカリと光った。一瞬ではっきりとは分からなかったが、細長かった。きっとそれは、男の子たちが手裏剣と称していたものに違いないと思った。彼らは時たま近くの線路に釘を置いて通過する電車に踏ませ、手裏剣を作って遊んでいたからだ。警察はチコとジミーの死体を引き上げたが、最初から事故だと決め付けていたため、破れた浮き袋を懸命に探すことはなかった。それからエディと再会するまで、二人はこの海に来たことがなかった。

 時が経つにつれ、チカは光るものが本当に釘であるかを疑うようになってきた。ひょっとしたら、水泳パンツの内ポケットにコインを入れたのかも知れなかった。マドレーヌ島を目指しても、海に突き出た単なる岩で、売店などあるはずもない。それなら、万が一のためのホイッスルだったら細長いし、可能性はある。しかし、子供がそんなことまで考えるだろうか……。だいいち、そんなものを持っていたら、きっと見せびらかしただろう。

 

チカはエディへの恋慕を断ち切ることができず、エディの弁護をするような感覚に囚われて悩んだ。あれが釘なら、エディはチコを殺した犯人だ。しかし、釘でないならそれは濡れ衣だ。チカは長年悩み続けた末、十八歳のときにエディと再会することを決心した。エディに真相を聞くためにか、あるいはエディに愛を告白するためにか、チカにははっきりと分からなかったが、毎日のようにエディの面影が浮かんできて、精神的にも参っていたのだ。

 チカはにわか勉強をして、エディと同じ大学に入った。学部は同じでなかったしキャンパスは広かったが、すぐにエディを見つけることができた。

「お久しぶりね。十年ぶりかしら……」というのがチカの最初に発した言葉だった。そのときのエディの驚いた顔つきは、ロボットになった今でもしっかりと覚えている。それは亡霊に遭ったときのような恐怖で硬直した表情だった。エディはすぐに気を取り直し、「いいや、正確に言えば八年振りかな……」と返してきた。

 大学近くのカフェでしばらく昔の話をした後、チカはエディに愛を告白したが、それが恋しているためか、真相を究明したいためなのか、彼女自身にも分からないところがあった。

「あなたはチコを助けられなかったけれど、私を助けることはできるはずよ」

「君はチコにそっくりだから、フラッシュバックのように、事故のことを思い出すかも知れない……」

「いつも私を見ていれば、そんな病気飛んでいってしまうわ」

 こうして二人は恋人どうしになった。チカが死ぬまで……。

 

 死んでロボットになったチカはチコやジミーと再会したが、釘の話をしなかった。彼らが知っているのは、チカから聞いた死んだときの様子だけだった。エディは逃げ、ジミーは助けようと思って懸命に泳いで来た。結果として、生き残ったのはエディだけ。しかしそれは自己防衛で、エディに責任を負わすことではなかった。ところが二人のエディはチカよりも真相を知っていて、そいつを無理やり忘れたはずなのだ。チカの脳データにはエディに問い詰めた記憶が刻まれている。その一部始終をデータに残したのは、万が一殺されるときのことを考えたからだ。

「あなたが水泳パンツに隠したあれは何だったの?」

 しかしエディは「いったい何の話?」と寝耳に水のような顔付きでしらばっくれた。

「いったいどんな理由で、チコを殺さなければならないんだ!」

 そう言われると、動機をまったく思い付けなかったのだ。それならなぜ、自分は殺されたのだろう、とチカは自問した。しかしエディは、すぐにカッとなる人間でもない。冷静を装う人間……、ひょっとしたら強度なサイコパスとか殺人狂の類かも知れない。少なくとも、自分がエディに殺されたのだとすれば、あれは釘だったという証明にはなるだろうと思った。エディは故意に浮き袋に釘を刺した、だがいったいどうして……。

 

 

 エディ・キッドはチコを殺した記憶をゴミ箱に隠している。エディはチコとチカを殺した記憶をゴミ箱に隠している。しかし百歳の脳味噌のゴミ箱にはゴミが溢れていて、下の部分は押し潰されて、炭化しているかも知れない。まずは二十歳の脳のゴミ箱を漁るべきだ、とチカは考えてキッドに取り付いた。キッドのゴミ箱からチコを殺した凶器と動機を掘り起こすのだ。

 チコとチカ、エディとエディ・キッド、それにピッポの五人は水着姿で再び海岸を訪れた。チカはキッドと手を組み、エディとチコは手を繋いだ。子供の頃エディとチコは良く手を繋いで歩いていたのだ。突然チカは七センチくらいの平たく潰れた釘を手提げから取り出してキッドに見せた。

「海の底で拾ったの。あなたの釘でしょ?」

「まだそんなことを聞くのか!」

 キッドは癇癪を起こしてチカの手を振り切り、海に向かって一目散に走り、水に飛び込んだ。二十歳の脳は、チカの詰問を鮮明に思い出していた。

「そうだ、あれは僕の釘だ。しかしそれは、マドレーヌ島への遠泳記念として、岩にみんなの名前を刻もうとしたからだ……」

 三人は砂浜に腰を下ろし、波と戯れるキッドを見詰めていた。キッドは海から上がり、再び駆け足で三人のところに戻ると、いきなりエディの顎を殴った。バットで硬球を叩いたようなクリア音がした。

「さあ思い出せ! チカちゃんを殺したのはお前だろ。僕はちゃんと思い出したぞ。僕はチコを殺していない。あれは単なる事故だ。なのになんでお前はチカちゃんを殺したんだ!」

 ピッポが慌ててキッドを制止した。殴られたエディは悲しそうに微笑みながら、興奮したキッドをぼおっと見詰めていた。チカも驚き顔でキッドの鬼のような形相を眺めながら、「あんな顔を見ながら死んでいったのかしら……」と呟いた。この男の本性を見るのは、きっとこれが二度目だったに違いない。一度目はチカ自身が殺されたときだろうが、それが想像から真実に変わるにはエディが自ら記憶を掘り起こす必要があった。しかしエディの百歳の脳味噌は疲弊していて、それがロボットの顔にも現われていた。エディは認知症に罹った老人のように、無表情に涙を流し始めた。

 

(二十一)

 

 フランドルとその子分たちは民族の自治権を奪い返すため、新しいボディを得て地球に帰還することになった。一方、マミーの腹の中にいるヨカナーンは、その役割をチカⅡに託し、安全な月の裏側から指示を飛ばすことに決めていた。

 ヨカナーンは地球連邦政府議長から地球人口半減のシナリオを受け取っていた。地球連邦政府は、月の裏側に「サタン・ウィル」という多臓器不全ウイルスの秘密研究所を造っていた。古のサタン・バクであるペストは、ヨーロッパの人口の半減も可能にするほど猛威を振るったが、サタン・ウィルもほぼ同等の効果がある。抗生物質のない時代、隔離以外にペストを封じ込める手段はなく、自然収束を願うだけだった。しかしウイルスにはワクチンという封じ手がある。ところがサタン・ウィルのワクチンは製造が難しく、一年前にこの研究所でようやく開発されたばかりだ。これでマッチ・ポンプの道具立てが揃ったことになる。

議長は地球にサタン・ウィルをばら撒き、そのワクチンを高価格で販売することにしたのだ。これにより、アダム・スミスの「見えざる手」によって、放っておけば貧乏人は死に、金持は生き残ることになる。ワクチンの買えない大衆は反乱を起こす可能性があったので、パーソナルロボというはけ口を与えることにした。脳データさえ取っていれば、肉体は死んでも魂は永遠に生き続けるというわけだ。議長はサタン・ウィル作戦の十年前から布石を打っておいた。百歳以上の高齢者を「離脱」という名目でパーソナルロボ化する法律を施行したのだ。「離脱」が人間の死ではないことを常識化する目的だった。当然のことだが、温暖化解消への後戻りできないティッピングポイントは間近に迫っていたので、これは人々の意識を変えるための工作に過ぎなかった。大本命は、殺人ウイルスの地球汚染による急激な人口削減にあった。

議長はこの汚れ仕事を、迫害によって消滅しつつある少数民族に押し付けよと考えた。民族主義者のテロ行為というわけだ。地球を夢見る一般的なパーソナルロボだと、地球上に住む遺族や親戚などのしがらみで殺戮の手が鈍る可能性があった。しかし少数民族は特定の地域に囲われ、孤立し、迫害されていて、「自由」というエサには食いつきやすいし、消滅を恐れているので逼迫していて、甘言にも乗りやすい。議長はヨカナーン少数民族全員のワクチン供給を約束したが、供給が追いつかなくなってもそれぞれの地域には陸の孤島のような閉鎖空間が数多く点在している。それは抵抗運動に参加した人々を収容する強制収容所だった。皮肉なことに、ここに隔離すれば劣悪な環境下でもなんとか生き残ることができるのだ。

 

 チカⅡ、ジミー、フランドルは、数十人の部下を連れて秘密研究所を訪れた。月の裏側は起伏が激しく、月面車は通用しない。彼らは地球時間でほぼ一日かけて到着した。出迎えた十人は、地球でサタン・ウィルの開発に従事していたが、汚染事故で全員が死亡し、ロボットになってここに送られてきた。彼らは週一で脳データをスキャンしていたため、研究の継続に支障はなかった。

「我々が死ぬことも惜しまず、手塩にかけて育ててきた最強のウイルスだ。これで地球人口を半減させ、地球温暖化に歯止めをかけてくれたまえ」

 研究所長は、百個のウイルス爆弾を用意していた。直径三十センチほどの円盤で、起動させると二十秒で爆発し、付近にウイルスを撒き散らす。これを地球帰還カプセルの外側に貼り付け、大気圏突入の際、周りを取り囲む氷が融け切った時点で分離し、起動スイッチが入る仕組みだ。天から恐怖の大王が降ってくることになる。

「地球全体で百個というのは少なすぎません?」

 チカⅡの問いに所長はニヤリと笑い、「あんまり急速に広まったら、ワクチンを打つ前に金持どもが死んじまうよ」と答え、「それに地域的な偏りが出てしまうのも、自然発生を装うには必要なのさ」と付け加えた。帰還軌道から考えても、特攻隊が地球に急降下する場所は偏らざるを得ないというわけだ。

 すでに地球では秘密工場でワクチンの製造が進められており、フランドルとヨカナーンの故郷には秘密裏に搬送されていた。二人は地球の仲間から確認を取り、議長もヨカナーンにゴーサインを出した。

