詩人の部屋 響月光

響月光の詩と小説を紹介します。

エッセー「 武士道と戦争」& 詩

エッセー
武士道と戦争

 日本人は「武士道」という言葉に凛々しさや頼もしさを感じるようだ。いざ戦争になれば、頼るのは兵隊さんなのだから、当然のことだろう。彼らが武士道の精神を投げ出し、背を向けて逃げ出したら、国は滅びてしまう。

 しかし、「武士道」という言葉ができたのは江戸時代と遅く、その最初は武士の処世術のようなものだったらしい。武名を高めて主君に認められ、自分や一族の発展を有利にするというもので、就職活動の基本的姿勢のようなものだ。武士はしょせん「ケンカ屋さん」で、だからその中には「卑怯な戦法でも勝てば良し」とする思想も含まれていたらしい。道理はどうであれ「勝てば官軍」というわけ。さほど高邁な思想があったわけではないし、主君が喜べばそれで良い話だった。

 これは、「相撲道」とは違うところだろう。昔、白鵬が立合いで「かわし(注文)」や「猫だまし」をしたことに、「大横綱のやることか」と批判が集まったが、相撲がスポーツではなく「神事」であるなら仕方のない話だ。僕は相撲の神事的な部分が嫌いで、なるべく見ないようにしている(子供の頃は大ファンだった)。頻発する「横綱の責任」という言葉にも辟易するが、それは僕が無責任な人生を歩んできたからだろう。相撲協会三角錐の頂点に相撲の神様「野見宿禰(のみのすくね)」が鎮座し、その下に横綱や役員が侍るプチ・ヒエラルキー社会だ。で、神様が横綱に「注文を付けるな」と注文を付けるわけだ。このプチ封建社会に注文を付けた元横綱貴乃花氏に先日引退したハリさんに代わって、市井の僕は「アッパレ!」を与えよう(少々古い話だが…)。

 しかし、僕のように相撲を国際的スポーツにしてほしい人も、何々道という「道」が付くものに特別の意識を持つのは、古来より神道儒教道教(中国思想)の影響を受けてきた日本人の属性だと思う。だから柔道が国際的スポーツになった今でも、「シコシコ勝てばいいじゃん」と言う外国選手に対して、日本の選手は「美技」にこだわりを持つわけだ。「道」は美や真実の根源らしいから…。

 ともあれ「武士道」が、今の人々が思うようなものになったのは、幕藩体制の維持のために利用され、朱子学と結びついて武士の道徳律として定着してからだ。親孝行や目上の者を尊び、名誉を重んじ、家名を存続せよと言ったって、結局は主君たる徳川将軍に忠誠を誓えということに行き着く。※

 将軍が恐れていたのは大名たちで、下級武士から地方の殿様まで一律に倫理規定の網を掛ければ、うまい具合に収まる。大名たちが造反や仲間内のいざこざなど、将軍をトップとするピラミッド体制を少しでも揺るがせば、武士の道を外したとして取り潰すよと脅しをかけたわけだ。だからこの道徳律の裏には、関ヶ原以前の「下克上」や「裏切り(寝返り)」といった武士の血(本性)を押さえつける意図があった。

 基本、武士は闘争意欲が強く、スポーツ選手と同じに一人ひとりが金メダルを狙っている。だから武士集団は○○競技チームのように、キャプテン(大名)の下にまとまって敵を負かし、全員が胸に金メダルをぶら下げようと頑張るわけだ。ところが江戸幕府は国を平定し、日本○○競技連合のような巨大な組織になってしまったから、将軍(理事長)はゴマすり連中を役員にして周りを固め、現行体制に批判的な連中をピラミッドの下部に追いやるわけだ。それが俗に言う「外様」というわけで、スポーツ界では時たま外様の反乱が起きてマスコミ界を賑わしている。これは武家社界やスポーツ界に限らず、政界をはじめ、およそ「界」の付く塊には共通の界奇現象でもある。

 結局、外様の部下が反旗を翻して明治維新となったが、武士の時代が終わっても「武士道」だけはしっかり引き継がれた。明治憲法で「兵役の義務」が定められ、徴兵検査に合格した男子は全て武士になっちまったからで、政府はこの封建的な道徳律が利用できると判断した。結果として、第二次世界大戦で敗れるまで、日本の男たちは武士道の精神を背負って次々と自爆・玉砕していった。アメリカはしかし、真珠湾攻撃のことを「宣戦布告を遅らせた卑怯なやり口だ」と未だに非難する。けれど卑怯な戦法でも勝てば良しとする思想が「武士道」の腰骨に含まれているのだから致し方ない。

 日本は「攻撃直前に出すつもりだった」と言い訳するが、直前だろうが奇襲であることは変わりなく、だからといって「武士道」精神を傷付けることもない。昔から武士たちは機先を制して勝ってきたのだから、騙し討ちだって戦法の一つだろう。スポーツ選手だって反則すれすれの技を批判されるいわれはないが、戦争の場合、そもそもルールなんて存在するのかも分からない(一応「戦時国際法」なるものはあるが、強制執行力はないのだから、違反したって経済制裁ぐらいだろう…)。

 つまり、昔の武士だろうが今の軍隊だろうが、勝たなければならないという使命は金科玉条なのだ。一騎打ちの時代も集団戦法の時代も、さらにはロボット兵器の時代も、核兵器の時代も、武士も軍隊も勝つために生きてきたプロフェッショナル集団に変わりはなく、常勝軍団であり続けなければならない。

 2015年にロシアのプーチン大統領が、クリミア半島への軍事介入のときに、「核兵器使用を準備していた」と発言したが、垂直統治機構で軍を掌握している彼の言葉が示すとおりで、軍隊は勝つために何でもやらかす集団なのだ。

 危惧するのは、そういった集団が核兵器を握っていることだ。しかも軍隊は、時たま政府の命令を無視して暴走する。1932年に中国にできた「満州国」は帝国陸軍関東軍)の暴走によるものだ。あげくに日本政府は軍に振り回される形で太平洋戦争に突入した。最近では「金正恩キム・ジョンウン)は北朝鮮軍の操り人形に過ぎない」なんて専門家が言い出すぐらいだから、政府(背広組)が軍(軍服組)を掌握(制御)するのは並大抵なことではない。

 その血気盛んな軍隊が、核兵器を使用することに踏み切った場合、相手の核反撃をかわす意味でも、最初から一気に先制攻撃を仕掛けるだろう。使用される核兵器は半端でないはずだ。病原菌に対する抗生物質と同じで、一気に叩き潰さないと、敵はゾンビのように復活し、戦いは泥沼に陥ってしまう。ことにパワーバランスが拮抗する国に対しては、中途半端な攻撃はしないはずだ。

 …ということは、どこかの大国がひとたび核兵器を使えば、たちまち核による全面戦争に拡大する可能性があるということだ。しかも最初の一発は誤判断あるいは誤操作かもしれないし、勝敗の決着は秒単位の出来事かもしれない。かつてパリを占領したヒトラーが、シャイヨ宮殿からエッフェル塔を眺めたように、どこかの国の国家元首がねじ曲がったスカイツリーを眺める日が来るかもしれない。恐ろしい未来だ、と言うよりか、我々はそんな時代に両足を突っ込んでいるのだ。そして当節、「権威主義」VS「民主主義」という新冷戦の水面下で、沸々と熱水が湧き出し始めている。

 地球市民の皆さんは、火傷をする前に両足を抜く必要に迫られているけれど、重い足かせが付いていて、足湯のように気楽に抜ける状況ではない。結局、世界各国が一丸となって、血気盛んな武士たちの暴走を止める手立てが必要になってくるわけだ。恐らく片方の足かせを解く鍵は、各国政府の外交手段に違いない。もう片方の足かせの鍵は、その政府を支持する国民の冷静な判断に違いない。政府と国民の二つのベクトルが一致し、その相乗効果が温和な知的行動を促し、初めて外交的解決は上手く進行するものなのだ。

 隣国中国を例に取れば、新彊ウイグルや香港などで、民主主義国の反感を買っているし、ロシアはロシアで、クリミア進攻問題などで反感を買っている。特に中国に対する米国民の感情は最悪で、暴力事件も起きている。問題なのは、ロシアや中国だけでなく、民主国家の多くの政権がポピュリズム政権であることだ。これは民主主義の最大の弱点でもある。ポピュリズム政権は、国民感情に沿った政策をチョイスする傾向が強く、アメリカ現政権も中国に対する行き過ぎた制裁をするのではないかと危ぶまれている。

 かつて日本も日中戦争を起こし、1930年代から1940年初頭にかけてアメリカを中心とした「ABCD包囲網」という強力な経済制裁を食らって石油を断たれ、ドイツやイタリアと手を組み、太平洋戦争に突入していった。仮にバイデン政権が来年11月の中間選挙の票獲りを睨んで、国民感情を利用した形で中国に包囲網的な経済制裁を加えれば、習近平政権がどのような対抗手段に出るかは分からないものの、今の中国の現状から、一触即発の事態になる可能性は否定できない。当然、日本もアメリカの子分としてイギリスやオーストラリアなどと共に包囲網に参加せざるを得ないだろうし、中国は中国でロシアとの関係をより強固なものとしていくに違いない。

 しかし今でこそ、日本人は習近平体制に対して悪感情を持っているが、中国国民に対しては別の感情を抱いているに違いない。それは、かつて日本軍が中国に侵攻した苦い過去への悔恨の念だろうし、さらには太古の時代から連綿と続いてきた文化交流が日本にもたらした、莫大な文化遺産に対する感謝の念だ。日本はアメリカなどと違い、中国との永い繋がりがあることを忘れてはいけないし、何よりも彼らは隣人なのだ。

 ならば我々の取るべき道は明白だろう。日本政府も日本国民も、過度な感情に走ることなく、冷静・沈着な姿勢でアメリカと中国の対立状況を見据え、両者の行動が行き過ぎた場合には、その危険性を指摘するぐらいの若干ニュートラル(第三者的)な立ち位置を保持することだ。これは、ずる賢い態度とは違う。今回、北京オリ・パラに日本政府代表団の派遣が見送られたことについて、自民党の佐藤外交部会長は「時期が遅すぎる」と苦言を呈したが、僕は岸田首相が冷静・沈着な姿勢で状況を判断し、絶妙のタイミングで出したと思っている。おかげで中国の態度もさほど硬化はしなかった。佐藤氏は元自衛官だから、血気盛んなのだろう。

 およそ対立と名の付くものは、最初は小さくても連鎖反応的に大きく発展する危険性は常にある。加えてアメリカは、イラク進攻のように時たま大胆なことを仕出かす国民性を持っている。喧嘩腰の両者の主張や行動がぶつかり合ったときには、必ずそれを緩衝させる第三者は不可欠で、それが日本の役割だと思っている。これは駅のプラットホームでの喧嘩も同じことで、止める者が必要なのだ。過去の苦い経験を思い出せば、日本政府も日本人も、そうした役どころを演じるのは名誉挽回にも繋がることだろう。かつて武士たちが中国にもアメリカにも喧嘩を仕掛けたのだから……。

 岸田政権はコロナ対策について、最悪の事態を想定して対処すると宣言しているが、日本にとって、国際情勢の最悪の事態は恐らく台湾有事だろう。アメリカが介入すれば、日本も必ず戦争に巻き込まれる。中国も台湾もアメリカも日本も、誰も戦争を好ましいとは思っていないはずだ。こうした危機を回避するには、外交的手段以外にはありえない。各国政府の冷静な外交と、それを支える各国民の沈着な国民感情が不可欠なのだ。かつてABCD包囲網が日本を戦争に駆り立てたように、過度の経済制裁が台湾有事を引き起こさないように、日本政府も日本国民も冷静に賢く振舞い、政府は最善の道筋を探って行くべきだろう。当然その努力は起こってからではなく、起こさないための努力であるはずだ。

 また、人権問題については、できるだけ多くの国の政府がプロテストを表明しなければならないし、日本政府も逸脱することはないはずだ。しかしこれは、ほかの人権問題と同様、地球市民一人ひとりが真剣に考えなければならないものだと思う。中国と経済関係の強い発展途上国でも、黙認するのは政府だけで、その国の人たちは「否」と考えているに違いない。インターネットが張りめぐらされているグローバルな時代に、人権問題は環境問題や核問題とともに、地球市民がプロテストを盛り上げていくべき御三家だと思う。各国国民のストライキが認められているように(弾圧する国もあるが)、地球市民には自発的な不買運動は認められているのだから……。政府間の軋轢は戦争を引き起こすが、地球市民のプロテストは戦争を招かない唯一の解決法だと考えている。なぜなら、それは国境を越えたビッグウェーブなのだから……。


(※)これは今の中国で、習近平が政権維持のために打ち出した「共同富裕」の思想にも共通するところがある。習近平が恐れているのは、過去に鄧小平が「改革解放政策」を唱え、社会主義体制を維持したまま資本主義を導入する「社会主義市場経済」を進めた結果、現在のような貧富の格差ができ上がってしまった。
 置いてきぼりを食らった貧乏人たちが政権に反旗を翻すのではないかと恐れた習近平は、一部の大金持ちの財産を巻き上げ、多くの貧民のルサンチマン(嫉妬)を解消するポピュリズム政策を考え付いたわけだ。しかし、中国の経済成長を支えてきたのは大金持ちたちで、出る釘を打つ平準化政策が成功するものかは疑問視されている。経済発展の足を引っぱる可能性が大きいからだ。といって金持の蓄財を放置すれば、いずれ社会主義の根本概念も崩れ去ってしまう。中国は大きなジレンマを抱えている。じゃあどうするか。内なる問題を火山のように外部に噴出させればいいのか? その外部はまさか台湾じゃないだろうな!

