詩人の部屋 響月光

響月光の詩と小説を紹介します。

エッセー「 必要悪の哲学」& 詩

エッセー
必要悪の哲学

 

 プーチン大統領は6月9日、初代ロシア皇帝ピョートル大帝を扱った展示会を訪れ、大帝が参加した18世紀のスウェーデンとの戦争(大北方戦争)をいまのウクライナ軍事侵攻になぞらえて、二つの戦いの正当性を主張した。大帝はロシアに元々帰属する領土を奪い返したのであり、プーチンの軍事作戦も同じくロシア領を取り戻すための正当な戦いというわけだ。もっとも歴史学者に言わせると、大帝が奪取したバルト地方(ネヴァ川河口付近)が元々ロシアの土地だというのは嘘っぱちで、バルト海へ出るための侵略戦争に過ぎなかったという。

 

 しかし大北方戦争は悲劇性の面で、いまの戦争とは少し違っていた。18世紀の戦争は兵隊さんたちの陣取りゲームのようなもので、戦死者が出たとしても多くは兵隊で、一般市民が巻き添えになるとすれば、農地荒廃や流通破壊による飢餓といった副次的な要因だった。第一次世界大戦まではそんな感じだったが、ナチスによるスペインのゲルニカ空爆(1937年)以降は、一般市民を巻き込む戦法が普通になってしまった。戦いの場は戦場だけでなく、市街地も含まれるようになったからだ。広島・長崎の原爆投下はその象徴的な出来事で、市民を殺して国民全体に厭戦気分を広めることも大きな戦法となった。いまのロシア軍はそれを実践している。

 

 昔は戦争する高貴な方々と民衆は分離していて、城主がクルクル変わろうが、その命令に従って年貢や税金を納めていれば何のお咎めも無かった(異民族の襲来を除けば)。しかし市民意識が醸成されて民衆が城主を選ぶようになると、彼らにも城主を選んだ責任が出てくる。敵から見れば、そんな連中は城主の手下に見えるから、町ごと焼いても道義的責任は感じないということになる。しかも国民総動員令に従って、市民はわざわざ自分の町に敵を誘き入れて市街戦で抵抗するから、なおさら無差別攻撃になってしまう。

 

 戦争が起これば一般市民が死ぬのは当たり前のこととなり、侵攻する側の国民も、それに対して必要悪程度の感覚しか持ち合わせていない。広島・長崎の悲劇も、多くのアメリカ人にとっては必要悪だったろう。イラク戦争だって、民主有志連合は少なくとも10万人以上のイラク市民を犠牲にしているが、日本でもそうした事実がマスコミで大々的に取り上げられることはなかった。マスコミも国民も、サダム・フセインを殺し、民主化を進めるための必要悪だと思っていたのだろう。民主主義の視点からはサダム・フセインは悪の権化だが、付き従うイラク国民も一蓮托生だと思えば、彼らを殺戮するのは必要悪ということになってしまう。

 

 この10万人の中には、フセインのシンパもいれば、反フセイン主義者も、長い物には巻かれろ主義者や臆病者、子供たちもいただろうが、十把一絡げで必要悪にされてしまうのは、近代兵器の破壊度が一気に上昇し、人々がなす術もなくそれにぶら下がっている状態だからだ。少なくとも産業革命以降、加速度的に文明を進化させてきたのは科学技術であり、人々の日常もそれに振り回されてきた。科学が主導し人間が付き従う状況の中、次々と便利なシステムが登場して儲ける連中が波を起こし、人々は考える余裕もなくそれらを受け入れてきた。そして金持国だろうが貧乏国だろうが、儲ける者はますます富を蓄積し、末端の労働者は企業の宣伝工作に乗って、なけなしの金を新製品に費やしている。

 

 世界中で開発競争が加速し、科学全般が利権やら利益やらを巡る競争の中で凌ぎを削っている。その結果、科学立国はますます豊かになり、科学後進国はますます貧乏になっていく。例えば薬の研究者が人々を救おうと新薬を開発しても、出資している企業が開発費プラス利潤を取ろうと思えば薬価は高く、金持患者しか救われない。どんな製品であれ、良いものを開発しても儲からなければ死の谷(デス・バレー)にお蔵入りとなる。発明の多くが目先の儲かる、儲からないで決まっていくなら、いま儲からないものを切り捨てる行為は「必要悪」だろう。しかし、死の谷には、50年後に人類を救うかもしれない発明品が朽ちて転がっているかも知れない。いや、きっと転がっている。

 

 欧米主導のグローバル経済体制に不満を持つ国々は、世界が分裂するベクトルで歩き始めている。彼らの一部は、現状打破には軍事力が鍵を握ると思っているし、現状に安住している先進諸国はそれに対抗し、結局は武力を増強するハメに陥る。武器削減への取組が機能しないなら、これは明らかにデス・スパイラルだ。豊かな国も貧しい国も、兵器開発に金を注ぐ。兵器も科学技術の端くれだから、技術(殺傷)力№1を目指して苛酷な競争劇を演じている。

 

 戦争の形態だって、その変化を先導してきたのは新しい武器で、我々はそいつが引き起こす惨劇に対して為すすべもなく、肩を落として後からとぼとぼ付いていくだけだ。あるいは、次々に登場するミサイルの後翼にぶら下がって振り回され、苦しんでいる。逃れるためには人間らしい感性や知性を駆使しなければならないが、むしろそれらを鈍磨させているのが現状で、それ以外に苦痛や不安から逃れる方法を見出せない。当然、いくら鎮痛剤を飲んでも根治には至らない。なぜなら、各国とも武器を国家繁栄の最先端グッズと位置付けているからだ。いざ戦争となれば、すごい武器を持った奴が勝ちなら仕方ない。

 

 為すすべがなくなると、動物は死んだ振りをする。上司から罵詈雑言を浴びせられる中、部下は首を縮めて感性を鈍磨させ、ただただ聞き流すことに専念する。部下がなぜキレないのかというと、その状況が会社を辞めるよりはマシだと思うからだ。彼にとってパワハラは生きていくための必要悪だ。科学技術は社会を豊かにする一方で、社会を破壊する。その最たるものが武器の進化で、似たように地球温暖化や環境汚染などの諸々だって、科学技術の進化がもたらす副作用だ。しかし人々が、社会を破壊すると分かっていながら負の側面に積極的な対応を取れないのは、自分の周りの快適さを削るよりか、それらを必要悪とカテゴライズし、目を瞑るほうが簡単だからだ。社会活動のあらゆる場面に「必要悪」は存在する。金がなくなれば嗜好品を買わなくなるのは、そいつにとっての必要悪だ。会社存続のため、社員の首を切るのは必要悪だ。温暖化で島が沈み島民が追い出されても、豊かな生活を求め続ける全人類から見れば必要悪だ。だから、自分の周りから快適さが失われたときにようやく目を覚まし、嗚呼もう手遅れだとバンザイする。

 

 おそらくロシア国民の多くは、心の中に「大ロシア」のプライドを持っていて、プーチンにシンパシーを感じている。ロシアはもっと豊かになるべきだと思っていて、プーチンの実行力に期待している。プーチンピョートル大帝に準じて高邁な理想で戦争を起こしたのだから、自国兵の犠牲もウクライナ市民の犠牲も必要悪として、さほど意に介していない。この侵攻に賛成しているロシア民衆もきっと同じ感性に違いない。プーチン核兵器ウクライナに使用すれば、プーチンは「やむを得なかった」と必要悪を主張するだろうし、プーチン支持者も同じに思うだろう。プーチンが軍事作戦の目的と謳った「ロシア語を話す保護すべきウクライナ人」も犠牲になるが、それも必要悪の範疇だ。

 

 戦争の目的は勝利で、どんな武器を使おうが、どんな犠牲が出ようが、それらは必要悪になってしまう。それはきっとロシア側でもウクライナ側でも変わらない。ロシアの場合、政府が始めた戦争ならイカサマ御題目でも勝てば官軍というわけで、勝利に犠牲は付き物だという感覚が共通認識となる。死ぬのがロシア兵だろうがウクライナ市民だろうが、損失や殺戮は「必要悪」に追いやられてしまうのだ。

 

 これは世界中の人々の共通認識かもしれない。敵も味方も勝利という目的のために人が死ぬのは、いまも昔も「必要悪」なのだ。つまり戦争は、地震と同じに天災であると思わなければならない。明らかに人災だが、人類が石頭を振るって歴史的に繰り返す限りにおいては「天災」だ。

 

 地球の性が地震なら、人類の性は戦争だ。だから、地震で何万人死のうが、戦争で何万人死のうが、人々はほとんど同じ反応を示すことになる。顔を歪めはするだろうが、茶の間でテレビの画面に食い入りながらお茶を啜り、地球のどこかで起きた惨事を、地震の場合は「恐ろしい……」、戦争の場合は「愚かな……」と呟きながら眺めている。しかし、そんな冷えた石頭が戦場のど真ん中に投入されれば、たちまち焼け石となって辺り一面を燃やす力になる。そうして破れかぶれに地震も戦争も連綿と繰り返していく。

 

 日本人は地震ですら危機意識が薄いから、戦争についても「日本ではそんなことは起きないだろう」などと思ったりして、アリストテレスカタルシス理論にもなっていない。きっと世界的にも、プーチンが核を使えば、平和を願う人類の感性はさらに大きく鈍磨するだろう。広島・長崎の悲劇が現在どのぐらい鈍磨しているかを見れば分かることだ。本当は核廃絶に向けて、全世界が身を削ってでも抵抗を示さなければならないはずだ。人類の未来のためには、それしか方法はない。現状、プーチンのようなヤクザ者が間々国家元首になるのだから……。

 

 前回のエッセー『イメージとしての枯山水』で、大きな力が小さな力を呑み込むのが宇宙法則であり、宇宙の端くれである地球生命体の世界でも、それが法則になっていることを述べた。しかし太陽系のように、長い間平和的な均衡を維持しているものもあるが、それは宇宙時間では一時的なもので、親分である太陽の力のもとに各惑星がちょうどバランス良い位置取りで納まっている、ほんのひと時に過ぎない。パックスロマーナ(ローマ帝国の平和)は200年続いたが、その前にはローマ軍の侵攻が続いた。プーチンはパックスロシアを目指して現在侵攻中だ。その原動力となっているのは、おそらくロシア国民の民族的誇りを傷付けるほどの生活への不満だろう。だって、エネルギー資源の儲けはみんなオリガルヒに行っちまうのだから……。

 

 彼らの豪華ヨットでも分かるように、ロシア国内の貧富の差はかなりのものだ。しかし、貧富の差は世界的な問題でもある。第二次世界大戦が終わるまでは、これの解消手段として、他国への侵略が公然と行われてきた。戦後は少なくとも、人々のこうしたエゴ的感性は否定的に扱われてきたが、今回のウクライナ戦争で連綿と生き残っていることが分かった。この感性はコロナウイルスのようなものだと思っている。人類は一丸となってこの病気に対処した。ワクチンだって、世界中に行き渡るように努力したはずだ。それは、世界の一部でも手当てが遅れれば変異株が出現し、全世界に影響を及ぼすことが分かっているからだ。これはある意味で宇宙(自然)法則に抵抗した人類の知恵だったと思う。

 

 いまウクライナで起こっていることは、人類に潜む「戦争菌」という常在菌が表面に出て、ケロイド状に広がっている状況だ。万が一にも親玉の核が飛び出せば、とびひとなって世界中に拡散していくに違いない。地球市民の立場では、これを食い止める薬は、「人類愛」や「友愛」「平和への願い」くらいしかないのが現状だが、パンチ力に欠ける。必要なのはいま流行りの「免疫力」だろう。ロシア国内の免疫抵抗力は確かに存在する。プーチンの戦争を止めるには、その抵抗力(反戦力)を高めることが第一だと思っている。それには、世界中の「結束力」や「知恵」を加えた混合治療薬を、遠隔治療でロシアの手足に注入する必要がある。あらゆる方法でロシア国内の反対勢力を支援し、焼け石化した中枢部の暴走を食い止める必要がある。これ以上の犠牲者を出さないためにも、「戦争病」という悪疫の早期治療を目指してほしいものだ。

 

 

 

 


地底人

 

あるとき 年老いた科学者が新事実を発見した
人類が 誰も気付かぬうちに進化を続けているということを
現象はまずはじめに皮膚から始まっていた
少しずつではあるが硬いかさぶたに覆われていく
衣服を貫く放射能から身を守るためだと推測した
それは土の中に入る準備であるかもしれない
祖先である哺乳類が恐竜時代に考えたことだ
そう モグラが人類の祖先であった時代に
マヤ暦の最初のサイクルが始まったのだ
そして何順目かの初期化を迎えたいま
人類の歴史はモグラに戻る準備段階に入った
空気という軽重浮薄な環境を嫌い
根無し草の浮遊を放棄して
ぎっしり詰まった土の中に帰っていく
がんじがらめに固定され 吹き飛ばされる心配もない
窒息しない工夫はひたすら動かないことだ
口の前のほんの少しの空間で目の前のミミズを食らい
不味い不味いとぼやいて噛み締めるだけだ
「ボリボリ、ギシギシ、クチャクチャ」
きっと仲間たちの耳元までは届かないが
自分の耳には大きく聞こえてくれるだろう
下卑た雑音、必要最低限の生きてる証…
それこそ未来人だと科学者も認めてくれた
仲間などはいらない 有性生殖は無意味だ
ようやく人類は発見したのだ 循環型社会の理想を
狭隘な地中が最後のフロンティアであることを…
広大な空中に自由なんかなかったことを…
そして誰にも気付かれぬままに心肺を停止して
ミミズたちの餌となって、自然に戻されることを…

 

 

マゾヒスト讃

 

犬も猫も兎もライオンも
快感を得ることが生きることだった
ある日僕は 人間も同じで
彼らの求めるものが単なる信号であることを理解した
快感は信号だ 生きることは快感という信号を得ることだ
ならば僕の人生の不快感もまた 単なる信号に過ぎないことを知った
不快感は信号だ 生きることは不快感という信号を無くすことだ
いいや 快感も不快感も単なる信号に過ぎないなら
信号の回路を逆に繋げばいいにちがいない
僕の場合 快感よりも不快感が圧倒的に多いのだから
回路のプラスとマイナスを逆にすれば
不快感よりも快感が圧倒的に多くなるにちがいない
妻からの罵倒も 上司からのいじめも 腹痛も歯痛も 不評も悪評も
回路を逆さにすればすべては快感だ
嗚呼僕は ついに立派なマゾヒストだ
すべてのストレスが すべての過剰な攻撃が
僕にあっては快楽の肥しになるのだ
きっと首根っこをへし折られるまでは…

 

 

僕はクローン

 

父はいないセックスもない
母は垢のような一片の皮膚
それでも人間として育った
文明はグロテスクに進化し
人はグロテスクに退化する
嗚呼僕たちゼウスの申し子
昔は動物の一族と罵られて
今は交換可能な機械の一種
単に脳髄が嘆いているだけ
それも単なるパルスですか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

響月 光(きょうげつ こう) 詩人。小熊秀雄の「真実を語るに技術はいらない」、「りっぱとは下手な詩を書くことだ」等の言葉に触発され、詩を書き始める。私的な内容を極力避け、表現や技巧、雰囲気等に囚われない思想のある無骨な詩を追求している。|note

