詩人の部屋 響月光

響月光の詩と小説を紹介します。

ロボ・パラダイス(七)& 詩ほか

ロボ・パラダイス(七)

 

(七)

 

 二人はとりあえず、月面に廃棄する予定の首塚に行くことにした。ほかの二つの首塚では口にテープが貼られていて、話をすることもできない。しかし月面廃棄予定のグループだけは貼られていない。月面は真空のため、音波は通らないからだ。だから月面待ちの首塚だけは分厚い壁に仕切られ、罵声などが外に漏れないようになっていて、扉には「関係者以外入場禁止」と書かれていた。ピッポは「僕たちはお咎めなしさ」といってドアを開けた。するとたちまち、罵声の合唱が飛び込んできた。

 二人が入ると、音量が倍ほどに膨れ上がる。千首以上の連中が一斉に喚くものだから巨大な雑音になってしまって、言葉などはまったく聞き取れなかった。二人は塚の道側に立って、ピッポは口から出任せに「我々は地球からの視察団だ。この現状を地球に伝えるためにやってきた。静かにしてくれないか」と打つと、急にシーンとしてしまった。

「君たちの中に、僕のこと知っている人いる?」

 ポールが聞くと、「知ってるよ」とどこかで声がした。たちまち、「ウソだウソだ!」と大音響が復活し、もう収集が付かなくなってしまった。しかしポールは、十メートル四方の首塚の周りを右に回り始めた。声を聞いて、それが少年の声だと分かったし、正面ではなく右側から聞こえたし、高いところからでもなかった。二人が入ったときに、右側面からはポールの顔も見えただろう。

 

 地球の視察団ではないと分かった連中は、容赦なく唾を浴びせた。ポールは目線の高さに少年の首を見つけ、側に近付いて言った。

「僕を知っているの?」

「幼なじみのエディだろ?」

「僕は記憶喪失なんだ。君とはじっくり話がしたいな」

「でも、僕はこんな状態で、もうすぐ月面送りなんだ」

「心配するなよ」

 ピッポが口を挟むと、いきなり少年のプレートを引き出し、髪の毛をつかんで引っ張り上げた。

「イテテテ、手荒だな!」

「助けてやるんだ、我慢しろよ」

 

 少年はジミーといった。二人はジミーの首を持って、事務所に戻り、所長に胴体の返却を要求した。

「私の責任じゃありません。胴体の保管倉庫は事務所の裏側にありますから、ご自分で探してくっつけてください。私には一切責任はありません。首に付いたタグの最初の番号が棚の番号です」

 胴体の収納庫は、巨大な物流倉庫ぐらいの大きさがあった。タグを見ながら同じ番号の棚に行き、所長から借りた発信機のボタンを押すと、百メートルほど先の柱が青く点滅した。二人が付いたときにはすでに棚が回転していて、海パンを穿いたジミーの小さな胴体が前にせり出していた。

「君は何歳のときに死んだんだい?」

 ポールが聞くと、ジミーはニヤリと笑いながら「十歳のときさ」と答えた。

「病気?」

「事故さ。君はまったく覚えていないんだね。そうか、君は記憶を取り戻すために死んでここへ来たんだね。記憶には、思い出して得にならない記憶もあるんだよ」

 ジミーの意味ありげな言葉に、ポールの心は揺らいだ。

「さあ、早く首と胴をくっ付けてくれない?」

「その前に、ボランティア所長から言われたことがあるんだ。君は生き返るんだから、二度と過ちを犯してはならない。いったい何を仕出かした?」とピッポ

「難しい話さ」と言ってジミーはしばらく躊躇っていたが、「つまり、ここからの脱走を図ったんだ。月面を自由に歩きたかっただけさ」と説明し、それ以上は語らなかった。

 

 

 首と胴は簡単に接続することができた。しかしタグを外す道具はなかった。事務所に戻ると、六人のボランティア警官が来ていて、ジミーに注意を促した。タグを取ることは許されない。取材陣の仕事が終わった時点で、再び首が分離され、最終的には月面に放置されるということだった。地球からロボがどんどん送られてくるので拡張工事は後手に回り、問題のあるロボはどんどん廃棄されるという自然の流れだ。