 

冥界の王宮

木々は色づき
稲穂は頭を垂れ
朽葉色の秋がやってきた
魔王はバルコニーから地上を仰ぎ
愛する王妃に想いを馳せた
妃は大地の豊穣を母とともに見届け
やがて冬の王宮に戻ってくるだろう

妃を喜ばせるため
夏の間に王宮の改装を行ってきた
直すべきところはすでに直し
外壁は灼熱の溶岩で血色に染め上げ
大人しかったファサードの壁面彫刻は
罪人たちの阿鼻叫喚を
満面に散りばめた
正門である地獄の門の彫刻も
妃の帰還を祝福するべく
四十八手の拷問に禁じ手を加えた

あとは仕上げが残るのみ
広大な王宮の床一面に
人肌色の絨毯を敷き詰める
職人たちの足で汚さぬよう
奥の寝室から始めたが
半分ほどで材料不足に陥った

腹心のタナトスヘカテーを呼び
世界中からかき集めろと発破をかける
二人はそれぞれ
悪疫を詰めた大袋を背負い
地上に上っていく

しばらくすると
大量の材料が資材置場に搬入された
施主が指図する中
鬼たちはまず
産地ごとに異なる色合いの
選別から始めなければならなかった
暗色系は落ち着いたリビングにふさわしい
淡色系は客をもてなす鏡の間にうってつけ
廊下はすべて黄色系に統一すべきだろう
入れ墨入りはアラベスク風に
水煙草の間にでも敷いてみるか…

材料の配置が決まると
鬼たちはさっそく皮剥ぎを始めた
使う部分は腹と背だけ
あとは愛犬ケルベロスの餌となる

裁断した筒状の材料は
中に毛髪を詰め込み
長寿を全うしたニンフたちが
余分の髪で縫い閉じ
それらをさらに縫い繋げて
幅広の絨毯に仕上げていった

王は出来上がった絨毯の上に立ち
雲上と変わらない柔らかさに
大層ご満悦だった
これで后も喜ぶことだろう…

翌日、ハデスは地獄の門に立ち
ペルセポネを迎えた
王妃は新装の門を一瞥しただけで
ケルベロスの三つの口を撫でてから
涎で濡れた手を王に差し出した
王は接吻をして
二人は手を取り合い
絢爛たるファサードに向かって
仲良く歩いていった

円蓋を抜けて内廷に向かおうとしたとき
ひれ伏した無数の躯幹に気付いて
王妃は呆然と立ち尽くした

ようやく気付いてくれたことに溜飲し
王は満面の笑みを湛えて王妃を見つめ、語りかけた
今年は豊作そうで
お母上も喜ばれたことであろう

そうでもございません
流行り病で多くの百姓が死に
稲穂はそのまま立ち枯れております

まあ、そういう年もあろう…
どうだね、私の贈り物は気に入ったかね

殿ならではのセンスには毎回驚かされますわ
冬には冬の、春には春の趣があるもの
それは地上の僭王たちも変わりません
そうして天上も地下も
下々の歴史も創られていくのです
郷に入りては郷に従え
私はただ、貴方の熱い想いを受け入れ、微笑むだけですわ
多くの王の妻がそうしたように…

ペルセポネはため息をつき
真新しい絨毯の上に恐る恐る足を乗せ
二人は睦まじく奥床に向かった
絹のごとく人革をなめした
天蓋付きの寝台へ…


Muishkin gene

ムイシュキン公爵
発作で天に召されたとき
主治医は脳味噌を
ホルマリン漬けにした

百五十年後
好事家が発見し
若い学者に寄託した
「きっと地球外生物です」

学者は脳味噌を解剖し
くまなく調べたが
人類と異なる部分はどこにもない

薄切りにしてガラスに伸ばし
蛍光色素を垂らそうとすると
ふと、金色に光る
DNAに気付いたのだ

「生きているのか?
うようよいるぞ!」
電気泳動法を試すと
陽極に移動して
旋盤屑みたいに丸まり
金の玉になった

「地球だ!」
アフリカ、アメリカ、ヨーロッパ、
アジア、オセアニア、南極…
螺旋のスカスカを太陽風が抜けていく
からかうように、金粉を振り撒いて…

嗚呼、クルクル空回る金の鳥カゴ
極小宇宙の不都合な真実よ…
「貴重な宝がザルから逃げていくぞ!」
学者は悲鳴を上げ、倍率を拡大した

するとお日様の金粉が
螺旋のフィルターに引っかかり
にこやかに食らいついて
異常な速さで増殖している
まずは螺旋に金箔を貼り
ジクジクと沸騰しながら
金のペレットに育っていった

一握りの遺伝子が
地球をパンクさせないために
仲間をどんどん増やしている
「こいつら黄金の受精卵だ
倍々どころの騒ぎじゃないぞ!」

学者は雄叫びを上げた
ムイシュキンは人間だった
どこにでもいる人間だった
星々の狭間を暫し遊泳しながら
予言することなく帰還し、復活し
純朴な心でダフネを愛した
アポロンの末裔だった

そしてそのさらなる子孫が
力強く地球を支え始めたのだ
ムイシュキンは人間だった
黄金の月桂冠を頭に乗せ
永久に光明を失うことのない
人類のエッセンスだった…

ムイシュキンは人間だった
挫けることを知らない
どこにでもいる人間たちだった

 

 

 

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エッセー「音楽的人間」と「画家的人間」~キム・ヨナの場合 & 詩ほか

 エッセー
「音楽的人間」と「画家的人間」
キム・ヨナの場合

 クラシック界の歴史的名指揮者ブルーノ・ワルター(1876~1962年)は自伝の中で、人間は「音楽的人間」と「画家的人間」に分けられると記している。なんでも彼が音楽総監督をしていた歌劇場に専属のテノール歌手がいたが、声はそこそこなのにどうもしっくりと歌うことができない。その原因を指揮者は、この歌手が生来の「画家的人間」だからと決め付け、それは生まれつきなので修正はできないと断言しているのだ。

 偉大な指揮者の経験に基づいた言葉だから、僕に反論する気はさらさらなく、その言葉を基に話を進めたいと思う。世の中の人間がどちらかに分類できるのだとすれば、僕なりに部分けをする必要があるだろう。「音楽」は音の流れだから、それは時の流れや川の流れのような一瞬たりとも止まることのない流動的な世界を意味している。一方で「絵画」は、時の流れの宇宙現象をスパッと切り取った断面の世界で、天才画家がいかに生き生きと描こうが、紙焼写真のような静止した世界に違いない。

 この「動」と「静」の二項に人間の天性を部分けするのであれば、とりあえず職業別に大雑把に投げ込んでいけばいいことになる。例えば「動」には、音楽家はもちろん、スポーツ選手(F1レーサーや騎手なども含め)、バレリーナ、ダンサー、執刀医などが含まれるだろう。秒単位の時間の流れに対応しなければならない職業は、すべて「音楽的人間」の資質が求められるわけだ。

 「静」には、画家や彫刻家、工芸家が当てはまるが、最近の現代美術は行動的(アクション)だから、「動」的要素も求められるので、なんとも言えない。しかしここには、小説家などの文章家や詩人も含まれるに違いない。

 ワルターが「音楽的人間」と「画家的人間」の話を持ち出したのは、職業的ミスマッチについて言いたかったからだ。彼は「画家的人間」が音楽を専攻しても、偉大な音楽家にはなれませんよと言っている。音楽をやっても、生まれつきのセンスが違えば苦労をするばかりだよ、と主張しているのだ。だから、人間が大きく二つに分かれたとしても、その才能が厳密に必要とされる職業に就きさえしなければ、さほどの問題にはならない。リズムに乗って仕事をこなそうが、画家のように黙々と仕事をこなそうが、人それぞれの方法でこなせば何とか上手くいくのが大多数の仕事だ。

 問題になるのは、選ばれし人間だけが成功するような厳しい職業の場合だ。分かりやすく、フィギュアスケートを例にとって言おう。2010年のバンクーバ冬季五輪で金を獲ったキム・ヨナは、まさに「音楽的人間」の典型だった。彼女が「画家的人間」でないことは、その演技を見れば明らかだ。彼女は別に難しい技術を駆使して金を獲得したわけではない。それなのに優勝できたのは、彼女が生まれ持った「音楽的人間」であったからだ。

 フィギュアスケートはもちろん、クラシックバレエでもモダンダンスでも、生まれ持った質が「音楽的人間」か「画家的人間」かは、比較的簡単に判断できる。例えば「画家的人間」について言えば、画家でも彫刻家でも、最初はキャンバスへのデッサンなり台座の上に骨組みを造ることから仕事が始まり、絵の具や粘土を重ねながら作品が完成していく。つまり、完成品のあらゆる部分が、最初のデッサンなり骨組みと関わりを保ち、その拘束から免れない。当然、作品を解体してみると、最後にデッサンや骨組みが現われるだろう。

 僕は、キム・ヨナと争った日本人のスケーターは「画家的人間」だったと思った。なぜなら高度な演技の所々で、骨組みである背骨の存在がチラリと見えていたからだ。彼女は背骨を軸に回転していた。手足の先端までもが、背骨の回転に従っていた。一般的に、「体が硬い」とかそういった表現を使うが、そうではない。単に本質が「画家的人間」だったということだ。

 キム・ヨナの場合は、すべての組織が背骨から解放されていた。あらゆる部分がモナドと化し、各自が時間の流れを敏感に察知し、即応していた。キム・ヨナはしかし背骨のない軟体動物ではない。彼女は「音楽的人間」なだけだ。「音楽的人間」は、手の先から足の先まで、すべての細胞が背骨の支配を受けず、素早い音の流れに即応し、同調して、リズムの波の上に体を乗せ切り、自然体に、サーフィンのように流れていくことができるのだ。

 これは生まれ持った才能なので、ほかの選手がそれを上回ろうとすれば、高度な技術を磨いて、技術点を稼ぐ以外にはなくなる。キム・ヨナの演技は高い芸術点を獲得したが、「音楽的人間」が音楽に乗り切った場合、不自然な硬い部分が蒸発して、宇宙の重力に逆らうことなく、あらゆるものを芸術に昇華させることができるのだ。
 
 当然のことだが、基本「音楽的人間」が求められる世界に「画家的人間」が挑戦した場合、その欠点を克服するための努力は並大抵ではないだろう。しかし、「好きこそものの上手なれ」とういう諺があるとおり、努力しだいでは何とかなるのもこの世の良いところだ。才能に溺れて大成しなかった人間も数多い。ブルーノ・ワルターは自分の立場上、歌手に厳しい要求をしたことは推察できる。

 だから根本的な欠点があっても、人には必ず伸ばせる長所はあるものだ。フィギュアスケートだって、四回転や三回転半をバンバン飛べるぐらいに技術を磨けば、それだけでメダルはポケットに入ってくるだろう。多少芸術的でなくても高度な技術を失敗しなければ点は稼げるのだから。

 問題は、ブルーノ・ワルターが体育会のコーチではなく、再現芸術家であったということだ。スポーツと再現芸術は似て非なる世界だ。「技術」面に関しては基本なので双方とも似ているが、芸術は美的な表現をより重視する世界でもある。きっとフィギュアスケーターとプリマバレリーナの違いは、ワルターの持論を克服できるか、克服できないかの違いに現われてくるものかも知れない。バレリーナが片足立ちで何回回ろうが、そんなのは刺身の妻のようなものだ。大事なのは、その役どころをいかに美的に個性的に再現でき、彼女独自の世界を創出できるかだ。しかしワルターは断言する。それは生来的なものであると、生まれ持った音楽的センスの問題であると……。恐らく「画家的人間」は一生「音楽的人間」にチェンジすることができないのだ。

 僕は自称詩人だから、当然「画家的人間」だ。しかし、詩人の扱う言葉は歌詞にもなるのだから「音楽的人間」の要素も多々含まれている。言葉は硬くなく、ゼラチンのような半流動体である。だからある種の詩人たちの言葉は流れを持っている。エッセーだって、そういう資質を持った人の文章には流れのようなものを感じる。きっと彼らは「音楽的人間」なのだ。これは一種のセンスで、生来的なものだ。

 そのことが良く分かるのが、訳詩を読んだときだ。翻訳者の多くが学者で、学者の多くが「画家的人間」だ。だから、原語では流れを持った作品も、彼らはキャンバスに絵の具を置くようにシステマチックに翻訳し、結果として「目黒のさんま」のような和訳ができ上がる。しかし本人は「画家的人間」だからそれが分からず、誤訳のまったくない名訳だと自画自賛するわけだ。これも生来的なセンスで、恐らくその人の生涯で覚ることのない真実なのだ。残念ながら……。

(補):「音楽的人間」と「画家的人間」は水と油のようにスパッと分かれるものではない。80:20で混在している人間もいれば50:50で混在している人間もいる。例えば指揮者は「音楽的人間」であるべきだが、彼が一つの作品を演奏しようと思えば、最初に楽曲を分析(アナリーゼ)する仕事が待っていて、これには「画家的人間」の才も必要とされる。音楽学者のようなこともやらなければならないわけだ。
 この分析によって、作曲家の意図を読み取ることができるし、各パートの強弱やリズム、テンポを自分流に解釈しながら再統合し、自分がイメージする音楽を創出することが可能になる。
 この分析の後で、指揮者は画家が筆やペインティングナイフを使ってキャンバス上のいろんな色彩に手を加えるように、作曲家が描いた楽譜に鉛筆で独自表現のアイデアを書き込んでいく。この楽器のリズムはぼやかそうだとか、このリズムは鮮明に出そうとか、このメロディはこの楽器だけ特にはっきり出そうとか、云々……。 しかしこのドローイング作業の最中でも、主導するのは彼の脳内に鳴り続けている仮想現実的音楽というわけだ。