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

響月 光のファンタジー小説発売中
「マリリンピッグ」(幻冬舎
定価(本体一一〇〇円+税)
電子書籍も発売中 

 

#小説
#詩
#哲学
#ファンタジー
#物語
#文学
#思想
#エッセー
#随筆
#文芸評論
#戯曲
#エッセイ
#現代詩
#童話

 

 

#論考

 

#宗教

「イメージとしての枯山水」& 詩

 

イメージとしての枯山水

 5、6歳の頃、自家中毒(周期性嘔吐症)という病気に罹かった。体内に生じるケトンという物質に中毒症状を起こして嘔吐を繰り返すもので、神経質な子が罹りやすいという。嘔吐が治まるまでは安静にしていなければならず、気持ちの悪い状態で天井板の木目を眺めていると、それが流れ崩れて数個の渦になって回り出す。ますます気持ちが悪くなるので目を閉じるが、裏瞼に渦が移動して再び渦どもと対峙してしまうのだ。瞼の渦は水面に墨汁を流したような灰色だった。

 なすすべもなく、気持ちが悪くてもそのまま見つめる以外になく、次第に吐き気を催してくる。恐れたのは、その渦のどれかに吸い込まれてしまうのではないかということだ。しかしじっと我慢していれば、渦はだんだんエネルギーを失い、消えていく過程でいつの間にか眠りに落ちていく。目が覚めると気分がすっきりして、普通の状態に戻ることができた。

 龍安寺の石庭を訪れたとき、白砂の渦を眺めながら、不覚にもあのときの渦を思い出した。しかしこの庭は作庭家の意図が謎のままだというから、訪れた者の自由な見立てが可能で、どんなに酷いものを連想しても、それはそれで許されるはずだ。

 もっとも、一般的に枯山水の砂紋は海や川の水の流れを見立てているから、子供の僕を苦しめた瞼の渦と見立てるのは場違いだ。あれは水の流れではない。水の渦には厚さがあり、奈落らしきものが存在するが、あいつは裏瞼のスクリーンに映った奥行きのない渦だった。水面に灰色の絵具をたらし、筆でかき回したときにできる二次元の渦……、ならば目の前にある枯山水の渦もきわめて平面的だ。どう見ても、砂という無機物のイミテーション。水の中には微生物が潜んでいるだろうに、白砂には生命も存在しない。だからきっと、瞼に映る渦を似たものどうしだと思ったに違いなかった。幻覚の渦はこの世の物とは思えない不気味さを湛えていた。それはグロテスクな模様で、体温を感じさせない無生命の運動だった。そして枯山水も、石の根元にこびり付く苔以外は、無生命で統一されていた。

 座禅の目的は無の境地に入ることだと言われる。無の境地とは、生物のしがらみから解放された境地だ。生物のしがらみとは、人間だろうがミジンコだろうが、およそ生物として生まれたからには死ぬまで生きなければならない宿命が起因の、他者との間で起こるあらゆる軋轢や感情を意味している。座禅は、無生命の存在に感情移入することだ。演劇指導で、「岩になったつもりになってみろ」などと言われるのも同じことだろう。煩悩は、人間という生物が生き続けなければならないときに生じる垢のようなものだ。

 ならば、座禅の助けとなるのが枯山水だとすれば、砂紋が川だとか石が蓬莱山だとかといった見立ては、作庭家の見立てが存在しない石庭では無視してしかるべきものだ。いや、あえて見立てるなら、石庭は全体として宇宙以外の何ものでもない。幼い僕が、瞼の渦に吸い込まれるのを恐れたのと反対に、修行者が自分自身の存在の真実を探そうと思えば、その心はこの枯山水の渦に吸い込まれなければならないのだ。すると、庭石は星々であり、15石すべてを同時に眺められないのは広大な無限宇宙を表している。砂紋は星雲であり、少しの苔は無生命宇宙の中にわずかに点在する塵のような生命体であることが理解できる。人間は苔のそのまた一部で、星の裾にこびり付く寄食者としての存在だ。 

 そして修行僧の心が石庭宇宙の空間を漂い始めたとき、重力や引力を始めとする目に見えない力によって、宇宙が止まることなくダイナミックに流れているのを思い知らされるだろう。大星雲が小星雲を呑み込んでいく。ブラックホールに星々が呑み込まれる、衰えた星が爆発して惑星を呑み込み、すべてがガスとなる。そして宇宙では常に大きな力が小さな力を凌駕し、関与し、支配していくことを理解する。そして宇宙のほんの一部である生命体の世界でも、この無機宇宙の法則が適用されていることに気付かされるだろう。勢いあるドクダミがほかの花々を蹴散らしていく。勢いある外来種が在来種を蹴散らしていく。軍事大国が軍事小国を侵略していく……。

「草木国土悉皆(しっかい)成仏」という仏語があるが、草木や土石のような非情のものでも、仏性(仏陀となる可能性)があるかぎり有情のものと同じように成仏できるという意味だ。これは、心のない無機的な宇宙も心のある生物である人間も、同じ仲間だということだ。むしろ人間は無機宇宙の一部(宇宙内存在)であることを理解しなければならない。修行僧は仏性を得るために座禅をする。枯山水という宇宙に向かい、生物である一切を捨て、母なる無生物の宇宙に身を投じて宇宙と一体化し、不滅なのは魂ではなく無であることを理解する。欲望がらみの天国などはどこにもなく、あるのは無限に流れていく無機宇宙だ(最近いろんな有機物が見つかっているが…)。

 座禅から一転して平常心(地球内存在)に戻ったとき、恐らく修行僧は生物としての人間に気付かされることになる。しかしその立ち位置は宇宙からの視点に変わっているだろう。地球は宇宙の星々と変わらぬ弱肉強食の世界だが、黄金の茶室や豪華な宮殿を目指す者もいれば、宇宙法則に反して侘び・寂びの心に価値を見出そうとする者もいる。そして何よりも宇宙法則である無常を美しいと思い、当然のこととして受け入れる心が、悟りの精神に近しいものであることを知ることになるのだ。

 


嗚呼地球

蒼ざめた地球は苦しみの星
生命の誕生は闘争の始まり
進化は生き残るための改造
勝者は栄え敗者は滅びゆく
友好・友愛は甘ったるい幻
愛は一族繁栄のためのもの
さあどん底まで飢えてご覧
多くの愛が忽ち消えてゆく
骨肉の争い数々のうらぎり
今こそ発揮しろ残虐な才能
代々受け継がれてきた狡知
地球は再び求めているんだ
香り立つ生き血のにおいを
嗚呼地球嗚呼生物嗚呼人間
地獄の中で夢を見る愚か者

 

野獣たちへ

神は大地を戦場として創られた
狩人の中の狩人たちよ
生き抜くために戦い徹せ
シンプルな感性を研ぎ澄まし
群れを成すために同調し
敵よりもすばやく獲物よりも大胆に
目的に向かってなだれ込み
あたりかまわず蹴散らして
血みどろの道を切り開くのだ
信じることは正義で
考えることは卑怯 
突き進むことは勇敢で
立ち止まることは臆病
戦場は修羅場と化し
勝ち残る者だけが安息を得る
敗者の血潮は大地に吸われて腐敗し
卑しい地衣類の糧となるだろう
馬たちはこれらを食べて肥え
勝者はその馬にまたがるだろう
敗者は骨の髄まで勝者に捧げ
勝者は栄えるほどに敗者を生み出す
神は大地を戦場として創られ
敗者の血潮で穀物を育ててきた
その穀物は勝者が刈り取り
そのひと握りを神に捧げてきた
勝者であることへの感謝の印に… あるいは
神が常に勝者とともにあることに感謝して…

 

 

 

響月 光のファンタジー小説発売中
「マリリンピッグ」(幻冬舎
定価(本体一一○○円+税)
電子書籍も発売中 

#小説
#詩
#哲学
#ファンタジー
#物語
#文学
#思想
#エッセー
#随筆
#文芸評論
#戯曲
#エッセイ
#現代詩
#童話

#論考

#宗教

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エッセー 「枯山水」& 詩

エッセー
枯山水

 陽気が良かったので、久しぶりにぶらぶらと散歩を楽しんだ。すると、近くにある大きな家の庭が雑草に蹂躙されて、荒れ放題になっていることに気付かされた。高齢のご夫婦が住んでいて、奥さんがこまめに庭の手入れをしていたのだが、いつの間にか空き家になっている。たぶんお二人で高齢者施設にでも入られたのだろう。

 僕はしばらくの間佇んで記憶にある以前の庭を思い出し、背の高い雑草が支配する殺伐とした光景を眺めながら、ふと『奥の細道』の「夏草やつわものどもが夢の跡」や「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」という一節を思い浮かべた。義経のような武将でなくとも、市井の人々にもそれぞれの人生で輝いていた時期はあったに違いない。このご夫婦も長い間幸せな家庭を築いていて、ゆとりのある暮らしが手入れの行き届いた庭に反映していた。経済的に破綻したり夫婦仲が悪かったりすると、家屋敷はたちまち荒れると言われる。このご夫婦の場合は、「寄る年波」という自然の摂理には勝てず、住み慣れた家を去ったということになる。

 僕がこの庭にしばらく見とれていたのは、きっと芭蕉が草茫々の城跡に感じたものと同じく、仏教的な無常観を覚えたからなのだろう。平安時代の恋愛文学でも、恋人の来なくなった女性の家を表現するのに荒れ放題の庭の様子が書かれたりするが、庭というものは家人の意に反して、家庭の事情を道行く人に知らしめる情報の役目を果たしているものかもしれない。通行人はその光景を見て、大なり小なり無常観のようなものを感じる。誰でも壮年期を経て老年期を迎えなければならないし、荒れ果てた庭はかつての幸せな生活が失せた抜け殻を連想させるからだ。

 だから富や権力を誇る王様は、広大な庭を造ってその維持に金をかけ、俺はまだ凋落していないぞ、との自己アピールに余念がなかった。特に文明間の衝突を繰り返してきた西洋では、厳しい自然を征服することは厄介な異民族を支配することにも等しく、伸び放題の樹木はそれらと同じ御し難さを感じたのだろう。彼らは自然を手なずけるように池や樹木を左右対称に配置し、枝は徹底的に刈り込んだ。そして規則性を一分の隙もなく維持することが、権勢の永続性にも繋がると思っていた。

 一方で、農耕民族の血が濃い日本では昔から自然との共存意識が強く、仏教由来の浄土や禅の思想とも相まって、自然を征服対象とはしない中国庭園の考えを基本コンセプトに庭造りを進めていった。限られた敷地内に、その土地の形状を生かしながら、島のある池を中心に庭石や築山などを巧みに使って自然の営みを再現し、四季折々の景色を楽しめるようにしている。だから剪定にしたって、木々が自然の形をとどめたまま美しい姿に成長することをイメージし、日当たりや風通しなども考えて、余分な枝や衰えた枝を切り落としていく。しかしメンテナンスを怠ればたちまち理想的な景観が崩れてしまうのは、西洋庭園と変わらない。木が枝を広げるのは、そばの木を枯らして太陽を独り占めするためで、庭の主人は秩序を乱す構成メンバーを許すはずがない。神社のご神木なら神主よりも偉いから、勝手気ままに成長しても枝を切られることはないだろう。

 日本庭園のコンセプトを象徴するのが枯山水だ。これは大名屋敷の広大な名園とは似て非なる意味合いを持っている。大名庭園は自分の屋敷の中に自然の景観を取り入れ、家人が楽しむと同時に部下にも見せて権勢を誇示する目的があった。これに対して枯山水は、イメージを共有する庭師(僧)の技を借りて、内なる心を外に表わし、五感を通して再び内に戻し入れ、いまの心境をじっくりと味わうものだ。人は枯山水を通して、自分自身の心を見る。その心は「わびさび」と言われている。「わび」は栄華とは真逆のわびしさや質素な趣を表していて、自分の思い通りにならない現状を静かに受け入れ、悲観することなく人生の糧として楽しむ心だ。「さび」は無常観と孤独感からくる寂しさを趣として楽しむ心だ。きっとニーチェが生きていたら、「弱者によるルサンチマンの反逆」などと揶揄されそうだが、ヒトラープーチンを見れば分かるように、強者がどんなに栄華を誇っても「おごれる者も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」になるのだから、枯山水に感ずる美意識を持ち続けるのは意味のないことでもないだろう。

 誰でも若い頃は「力への意志」が旺盛だが、それが叶わなかったときには挫折し、これまでの野心は消失して、カッカとしていた頭も冷えていく。そのとき、醒めていく情熱の片隅に佇む悟りの心境が、鈍く輝きながらある種の美しさで現われてくる。川には青々とした水がなく、山には緑のないモノクロームの世界だが、ピカソが『ゲルニカ』で描いたモノクロームとは異なる世界だ。『ゲルニカ』の色は、「力への意志」を実行したナチス空爆が、市民の生を吹き飛ばした死の色で、それは絶望の色でもある。枯山水は「力への意志」を邪念として、それを払ったときにようやく訪れる無我の色だ。どんなに人生を楽しもうが、最後は衰えて死んでいくのだし、そうした喜怒哀楽を越えた無我の境地が、岩と砂で簡潔に表現されているのだ。

 こうしてみると、竜安寺の石庭はベルサイユ宮殿の噴水庭園の対極にある庭であることが分かる。ルイ14世は10キロ離れたセーヌ川から水を引いて巨大な噴水を造り、貴族を周りに住まわせて庶民も自由に入場できるようにし、その豪華さで人々を驚嘆させ、王朝の権勢を誇示した。徹底的に樹木を刈り込み、「反抗するとこのように首を刈るぞ」と貴族を脅したものの、その孫は庶民によって首を刈られた。こうした西洋庭園は、一糸乱れぬ軍事パレードの背景には相応しいだろう。統率された軍の行進と徹底的に刈り込まれた樹木、左右対称の池や豪華な宮殿等々、すべてが絶大な富と権力を象徴しているからだ。

 これに対して竜安寺の石庭は、一人で座って沈思黙考する場を提供してくれるが、こんな所に軍隊がやって来れば討ち入りになってしまう。もっとも、いつも観光客でごった返していて、一般人が沈思黙考できる状態ではない。しかし、ほかの日本庭園だって、軍事パレードとの相性が良いはずはない。基本的にそれは自然の景色なのだから、隊列を作る連中は無用だし、そこに佇む人々は身も心も自然に溶け込むことを求められる。

 生まれてから死ぬまでの長い人生の中で、人間の欲望は常に二つの心の間を揺れ動いている。サプライズに溢れた奢れる日々を求める心と、質実な生活に甘んじようとする心だ。そうした二つの心を満足させる場として、庭も造られてきた歴史があったに違いない。ときには華やかに、ときには純朴に。ちょうどベルサイユ宮の絢爛豪華な噴水庭園の近くに、マリー・アントワネットが愛した田舎風の庭があったように……


未知との遭遇

異星人どうしが惹かれ合うのだから
ほとんど好奇心に近いものさ
理解し合えるとすれば
皮膚の上を滑っていく 軽く快い 
意味のないシニフィアン・ミュージック
君はしかし 時たま遠い故郷を思い出し
分かり合えた仲間たちの会話を懐かしむだろう
いいや君も僕も生まれたのは蒼々としたこの星だ