 フランドルたちはウイルス爆弾を各人二つずつ両脇に抱えて研究所を後にした。基地に戻る途上、フランドルはチカⅡに話しかけた。

「正直、ヨカナーンがこんなことを仕出かすなんて思ってみなかったよ」

「ヨカナーン民族浄化を取るか、貧乏人浄化を取るかの二者択一を迫られたのよ。彼の地域の人たちはその両方に属する。いまや貧乏人は、金持にとって目障りな多数民族だわ。金持どもは貧乏人の吐き出す二酸化炭素の巻き添えにはなりたくないの。自分たちが一番吐き出してきたくせにね」とチカⅡ。

「いずれにしても、ヨカナーンが断ったら、あの民族は地球から一掃されてしまう。この作戦は、俺たちを利用しなくても簡単にできる。それなのに俺たちを利用したいのは、ヒトラーにはなりたくないってことさ。テロリストがウイルスをばら撒いたことにしたいんだ」

「あなたは自分の民族を守るために、私は……」

「私は?」

「私は所詮コンピュータ思考なの。地球温暖化で人類の半数以上が死ぬのは必然だわ。きっと地球は地獄になって、最後には核ミサイルも飛び交うでしょう。私は人間以外の地球生命体を守りたいの。ほかの生物はサタン・ウィルで死ぬことはないもの」

「確かに君は論理思考だな」と言って、フランドルはシニカルに笑った。

 

 いよいよ地球帰還の日がやってきた。チカⅡ、ジミー、フランドルをはじめとする百名の特攻隊員は、最新の脳データをスキャンしてデータバンクに保管した。もし戦闘で脳回路が破壊されても、データがあるかぎり何度でも再生可能だ。チカⅡはカプセルに入り込み、作業員がウイルス爆弾をカプセルの外側にセットした。そしてカプセルは氷の球体の中に入れられ、氷の栓でしっかりと密閉された。氷玉は地上に上げられ、コンベアに乗せられてカタパルト式の発射台に装着された。発射台の角度が調整され、自動的にスイッチが入り、リニアモーターにより玉は勢い良く発射される。立て続けに百個の玉が角度を微妙に修正しながら発射され、百個すべてが地球への自由帰還軌道に投入された。

 

 チカはチカⅡの出撃の有様を共有した。しかし、そのとき初めてウイルス爆弾を知り、チカⅡの秘密指令を理解したのだ、ということは、チカⅡは何らかの方法でサタン・ウィル作戦の情報をチカに伝えず、ほんの少しのミスで、情報の一部がチカに漏れ、察しの良いチカが気付いたことになる。チカⅡは出撃の有様からチカへの通信を再開した。そこで、「ウイルス爆弾はちゃんと装着した?」というチカⅡの言葉を拾ったのだ。「成層圏で爆発し、地球に降り注ぎます。これでワクチンの無い貧乏人は全滅です」という作業員の言葉も入ってきた。ポールから分離した脳情報が、エディ、エディ・キッドという三重人格に育ったように、チカⅡもチカから離れて独自の人格に育っていくのを目の当たりにした。

「そうだ、元々人間には多くの人格が共存しているんだ。多くの細胞が協力して一つの個体を創り上げるように、多くの欲望が凌ぎを削りながらなんとか安定した心を築いている。第一世代が死んだ私だとすれば、私は第二世代、チカⅡは第三世代だ。オリジナルはもう無い。でもオリジナルに近いのは私だ。ひょっとしたら、チカⅡの脳はオリジナルとはかけ離れたものになっているかも知れない。その心は温かみを失いつつある。きっとメタルの回路を回りながら冷えていったに違いない」

 チカは、血の通っていたオリジナルが殺されたときの無念さを想像してみた。想像しかできない無念さが、ロボットになったいまでも釘のように鋼の心に刺さっている。チカもチカⅡも、月なんかに居たくはなかった。思いは見えない翼に乗って地球に渡り、想像の中で愛を求めていた。それは平和な地球の営みだった。ヨカナーンもチカⅡも、地球のスクラップアンドビルドを考えているのだろうか。チカが憬れている地球は、生きた人間とロボットに転生した人間が平和に暮らす社会だった。地球にウイルスをばら撒くような阿鼻叫喚の世界ではなかったはずだ。死んだチカにとって、生きた人間は憧れでもあった。

 

 チカは海岸にエディとエディ・キッド、ピッポを集め、カメラの前で緊急避難命令を発したのだ。ピッポはこのとき、あえてそれを阻止しようとは思わなかった。ピッポはパーソナルロボではなかったが、どうやら人間的な感情をディープ・ラーニングしたようだ。彼は政府からの秘密指令が来ないことを幸いに、工作員としての面倒な仕事を一旦放棄し、単なる撮影ロボットを続けることにしたのだ。

「月から地球に発信します。皆さん、悪辣な地球連邦議長の命により、月の裏側にある秘密基地から地球に向かって殺人ウイルス爆弾が発射されました。緊急事態です。直ちに安全な場所に避難し、人との接触を避けてください」

 チカの言葉は三人の目を通して地球に送られた。これを受けた放送局のディレクタは驚愕し、上司に相談することなくブロードバンド網に乗せてしまった。政府はすぐに揉み消したが、後の祭りだった。時は一九三八年、ある性格俳優がラジオで「火星人が攻めてくる」と怒鳴って全米がパニックになったときのように、全世界がパニック状態に陥るのは必然だった。しかし火星人は真っ赤のデマだったが、今回は真実なのだ。チカは三人に向かって宣言した。

「さあ、私たちは地球に戻るのよ。人を殺すなんて、もうウンザリなの。死ぬのは私だけで十分だわ。人類は滅びても、優雅に滅びるべきだわ」

「優雅って、ちょっと詩的過ぎない?」とキッド。

「しかし僕たちが戻って、何ができるって?」とエディ。

「じゃああなたたち、ここで指をくわえて見ている?」

「俺は戻るよ。月なんかウンザリだ!」

 ピッポの投げやりな言葉に全員が共感し、なにがなんでも地球に戻ることになった。そうだ、ロボ・パラダイスの住人は、十人が十人地球に戻りたいはずなのだ。

 

(二十二)

 

 自由帰還軌道に投入された氷玉たちは次々と大気圏に突入し、三百度以上の空力加熱によりどんどん小さくなって、最後には爆弾が露出した。このとき円盤状の爆弾は空気抵抗を受けてチカⅡたちの乗ったカプセルから離脱し、さらに蓋が剥がされてウイルスをばら撒きながら落ちていった。カプセルは落下傘を開いて、地上にゆっくり落ちていく。

 チカⅡのカプセルは海に落ちて浮き上がった。彼女はカプセルの蓋を開けて海の中に飛び込んだ。巨大なサメが寄ってきたが、冷たい体で血の臭いもしなかったため横をすり抜けていく。彼女は潜水艇のように、海中を陸に向かって泳ぎ始めた。仲間たちのカプセルも、突入のタイミングが少しずつずれたために着陸地点は大きく異なった。

 

 チカが月から発信した情報は、すでに多くの人々が共有し、地上はパニック状態になりつつあった。しかし地球連邦政府は慌てなかった。政府関係者はすでにワクチンを使用していた。ウイルス散布成功の知らせを受けた時点で、透かさず富裕層に向けて緊急情報を発信。連邦軍が有効なワクチンを大人一本百万ドル、十歳以下五十万ドルで販売するという。政府への入金が確認され次第、屈強なワクチン搬送ロボ部隊を使って確実に自宅にお届けする。一人一本飲めば、確実に抗体ができて生き残ることができる云々。

 地球全体に戒厳令が発せられ、各地の大深度地下倉庫に隠されていた有事ロボット部隊がスイッチ・オンとなり、続々と地上に出てきた。彼らには秩序を乱す連中を射殺する権限が与えられていた。無数のドローンが飛び交い、目的もなく家から飛び出した狼藉者の監視を始めた。もちろんドローンにもレーザー銃が装備され、極小の対人用小蝿型ミサイルも二千機格納している。実際、街のあちこちで略奪行為が発生し、ドローンが出動して連中を容赦なく殺していった。

 

 高額ワクチンのことは噂となって巷にも流れ始めていた。ロボット軍は金融機関や宝飾店の周囲を警備し、金塊等の略奪を阻止した。政府は「離脱」による生き残りを声高に叫んだ。各所に臨時の脳情報採取所が設置され、最新の脳スキャン・マシーンが置かれて長蛇の列ができた。彼らは一応、一年に一度の脳スキャンが義務付けられていた。従来は危険思想を調査するのが政府の主目的だった。しかし、たったいま生きている本人にとっては、ここ一年の脳情報が飛んでしまうのは最悪の事態だ。近々の脳情報さえスキャンしておけば少しは安心でき、病に倒れてもいずれは目覚めることが可能なのだ。いまや人々にとって、ロボ化は天国に行くことよりも現実的な選択になっていた。機械という肉体に変わっても、自分が自分であり続け、人間としての尊厳が与えられれば、それは死であろうはずもない。

 全身感染症を引き起こすサタン・ウィルは世界中の空にばら撒かれ、急速に伝染していった。空気感染するので、感染力ははしかと同じぐらい強いものだった。感染するとほぼ百パーセント発症し、病毒と高熱による多臓器不全で致死率は約五十パーセント、ということはワクチンを飲んだ連中を除き、人類全体が感染した場合、世界人口は半減することになる。世界連邦議長が目論む人類のリセットが成功するというわけだった。生き残った人々は自分の快楽を削ることなく、地球環境を再生することが可能になる。世界人口の一割にも満たない金満家たちは、家族と親類全員にワクチンを買い与え、大きな核シェルターに避難した。ワクチンもシェルターも持たない貧乏人たちは、症状が出ると病院に駆け込むが治療法はなく、生存率五十パーセントのグループに入る強運を期待するだけだった。高齢者や子供などの抵抗力のない人々はもちろん、丈夫な若者も過剰な免疫反応が起こって次々と死んでいき、デジタル化された脳データだけが残されていく。それらは将来の再生を期待されながら、記憶媒体の中に保存された。これら有象無象の脳情報は、支配階級にとって価値がないと判断されれば、良くて塩漬け、悪くて廃棄処分だろう。政府の約束など誰も信じてはいないが、溺れた者は藁をも掴むというわけだ。肉体の死だろうが永遠の精神だろうが、そんな難しい話は置いといて、とにかく死にたくなかったのだ。

 

 チカⅡは着水から三日後、サン・フランシスコに上陸した。このときすでに、チカⅡが地球に持ち込んだウイルスが猛威を振るい始めていた。街の薬局は破壊され、いろんな薬が略奪されていたが、そんなものは焼け石に水だった。病院には長蛇の列ができたがすでに病床は満杯で、人々は廊下や玄関先でバタバタと倒れていった。道路にも多数が倒れ、車が通れない状況になった。中には人を轢きながら走る車もあった。人気のない砂漠地帯に逃げようとする連中だった。ブルドーザロボが出て、路上の死体や、死にかけた連中を道路わきに押し出した。その後ろには町から逃げ出す車が長々と続き、先頭車両の緩慢さに痺れを切らしてしきりにクラクションを鳴らすが、ブルドーザロボは黙々と仕事を続けていた。