「ついでにもう一人、救済してもらいたいロボがいるんだ。彼には欠かせない人物で、きっと彼女を見たら思い出すに違いないんだ」

「しかし、君が嘘つきでないことを証明できるかね?」

 巡査部長が尋ねると、ジミーはしばらく考えていたが、軽く手を打って、「少なくとも僕とエディが友達だってことはね」と言った。

「君の右手首の外側には小さな痣があるんだ。それって、生まれたときに頭じゃなくて右手から先に出てきたんで、医者が無理やりお腹の中に戻したときに付いたんだって、君から聞いたよ」

「痣があるのは事実だけど、その理由は覚えていないさ」

 ポールはシャツをめくり上げて、巡査部長に手首の痣を見せた。巡査部長は軽く頷き、所長を呼び出した。

「これで分かったろ。君はエディさ」

「分かった。これから僕はエディだ」

 

 

 チカの救出はジミーとはまったく違うことになった。彼女はすでに月面に運び出され、捨てられていたのだ。ボランティア所長は、月面作業マニュアルのチップをピッポに渡して、消えてしまった。月面に出たことがないのだ。警官たちも巡査部長を含めて三人は逃げてしまい、残る三人は興味本位で月面に出ようと思った連中だ。ピッポはマニュアルのチップを耳の後ろに刺して所長の代わりを務めることになった。チカの人間番号を発信機に入力し、続いてオープンボタンを押すと事務所の天井にあるハッチが開き、梯子が下りてきた。

 直径一メートルほどの円形の通路が垂直に伸びていて、出口はまったく見えなかった。ピッポを先頭に、五人は次々に梯子を登っていく。結局月面までは五百メートルもあって、出口のハッチを開けると、ピッポの目に飛び込んできたのは大きな地球だった。ピッポは無関心な様子で、出口から二メートルほど下の地面に飛び降り、土煙を立てた。次に顔を出したエディは、遠い地球を少しばかり懐かしんだ。彼は百歳まであそこに暮らし、離脱してこのネクロポリスにやってきた。老ポールは自分の心を分離してまでも、忘れてしまった過去を思い出そうとしている。自分のアイデンティティを取り戻し、幸せな気分で死にたいと願っている。しかしアバターの自分は、極楽とは名ばかりのネクロポリスに止まって、あと百年生きなければならないのだ。

「あの綺麗な地球で何が起きているのか、僕は知っているんだ」

 ジミーが真空モードの電波音声を通して意味不明なことを言ったので、エディは「何が?」と尋ね返したが、ジミーはニヤリとしただけで何も答えなかった。

 

 側に車輪と床と椅子だけのソーラーカーが置いてあって、全員が乗り込むと勝手に走り出した。車は激しく光る太陽に向かって走り始めた。強烈な陽光が地面の色を灰白色に染めてしまい、まるで死の灰の上を走っているようだ。しかし舗装した道ができているので、車が激しい振動を受けることはない。遠くには、無人の重機が一塊になって作業を行っている。相変わらず、故郷の地球がエディを感傷的にさせていた。あそこでは、オリジナルの脳味噌が分身の任務達成を期待している。彼にしてみれば、自分は生霊のような存在なのだろう。

 しかしエディはオリジナルほどの情熱をなくしていた。失った記憶の断片が、人生にとって何の意味があるというのだ。明らかにエディは老ポールとは別の人格だった。一つの想念だって、立場や環境の変化で別人のように変わってしまう。分離した脳データが、それぞれ別の感覚を得てしまうのは仕方のないことだ。

エディはオリジナルの酔狂で勝手に作られ、人間どもの酔狂で勝手に作られた洞穴天国に送られ、もう二度と故郷の土を踏むことはない。しかし老ポールも、忘れてしまった過去を思う時間など、人生の中でそう多くはなかったに違いない。真実を知ってから死にたいだけだ。死ぬ前に世界中を旅行して、自己満足の中で天国に旅立つ俗物たちと変わりはしない。

 

 地球の周りには満点の星がキラキラと輝いていた。この壮大な宇宙を知ることもなく、ピラミッドをみたことに満足しながら死んでいく老人のために、ほとんど同じ人間の感性を与えられたロボットが、人身御供としてこの地獄に送られてくるのだ。

「君たちは地球からきた撮影隊だろ? いったいこいつがどんな罪を犯したか知っているかい?」

 痩せた警官がジミーを指差しながらエディに尋ねた。ジミーはニヤニヤしながら黙っている。エディもピッポも同じように黙っていた。

「これから捜しにいく女も同じさ。こいつらはテロリストさ。月を自分たちの領土にしたがっているんだ。地球じゃ死んじまった人間だが、こっちじゃ立派に生きている。ならば、狭い洞窟なんかに押し込まれずに、月全体を自分たちの領土にしちまおうっていうのが、こいつらの考えなんだ」