一番鳥が時を告げると獣たちはいっせいに目を覚まし
鉛色の妄想から逃れようとせかせか体を動かしはじめる
それがこの星の上手な利用方法なのだから…
けれど暗闇好きな夜行動物たちは確かに息づき
不器用ながらも頑固に生きている
太陽の恐ろしさを知って目をしっかり閉じ
雷の恐ろしさを知って耳をしっかり塞ぐ
ヤマアラシみたいに全身針にして じっとじっと夜を待つ

思い描くのはまだ知らない故郷 きっと祖先はそこから来たと願う
さあ帰ろう 安らぎの故郷へ さようなら不可思議な君と君たち
酸素が多すぎるこの世界は 昼ごもりの動物には息苦しいのさ
彼らの故郷はさほど遠くない未知の暗黒星雲――微少酸素空間

阿波踊り

一年に一度
阿呆どもが
あらゆる虚飾を脱ぎ捨て
まことの自分をさらけ出す
この大いなるカタルシス
所詮持っているものは
これだけという
人間の悲しさよ

虚飾と虚飾がぶつかり合い
時間だけが食われていく
これだけという
社会の虚しさよ…

PIETA

この醜さを哀れんでください
…同情は人が獣でない証だから
この渇望を哀れんでください
…慈しみは人だけの愛のかたちなのだから
この憎しみを哀れんでください
…賢しさは人が授かった望みの一滴だから
この激しさを哀れんでください
…皮肉は人が育む理想の糊代だから
この惨たらしい結末を哀れんでください
諦念は人が土となるための通過儀礼なのだから…

敗残兵
(戦争レクイエムより)

暗闇の中で
タッタッタと雫の落ちる音がする
規則的な間隔で不規則なトーンで
ひとつの悲しいメロディーになって
頭の奥深くまで響き渡る
グレゴリア聖歌の死の旋律を真似ている
タッタッタ 勇ましい騎兵隊の行進にも聞こえる
狭い狭いカラカラの洞穴で 誰かが焼け付く喉をゴクリと動かす
タッタッタ 誰もが恵みの雨を連想する
タッタッタ それは砂の上に水が落ちる音だ
タッタッタ 嗚呼もったいない たちまち砂に吸い込まれちまう
タッタッ…、突然数個の音が飛んで闇に消え
不気味な沈黙がみんなを包み込む
誰かが雫の下で口を開けた大馬鹿者を連想した
誰かが笑うとみんなが笑い シーッと怒るとみんな黙る
タッタッタ 死の旋律はもうすぐフィーネにさしかかる
ドサリと倒れる音はエンディングの不協和音
嗚呼また一人、みんなの誰かが消え去った
いつもと変わらぬアクシデントのように……

断食芸人

僕はあるとき気が付いた
人類は大きな思い違いをしていることに…
地球上の生物 とりわけ人間は
食べなくては生きていけないという思い違い
考えなければ生きていけないという思い違いだ
あるいは 動かなければ生きていけないという思い違い
さらには 愛さないと生きていけないという思い違いも…

人類は思い違いをすることで
どれだけ苦痛を強いられていることだろう
食わなければ死んじまう 考えなければ死んじまう 
動かなければ死んじまう 愛さなければ死んじまう
バカな 誰がそんなウソッパチを言いふらしたのだ
君たちは強迫観念に苛まれ たちまち殺し合いを始め 生き残ろうとするのだ
たらふく食べ たらふく妄想し たらふく動き たらふく愛することが幸せか 
大きな大きな不幸をもたらすだけさ 

君たちは僕のように路傍の草となって ひっそり呼吸をするべきだろう
何も食べず 何も考えず 何も動かさず 何も求めない
ひたすら自然の中に溶け込もうと透明になっていく
自然が胸襟を開き 僕がすっかり自然の一部となったときに 
人々は僕を忘れ 僕は彼らの異形に体を震わせる
僕は理解するのだ 悲しき人間たちの行く末を
自然とかけ離れた迫力の彼らが、二度と自然に戻れないことを
追放者たちよ 大いに奪い合い、騙し、争い、求め合うがいい
たらふく食べ、たらふく夢み、たらふく動き、たらふく愛し、たちまち滅びよ

 

 

 

響月 光のファンタジー小説発売中
「マリリンピッグ」(幻冬舎
定価(本体一一○○円+税)
電子書籍も発売中 

#小説
#詩
#哲学
#ファンタジー
#物語
#文学
#思想
#エッセー
#随筆
#文芸評論
#戯曲
#エッセイ
#現代詩
#童話

#論考

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エッセー「百毒繚乱」& 詩ほか

エッセー
百毒繚乱

 北国では雪が融け、茶色一色で満たされていた野原のあちらこちらから、黄や緑の淡い色合いが現われ始めてきた。その瑞々しさに胸ときめかす人も多いに違いない。反対に、茶系統の色を綺麗な色と思わないのは、それが死んで枯れた植物の色だからだろう。草の多くが、冬になると水分を吸収する力を失って枯れていく。それは寿命という自然の循環システムだが、気まぐれな天気のせいで干ばつにでもなれば、土台の土からも水分が失われ、冬を待たずに枯れていく。そしてそれらはすべて、潤いのない茶色という汚らしい色調に統一される。

 きっと人間だけでなく、草食動物も肉食動物も、猿や熊のような雑食動物も、茶色を綺麗だとは思わず、緑色を見て胸ときめかすに違いない。緑色は苛酷な冬を凌いだ生命を象徴する色だ。草食動物にも雑食動物にも緑したたる植物たちは生きる糧だし、肉食動物にとってもそこに集う草食動物が糧になる。さらに、草食動物の胃袋に溜まった緑色のお粥は、肉食連中のビタミン剤でもある。そして彼らの仲間が死んだときにも、潤いのある色調が徐々に失われ、最後には干からびた茶色になるのを知っているだろう。茶色はミイラとか、死を象徴する色でもある。

 ならば緑を育む大地の色はどうだろう。土は茶色だと日本人は思っているが、酸化した鉄分のせいなので、鉄分が少ない地域ではきっと灰色になるだろうし、含まれる鉱物によって、黒だとか赤だとか地方ごとにいろんな色があるという話だ。でも、住んでいる人たちは、それをさほど綺麗だとは思わないだろう。草の生えない土は、厳しい環境を意味するから。僕自身、むき出した土の広場や崖を綺麗と思ったことはない。子供の頃はそんな地面で遊んでいたが、泥だらけになって家に帰ると母親に叱られた。広場は毎日子供たちが蹂躙するので硬い土のままだが、普通はすぐに草が生え、緑で覆われる。そして昆虫たちが集まり、それを目当てに小鳥たちが飛んできて、それを狙って野良猫も集まり、たちまち小さな生態系が形成される。

 多くの人が裸の土に違和感があるのは、普通は雑草が生えて緑で覆われるからだ。草が生えないのは、それを阻む何かしらの理由が存在する。寒すぎたり水がなかったり、陽が差さなかったりすれば生えないが、それらに耐性のある植物だったら生えるに違いない。しかし、厳しい気象条件がなくても草がまったく生えないとなれば、人も動物も不気味に思うだろう。普通ではありえないことで、ふだん見ることのない景色を見てしまったことに対して本能的に恐怖を感じる。我々動物は五感を通じて危険を察知する。腐った食べ物は臭いで分かるし、入るべきでない場所は目で判断できる。それらの五感から得る結論は「死」だ。

 そんな場所には死んでしまった土が横たわっている。土にも生死があるのだ。水気のない沙漠は死んだ土だから植物が育たない。植物が生えるには太陽と水だけでなく、土の中で生活するミミズや線虫、菌根菌などの土壌微生物も必要だ。だから沙漠に植樹しても、成長した木が葉っぱを落として、そいつを分解する生き物や微生物がいる循環システムができるまでは、人が面倒を見なければならなくなる。たくさん植樹しても雨が降らなければ、永遠に水を与え続けることになるだろう。

 ところが周囲の土地には植物が生えて、そこだけがずっと赤土だとすると、そいつは不気味な現象になる。誰もがそれを見て、自然の摂理に反すると思う。その土はきっと死んでいて、草はもちろんミミズも微生物も生きていられないということになるからだ。きっと原因のほとんどは毒物だ。例えは火山や温泉地で硫化水素の出るところは独特の硫黄臭がし、「賽の河原」とか「地獄谷」とか呼ばれて観光地になるが、人が訪れるのは、その異様な景色が地獄みたいな不気味さをたたえているからだ。毒気のある湯気で付近の植物は育たないし、近くの小川に魚も棲まず、淀んだ硫化水素でまれに人が死ぬこともある。この毒はウラン鉱の放射能や地下水に含まれる有害な鉱物とともに、自然由来の毒ということになる。

 しかし草が育たない場所に温泉も有毒な天然鉱物の地下水も流れていないとなれば、その原因のほとんどが人由来だろう。誰かがそこに毒物を埋めたか、地下水に毒物を流したか、あるいは化学工場の跡地だったり、付近の工場から近くの川に毒物が流れ込んだりだとか、結局そんな原因に行き着いてしまう。水俣病(水銀)やイタイイタイ病カドミウム)などは、公害訴訟となって世界的にも名を知られたが、土の異常がなくても、水俣病では最初に魚好きの猫がおかしくなり、イタイイタイ病では飼い馬が骨折したり、付近の鉄橋がやたら錆びるなど、不気味な予兆を人々は感じていたという。

 ウクライナのチョルノービリ原発は1986年に爆発したが、木が育たない「赤い森」と呼ばれる汚染地域に最近進攻したロシア軍が塹壕を掘り、土ぼこりを吸い込んだ若い兵士たちが被曝した。これは無知な上官の命令によるものだが、ここら辺の土は微生物が少なく、埋めた遺体も腐らないと噂されている。また、1955年から20年間に及んだベトナム戦争では、ジャングルに潜む敵兵を炙り出そうと米軍は枯葉剤を空中散布し、付近では奇形児の生まれるケースが急増した。

 第二次世界大戦末期、中国大陸から日本軍が撤退するときに化学爆弾を地中に埋めたため、それを知らずに土を掘り返した農民が汚染されるケースも未だにあり、日本政府は処理に追われている。ずいぶんの量を作ったものだ。毒はシェイクスピアの戯曲でもおなじみだが、ヨーロッパでは錬金術の伝統もあり、当時の貴族は敵将を殺すために盛んに研究して化学も進化した。いまでもこの伝統はしっかり引き継がれ、ロシアがウクライナ戦争で使用するのではないかと危惧されている。ロシアは化学兵器禁止条約に加盟しながら陰で作っているらしいし、すでに逃亡スパイや反体制の政治家・ジャーナリストの暗殺に使ったと疑われている。

 こうした毒物の多くは即効性だが、匙加減で遅効性の毒にもなる。硫化水素は猛毒だが微風で飛んでしまうので、地獄谷が観光地として成り立っているわけだ。昔ナポレオンの死因を調べた学者が、骨に溜まったヒ素の量から毒殺説を主張したが、従来どおり胃がん説に落ち着いた。当時のワイン樽はヒ素で洗っていたらしく、ワイン好きのナポレオンの骨にヒ素が溜まっても不思議ではないとの結論だ。でも「和歌山毒カレー事件」にも見られるようにヒ素が猛毒なのは事実で、胃がんになった原因はヒ素かもしれない。

 「薬は毒だ」と言う人がいるが、毒か薬か分からない物質から特効薬が開発されるわけで、当然副作用は付き物だ。それに、猛毒を薄めれば薬になることもある。トリカブトなどは漢方薬に使われるし、ヘビの毒だって、その成分が降圧剤や鎮痛剤に使われたり、手術の際の組織接着剤に使われたりしている。抗がん剤は正常細胞ともどもがん細胞を殺す毒だし、一般的なワクチンは死んだり弱めたりしたウイルスやばい菌を体に入れて免疫細胞を特訓し、これから侵入するだろうウイルスなどに備える薬剤だ。だから抗がん剤もワクチンも人によっては副作用が厳しく、使うか使わないかはご本人の最終判断に委ねられている。

 こうしてみると、人を殺すものも人を救うものも、世の中には多種多様な毒が存在している。殺すことに特化して言えば、即効毒はすぐに分かるから判断しやすいが、問題は遅効性の毒物だ。この種の毒は判断が付きにくく、毒であることを知らずに使って命を縮めてきた時代もあった。それらの多くが個性的な特徴を持っていて、見た目で効くと思われ薬になっている。ヒ素や水銀は古代中国で長寿の秘薬だったし、秦の始皇帝は水銀を長年愛飲し早死にしている。

 古代ローマの水道管は純度の高い鉛で作られ、人々は脳をやられてローマ帝国の文明が滅びたと言われている。しかし、当時の甘味料に鉛が含まれていたからだとか、ワインの醸造鍋に鉛を使っていたからだとか、そもそも彼らの遺骨に鉛が多く含まれていた事実はないと主張する学者もいたりして、真相は分からない。鉛は柔らかくて加工しやすいため、昭和時代には子供たちが塊を手にして遊んでいたし、中には舐めたりかんだりする子供もいた。もっとも、いまの子供たちはもっと危ない道具で遊んでいる。最近「ゲーム脳」という医学用語を聞くが、ゲーム中毒で大脳皮質が薄くなるのなら、スマホだって毒仲間に入れて良さそうだ。

 鉛は白粉に混ぜると伸びが良く、昔の歌舞伎役者は鉛入りの白粉を使っていて、慢性鉛中毒で死んだりした。添加剤の鉛が禁止されたのは1934年のことだったという。水道管に戻れば、資金不足の水道局は今でも部分的に古い鉛管を使っていたりする。WHOのガイドラインに適合しているから安全だと主張するものの、僕は「ガイドライン」という言葉を信じていないので気味が悪い。このラインはご都合主義で上下するし、同じ事柄に対しても専門機関によって基準が異なるし、毒に対する感受性は人によってまちまちだ。コロナの重傷者基準が国と東京都で違っていたのを見れば分かるだろう。

 福島原発事故の汚染水放出問題だって、結局は「毒をどれくらい海で薄めれば安全になるか」ってなガイドラインに行き着いてしまう。漁民が反対したって、いずれは我慢できなくなって小便小僧みたいに無理やり放出するだろうが、安全といったって即効毒が遅効毒になるだけの話だ。空手漫画では敵の肝臓と脾臓の急所を突けば三年後に死ぬ技があったりしたが、毒物の世界でも一年殺し、三年殺し、十年殺し、二十年殺しなどなど、いったい何年殺しまで延長させれば、安全基準に適合するのかはお釈迦様でも知らんぜよ(古い表現ですが)。

 巷に出回っている健康食品だって、ひょっとしたらボディーブローのように寿命を縮めているかもしれない。いろんな医療団体のホームページを開くと、葉酸などのビタミン類、アミノ酸などを摂り過ぎるとがんになる、なんて怖い話を載せていたりする。大豆のイソフラボンを摂り過ぎると認知症になる、なんて話も最近ある。健康になろうと思って金を使い、いろいろ試してみても却って命を縮めるんじゃ、普通の食生活だけを続けたほうがよっぽど増しだ、と思ってもそうは問屋が許さない。薬問屋を金銭的に支えているのは健康志向の方々ですから。