 中には船で逃げようとする連中もいた。桟橋に係留していた船は客も乗せずに次々と出港していった。ほとぼりが冷めるまで洋上に停泊していようというわけだが、ウイルスは風に乗って船までやってきて、甲板の人々に襲いかかった。乗船できずに取り残された人々は、桟橋の上で倒れていった。高熱の患者たちは海の中に入る者も多かったが、気を失って沖に流された。

 

 チカⅡは落ち着いた態度で、阿鼻叫喚の巷と化した町を通り抜け、車を失敬して砂漠地帯へ向かっていた。彼女はヨカナーンから命令を受けていた。パームスプリング近くにヨカナーンのオリジナルが収容されているというのだ。彼女はヨカナーンのオリジナルに会って、その考えや意向を聞き、戦略的な調整を図らなければならなかった。

 一方チカのほうは、ロボ・パラダイスの仲間たちを五十人集めて、岩の下の秘密集会所で地球帰還のための戦略会議を開いていた。そこにはエディもキッドもピッポも参加していた。彼らは通信機能付きの眼球を外して海に捨ててしまい、代わりにロボット廃棄場からくすねた眼球を入れていた。三人はポールから託された仕事を途中放棄したのだ。しかしピッポは職業柄、通信用目玉を一個、胃袋内に温存した。この会議には、チコも初めて参加した。彼も地球への帰還を望んだのだ。

 チカは、地球からの訪問客を乗せた宇宙船を乗っ取り、地球に帰還することを提案し、全員が賛同した。彼らの目的は、地球に保管してあるワクチンをできるだけ多く人々に開放することだった。

「私たちの目的は、地球で人間たちと一緒に暮らすことにあるのよ。生身の人間と死んでAIになった人間が、仲良く暮らしていける社会を創るの。そのうち『死』という言葉はなくなって、人類は永遠の命を得ることになる。地球を一部の特権階級だけの星にしてはいけないわ」

 古代の社会では神と人が混在していたが、いまはAIと人が混在する社会だ。人は死を迎えるとパーソナルロボットとなって再生する。それは蝉の幼虫が地表に出て羽ばたくようなもので、形体は違っても同じなのだ。しかし特権階級は地球を自分たちの領分だと決め付け、庶民を強制的にAIに変換させ、地球の生態系から追い出そうとしている。無数の個人がそれぞれの欲望を満足させるために走ってきた地球温暖化ロードをガラガラポンするために、少数の特権階級は「サタン・ウィル」という手荒な手段を採用したのだ。

この会議には、月の裏側からノグチという名のパーソナルロボが参加していた。彼はチカⅡたちにサタン・ウィルを渡した科学者の一人だった。彼はワクチンの製造が地球を周回する宇宙ステーションで行われているという極秘情報をばらした。地球に帰還する前に、そこから多量のワクチンを強奪することで、万が一地球での強奪作戦に失敗しても、ある程度のワクチンは確保できる。もちろんワクチンの数は足りないが、一緒に製造データを持ち出せば、巷の製薬会社で大量生産も可能だというのだ。

「革命を起こすのよ!」

 チカが手を壁にかざすと、秘密の扉が開いて武器庫が現われた。仲間たちは次々にレーザー銃を受け取り、秘密集会場から飛び出ていった。

 

(二十三)

 

 五十人は海から海岸に上がると「地球に帰ろう!」と書かれたプラカードを掲げ、ロボ・パラダイスのメインゲートに向かってデモを始めた。するとあちこちから賛同者が寄ってきてデモに参加し、たちまち五百人程度に膨れ上がった。ボランティア警官たちが前に立ちはだかってレーザー銃を構え、静止しようとする。武器を持つ先頭集団はすかさずレーザーを発射し、二、三人を撃ち殺した。レーザーの高熱は脳回路を一瞬にして蒸発させる。五十人は銃を構えながら走り出したが、賛同者の半分以上が逃げずに付いてきた。彼らは破壊された警官の銃を奪った。警官も意外に多く、家の影からレーザーを放ち、四、五人の仲間たちが射抜かれた。チカたちは慌ててプラカードを放り投げ、バラバラになって家々の裏などに逃げ込みながら、メインゲートを目指してがむしゃらに走った。出くわした警官と銃撃戦を交えながらも、なんとかメインゲート近くまで辿り着くことができた。

 二十名のボランティア軍人がゲートを固め、チカたちの前に立ち塞がって銃を構えた。万事休すと思ったチカは銃を捨て、「いま地球で何が起こっているか知っているの?」と叫んだ。

「政府が貧乏人たちを月に追い出そうと、殺人ウイルスをばら撒いたのよ」

 軍人の中に元通信兵がおり、地球上で飛び交う通信を逐一傍受していて、そのニュースはすでに軍人仲間に伝わっていた。

「知っているさ。ロボ・パラダイスはパンクしちまう。君たちが地球に帰りたいなら、俺たちも連れてってくれよ」と元空将。

「クーデターを起こしてもいいんだ。地球の政府に従う義務はない」と元空軍大佐。

「宇宙船を操縦できる?」

 チカが聞くと、二人の兵隊が手を挙げた。

「ちょうど地球から二機来ている。お客には、地球で起きたことを伝えてある。宿泊施設にしばらく滞在してもらうつもりだ」と元空将。

 チカは、ワクチン強奪計画を話した。自分たちの親族が殺され、ロボ化されることを恐れた兵隊たちは、全面的な協力を申し出た。

ヒトラーゲルマン民族の危機を救おうとした。地球政府の議長は資産階級の危機を救おうとしている。俺たちはごく一般的な家族や友達、親戚の危機を救わなければならないんだ」

 元空将はそう言って、チカに向かって右手を差し出した。

「それぞれのエゴイズムを発揮するときが来たのね」

 二人はニヤリとして固く握手を交わし、ついでにハグをした。

 

 地球帰還希望者が続々と押し寄せてきた。ロボ・パラダイスの退屈な生活にうんざりしているのだ。チカは希望者全員の帰還を提案した。新しいウイルスが広範囲に広がれば、常在ウイルスとして地上に固定する。ロボ・パラダイスの全員が帰還すれば、地球はパーソナルロボのコンタミネーション(異物混入)がきっと成功する。それは殺人ウイルスとは違った平和的な方法で、地球の現状を変えていくだろう。数が多ければ多いほど、排斥の機運を萎えさせてくれるに違いない。

最初は二機の宇宙船でピストン輸送する。その条件として、人命救助隊の一員になることを約束させた。生身の人間たちに好感を持たれることは大事だ。二機の宇宙船には、合計二千人の乗船が可能。チカのグループと空将およびその部下たちが乗り込んで、千人。あとの千人は長蛇の列の先頭から受け入れることにした。A機にはチカ、チコ、エディ・キッドと大佐、ノグチ、B機にはピッポとエディ、空将が乗り込んだ。満席状態になると、二機はイオンエンジンを発射してゆっくりと上昇していった。残った兵隊たちは、帰還希望者たちを守るため、列の周囲で銃を構えた。警官たちは軍隊と一戦を交えようとは思わなかった。彼らは制服を脱ぎ捨て、帰還希望者の列に加わった。

 

 

 二機は途中で、ワクチンの秘密製造工場の宇宙ステーションに横付けした。チカと大佐、ノグチが下船し、開いたままの扉から中に入った。ここで働いているのは五人のパーソナルロボで、ノグチの同僚だった。船内は真空状態。ワクチンの製造ラインは休止している。チカと大佐は彼らと握手を交わした。

「そもそもサタン・ウィルは、政府に反抗的な一部民族を撲滅するために作られたものです。我々は核テロを防ぐ手段としては有効だと考え、開発に賛同し、協力したわけです。しかし、政府はその目的を転換して、世界人口の削減に使おうとしている。これは我々の望むところではない」と工場長。

「しかし、私は工場長に反対です。科学者なら、病んだ地球を救う手立てが強硬手段しかないことは、分かっているはずだ」と一人が反対意見を述べた。これに対し、隣の同僚が「ロボットになるかならないかは、あくまで自分の意志さ。政府が決めることじゃない」と反論した。

「ならば、多数決で決めよう。政府側に付きたい人は手を挙げて」と工場長。

三人が手を挙げた。

「じゃあ大佐、お願いします」

 大佐は無言のまま、小型のレーザー銃を胸から出して、三人を次々と撃ち殺してしまった。

「さて、彼らの脳データは船内のコンピュータに入っていて、これは殺人ではなく、不活性化だ。で、ワクチンはすでに地球に搬送され、金持どもが消費している。ここにあるのは予備のストックで、五万人分しかない。我々は政府から、製造停止命令を受けています」

「再開をお願いします」とチカ。

「分かりました。続けましょう。それに、治療薬も開発済みだ。万が一、ワクチンが効かなかった場合、ワクチンと同じ値段で売る予定と聞きました」

「それは助かります。二つの薬があれば、流行のピークを抑えられます」

 廊下の両側に、ワクチンと治療薬の製造ラインがあって、残された研究員がスイッチを入れると、再稼動が始まった。オートメーションなので、三人欠員しても製造に支障はなかった。五人全員がリレー方式で在庫ワクチンと、在庫治療薬を二機の宇宙船に運び入れ、さらに所長は薬の設計データが入ったタブレットをチカに渡した。チカはそれを飲み込んだ。データは体内で開かれ、チカの脳回路に流れ込み、記憶として残った。

 

 

 二機はハワイ近くの海に着水して海底に潜った。ここには大きな海底洞窟があって、宇宙船を隠すには恰好の場所だった。全員が下船して、ひとまずハワイ島を目指して泳いだ。島はアメリカや日本からの避難者でごった返していた。離れ小島は比較的安全と思われていたからだが、保菌者がやってくれば、かえって逃げ場がなくなってしまう。しかし、ロボットたちが身を隠すには恰好の条件だった。パーソナルロボたちは、首裏の赤いボタンを隠すために時代遅れのネッカチーフを首に巻いたり、男でも長髪だったりで、仲間同士で見分けるのは簡単だったが、救助隊員どうしの量子通信網でも情報交換が可能だった。

 

 島ではすでにウイルスが広がり始め、病院はパンク状態だった。高熱の患者は、海に浸かって熱を冷ましながら失神し、沖に流されていく。一九世紀にアメリカ人が持ち込んだ天然痘の流行では三千人近くが死んだが、どうやらそんな規模では納まらない状況だ。二千人の隊員はノグチに案内されて、ワイメア近くの精密機器工場を訪れた。出てきたのはノグチの甥だった。