「それが本当なら、いまの台詞はリアルタイムで地球に送られているからな。おそらく政府関係者もびっくりしているにちがいない」とピッポ

「俺も地球じゃ警官をやっていたんだ。テロリストに撃たれてこっちにやって来た。しかし、忠誠心は今でも変わらない。地球のお役人には安心しなさいと言ってやりたいね。地球に忠誠を誓う連中はいっぱいいて、ボランティアの警官になって悪人どもを次々に検挙しているのさ」

「酷いものさ。大昔の魔女狩りみたいなもんだ。怪しい奴らを次々にとっ捕まえて、裁判も受けさせずに首を刎ね、ゴミ捨て場に放り投げる。裁判所なんかないから、やりたい放題なんだ」とジミーは大人っぽいことを言って、苦笑いした。

「しかし、こんな荒涼とした月面を開放しないなんて、地球の連中も度量が狭いな」

 エディが言うと、太った警官が「月には生きた人間も入植しているんだぜ」と返した。「連中は死人が月面を徘徊するのが嫌なんだ。奴らの考えでは、俺たちは気味の悪い幽霊か無能なロボットさ。人間じゃない。死んだ知り合い以外とは話す気もない。だから俺たちは洞窟の中に閉じ込められ、壊れたら月面のゴミ捨て場に捨てられる。所詮ロボ・パラダイスは、安楽死を進める地球政府の宣伝用セットみたいなものだ」

「僕たちテロリストの仲間に入るかい?」

 ジミーは太った警官に顔を向けてニヤリと笑った。警官は肩をそびやかす。

 

 一時間ほどで廃棄場に到着した。そこは周囲二ロほどの古い隕石クレーターで、外輪山に開けられたトンネルを出ると、平らな土地が広がっていた。車が入ったことを悟り、遠くの首塚から真空モードで爆発音が聞こえてきた。首たちが一斉に喋り出したのだ。車は首塚の脇で勝手に止まった。巨大な山で、先ほどの塚の十倍の大きさがある。全員が車を降りると、耳をつんざくような電波音はピタッと止まった。

 ピッポが発信機をいじると、画面にチカの位置が示された。車の後ろに首を除けるスコップが詰まれていたので、ピッポ以外の全員がそいつを使って邪魔な首をどかしていった。スコップに一首ずつ乗せては後ろに投げる。微少重力下で首は五十メートルも飛ばされていった。チカの首を出すには三十分もかかった。耳たぶに付けられた人間番号の札が赤色に点滅している。

 ジミーが周りの首どもを蹴落としてチカの髪を摑んで持ち上げ、まるで大将の首を討ち取ったかのように見せびらかした。チカの青ざめた顔を見て、エディは鼓動信号が火事場の早鐘のようになり始めたことに驚いた。その原因は失った記憶の断片が蘇ったのかもしれなかったし、単にその美しさにときめいたのかもしれなかった。ジミーのような子供ではなかった。髪はひどく短く、一つひとつが緩くカールして、形の良い頭に蔦のように絡み付いている。丸く高い額の下は強烈な日差しの影となり、大きな瞳が薄い光を発してエディを見つめていた。ジミーはサロメのようにチカの唇にキスをして、しばらく唇を離そうとしなかった。ようやくジミーが口を離すと、チカは大きなため息をついてエディを見つめなおし、「エディ、ようこそこの地獄へ」と呟くような小声で言った。

「さあさあ、早くチカのボディを探さなきゃいけない」

 チカの首をぶら下げたまま、ジミーが先頭となって首を蹴散らしながら麓に下り、車に戻った。車は自動的に、ボディの捨て場に向かって走り始める。

 

 月面車は外輪山のトンネルを抜けて「首のクレーター」を後にし、隣接する「ボディのクレーター」のトンネルに入った。ここでは首を無くしたボディたちが、行く当ても見失ってうろついている。太陽電池は常に満杯だが、まったく意識を失っているため、ひたすら足を動かし、丘や崖に当たれば方向を転換するだけのことで、よじ登ることもしない。車はうろつくボディを撥ねながら中心の小高い丘に登り、そこで止まった。丘は十メートルほどの高さがあり、周りの平地でうろつく無数のボディたちを眺めることができた。