 


牛タン・エレジー

牛タンを食べたいというので
無理をして高級店に入った
にこやかに話をしていた女が
料理が来ると真剣な顔になり
黙々と鉄板に乗せ始めた

二、三切をそそくさ裏返し
小皿に乗せて俺に差し出し
目を大皿にして焼け加減を吟味し
ひょいと摘んで口に入れ始めた

そのうち女は「美味しい、美味しい」と呟き始めた
唄のように流れに乗っていた
エクスタシーの吐息だ
俺は唖然として箸に肉を挟んだまま
煙越しにじっと見つめた

女は没頭していた
快楽が体の内から膨らみ
マイヨル通りの街灯を通り越し
受精卵のようにボコボコ分裂
とうとう巨大なアメーバになった
喜びの唄をネチネチと
ひたすらに、がむしゃらに
肉を食らい、煙を吸い込む

ハッとして俺は幼い俺を想像した
得体の知れない重い蓋が
どこにもなかったあの頃を…
女はすっかり解放され
一切のしがらみを突き抜け
法悦の中を泳いでいる

俺はこのとき
この星の真実を知った
一粒一粒の生命体が
この喜びのために
蠢いていることを
そしてそれが
悠久の悲しみでもあることを…

 

竹藪

あの頃
裏には深い竹藪があった
台風が来ると
トタン屋根は小太鼓の連打となり
竹たちがパニックを来して殴り合い
ザアザアと音を立てた

竹藪は異界のとば口だ
病気になると
いつも同じ夢を見た
私を乗せた布団が
魔法の絨毯になって舞い上がり
お姫様の宮殿に向かうどころか
庭を竹藪に沿ってただ一周する
きっと耳鳴りだろう
虫の音がリンリンと
緩やかな波を繰り返し
魔王の囁きを物真似する

これは悪夢からの脅し
夜の竹藪を見たこともないのに
異様なほど鮮明なのは…
長々しい屏風絵のように
竹たちの硬直が静寂を醸し出す
密生した竹林の背後は
底なしの暗闇が広がる
布団がからかって
落とされるのではないかと恐怖した
尻に敷き、寝汗を吸わせた積年の恨みか…

私は虚弱な昆虫のように
死体を擬態して
指一本動かせない
なぜか目はキョロキョロと
闇の奥に妙な光を見つけた
消え入るように一点、橙色の灯
あんなところに人家はあるものか
人魂のように揺らいでいる
だがふらふら飛び回るわけではない

明くる朝、親が噂話をしていた
裏の竹藪に浮浪者が住み着いた
怖いわねえ…
毎晩のように訪れる悪夢が
夢ではなかったことに気がついた

いや、夢でなければいけない
私は病気の体を奮い立たせ
寝間着のままふらふら庭に出て
切り通しの崖を登り竹藪に入った
夢の記憶を思い出し
竹と格闘し、隙間を縫いながら
灯のあった方角に分け入った

竹を切った六畳ほどの空間に
継ぎ接ぎだらけの布を屋根代わりに
ボロボロの着物を着た老人が
笹を燃やして湯を沸かしていた
私を見るとニヤリと笑い
「坊ちゃん、お名前は?」と聞いた
先生に、名前を聞かれたら
ちゃんと答えなさいと言われていた

老人は炭団のような顔して
悪魔みたいに笑っていた
私は恐怖で強ばって
口から言葉が出なかった
捜しにきた祖母が
無言のまま私を抱いて
足早に連れ戻した

その三日後の夜
いつもの夢の最中
老人のたき火が燃え移り
竹藪の半分が灰になった
そこに老人の黒こげ死体もあった

人生で幾度か
無一文のときがあった
私はその度に
名前を言えなかった自分を悔いた
そして、今ふたたび…

 

奇譚童話「草原の光」
二十一

 三匹のティラノが攻撃態勢に入ろうとしたとたん、アインシュタインは右側のティラノに祖先帰り銃をぶっ放した。赤い光線が恐竜に当たり、恐竜は火山のように血肉を四方に飛ばしながらどんどん小さくなり、最後には大きな肉の塊になっちまった。その上から一匹のカメレオーネが顔を出したんだ。二頭のティラノは驚いた顔つきで、肉の塊の上のカメレオーネを見つめていたけど、リーダーは心を落ち着かせて恐る恐る聞いたんだな。
「お前はいったい誰だ?」
「あんたの子分ですぜ、ボス」
 二頭のティラノは大きな体をガタガタ震わせて、銃を構えるアインシュタインを見つめ、リーダーが捨て台詞を吐いたんだ。
「分かった、分かった。俺たちはあんたらを襲わないことにしたよ」
 二頭は踝を返して元来た道を引き返そうとしたけど、アインシュタインは呼び止めたのさ。
「待てよ。せっかく私が右側の子分を解体してやったのに、その肉を食べないで帰るんですか?」
「俺たちに共食いしろと?」
「腹減ったら共食いでも何でもするんでしょ?」
「分かった、分かった。食べましょ、食べましょ。その代わり、銃をぶっ放さないでね」

 肉の上のカメレオーネは驚いて肉から飛び降り、すたこら逃げちまった。二頭は仕方なしに仲間の肉に食らいついたんだ。すると、どんどん体が小さくなって、食べ終わったときには、二頭ともすっかりカメレオーネになっちまっていたのさ。二頭は互いに見詰め合って驚き、そのままどこかに逃げていった。
「愚かなゴキブリどもめ!」って言ってアインシュタインは笑ったけど、また二つの肉の山ができちまったんだ。アインシュタインはリーダーの肉に向かって、「元締め、出てきなよ」って声をかけると、大きな肉の山の上からアインシュタインが出てきて、長い舌を出したんだ。こっちのアインシュタインは「あれが本物のアインシュタインさ」ってみんなに説明した。本物はお尋ね者だから、強い恐竜の胃袋に隠れていたんだな。彼はすたこらアパトの頭まで上ってきて、分身のアインシュタインをハグした。すると分身は空気を抜いた風船みたいに萎んじまい、彼はそいつを肉の山に向かって投げ付けたんだ。アインシュタインは一つの星に一人いればいいんで、分身は用無しなんだな。でも、そっくりだからどれが本物でどれが分身だなんて、どうでもいいことなのさ。

 ウニベルはアインシュタインに抱きついて、「こいつはすごい!」って叫んだな。先生も抱きついて、「この祖先帰り銃を量産できるのかね?」って聞いたんだ。するとアインシュタインは首を横に振って、「君たちはこれ以上私を罪人にしたいのかね?」って言った。ウニベルも先生も、この銃さえあれば、恐竜たちを昔のカメレオーネに戻せると思ったんだ。だけど、カメレオーネに戻りたい恐竜がどれだけいるんだろう。
「俺たち草食恐竜はきっと賛成すると思うよ」ってアパト。「けれど、その条件は肉食恐竜がいないことさ」
 そりゃそうだ。カメレオーネになったら、小さい肉食恐竜にも食われちまうんだからさ。それが証拠に、レエリナサウラだとかヘテロドントサウルスとかエオラプトルだとか、小さな恐竜たちがもう臭いを嗅ぎ付けて、十匹ぐらい肉の山に首を突っ込んでんだ。そいつらは食い終わったところで、みんなカメレオーネになっちまった。とくに体長が三十センチしかないエオシノプリテクスなんか、祖先帰りする必要もなかったぐらいさ。で、みんな驚いて逃げちまった。

 すると先生はアパトの頭から降りて、肉の山からアインシュタインアバターを引っ張り出してティラノの足跡の窪みに置き、アパトに「オシッコをかけてくれ」って言ったんだ。するとアパトは臭いオシッコをアバターに向かってかけたんだ。足跡が湯船になって、アバターはすぐに生き返ったけど、ションベン臭かったな。で、先生は「このアインシュタインは私たちの味方さ」って本物のアインシュタインに言ったんだ。本物は苦笑いして「君たちの好きに使ってくれ」って言うと、アパトの頭から手を広げてどこかに飛んでっちまった。やつは天才だから、この星の重力やら引力やらを計算して、飛ぶこともできるんだな。だから飛ぶ前に裸になって、祖先帰り銃も置いてきやがった。これでアバターも同じ物を量産できるようになったんだ。ウニベルもステラも、この星を昔の姿に戻したかったから、とっても喜んだのさ。

(続く)

 

今までの作品

 

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エッセー「化石賞」VS「ノーベル賞」 & 詩


霊子Ⅱ

夕日が紅茶色に輝いていた
霊子は僕の腕に手を回し
浜の先の磯に誘った
ゴツゴツした岩に座って
軽い霊子を膝に乗せ、キスを求める
爽やかな冷気がクルクルと
僕の口先をからかい
海の方へと逃げていった

君はどうして唇が冷たいの?
あなたの唇が熱いのは
あなたの食べた命のおかげ
命の熱をもらっただけよ

わたしはそうして神様から
愛する人との命を授かった
でもそれは大きな癌だったの
赤ちゃんの代わりに育てることになった

泣いて泣いて
涙がなくなってしまったとき
行かなければならない場所のことが
頭に浮かんできたわ
するといま育てている悪い子は
あっちの世界でもそうなのかなって思った

だってこの子はだだっ子のように
わたしを必死に引っ張っるんだもの
この子はただ
あなたがほかの命から熱をもらうように
わたしの熱を借りて
そこに行こうとしているに違いない

そう思ったら悲しみが吹っ切れて
わたしはもう泣かなくなった
それよりも
この子がそんなに行きたいところを
見てみたい気もするようになったの
だってこの子は悪い子でも
血の通ったわたしの子なんだから

きっとこの子は
そこでしか生まれない子
だからわたしを一所懸命引っ張るの
わたしの命を奪う子は
いったいどんな顔してるんだろう

ある日あんまり強く引っ張るから
とうとうわたしもこと切れた
わたしは赤ちゃんに引かれて
お空に昇っていった

とても素敵なお花畑の中で
わたしは赤ちゃんを産んだんだ
下界の彼にそっくりな
とっても可愛い男の子
大勢の人と獣が寄ってきて
赤ちゃんを祝福してくれた
空には蝶も舞っていたわ

わたしはそのとき知ったのよ
宇宙にはいろいろあって
喜びと悲しみが混じったものもあれば
悲しみだけのものもある
わたしは子供に連れられて
喜びだけの宇宙にやってきた
そして時たま、生まれ故郷に戻ってくるの

でも君はなぜ
その彼に会いに行かないの?
彼には奥さんも子供もいたからよ
そして君は僕に目星を付けた
喜びだけの宇宙で結ばれるために

いいえあなたには奥さんがいるもの
ただあなたが好きなだけ
だってわたしは
いつまでも幸せでいたいから…


霊子Ⅲ

病院の窓から
木蓮の白い花が
風に揺れていた

陽の光がベッドに降り注ぎ
わたしは七色の粒々を飲み込んだ
すると痩せた体は暖かくなって
幼い頃のことを思い出したの

冬に風邪を引くと
お母さんが縁側に
布団を出してくれて
わたしは横になった
涼しい風が顔に当たったけど
布団はお日様を吸って
ポカポカになったわ

ああ、あのとき
あまりにも気持ちがよくて
まるで蚕が繭に抱かれるように
ずっといたい気持ちになった
きっとわたしは
病気になるのが楽しみだった

わたしは同じ気持ちを感じたわ
動かなければならない世界は棘だらけ
お日様はわたしを優しく包んでくれた
体が動かない可哀想な子たちも
お日様に包まれていれば
ずっと幸せなの
幸せ袋の大きさは人それぞれでも
中には同じ幸せが詰まっているわ

天国で生んだわたしの赤ちゃんは
お日様の揺りかごの中で
みんなに見守られながら
永久(とわ)の幸せを楽しんでいる
わたしはこの子と一緒に
いつまでもお日様と
遊んでいるの
いつまでも、いつまでも…

 

エッセー
「化石賞」VS「ノーベル賞

 世界中でコロナの流行が続く中、日本の鎮静化だけが目立って、世界も注目している。原因はよく分かっていないが、その一つにほぼ100%に近いマスクの着用が功を奏していると考える専門家も多い。

 マスク嫌いの人間には辛いだろうが、実際マスク無しで町中を歩くには勇気がいる。マスクを忘れて家を飛び出したときには、衆人環視の中を歩くことが恥ずかしくなり、コンビニを探す羽目になる。その心理には「波風を立てない」という日本人の感情が潜んでいることは確かだ。

 日本社会の雰囲気は、戦争を体験した高齢者には思い出すところがあるかもしれない。国家総動員法が発令され、大政翼賛会が「鬼畜米英」をスローガンに掲げた時代に、少しでも平和主義的な言動をすれば近所の連中に密告され、たちまち憲兵が飛んでくる。しかし、その密告者は悪意があるわけではなく、保身のために密告するのだ。仲間と思われたら大変なことになってしまうからだ。

 日本人の大多数が「セロトニン トランスポーターS型」という恐怖を感じさせる遺伝子を持っていて、それに比べると欧米人(白人)は少ないという話だ(日本人の97%、ドイツ人は64%)。これは白人よりも臆病者が多いということ。「年功序列」だとか「終身雇用」というガッチリした社会システムも、臆病な働きアリたちが築き上げた安心・安全なライフ・スタイルだったに違いない。

 出る釘は打たれると言うが、「終身雇用」を守るには、能力の平準化が必要で、その反動として才能ある人たちが息苦しくなり、自由を求めて外国に逃げていく。保守政党である自民党が人気あるのも、臆病な人間の基本スタンスが「保守」だからに違いない。臆病者は冒険ができない。今までそこそこやってきたので、新しい政党で冒険することもないだろう、という考え。日本人は、石橋を叩くことが身に付いていて、確信がなければ新しい世界に踏み込むことはできないだろう。だから、ビジネスの世界でも、グローバル・スタンダードをなかなか受け入れられないのだ。