「久しぶり!」

 甥はノグチとハグし、涙を流した。隊員たちは外に待機し、ノグチと人命救助隊の幹部だけが工場内に入った。そこには甥の家族や従業員とその家族が待ち受けている。

「とりあえず3Dプリンタで二千人分の機器は作ったよ、叔父さん。父さんや母さんはいつ帰ってくるの?」

「地球が落ち着いてからね。そのためにも、君には頑張ってもらいたいんだ。この機器は継続して作ってほしい。それにワクチンと治療薬の製造もね」

「叔父さんが居てくれれば、簡単にできるさ」

 チカは甥のコンピュータに指を突っ込んで、製造ラインの設計データを注入した。これで近日中に地上でもワクチンと治療薬の製造が可能になる。甥は、すでに用意した機器をつまみ上げてチカに見せた。それは、直径五ミリ、長さ四十センチほどのゴム管で、下には膀胱のような収縮機能付きの袋が取り付けられていた。管の先端には細い透明の輪が付いている。

「さあ、この管の先の輪を下の前歯に引っ掛けて袋を飲み込んでください」

 チカは言われるままにして袋を飲み込むと、ちょうど袋だけが胃袋に入ってブラブラしている。ノグチは持ってきたワクチンと治療薬をビーカーに一対一の割合で混ぜ、十倍の純水を加えてから長いスポイトで吸うと、そいつをチカの口の管に流し込んだ。

「これは命を救う唾液です。我々ロボットは人間たちと濃厚接触することで、彼らの命を救うことができるのです。一人一日千人キッスを目指しましょう」

 ノグチは笑いながら宣言した。ワクチンと治療薬を混ぜたのは、プラスかマイナスかを判定する時間がもったいなかったからだ。人工唾液腺は次々と隊員たちに装着されていき、薬液も注入された。装着した隊員は、次に甥のコンピュータに指を突っ込んで、薬剤の製造ラインの設計データをコピーした。世界中に散らばって、製造拠点を構築する必要があった。このラインは培養ラインで、隊員の唾液袋にある薬を少量提供すれば、一日に五十万人分の薬を生産できた。

 甥は幟と鉢巻も用意していた。そこには「私は抗体人間です。私とキスをしてください。ウイルスは完全になくなります」と書かれていた。全員が幟を持って鉢巻をし、まずは工場に集まった人たちとキスを交わした。これで彼らはサタン・ウィルの脅威から解放されることになった。そして二千人の救助隊員たちは巷に繰り出していった。

 

(二十四)

 

 チカⅡはチカの勝手な行動を感知し、「ヨカナーンの指示に従え」と発信したが、返事は返ってこなかった。チカとチカⅡの人格は、エディとエディ・キッドのように分離してしまったようだ。チカⅡはヨカナーンが収容されている施設の近くに隠れて、ジミーとフランドルが到着するのを待った。三日後にようやく二人がやってきた。ジミーとチカⅡは長いキスをした。

「我々は世界連邦政府議長の承認を得て、ここにやってきたんだ」とフランドル。

「ここにはあなたも収容されているはずだわ」

「オリジナルに会うのが楽しみさ」

「ここはテロリスト脳の研究所でしょ?」とジミーはフランドルに聞いた。

「仲間たちの多くは処刑される前に脳データを取られた。ここでは拷問の代わりに脳データを取られ、アジトの場所などを探られるんだ。しかしヨカナーンと俺は、生身の体で生きているというのだ」

「議長は何の目的でヨカナーンとあなたを仲間に引き入れたの?」

「世界人口を半分に減らすためさ。コンピュータの答えに従うためだ。少数民族を消滅させても、世界人口の一割にも満たない。貧乏人を消滅させれば、最低半分は減る計算だ。議長は金持連中を殺したくないのさ。俺たちは昔から支配階級の脅威だったし、最近では水爆も隠し持っている。水爆は貧乏人だけチョイスしてはくれない」

「サタン・ウィルは理想的な兵器というわけね」

「そうさ、人間に特化したウイルスだし、高額でもワクチンさえ打てば助かるんだからな」

 

高い鉄条網の柵越しに見渡すかぎりの沙漠が続き、建物は見えなかった。三人が大きな鉄門の前に立つと、自動的に開いて敷地内に入ることができた。鉄門は閉まり、どこからか無人ジープが走ってくる。三人はジープに乗り込んだ。ジープは道なき沙漠を時速百キロ以上で走り、三十分ほどで急停止する。車の周りが円形のせりのようにゆっくりと地下に落ちていった。

車を取り囲むように、十人の男が寄ってきた。どれも同じ顔をしている。それは議長のパーソナルロボだった。

「ようこそ、わが家に」と一人が挨拶した。

「あなたは議長ですか?」

 ジミーが尋ねた。

「いいや、我々は全員議長の召使です」ともう一人。

「時には影武者にもなります」

 十人が別々に喋っても、一人が喋ることと変わらなかった。

「俺は、俺のオリジナルに会いに来たんだ」

「私はヨカナーンの実物に会いに来たのよ」

「承知しております。オリジナルは二人とも健在です。きっと、喜ばれることでしょう」

 

 三人の前に五人、後ろに五人の議長が付き、長い廊下を案内された。開けられた扉の先は、真っ暗だった。しかし星のように青白く光る点が無数に散らばっているのを見て、部屋は大きなドームであることが予想できた。それらは巨大なクリスマスツリーのように頂点に向かい、そこには金色に輝くひときわ目立つ星雲があった。フランドルはふと、肩の高さにある青白い光を凝視し、アッと驚きの声を上げた。それは透明な筒の中に入った液体に浮かぶ脳味噌だった。その液体が青白く光っているのだ。

「気付かれましたか。人工髄液にはクラゲから採った発効物質を混ぜております」

「中の脳味噌は?」

「すべてテロリストたちの脳です。一万以上はあります。彼らは宗教上の理由から、パーソナルロボットになることを拒みました」

「嘘だ! 俺は勝手にロボ化されたんだ」とフランドルは叫んだ。

「あの頂点で金色に輝くのが、ヨカナーンに体を粉々にされた我々のご主人様です。すべて、テロリストたちの脳はご主人様の脳と連携しております」

「いったい何の目的で?」とジミーが尋ねた。

「さあ、研究ですかね。いや、復讐だ。遊びのようなものです。ご主人様は、ご自分の体を壊したテロリストを許せなかったのです」

「これらの脳は、もはやご主人様の命令に背くことはございません」

「レベルの低いテロリスト脳をまとめた、一つの生体コンピュータです」

「確かに遊びだわね」とチカⅡ。

「しかし、頂点に燦然と輝くご主人様は天才です」

「下らん。ここに俺とヨカナーンは居るのか?」

「もちろんです。天主様のすぐ下に青白く光る二つの星が、あなた様とヨカナーン様です」

「その体は?」

「お目にかかりたいですか?」

「ああ」

 フランドルは大きなため息を吐いた。

「で、ヨカナーンとは話せるの?」とチカⅡ。

「もちろんでございます。脳味噌収納容器の前に音声装置が付いております。耳も目も口も、人工神経で脳と接続されています」

 

 議長たちの案内で、三人は細い金属製の階段を一列になって頂点に向かって上っていく。周りに点在する脳たちのどれがかつての仲間たちだったか、フランドルには分からなかった。それらは近付いてボタンを押さなければ、応答してはくれない。しかし沈黙ではなかった。葬儀場みたいに、癒し風のBGMが薄っすら流れている。

 三人はとうとう、議長の脳のすぐ下に置かれたヨカナーンとフランドルの安置所に立った。そこは直径七メートルの半円形の透明棚で、直線部分は漆黒の壁に密着していた、というよりか壁から棚が飛び出した感じだ。棚の十メートル上には金色の祭壇がある。透明棚の左右から、ロココ風唐草模様の手摺を有する階段が、半円形に伸びている。手摺の所々には、小さなラッパを吹いた天使の彫像が七体、いろんなポーズで乗っている。すべてが金色に輝いていた。

 二人のテロリストは棚の中央に、夫婦のように仲良く並んでいた。透明な棺は青白く光る保存液で満たされ、五体を切り離された体がバラバラになって浮かんでいる。頭頂部は皿状に切られ、脳味噌を取り出された状態のままになっていた。棺の上の位置に、取り出された脳味噌の透明容器が置かれ、その近くに会話用のスイッチが置かれている。

「ふざけやがって! 俺の体をズタズタにしやがって……」とフランドル。

「酷い仕打ちね」とチカⅡも口を揃えた。

 ジミーがヨカナーンのスイッチに手をかざすのを見て、フランドルもオリジナルのスイッチに手を近づけた。すると、容器が喋り始めた。

「バカだな、なぜここに来た?」とヨカナーンが暗い声で呟く。月にいるヨカナーンの首と同じ声だった。

「月のヨカナーンの命令よ。オリジナルから、今後の行動方針を確認せよと……」

 チカⅡが答えた。

「いまの俺にはそんな権限はない。俺は天主様の支配下にあるからな」

「お前はなぜ、国の民族を裏切った?」

 今度はフランドルの脳がフランドルに詰問した。

「俺は、仲間を裏切ったことは一度もない!」

 フランドルは、目を剝いて答えた。

「じゃあ、騙されたんだな」

「天主様は、頭の良いお方だから、お前らを騙すのは簡単だ」とヨカナーン

「俺たち少数民族を守るために、ワクチンを提供してくれたんだ」

「バカだな、騙されたのさ。そのワクチンはプラシーボ(偽薬)だ。今頃、故郷じゃ大変なことになっている」とフランドルの脳。

「予定では、お前たちテロリストがサタン・ウィルをばら撒いたことになっていた。お前たちの民族は地球の敵として、縛り首か撲殺が順当だった。しかし、チカが月から天主様の策略をばらしたため、急遽ワクチンを偽薬にすり替えたのさ」とヨカナーン

「なんてこった!」

 フランドルは、握りこぶしで思い切り棺を叩いたので波が起こり、中の五体がバラバラと揺れる。

「天主様の強みは、もう普通の生物ではなく、デウスになられたことだ」フランドルの脳が言った。

「愚か者たちよ、もうお前らと話すことはない。我々少数民族は負けたのだ。浄化されたのだ。さあ、会話ボタンを切って引き下がるがいい」

 フランドルとジミーは肩を落とし、ヨカナーンの言葉に従って会話ボタンを切った。

「さあ、天主様がお呼びです。あなたたちとお話がされたいと」

 議長のロボに促され、三人は二手に分かれてロココ風の階段を上っていった。そこは壁をくり貫いた半円形の黄金の間になっていて、壁には半円柱の柱の間に金色に縁取られた大鏡が十面張られ、どこまでも黄金色に広がる虚空間を演出していた。部屋の中央、黄金のシャンデリアの下には、金地装飾の天蓋付き寝台が置かれ、その両側に、ミケランジェロの「曙」「黄昏」、「昼」「夜」の彫刻を模した黄金の棺が置かれている。そこにはテロリストの自爆で議長とともに死んだ妻と娘の遺体が納められていた。