「ここでチカさんの体が来るまでじっくり待つんだ」といってピッポは発信機のボタンを押した。

 二十分ほど待つと、水着姿のナイスバディが信号に引き寄せられて登ってきた。二人の警官がボディを車に乗せ、チカの首をボディにカチャッとセットしたとたん、チカの脳回路とボディは一体化した。

「ありがとう。ジミーも私も生き返ることができたのは、貴方のおかげかしら?」 

 血の気を取り戻したチカは、顔面を赤くして瞳を輝かせた。見つめられたエディは、同じように顔を赤くして見つめ返したが、大きな瞳に吸い込まれそうな気がして、思わず目を逸らしてしまった。まるで罪人のような負い目を感じたからだが、それは忘却した過去の領域からやって来るもののように思えた。

「エディは百歳で死んだんだってさ。僕は十歳で死んだんだ」とジミー。

「私は二十歳で死んだのよ」

「二十歳? 何が原因で?」

「貴方が殺したの」

 エディの顔面から血の気が失われるのを見て、チカは慌てて前言を翻した。

「ごめんなさい。これは冗談。誰かに殺されたけれど、その記憶はデータにないわけ。誰一人、死んだ時の記憶を持ってここに来るロボットはいないわ」

「ということは、犯人は見つかっていない?」

「そう、貴方は容疑者かもしれないけれどね」

 チカは笑いながら答えた。

 

(つづく)

 

 

 

私の死

 

目覚めると

私のベッドに

死んだ私が横たわる

初めて知る他人の私よ

みすぼらしく哀れな

滑稽とも思える小さな人間

さあ発してごらん

いきがり張り合い騒々しいだみ声を

聞きたいのだ お前の下卑た声を

きっとお前は何かを求めていたのに

他人となった私は何も分からない

いやきっとお前も分からなかった

溺れる者が足掻くように

ひたすら顔を出したかっただけ

誰もが水面に口を出して

口をパクパク動かすのが世の中さ

そうだお前を見たときに

息をしないお前が新鮮だった

おめでとう 汚れた空気はもういらない

上のきれいな空気を吸うには

お前の足は短かすぎた

きっと死因は極度の酸欠

おめでとう 死んでしまった私

ともに乾杯し ともにわらい合おう

どうしてそんなに顔を歪ませる

おまけに私を無視し続けるのか

私を覚えていないのかい

魂の抜けた哀れな屍よ 

私はもう天に向かっているのに…

 

 

 

響月 光(きょうげつ こう)

 

詩人。小熊秀雄の「真実を語るに技術はいらない」、「りっぱとは下手な詩を書くことだ」等の言葉に触発され、詩を書き始める。私的な内容を極力避け、表現や技巧、雰囲気等に囚われない思想のある無骨な詩を追求している。現在、世界平和への願いを込めた詩集『戦争レクイエム』をライフワークとして執筆中。

 

 

響月 光のファンタジー小説発売中

「マリリンピッグ」(幻冬舎

定価(本体一一〇〇円+税)

電子書籍も発売中

 

 

 

『マリリンピッグ』と「力への意志

 

 人間には二つの対極的な〝意志〟があると思う。「力への意志」と「愛への意志」だ。これらは酒で言うなら極辛口と極甘口ほどの差があるだろう。もともとこの二つは、地球という小さな星に発生した生物が、生き残っていくために獲得した対の本能だったに違いない。「力への意志」のベースには、有限の食物を獲得しなければならない事情があったし、「愛への意志」のベースには、自分の子孫や仲間を増やして繁栄し、異種に対して食物獲得の優位性を保たなければならない事情があった。

 いずれにしても二つの〝意志〟は種の生存にとって不可欠で、地球に生命が存在するかぎり、各々の個体はこれらを具現化しながら優位性を獲得するといった行動を永遠に繰り返していく(永遠回帰)。

 二つの〝意志〟は、その目的の起源が同じこともあって、現在でも微妙に絡み合いながら社会基盤を形成している。『マリリンピッグ』の背景にある架空の世界大戦では、各国の「力への意志」がぶつかり合って、地球は混沌とした状況に陥っている。戦争に限らず、「力への意志」が求めるものは「支配する者」と「従属する者」の関係で、それがはっきりしない限り抗争は続く(互いに欲求不満を持ちながらでは「痛み分け」もありうる)。