 「郷に入れば郷に従え」「長いものには巻かれろ」という諺は、「波風を立てない」という臆病者の気質を表している。権力者や目上の者の主張がおかしくても、異議を唱えずに従う社会風土は確かに存在する。古の時代から、社会や歴史を変えてきたのは武士たちで、平民は付き従うのが基本のスタンスだった。従順に対応すれば、不利益を被っても命は保証されるからだ。百姓一揆は飢餓など、よほどの事態に陥らなければ起きなかった(宗教がらみは別として)。

 ニーチェは、付和雷同する大衆を「畜群」と称して揶揄した。羊の群は、羊牧犬に追われながらも、従っていれば草を食べさせてもらえる。彼らは現時点での満腹や安楽、快適しか眼中になく、将来首を落とされて肉にされることなど考えない。だから羊は苦悩することもなく、苦悩から逃れるために逃亡することもない。

 人間の場合、将来に対する不安は十分なほど抱えている。しかし臆病者ゆえにそれを苦悩にまで高めることなく逃避してしまう。仮に苦悩しても、解決法を模索して積極的に対処するのではなく、老後に備えて貯金をするか、マルクスが「大衆の阿片」と称した宗教に救いを求めるかになってしまう。

 「阿片」はもちろん、共産主義者の言葉で、極貧国における宗教は、秩序を維持する意味で大きなメリットがあることは確かだ。共産主義自体、マルクスの思惑通りにはいかなかったので共同幻想に格落ちし、今のポジションは宗教と同列である。権力者たちの阿片というわけだ。

 ビジネス界では昔から「茹でガエルの法則」がよく取り上げられてきた。カエルはいきなり熱湯に入れると驚いて飛び出すが、常温の水に入れて水温を少しずつ上げていくと気付かず逃げ出さず、最後は死んでしまうという作り話だが、示唆に富んでいる。今の時代、未来を予測して先手先手に攻めなければ、企業は潰れてしまうだろう。

 これは「地球温暖化」にも言えることだ。現在、CO2等による温暖化で、地球全体の平均気温が過去100年間で0.3~0.6℃上昇しており、2100年には平均気温が約2℃上昇すると予測されている。しかし、肌で感じる温度上昇が微々たるものなので、世界中の人々が「茹でガエル」状態に陥っていることは否めない。

 人間もカエルも現状に甘んじていることは同じだ。しかし人間はカエルとは違う。カエルは楽園にいる状態で、ここにいれば安全だと思っており、不安に駆られることはない。

 アダムとイブは満ち足りた生活の中で、未来を考えずに過ごしていた。好奇心さえ起こさなければ、追放されることはなかったろう。18世紀末、英国の武装艦バウンティ号の船員は、地上の楽園タヒチの人々が明日のことを考えずに暮らしているのを見て、驚いた。食料が豊富で、将来のことなど考える必要がなく、今を楽しく生きることに専念していたからだ。
 
 しかし、今の世界はどこにも楽園はなく、裕福な人々すら将来に不安を抱えて生きている。世界中の人々に共通する不安は「我々は何処へ行くのか」というものだろう。当然のことだが、不安原因の筆頭は「核戦争」と「地球温暖化」だ。核戦争はまだ起こっていないけれど、地球温暖化は現実に進行している。

 当然のことだが、「地球温暖化」は人間がもたらした災害だ、ということは自分たちで解消する義務があるということ。しかも、その責任はCO2を大量に排出する先進国や工業国で、もちろん日本も含まれる。

 COP26ではCANインターナショナルが日本に「化石賞」を与えた。これは温暖化対策に消極的な国に与える不名誉な賞だが、当の日本政府も国民も茹でガエルの面に小便のような顔つきで、マスコミすら権威なき一団体が勝手に作り上げた賞だとして大々的に報じることはなかった。

 しかし僕はアンチな意味で「化石賞」はノーベル賞に匹敵するものだと考えている。日本人がノーベル賞を受賞すれば、国中があんなに騒ぐのに、なぜ化石賞は騒がれないのだろう。ノーベル賞が人類の発展に寄与する賞であるとすれば、化石賞は人類の滅亡をくい止める賞であるはずだ。ノーベル賞の対極はイグノーベル賞ではなく、化石賞だ。今の地球の状況を鑑みると、その意義は同等か、それ以上のものに違いない。

 当然日本が受賞するというのは、こと環境問題に関して、日本は政府も国民も同じレベルで意識が低いことを表している。その理由として、まずは経済優先という政府の方針もあるし、政府と経済界が癒着していることもあるだろうが、僕は臆病な国民が、温暖化に対する不安以上に、今の生活に対する不安の解消に汲々としているからだろうと思っている。

 温暖化対策はそれをもたらした先進国の義務であるのに、衆議院議員の選挙の争点も、国民の生活水準の向上に終始したのは、国民が今を豊かにすることを望んでいるからにほかならない。

 本当は、生活も豊かになり、温暖化も解消というのが理想だが、豊かな生活の基盤が電力やガスなどのインフラである限り、望むべくもない。核融合炉や超伝導電力貯蔵などの革新的な技術が実用化されれば話は別だが、今のところ化石燃料に頼らざるをえないのが現状だ。

 だからといって、このままの状態であり続けると、温暖化も後戻りのできない状況に陥ることは目に見えている。しかし良く考えれば、コロナ禍と温暖化には共通点があることに気づくだろう。それは両者とも「世界危機」であることだ。

 違いといえば、コロナは急激にやってきた危機であり、温暖化は徐々にやってくる危機であること。病気でたとえれば、急性か慢性かの違いだが、処置をしなければ最後は同じ結末になる。

 岸田政権は、オミクロン株に対して迅速な入国管理体制を取った(憲法違反であるという話は別として)。経済に固執した菅政権の轍を踏まなかったことは賞賛しよう。しかし、そんな岸田政権がなぜ化石賞を受賞したのか。それは、自分の政権のことばかり目を向けているからではないだろうか。

 短期的な政権が事なきを得ようと思えば、長期的な課題を後回しにしようと思うのは、温暖化問題に対する今までの政府の対応を見れば明らかだ。しかも、温暖化対策は、産業界ばかりか、国民に対しても負担を強いるものだから、それをやるにはよほどの勇気と説得力を持たないとできないだろう。しかし、医師が急性患者も慢性患者も分け隔てなく治療するのと同じに、政府も分け隔てなく対応しなければならないのだ。

 この点に関して、岸田政権は従来政権と変わらず、腰が重いと言わざるをえない。このままでは、環境対策で先を走るヨーロッパから相手にされなくなるのは必定だ。

 以前、フジテレビのプライムニュースで、評論家の橋下徹氏が「政治家の考えと世論が異なる場合、最終的には世論に従うべき」としたのに対し、新聞記者の橋本五郎氏は「政治家はたとえ世論と意見が異なっても、自分の考えを貫くべき」と主張した。僕は、五郎氏の意見を支持したい。

 橋下氏の意見は、民衆の考えが常に正しいという前提に立った典型的なポピュリズム思想で、世論が常に正しいわけではないことは、歴史を見れば分かることだろう。政治家に求められるのは、間違った世論を変える説得力と落選をもいとわない強い意志だ。その好例がチャーチルやドゴールであり、悪い例がヒトラーだが、三人とも自分の理想に大衆を導こうとする政治家魂を持っていた点では共通する。世論を気にするひ弱な魂を持つ者は、真の政治家ではない。特に温暖化問題では、「肉を切らせて骨を断つ」荒療治が必要になるからだ。

 当然ヨーロッパでも、政府の環境対策と産業界との確執が続いているし、規制に対する国民の不満もあるだろう。しかし彼らの政府は、脱炭素移行期の難しさを十分認識した上で、温暖化という地球の慢性疾患に対して積極的に取り組む姿勢があり、負担を強いられる国民に対しても、説明・説得を怠らない。

 その結果かどうなるかはまだ分からないが、少なくとも欧州の人々は日本人よりも環境問題に対する意識が高いことは事実だ。政府が国民を取り込んだのか国民が政府を動かしたのかは、鶏が先か卵が先かの話で、どうでもいいことだ。必要なのは、温暖化に対する危機意識を政府と国民が共有していることなのだ。日本の場合は、政府と国民が温暖化に対する「無関心」を共有していることが問題なのだ。

 COP26で、石炭火力発電について当初案の「廃止」から「削減」に表現が後退したことに対し、政府も電力業界も安堵し、松野官房長官は「国内政策と整合的だ」と宣った。これには石炭から水素を作り出す「ブルー水素」計画も考慮しているが、製造過程でCO2が出るのは必然で、地下に貯留するとなればコストもかかり、成功するかは疑問だ。

 政府の方針は、生命を育む地球という慢性疾患の患者に対する大いなる誤診に違いない。地球の最後を看取るのは神かもしれないが、地球を生き返らせる医者は、人間のほかにいないのだから。それとも、宇宙人が助けてくれるとでも思っているのだろうか……

「過去の因を知らんと欲せば、現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、現在の因を見よ」(釈迦)

 

今までの作品

 

 

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エッセー「ミルフィーユとディベート」& 奇譚童話「草原の光」二十 & 詩


パリジェンヌ

(戦争レクイエムより)

うんざりしたコロンの臭いも
突き刺さる毒々しい言葉も
小馬鹿にしたような眼差しだって
突然の炸裂音と一緒に
どこかほかの宇宙に飛んじまった
君の彼女が残したものは
紙吹雪のような無数の肉片と
香水よりは増しな血の香りだ
彼女のことを知らないうちに
知らないどこかに行っちまった
まるで捕り逃がした魚のように
もう二度と帰ってこないんだ
きっと君が辛いと思うのは
分からなかったからに違いない
そのまま理解できずに終わって
三日三晩も泣いただろう
テラスの小さな丸テーブルが
彼女のロイヤルシートだった
好色な男たちが声を掛けたに違いない
僕もその一人だったのだから
そしてなぜ僕が選ばれたのかも
分からずじまいに終わっちまった
きっと気まぐれだろうと
納得していたにも関わらず
そして君は最後の最後に選ばれちまったのさ
きっと君がほかの女を弄ぶように、きやすく
君は僕以上に、運が悪かっただけさ…

 

卑怯者
(戦争レクイエムより)

老兵は海辺に小さな家を買った
毎日あの時間が来ると浜に出て
水平線の彼方のあの浜を思い浮べた
沖に浮かぶ無数の敵船から
無数の上陸艇が、無数の敵兵を乗せてやってきた
上官から敵の数を把握せよと命じられたので
見える範囲で声を出して数え始めると
そいつに思い切り頬を叩かれた
数える暇があるなら機銃を点検せい!

戦闘が始まると、わが軍は果敢に立ち向かった
しかし多勢に無勢で後退を余儀なくされたのだ
味方はジャングルでの戦いに敵を引き込んだが
彼だけは機銃を倒し、浜の塹壕で丸くなっていた
叩かれた頬が痛くて、やる気を失くしてしまったのだ
わが軍は玉砕し、一人だけ捕虜となった

老兵はいつも、死んだ仲間たちのことを思い出すのだ
決戦の前日に連中とマージャンをやった
誰かがポンをする前に牌を入れちまったので戻したが
手が震えていて、すり替えたと疑われた
あの牌があれば満貫をテンパることができたのに…
しかしなぜ手牌を広げて、潔白を証明しなかったのだろう
上がったら、ますます卑怯者だと思われたろうに
俺は子供の頃から意気地なしだった…

老兵は海の彼方を見つめながら
あのときの失態を悔やむのが日課だった

 

エッセー
ミルフィーユとディベート

 福岡で開催された新体操の世界選手権大会では、フェアリージャパンが大技「ミルフィーユ」を決めた。その名前は誰もが知っている人気のフランス菓子で、フランスでは「千枚の葉っぱ」を意味するらしいけど、実際には三枚のパイ生地の間にクリームを挟むのが主流だそうだ。

 本物の葉っぱが落ち葉としてミルフィーユ状態になれば、土壌細菌が下から食い尽くして最後には肥えた土になり、捨てた主人を育ててくれる。自分が出した廃棄物を養分として再び根から取り入れるのだから、植物は太古から効率的なリサイクルを行ってきたことになる。だから沙漠に植樹するには丈夫な植物を選ぶ必要があるし、たくさんの葉っぱを落とすようになるまでは管理が必要だ。ミルフィーユ状態になったときに初めて、人手をかけずに木々が育っていく土壌は形成されることになるのだ。

 昔はオフィスの机が書類のミルフィーユで、最下層の紙は薄茶色に変色するものの、机の肥やしにはならずに残存していたものだ。でも引っこ抜いてみると破れて粉々になり、ゴミ箱入りとなる。書類がデータとしてパソコンに入ったいまでも、ミルフィーユ状態のデータはなかなかゴミ箱入りにならない。みんな何か大事な内容があるんじゃないかと思っていて、なかなか捨てきれないようだが、ほとんどが古臭い情報だ。時代はどんどん流れているんだから。

 人体について言えば遺伝子科学の分野で、最近になって何の役にも立たないと思われてたジャンクRNA(遺伝子情報をタンパク質に翻訳できない)が、炎症防止や老化防止に大きな役割を果たしていることが分かった。クズだと思っていたのに、立派な働きをしていたことになる。