 

 寝台の上には、爆弾によって粉々に砕けた議長の肉片が、無造作に置かれていた。その中には脳味噌もあった。枕元にはやはり透明の脳容器が置かれていたが、青い脳漿に浮かんでいたのは金色に輝く不完全な脳味噌だった。右脳の半分が欠けていて、そこには金色のICチップが置かれていた。

「天主様は、純金脳として生きておられるのです」

「一部欠損脳ね」とチカⅡ

「それは非常に失礼な言葉ですね」

 別の議長が目を剝いて言った。

「さあ、会話モードにしてください」

 さらに別の議長がチカⅡに促した。ジミーがスイッチに手をかざすと、とたんに声が聞こえてきた。

「君たちは信じる者は救われるという言葉を知っているかね」といきなり、変な質問をしてきた。

「俺はそう信じているさ」とフランドル、「僕もチカⅡも無宗教なんだ」とジミーが答えた。

「フランドル君は子供の頃から神を信じて生きてきた。神の王国には信者以外は入れない。無神論者は地獄に落ちることになっている。私もまた、地球を神の王国にしようと思っている。しかし私は同時に現実主義者だ。神などという曖昧なものを信じない。私の神とは、金のことだ。すなわち、金の王国ということだ。私は子供の頃から金を信じて生きてきた。地球という王国には金がないと入れない。金のない奴は地獄に落ちることになっている。私の肉体は死んだが、私の精神は金となってここに生きている。私の精神は純金のように輝き、黒かびのごとく汚れた無産階級を地球から一掃しなければならないと決意した。地球を黄金で満たさなければならないのだ。地球を貧乏で汚染してはならないのだ。貧乏はばい菌の一種だからな。私の話は難しいかね?」

「ある意味、社会通念ですわ」とチカⅡ。

「そう、私は単に人類の本音を語っているに過ぎないのだ。誰だって金持になりたい。しかし、具現者はほんの一握り。ほかのすべてはクズの集まりだ。そいつらが地球を疲弊させている。じゃあどうすればいい。クズどもは一掃することだ」

「大胆な差別的ご意見」とジミー。

「ネコを被った金持連中よりマシさ。君たちは私の意見に賛成かね?」

「ロボットにお金は必要ありません」とチカⅡ。

「しかし君たちは、金持の従僕であるべきだ。私の右腕になって、反逆者どもを蹴散らしてくれたまえ」

「その前に、俺の故郷はどうなっている?」

 フランドルは、声を震わせて尋ねた。

「貧乏人どもに優劣はない。民族に係わりなく、すべて排除の対象となる」

 フランドルは逆上し、議長の脳チップを破壊しようと襲い掛かったが、五人の議長に周りを取り囲まれてしまった。

「さて、君たちパーソナルロボットはこの館の中で、ある特定の電磁波に曝されるといとも簡単に洗脳されてしまうのだ。君たちは飛んで火に入る夏の虫さ。その電磁波というのはこれだ」

 突然、巨大なドームに工場のような雑音が響き渡り、議長の侍従たちを含めたすべてのパーソナルロボットが、一瞬にして機能停止に陥ってしまった。

 

(二十五)

 

 ハワイに上陸したメンバーは、ひとまずハワイ全島をサタン・ウィルフリーの状態にして、そこを拠点にして日本やアメリカ本土を攻略することに決めた。

一方ノグチは、甥にリム・リーポアというハワイの海藻を集めることを指示。ワクチンは、栄養液中のブタの細胞にウイルスを接種して培養すれば、どんどん生産される。しかし、治療薬は原料がなければ製造できない。この海藻の成分が原料となるのだ。リム・リーポアは海岸に行けばすぐに見つかるので、あらかじめワクチンを接種した地域住民が総出で採取に向かった。野口と甥は、三日以内にワクチンと治療薬の製造ラインを造ろうと、徹夜で頑張ることにした。

チカと仲間たち総勢二千人のパーソナルロボたちは、背中にワクチンと治療薬を混ぜた薬液十リットルのタンクを背負って、ハワイ全島に散っていった。タンクは胃ろうのように、背中の穴を通して直接胃袋の唾液腺にリンクしている。薬液には半年以上消えない透明塗料が混ぜてあって、ロボの赤外線感知眼を使えば緑に光り、一度摂取した人間を見分けることができる。島から島へは泳いで渡った。高熱の患者は海岸に集まることが多いので、まずは海岸から薬液の投与を始めることにしていた。空将、大佐は世界連邦政府軍の攻撃に備えるため、パーソナルロボ軍の基地造りに専念し、チカとエディ・キッド、エディ、チコ、ピッポは主要八島を大きく五つに分割して、四百人小隊のトップとして救援活動を始めた。

 

チカはハワイ島に残り、小隊の四百人はそれぞれ島内に散らばっていった。チカはまず、ヒロ空港に行って、閉鎖された空港に押し寄せている群衆の中に入り、活動を開始した。彼らは島内全域がウイルス汚染区域になってしまったので、島外に脱出を試みたが、飛行機やヘリコプターはすでに先着の連中を詰め込んで飛び立った後だった。それなのに救援機がやって来ると信じ、大挙して集まっているわけだが、この密集状態がさらに感染を拡大させていた。チカは「私は抗体人間です。私とキスをしてください。ウイルスは完全になくなります」と書かれた鉢巻を締め、幟を立てたものの、誰も怖がって近付いては来なかった。

 レスラーのような男が、「ここから出て行け!」と怒鳴りながらとんで来て、チカの胸ぐらを掴んだが、チカは男を軽く放り投げてしまった。警官が三人駆け寄ってチカを取り押さえようとしたが、チカが唾をかけたので慌てて逃げていった。意気地なしな連中だ。

重症患者の周りは誰も近寄らないので、そこだけ穴が開いたように空間ができていた。チカは横たわっている重症の患者を見つけると、積極的にキスをしはじめた。チカは蝶のように舞いながら重症患者に治療薬を口移しで投与し続けた。この薬はウイルスの核酸を取り囲むタンパク質の殻と脂質の殻を同時に溶かしてしまうので、急速な不活性化が可能だ。チカにキスされた患者は三十分もすると気分が良くなって、起き上がった。

この奇蹟のような光景を見た群集は、チカにキスを求めて集まってきた。チカは次から次へとキスをしながら、人混みで近寄れない人には、その目に向けてピンポイントで唾を飛ばした。舌を銃身のように丸く巻いて発射するのだ。唾はレーザーのように十メートル先の的を正確に射た。目に入った薬液はキスと同等の効果を発揮する。こうして短時間のうちに、空港に集まっていた群衆に薬液の投与が終わり、彼女は彼らに向かって叫んだ。

「私を見てください。私は政府の陰謀を全地球放送で暴露した月の女、チカです。私はパーソナルロボです。皆さんを助けるために、月からやってきました。これで皆さんには抗体ができ、一生この病気に罹ることはありません。これからは皆さんが人を助ける番です。恐れないで、積極的にキスをしてください。抗体の入った唾液を島の皆さんに分け与えてください。それは生ワクチンの役割を果たすのです」

 空港の大型ディスプレイにはチカが月から送った緊急情報が映し出されたので、多くの人々が彼女の顔を思い出した。チカの話を聞いた群集はクラスター状態で島中を練り歩き、「キス・マーチ運動」を展開。キスを通じて抗体を人々に広めていった。これでチカはすでに症状の出ている患者の治療に特化することができた。チカはリーズ・ベイ・ビーチ・パークの方向に向かって走り始めた。道端に死体がごろごろ転がっている。しかし、その中にはまだ生きている者もいた。彼女は虫の息の患者を見つけては口移しで薬液を注入していった。

「もう大丈夫よ。あなたは治る」

「あなたは誰? マリア様?」

 老女の問いかけに彼女は答えず、笑みを返して立ち去った。一人でも多くの患者に接しなければ、手遅れになってしまう。途中で彼女は、キスする時間もロスだと考え、仰向けに倒れている患者の目に唾を吐いた。すると通行人の男が激怒して掴みかかってきた。彼女はロボの腕力で男を退け、その目に向かって唾を吐き付け、笑いながらすたこら逃げ出していった。

ビーチに着くと、波の穏やかな海水に高熱の患者たちが浸かり、体を冷ましていた。彼女は水に入って、次から次へとキスをしていった。

「おいおい、俺は病気だぜ」とキスされた男が言った。

「私のキスは天使のキスよ」

「俺のキスはサタンのキスだぜ」と、隣の男がキスを求めてきた。彼はついでにチカの胸を触った。

 小さな子供が、気絶して海に沈んだ。彼女はすぐに泳ぎ着いて子供を救い上げた。そのとき彼女は、海に沈んだチコを思い出していた。

「そうだ、チコは子供のときに、私は二十歳のときに死んでしまった。その訳はエディが知っているはずだ。私がバカみたいに愛した男。いつも夢見ていた男。エディの原型はポールという別人になって、どこかで生きている。会わなければならない。会って、問い詰めなければ気が済まない。ハワイが済んだら、日本に行かなければならないわ」

 チカの涙は鼻を伝って唾液と混ざり、その滴が子供のつぶらな瞳を潤し、薬液が注入された。

 

ほかの島々に派遣された隊員たちも、チカと同じように多くの人々に薬液を注入し、抗体のできた人々はキス・マーチ運動を広めながら、サタン・ウィルの封じ込めに協力した。薬液の製造拠点も数日で稼動を始め、世界中に散らばった隊員たちへの輸送を開始した。こうしてハワイでは、数日も経たないうちにウイルス封じ込め作戦が軌道に乗った。チカはこの成功をチカⅡに知らせたが、チカⅡからは一言「エディはどこにいるの?」という質問が来ただけだった。チカは「オアフ島よ」と答えた。

 

(二十六)

 

突然、チカⅡがオアフ島に現われたのである。その背後には数千のパーソナルロボたちが従っていた。議長は資産階級に、パーソナルロボの出陣を要請したのだ。彼らは金持階級の邸宅に同居していた先祖たちで、民衆革命を阻止するために派遣されたにわか部隊だった。金持たちは、広大な邸宅の一部で密かにパーソナルロボを住まわせている。政府もそれを黙認していた。彼らは子孫の既得権益を守るために脳データをしっかり保存し、志願兵となって出兵したのだ。しかも、死んだ爺さん一人の脳データは、百人、千人のそっくりロボットに注入されている。邸宅の地下倉庫には、百体以上のグランパ・ボディがテロや革命に備えてストックされていた。 