 いまの時代、物流は世界規模なので食い物も世界中からやってくるから、農作物にはいろんな防虫剤やポストハーベスト農薬が降りかかっているし、お菓子にはいろんな発色剤や防腐剤、合成甘味料も添加されている。これらの多くは天然素材じゃなく、石油などから作る合成化学物質だ。日本はEUやアメリカほど厳しくないので、海外で禁止された化学薬品が日本では規制の対象になっていなかったりする。たとえば人工甘味料アスパルテームアメリカで禁止されたし、防腐剤の臭素酸カリウムはEUで禁止されている。皆さんも、かびないパンを見て気味が悪いと思ったことありません?(会社名は出しません)

 高邁な人は、高価な無農薬野菜を買ったり、地産地消で防腐剤の入っていない食品を食べたり、中には自給自足を楽しむ人もいるが、そのベースとなる畑だって昔と同じ自然の土だと思ったら大間違い。空気も水も地球を循環しているし、その中には石油・天然ガス由来の毒物や原発事故由来の放射性物質が紛れ込んでいるから、土壌だけが純であり続けるわけにはいかない。江戸時代の人々は地産地消が基本的な生活だったろうが、いまの人間は世界経済や世界物流といったグローバル・システムに組み込まれちまっていて、その欲望もグローバル・スタンダードに統一され、古の食生活に戻ることはほぼ不可能だ。

 世界規模の食品流通システムの中で、やれ本場フランスのワインだ、やれ本場ドイツのソーセージだ、などと嬉しがって飲んだり食ったりしながら、一緒に防腐剤の亜硫酸や亜硝酸を味わっている。昔、「毒女・毒男」という差別用語があったが、いまの人間は地球上に循環する毒を体内に蓄積し、毒人間としてそれなりの耐性を付けながらも、老年期にはがんを発症して、三十年殺しの憂き目に合っている。そんなことになるまいと、高邁な人は必死に抵抗を試みても、地球の生態系や地球循環システムが隅から隅まで化学毒に汚染されているのだから、無駄な抵抗はやめたまえ。未来の地質学者が現代の地層を調べれば、マイクロ・プラスチックを始めとする多種多様な毒を発見して、「毒新世」時代とでも名付けるだろう。いや、すでに「人新世」と名付けられていたかしら……。

 「人新世」という地質年代区分の新造語は、いまの「完新世」時代に割り込む形で提唱され、地質学以外の学問分野でも注目されている。人間の活動が、火山の大噴火や小惑星の衝突と同じように地質学的な変化を残しているとされ、地質学者に言わせるとそれは1950年前後から始まったらしい。20世紀後半から人間活動が爆発的に増大し、二酸化炭素やメタンガス、フロンの大気中濃度が上がって、気候温暖化や成層圏のオゾン破壊、海洋酸性化、森林減少など地球環境に甚大な影響を及ぼしているのだから、いまは一万年前から続く「完新世」ではなく、「人新世」という名称に変えるべきだというわけだ。

 それは生態系にも当てはまるだろう。「人新世」時代には二種の生態系、自然由来の生態系と人間由来の生態系が存在するのだ。自然由来の生態系は、水、大気、陽光を原動力とする太古からある生物間の相互関係と、それが循環していく社会だ。人間由来の生態系は、水、大気、陽光に加え、地球の支配者である人間のグローバルな経済活動、社会活動を原動力とする新しい生物間の相互関係と、それが循環していく社会だ。共有する原動力は水、大気、陽光だが、それは20世紀前半までの自然由来の生態系を動かしていた水、大気、陽光とは似て非なるものだ。これはつまり、自然由来の生態系と人間由来の生態系が対等じゃなく、自然由来は人間由来の尻に敷かれたことを意味している。人間が生み出した数々の毒が、自然由来の生態系を人間由来の生態系に組み込んでしまったのだ。

 人間は「毒」を操る動物である。毒を創り出し、それによって救われる人もいれば、それによって滅びる人もいる。毒によって人生を楽しむ人もいれば、苦しむ人もいる。毒によって世界のグルメを楽しみ、ドライブを楽しみ、最後にはがんを患い苦しんで死んでいく。巷に毒は溢れ、複合汚染となって自然をも蹂躙していく。「人新世」時代には、人間由来の毒物が水を汚染し、大気を汚染し、それによって素直な陽光反射や地熱放出を妨げ、気温を上げる。いままで自然の生態系を享受してきた多くの生物は、人間由来の生態系への順応を強いられている。人間はロシア軍のように、自然の住人たちにこう警告するのだ。

「この場所は我々のものだ。従いなさい。さもなければ去りなさい」


戦争ごっこ
(戦争レクイエムより)

土に埋められた子供の怨霊たちが
いろんな国や時代の兵士に扮装し
大人顔負けの戦いを楽しんでいる
矢や鉄砲玉は煙のような材質で
流れ弾に当たっても痛くはなかった

「生き埋めコーナー」と板に書かれた崖があった
崖の上から崖の下に向かって穴がいくつか掘られていて
上では穴ごとに兵隊に扮した子供が数人
座らされた捕虜役の子供を取り囲んでいる

捕虜は後ろ手に縛られて目隠しされ
最後のタバコを吸っている
吸い終わるといよいよ生き埋めとばかり
兵隊たちは捕虜を持ち上げそのまま穴の中に落とし
わらいながらシャベルで上から土を被せ始めた

ところが埋まった捕虜は崖下の穴から
ひょっこり顔を出してニコリとわらい
穴から抜け出すと再び崖の上に戻り
こんどはお前が捕虜だとばかり
友達の兵服と交換して同じ遊びを繰り返す

僕はひどく憂鬱な気分になって
遊ぶようすを見つめていた
「君たち、飽きないの?」
子供たちはキョトンとした顔付きで僕に注目する
「君たちは友達どうしなのに、どうしてそんな遊びをするんだい」
「敵を穴に埋めるのが楽しいのさ」
「きれいな蝶々の羽をもぐのと同じことだよ」
「なるほど、遊びだ。単なる遊びだな」
僕は納得した

「違うよ。お山の大将だよ。大将は腹を立てたらなんでもしていいんだ」
子供は真顔で反論する
「そうか、王様と奴隷を行ったり来たりだ
埋められる君は楽しいのかい?」
「誰がいちばん早く穴から抜け出せるか、競争してるんだ」
「穴の中で息もしないで、縄を解いて生還するんだ」
「下手すると死んじまうんだよ」
「生き返って埋めた奴に復讐するのが楽しみさ」

「そうだそうだ、もっともっと憎しみ合わなきゃ戦争にはならんぞ!」
僕は生前を思い出して怒鳴った
大将だと言った子供が泥爆弾を投げ付けた
「憎しみなんか必要ないね」
「お山の大将はお金持になるために作戦を生み出し
憎しみに駆られる兵隊を動かすのさ」
ほかの子供たちも大将を真似して
いっせいに泥爆弾を投げ付ける
僕はあたふたしながら逃げようとした
それでも捕まって穴に放り込まれ
上から土を被せられた
「近頃の子供は教育がなっていない!」
憤慨する僕の禿げ頭に土は容赦なく降りかかった…


肉腫

溢れる細胞たちが、暗黙のマニュアルに従って
極めて整然と ミケランジェロダビデを目指し
あるいはミロのヴィーナスに憬れて
理想のフォルムを創り上げようと努力しながら
どいつも方向を見失い 失敗し 諦念し
結局 納まりどころをわきまえつつ終息する
――抜きん出る必要はない 普通ならいいのだ 

しかしお前は異分子、破壊分子
反抗的に なぜゆえ醜悪を目指しているのだ
そうだ細胞たちは 民人が好む生き様であるような
坂の上の雲を見上げて 一生懸命努力しているというのに
反抗心を剥き出しにして こう叫ぶのだから
努力すれば報われるなんざちゃんちゃらくだらん迷信さ!
俺はそれを証明してやるのだ 運命の苛酷さを思い知れ!

まあいい できてしまったことは水に流そう
占領された民のごとく 大人しく…
というより侵略者は 水にも流れやしないふてぶてしさ
嗚呼これからは 死ぬまで育つお前と生きていくのだ
ハイエナないしはメフィストのごとく私の魂を狙って…
ならば むしろ私は醜悪なお前に愛着を覚えるというのが
少ない余生の処世術 

…嗚呼、片足に捕り付いた重々しい足枷よ…
いくらお前は醜いとはいえ権力者だ
私の従属物であるのに私を支配する
しかしかえって私の精神は浄化されつつあるのも事実だ
お前 赤々とした血肉と灰色の心を好む冥府の番犬よ
すべての邪悪はお前に吸い取られ
お前はそれを糧に 怪物のように逞しく成長していく
お前が育つほどに 私の解脱は進んでいく ごらんこの清貧さを…

けなげで優等な細胞たちは いよいよ照準を神の領域に定めたらしい
ごらんよ 私の心は透明な水をたたえる湖の
岸辺に戯れる小波にからかわれながら洗われて 
ほとんど透明に 神の心に迫りつつある
ギラギラとしたどす黒い油はすっかり流れ去り
小波に漂うクラゲのように限りなく透明になりつつある
オフェーリアが生きることを諦め 流れに身を委ねて笑いながら
現実から離れていくときのような…
――それは狂気の中の静けさだ…

奇譚童話「草原の光」
二十五

 で、楽ちんな乗り物が無くなっちまった。たちまち身の丈二メートル以上の草に阻まれて、これ以上の前進が難しくなった。それでもヒカリは草をかき分けながら前進していったんだ。ひょっとしたら大きな草食恐竜に出くわすかもしれない。だったら乗り物になってくれるだろう。でも必死に前進したけど、だんだん疲れてきたのさ。
 そしたら前方からザワザワドンドン音がしてきて、大きな草食恐竜がやってくるに違いないってみんな喜んだ。でも草の上から顔を出したのは、ティラノだったのさ。驚いたしがっかりしたけど、こっちには祖先帰り銃があるから、怖がることはなかった。ティラノもこっちに気付いたけど、ニヤニヤしながら低姿勢で話しかけてきたんだ。
「ああら、ヒカリ殿下じゃござんせんか」
「僕のこと知ってるの?」
「知ってるの知ってないのって、あなたはこの星の王様になるお方でございますから」
「僕が王様?」
「そうですよ。あなたはティラノ帝国の皇帝でございます。これから千四百億円かけて造ったヒカリ宮殿にお連れしますから、お背中にお乗りくださいませ」
 そう言うとティラノはヒカリに背中を向けて大人しくお座りした。ヒカリも疲れてたんで、お言葉に甘えてティラノの背中に乗ることにしたんだ。

 ヒカリと仲間が背中に乗ると、ティラノはさっそく歩き始めた。でも大きな頭が邪魔になって前方が見えないから、ヒカリはティラノの頭の上に登っていったのさ。ティラノの首は太くて短いから簡単に登れた。すると、前方に地べたに這いつくばって大きな口を開けたティラノが待ち構えてる。でも全身真っ白で、白いペンキを塗ったモニュメントみたいに見えるんだな。けど開いた口の中からギザギザの歯が見えたし、中がなんだか赤くてキラキラしてた。それでも、長いレッドカーペットが中からべろのように飛び出してる。で、ヒカリはティラノに聞いたんだ。
「あれは何?」
「あれでございますよ、お坊ちゃま。あれが地下宮殿の入口でございます。あの門構えは、我々ティラノのシンボルである口を表現しております。この星で最強の口でございます。ミサイルのような牙をご覧ください。この星で最強の牙でございます。多くの草食恐竜たちが毎晩のようにあの口を夢見てうなされ、オシッコを漏らしてガバッと飛び起きるのでございます。奴らにとってあれは、悪魔のシンボルでございます。しかし我々にとっては、あれはグルメのシンボルなのです」
「で、両横からチョロチョロ流れているのは?」
「ヨダレのようでヨダレではございません。地下水を排出しているのでございます。さあ、細かいことは気にせず、私が頭を下げますから、鼻から赤い絨毯にお降りになって、地下宮殿への栄光の道をお進みください」って言ってティラノは尻尾を上げ、鼻を地面に擦りつけた。なんだか分からないままヒカリは絨毯に降りて、そのまま栄光のレッドカーペットを歩き始めたら、ティラノが「エエイ、もう我慢できない!」って叫んで後ろからヒカリに食らいついた。ヒカリは騙されたと思ったが後の祭りで、一瞬で口の中に入っちまったものの、なんとか奥歯にしがみ付いたんだ。このまま胃袋に落ちたら溶けちまう。ティラノはヒカリを胃袋に落とそうと頭を左右に振ったけど、ヒカリは両腕と両足で必死にしがみつく。今度はヒカリを咬み砕こうと口をパクパク動かしたが、奥歯の咬み合わせが悪くて、上の牙と下の牙の隙間になんとか入り込むことができたのさ。

 すると突然宮殿の入口がむっくり立ち上がって、口から出ていたレッドカーペットを吐き捨て、「話が違うじゃねえか!」とティラノに向かって怒鳴りつけた。結局そいつもティラノで、顔も体も白粉を塗りつけてたんだ。で、今度は仲間どうしの壮絶なバトルになっちまった。両竜とも最初は口の大きさを誇示するために、牙を剝いて口を開けたまま、戦いの前の踊りを開始。踊りといっても、強さを誇示するように尻尾を上げ、頭やケツを振りながら左右に行ったり来たりを繰り返す。強さっていうより、ちょっと可愛さを感じたな。でもバトルになればどっちかが死ぬんだから、相手の頭が冷える時間を与えて、逃げるのを期待してるんだな。

 その間首の遠心力で、ヒカリは開いた口からうまい具合に草むらに飛ばされることができ、草葉の陰から観戦となった。でも噛み合いが始まると、さすがに迫力があったな。腕が小さいから、顔と顔がぶつかり合い、牙と牙の噛み合いだ。鼻と鼻がぶつかり合うと、鼻から血をドバッと出す。そいつがヒカリの顔にもかかったな。デカい頭で正面からプッシュしても、敵には尻尾があるからなかなか倒れない。だから、横に倒そうと頭をハンマーのように思い切り相手の顔にぶつけるんだ。ドンドンってすごい音さ。すると相手が怯んで少しばかり顔を背けたときがチャンスなんだな。すかさず隙のできた相手の太い首根っこに食らいつくってわけさ。でっかいづうたいで、けっこうすばっしこいんだ。
 そんなわけで、白粉野郎が運び屋野郎の首に食らいつき、牙をグイグイ肉の中に食い込ませていった。こうなると相手が倒れるまで、食らいついたまま顎の力をふり絞るんだ。そうすると運び屋野郎は呼吸ができなくて、だんだん意識が朦朧として、倒れちまうんだな。倒れちまったらもうおしまいだ。血の匂いを嗅ぎつけた小さな肉食恐竜どもがどこからともなく集まってきて、白粉野郎が倒れたティラノを食い終るのを行儀よく待つわけさ。