 それじゃあ脳味噌の場合はというと、そいつもたくさんの情報を入力していて、メカニズムはどうであれ、イメージとしては葉っぱのように積層していく。必要な情報は厚い葉っぱで、つまらない情報は薄い葉っぱ。当然のこと脳味噌にはキャパがあるから、薄い葉っぱからどんどん捨てられていく。それがきっと忘却なのだろう。けれど必要・不必要以外にも、印象的な情報は厚い葉っぱとして腐らずに、いつまでも残ることになる。楽しかったこと、怖かったこと、愛したこと、振られたこと、失敗したことと色々だが、忘れたい記憶も印象が強い分、残っちまう。そいつが時たまフラッシュバックとして悩ましたりするから、心療内科は繁盛する。

 しかし忘却処分した用のない情報も、全部がきれいに捨て去られたわけじゃない。たぶんジャンクRNAのようなカスとして半溶け状態で残っていて、肥やしとなって人間を成長させてきたに違いない。彼の人格やら人間性は、遺伝的なものをベースに、味噌もクソも含めたあらゆる入力情報で築き上げたものだ。それは、過去に入力したいろんな情報のミルフィーユといってもいいだろうし、そのどれが有用で、どれが無用かなんて誰も決め付けることはできないだろう。ジャンク情報は忘れ去られても、忘却菌に侵されて溶けるときには脳内に痕跡を残す。一つひとつの痕跡はチョコレート色かもイチゴ色かも知れないが、いっぱいあれば斑になり、点描画のように遠目で見れば一つの色になる。きっと人それぞれの好みや経験でその色合いは変わるだろう。そいつは、人格やら性格やら能力やら、人間形成にも影響を与えるのだ。薔薇色だったら、きっと薔薇色の老後が待っている。そんなに甘くないか……。

 当然だが、ミルフィーユが厚いほど人間は幅広い問題に対処できるようになる。つまり脳味噌は、コンピュータのようなものだと言えるだろう。優れたコンピュータはデータベースとして豊富な情報を抱え、与えられた未解決問題を検討しながら、より速く必要な情報をピックアップし、そいつらを再構築して正しい答えを引き出す。人間でも将棋の棋士は、同じことをやっている。彼のデータベースも豊富な葉っぱが整理されて蓄積し、目の前の将棋盤を見ながら瞬時に同じような展開に対応した過去の葉っぱを引き出し、それを基に新たな一葉を考え出すわけだ。きっと稚拙なジャンク情報の引き出しもあって、時と場合によってはそいつを漁って奇をてらった一葉に変身させ、相手に目くらましを与える。

 ということはコンピュータでも脳味噌でも、まずはミルフィーユの枚数が必要となる。多ければ多いほど、引き出しも多くなる。だけど必要な一枚を引き出せなけりゃ、蓄積データは宝の持ち腐れになっちまう。記憶力は、きっとその一枚を引き出す検索エンジンで、そいつの保存状態が悪くてもインデックスさえ付いていれば、ヒットした後にある程度修復することもできるし、ことに知識の場合は、そのキーワードからの再調査も可能だ。修復データは図書館やインターネット(真偽のほどは分からないが)の中にある。きっと東大生は検索エンジンの質が良く、将来は○○○のように葉っぱをお札に変えて暮すのだろう(ひがみです)。

 ところで、コンピュータにも汎用製品もあれば専用製品もある。汎用製品のデータベースは多方面にわたるが、専用製品のデータベースは使用目的に対応した情報しか入っていない。昔、企業が「ゼネラリストよりスペシャリスト」なんて言葉を叫んでいた時代があった。ゼネラリストは「広範囲にわたる知識を持つ人」でスペシャリストは「専門的な知識に長けた人」という意味だ。産業が進化し続けると製品もシステムも複雑化し、高度な技術が必要になるから、企業がそう叫ぶのも無理はない。昨今巷には自称スペシャリストが溢れ、そんなスローガンは必要なくなった。

 けれどそんなスペシャリストが主力商品を開発して、その勢いで社長に昇格しても、彼のミルフィーユが専門分野一色だったとしたら、会社経営は難しくなるに違いない。社長には人事や経済、取引先との人間関係、マーケティング、市場予測、ゴマすりなどなど、別の経験や知識、才能が必要だからだ。オウム真理教事件の受刑者にも優秀な専門家が多かったが、そうした人たちにも専門外情報の入力不足はあったかもしれない。AI兵器の専門家も、彼のミルフィーユが専門一色に染め上がっていれば、人類滅亡の武器を開発している自分の立ち位置を理解することはできないだろう。

 さてそのミルフィーユだが、人それぞれで溜め込んでる葉っぱの枚数は千差万別だ。人生百年とすると、経験による葉っぱの数はさほど異なりはしない。とすれば、あとはメディア(書物も含め)から獲得した知識ということになるだろう。一般的にゼネラリストのほうがスペシャリストよりも世の中を上手く渡っていけると思われているのは、ジャンクを含めた幅広い経験と知識を活用しているからに過ぎない。反面、スペシャリストは人生の多くを研究室や開発室、屋内や現場で過ごすから、経験も知識もそのあたりが多く、溜め込んだ葉っぱも定年後には無用のゴミと化すことはあるだろう。きっと交友関係も少なく、何か趣味を持たなけりゃ長い老後は退屈かも知れない(独断的偏見)。もちろん、趣味でも専門分野を継続すれば別だ。

 学校教育には、知識を詰め込む教育もあれば、体験教育もある。これらはすべて脳味噌の葉っぱを増やす作業に違いない。ついでにそれを引き出す方法も、引き出したものから何かを創り出す方法も教えてくれる。けれど基本は、いろんな葉っぱを脳味噌に詰め込むことが第一に違いない。詰め込んじまえば教師の役目は果たしたと自己満足でき、あとで忘れようが、それは出来の悪い子供の責任だ。日本は民主国家だからいろんな色の葉っぱを詰め込むことができるが、権威主義国家では違う色の葉っぱは燃やしちまう偏向教育が行われている。これは秦の始皇帝時代から変わらない。

 詰め込まれた葉っぱは、教科に関するものはもちろん、社会で起きてることや、世界や地球のことや、経済のことや、生活のことや、人間関係のことなど色々だ。それらは子供の脳味噌の中で好みによって整理されていく。そのとき、好きな(必要な)色の葉っぱは上のほうにまとまり、嫌いな(不必要な)色の葉っぱは下に落ちていくことになる。しだいに下の葉は上の圧力で変色し、最後にはジャンクとなって忘れ去られる。けれどジャンクと化した葉っぱも、脳味噌の炎症(炎上)防止には役立つのだから、教師は詰め込まれた葉っぱを偶に攪拌してやる必要があるだろう。詰め込み教育の弊害は、この攪拌作業を教師が怠ることに起因する。子供が受験のことしか考えていないとすれば、必要な教科以外はジャンク化するだろう。攪拌すればジャンクが舞い上がって、子供が覚醒することだってありえる。底には社会の勉強に不可欠な情報が散乱しているからだ。

 その攪拌作業というのが、先生を含めた「ディベート」なのだと僕は思っている。先生も生徒も世の中のいろんな問題を俎上に乗せ、子供はディベートによってほかの仲間たちの考えや好み、先生の考えていることなんかも知ることができ、自分とは違う考えの人たちがたくさんいることに驚かされるだろう。そしてそれが、民主主義社会の土台であることを知る。たまには誰かの言葉に心を動かされ、それは自分がかつて捨ててしまったジャンクな葉っぱであることを思い出して、脳味噌の底から掬い上げることだってあるだろう。そんな作業を繰り返していくうちに、世界中のあらゆる現象を俯瞰的に捉えて、的確に判断できる能力が培われていくのだ。

 欧米では、ディベートや子どもたちだけの自主的な活動を教科に取り入れている学校が多いと聞く。日本もそうしていけば、脳味噌のキャパも大きくなって多くの葉っぱを収納でき、検索エンジンの能力も向上して、頭の硬い頑固親爺の数も減っていくに違いない。欧米は自己主張のお国柄だけど、理解し納得すれば簡単に握手することができる。それでも頑固親爺が無くならないとすれば、きっと葉っぱの色が偏っているか、単純に枚数不足なのだろう。(頑固親爺とは、理屈に合わないことを頑強に主張するおバカな連中を指す)

 日本は「へりくだり」、「すり合わせ」、「横並び」の社会で、自己主張する人間やズカズカものを言う人間が、周囲から煙たがられる風習が未だに残っている。これは士農工商や村社会、『和を以って尊しとなす』といった過去が、負のジャンク感性となって残存しているからだ。お侍にペコペコ頭を下げていた平民は、現在では地位の高い人にペコペコしている。彼らはマスクやワクチンを拒否する欧米人を見て、愚かな奴だと思うだろうが、逆に欧米人から見れば、そんな人間がほとんどいない日本人を気味が悪いと思うに違いない。彼らは日本にやって来て、朝の通勤ラッシュ時に、電車から同じ色合いの背広を着たサラリーマンがドッと出てくるのを見て驚愕するのだ。その服装はサラリーマンのユニフォームであり、「私は自己主張しません」という宣言をアイコン化したものに違いない。そんな雰囲気を嫌って、ノーベル賞の眞鍋淑郎氏はアメリカに渡った。

 ヨーロッパでは、どんな田舎のバーや広場でも、リタイヤした老人たちが酔っ払って、日がな一日ディベートしている。内容は政治や社会、生活、ゴシップなどなど多岐にわたるが、それらは退屈な老後の活性剤になっていることは確かだ。恐らく古代ギリシアの時代から、広場で自分の考えを戦わす習慣は続いてきたのだろう。しかし殴り合いになることはなく(暴力の刑も重い)、主張が平行線に終わっても、最後は握手で続きはまた明日ということになる。

 日本の中高年者は、テレビの報道番組やバラエティー番組でゲストたちのディベートを視聴しながら、こいつの言うことはいいとかおかしいとか呟きながら、傍観者として楽しんでいるが、それほどの数はいないだろう。若い人たちは携帯やパソコンをやるぐらいで、短文のチャットでは感情が先走り、ディベートにもならない。今回の選挙(衆院選)の投票率は55.93%で戦後三番目の低さだったというが、有権者の半数近くが政治には無関心ということになる。受験教育は個人の将来、一国の経済を決めるきわめて私的・地域的な教育だが、ディベートを核とした広範な話題の社会教育は国を跳び越して、世界から人類・地球の将来を決める、きわめて重要な教育だ。「教育」には自分を高める教育と社会を高める教育があり、どちらも等分に必要なのだ。

 政治や社会の問題について言えば小中高の授業では少なく、欧米並みにディベートの機会を増やすべきだろう。受験、受験と、多くの若者たちが私的な殻の中に閉じこもっている状態から一刻も早く解放され、地球の将来をフォーサイトできる眼力を身に付けてほしいものだ。

 


奇譚童話「草原の光」
二十 ティラノとの戦い始まる

 で、みんなは一列になって遠くの山脈に向かって歩き始めたんだ。草原は地球では見たこともないような赤い色をしていて、だれも食べようとはしなかった。草は背の高さぐらいあって歩くのは大変だけど、アインシュタインはすぐに道を見つけたんだな。これは巨大な草食恐竜の尻尾が草をなぎ倒した跡さ。だから、時たま巨大なウンコに遭遇するんだ。そいつは五百メートル手前からも分かるような臭いがしたけど、みんなは鼻をつまみながら近付いていくと、道のど真ん中に小山のようにしてあるんだ。おまけに大きなハエがたかっている。ウンコの中を通るわけにはいかないから、みんなは深い草の中に入って回り道するんだけど、アインシュタインはウンコの壁に手を突っ込んで、握ったウンコに白い粉をかけたんだ。
 するとウンコはたちまち白い色に変わって、大きなメレンゲになっちまった。アインシュタインはそいつを美味そうに食べたから、お腹の空いたみんなは腹を鳴らしたな。そしたらアインシュタインはもっと大きなウンコをすくって白い粉をかけたんだ。最初はみんな、ためらっていたけど、あまりにもお腹が空いてたから、齧りついたんだ。そしたらけっこう美味しかったんで、みんなは喜んだな。宇宙では、ウンコも簡単にリサイクルできるんだ。何でも利用できるんだな。


 みんなはお腹も張ったしアインシュタインもいるしで、安心して旅を続けたんだ。そしたら道を造ってくれた草食恐竜に追い着いちまったのさ。それにこの恐竜は大グソを垂れたとたんに、いきなり九十度曲がっちまったから、山に行く道も途切れちまった。それでアインシュタインは恐竜に声をかけたんだ。
「おい恐竜君。君の名は?」
「アパトさ」
「君は昔の姿に戻りたくないのかね」
「カメレオーネに戻れってか?」
アパトは長い首を後ろに向けてバカにしたように笑ったんだ。
「カメレオーネは山の中に隠れて生きてるぜ。そんな生活は真っ平さ」
「でも君は、いつも肉食恐竜に食われるんじゃないかって怯えている」
「だから食われないようにここまで大きくなったんだ」
「じゃあ、例えばティラノサウルスが三匹同時にやってきたら、どう防ぐんだね?」
「湖の中に逃げるさ。首が長いから、沖に出ても溺れることはない」
「でもここには湖はない。しかも三匹同時にやってきた」

 見ると、巨大な肉食恐竜が三匹、こっちに向かってくる。
「ヤバイな、万事休すだ。あんたら、おいらを助けられるかい?」
 アパトは大きな体を震わせて、アインシュタインに懇願した。
「わしたちを背中に乗せて、山まで運んでくれたらな」ってアインシュタイン
「助けてくれるなら、何でもするさ」
 で、みんなはアパトの尻尾から登って、頭の上まで行ったんだ。頭の上は平たくてみんなが登れるぐらいの広さがあった。アパトは恐怖でぜんぜん動かなくなっちまったから、落ちることもなかったな。