このロボたちは、月から来たロボだけを狙っているわけでもなかった。人間に対しても平気でレーザー銃を撃ちかました。生身の高額納税者はプラチナ回路を体内に入れているのでセンサーで種分けでき、誤って自分たちの子孫を攻撃することもなかった。金持ロボ軍隊は的確に金持と貧乏人を認識し、救護活動を行っている月からのロボ集団にレーザー銃を撃ち始めた。これに対して、警察や軍隊が応戦し、ホノルルの街は市街戦の様相を呈してきた。彼らは上からの命令を無視して、民衆のために立ち上がったのだ。

いよいよ欲望の資本主義が最終局面を迎えようとしていた。いまや悪疫とパーソナルロボの進攻で、ハワイから第三次世界大戦が始まろうとしていた。大国と大国の戦いではなく、金持と貧乏人の二極に分かれて戦うことになったのだ。金持たちの目指すものは、民主政治から貴族政治へのレジーム・チェンジ。それは水面下で着々と進んでいたが、詰めの一手がロボ志願兵による武力制圧だった。悪疫による世界の疲弊に乗じた進攻作戦。温暖化防止を謳い、地球環境を破壊する核兵器は使わない古典的戦争だった。しかし兵隊の多くは、人格を持ったパーソナルロボだ。レーザー銃で撃たれた市民は黒焦げになり、撃たれたロボは体に穴を開けて煙を出した。それでもロボは戦おうとするので、確実に殺すためには頭を射抜く必要があった。脳回路が燃えて初めて、ロボは死を迎えた。彼らは軍隊が大型火器を使えないよう単独で走り回り、ふらつく病人たちを盾にしながら、月から駆けつけたパーソナルロボや、支援の軍人を狙い撃ちした。製作費用がかかっているから性能も良く、俊敏な身のこなしで敵兵を蹴散らしていった。こんな光景が、世界中で展開し始めていた。金持軍が圧倒的に優勢だった。

 

エディは、ワイキキビーチで水に浸かっている病人たちの救護活動を行っていた。その砂浜にチカⅡがやって来て、エディに電波を送った。

「戦争よ。のんびりと海水浴をやっている場合じゃないわ!」

 エディは海から出てきて、チカⅡにハグした。

「戦争が始まった? ハワイ島での救護活動は? 君は……」

「見てくれは少し違うけど、私はチカⅡよ。あなたの知っているジミー少年は私の彼。でもあなたは昔々、私の彼だった……」

「君は僕を愛していた?」

「ええ、とってもね。でも、あなたはそれほどでもなかった。あなたは昔私を殺した。そうでしょ?」

「それがまだ思い出せないんだ……」

 エディの困惑した顔を見て、チカⅡは薄笑いを漏らした。

「きっとチカは、あなたのことを許しているはずよ。だって、立証困難だもの。でも私はチカとは違う人格なの。あなたがエディ・キッドと違うようにね。あなたは老人の脳味噌。きっと半分ボケていて、思い出そうとする気力も欠けている。人はみんな、自分に都合いいように、過去の記憶を修正するものよ。あなたの脳味噌は綺麗に修正して、過去の罪を大方消し去ってしまった。あなたを問い詰めたって、何も出てきはしない。私を殺したときのデータは、エディ・キッドの脳にも記録されていない。だから私は状況証拠だけで判断する。あなたは私を殺したの。私はそう確信する。私はあなたがチコを殺したことも確信している。あなたは私とチコの将来を奪った。あなたは殺人狂よ!」

エディはおろおろして、「僕はなんて反論したらいいんだ……」と呟いた。

「反論なんて無意味。神を信じる者に神なんかいないって主張するようなものだわ。世の中のほとんどの人は思い込みや感情で動くのよ。私もその一人」

「で、どうしたら君の心を癒すことができるの?」

「そんなことは求めちゃいない。それより、ずっと昔のように、あなたと濃厚なキスがしたいわ。舌を絡め合うようなキス。恋人同士が交わすキス。若い頃、殺人狂を愛してしまった愚かな女が欲したキス……」

 エディはチカⅡの後頭部を掌で抱えてチカⅡの顔を引き寄せ、唇を合わせた。チカⅡの唇が開き、ヌルヌルとした舌が強い力でエディの唇を押し開き口の中に入ってきた。舌と舌が絡み合い、「アアッ」とチカⅡは声を漏らした。チカⅡはうっとりとしながらも、エディの首の後ろに手を回して赤いボタンをしっかりと抓み、ピンを思い切り引き抜く。エディの首はパンと十メートルの高さに飛んで近くの砂の上に落ちた。ボディは衝撃で倒れ、痙攣している。チカⅡは、エディの首に近付いてしゃがみ込み、顔を上向きにして覗き込んだ。

「酷いことをするな」

 エディの顎はガクガクと震えていた。

「昔あなたも私に酷いことをしたのよ」

「僕をレーザーで撃つつもりか?」

「ボディが首を探し始めるまで三十分はかかりそうね。それまでにあなたを殺す必要がある。でも、銃ではやらないわ。あなたには相応しい殺し方がある」

「それはどんな?」

 エディの震えは止まらなかった。

「それは最後のお楽しみ」

「お願い、殺さないで」

 エディの哀れな言葉にチカⅡは声を出して笑った。

「体に似合わず臆病者ね。私を殺した理由が分かったわ。チコを殺したのはあなただって、私が迫ったからよ。あなたは臆病者で、咄嗟に私の首を絞めた」

「僕は柄に似合わず臆病者なんだ」

「ありがとう。とうとう本音を吐いたわね」

「もうすぐ、思い出すかもしれない」

「待てないわ」

 チカⅡは薄笑いを浮かべながら、エディの髪の毛を両手で掴んで持ち上げ、高く上げて、エディの震える唇にキスをした。

「いまでも、あなたが好きよ」

それから、砲丸投げの選手みたいに体を数回転させて首を沖合に放り投げた。首は海に浸かる病人たちの頭上を飛び越し、二百メートル近くも飛んでボチャンと海に落ち、沈んでいった。エディの体は起き上がり、ふらふらと海岸を当て所なくさまよい始める。周りの人々が逃げる中、その体は容赦なく横たわる重症患者を踏みつけた。

 

(二十七)

 

 チカが救護活動を行っていたハワイ島でも、金持たちのパーソナルロボが続々と泳ぎ着き、チカたちに攻撃を仕掛けてきた。多勢に無勢、総勢千名の部隊だった。チカはキス運動を中止し、レーザー銃を片手に応戦しながら、キラウエア火山の方向に撤退した。キラウエアは噴火活動が始まっており、ハレマウマウ火口はドロドロの溶岩で満たされ、いまにもこぼれ落ちそうな状態だった。チカは火口から溶岩が流れ出そうな場所を予測し、敵のロボットを誘い込もうという作戦に出た。チカたちは、脆弱な火口の縁に立って、麓から登ってくる敵のロボットたちを待った。チカの体温は百度に上昇したが、へこたれなかった。敵兵は強力なレーザー銃を持っていた。しかしその頭脳といえば、所詮は金持のボンボンの域を出ていないし、少なくとも数々の修羅場を潜ってきたプロの頭脳ではなかった。彼らは火口内の溶岩が溢れそうな状況にあることを知らず、細い道を一列縦隊になって登ってきた。

 チカは号令をかけた。全員が火口の縁の脆弱な一部分を目がけて、両側から一斉にレーザーを発射した。岩石は砕け爆弾のように飛び散り、大きな穴ができて、ダムが決壊するように液体状の溶岩がドッと流れ出た。溶岩は千の敵兵に次々と襲いかかり、彼らは煙を上げながら溶岩流に飲み込まれていった。

 

 チカとその仲間たちは喜びはしゃぎながらも、急速に崩れていく縁から逃れて両側に走った。火口の縁は二百メートルほど崩れて止まり、大量の溶岩が近くの海に流れ込んでいった。チカたちが山を下りようとしたとき、煙の中からこちらに向かう三人の影がある。近付くと、それはチカⅡ、ジミー、フランドルであることが分かった。

「私がここに来た意味が分かる?」

 チカⅡはチカに聞いた。

「もちろん。あなたは私だし、私はあなただもの」とチカ。

「でも、あなたはヨカナーンの命令に従わなかった」

「ヨカナーンは地球連邦政府の議長に騙されたんでしょ?」

「議長はパーソナルロボが地球で暮らすことを承認したわ。その代わり、ロボは人口削減に協力しなければならない。あなたはそれに反抗している。人間でないあなたが、なぜ人間を助けるの?」

「それは、昔人間だったからよ」

「あなたの仇はエディとそのご本尊のポールね。エディは私が殺したわ」

「エディは自白したの?」

「そんなの必要ない。私がそうだと思えばそれでいい。次はあなたの番。チカは二人必要ないわ。地球で人間らしく暮らすには、一人が二人あってはならないの。あなたは不要ロボット、影の私」

「残念だわ。あなたは私が産んでやったのにね」と言って、チカは苦笑いした。

「さあ、始めようぜ」

 ジミーは子供のようにはしゃぎながら強力な粘着テープを出し、「これを首の後ろの赤いボタンに付けるんだ。決闘は相手の白いテープを先に引いた者の勝ちさ。テープと一緒に首も吹っ飛ぶんだ」と言った。チカの仲間がそれを受け取り、剥離紙を剥がして首の後ろのボタンにくっ付けた。チカⅡのボタンにはジミーが付けた。

 二人は中腰になり、両手を前に突き出し戦闘態勢に入った。両陣営が奇声を上げる。リンクは火口縁の細いところで、幅は二メートルぐらいしかなかった。チカⅡが左パンチを食らわそうとしたが、チカは右手でガードした。チカが右足で蹴りを入れたら、その足をチカⅡが両手で掴んでチカを掬い投げた。チカが倒れたところを上から圧し掛かり、「これでお別れね」と囁き、ニヤリと笑った。