 で、白粉野郎は内臓をガッポリ食うと、口回りだけ赤くして満足気に顔を上げた。すると掃除屋どもが一斉に腹の穴に入り込んで、清掃作業を始めたんだ。白粉野郎はそれを横目で見ながら、地響きを立ててゆっくりどこかへ行っちまおうとしたんで、ヒカリは後ろから声をかけた。
「ちょっと待って。ティラノ宮殿の話は嘘だったの?」 
 すると腹いっぱいの白粉野郎は、うざいなって顔つきで答えた。
「ティラノが嘘つくわけないだろ。みんな王様になると贅沢になるんだ。お前だって絵本を見て、お姫様のいるお城に行きたいだろ」
「僕はそんな本見たことないな。僕の星には本なんてないんもん」
「じゃあ本物を見せてやるから、背中に乗れよ」

 そいで、みんなの反対を押し切って、ヒカリは白粉野郎の背中に乗ったのさ。で、仕方なくみんなも付いてった。それで頭まで登って前方を見ると、目の前に大きな宮殿が見えてきたんだ。でもそいつは趣味の悪い宮殿だったな。玄関の右に三匹、左に三匹薄ピンクのティラノが横並びして、小さな両手で大きな窓ガラスを立ててる。でもそのガラスから室内が見えるんで、ティラノが石の柱なのが分かるんだな。で、連中の頭の上にはティラノが山盛り乗ってて、尻尾を立ててる。連中は宮殿の屋根で、尻尾は尖塔なんだな。

 真ん中の玄関は、アプローチに向かってティラノの尻尾が庇みたいに飛び出てて、そいつが左右にゆっくり動いてんだ。雨除けのつもりなんだな。つまり、そいつのケツが入口になってる。だから両側の足はまっすぐ伸びていて、その上には体があるってわけ。通る奴はいつ体が落ちてくるか気が気じゃないけど、本物じゃなければ安全さ。

 白粉野郎は「降りろよ」って言うから、ヒカリは仲間たちを背負ってゴツイ尻尾から地面に降りた。それから長い赤絨毯のスロープを歩いて尻尾の根元まで来てから、上を見上げたんだ。すると尻尾の付け根の大きな窪みから「プーッ」って入城を告げるファンファーレの音がして、黄色いガスがヒカリの頭に振りかかってきて、それがすごい臭いなんだな。ヒカリは慌てて中庭に駆け込んだのさ。それを外から見ていた白粉野郎はゲラゲラ笑いながら、満足そうにどこかへ消えちまった。
 中庭は真四角で、真ん中にティラノの糞を積み上げたような噴水があって、天辺から茶色い水が吹きあがって丸い池に落ちてる。そいつがまた黄色い湯気を出してて臭いんだ。この噴水のあちこちから、草食恐竜たちの骨が飛び出てる。まるで土饅頭のお墓みたいなデザインなんだな。中庭を取り囲む壁もやっぱ外側と同じにティラノたちが窓を立てて並んでんだ。で、その窓にも宮殿の内部が透けて見えるのさ。それはすごく綺麗で、豪華なシャンデリアも見えるんだ。

 でも、ヒカリと仲間たちがあまりに臭くて、もう居られないって思ったんだな。もと来た道を引き返そうと思ってくびすを返したら、「おいこら逃げるのかよ!」って声がしたんだ。で、声のほうを見上げると、玄関で足を伸び伸びしてた恐竜が怒った顔して怒鳴ってんだ。きっと伸び伸びが苦しくて耐えられなかったんだな。両方の足柱がガタガタ震えだして膝がとうとう折れちまった。そしたら、宮殿は大きな音を立ててドミノ倒しみたいに一気に崩れたんだ。なんのこたあない。宮殿はティラノたちの組体操だったんだな。ヒカリは庭にいたから、押しつぶされることはなかった。でも、玄関野郎の大口が一瞬にしてヒカリを飲み込んじまった。ヒカリは奥歯にしがみ付くこともなく、唾液と一緒に、食堂を通って胃袋に落ちちまったのさ。

(つづく)

 

 

 

響月 光のファンタジー小説発売中
「マリリンピッグ」(幻冬舎
定価(本体一一○○円+税)
電子書籍も発売中 

#小説
#詩
#哲学
#ファンタジー
#物語
#文学
#思想
#エッセー
#随筆
#文芸評論
#戯曲
#エッセイ
#現代詩
#童話

#論考

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エッセー「メタバースでマリウポリを再興しよう」& 詩

エッセー
メタバースマリウポリを再興しよう!

 ロシアの進攻で、瓦礫と化したウクライナの町々が映像として目に飛び込んでくるようになってきた。僕を含め、多くの日本人が心を痛め、避難民をなんとか助けてやりたいと思っている人も多いに違いない。停戦に向けた話し合いは停滞していて、いつ実現するかの見通しも立たないまま、東部の港湾都市マリウポリではロシア軍の壊滅作戦が進行し、1カ月で5000人以上の市民が亡くなったとの情報もあり、16万人が人道危機に直面している。このままロシア軍が攻撃の手を緩めなければ、さらなる犠牲者が出て、都市全体が廃墟と化すのは時間の問題だろう。ピカソナチスによる人類初の無差別爆撃で廃墟と化したスペインのゲルニカ(1937年)を灰色の絵画で表現したが、それは20世紀を象徴する絵画と評されている。もしマリウポリの惨状をバンクシーのような有名画家が描いたら、それはきっと21世紀を象徴する絵画になるだろう。21世紀にもなってまたかよ!って感じで歴史は繰り返す、というわけだ。

 多くの専門家が、この戦争は長引くだろうと予測しているが、マリウポリが一時的にもロシアの実効支配下に置かれた場合は、それを取り返すには長い時間がかかることを覚悟しなければならない。仮にウクライナがすべての土地を奪還したとしても、ロシアはいままで自分が壊した外国の資産を賠償したことはないらしいから、瓦礫と化したマリウポリもそのほかの都市も、復興するまでに長い年月と莫大な資金を要することになる。

 当然、多くの民主国家が政府レベルでその援助に傾注するだろうが、いまの世界市民はインターネットで繋がっているから、個人レベルで友好的かつ有効的な援助ができるはずだ。例えばマリウポリメタバース空間(仮想現実空間)で復興するのも一案である。建設業界やエンジニアリング業界では、都市やプラントを岩だらけの沙漠や原野に造るとき、「グラスルーツ・プロジェクト」と呼ぶことがある。グラスルーツは文学的に「草の根」と訳されるが、この場合は草の根っこを掘り返す(一から)ところから始める建設という意味だ。

 このままロシア軍が横暴を極めると、マリウポリのすべての建物が瓦礫と化す可能性はあるだろう。そこにロシア軍が居座っても、ウクライナは自分の土地だと主張し続けなければならない。しかしロシア軍は頑として退かない。ならばウクライナは、ここは自分の土地だとメタバース空間で主張し、世界各国の人々に都市の再興を呼びかける。当然、呼びかける人も、空間を構築・運営する人間も日本の誰かでもいいし、日本の企業でもいい。マリウポリの現状を忠実に再現したベースを創り、参加者は仮想通貨を払って重機を購入し、まずは瓦礫の撤去から始めなければならない。「グラスルーツ・プロジェクト」の始動だ。重機メーカーや建設会社、資材会社も参入してくれよ、と願おう。彼らは復興支援には不可欠だ。恐らくマリウポリの市民が求めているのは、破壊前のマリウポリの姿だろう。ならば仮想空間でも、かつての姿に沿った建設が進んでいくことになる。

 多くの民間参加者(アバター)はボランティアとしてパンツ一丁で入り込み、最初にワークマンのような店に入って、仮想通貨で作業服や手袋、ヘルメットなどを買い込み、重機屋に行ってミニショベルのような重機も手に入れる。この世界で支払うすべての通貨は、ウクライナの復興資金に寄付されるのだ。当然のこと、賛同するウクライナ人はパスポートを表示すれば、支払いすることなくすべての道具を手に入れることができ、復興に参加できる。

 そうしてだんだん、かつての懐かしき我がマリウポリが再現されていく。多くの市民アバターが戻ってきて、かつて住んでいたマンションを見上げ涙するだろう。かつての部屋に入ると、玄関には下の画廊で購入したNFTアートが掛かっていて、それはボランティアからのプレゼントだ。もちろん、数人の仲良しボランティアが払った仮想通貨は寄付金に加えられる。各々の部屋には家具がないけれど、部屋の間取りはだいたい合っていて、彼らはさっそく無料チケットを手に、一階の家具屋に行って似た家具を見つけてくるだろう。花屋も再会したので、部屋いっぱいに季節の花を飾っていこう。

 ボランティアのアバターたちは、ウクライナアバターたちと兄弟のようになって、この美しい町に住もうと思うだろう。仮想通貨での日常生活が始まれば、購入した日用品の代金もすべて復興資金に寄付されるのだ。こうして、世界中から来たアバターたちが一定期間滞在して、賛同参入した店舗などで買い物をし、そのお金が寄付されて、復興資金はどんどん貯まっていく。ボランティアたちはウクライナに馳せ参じることもなく、アバターに汗をかかせながら復興に参加した喜びを得、完成したマリウポリの土地を買って滞在し、仮想空間の生活を体験し続けながら街の人々と兄弟になっていく。きっとお金持ちは高く土地を買ってくれ、復興資金も増えるに違いない。

 多くの企業が参加することになれば、支店ができて社内会議や顧客との商談も始まり、それらの費用も寄付金に加算されるだろう。マリウポリは仮想空間上の大きな商工業都市となり、それは現実社会との関係を深めて、将来的にはかつての香港のような仮想空間上の商業的窓口になるかもしれない。そこは戦争の対極にある人類愛の世界が広がる場所で、その頃にはウクライナも現実のマリウポリを奪還し、集まった資金で本物のマリウポリが蘇るに違いないし、そうしなければならない。メタバースはあくまで仮想空間なのだから。しかし、現実空間を助ける仮想空間の可能性を秘めた世界でもあるのだ。21世紀型の復興支援事業としてメタバースは可能性を秘めている、と僕には思える。



御膳会議

痩せたライオンのお父さんが言った
子供たちよ、お母さんたちを信じなさい
あいつらは立派な戦士なのだから
さあ、子供決意の標語を唱えなさい
痩せたライオンの子供たちは吠えた
欲しがりません獲るまでは!
そうだ子供たちよ、お母さんたちを信じなさい
そしてあいつらの凱旋を待つのだ
大きな敵を射止めてお前たちを迎えに来るぞ
痩せた子供たちは色めき立った
わあい、きっと大きなゾウだよ
いいや、シマウマのほうが美味しいよ
味ならイボイノシシさ
でもイボイノシシは小さいから
お父さんにみんな食べられちゃうよ
痩せたライオンのお父さんが言った
子供たちよ、お父さんを信じなさい
お父さんがまず考えるのは
行儀のよいお前たちのことなのだよ
たとえお母さんたちが
ウサギ一匹くわえて戻ってきても
それをお前たちが仲良く分けて食べるのだ
痩せたライオンの子供たちは答えた
わあいお父さんはやっぱ百獣の王様だ!

お母さんたちがヘトヘトになって戻ってくると
その中の一匹が小さな野ウサギをくわえていた
子供たちは驚いた顔してそれを見上げたが
痩せたライオンのお父さんは
大きな声でお母さんたちをなじった
なんだこのザマは!
それでもおいらの女房どもか!
それから獲物をサッと奪うと
痩せた子供たちの前でパクリと
一息に飲み込んでしまった…


デトックス
(戦争レクイエムより)

人類がいずれは滅びると予測される時間帯に
糞袋ほどはあるだろう弾頭が夕日とぶつかり合い
キラキラ輝きながらヒューという鏑矢の音を立てて
限りなく混濁した黄昏の暗黒宇宙に接するその先から
巨大なヒキガエルがいきんで落とした穢れある死の輝きを
疲れはてた同類の誰もが信じることができずに逃げまとい
ダンゴ虫の形相で泥の中に紛れ込み
猿どもは土くれと化すのだ

無駄な抵抗は止めたまえ!
怯えおののく心を伴侶に旅立つこともないだろう
死に行く者の片割れとしていささか自虐的に 
心穏やかに天空を睨みつけ、つかの間の未来を受け入れる
それは脈拍のリズムで刻んだ過去たちの走馬灯
子供の頃に夜空に散る花火を眺めたことを思い出し
胸ときめかせた幼心に戻って円らな瞳で見上げるのだ
滅びるときの感動は、生まれるときの感動に勝る

糞玉はとちったスカ玉みたいにばつの悪い顔をしながら
みるみる生気を失って、ほとんど空気に紛れ込み
頑なに目をつぶって向かってくるのだ
いったいどんな愚か者が粗相したの?
きっと猿のように莫迦な奴だと嗤いながら残された一瞬に
思い切り目ん玉を見開いて哀れな姿を眺めてやろう
ちっぽけな俺たちを消すのに、お前の図体は大げさすぎる
大柄な愛人が肩をすぼめるように
完璧な玉になろうとして自らを消し去り、空(くう)となった
お前は猿どもが捏造した地球、否、地球が捏造した猿どもだ!

すると抜け殻のように空しい伽藍洞に俺の思い出どころではなく
猿親父の思い出も、猿じいさんの思い出も、猿兄弟・猿親類の思い出も
猿友の思い出も、見知らぬ猿たちの思い出も、猿人も
ライオンもシマウマも、恐竜もアンモナイトもゲテモノたちも
魑魅魍魎すべての思い出がビックリ箱から飛び出した 

嗚呼、茶番な玩具の戦士たち…
お前、落書きのような似非地球…
能もなく回り続ける地球ゴマ
狂気に踊るガラクタどもを孕んで産んで
よく我慢できたものだ
風穴開けろ! 吐き出せ! 下せ! パンクしろ! 
ビルの屋上から哀れな通行人めがけて落下するように
糞玉はすべてを道連れに
蛆虫どもの後始末をお前に託すのだ
ならばお前にデトックスの喜びを味わわせてやろう
所期の計画は噴飯ものでしたが
育てたすべてが半端ものなら仕方ございません

さあ初期化だ、出直しだ!
ようこそリプログラミングの世界へ
放蕩息子の帰還を迎え入れる父親のように
穏やかな死に十字切る喜びの中
俺は両手を思い切り開いて彼奴をハグしよう
嗚呼お前、ペーパーアース
破れかぶれの静しさよ
すべての始まりも、すべての過去も、すべての未来も
不要なガラクタとして打ち捨てるのがお前の裁量なら…

 

今までの作品

 

響月 光のファンタジー小説発売中
「マリリンピッグ」(幻冬舎
定価(本体一一○○円+税)
電子書籍も発売中 

#小説
#詩
#哲学
#ファンタジー
#物語
#文学
#思想
#エッセー
#随筆
#文芸評論
#戯曲
#エッセイ
#現代詩
#童話

#論考

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エッセー 『片耳の大鹿』& 詩ほか


送る花

(戦争レクイエムより)

死んだ仲間たちの穴に花束を投げ入れよう
ネアンデルタールの人々がそうしたように
そしてその伝統を我々が引き継いだのなら
色とりどりの花を並べる店が消え去っても
雪解けの野辺に生える草の小さなつぼみを
涙で濡れた傷だらけの手で優しく摘取ろう
つぼみたちは常春の天国で力強く開花して
ほかの花々と目覚めた仲間たちを祝福する
猿どものしがらみから解放された愛の象徴
たとえ信じられない過酷な世界が襲っても
春が来れば花たちはつぼみを綻ばせるのだ
不条理な死を遂げた人々に野の花を送ろう
ただひたすら倹しく穏やかな来世を願って


無言歌
(戦争レクイエムより)  

まだ人々が生きていた少し未来のこと
彼らの祖先は大きな戦いを生き抜いて
死んだ者へのせめてもの償いを考えた
心の中の悪いもの汚いものを洗い出し
小さな胃袋に一つ一つ丁寧に積み重ね
剝き出た廃墟の上に一気に吐き出した
吐液は血色の瓦礫をじわじわと溶かし
永い間の風雨と風雪がそれに加わって
灰と血を混ぜた斑模様の土に変わった
血に飢えた兵士の迷彩服にも似ていた
それでも肥沃な土から植物たちは育ち
知らぬ間に深い森に変わってしまった
人々は昔起きた出来事をすっかり忘れ
朝には小鳥たちの歌声で目を覚ました
恋人どうしは愛を語り合うこともない
人々は語り合う言葉を失っていたのだ
彼らの心には美しいものだけが残って
それらは言葉などなくても通じ合った
小鳥のようにメロディアスにさえずり
最後は哀調を帯びたマイナーで終った
まるで古の悲しみを思い出したように 


エッセー
『片耳の大鹿』

21世紀にもなって考えられない?