 三匹のティラノサウルスが獲物を前にして、ニヤニヤしながら近付いてきた。一匹が正面から、一匹は横から、一匹は後ろから攻めるのが標準的な攻撃パターンだから、アインシュタインは三匹が分かれる前に声をかけたんだ。アパトがパニクッて、ふるい落とされるのは嫌だものな。
「おい君たち、食うつもりかい?」
「もちろん。腹が減ってるんだ」って真ん中のでかいやつ。どうやら彼がリーダーみたいだ。
「でも僕は、君たちの祖先なんだぜ。君たちは僕の兄弟から生まれてきたんだ」ってウニベルは言った。
「笑わせるぜ。俺たちの祖先がお前だなんて、バカにするにもほどがあるぜ。どこにそんな証拠があるんだ」
「じゃあなぜ、君はカメレオーネ語を話すんだ?」
「そんなことは知ったこっちゃない。俺たちはこの星で一番強いんだ。俺たちがこの星を支配してるんだ」
「じゃあなぜ、君たちは仲間どうしで殺し合いをする?」って先生が聞いた。
「そりゃ、獲物を独り占めするためさ」
「強い恐竜が美味い部分を食えるのさ」って右隣の恐竜が言った。
「仲間を殺して楽しいの?」ってヒカリが聞いた。
「楽しくないさ。けど、美味いものが食いたいんだ」って左側の恐竜。
「美味いがすべてさ」
 リーダーが相槌を打った。
「じゃあ、美味しい部分ってどこ?」
 ナオミが聞いた。
「肉だな。血の滴るやつだ」ってリーダー。
「じゃあ、仮に君たちの一人が新鮮な肉を提供したら、あとの二人はそれに食らいつくのかね?」ってアインシュタインは変な質問をした。
当たりめえじゃねえか。この星は弱肉強食の星なんだ。食い物が無くなりゃ、共食いを始めりゃいい」
「じゃあ君は体が大きいんだから、子分を食えばいいじゃないか」
「バカだなお前。目の前に大きなエサがあるのに、なんで仲間を食わなきゃいけないんだ?」
 三匹は大きな口を開けてゲラゲラ笑った。
「そりゃだって、我々は食われることを拒否しているからさ」
「バカだなお前、拒否したって食われるときは食われるんだ」ってリーダー。
「それは我々が君たちより弱い場合だろ?」
「驚きのアホだな。肉食恐竜のほうが草食恐竜よりも強いのは常識じゃん」
「誰がそんなことを決めたんだい?」
「ええもうウザイわ。早く食っちまおうぜ」
 痺れを切らした右側がわめいたので、アインシュタインは慌てて訂正した。
「じゃあこうしましょう。君たちは共食いも辞さない星に住んでいらっしゃる」
「はい、そうです」ってリーダー。
「仮に我々が君たちよりも強い場合、君は右隣の方を食べますか?」
「ははあ、分かった。要するに、三対一は不公平じゃないかって言いたいんだろ?」
「ボス、俺は一匹でもこんな草食竜は仕留められますぜ」って右隣。
「バカバカしい、こいつらの話なんか聞く耳持たんわ。さあ、攻撃開始だ」
(つづく)


(コリン星出張のため、次回の投稿は一カ月後となります)

 

 

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エッセー「他人の命について」 & 奇譚童話「草原の光」十九 & 詩


天空の花園

人生で一度だけ
この世のものとは思えないほどの
美しい花々を見たことがある
それはアルプスの高原に広がる
高山植物の群生だった
一センチにも満たない花たちがそよ風に揺れながら
年に一度の装いを競い合っていた
汚れのない空気が花びらに溶け込み
清らかな陽の光を透過して
どの花たちも高貴な輝きを放っていた
花粉を運ぶ虫たちのために
こんな演出をするはずはなかった
私は顔を上げて陽の光を浴びながら
きっと近くにイデアの世界があるのだろうと思った
神様がそこに咲く花たちを、夜のうちにそっと置いたのだ
巧みな画家も、写真家も、詩人たちだって
あの清楚な色ざしを形にすることはできないだろう
それは超自然の力が戯れに与えてくれた
光と空気と風による、つかの間のイコンに違いなかった
そうだ、ここは下界と天界の分水嶺
濁り色した現世に天のエキスが混じり合い
てらいのない光が穢れたちを浄化し、同化させたのだ
そのとき私は、いつか訪れるだろう恒久の幸せを予感した…

 


エッセー
他人の命について

 地球上のあらゆる生物が活動できるのは、「命」があるからだ。魚や動物だけを考えれば、「命」は玩具の電池のようなもので、それがなければ止まってしまう。乾電池なら取り替え、蓄電池なら充電すれば、再び動き出す。しかし命を失った動物に、いくら外部からエネルギーを注入しても、再び動き出すことはないだろう。

 科学者は命を、たんなる抽象概念だと一蹴するだろう。あるいは心臓を中心とした血液循環システムがそれに相当すると言うかも知れない。しかし多くの人は、「命」というコインの裏には「魂」というものが付いていると思っている。それには「心」だとか「精神」だとかの要素も当然含まれている。ソクラテスは魂を「真の私」と言ったそうだが、「魂」を「私」と言い換えれば、「命」は「私」を包み込む袋のようなものとも言えるだろう。だからそれが破れれば、「私」はどこかに飛んでいってしまうことになるのだ。しかし「命」が袋なら、きっとその中に入っている「私」のほうが大事な存在かも知れない。意識が無く、延命措置を施されている「私」は、家族にとっては「私」かも知れないが、私にとっては「私」でないからだ。

 科学者とは違い、多くの人が「命」を「私」だと捕らえている。だから他人が死んでも、人は「私の死」を考えてから、お気の毒と思うことになる。ならば、健康で自分の死を意識したことのない人間と、余命宣告された癌患者では、他人の死に対する印象も異なるに違いない。

 コロナ渦で、多くの人が命を失った。毎日のように死者数が表示されるが、それは単なる数字であって、その裏にある哀れな人々の壮絶なドラマは見えてこない。テレビの視聴者は、前の週より減った、増えたなどと一喜一憂し、収束の兆候を見出して安堵感を抱くぐらいなものだ。そうした人たちの多くは、純粋に「命」が「私」であると思っていて、「私」が命の危険に晒されなくなったことを単純に喜んでいる。

 しかし、その死者の中に自分の身内や友人が含まれていたら、この数字の捉え方は違ってくるだろう。この数字の中の一人の「命」が、「私」という魂に深く関わっていた「命」であったことで、その喪失感を味わうことになるのだ。そのとき初めて、人は「私」が入っていた命袋の片隅に、別の魂も入っていたことを知る。コロナで死んだ友と関係があれば、「私」は悲劇の当事者に加わり、そうして初めて「私」以外の「命」の喪失を意識することになるのだ。

 アリストテレスの「カタルシス」論は、悲劇の舞台で殺される英雄や不幸な妻子を観ることで、観客の心の中に溜まっていた不安や怒りや罪悪感などを吐き出して浄化する効果を述べているらしいが、それは舞台上の英雄たちが観客とは関係のない人たちだからできることだ。自分の父親が舞台で殺されたら、心がすっきりするはずもない。人が思う「命」は、恐らく私的な概念で、きわめて私的な「私」というハブを中心に、四方に広がるリムを伸ばして身近な関係者と繋がっているだけなのだ。一人ひとりがそんな車輪を転がしながら生命活動を営んでいるわけだ。そのリムと繋がらない近所のおばさんが死んでも、気の毒には思っても、悲しくなることはないだろう。

 だから大量虐殺などが起きても、それがおかしいと考える人たちだって被迫害者に関わりたくないと思い、せいぜいリムで繋がっていた友達だから匿ってやるぐらいなのだ。コロナ渦でも、社会の目を気にする日本人は、お利口さんにお上の言うことに従って行動するが、個人主義を大事にする外国では、命袋の中の「私」が大きくて、若者は他人の「命」よりも「私」を優先して、ああした行動に出るわけだ。コロナに罹るよりも、自由の制限が「私」そのものを壊しかねないと思うからだろうし、赤の他人の「命」よりも「私」の維持のほうが優先順位は高いと思うからだろう。やんちゃな若者なら自分の「命」よりも、「私」を優先させることだってあるのだ。

 こうしてみると、「命」というのは「私」を保護する袋で、それが破れれば「私」が消滅するだけに過ぎないということになる。私の「命」が無くなれば、「私」も無くなる。しかし、他人の「命」が無くなっても、「私」の「命」が無くなることはない。すると、他人の「命」はたちまち抽象的な概念となってしまい、社会や時代の状況で解釈が変わっていくことになる。歴史的に間々起こる「大虐殺」や「戦争」も、他人の「命」が私の「命」と異なることから生じる現象に違いない。私の「命」の中には「魂(私)」が鎮座しているが、他人の「命」の中には「魂」は無い。人々は他人の「命」という袋を見ているだけで、本当は存在する中の「魂」を透視することはできないからだ。

 自分と他人の「命」が同じだと思うには、他人の「命」の中にも「魂」があることを想像する必要がある。しかし想像することは知的な作業で、それは「教育」によってしか得ることはできないだろう。国どうしがいがみ合う状況の中で、「教育」方針が時の政府によってクルクル変わるとすれば、それは人類にとっての大いなる悲劇に違いない。憎むべき敵国人の命袋の中にも、我々と変わらない「魂」が宿っているのだから。

 

 

奇譚童話「草原の光」
十九 カメレオーネ星に到着

 で、隣の時空から元の時空に戻り、ワームホールから飛び出したとき、目の前にギラギラ輝くシリウスが見えたんだ。シリウスは太陽の倍ある大きな星だけど、カメレオーネ星は遠いから、地球と同じくらいの気候さ。海と陸の比率も同じ。空気だってある。
 大気圏に入るや、いきなり湖の上に着水した。バカンスは終わりだ。大きな湖で、周りは草原だった。遠くには山脈が見えたし、まるでエロニャンの国みたいな風景だった。でも違うのは、岸の草原で大きな恐竜たちが取っ組み合いの喧嘩をしていることだ。この恐竜たちが、カメレオーネの子孫だなんて、ウニベルもステラも考えたくなかったな。だから彼らは、未だにカメレオーネの姿をしている仲間たちを探したいと思ったんだ。でも、遠くの山に隠れて住んでいるらしい。そこまで空飛ぶ円盤で行けばいいんだけど、それは宇宙法に違反するってアインシュタインは言うんだ。宇宙法では現地の人たちを脅かすような行為は禁止されているからね。
「わしは一度法律に違反したから、罪の上乗りはしたくないんだ。空飛ぶ円盤の免許を取り上げられちまうからな」
 それで、仕方なしに遠くの山まで歩いて行くことにしたのさ。

 アインシュタインは空飛ぶ円盤を岸に着けて、サービスロボを残して全員が陸地に上がったんだ。円盤は自動的に沖に戻ったな。でもって身の安全を図るため、アインシュタインは自分が開発した「祖先帰り銃」を携帯したんだ。
「実は本当のわしはこの星のどこかに隠れていて、研究を続けているんだ。その一つの成果がこの祖先帰り銃さ」

 アインシュタインが言うには、カメレオーネがいろんな動物に変身できる能力を科学的に分析して、なんで大きな恐竜に変身できたかを突き止めたんだ。そしたら、カメレオーネはいろんなウイルスを持っていることに気が付いたのさ。その一つは、モーロクの子供たちが罹った眠り病ウイルス。これはウニベルとステラが地球に持ち込んだものだったんだ。二人は驚いて縮こまったけど、先生もケントもナオミもぜんぜん気にしてなかったな。もともとウイルスなんて宇宙から地球にいっぱいやってくるものなんだ。
 そしてもう一つは巨大な変身ウイルスだ。このウイルスは細菌以上の大きさがあって、カメレオーネが変身しようと思うと出てくるホルモンを受け取り、瞬間的にドッと増えちまうんだ。カメレオーネが真似する相手を見詰めていると、視神経の情報をキャッチして同じように増殖するから、ハリボテみたいにスカスカのそっくりさんになっちまうってわけさ。でもって、元に戻ろうって気がないと、そこに肉が入り込んで、元に戻れなくなっちまうってわけ。そうなる前に戻ろうと思わなけりゃいけないな。で、恐竜たちはカメレオーネに戻れなくなっちまった。

 それでアインシュタインはその巨大ウイルスだけをやっつけちまう光線中を開発したってわけ。そいつを恐竜に当てると、元のカメレオーネに戻っちまうんだ。獰猛な恐竜に出くわしても、これさえあれば食われることもないさ。
アインシュタインおじさん。その銃を使えば、眠り病の子供たちを眠り病に罹る前の子供たちに戻すことはできるの?」ってヒカリは聞いたな。
「残念だが、それはできないな。だって、これは巨大ウイルスにしか効かないんだ。眠り病のウイルスを駆逐する能力はないんだよ」
 それを聞いて、みんなガッカリさ。

(つづく)

 

 

 

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エッセー「 国家暴走抑止力としての『天皇制』」& 奇譚童話「草原の光」十八 & 詩


霊子

夕刻に近くの浜辺を散策していると
霊子は背後から忍び足でやってきて
僕の左脇にピッタリとくっ付き
透き通るような華奢な腕を腰に絡めた

僕は思わず彼女の透明な頬に口づけするが
爽やかな潮の香りが鼻の中に広がり
そこから肺を通して体全体に拡散し
この世の邪気が霧のように消えていく

陰鬱な僕の心は彼女の暖かい吐息に包まれ
かつて一度も味わったことのない
泣きたくなるような幸せを感じるのだ
ああなぜ、僕は愛を知らなかったのだろう…

霊子はうっすら微笑みながら僕を見つめ
きっとあなたと同じことしか考えないからと言った
この世の愛は、傷だらけの愛
四角の愛と三角の愛が絡み合い、ぶつかり合うの

あの世の愛はまん丸な鏡のような似たものどうし
エゴの棘々が削られ磨かれて、二人の心を映し合う
あなたは私で、私はあなた、私はあなたで、あなたは私
愛が一つに重なれば、紛れた砂を波で洗いましょう