 『マリリンピッグ』は、戦争にうんざりした連中が「愛への意志」を高めながら仲間を募り、平和の実現を求めて、愛の象徴である「マリリンの丘」に向かって走り出す物語だ。その丘は「愛への意志」が支配していて、「力への意志」が抑えられた「エデンの園」のような場所だ(「エデンの園」では神を除き、蛇だけが「力への意志」を持っていて、人間に伝授した結果、失楽園となる)。そこでは、生き物たちは平面的な繋がりを保ちながら広がっていく。反対に「力への意志」が支配する世界では垂直方向に伸びていき(位階秩序)、一番上の連中は天を目指すようになる(権力・神格化)。例えばバベルの塔サン・ジミニャーノの塔群などは、その意志の象徴とも言えるだろう。塔は土台(最下層)が不安定になれば、地球の重力によりたちまち崩壊してしまう。

 戦争以外にも、我々は日常生活で「力への意志」と「愛への意志」を求めながら生活を営んでいる。会社では、同じ同期生でも「力への意志」の旺盛な仲間が上司になり、服従を強いられる羽目になる。勤務時間から解放されると、社員は「愛への意志」を開放させて、恋人や上下関係の無い飲み仲間と居酒屋にくり出し、力社会への愚痴を垂れる。家に帰ると、妻との関係などによって、どちらかの優位が支配する家庭が待っている。「力への意志」が支配する家庭では、DVもあるだろう。

 「力への意志」の流儀は、強圧力で相手の心を押さえつけるものだが、「愛への意志」の流儀は、愛の包容力で相手の心を取り込んでいくものだ。すべての個人が「愛への意志」を高めたとき、地球規模の平和は実現する。その結束力は、夫婦から家族へ、家族から集団へ、集団から国へ、国から世界へと平面的に広がっていく可能性を持っているが、「意志」というだけに、意志力という力が必要なのだ(そこには、「右の頬を叩かれたら左の頬もさし出せ」といった許容の意志も含まれている)。

 意志力が求められるのは、人の中には遺伝子レベルで「力への意志」の旺盛な者がいるからで、彼らは常に縦方向への上昇を目論んでいて、平面的な広がりを間々阻害するからだ。仲間レベルの仕切り屋さんから、世界レベルのヒトラーにいたるまで、集団が危機に陥った場合に、やたら張り切り出す人間は五万といるが、彼らの方法論は力による解決、結局はケンカ、戦争、収奪等々だ。なのに、危機に陥った人々は、彼らを救世主のように見て、畜群のように付き従ってしまう。戦争は、個人的なエゴが集団化し、異集団どうしの力への意志」の衝突から発生する。

 しかし「愛への意志」の根本にあるのはエゴではなく、相手を思いやることにある。美味しいお菓子が一個あったとしよう。あなたは、自分が食べようと思うだろうか、それとも、それを誰かに食べてもらいたいと思うだろうか。仏教やキリスト教で言う「慈悲」や「慈愛」は、自分の子供が美味しいお菓子を食べて喜ぶ姿を想像して満足する心情を、見ず知らずの他人に対しても広げることを示唆している。人間が動物であるかぎり、不満足であっては続かないだろうが、食べる満足もあれば、食べてもらう満足もある。自分が食べる喜び以上に、他人に食べてもらう喜びが勝れば、それは満足になるだろう。

 『汝の敵を愛せよ』は、「愛への意志」の力で敵への憎しみ以上に敵を思いやれと言っているのだ。自分の子供や仲間を殺した敵を憎む以上に愛せよと言うのだから、相当な意志力が必要になってくる。しかし、それを克服しないかぎり、血を血で洗う戦いは永遠に回帰するだろう。きっとキリストは、人間一人ひとりに哲学しろと諭しているのだ。それは非常に難しいことだが、全人類の一人ひとりが「愛への意志」を強め、必死に抱え込んでいるエゴを一かけらでも「慈愛」に回していけば、多少時間は掛かるにせよ、不可能なことでもないように思えるのだ。少なくともある地域の窮状が解消されることで、連鎖反応的にあちこちの紛争も減っていくに違いない。

「嗚呼、金持優遇税制でお金をしこたま抱え込んでいる〇〇さん。ほんの一かけら僕にも恵んでくださいよ!」