 動物文学で有名な椋鳩十(むく はとじゅう)に、『片耳の大鹿』という作品がある。少年を含む屋久島の猟師たちが、片耳の大鹿が率いる鹿の群れを追って山の中に入っていくと急な嵐に襲われ凍て付き、近くの洞窟に避難する。するとそこに、数え切れないほどの鹿たちも避難していて、仲間どうしで温め合っていた。猟師たちは鉄砲を置いて裸になり、群れの中に潜り込む。人間と鹿は共に温め合って助け合い、嵐の後に傷付け合うことなく別れたという話だ。

 僕が中学一年のとき、この物語が国語の教科書に載っていて、宿題として読後感想文を書かされた。男子の多くは(僕も含めて)作者のことなんか知らず、これが作り話ではなくて本当の話だと思ったに違いなかった。当時から僕はひねくれ者だったのだろう。家に帰って再読してみると、感動的な話だとは思ったが、どうしても納得できない部分があった。最後に「人と鹿が共に助け合った」といったような文言があったからだ。

 数え切れない鹿たちの中にわずか数人の人間が加わったところで、それが助け合ったことになるんだろうか……。むしろ人間が鹿に助けてもらっただけに過ぎないのではないか……。ならば人間は鹿にもっと感謝しなければいけない。当時、独り合点の仲間ばかり見出していた僕は、この作者も独り合点に陥っているんじゃないかと思って、そんなようなことを感想文に書いて提出したわけだ。

 次の授業のときに先生は優秀な感想文を一点選び、朗読した。当然、感動物語の流れに掉さすような僕の文は選ばれなかったが、それでも最後に「こういった考えの人もいた」と概要を話してくれた。先生も、少しばかり引っかかっていたに違いないが、この物語の趣旨は「敵味方の助け合い」で読者に感動を与えることにあるのだから、その程度で僕も満足だった。これは小説だから名作だが、ルポなら鹿さんの意見も聞かなければならないだろう。きっと大鹿は「助けてやったんだから、もう二度と追わんといとくれ」とでも言うだろう。

 それから学年が上がるにつれ、僕の周りにはどんどん「物事を自分の都合の良い方に考える」独り合点の人が増えてきて、そうした連中と意見が食い違うと疎遠になることも分かってきた。自分の主張と意見の合わない人間はうざったい。一般に、独り合点は自己中心的な欲望が想念になったものが多く、欲望は独り合点の核とも言えるだろう。誰でも味わうのは、タイプの女性が自分のことも好きだと独り合点し、振られることだ。これはその女性の愛を獲得したいという欲望が、「彼女も俺を好きだ」という幻想を引き出したことによる無残な結末だ。

 赤ん坊は母親のオッパイを独占し放題だが、幼児になると保育園などで隣の子の玩具を取ったりするようになる。そのたびに保育士や母親などに叱られて、集団の中の振舞いを学習していく。けれど振舞いはコミュニケーション・スキルに過ぎない。「人の物を取ってはいけない」という思想も集団生活に不可欠な協調のためのスキルで、それは心の中心にあるエゴ(欲望)を覆い隠すオブラートを身に着けるための学習に過ぎないのだ。だからある狩猟民族は、「お前の物は俺の物。俺の物はお前の物」という共通認識で、平気で人の持ち物を漁ったりする。これはある意味で、習近平の「共同富裕」原始版とも言える。厳しい環境では個人が獲物を獲っても、みんなの共有物になってしまう。しかし王様の物になるよりかはマシだろう。王様は「お前の物も俺の物も、みんな俺の物」なのだから……。

 この「欲望」の開祖は、周りの原生生物を勝手気ままに取り込んでいくアメーバに違いない。人間はアメーバの進化系でないことを実証するために教育(社会教育)を受ける。その教育課程で術を完璧に会得した大人は、周りから好かれるようになり、高い社会的地位を得ることができる。そしてその地位の最高位が大統領だったり王様だったりする。しかし王様になって歯向かうものが誰もいなくなると、「欲望」を覆い隠すスキルは必要なくなる。中にはそいつをかなぐり捨てて、勝手放題しまくる暴君も出てくるわけだ。なぜなら「人の物を取ってはいけない」、「人を殺してはいけない」という道徳律は協調のためのコミュニケーション・スキルなのだから(たとえ宗教でも)。王様は思い付いたまま上意下達をすればいいわけで、下々の者との意思疎通は必要ない。

 しかし、先ほど片思いで振られる男の話をしたけれど、アメーバと人間の違いは、この男が単に肉欲だけではなく、彼女を想うという精神的な「愛」を感じ、相手の女性にもそれを求めていることなのだ。たぶんこの「愛」は、弱い立場の赤ん坊が授乳によって育まれた「愛着」のようなものかもしれない。それはオッパイでなく哺乳瓶でも同じことだ。空腹を満たしてくれる者への愛着は、保護された野生動物が飼育係に抱く愛着と等しいものだろう。赤ん坊はそうして愛を身に着け、「欲望」の周りを包み育んでいく。つまり、オブラートは「愛」と「スキル」の二層構造になっていて、それが諍いの抑止力となる。恐らく「愛」の層は「スキル」の層よりも強靭にできているし、ルソーの『エミール』みたいに、正当な教育で磨かれ、鋼のように光り出すかもしれない。きっと暴君のオブラートは何らかの理由で「愛」の層が薄く弱いため、かなぐり捨てるときにスキル層と一緒に剥がれ落ちてしまうのだ。だからわずかに残っている場合は、「鬼の目にも涙」となって周囲を驚かせる。

 しかし世の中では、多くの欲望が感情となって物事を動かしていくのが一般的だ。社会は欲と欲がツタのように絡み合う世界だ。エミールのように利発な子なら、いろんな人と交わりながら成長していくと、似たような独り合点の人々が集まって仲良しになることも分かってくるだろう。そして大人になると、そういう人たちが仲良しクラブや社交界、何々派なども形成していく。そうした固まりは個々の欲望でドロドロとしているのがお決まりだが、その中から必ず強い上方志向の人が出てきて、固まりをピラミッドの形に整えていく。会社でも政治でも、派閥というものはそんな経緯でピラミッド型に出来上がったものだ。こうなるともはや独り合点は集団合点に発展し、同志集団の理論(派閥の論理)というものになっていく。独り合点が集まると、水に落ちた油のように丸く固まり、かき回されて分解するのを恐れるあまり、外皮が硬くなる。派閥は会社だったら地位、国政だったら権力に関わってくるもので、自分たちの地位や権力を守るために違う考えや異派閥を排除して、会社や国の頂点を握ることになる。その過程で集団の論理はエスカレートし、政敵の暗殺なども平気で行われるようになる。(もちろん派閥の論理には高邁な思想もあるだろう。)

 これは「民族」にも当てはまるだろう。社会や集団の中でそれぞれの独り合点がまとまらないと、各々勝手なことをやり始めて、無秩序状態(アナーキー)に陥ってしまう。これを避けるために、太古からリーダーは宗教や共通言語をはじめ、人種的・地域的起源、伝統、歴史などを利用して、地域内の人々を取りまとめてきた(時には力で)。だから「民族」には長い歴史があって、民族の「尊厳」も醸成され、人々の「私は何なのか?」というアイデンティティの柱にもなっている。たとえ彼らの中で意見のまとまらない事態が起こっても、欲と欲がぶつかり合う事態が起こっても、民族という大きな外壁を壊すことがなければ、ある程度のまとまりは維持できたわけだ。つまり今日にいたるまで、民族は集団をまとめる重要な要素としての力を失っていない。そしてこの「民族」は、時たま独り合点で暴走する。

 その結果、長い歴史の中で侵略戦争が繰り返され、民族も内部分裂しながら次第に多民族国家が形成されていく。中国やロシア帝国のように異なる民族や宗教が混在した場合もあるし、アメリカのように、新大陸に英・仏を中心にヨーロッパのいろんな民族が植民地をつくり、先住民族を駆逐して一つの独立国家になった場合もある。そうした多民族国家の政府が国民をまとめる上で最大の障害となるのが、この「民族」でもあるのだ。国家の歴史や人口比率、軍事・経済力などで次第に民族間の優劣が決まっていき、軋轢が生じるからだ。マルクスの『資本論』でネックとなったのもこうした個々の民族で、その結束力は労働者階級の広範な団結力を凌駕していた。

 だからロシア革命ソビエト連邦が出来たときも、広大な領地をまとめるために中央集権化して数で勝るロシア民族の地に政府を置き、そこの役人がいろんな構成国に派遣され、地元の長を追い出して指導にあたり、宗教を弱体化させて共通言語としてロシア語も強制していった。党指導部はロシア人ばかりではなかったが、最多民族であるロシア人をないがしろにするわけにはいかなかった。つまり数で勝るロシア人は、いまの中国の漢民族的存在で、帝政時代もソ連時代もその優位性を謳歌してきたというわけだ。それはヤクザ社会とさほど変わりがないだろう。

 親分子分は結束力があっても、基本的には支配・被支配の関係だ。親分の独り合点が上意下達となり、子分は従わなければならないから、親分の身代わりで刑務所に入ることになる。それが嫌なら、子分は足を洗うか逃げるしかない。その二大親分がワルシャワ条約機構ソ連であり、世界の警察官と言われていたアメリカで、地球という島を分け合っていた。だからソ連の国民はみんな親分気分になっていたし、世界の警察官を放棄したアメリカ国民だっていまだに親分気分に浸っている。その優越意識は「聖なるロシア」や「アンクル・サム」のような象徴的な言葉や絵で美化されがちだが、外国人がそんな国で暮らせば、きっと鼻についてうんざりするだろう。ソ連が解体すると、その親分気分はロシア人が引継いだ。だからかつての子分どもを再び呼び寄せ、支配したがるわけだ。子供で言えば、ガキ大将とその取り巻き連中の心理だろう。ガキ大将は腕力で子分を繋ぎ止めようとする。そういえばプーチンも少年期はガキ大将だったらしい。いまウクライナで起こっていることは、ガキ大将が離れた子分の腕を捩じ上げ、再び子分になれと脅している状態だ。

 ロシア人はウクライナ人を同一民族と思っているが、ウクライナ人の多くは思っていない(※1)。ウクライナ東部紛争へのロ軍介入やクリミア併合の前までは親近感もあったろうが、所詮同等ではなく親分子分の関係だった。スターリン時代には親分風を吹かせて、ウクライナ人から豊富な農作物を取り上げ、「ホロドモール」と呼ばれる大飢餓の辛酸をなめさせている(スターリンジョージア出身だが)。そのロシア人優位の体制をゴルバチョフがあっけなく崩し、ウクライナをはじめとする子分どもも去っていった。ソ連時代の親分気分をソ連崩壊後のロシア人はいまだに持ち続けているから、「強いロシア」と言ってロシア帝国の再生を目論むプーチンのような暴君が支持されてきたのだろう。「強いロシア」や「大ロシア主義」はロシア人の集団幻想(独り合点)とも言える。

 ふつう「強い国」になるには、軍事力と経済力が必要だ。しかしどちらかに力を注ぐと、どちらかが疎かになる。国の予算は限られているからだ。中国は一先ず経済力で世界を席巻し、いまは不足していた軍事力の増強に取りかかっている。ロシアの場合は軍事大国だが経済後進国だ。プーチンはその解決手段として、化石エネルギー供給国家としての優位的ポジションを追い風に、まずは軍事力で領土を拡大(失地回復)し、その基盤を生かして経済力を高めようと思ったに違いない。対外貿易でも軍事力で優位に立ち、それをバックに外交を巧みに行って良い条件を引き出すのがプーチンの常套手段で、彼の独り合点が政府の集団合点となり、上意下達による独善的な侵略に走ったわけだ。

 以前、「サハリン2事件」というものがあった(2006年)。サハリン2(※2)はサハリン沖の天然ガス・石油開発プロジェクトで、日本を含む投資会社はすべて外国企業だ。投資会社が投資額を回収するまではロシア政府には利益の6%しか入らない契約内容だった。ところが完成間近になって、政府はその工事承認を「環境破壊」を理由に突然取り消したのだ。これはロシア企業を参入させるための口実で、結局事実上の国営会社が権益の半分を横取りし、完成に至った。いまのウクライナ戦争とそっくりなやり口だ。「環境保護」が「ロシア系住民保護」に変わっただけの話だからだ。この事件で外国企業がロシアへの投資を控えるようになったのは当然だが、昨今のエネルギー価格高騰化で資金も潤沢になり、供給者として優位性も確立したので、いまがチャンスとばかりにウクライナに踏み込んだのだろう。ロシアの常識は世界の非常識というわけである(もっとも20世紀前半まではロシアの常識が世界の常識だった)。

 話を『片耳の大鹿』に戻そう。これから後は、僕の勝手なルポ的こじつけである。嵐が過ぎ去ったあとに鹿が猟師を襲わなかったのは、鹿が本能的に逃げる動物だからだ。きっと猟師が鉄砲を拾って一発でも放てば、パニックをきたして怒涛のごとく逃げただろうし、猟師たちは群に踏みつけられてケガをしただろう。しかしそれは故意ではない。鹿が猟師に角を向けるとすれば、逃げられないと覚悟したときだ。一方猟師のほうは人間的な感情に支配され、鹿に鉄砲を向けなかった。仮に猟師がライオンだとしたら、どれか一匹に襲いかかって仕留めたに違いない。ライオンは本能的に追う動物なのだから。

 鹿が逃げなかったのは、猟師が満腹のライオンのように襲う気がないと本能的に判断したからで、大人しく猟師たちが去るのを待った。反対に猟師が鹿を撃たなかったのは、鹿を擬人化してしまったからだ。一時的でもあれ大鹿に人間的な尊厳を与えてしまったため、引き金を引けなかった。彼らは大鹿に敵将を見ていた。だから共に助け合ったことを思い出し、敵(獲物)に塩を送ったわけだ。