しばらく一緒に歩いていると陽は沈み
霊子は黄泉の国へ戻っていった
僕は幸せを逃がさないように腕を組み
明日も晴れることを願って家路に付く

僕が結婚してから、霊子はもう二度と現われない
僕は新妻と、この世の愛を傷つけ合いながら
あの世の愛のことを、思い浮かべている
そこにしかない、霊的な愛のエッセンスを…

 

エッセー
国家暴走抑止力としての「天皇制」   

 今年のノーベル物理学賞に選ばれた真鍋淑郎氏は、記者会見で米国籍を取得した理由の一つとして、日本人の他人の目を気にしすぎる風潮が合わなかったことを挙げておられた。彼は周りに協調できない性格で、アメリカでは自分のしたいように研究でき、他人がどう感じるかを気にする必要はなかったという。そのおかげでノーベル賞まで昇り詰めたというわけだ。

 眞子さまも祖父である川嶋辰彦氏の緊急入院などで大変だろうが、早く結婚なさってアメリカに住まわれ、一般人として自由を謳歌なさって欲しいものだ。愛し合って籍を入れるのは本人どうしの自由であるはずが、皇室に生まれたことで、あのような騒動になってしまっている。

 それにしても、「君臨すれども統治せず」といった立憲君主制のヨーロッパ的王室が比較的自由な行動を取れるのに、日本の皇室がかしこまった行動を余儀なくされるのは、どうしてだろうかと思わざるをえない。英国のロイヤルファミリーと日本の皇室を比べても、英国の貴人は表情も豊かで、庶民的な自由を多少なりとも味わっておられるのに、皇室の方々は、いつも軽く微笑まれた一定の表情に納まっておられる。これはひょっとすると、天皇日本国憲法で「日本の象徴」とされて財産を国に握られ、「象徴」としての役割を担わされてしまったからかもしれない。「象徴」としての人間は一般国民ではないから、選挙権も、表現(言論)の自由や結婚の自由だって奪われてしまうわけだ。

 国の象徴となれば御旗のような要素も加わって、国民の期待を裏切るような行動は慎むようになり、そうした心配りが立ち居振る舞いや服装・装身具の固定化を促したようにも思われる。しかし、昭和天皇が「人間宣言」をされたのだから、もっと普通の人間に近付いて、英国のロイヤルファミリーのように、ある程度意見を自由に述べられたり、女性は好みの恰好で外に出られても良いのではないか。もっとも「皇室典範」違反になってはと、取り巻き連中は必死になって止めるだろうが、個人的には「ヒゲの殿下」こと寛仁親王(ともひとしんのう)のような自由な雰囲気を湛えた貴人が、皇族からどんどん出てこられることを期待している。

 日本国憲法の「象徴」は、GHQ草案には「symbol」と書かれていて、それを邦訳したわけだが、この曖昧な概念の言葉に対して、それでは天皇は君主かということについては、「象徴は君主ではない」とか「君主だからこそ象徴になりうる」とか「日本は現代型の君主による立憲君主国だ」などと知識人はいろいろ言っている。「非君主説」では「『象徴』は主権者の枠外で、主権者として統治権の一部を有するのが君主の要件なので『君主』とは言えない」と主張する。

 そのほかにも「国民主権下の君主制」だとか「憲法に書かれているのだから、権限が無くてもれっきとした君主だ」とか、「統治に関わらないあくまで象徴としての君主」だとか諸々の言い方があって、どれが明解かも分からない、ということは今後も時の政権によって天皇の解釈がいかようにも変わる可能性があるわけだ。

 日本の歴史を振り返ると、武士の時代に「天皇」は国の統治権を失って以降、様々な権力者に統治の「お墨付き」を与えるなどして利用されてきた。政治権力を失った王が、その後も存在感を保ち続けてきたというのは、日本の伝統・文化の一部であったことを意味している。明治以降も維新政府の神輿に乗せられ、そのまま太平洋戦争の終わりまで武士たち(軍部)に利用されてきた。「象徴」的な役どころは鎌倉幕府の時代から連綿と続いてきたのだ。GHQもこの日本人の心に深く根ざした伝統を配慮し、天皇制を廃止しなかった。僕は廃止論者ではないが、いつの時代にも「天皇」が時の権力者に利用され続けてきたことを危惧している人間の一人ではある。

 その最大の理由は、真鍋淑郎氏の記者会見でも明らかなように、日本人は未だに聖徳太子の「和を以って尊しとなす」という感性を持ち続けており、国の有事においても一つの考えに凝り固まってしまい、異なる意見を吟味せずに「ウザイ奴だ!」と糾弾・排除しながら挙国一致的に団結し、同じベクトルに流れていく傾向があることだ。もちろん権威主義国家ならどこでもこの傾向は見られるが、民主国家である日本の風土に、この傾向が根雪のように残っていると感じるのだ。

 世界情勢を見ても、現在では非民主主義国が民主主義国を凌駕し、権威主義国家の台頭が目立っている。恐慌的な不景気が訪れれば、日本だって戦前のような社会状況に陥ることもあるだろうし、そんなときにヒトラーのようなアイドル的な政治家が出てきて、民主主義の歴史の浅い日本を、いとも簡単に権威主義国家に戻してしまうことだってありうる。そしてその独裁者は過去の連中と同じように、天皇を利用しようと擦り寄ってくるだろう。あるいは好戦的国家であるアメリカ親分の同調圧力に屈する場合があるかもしれない。アメリカの政治は大統領の人格次第で変わるのだから。

 もしそんな状況が日本を襲ったなら、象徴天皇は一般大衆とは異なる立ち位置で俯瞰され、「平和主義」のお立場から、国民がそのような独裁者や外国の口車に乗ってはいけないと思われるだろう。国家暴走の主要因が独裁者のアジテーションに焚きつけられた国民の激情であることは、歴史も証明している。独裁者はにわか仕立てのアイドルかも知れないが、天皇は神代の時代からのアイドルであり、伝統的な日本の文化だ。「象徴」だから政治には口を出せないと思ったら大間違いである。

 特にいままで口を閉ざしてこられたのだから、思いのたけを語る絶好のチャンスだ。出てしまった言葉は、仮に勇み足と思われても、もう収集はできない。越権行為だと政府から批判を受けようが、ご自身の意見を真摯に述べられれば、それは国民の心を大きく動かすに違いない。政治家の暴言は糾弾されるが、天皇の正しい意見は血迷う国民を覚醒させる。「天皇制」に意義があるとすれば、今後来るかも知れない暗黒時代において、「平和主義」のお立場から国家の暴走をとどめる「隠し玉(切り札)」としての役割が大きいのではないだろうか。「帝、そのときには言ってやってください!!」

 


奇譚童話「草原の光」
十八 いざ出発!

 で、空飛ぶ円盤は、アインシュタインが基地に着陸した中古品を使うことにしたんだ。これはウニベルとステラが地球にやって来たときの年代物で、チッチョが貸してくれるって言うのさ。古くても自動バージョンアップ機能が付いてるから、新品とそれほど変わらない。でも、万が一自動運転装置が壊れたときのために、運転のできる人間が必要だった。そしたらヒカリが、アインシュタインがいいって言うんだ。
「でも彼は宇宙法に違反した罪人だよ」ってチッチョ。
「でも宇宙に詳しい人が必要だよ」ってヒカリも反論した。
「じゃあこうしましょう。私たちの知らない間にアインシュタインを連れて出発すればいいわ」ってチッチョリーナは、目をつむることを約束したんだ。

 搭乗員はみんなアンテナの付いた帽子を被せられた。それからチッチョとチッチョリーナは、大きく息を吸ってからトロンボーンのような口をもっととんがらせて乗員一人ひとりに息を吹きかけたんだ。するとシャボン玉のような鼻提灯が出てきて一人ひとりを玉の中に閉じ込めて、頭のアンテナから赤い光を順番に当て始めたんだ。これはきっと近赤外線だな。すると玉の中で細胞が分裂するように、一人が二人に分裂したんだ。できた分身は、ちゃんと頭からアンテナが生えてた。これで、オリジナルのアンテナからリアルタイムで送られてくるダークマター信号を感知して、オリジナルの考えと同じ行動が取れるってわけさ。

 で、みんな鼻提灯を破って出てきて互いに握手したんだ。
「君は僕で僕は君」
「あたしはあなたであなたはあたし」
「アンテナ以外はみんな同じ」ってなわけで、オリジナルと分身は一体感を強めたのさ。

 分身たちはさっそく家の外に吊るしてあったアインシュタインを担いで駐機場に向かい、みんなもぞろぞろ付いていった。分身たちは直径二メートルしかない円盤に次々に乗り込んでいった。当然、みんなの体は瞬時に縮小される。円盤の中は宇宙空間仕立てで、地球の物理学は通用しない次元なんだ。そしてウニベルがうろ憶えで自動運転のモードにして飛び立ったんだ。外のみんなは拍手して見送ったな。
 円盤の中では、さっそくバスタブが引き出され、水を入れてアインシュタインをぶっ込んだ。アインシュタインはものの五分で、元の姿に戻ったのさ。

「ハイ、君たちが私を戻した理由は?」って、アインシュタインはお礼も言わずに聞いたな。
「それは君が天才だからさ」って先生は返した。
「天才? シリウス星人から見れば、普通の人間さ」
「どっちにしろ、この円盤は僕が運転して地球に来たけど、それはチッチョのそっくりさんになったからできたんだ。いまの僕はカメレオーネだから無理さ」ってウニベル。
「で、どこに行く?」
「カメレオーネ星」ってステラ。
「そこは昔、僕たちが住んでた星さ」
「でもあそこは昔とは違うぜ。いまはジュピターが支配する戦いの星さ」
「でも、僕の勘では、アインシュタインおじさんがいると、いいことがあるんだ」
 ヒカリが言うと、アインシュタインはベロを出してウィンクした。
「そうさ、私はあの星には詳しいんだ。円盤が壊れたときにも修理ができるからな」

 さっそくアインシュタインがどこからか黒い玉を二つ出して、バスタブの中に放り込んだ。すると五分ぐらいで二人のサービスロボが出来上がったんだ。彼らはバスタブを引っ込めたあと、一人が「バカンス!」って叫ぶと、操縦室は広い白浜の海岸になってカラフルなパラソルが開いて、デッキチェアが並んでる。みんなそれに座ると、サービスロボが椰子の実を割ったジュースを持ってきた。で、みんな美味い美味いって言いながら飲んだのさ。きっとみんなバーチャル空間の出来事なんだ。
 でも自動運転だから、こんなことしながら目的地に着いちゃうんだよ。普通に行けば十年ぐらいかかるけど、ワームホールを使って隣の時空に入ってから元に戻れば、三日で行けちまうんだ。だから、三日間砂浜でのんびりしてれば行けちゃうのさ。

(つづく)

 

 

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奇譚童話「草原の光」十七 & 詩


海辺の英霊

(戦争レクイエムより)

水平線はるか彼方に
かつて生まれた天国があった
嗚呼我が故郷 あふれ出る狂騒
いまは潮風囁く珊瑚の浜辺に
我がしゃれこうべは白砂と化し
平穏の時を波と戯れる
生き抜くための戦いを潤す
黒赤く膨れた血袋は朽ち
罪深き心もろとも波に洗われ精粋に
いまここにあるのは白魚のごとき無感情
いまだ戦い終えぬ息子たちよ
死に際のひとときに悟る心が芽生えよう
舞い上がるために力尽きたその先を
人生は死ぬための滑走であると…
そこは宇宙という悠久の無機質
あらゆる希望が溶け出る無限… 

 

美しい炎の家から
(怨霊詩集より)

さあ見てごらん
黄金色に輝く炎がほんの小さく
白亜の家のベランダから
真夏の夜の晩餐に
君とフィアンセと
善良そうな老夫婦が
まるで花火を見るように
金串に刺さった肉塊を宙に浮かせ
あの男の住んでいる方角だと囁きあい
なにかしらの期待に胸を膨らませながら
フラッシュオーバーを待ち望む

君はきっと女の勘で
豆粒ほどの黒赤い炎が
ドロドロとした血の燃える色だと
肉汁のような額の汗を罪なき手の甲で拭いながら
呟くだろう あの人だわ…
消滅すなわちカタルシス
僕からのささやかなる贈り物、いや大いなる…
しかし解放された気分は僕も同じ

さあピンク色の煙は
天に向かう僕の魂です
まるで赤子の肌のようなわがまま色
ピエロの最終興行ではありきたりの
おふざけの余興ではあります
さようなら 誤解をしないでおくれ
君も僕も解放されたのだ
だからウェルテルではない
不評はなはだしい下衆なストーカー
針穴のごとき視野、猪突猛進 しかし大いなる誤解だ 

煮え立つ血潮は地獄の釜 薪をくべるやつがいるんだから
いいだろう下卑た感情 悪しき遺伝子
捨てた人生はすべて拒否してきました
君だけを除いて おかしなことに君だけを…
単に君だけを除いて 君だけだった…
嗚呼 僕はクレームを付けに地獄に昇っていく…

 

ドッペルゲンガー
(怨霊詩集より)

おいここは俺が寝るスペースだ
この世界にも階級制度があってね
人が寄ればどちらかが偉いに決まっているのさ
ところで俺の顔に見覚えはないかい
そうさ出来の悪いクラスメイト
人生ほとんど野宿暮らしの人間さまだ

おいお前は秀才だったな
いったいどうした落ちぶれようだ
飲む打つ買うのどちらでしょう
会社の金をちょろまかし、女に貢いでム所暮らし
社会に戻ればスッポンポンで公園暮らしときたもんだ
体たらくの方程式は 神代の昔からのお定まり
ご先祖さまから綿々と引継いできた
欠陥遺伝子というやつさ