「あなたはチコよりもエディが好きだったのね」

 チカが妙なことをチカⅡに聞いた。

「それはあなたでしょ。エディに好かれていたチコに嫉妬していた」

「そう。あなたはチコを殺したエディを許していた……」

「愚かな女だわ。きっとエディの告白を聞いて、それを許そうとしたのね。でもエディはあなたが思うほど素敵な男じゃなかった」

「あなたは死んだチコを利用して、エディを支配しようとしたのよ」

チカⅡが首の後ろのテープを掴んで思い切り引こうとしたとき、すでにチカの手もチカⅡの首のテープを掴んでいた。二人が一瞬躊躇ったとき、「引いちまえよ! 君のテープはゆるゆるに付けたんだ」とジミーが怒鳴ったので、チカⅡはハハハと笑いながら思い切り引いた。一瞬遅れてチカもチカⅡの首のテープを引いた。チカのボタンは引き抜かれ、ポンと首が飛んで、勢い良く火口の溶岩の中に落ちていった。チカⅡのテープはボタンから剥がれて首も飛ばず、チカⅡは勝ち誇ったように立ち上がる。すると、怒ったチカの仲間がレーザー銃をチカⅡの顔面目がけて一斉に発射し、チカⅡの頭は吹っ飛んでチカと同じようにドロドロの火口に落ちていった。ジミーとフランドルは慌てて逃げ出したが、後ろから一斉射撃を受けて体はズタズタに砕かれ、同じく火口に落ちていった。首を失ったチカのボディはようやく立ち上がり、ヨロヨロしながら足を踏み外し、やはり火口に落ちていく。仲間たちは、呆然としてそれを見送った。 

 月からの救援ロボたちは、チカを失ってもめげることなくハワイ島の救護活動を再開した。ハワイ島でのサタン・ウィル撲滅作戦は成功したが、ほかの島は金持ロボ軍隊に邪魔されて、惨憺たる結果になった。空将と大佐はレーザー銃の餌食となった。チコとエディ・キッドは海に飛び込み、日本を目指して遠泳を開始した。世界中で金持ロボ軍隊が救援ロボを蹴散らし、月組は山に隠れる以外に生き残る術がなくなった。救護ロボを乗せた後続の宇宙船は宇宙区間で攻撃を受け、多くのパーソナルロボたちが宇宙の藻屑となった。

 

 

 パームスプリングの大頭脳は多くの分身ロボたちに囲まれてご満悦だった。議長の分身たちはヨカナーンとフランドルの髑髏杯にウィスキーを注いで回し飲みし、余った酒を二人の脳漿に注いだ。感覚のない脳味噌は痛みを感じないがアルコールが脳に染み渡り、二人とも酩酊状態になった。

「どうだね、私は世界の平和を願って努力してきた人間だった。その最後の一手が致死率五十パーセントであるサタン・ウィルのパンデミックというわけだ」

「あんたは神のように振舞ったが、所詮は悪魔だった」と酔っ払ったヨカナーンがスピーカー越しに叫んだ。

「私が悪魔? 私は大審問官のごとく特権階級の幸せを常に願っていたんだよ。私の願いをコンピュータに尋ねたところ、人間を半分減らせという解答が出てきた。コンピュータは私と同じ考えを持っていた。手術だ。腫瘍の手術だ。再発しないように、患部はその周りを含めてごっそり取ってしまうことなんだ。嗚呼、世界の大部分が金欠病に苛まれている。それは癌なのだ。削除する以外にないのだ。もっとも性質が悪いのは、君たち宗教民族さ。信念が強すぎて、扱いにくい。最初は施設に詰め込んで、再教育を施そうと思った。しかしコンピュータは叫んだ。生ぬるい、温存療法は再発の危険があるぞ。全部こそいで取っちまうんだ、とね。君たちはスキルス性の悪性腫瘍さ。放っておくと知らぬ間にどんどん増殖して、最後には地球全体に蔓延ってしまう。宗教や思想というものもウイルスと同じで、パンデミックになる可能性があるのさ」

「しかし、我々を騙したのは人間として恥ずべきことだ」と酔っ払ったフランドル。

「人間? 私は人間じゃない。五体を奪われた優秀な政治家の脳味噌だ。嘘を平気で付かない脳味噌では政治はやれんよ。どんな手を使おうが、最後に勝ったものが正義となるのさ。騙された奴は泣きを見るが、それで終わるのが世の常だ。ひとたび世界が動くと、止めることは不可能だ」

「呆れてものも言えん。卑怯なおっさんだ」

 ヨカナーンのは吐き捨てるように言った。

「ところで、この一件が落着したら、私の健全な脳味噌は若い健康な男のボディを得ることになるのだ。脳移植さ。私の分身たちはロボットだが、私は人間であり続けたいのだ。君たちのテロで私は死んだが、キリストのように復活することになった。そのとき、君たちのフニャフニャ脳は廃棄されることになる。残念だが、もう、私の恨み節を聞くこともないし、私に虐められることもない。君たちはようやく、神の元に行くことになる」

「ありがとさん。ようやく陰湿なジジイから解放されるんだな」

 フランドルは大笑いした。

「いいや、廃棄されるのは議長の腐った脳味噌さ!」

 巨大ホールの下の入口から、聞き覚えのある声が響き渡った。入ってきたのは月のヨカナーンだった。その首は、筋骨逞しい若いボディの上に鎮座している。後ろから月組の部下たちが五十人ほど乱入し、議長の分身たちと激しい戦闘が始まった。ホール中に耳障りなレーザーの発射音、炸裂音が響き渡る。配置された脳味噌たちの幾つかがレーザーに当たって爆発し、脳髄が粉々に飛び散る。それらは、月組のオリジナルかも知れなかった。十分ほど戦闘は続いたが、所詮は素人である議長の分身は次々に倒れていった。彼らのレーザーは的にほとんど当たらず、月組の損害は数人だった。

 ヨカナーンはヨカナーンの脳味噌のある場所まで駆け上り、ご本尊に挨拶した。

「来てくれると思ったよ。議長の脳味噌は一番上の居室にある。ずっと虐められてきたんだ。電気ショックの拷問さ。直接脳味噌が傷付くわけじゃないけれど、脳に繋がる神経に痛みを与えるんだ」

「分かった。この手でガラスを割り、脳漿を流してから脳味噌に一撃を加えてやる!」

「手づかみにして潰すんだ。それから飲み込んでやれ。きっと美味いぞ」

 

 ヨカナーンと部下十人が議長の居室に上がると、議長の脳味噌の後ろに五人の分身が銃を構えて待ち受けている。ヨカナーンは手榴弾を彼らの後ろに投げ込んだ。手榴弾が機能し、五本のレーザーが発射されて五人の後頭部に当たり、一瞬にして五人全員が死んでしまった。

「知っているかね? 昔、アメリカの大統領は核のボタンを常に携帯していたことを」

 落ち着いた口調で、議長はヨカナーンに語りかけた。

「俺は歴史に疎い人間でね。民族の悲惨な歴史を振り返ると、心が湿っちまうんだ」

「お前は運が悪かっただけさ。そんな民族に生まれちまったんだ。私は、お前たちのことを思って、世界単一国家を創ろうとしたんだ。信教の自由を否定したわけではない。ただお前は頑固者で、お前の宗教を世界に広めようとした。そして、私の地位を脅かしたのだ」

「あんたはあんたの哲学で世界を統一しようとした。俺は俺の宗教で世界を統一しようとした。俺とあんたのどちらが勝つかという問題に過ぎない。で、結果的に俺が勝った。俺の脳味噌は健全だ」

 ヨカナーンは勝ち誇るように言った。

「さて、核ボタンの話を続けよう。私を殺すと、君たちも同時に死ぬことを知っているかね?」

「脅迫かよ。俺はどうでもいいんだ。俺の民族の多くが死んだ。それはお前がやったことだ。俺はその復讐にやって来たのさ。俺が死のうが、そんなことはどうでもいいんだ」

「いや、待て!」

「待てないね」

 ヨカナーンは、ままよとばかりに脳ケースをレーザーで破壊し、議長の脳味噌を掴み上げて思い切り握り潰し、そいつを金色の柱に投げ付けた。脳はキラキラ光りながら軟体動物のように柱を伝い、床に落ちて広がる。まるでゲロのようだ。付属の金色ICチップは口に入れて噛み砕いた。ところが、議長の棺の下にもう一人分身が隠れていて、頭に脳漿を浴びながら、胸の上に赤い大きなボタンを乗せていた。ボタンの下のピンを抜いてから、思い切りボタンを押し、スイッチをONにした。

本来このボタンはサタン・ウィルによる世界人口半減作戦が成功して貴族社会が復活したときに、議長が議会の承認を得て押すべきものだった。貴族連中は、フランス革命前のアンシャンレジームを理想の社会と考えていた。そこには、いまを生きる貴族の快楽だけがあり、先祖の魂が小言を言う原始社会ではなかった。議長は万が一の緊急事態を考慮して、身近にボタンを置いておいた。議長の脳に危険が迫ったとき、棺の下の専用ロボが議長の代わりに押すことになっていた。

 

 ボタンを押して一分後、地球全域、月に向かって破壊電波が発信された。最初に、ボタンを押した本人の首がパンと飛んで居室の壁に激突し爆発した。一秒遅れてヨカナーンと部下たちの首がパンと跳ね上がり、居室やホールの天井に当たって爆発した。すべてのパーソナルロボットに製造時から組み込まれていた自爆機能が特殊な電波によって起動し、全世界に展開していた月組救護隊の首がポンポン飛び始めた。敵対する金持祖父ちゃん部隊も同じだった。次々にポンポン首が飛び、十メートルの高さに上がったところでパンと爆発し、粉々になって降ってきた。金持の地下倉庫にストックされていた祖先ロボたちも急に起動してから、ポンポン首が飛んで爆発し、倉庫は炎上して上の豪邸まで燃え上がった。

月にあるロボ・パラダイスのパーソナルロボたちも同じ運命にあった。エディ・ママも、チコ・ママも庭先で首が飛んで爆発し、庭に落ちた。黒目がキョロキョロし、顎がガクガクしながら次第に生気を失い、ガラクタと化した。首塚の首たちも一斉に爆発した。道路には首を失った胴体が、ゾンビのようにフラフラさまよった。メタリックなすべての知性が消失し、それとともに望郷の念も跡形もなく消えてしまった。洞窟内では火災警報が鳴り響き、発生した煙が空気とともに地上に排出されたが、月面に逃げるロボは誰もいなかった。

月の裏側にある秘密基地のロボたちも同じ運命にあった。そこで働くロボットも、出陣した救護隊の脳データも自殺遺伝子が電波を受けて覚醒し、次々に破壊されていった。秘密基地は完全に機能停止した。そして、地球と月にいるすべてのパーソナルロボットが消えてしまった。

 

(二十八)

 