 しかしこれは、あくまで猟師の一時的な気の迷い(感情)に違いない。猟師は鹿を殺すことによって、その肉や角や毛皮を売って生活している人々だ。猟師にとって鹿は食いぶちであり、鹿にとって猟師は捕食者ということになる。動物愛護法がなかった時代には法的規制もなく、猟師は自由に狩りをすることができただろう。猟師にとって鹿は生活の糧なのだから、家畜と同じに鹿の尊厳などは認めていないことになる。だから猟師が目の前の鹿を撃たないときは、乱獲で資源が無くなることを恐れたからか、あるいは「憐れみ」という気分的な感情がよぎったからだ。人間にとってそれが気分的なものに過ぎないのは、仮に動物愛護法などで動物の尊厳が認められたとしても、鹿が増えれば「環境保護」の名目で間引きされるし、鶏舎に鳥インフルエンザが流行れば、鶏たちは生き埋めになるのが常識だからだ。そこには動物の尊厳など存在しない。(僕は反対してるわけではない。鹿一匹が幹の皮の一部を一回り食っただけで、根からの水分が滞り木は枯れる)

 『世界人権宣言』は、大戦後の1948年に国連総会で採択された。その第一条は「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利について平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」となっている。しかしこの文の「尊厳と権利」は人間どうしが認め合うもので、当然だが動物に対して言及したものではない。なぜなら「尊厳」は人間だけで手一杯だからだし、なによりもこの「尊厳」は抽象概念で、人々の感情で支えられているものに過ぎないからだ。『世界人権宣言』の作成者には悪いが、これもまた「知識」というコミュニケーション・スキルの一部に過ぎない。

 この宣言は、第二次世界大戦の反省から作られたものだ。もしコロナ禍の中で人間の「尊厳」が踏みにじられ、感染防止を名目に感染者が鶏のように殺処分されたらどうだろう。そんな馬鹿げたことはどこの国もやらないと思ったら大間違いで、大戦中には民族浄化という名目でユダヤ人が同じ目に合っているのだ。彼らはナチの宣伝工作により、尊厳をはく奪されて畜群に貶められた。この時ユダヤ人一人ひとりの名前は、腕に彫られた番号に変わった。鹿の一匹一匹に名前がないように、牛の耳に番号タグが打ち付けられるように……。しかしドイツ人の中にはシンドラーのように、ユダヤ人の尊厳を守ろうと努力した人もいたし、そう思いながらもゲシュタポ(あるいは保安隊)が怖くて行動に移せなかった人もいただろう。一般市民が危険を冒してまで立ち上がる場合は「自身の窮状」による場合がほとんどで、その点からもロシアの若者たちの反戦行動には敬意を表したい。インターネットで世界と繋がる彼らは、世界中が発信する「21世紀にもなって考えられない」といった唖然とした感覚を共有している。

 人間を含め、世の中の多くが利害関係で成り立っている。社会が劣悪な状況に陥ると、国民の感情的な不満を逸らすために、政府は「得をしている奴は誰だ」と犯人捜しを始め、ナチスユダヤ人に白羽の矢を立てたわけだ。この手の残虐行為はその後もたびたび起こっていて、いまもウクライナで目の当たりにしている。戦争は昨日の友を鬼畜と見なし、その尊厳や人権をはく奪する行為なのだから……。

 人は強い目的を持ったとき独り合点のバイアスが高まり、達成のためには冷酷なことも平気で実行する。種痘法を開発したジェンナーが使用人の子供を実験台に使ったときも、多くの人を救うために同意も取らず、子供の尊厳を無視したのだろう。しかし歴史的には医学的英雄だし、これに関して我々も深くは考えないようにしている。

 「尊厳の無視」について言えば、「強い目的」というのはどんなものでも「 」の中に入れることができ、その結果は対象者の命や尊厳をはく奪する意味で一つになる。ジェンナーは「名声」だとか「天然痘の撲滅」、厚生機関は「鳥インフルエンザの撲滅」だとか、例えば「ハンセン病の撲滅」だ。恐らくプーチン皇帝は「ロシア帝国の復活」だろう。ロシア国民の生活を豊かにするためか、自分の夢を実現するためかは知らないが、他国の人々の血を流し続けている。しかしその結果次第では、ロシア民族の英雄になる可能性だって残されている。太平洋戦争で日本が勝利すれば、東条英機も英雄になっていただろう。歴史がどう流れていくかは誰も分からないし、評価を下すのは時代時代のご都合主義(国民的感情)だ。

 地球という弱肉強食の世界では、利害関係に決着を付ける唯一の手段は「力」だった。しかし第二次世界大戦の苦い教訓から、まがりなりにも世界がまとまって国連が設立され、『世界人権宣言』も採択されたのだ。しかしこれは、本能的な「力」の世界に対峙する抽象的な「理念」の世界で、風のようにクルクル向きが変わる「人心」を手なずけるまでにはいたっていない。人々はいまだに「ブーム」やら「ムード」やらに乗って揺れているのが現状だ。しかしこの宣言は、侵略軍に対抗する義勇軍の御旗(シンボル)にはなり得るものだ。正当なシンボルの下には、人々を結集する力がある。

 いまウクライナで起こっていることを、「21世紀にもなって考えられない」と思う人も多いが、それもきっと世間のムードには違いない。中国総領事の「弱い人は強い人に喧嘩を売るな」発言が顰蹙を買っても、無法の世界ではそれが当たり前のことだし、少なくとも地球はいまだに無法地帯であり続けている。ある意味で、彼は本当のことを言ったのだ。それを非難する人々は感情で終らせず、そうした発言が場違いなものとなるような世界を創る努力をするべきだ。国連を抜本的に改革しない限り、人々が夢想する21世紀にはなり得ないのだから。皮肉なことに、国連は「一番強い親分」にならなければならない。

 この難局を解決する唯一の方法は、しかし「21世紀にもなって考えられない」という単純な驚きであることも事実で、この感情を起点に加盟国の国民が国連改革のウェーブを起こすことにあるのだと思っている。特に常任理事国の国民にそれは求められる。スローガンは単純なもののほうがいいだろう。プーチンによって尊厳や人権を踏みにじられ、命まで奪われたウクライナの人々の心を、世界の人々は共有し始めている。ロシア人の中にもその感情は徐々に広がってきているのだとすれば、その高まりをさらに大きなものにしていかなければならない。もちろん、難しいのは承知の上で言っている。なぜなら、それ以外に方法はないと思うから……。

 しかしロシアや中国の政府が国連改革に乗り出すかというと、それも厳しいのが現実だ。権威主義国の政府はもとから国民を抑圧しているのだから。ならば別の国連的組織を創ろうという考えもあるだろうが、そうなると民主主義陣営と権威主義陣営がますます分断し、新冷戦はエスカレーションするだろう。唯一の望みはSNSなどを使って、まずは民族だとか国家だとかを覆っている強靭なセルなり囲いを崩し、その切れ目から人々があふれ出し、「平和」の旗印の下に結集・融合した地球規模の運動を起こすことだ。当然そのパワーは、国粋主義者や自分優先主義者たちのパワーを上回るものでなければならないだろう。彼らは伝統的に侵略戦争に勝利すると熱狂する人々で、アメーバ族の末裔だ。

 プーチンはこれから、国内をはじめ世界中の人々を敵に回さなければならない。その追い風となるのがインターネットで多くの人が共有する「21世紀にもなって考えられない」という感情に違いない。この感情は純朴だが、「人類は進化すべきもの」という信念が含まれているし、具現化できるのは信念を持った「願い」のパワーだけだ。人間は、信念で願望を実現することができる動物なのだ。当然のことだが、その願望は「平和への願い」で、プーチン宮殿のような個人的欲望ではない。

 動物を狩るのが猟師の仕事なら、人を狩るのが兵隊の仕事だ。祖国を守る英雄的な仕事も、他国に攻め入る理不尽な仕事も、仕事内容からすれば変わりがない。そこには人と人が殺し合う殺伐とした風景があるのみだ。しかし、ウクライナ兵とロシア兵の感情は異なるに違いない。ウクライナ兵の心は祖国の国旗色に染まっている。一方ロシア兵の心は、「俺は何なのか?」というアイデンティティに関わる疑問符で混濁しているに違いない。平和を求める地球規模の願望がロシア兵の心を浄化し、服従的な仕事感情を吹き飛ばしてくれないかと祈るばかりだ。彼らの心にも欲望の苦味を包み込む「愛」というオブラートは存在するのだから……。

(※1)ウクライナには多くのロシア系住民(約17%)もいるが、多くがプーチンに批判的だ。ロシアでは「ルースキー・ミール」(ロシアの世界)という概念が盛んらしいが、これはソ連時代に周りの共和国に移住したロシア人の帰属意識を利用して、かつてのロシア帝国を復活させようとするもの。プーチンはルースキー・ミール基金を2007年に設立している。軍事介入に使った「ウクライナのロシア系住民を守るため」というプーチンの口実は、ルースキー・ミールの考えを具現化したもので、根強い民族的感情を侵略に利用する典型的なやり口だ。
(※2)今回の戦争で、日本ではサハリン2からの撤退が議論されている。撤退すると、液化天然ガス輸入量の約7%が失われる。政府は撤退しない方針を示したが、アメリカの圧力で今後どうなるかは分からない。日本が利権を放棄すれば、そこに入り込むのは中国だろう。

(注:このエッセーは文芸批評ではなく、また特定の職業を批判したものでもありません。)


奇譚童話「草原の光」
二十四

 ヒカリはトリケラトプスの背中に乗って、茫々とした草原を進んでった。ヒカリも仲間も彼のことをケラドンと呼ぶことにしたんだ。ケラドンの歩いた後は長い草が倒され、後ろから小型恐竜たちが大勢付いてくる。ヒカリの頭でとぐろを巻いてたスネックは、「どうして君たちはティラノにならなかったんだい?」って聞いてみた。どう見てもカメレオーネとそれほど変わらなかったもんな。
「そりゃ俺だってティラノになりたかったさ」って体長一メートルのエオラプトル。
「もらった設計図に大きさが書いてなかったのよ」って五十センチのミクロラプトル。
「俺たちは騙されたのさ」って六十センチのコンプソグナトゥス。
「でもなんで恐竜になりたかったんだい?」
 ヒカリの肩に乗ったジャクソンが聞いた。
「カメレオン・コンプレックス」って三メートルのデイノニクス。
「なによそれ?」ってハンナが聞いた。
「体の小さい奴が大きな奴に抱くコンプレックスさ」って一・五メートルのベロキラプトル。
「で、君たちはなんで僕たちの後を付いてくるの?」
 ヒカリは後ろを振り向いてたずねた。
「そりゃ、あんたらの後ろにいれば、ダンプ野郎に食われることはないからな」
「それに大型がミンチになったら、そいつを食おうと思ってるのさ」
「それじゃあカメレオーネに戻っちゃうぜ」ってジャクソンが言うと、「今まで仲間が食われてきたんだから、食い返したいだけの話さ」ってな答え。
「それに、大型連中が闊歩するよきゃ、みんなカメレオーネに戻ったほうがマシさ」ってベロキラプトルが言うと、「マジかよ!」ってデイノニクスが驚いた。
「みんなカメレオーネに戻って、なにが楽しいんだ? いろんな恐竜がいるからこの星は楽しいんだぜ。いろんな大きさの恐竜が食ったり食われたりしてっから、この星は活気があるんだ。とくに小さい俺たちは、いつ食われるかって戦々恐々と生きてるから、体も鍛えられて元気なのさ。敵がいなくなったら、腹なんかボテボテになるに決まってんだ」

 すると突然、強烈な腐臭がして、小型恐竜たちは色めき立った。
「おい、ごちの匂いがするぜ!」
 コンプソグナトゥスが叫ぶと、「たまらないわ!」ってミクロラプトルも叫んだ。
 百メートル先にトリケラトプスが倒れてて、デカいハエがいっぱいたかってんだ。ティラノはトリケラを倒して、腹に嚙り付いたんだな。腹の中身が無くなってる。残りものでもトカゲどもはキャッキャッ叫びながら駆け出して、小さい奴はすばしっこく傷口から腹の中に入って、内側からリブロースを食い始めたし、デイノニクスとベロキラプトルは入口付近でケンカを始めたけど、結局体の大きいデイノニクスが勝って腹の中に首を突っ込んだ。ベロキラプトルは悔しくってデイノニクスのケツに思い切り噛り付いたから、奴は驚いて、脳内の緊急避難用スイッチを押しちまったんだな。とたんに自慢の長いしっぽが根元からポーンと十メートル飛んで、大きなミミズみたいにのたうち回っていやがる。ベロキラプトルはしめしめと、そいつに飛び掛かって捕まえると、くわえて藪の中に逃げちまった。デイノニクスはケツの上から血を流しながら、血に染まった頭を外に出してキョロキョロしてたけど、どうでもいいとばかりにまた首を突っ込んで、食うことに専念したんだ。ケツの痛さなんか、熱中すれば忘れちまうのさ。それに恐竜は痛さに鈍感な連中が多いんだ。

 で、「あれは君の仲間かい?」って、ヒカリがケラドンに聞いたら「俺の兄貴さ」って涼しい顔で言うんだ。トリケラトプスの涼しい顔ってどんな顔なのかってえと、さっき小さな眼でちょっと見たっきり、もう死体に見向きもしなかったから、関心がないってことはヒカリにも分かってたんだな。で、みんなは兄貴を横目で見ながら先を急ごうとした。
「君は悲しくないの?」
「悲しい?」ってつぶやいて、ケラドンはほんの二秒黙ってから、ハハッて笑い飛ばしたのさ。
「だって、お母さんのオッパイを一緒に吸った仲なんだろ?」
「仲だって? おいらと奴は、母ちゃんのオッパイを争う敵なんだ。この星じゃあ大きくならないと生き残れないのさ。だからおいらは必死になって吸った。おいらは兄貴に勝ったのさ。それが証拠に奴はおいらより小柄だろ。だから大型野郎に蹴とばされて腹を出し、急所をガブリとやられちまった。おいらが余計にオッパイ飲んだから、育たなくてあのざまさ」
「だったら可哀そうだとは思わないの?」ってハンナ。
「可哀そう? カメレオーネの多くが王様になりたくって、そいつらみんな恐竜になったんだ。ティラノは恐竜の王様さ。だからティラノになりたかった。けど、どんな恐竜になるかは分からなかった。ベジタリアンだなんて、おいらの親父は貧乏くじを引いちまったのさ」
「分かった、君の親父は仲間の肉が食いたかった!」
 スネックが鎌首をもたげて叫んだ。
「おいおい、よしてくれよ。みんな退屈だったんだ。分かるかよ。退屈なんだ。昼間は一日中草食って、夜になったらお寝んねなんてさ。それに、逃げることにも飽きたのさ。分かんないけど、違う自分になりたかった。みんなが手を叩くような自分だ。みんながビックリするような自分だ。みんなが怖がるような自分だ。みんなが逃げるような自分だ。冒険家だ、探検家だ。王様だ。おいジャクソン、君はカメレオーネだから分かるだろ?」
「分からないな。僕は王様なんかになりたくないもん」
 ジャクソンはつまらなそうに答えた。
「エッ、君はひ弱なカメレオーネが好きなんだ!」
「だって僕はカメレオーネだもの……」
 ケラドンはヒューッと口笛を吹いた。
「でもあなたのお父さんはカメレオーネが嫌だった」ってハンナ。
「だからおいらも嫌なのさ。親父の血を継いでる。親父は強くなりたかったんだ。これは男の本能さ。男はみんな戦士なんだ」
「でも僕たちは、この星の恐竜たちをカメレオーネに戻そうとしているんだよ」
 ヒカリが言うと、ケラドンはヘヘヘと笑い飛ばし、「おいらを食う奴らだけ戻してくれよ」ってうなるように訴えた。
「それじゃあ、不公平だよ」ってスネック。
「みんなカメレオーネに戻らなきゃ不公平だわ」ってハンナ。
「じゃあこうしよう。入れ替えだ。草食恐竜は肉食恐竜になり、肉食恐竜は草食恐竜になる。いままで威張っていた奴が入れ替わるんだ。これなら公平だろ?」
「いいアイデアだね」ってスネック。
「でも、あなたはティラノじゃなくて、あの連中みたいなちっこい肉食恐竜になるかもしれないわ」
「それでもいいさ。ティラノになる可能性があればな。人生は賭けだもの」
「でも残念でした。祖先帰り銃はカメレオーネにしか戻れません」ってジャクソン。
「そうかなあ。カメレオーネの祖先はいったい何なんだ?」
「さあ、何だろう……」
 ヒカリはつぶやくように言った。
「きっと恐竜に違いないさ。だったら、カメレオーネの十倍の過去を設定するんだ」
 ヒカリは祖先帰り銃のダイヤルを十回回してみた。
「さあ、試しに撃ってみろよ」