低空飛行の人生と乱気流の人生じゃ
どっちを選べといっても好みの問題
どのみち行き着く先は地獄の三丁目
しかし俺は空中分解などせずに
地獄の底に軟着陸だ

少しは楽しい思いをしたお前と
夢の中で一生を終わる俺と
どっちが楽しいかも難しいな
お前は今を呪い 俺は人生を呪う
お前は運命を呪い 俺は生まれたことを呪う
お前はきっと人を呪い
俺はきっと世界を呪う

ところで俺がお前の影法師だとしたら
お前は腰を抜かして泣き出すだろう
びったりお前の人生を操ってきたのだから…

 

 

奇譚童話「草原の光」
十七 シリウス星人はロボットだった

 秘密基地は広い円形の広場で、空飛ぶ円盤がいっぱい停ってる。ドアが開いて、みんな外に出たけど、母さんは干物になったアインシュタインを肩に掛けて出てきた。すると、街のほうからチッチョを先頭にヒカリや先生や宇宙人もエロニャンもモーロクもカメレオーネも大勢がやって来て、母子、兄弟の再会を祝ったんだな。
 でも当人たちはハグしても、そんなに喜んじゃいない。先生がそのことを聞くと、「僕も分身なのさ」って答えが返ってきた。本物じゃないから、母さんを見ても嬉しがらなかったんだな。なんでもシリウス星人は、いろんな星に行きたいもんだから、一人が千人の分身を持っているんだって。で、だいたい本物は生まれ故郷の星に家族と暮らしていて、家のVR室でカウチに寝そべってポテトフライを食べながら、分身たちの冒険を楽しんでるんだってさ。だから地球にいるシリウス星人は全員が干物仕様のロボットで、地球にやってくるときは干物になってやってくるんだな。本人が家族と一緒なんだから、分身の家族が再会したってそんなに感激しないってこと。だって分身は、ダークマター通信で、本人と同じことをリアルタイムに考えてるんだからさ。

 でも本人が同時に千人の分身の行動をコントロールするなんて不可能さ。だから普段の分身は、本人が取るだろう判断を自動的に予測して、スムーズに動いてるってわけさ。分身たちの行動は、あらかじめ自分の考えをコンピュータにインプットしてるから、千人いたって自分の思うとおりの動きができるんだ。たとえ分身がやったことを本人が満足しなくても、それは本人がやったことになるのさ。だって本人と分身の違いはないもの。本人は分身であり、分身は本人だから、本人が分身を叱ることなんかありえないのさ。分身が変なことを仕出かしても、やっちまった!って自分が後悔するだけさ。だってこれは、分身がいなくても、誰でもおんなしことなんじゃないの。

 それでもおかしくならないのは、人の考えることなんて、みんなだいたい同じよね。で、今回の場合はお尋ね者の分身を捕まえたんだから、裁判が始まるまでは牢屋に入れとかなきゃいけないんだ。でも、牢屋なんて宇宙人の基地にはないさ。地球の宇宙人はみんなロボットなんだからさ。干物にすればいいんだ。で、チッチョは干物になったアインシュタインを自分の家の軒下に吊るして、洗濯ばさみで止めたのさ。

 それからシリウス星人は来た人たちを自分の家に招いたんだ。大きな洞窟の中にある透明な泡が彼らの家さ。石鹸の泡みたいにたくさんの泡が固まって高い洞窟の天井まで届いているんだ。泡の高層ビルだな。チッチョと家族は、先生とヒカリとその住人、アマラ夫婦とカマロ夫婦、それにウニベルとステラを招待したんだ。みんながエレベータの泡に乗ると、エレベータはシャボン玉みたいにふわりと浮いて、高層まで飛んで、一個の泡にくっ付いたんだ。すると、くっ付いたところに穴が開いて広がり、泡の家に入ることができた。

 入ってみると、すごく広く感じて、そこはシリウス星人の星だった、っていうか、みんながホームシックにならないように、泡の内側全体がバーチャル世界になってたんだな。でも、これはリアルタイムの映像で、みんなの家にシリウスから送られてくるんだ。
 シリウス星人は元々家を持たないで、大自然の中で野宿をしてる。エロニャンと同じさ。わらの家とか木の家とかレンガの家とか、とにかく家ってのは、怖いから囲いを作りたいだけのことなんだ。怖いことなんか何もないところでは、野宿があたり前なのさ。
 でもほかの星に来ると、宇宙人は自己主張しちゃいけないってのが宇宙の決まりなんだ。地球だって、文明の発達した人たちが自己主張したから、ほかの文明がどんどん潰れていったものね。アインシュタインがそのおきてを破って自己主張したから、大きな爆弾ができて、地球の文明もおかしなことになっちゃった。宇宙人は宇宙人らしく隠れてなきゃいけないんだ。脳ある鷹は爪を隠すって言うだろ。

 シリウス星人の星は、シリウスから百番目の惑星で、シリウスがちょうど太陽ぐらいの大きさに見えてる。でもって、カメレオーネの星は百十番目の惑星なんだ。
 ウニベルとステラは感激して、自分たちの星が見えないかなあってお空を探したけど、ちょうど昼間でシリウスが明るすぎて、ぜんぜん見えないんだな。チッチョはガッカリしてる二人を見て、「じゃあ昨日の夜の映像を見せるよ」っていって夜景に切り替えたんだ。すると、夜空に十個の惑星が浮かび上がって、いちばん小さな星がカメレオーネの星だったんだ。その星はガスに覆われていて、そいつが目だとすると、ちょうどカメレオンの尖った頭や大きく開いた口や、長いジェット噴射が見えるから、一目見ただけでカメレオーネの星だって分かるんだな。二人は「これこれ、これが私たちの星」って言って長い舌を伸ばしたから、舌がドームの壁にぶつかってくっ付いちゃったんだ。二人は慌てて引っこめたから、シャボン玉はパチンと割れて、チッチョの家はなくなっちまった。すると下の家の屋根が開いて、みんなその家に避難することができたのさ。

 その家にはチッチョの仲間のチッチョリーナが住んでいたんだ。チッチョが家の壊れたわけを説明すると、チッチョリーナも手伝ってチッチョの家を再建することになったんだ。二人は家の屋根に出てピンクの体を赤くしながら、大きく息を吸ってからトロンボーンのような口をもっととんがらせて息を吐き出したんだな。すると二つの鼻提灯が出てきて、どんどん大きくなってくっ付き、二部屋もあるチッチョの家ができ上がった。宇宙人の家って簡単にできるんだな。

 でもって、一つの部屋はシリウス星人の故郷、もう一つはカメレオーネの故郷をずっと映すことになったんだ、ウニベルとステラは何万年ぶりに今の自分の星を見ることができるようになったんだな。ウニベルが「拡大、拡大!」って叫ぶと、星を覆っていたガスを突き抜けてカメレオーネの星がはっきり見えてきたんだ。それはまるで地球みたいな青い惑星だった。二人は感激して、ステラは「もっと拡大、もっと拡大!」って叫んだんだ。すると惑星はどんどん大きくなって、とうとう海と陸が見えてきたんだな。二人はさらに「拡大、拡大!」って叫び続けると、とうとう映像は陸の上に転げ落ちちまった。そこはエロニャンの住む野原とそっくりだったんだ。

 でもカメレオーネは一人もいない。すると先生が叫んだな。
「ここは大昔の地球じゃないのかね!」
 先生は、遠くからこちらに向かって走ってくる恐竜を見て言ったんだ。体長五メートルくらいのサイみたいな恐竜が、体長十メートルくらいの口の大きな恐竜に追いかけられてる。サイみたいのは命からがら森の中に駆け込んだけど、大きな恐竜は木に邪魔されて諦めたんだな。するとその大型恐竜が「ウパパラパラチョビレ!」って大声で叫んだんで、ウニベルもステラもビックリしたんだ。
「あれは何語だね?」って先生はウニベルに聞いたら、「カメレオーネ語さ」ってウニベルは答えた。
「チキショウ、戻って来いよって意味よ」ってステラ。でも、若いカメレオーネたちはカメレオーネ語なんか知らないから、不思議な顔してたな。
 すると、いろんな形の大きな恐竜たちが百頭くらいやって来てケンカをおっぱじめたんだ。
「カラクソポチャソボロ!」「ハメハメハラポッチャ!」「クソクソナメチョビレ!」なんて怒鳴り合ってるのを、ステラは「やるかこの野郎!」「噛み殺してやるぜ!」「それはこっちの台詞だい!」って訳したな。それからすごいケンカがおっぱじまって、大地が地震みたいに揺れて、映像もゴチャゴチャになって、チッチョは思わず通信を切っちまったな。

「あの恐竜たちはいったい何なの?」
 ステラがチッチョに聞くと、「君たちの子孫じゃないか」って返事が返ってきたので、ステラもウニベルもほかの連中もオッタマゲたんだな。そういえばカメレオーネの星なのにカメレオーネは一人もいなかったんだ。
「だからあれがカメレオーネの子孫なのさ」ってチッチョは言って、ステラとウニベルが地球に来たあとのカメレオーネ星の歴史を説明したんだ。

 そいつは長い説明だったんで短く話すと、要するに何にでも変身できるカメレオーネたちは、自分の姿に飽きた時期があったんだ。彼らは小さいことにコンプレックスがあったんだな。で、爬虫類でいちばん大きいのが昔地球にいた恐竜だってことを知ったんだ。それで、仲のいいシリウス星人に頼んで、地球の恐竜図鑑を資料として持ち帰ってもらったってことなんだ。で、一時期恐竜に変身することが流行ってさ。みんなが大きな恐竜になって楽しんだのさ。
 でも、それは大きな失敗だったんだ。シリウス星人は、南極の氷の下にあった、冷凍保存の草食恐竜と肉食恐竜をカメレオーネに贈呈したんだ。確かアダムとイブっていう名前だったな。でも、図鑑と違って、そいつらの体の中には恐竜の脳味噌も冷凍保存されていたんだな。カメレオーネはそれを知らないで、全部入りで真似ちまったんだよ。
「で、変身の術は?」ってウニベルは心配そうに聞いた。
「脳味噌まで恐竜になっちまって、そんなことができるかい?」ってチッチョ。
「じゃあ、カメレオーネに戻れなかった?」
 ステラは大きなため息をついた。
「たぶん、カメレオーネは絶滅したんじゃないかしら。いえ、恐竜に進化したってことかしら」ってチッチョリーナ。
「絶滅したのさ。だってあれはカメレオーネじゃない。カメレオーネ語を話す怪物だ」

 ナオミ、ケントと先生は、その話を聞いてモーロクとエロニャンのことを考えたんだ。もともと彼らは同じ人間だったのに、流行病が流行ったおかげで、別れちまった。でも、モーロクもエロニャンも、恐竜よりはずっと大人しいことに気が付いたのさ。モーロクはケンカするけど、殴り合いなんかしたことないんだ。エロニャンはみんな仲良しさ。だからモーロクもエロニャンも、これから一緒にやっていこうって思ったんだ。だから、恐竜に変身しちまったカメレオーネが可哀そうでしょうがなかった。

「で、カメレオーネは一人もいないの?」ってナオミはチッチョに聞いたんだ。するとチッチョは首を振った。
「誰もが恐竜になろうなんて思わないさ。今でもずっとカメレオーネの姿の人たちはいるんだ。でも、山奥でひっそり暮らしてるのさ。彼らは、恐竜がやって来ると木や岩に変身して身を隠すんだ。そのままだと食べられちゃうからな。で、細々とだけど、生き残っているのさ」
「それはすばらしいことだわ!」ってステラは叫んだ。
「だけど、あの星に戻るべきじゃないわ」ってチッチョリーナ。
「どうして?」
「だって、あの星は何万年も戦場なんだよ。弱肉強食の世界なんだ。強い者がえばって、弱い者がおびえる世界なんだ。昔の地球のような星さ」ってチッチョ。
「でも僕たちは、死ぬまでに一度だけ、故郷の星を見てみたいんだ」
 ウニベルが言うと、チッチョリーナはポンと手を叩き、「いいアイデアがあるわ」って言った。
「あんたたちの分身を作るの。私は千一人のチッチョリーナの一人。いろんな星に行きたいなら、千人の分身を作ればいいわ」
「でも僕たちは故郷の星を見たいだけなんだ」
「今のカメレオーネがどんなことを考えているのか知りたいだけよ」ってステラ。
「だったら、分身は二人で十分ね。ウニベルの分身、ステラの分身。作成には数秒かかるわ」
 てなことで、さっそくチッチョリーナはウニベルとステラの頭に、アンテナの付いた帽子をかぶせた。この帽子は瞬間的に二人の考えや性格を全部コピーして、彼らが考えなくても自動的にアバターの行動を考えてくれるんだ。それで二本の角のようなアンテナからダークマター通信で、自分の考えたことを遠い星のアバターに瞬時に送ることができるのさ。

 するとジャクソンも、行ってみたいって言い出したんだ。
「だって、僕の祖先がどんな星に住んでいたのか知りたいもの」
 するとジャクソンの相棒のヒカリも、行きたいって言い出したのさ。そしたら、先生もナオミもケントもヒカリが心配で一緒に行くって言い出した。
「いったい、モーロクの子供たちを助ける話はどうなってるの?」ってアマラはヒカリに聞いた。するとヒカリは、「僕には子供たちを助ける方法があの星にあるような気がするんだ」って言うんだ。ヒカリは第六感がきっとあるとみんな思ってたから、アマラも納得したな。それで乗員全員のアバターを作ることになったんだ。

(つづく)

 

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