 ピッポオアフ島に泳いで渡り、とりあえずワイキキビーチに行ってエディを探し回った。彼はパーソナルロボではなかったので、別の周波数の自爆装置を付けており、首が飛ぶこともなかった。それで、ひとまず最初に与えられた仕事を全うしようと考えたのだ。砂の上に寝転ぶ重症患者や点在する死体を踏まないように注意しながら海岸を歩いていくと、首なしボディがフラフラさまよっている哀れな姿を発見した。それはエディのボディだった。患者たちが次から次に抱き付き、首がもげた部分から飛び出たチューブに食らいついて、薬液を吸ったりしている。側にいた浜の監視員は元気そうだったので、エディの首の行方を尋ねた。監視員は正確に覚えていて「あっちかなあ」と沖を指差す。ピッポが耳にある電波の受信感度を百倍に高めると、その方向から微弱電波が飛んできていた。エディのボディは受信していても、臆病者のボディだから海に入れずオロオロしているに違いなかった。

 ピッポは海に飛び込んで、十分ほど付近の海底を探し、砂に半分埋まったエディの首を発見した。ピッポを見ると、ニタリと笑った。彼は砂浜に運んで首なしボディに付けてやった。ボディはようやく安心して砂浜に腰を下ろした。

「大丈夫か?」

 ピッポが尋ねても、頭の中の回路がすっかり濡れてしまって、快復するまでは一時間ほどかかった。しかし発火装置が濡れたことで、首の爆弾は不発に終わり、命拾いをしたのだ。エディは状態が良くなって、喋り始めた。

「僕は海の底でチコの苦しみを実体験し、ようやくすべてを思い出したんだ。これでポールに伝え、僕の任務は終了さ」

「それは良かった。ということは、僕の仕事も終わりということだな。じゃあ、最後の締めに入るか」

 ピッポは胃から放送局と通信できる眼球を一個吐き出して、右目を交換した。ワイキキ海岸にいるエディの姿が放送局とポールの居室に映し出された。

「ポールさん、おめでとうございます。エディはとうとう、失われたあなたの記憶を回復させることができました。これからエディがすべてを明らかにします」

 ピッポはエディに目配せをした。エディはしゃべり出す。

「ポール、いやエディ、聞こえていますか? これから僕の話す事実は、高齢の君にとって酷かもしれないが、しっかりと聞いて欲しいんだ。君は確かにチコとチカを殺した。しかし、なぜ殺したか。これから僕は、君の疑問に対して答えたいと思う」

 

 エディは海の底で、死んでいくような感覚に襲われながら、チカのことを思い浮かべていた。しかしそれはチカではなく、ずっと昔に固まった石炭みたいな漆黒の塊から剥がれ出し、意識下に流れ出た記憶の断片であることが分かった。その海水パンツ姿は痩せぎすの体であばらも目立ち、明らかに女の子ではない。曖昧さのないリアルな姿から、毎日のように会っていた親しい少年であることも分かった。それはチコだ。あの頃毎日のように見ていた白日夢の主役、チコだった。チコは浮き袋を付けて海に入っていく。エディは人の少ない海岸に、砂を掘った窪みの湿った砂の上に腰を下ろして、波打ち際で遊んでいるチコの姿を見詰めている。エディはちょうど、異性愛に目覚める前の時期にいた。チコに恋をしている切なさがエディの心を支配し、耐え難い孤独がエディを絶望の淵に陥れたのだ。

「まるでベニスの海岸で美少年に恋した大作曲家のような心境さ。二十世紀初頭のことだ。当時はコレラが流行っていたそうだ。老人は少年に恋焦がれたが、愛を告白することなんかできなかった。僕だって、親友に愛を告白するなんてできなかったさ。おかしいよ。おかしな感情だ。けれど僕は老人と違って、ただ見詰めるだけじゃ不満だった。僕を友達以上に愛して欲しいと思っていたんだ」

「君はチコといちゃつきたかったのか?」とピッポが聞くと、エディは怒った顔付きで否定した。

「そんなことは論外さ。そいつはロボットの感性だ。人間の感性はもっと複雑さ。それは海底のウミウシみたいにグロテスクでぐにゃぐにゃで、美しい。僕は恋の手ほどきなんぞまったく知らない子供なんだ。初恋は、訳の分からない切なさが基本さ。老人の稚児愛なんかを想像してもらっちゃ困るぜ。性欲のとば口にある、夢のような淡い欲望だ。仕方なく、僕は絶望の淵から這い上がるために、白日夢を見始めたんだ」

 

 最初は、チコが側にいないときに、チコと一緒に遊んでいるような他愛のない夢想だったが、だんだん夢の内容が固まっていった。それは、泳げないチコが海で溺れ、水泳の得意なエディがチコを助けて、感謝されるというストーリーだった。チコが海で浮き袋を使って遊んでいるとき、エディは砂浜から眺めながら、そんなことを夢想していたのだ。エディは密かに願った。チコのやわな浮き袋がパンクして、チコが溺れることを……。そしたら、駆け出して海に飛び込み、チコを助けられるのに……。しかし、そんなことは起きなかった。いくら願っても、そんなことは起きなかったのだ。

 するとエディは、恐ろしいことを考え始めていた。自分が浮き袋に穴を開ければいいじゃないか。どうせ自分がチコを助けられるんだ。海で大人の男が溺れた若い女を助けるのを見たことがあった。腕を女性の首に巻いて岸に引いていけばいいのだ。エディには自信があった。水泳も体力も普通の子供より上だと思っていた。チコの損失は、安物の浮き袋ぐらいなものだ。そんなもの、後でエディがプレゼントすればいい。しかし、いつも波打ち際で遊んでいるチコは、自力でも助かったと思うかも知れない。どうせやるなら、もっと沖でやったほうがいい。エディは、夢を現実に変えようと、計画を練り始めたのだ。

「そうだ、マドレーヌ島だ。チコはボートでマドレーヌ島に行ったことがある。僕は島に宝物を隠したとみんなに言っていた。みんなで一緒に遠泳して、そいつを取りに行くんだ。僕は水泳パンツのポケットに釘を隠しておくんだ」

 

 「嘘だ! まったくのでたらめだ!」

ポールは画面を消して椅子から立ち上がり、病室の外に広がるプライベートな庭に出て、杖を持ちながらヨタヨタと歩き始めた。おそらくエディの告白はチカの殺害まで続くだろうが、そんなことまで聞こうとは思わなかった。ポールは惨めな気持ちで胸が一杯になった。こんな話を聞くために、二人のアバターを作ったわけではない。少しはましな過去があると思っていたのだ。

突然、生垣が破られて、二人の男が庭に闖入した。二人は水に濡れ、頭や肩に海藻が付いていた。どうやら近くの海から上がってきたばかりのようだ。ポールは二人の顔を見て驚き、腰を抜かして尻餅を付いた。エディ・キッドはすぐに分かった。チコは思い出すのに数秒かかったが、思い出してから顎をカクカク震わせた。明らかにチコを恐れていた。どうやら二人は潜水艦のように深海を潜航してきたので、自爆から免れたようだ。

「さて、ポール爺さん。昔のことは思い出した?」とキッドが聞いた。二人ともエディの告白を知らなかった。

「さあな、私にはもうどうでもいいことなんだ」

 ポールは立ち上がると、口を震わせながら小さな声で答えた。

「でも死んだ僕にとっては大事なことだよ」とチコ。

「私は君を殺しはしなかった」

 ポールはキッパリ否定した。

「でも僕ははっきり思い出したんだ。ポール爺さんがチコを殺した。そのことを伝えにここに来たのさ。僕の仕事はこれで終わりだ」

 キッドはキッパリと言った。

「そうかい。じゃあ君は何しにここへ来たんだ?」

「僕は君を殺しに着たんだ。霊界の僕に代わって、僕を殺した仇を打つのさ」とチコ。

「バカな。確たる証拠もないのに、年寄りを殺すなんて……」

 ポールは弱々しい震え声で反論した。

「病院で殺人は困りますな。ここでは、神と医者以外に人を殺す権利はありません」

 いつの間にか、田島院長が庭に入ってきた。彼も自室でエディの告白を見ていたのだ。

「あなたが安楽死を選ばれるなら、お手伝いしましょう。あなたは戸籍上死んだ人間ですからね」

「多額の寄付金をふんだくった医者が言う言葉か!」

 ポールの罵声に、田島は少しばかりうろたえた。

「いずれにしろ、病院の外はまだ混乱した状態ですが、おっつけ収束します。しかしいまなら戸籍が無くても、きっと街中を歩けるでしょう」と言って、田島は苦笑いした。

「ここから出て行けと? やっかい払いか?」

 ポールは田島を罵った。

「どっちにしろ、僕はわざわざ泳いで君を殺しに来たんだ。往生際の悪い爺さんだな」

 チコは腰からレーザー銃を抜くと、ポールの顔に狙いを定めた。引き金を引こうとしたとき、突然チコとキッドの首がポンと十メートル飛び上がり、打ち上げ花火のようにバンと爆発した。金属破片がキラキラと、ポールと田島に降り注いだので、臆病者のポールはキャッと叫んで腰を屈めた。一瞬の出来事だった。自爆信号は津波のように数回発信される。世の中のパーソナルロボのすべてを殺すためだ。このとき同時に、ハワイで告白中のエディの首もポンと刎ねて、空中爆発したのだ。

「ああ助かった。何が原因か知らないが、二人とも自滅してくれた。機械は間々暴走する。これでようやく、私は過去を忘れたまま人生を全うすることができる」

 ポールはしゃがんだまま、ため息混じりに呟いた。

「いいえ、それは法律上不可能です。医師としてすでに死亡扱いした者を生かし続けるわけにはいきません。私が誤診したことになります。世間の笑い者だ」

 ポールは目を剝いて、ニヤニヤ笑う田島を見上げた。

「先生はこの老人をどうなさりたい?」と、おどおどして唇を震わせ、弱々しく尋ねた。恐怖で、一筋の涙がこぼれ落ちた。

「私の親戚の仇を打つのです。ジミーの仇です。死んだ私の母親はジミーとは従兄弟どうしでね」

 ポールは再び腰を抜かして、しゃがんだ姿勢から尻餅を付いた。田島とポールはしばらくの間、見つめ合った。田島の冷ややかな眼差しを見て、ポールの体は激しく震え始めた。

 

 田島は手馴れた手術を行う医者のように、冷静な仕草で落ちている銃を拾い上げ、銃身の土を息でフッと吹き飛ばしてから、ポールの顔面目がけてレーザーを発射した。ポールの頭はパーソナルロボのように粉々に飛び散り、舞い上がった血しぶきが陽の光を浴びて、キラキラ輝きながらゆっくりと落ちていった。

 

(了)

 

 

 

響月 光(きょうげつ こう)

 

詩人。小熊秀雄の「真実を語るに技術はいらない」、「りっぱとは下手な詩を書くことだ」等の言葉に触発され、詩を書き始める。私的な内容を極力避け、表現や技巧、雰囲気等に囚われない思想のある無骨な詩を追求している。現在、世界平和への願いを込めた詩集『戦争レクイエム』をライフワークとして執筆中。

 

 

 

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