 みんなケラドンから降りて、ヒカリは魔法にかかったようにケラドンめがけて銃を発射したんだ。そしたらケラドンはみるみるミンチになってミンチの山の上からカメレオーネの頭がひょっこり出た。で、みんなはほれ見たことかってゲラゲラ笑ったんだけど、それで終わったわけじゃなくて、カメレオーネはミンチをガツガツ食いながらどんどん大きくなっていき、最後にはティラノより大きいスピノサウルスになっちまった。で、腹が減ってたらしく、すかさず小型恐竜ともども兄貴を丸吞みして、「あばよ!」ってすたこら逃げていきやがったのさ。奴は泳ぎが好きだから、きっと湖のほうへ行ったんだな。

(つづく)

 

 

 

響月 光のファンタジー小説発売中
「マリリンピッグ」(幻冬舎
定価(本体一一○○円+税)
電子書籍も発売中 

#小説
#詩
#哲学
#ファンタジー
#物語
#文学
#思想
#エッセー
#随筆
#文芸評論
#戯曲
#エッセイ
#現代詩
#童話

#論考

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エッセー 「人間は感動を操る動物である」 & 詩

エッセー
「人間は感動を操る動物である」

 

 もし僕が大病に罹って医師から余命宣告を受けたとすれば、いままで生きてきた過去を振り返って、感動した出来事を一つひとつ思い出すに違いない。苦い思い出ばかりを振り返れば、来世が期待にそぐわない場合は二度失望することになる。しかし良い思い出なら、来世と現世の比較も容易にできる。来世が現世よりも良かったら嬉しいし、良くなかった場合でも失望は一度だけで済み、良い思い出を来世に持ち込んで慰めることができる。旅行バッグに良い思い出ばかり詰め込んで死を迎えたいものだ。嫌な思い出を脳味噌から追い出して、すっきりした気分で死を迎える。もちろん地獄のことなど考える気はさらさらないし、僕的には来世そのものがなくても構わない。永遠の無が続くのなら、こんな陰気なことを考える無駄も省けるだろう。

 

 そうして僕は死ぬ気になって、来世があるものと一応仮定し、感動したことや印象に残ったことなどを思い出してみる。すると、すべてが「生」に関するものであることに気付くのだ。僕は宇宙飛行士でも冒険家でもないから、月面にもヒマラヤの高峰にも、カラハリ砂漠にも行ったことはない。だから生のない世界に感動したことはない。火星に降り立つ宇宙飛行士はその偉業に感動するだろうが、きっとその感動は長続きせず、次からは火星にいるかもしれない生物を探し始めるに違いない。なぜなら地球人は、それが自分に危害を加えないかぎり、生きとし生けるものに感動し、慈しんできたからだ。

 

 僕が真っ先に思い浮かべた感動は、ギリシアで海に沈む夕陽を眺めたときのことだ。スニオン岬には古代のポセイドン神殿が建っていて、金色の光が朽ちた石柱に降り注いでいた。周囲には多くの男女が肩を寄せ合って海に沈む太陽を見続けている。太陽を神とする宗教は世界各地にあるが、僕はそのときその理由が分かったような気がしたのだ。この太陽が生命の源であり、その光がなければエンタシスの神殿も、愛を語り合う恋人たちも、老人に抱かれた小犬も、周りの草や虫たちも存在しなかった、と……。※1

 

 もちろん「もう一人の主役を忘れちゃいけないぜ」と、金色に輝く海の底でポセイドンが主張するだろう。地球に海がなければ、丘に上がった生物すら干物になってしまうのだから。つまり、この感動的な岬には「生」の頂点を極めた人類と、それが築いた偉大な文明と、それらを育んだ太陽と大洋が勢ぞろいしていたことになる。あの光景は、きっと生命の星である地球のエッセンスが凝縮したものだったに違いない。

 

 次に思い浮かべたのは、スイスのサンモリッツで、尾根に咲く高山植物を見たときに湧き上がった感動だ。しかしそれは「咲き乱れる」とか「百花繚乱」とかいう言葉とは対極にあるような群生だった。一センチにも満たない小さな花たちが、微風の中で微かに揺れながら、汚れのない美しさを慎ましく表現していた。色合いは様々でも、自然でしか表現のできない印象的な特徴で統一され、見る者に感動を与える。それは、浄化された空気を透過した陽の光が小さな花びらをも透過したときに生じる透明感だった。このときの陽光は、スニオン岬に燦々と振り注いだ姿ではなく、汚れのない空気と瞬時に混じり合って同化し、すべての色調を捨てたメディウムを演じていた。天上から降り注ぐピュアな光が、赤や黄や青の小さな花びらに、この世のものとは思えない不思議な清らかさを幻出させている。光を求めて外に出た印象派の画家たちが夢想し、展色剤やニスを駆使しても再現できなかった究極の透明性を、そこに見たような気がした。

 

 僕はそのとき、この世にないものを見たときの泣きたくなるような愛おしさを感じたのだ。長子を得た父親が妻の横にスヤスヤと眠る赤ん坊を見て、そんな感動に陥るかもしれない。あるいは史上最強のストーカーであるキングコングが、手中の金髪美人を眺めて臭い息を吹きかけ、そよぐ髪の毛に感じるものかもしれない(蛇足)。僕はそのとき以来、花屋の色とりどりの切花にも、園芸植物にも、バラ園にも、ダリア園にも、ほとんど興味を示さなくなった。ただ散歩しながら、時たま道端の雑草が咲かせる小さな花たちを眺めているが、いかんせん透明感がない。残念なことに、陽光が汚れた空気と瞬時に同化して、濁った光を花びらに投げ付けているのだ。それでも、きっと天上の世界には、あのとき見た花園があるに違いないと思っている。天に昇れたらの話だが……。

 

 さあ、僕はこの二つの思い出をリュックサックに入れて、いさぎよくあの世に旅立とう。こうしてみると、僕が感動したのは人間ではなく、自然の景色やら文化遺産やら昔の美術・音楽だったりするが、そもそも感動したというのも大袈裟ではないかという結論に至り、感動遍歴は「スニオン岬」と「サンモリッツ」に止めおくのが無難ということになった。「人生が変わった」などとやたら感動する人の爪の垢でも煎じたい気分だ。

 

 人はいずれは死ぬ。ならば、感動した思い出を大切にして、色あせることのないようにちゃんと保存しておくべきだろう。いざあの世に出発するときに、ガサゴソ探し回ることのないように、少なくとも二、三の思い出を雛人形のように丁寧に保管し、時たま陰干ししてカビの生えないようにしておくべきだ。

 

 ところが、ただ生きていることにしか感動の材料になりえない人たちがいることも、もう一つの事実だ。生まれたときから寝たきりの人もいれば、生まれたときから戦乱が続いている地域の人もいる。あるいは人生のある時期から、そのような状況に陥った人もいるだろう。彼らの心の周囲には、およそ感動になり得ない「不自由」や「死」や「破壊」が散乱している。それでも昔元気だった人や破壊されていない街で生活したことのある人なら、生き生きとした時代の思い出をリュックサックに仕込んで旅立つこともできる。

 

 ならば生まれたときから体の不自由な人や、生まれたときから戦争している地域の人はどうなのだろう。恐らく彼らは、僕たちが気付かないような些細なことに感動しているに違いない。例えば病床の窓から見える花の蕾や、瓦礫を突き抜けて伸びる実生の幼木などに……。「人間は象徴を操る動物だ」と言った哲学者がいたが、僕は「人間は感動を操る動物だ」と言いたいのだ。あるいは「感動で生きている動物」と言ったほうが良いかもしれない。昔『未知との遭遇』という映画があったが、宇宙人と出会うこともビッグな感動だろうが、一輪の花や蕾に出会うことだって大きな感動になり得るだろう。

 

 昨日まで生きていた人間が今日死ぬことに感動は伴わないが、昨日まで死んでいた人間が今日生き返ることには感動が伴う。キリスト教ではそこから新たな物語が始まっていく。爆弾で多くの人が死ぬことに感動は伴わないが、戦乱の地に平和が訪れれば感動を伴う。人々は過去を忘れようと努力し、胸を膨らませて新たな物語を創り出していくだろう。

 

 感動はあらゆることどもの「生」によって引き起こされる爆発的な心の動きだ。だから、古代から人々は不毛の地を耕してきたし、沙漠のオアシスに文明を築いてきた。難病の子供たちに快復の感動を与えようと、医師や看護師たちは必死に努力するし、難民の子供たちに生きる感動を与えようと、多くのボランティア団体が戦地に赴き活動している。この冷厳でメタリックな宇宙の中で、あらゆる「生」を生み出し続ける地球が「感動」をも生み出し続ける唯一の星であることは言うまでもない。

 

 ただ残念なことに、自分の「生」に執着するあまり、自分勝手な「感動」に満足しようとする連中がいることも事実だろう。彼らは恐らく、欲望の中に感動の材料があると思い込んでいるか、周りに点在するささやかな材料を感動や幸福に昇華することのできない人々に違いない。他国に侵入して、そこに暮らす人々の「生」を奪い、自分の「生」を豊かにしようとしても、そこから真の「感動」は生まれない。なぜなら壊す側にも壊される側にも、破壊された土地の瓦礫は心の傷として、末永く残り続けるからだ。誰一人として、死や破壊を伴う所に感動する者はいないはずだ。※2

 

※1 太陽が生命の源であるなら、生命の危機を救ってくれるのも太陽に違いない。地球温暖化対策としての太陽光利用は、まだまだ少なすぎるのが現状だ。「オフグリッド」や「プチオフグリッド」など、個々の家庭での太陽光発電を各国政府は積極的に推進する必要があるだろう。

 

※2 集団的感動は集団的熱狂を伴うことも事実で、それを演出して巨額な富を得る人々もいるだろう。大きな競技会は人々に感動をもたらす一方で、興行主を潤わせる。また、不正な手段で英雄になろうとする選手も出てくるだろう。日本人の多くは侵略される人々の心を理解しているが、それは敗戦という苦い経験があるからだ。かつて戦勝国だったロシア人の多くは旧ソ連時代の感性を未だに引きずっている。クリミア進攻後にプーチン大統領の支持率が上がった事実は、それに感動したロシア人が少なからずいたことを意味する。昨日、ロシアはウクライナの別地域に進攻を開始したが、支持率も漸増しているという。かつて大陸に進出したわが国の熱狂ほどではないにしろ、彼らはまんざらでもないと思っているわけで、世界平和の実現がいかに難しいものであるかを考えざるを得ない。悲しいことに……。

 

 


鳥葬

 

男は仲間たちに持論を展開した
生き物の終焉の地は
魂が抜けた場所だ
その場所でほかの生き物たちに
命の糧を贈るのだ
奴らを食らってきた罪滅ぼしさ
死する者のエネルギーは
生ける奴らに乗り移り
命の源はパワーとなって
永遠に引き継がれる

 

なぜ人間だけ灰にされ
狭い壷に詰め込まれて
窮屈な墓穴に落とされるのだ
自然の摂理に反逆する
傲慢な行為さ
死者への思いなど
いずれ忘れ去られるのに・・・

 

嗚呼、魂は天空を求めている
育ててくれた自然に感謝し
不要となる朽ちた肉体は
カラスどもに贈るとしよう
それはこの星本来の生きざま
生きとし生ける者の性

 

さあ俺の魂は
翼を得て天に昇るのだ
罪深き人間どもよ、さらば!
男は力の限り息を吸い込み
希望に胸を膨らませて死んだ

 

仲間は真夜中に死体を担ぎ
発覚を恐れるあまり
山の崖から奈落に落とした
そこは茨の藪でスズメすら来ず
男は念願かなわずに
棘々のハンモックに遊ばれて
美味そうな血燐干になりました

 

 

 

 

対消滅

 

自分を不完全な人間だと思っているなら
どこかでおまえの分身が
自分を不完全な人間だと思っているのだ

 

おまえの心が落ち着かないのは
おまえの心の欠けた半分を
どこかにいるおまえの分身が持っているからだ

 

おまえとおまえの分身が
いつも不幸であり続けるのは
おまえが分身を見分ける力がなく
おまえの分身もおまえを見分けられないからだ

 

おまえと分身は二つに裂かれた心を分け合っているのだ
だからおまえとおまえの分身は心が満たされず
失った心に価値があると思い込み
いつまでも不幸であり続けるのだ

 

おまえもおまえの分身も恥ずかしさのあまり
貧相な肉体から芽生える下卑た心を隠しているのだ
だからおまえは分身と擦れ違っても
相手をあざ嗤うばかりで
おまえの分身であることに気付かないのだ

 

おまえが分身を見つけられなければ
分身もおまえを見つけられず
おまえも分身も不幸であり続けるのだ

 

おまえの分身はたったいま
欠けた心を肉体から解放したのだ
さあおまえも早くその肉体から潔く
不満足な心を解放させるのだ
飛び出した二つの心は割れた皿のように
空中でピタリと結合して真円となり
つかの間の喜びの中で燃え尽きるのだ

 

おまえと分身は粒子と反粒子の関係で
出逢ったときが消滅するときなのだ
しかしそのときにようやく理解するのだ
至福は一瞬にして過ぎ去ることを…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

響月光の小説と戯曲|響月 光(きょうげつ こう) 詩人。小熊秀雄の「真実を語るに技術はいらない」、「りっぱとは下手な詩を書くことだ」等の言葉に触発され、詩を書き始める。私的な内容を極力避け、表現や技巧、雰囲気等に囚われない思想のある無骨な詩を追求している。|note

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

響月 光のファンタジー小説発売中
「マリリンピッグ」(幻冬舎
定価(本体一一○○円+税)
電子書籍も発売中 

 

#小説
#詩
#哲学
#ファンタジー
#物語
#文学
#思想
#エッセー
#随筆
#文芸評論
#戯曲
#エッセイ
#現代詩
#童話

 

 

#論考